短小物語集
星の秋(後編)
笛地静恵
4・
平均して身長170メートルの巨大な人間の存在に、人間社会は、一時はパニックに陥
った。日本では各地で、60余名が巨人になった。東京には、そのうちの五名がいる。し
かし、被害者の女性の視点になってみれば、実際には原因不明で昏睡状態に陥いっという
ことだった。ことの本質は、それだけのことなのだ。可哀相だった。同情に値する。
彼女たちは出現当時は、夢遊病状態で被害を巻き起こすにしても、その後までも怪獣の
ように暴れるわけではない。何しろ、「眠れる美女」たちは、ただ眠っているだけなのだ。
延々と眠り続ける。食事も排泄もしない。ただ眠る。生命活動そのものに変化はない。専
門家によれば、一種の冬眠状態になっているらしい。
それでも、巨体を維持するためのエネルギーは莫大なものがあるのだろう。気象エネル
ギーが、流用されている可能性があった。地球全体の気温が、低下しつつあった。「眠れる
美女」達の、出現前年の同月の平均気温と比較して、1.2℃程度低くなっている。温暖
化に喘いでいた地球は、若干の冷えを体験していた。現在のところ、グリーンランドの氷
上に眠る、『雪の女王』とアダナされる金髪碧眼の美女の、半年間と言う記録が最長である。
クロス・カントリーというオリンピックの競技種目で、金メダルを受賞したことがある。
フィンランド人である。彼女の1740メートルが、「眠れる美女」たちの中でも、最大の
身長ということになる。まさに「人間の山」だった。
*
星野亜紀に関しては、万葉(まんば)県の東の百里浜に水着のロケに来ていた。彼女の
30歳と言う年齢が、当局が撮影の許可を出した理由だった。「眠れる美女」の上限は、世
界的な規模で考えても、26歳を超えていない。安全だと判断されていた。黄金に輝く円
盤が出現した。現場は、パニック状態になった。気がつくと、水辺で波と戯れていたはず
の彼女の姿がない。波に浚われたのか?宇宙人の毒牙にかかったのか?それも、はっきり
しなかった。
星野亜紀さん行方不明の一方は、夕方のニュースで流れた。東京に接近していた台風が
消滅したのは、その深夜のことである。翌日の昼間になった。馬鹿臨海工業地帯の砂浜に、
身長170メートルになった彼女が、上陸したのだった。彼女の髪に港の海面が、黒く盛
り上がっているのを釣り客が目撃した。漁船の老漁師は、伝説の海坊主が登場したと思っ
たという。朝市のために集められていた、御銚子魚市場の大量の魚を磨り潰していった。
彼女の場合は自発的な上陸と言うよりも、正しくは浜に打ちあげられたと言った方が良
いだろう。海流が運んできた肉体が、防波堤の壁にぶつかって、運良く止ったのだった。
井藤美咲と同じく、半催眠状態のようなものだった。溺れたのだろう。口から、大量の水
を飲んでいた。
それを吐いたのである。場所は、海岸に程近い所に位置する、Jリーグで優勝経験もあ
るチーム『馬鹿ANTS』のサッカー場だった。蟻のキャラクターをデザインした可愛い
旗が翻っていた。不幸なことには、早朝から2チームのイレブン22名に、審判達がグラ
ウンドにいた。観客席には、一万五千人の観客が詰掛けてきた。テレビカメラが、実況中
継に入っていた。事件の一部始終を録画していた。観客は、最初、地震だと思ったらしい。
軽いパニックに陥っている。それから球技場の上空に、星野亜紀の巨大な童顔が、ぬうっ
と現れる。
彼女は、苦痛の表情で、赤黒い洞窟のような口腔を巨大に開いている。向かって左の奥
歯に治療の痕が見える。粘着性の唾液が、太い蜘蛛の糸のように、顎の裏側から舌の上に
まで延びている。ぼこぼことした無数の味蕾が、蛸の吸盤のようだった。のどちんこまでが
見えている。口臭のある吐息が強風となって吹き降ろしていた。
「うえおおおおお!!」
怪獣のような咆哮がした。5メートルはあるピンク色の舌が、べろ〜りと出ていた。
それから、吐いたのだ。大量の海水が、巨大なタンクのような胃の内部から、食道を這
い上がって、口腔に逆流していた。緑のグラウンドに、一挙に放出されていた。選手たち
を押し流していった。ただの海水ではない。薄められているとしても、星野亜紀のPHの
高い濃塩酸に匹敵する胃液が、混入されている。緑の芝生が、一瞬にして茶色に変色して
いた。そればかりではない、大の男たちの手足を溶解していった。それだけでも、終らな
かった。彼女は、塩水を出し尽してしまったが、さらに苦悶の表情になった。
「うげえおおおおお」
さらに異様な苦痛の声を上げた。
口から黄色く半透明の液体が、ねっとりと垂れてきた。
星野亜紀の純粋の胃液である。それは、何とか脱出しようとして、狭い出入り口に殺到
していた群衆の上に、どろりとどろりと降り注いだ。消化していった。見る見るうちに。
多数の人間が、一挙に白骨化していく。どろどろの塊になっていた。形も残っていない。
しかし、直撃を受けた者の方が、むしろ幸運であったのかもしれない。
生き残った者も、ゲロの悪臭の中で、塩酸に呼吸器を焼かれていった。呼吸困難で倒れ
ていった。彼らにも、胃液の飛沫が襲い掛かっていた。手や足や頭部や同体や、肉体の一
部を融かされた人間たちが、折重なって倒れていた。溶けて合体している。個人の判別も
つかない状態になっていた。わずかな生存者は、現在も病院で半死半生の状態である。精
神も病んでいた。正常に戻る見込みは、ごくわずかしかなかった。
苦悶する彼女の様子を、上空のヘリコプターが高空から撮影していた。黒いビキニの女
が、腰を左右にくねくねと振りつつ、何か苦しんでいるようにしか見えない光景である。
その後、彼女は球技場に隣接した馬鹿建設の敷地内で昏倒する。意識不明のままである。
球技場は廃墟となっている。酸性の胃液自体は、大量のアルカリ剤の散布によって中和さ
れた。が、使用には耐えなかった。
今でも、月も星もない深夜などには、そこにはいないはずの多数の人々の、苦悶の声が
聞えるそうだ。あえて立ち入る者もいない。星野亜紀は、日本では、ちょうど60人目の
「眠れる美女」にあたっていた。影響は局地的だが、新宿の井藤美咲に勝るとも劣らない、
大被害を惹き起してしまっていた。
*
今日の俺は、星野亜紀の頭部で作業をする予定である。黒い髪が密林のようだ。海水に
濡れてから、炎天下で、日々が経過している。洗っていない髪の匂いがするのは、仕方が
ない。星野亜紀の責任ではない。運転席にはクーラーがついている。ドアを閉めれば機密
性が高い。しかし、俺は窓を開けた状態で作業をしていた。海に近いから、風があること
がせめてもの救いだった。
俺は、トラクタークレーンのブームを4段に伸ばしていた。ジブ(ブームの根元の鞘の
部分)が6メートル。ブームで24メートル。合計30メートルになる。だが、彼女の頭
部の直径は20メートルある。頭髪の厚みを入れると、『ゴールデン・アーム』の30メー
トルでも、足りないぐらいだ。無理も無い。百倍の人間になった彼女には、30センチメ
ートルにしかならない。
車輌は、頭頂部の方に駐車している。顔の正面は、危険である。立入り禁止になってい
た。呼吸のために、特に鼻よりも下の場所では、風速30メートルの台風波の強風が、常
時、吹いている。しかも、呼気と吸気で風の方向が正反対になる。重装備の普通科の連中
でさえ足元を掬われる。
作業は、ゴンドラの側面に搭載されているカメラからの画像に頼ることになる。頭部の
頭蓋骨の球体と頭髪の影になって、星野亜紀の美しい額さえ、俺の地上3メートルの座席
からでは見えない。運転席のコンピュータの脇に、小型テレビをつけてもらっている。そ
れを見ながらの作業である。神経を使う。
車輌が首の後に回れば、もう少し作業が容易になるだろうか。しかし、そこからでも、
耳は髪の毛に隠れている。肉眼で見ることは難しい。それに、彼女が寝返りを打つ可能性
を考えると安全とは云えなかった。頭頂部は、最善の選択だと俺にも思えた。
『ゴールデン・アーム』号は、バーチカルシリンダーと一体になったアウトリガーを下
している。5メートル以上に貼り出したアウトリガーの収納と、バーチカルシリンダーの
伸縮操作は、個別で同時にできるが、それでも時間が掛る。彼女が、もし動き出したとし
ても、短時間の撤退は不可能である。最新型の重機を、美女の下敷きにしたとあっては、
会社に申し開きができない。クビだろう。安全牌による以外に選択の余地はなかった。
今回は、化学科の白衣の隊員二名を乗せたクラブパケットを、彼女の耳の脇に降ろせば
いいだけのことだった。もともと手先は器用だった。自信がある。通常の仕事と比較して
も、簡単なことだった。
2軸、2ドラムの高性能ウインチは、定評のある油圧モーターの駆動で安定した動作が可
能である。始発時と停止時に亜発生する衝撃も、クッションバルブとデスクブレーキの仕
様によって、かなり和らげられている。「眠れる美女」を脅かしたくは無い。現場の怖い点
は、何が起るか分からないと言う点である。彼女の髪を本杉する時のように、繊細に作業
をしていった。
化学科の隊員とは、無線が繋がっている。彼らの呼吸音が早くなっていた。緊張してい
るのだった。クラブパケット高層ビルの窓拭き作業などに、使用されているものである。
大の男三名が乗れる。それも、星野亜紀の耳よりも小さかった。耳は、人間を卑小に見せ
ていた。画面では、白い服の作業員が、人間の耳に乗った、白蟻の一種のようにしか見え
ない。
彼らは、バケットの金具に命綱を結んでいた。横顔の上といっても、地上20メートル
に達する。6,7階建てのビルの上にいるのと同じことである。転落すれば、怪我をする
硬度だった。打ち所が悪ければ命は無い。
星野亜紀が仰向けになっているときに、その顔の上を歩いている、自衛隊員がいた。額
から瞼の上に降りた。睫毛に捕まっていた。しかし、睡眠中の人間には良くあることだが、
瞼がぴくぴくと、かすかに動いたのである。総、彼女にとっては、ほんの「かすか」な動
きに過ぎない。しかし、彼には大地震だった。足元を掬われた。目尻から転落していった。
全治一ヶ月の重症だった。それでも、耳たぶの上の方にぶつかって、勢いが緩んだから、
それだけで済んだのだった。もし、地面に激突していたら、それだけではすまなかっただ
ろう。油断はできなかった。
黙々と彼女の耳の穴に、何かの物体を挿入していった。練習していたのだろう。迷いの
ない手順だった。彼らの身体が、黒い耳の穴に潜り込めそうだった。その物体が何なのか、
俺には分からないことだった。身体の状況の観測装置でもあるのだろうか?質問しても答
はない。命令されたことを、すればいいだけのことだった。
作業は、無事に終了した。俺は『ゴールデン・アーム』号の操作室から地面に降立った。
捜査員の許可証を付けている。もうしばらくは、星野亜紀の近くにいられた。アウトリガ
フロートと、バーチカルシリンダーの収納に手間とっている振りをしていた。
5・
強張った身体を、柔軟にほぐすように動かしながら、星野亜紀の顔の前の方に回ってい
た。黒い前髪の向こうに、美しい額から目元と鼻筋までが見える位置に来た。顔の下半分
は鼻息で危険なので立入り禁止である。迷彩服に64式の自動小銃を構えた歩哨が立って
いた。俺に顔を向けていた。顔見知りである。それ以上の誰何はなかった。
ここまでくれば、充分なのだ。星野亜紀のビキニの胸の肉の山の隆起を拝むことができ
る。肉眼で目にする、世界最大級の巨乳だった。新宿の井藤美咲の眠りを守っているとの
同じ、透明なガラスの棺のような力場が、彼女をもまた絶対不可侵の女神のような、穢れ
を知らない存在にしていた。
胸の谷間は、深い峡谷をなしていた。乳房の上半球が、陽光を跳ね返している。野球の
ボール大の汗の粒ができていた。もわり。女臭い空気が漂ってくるようだ。少なくとも、
SF映画のバリヤーのような存在が、彼女の皮膚呼吸に影響を与えていないことが、よく
分かる。
胸だけでも、前方に5メートル以上は突き出していた。谷間の深さは、十数メートルは
あるだろう。蟻のように潜り込めそうだった。彼女のバストの公式の測量の記録は、87
メートルである。片方で、50トン以上の重量があるという計算だった。俺のラフトクレ
ーンの最大釣り上げ能力は20トンである。持ち上げることは不可能だった。
迷彩服にヘルメットの歩哨が、俺に口元だけで笑いかけてきた。男には、同じ感情が共
有できる光景だった。1992年から採用されている迷彩度の高い新型である。素材は難
燃性である。赤外線に探知されにくい塗料が使用されている。夜間に赤外線スコープでも、
探知されにくいそうだ。
星野亜紀の深い呼吸に応じて、左右の乳の小山は、ゆったりと起伏しているように見え
た。しかし、これは気のせいだろう。彼女は、冬眠状態にあるという。呼吸数は、一分間
に五回にまで落ちていた。体温も低い。目視できる動きはないのだった。あるとすれば心
臓の鼓動が皮膚を動かしているのである。それも、呼吸と同じように、極端に緩慢なもの
だった。
『ゴールデン・アーム』号を転がしながら、星野亜紀の背中側をゆっくりと通過してい
った。170メートルの女体が肌色の山脈のように波打っている。ウエストのくびれは、
息を呑むようだったし、巨大な臀部の二つの山は、乳房以上の威容で眼前に聳えていた。
こいつが、もしも目が覚めて立ち上がったら。その時、人間には、それを押しとどめるこ
となど、いったいできることなのだろうか。
準備はしてある。たとえば、足首には直径3センチメートルの鋼鉄のロープを束ねたも
のが、ぐるぐると何重にも巻かれている。本四架橋の橋梁工事に使用されたものである。
工作科が、足首の地下に塹壕作りの要領で地下道を作った。いつ彼女が動いて、土の壁
がつぶれるか。見当がつかない。決死の作業だった。そこを通した鋼鉄のロープを二台の
戦車が引っ張った。片方は90式だったが、もう一方は、なんと61式だった。ただの人
(退役した元将官のこと)が、仕事に借りだされたようなものである。この苦心の作戦の
ロープも、星野亜紀の足首の直径は、5メートル以上はあるだろうから、それと比較して
しまうと、黒い糸のように頼りなかった。
前の方に回ると、両手の親指の付け根に、同じような細工がしてある。犯罪者が逃亡し
ないためには、有効な緊縛の方法なのかもしれない。
しかし、相手が相手だった。
蟻は人間の女性に勝てるだろうか?この蟻には知性はあったが、その使える道具は、俺
のラフトレーン・クレーンまでを含めて、あまりにも非力だった。俺は金玉が縮み上がる
ような恐怖を覚えていた。化学防護車とすれ違っていた。82式通信車をベースにして改
造がなされている。毒ガスや細菌に汚染された戦場でも、活動できるものだった。
*
本部で、次回の作業に付いての申し送り(業務連絡)を受けていた。篭城(麻雀)につ
き合わされた。もちろん賭けている。部体内の規律が、長期間の緊張で乱れているのだろ
う。相手は、二等と三等の陸曹に陸士長だった。みなが、疲れているような暗い顔色をし
ていた。
半チャンでかなり儲けた。俺が、高校時代にカモにしていた男がいる。学校の近くの焼
きそばを、何度もおごってもらった。彼は、それが、かなり悔しかったのだろう。精進し
たらしい。東京六大学の学生麻雀大会で優勝していた。鍛えてやったおかげだった。俺は、
結構、強いのである。
篭城の間に、いろいろと自衛隊内部の黒い噂も耳にした。彼女達にVXが用意されている
という話だった。どきんと胸に堪えた。粘着性のある無味無臭の毒ガスだった。神経を犯
す。たとえば、耳の穴にそれを仕込めば、いざという場合に、脳髄を直撃できる。残酷に
思えた。彼女は、自分に何が起ったのかもしれない内に、眠りながら殺されるのだ。こん
な極秘情報が気軽に語られるのも、自衛隊の綱紀が乱れているからなのだろう。どっちに
しても、俺には、どうしようもないことだった。
*
「戦闘機動師団」とゲリラ・テロ対策の「政経中枢師団」は、現在は東京の抱えるわず
か五人の「眠れる美女」の世話で手一杯になっている。星野亜紀は、「沿岸配備第七師団」
の担当だった。
牌を動かしながらも、無性に彼女が抱きたかった。星野亜紀が眠りながら発散する、濃
厚なフェロモンにやられているのだろう。本部の窓からは、彼女の下半身の肉の球体が丸
見えだった。性器に、紺色のビキニの厚い生地が、喰い込んでいた。割れ目の形を、くっ
きりと見せつけていた。曲った陰毛が、数本、はみ出ていた。彼女は、体毛が濃いことを
気にしていたはずだ。ビキニラインの手入れが、十分ではなかったのかもしれない。
6・
あの夏の日からも、すでに三ヶ月が経過している。今年の日本は、台風がほとんどこな
い。それなのに、秋が速かった。俺も、自分のブームを最大限に伸ばしていた。赤黒い襞
が垂れた本杉眞綾の割れ目に、つっこんでいた。陵辱していった。凶暴な気分だった。容
赦無く、腰を動かしていった。子宮孔を突いて行った。コンドームはつけていなかった。
さんざん、喘がせ、泣かしてやった。
本杉眞綾の体内に眠る欲望を、完全燃焼させてやりたかった。女の若い命を、輝かせた
かった。30歳という年齢など関係ない。
本杉眞綾が、六年間、結婚を前提として付きあっていたデザイナーの彼氏と、ひどい別
れ方をしたことを、俺は二人の共通の女友達の証言からつきとめていた。決定的な破局の
日が、俺と去年の年末に新宿の黄金街で、遭遇したときだったのだ。
膣内に、盛大に、何度も、何度も、射精していた。処理は、本杉眞綾の責任だった。そ
ういう点で、抜かりのある女ではなかった。すぐにビデを使っていた。子供が出来ても、
あなたに迷惑はかけない。そう言っていた。毎回のように膣内射精をさせてくれていた。
ホテル・目黒・エンプレスの壁のハンガーにぶら下がった、俺の上着のポケットには、
渡し忘れたプレゼントが入ったままだ。井藤美咲が、巨大化した今年の春のホワイトデー
に、ゴディヴァのお返しに渡そうとしていたものだ。あの日の混乱の渦中で、タイミング
を逃してしまったものだ。
俺の重機の運転手としての給料の半年分を、すべて注ぎ込んだ指輪だった。本杉眞綾の
年収からすれば、二か月分にも満たない。安物かもしれない。しかし、これも男のけじめ
だった。受けとってもらえると言う自信がなかった。笑われるのを恐れていた。時を待っ
ていた。
*
俺は、星野亜紀の幅3メートルはある唇に顔を寄せていた。かすかに唇が開いていった。
口腔内で粘ついていた唾液が、はがれていく音が、何かが生物が引裂かれるときの悲鳴のよ
うに響いていた。俺の肉体の動きに、彼女が無意識に反応しているのである。暖かい唇は、
上だけでも50センチは厚みがあった。その上下の唇の肉の粘膜が、盛り上がっていた。
それから、かすかに開いていった。凄い吸引力を感じた。俺は、内部に吸いこまれていっ
た。硬い前歯の間を転落していった。舌が出迎えてくれた。天国だった。全身が、星野亜
紀の唾液に塗れていた。それから、舌が動いた。俺を抱き占めてくれていた。恋人の舌の
ように、熱烈に抱擁していた。すでに限界にまで興奮していた俺は、星野亜紀の口内に射
精していた。
*
星野亜紀は、目を醒ました。寝返りを打っていた。喉が渇いていた。それ以上に、腹が
減っていた。口の中に、えもいわれる美味なものがあった。かすかな血と塩の味が、食欲
を増進してくれていた。舌なめずりをしていた。口の中の肉片をずるっと啜った。ごくり。
飲みこんでいた。彼女は、大きな瞳を開いていた。日の出の光を受けていた。睫毛の長い
影が頬に落ちた。
無造作に立ち上がっていた。全身に巻きついていた鋼鉄のロープは、蜘蛛の糸ほどにし
か感じられなかった。その先端についていた50tの戦車は、蜘蛛のようなものだった。
地上に落ちて壊れていた。あくびをしていた。その場の自衛隊員には、巨大な怪獣の咆哮
だった。170メートルの体で、延びをしていた。乳首に太陽のぬくもりを感じていた。
寝たりていた。最近は、スケジュールが立て込んでいた。あまり、熟睡できなかった。久
しぶりに爽快な気分だった。
何をするかは分かっていた。俺は彼女と、文字通りに一心同体になっている。これが「眠
れる美女」の力だったのだ。全人類は、ついに一体になる。空腹を、満たさなければなら
ない。食べ物はある。全世界で三百人を越える「眠れる美女たち」が、いっせいに目覚め
の朝を迎えるのだった。
7・
夢だった。ことは、そう単純ではない。現実は、物語ではない。そんなに簡単に、決着
はつかない。強い風が吹き始めていた。ラブホテル・目黒・エンプレスの窓が、冷たい秋
風に、がたがたと鳴っている。気温が、秋としても急速に低下していた。俺は、寒くて目
が醒めたのだ。地球と言う星全体が、秋の季節を迎えたような冷え込みだった。冷えない
ようにと、恋人の腹筋が引き締った腹にも、タオルをそっとかけてやっていた。
ラブホテルの薄いカーテンを通過して、朝の金色の光が、室内に差し込んでいた。お台
場には、巨大女子アナウンサーがいる。新宿の高層ビル街には、ビジネス・スーツの井藤
美咲が眠っている。馬鹿臨海工業地帯には、星野亜紀がいる。今日も、彼女に会いに行か
なければならない。嫌な人体実験が続いていた。
ベッドから起き上がっていた。シャンペンが二本。ワインの瓶が、四本、空になってい
た。ロマネ・コンティの赤が二本。白二本。二人であけたのだ。
*
昨夜の本杉眞綾は、泥酔していた。
「あたしも、「眠れる美女」になりたい」
そう、何度も繰返していた。
「そして、男どもを食ってやるんだ。この世界を、めちゃくちゃにしてやる!!本気だ
からね!!」
俺の腕の中で、泣きながら眠っていた。大企業の中堅社員である彼女には、いろいろな
ストレスがあるのだった。
*
俺は自衛隊配給品の、缶ビールのプルトップを引き抜いた。小袋の底に残ったビスタチ
オを噛みながら、生ぬるくて苦いだけの液体を、口に含んでいた。
テーブルの上には、昨夜、眞綾が食いかけにした林檎の芯が、茶色に変色していた。果
物などの生鮮食料品も、貴重になっていた。高価である。本杉眞綾ぐらいの高給取りにな
らないと、なかなか口に入らない。腹が減っていた。いつも、空腹感があった。俺は、林
檎の芯をかみ砕いて食っていた。まだ充分に果汁が残っている。甘くて旨かった。
彼女の年収は、俺の3倍である。デザイナーと言う平和な職業が、「眠れる美女」がいる
世界で、今でも成立しているのが、不思議な気がする。それが、世間と言うものなのだろ
う。「女は、いつの時代でも、美しく生きていたい生物だ。」本杉眞綾の言葉が、耳の底に
木霊していた。
世界は、「眠れる美女」たちとの静かなる戦闘状態に突入しているのだ。黄金の空飛ぶ円
盤に乗った、宇宙人の地球侵略の先兵とも呼ばれていた。何が起るか分からない時代だっ
た。世界の終末の日が近いと警告する宗教家もいた。俺も心身ともに疲れているのだろう。
本杉眞綾が、俺のように明日の出世の見込のない男と付きあっているのは、今が、彼女に
とっては、余生のような季節だからではないだろうか。暗い感想が、脳裏を黒い鳥のよう
に横切っていた。頭が重かった。
*
緊急放送用に、道路に新規に設置されたスピーカー群のサイレンが、戸外で咆哮してい
た。新宿の井藤美咲が、目を覚まして立ち上がったと言う。重大ニュースを、感情を押し
殺しているために、妙に空虚に聞える声で、国営放送の男性アナウンサーが伝えていた。
ついに、人類に破滅の日が来たのかもしれなかった。テレビをつけた。
緑の中央公園の内部で、立ち上がっている井藤美咲の姿が、無人のテレビカメラに映っ
ている。黒いハイヒールが、紅葉した樹木を、叢のように踏み潰していた。頭上に黄金の円
盤が、静止している。今までになく、まばゆく輝いている。それが、巨大ロボットのよう
な井藤美咲を思いのままに、操縦しているという印象を持った。瞳は開いている。だが、
そこには、いかなる感情も浮んでいなかった。端正な容貌が、機械人形のような無機質の
印象を強めていた。円盤が天使の輪のように浮んでいた。
彼女は、かろうじて立っている高層ビルの壁面を、スローモーションのようなゆっくり
とした動きで、殴っていた。拳骨が貫通していた。コンクリートの壁面が、ウエハスで出
来ているような脆さだった。ぱらぱらと、彼女の指の間から舞い落ちているゴミのような
ものは、おそらく事務用のディスクや椅子やパソコンなのだろう。ついに、宇宙戦争がは
じまったのだ。
本杉眞綾が、寝返りを打っていた。何事か、大きな声で、ぶつぶつと呟いている。魘さ
れているようだった。枕の上に豊かに広がった黒髪を、撫でてやろうとした。それぐらい
しか、できることはなかった。起さなければならないと思った。逃げる必要がある。しか
し、どこへか?
ニュースは、引続き「眠れる美女」たちが、地球の各地で続々と覚醒を始めていると言
う衝撃的な事実を、機械的な口調で発表していた。星野亜紀も、目覚めの朝を迎えたらし
い。もう、俺に出来ることは何もなかった。御役御免になる『ゴールデン・アーム』号が
可哀相だなと、ちらりと思っただけだ。
気が付いたことがある。本杉眞綾の豊かな黒髪の頭部は、枕の上にきちんと乗っている。
脇に黒いシルクの下着が、黒い鳥の死骸のように小さく丸まっていた。2メートル40セ
ンチはある、ダブルベッドの向こう側の端から、彼女の両足が二本。壁の大鏡の方に、ト
レーニング・ジムで鍛えた土踏まずの深い足の裏を見せて、ずんと、つき出していた。
短小物語集
星の秋(後編) 了
全編 終り
【作者後記】
1・久しぶりの投稿になります。こちらへは、「大日本女王帝國」や「第三次性徴世界」と
いうシリーズ物ではなくて、単発の「短小物語集」の一編を掲載してもらおうと考えてい
ました。いつのまにか長い時間が、経過することになってしまいました。
2・新しい書き手の登場に、刺激を受けました。二日間をかけました。400字詰め原稿
用紙にして110枚程になります。以下には、初心者の方に、少しでも参考になればと思
い、笛地の創作の裏側を公表します。
3・NHKで『プロフェッショナル』という番組を放映しています。脳科学者の茂木健一
郎さんの切り口が新鮮で、いつも楽しませてもらっています。
4・マンガ家の浦沢直樹さんが、出演した回がありました。「20世紀少年」「Monst
er」等々の長編の力作を、次々と発表しています。手塚治虫ファンの笛地は、鉄腕アト
ムの「史上最大の作戦」のパスティーシュである「Pluto」を特に楽しみにしていま
す。彼は、場合によっては完成に十年間以上を必要とする、長編マンガのアイデアをどの
ように得るのか?そういう質問がありました。
5・浦沢さんの答えが、興味深いものでした。映画の予告編を見ているようだというので
す。いくつかの印象的な「場面のイメージ」が、高速で脳裏を過ります。キャプションさ
えついています。
6・このアイデアが、映画の予告編に例えられる形で、どこかから降ってくると言うのは、
もちろんスケールは全然、違いますが、笛地も同じだなと思っていました。今回の作品の
根底には、4枚の「絵」がありました。いずれも、夢で見たものです。以下の順番でした。
① 黒いビキニ姿の巨大な女性が、海岸に打ち上げられています。「小人の国」に漂着し
たガリバーのように、無数のロープで砂浜に縛りつけられています。彼女の周囲に
は、自衛隊の戦車や装甲車が集っています。投光器の光線が、乳房の球面に光って
います。(時間が、昼から、いきなり夜のなっています。)クレーンの影が、雄大な
胸の斜面を、ゆっくりと動いています。そこを登っている自衛隊員の迷彩の制服姿
が、蟻のようにしか見えません。
② ビルが、爆発するように壊れています。内部からスーツ姿の美女が、上半身を顕わ
にしています。目を閉じています。(これは、おそらくKlnkingさんのマンガのイメ
ージから)
③ 新宿副都心の高層ビル街。それと肩を並べる美女が、空を見上げて咆哮しています。
片方の足にはヒールを履いていますが、もう片方は、なぜか裸足です。
④ 20代ぐらいの若い石田○一さんに、杉○彩さんが、濃厚なフェラティオをしてい
るシーン。
7・今回の作品が、これら四枚の「絵」をつなげるようにして作られていることが、お分
りになると思うのです。12枚ぐらいまでのショートショートならば、一枚の印象的な「絵」
があれば作れます。それ以上になると、複数の「絵」が必要です。異なる夢で見た「場面」
を、繋げても良いわけです。
8・「絵」のつなげ方として、昔から「ストーリー」とともに、「プロット」という考え方
があることを紹介しておきます。古典的な例ですが「ストーリー」とは、「王様が死んだ。
女王様が死んだ。」ということです。事実の羅列です。それに対して「プロット」とは、「王
様が死んだ。悲しみのあまり、女王様も死んだ。」です。事実が、「原因と結果の関係」に
なって推移するように、何らかの理由付けがついています。
9・具体的には、作品を分析して頂きたいのです。笛地が四枚の「絵」に「ストーリー」
を立て、「プロット」をつけるために、どのような工夫をしたのか?夢とは順序が異なって
いますし、使われなかったイメージもあります。参考になれば幸いです。
10・さらに、多くの作家の方の登場を待望しています。創作は、苦しくもありますが、
楽しいものです。醒めていながら、自分の見たい夢が続いているような状態です。
11・笛地は、よく細密描写だと言われます。が、実際は、文章に書いていることよりも、
何倍も濃いイメージの洪水に襲われています。そこから、書くべきことを選択しています。
たとえば、今回は全く書いていませんが、GTSに襲撃されている新宿駅前の地下街に自
分がいて、パニックを体験しています。白昼夢のようなものですが、書くことによって、
ただ、ぼんやりと妄想している時よりも、イメージの密度と強度が向上してきます。快感
です。お試しください。
2007年4月8日
笛地静恵