学生鞄を肩にぶら下げスタスタと登校する一男子高校生・速君(はやきみ)。
ボサボサな髪型は寝癖、眠たげな眼でボーっと歩いている。
周囲を歩く同じ登校を務めとする高校生達の話声をBGMに未だ覚め切らない頭で前へと進んでいた。

そのとき、背中がポンと叩かれ元気な声がかけられる。

「おっはよー、はっくん」

振り返ればそこには女子高校生が一人。
笑顔で速君を見下ろしていた。
見下ろされるのはこの女子高校生の方が背が高いからである。
速君は力なく挨拶を返した。

「おはよ…」
「あれあれ? 元気無いね? どうしたの?」

女子高生は上体を倒して速君の顔を下から覗き込んでくる。
これらの仕草に、速君はため息をついた。

「…なぁ留恵(るえ)、そういうのはやめてくれないか…」
「ふぇ?」

きょとんとする留恵。
その長身に相応しい長い髪がサラサラと風に揺れ同じく長身に対して短すぎるようにも思えるミニのスカートもふわりと揺れる。
容姿も良いし体形も高校生としては十分に発育していて、正直 至近距離では目のやり場に困る。
そんな留恵は速君より頭一つ身長が高く、速君はこうして見下ろされるのが嫌だった。
特に今みたいに、わざわざ上体を倒して下から顔を覗きこむのは、自分の身長を馬鹿にされているような気分になるのだ。

「…一応、俺172あるんだけどな…」
「あたし196だよ」
「…」

はぁ…再びため息をついた。

「あーなんか辛いことがあるんだね。よしよし」

留恵は速君の頭を撫でた。

「いやだからそういうのをやめてくれと」
「なんで? 昔ははっくんがよくあたしにしてくれたじゃない。とっても気持ちよかったんだよ。だから今度はあたしがしてあげるの」

笑顔で頭を撫でてくる留恵。
速君はなでなでされながらまたため息をついた。

もちろん留恵のことは嫌いじゃない。
幼い頃からずっと友達だったしこれからもそうだと思ってる。
ただ、昔は自分より背が低かったのに、今は見上げるほどに大きくなってしまった。
かつて兄と妹のような関係だったがゆえに、その妹に見下ろされているというのは少し気分が良くない。
と、言っても実際は嫌というほどではないのだ。ただ恥ずかしいという気持ちが強かった。
特に留恵は、周りの目をはばからずこういうことをする。
周囲の視線が痛い。速君はそれが嫌なのだった。

「ほら、もう行くぞ」
「あ、待って!」

撫でる留恵の手を払って歩き出す速君とそれを追いかける留恵。
二人は学校へと向かった。


  *


学校へと到着した二人は昇降口と廊下を経て自分の教室へと入る。
すると教室で花瓶の水を取り替えていた女生徒がこちらに気づき挨拶してきた。

「おはようございます、速君君、留恵さん」
「おはよう、委員長」
「おっはよー」

二人も普通な挨拶を返す。
挨拶をしてきた委員長と呼ばれた少女は眼鏡の向こうでつぶらな瞳が閉じ柔らかな笑顔でくすりと笑った。
ヘアバンドを着け、黒髪の結ったおさげを肩の前へと持ってきている。
大人しい印象の子だった。
ただ速君の顔を引きつらせるのは、その少女が留恵と同じくらいの身長であったこと。
にっこりと笑う委員長の顔を、速君は見上げなければならなかった。

が、それは委員長に限ったことでは無い。
教室内を見渡せば、そこにいる女子は皆その位の身長なのだ。
ほぼ全員が190を突破している。
見通しの悪い教室。立ち歩き乱立する女子の影に男子は隠れてしまい、ひとりの男子を探すためには教室中の女子の影を見て回らなければならないときもある。
いったいどうしてこうなったのか、そんなことわかろうはずもない。
突然大きくなるはずなんかないのだ。長い年月の中、男子も女子も当然成長期を向かえ、それを経て気付けばこうなっていた。
町内の女性は皆身長が高かった。

「はぁ…」

またため息をついた速君は教室の前の方にある自分の席へと向かった。
男子はみな席が前の方にあり女子は後ろにある。
当然、そうしなければ女子の後ろの席になった男子は黒板が見えなくなってしまうからだ。

自分の席へと着いた速君。
そこに同じく自分の席に鞄を置いてきた留恵がやってくる。

「えへへ〜」
「…なんだよ」
「宿題写させて欲しいな〜…と」
「…」

椅子に普通に座る速君。
前の席に座ってこちらを向き、両手で頬杖をする留恵。
しかし視線は速君が下。
キラッキラとした瞳で見下ろしてくる。
速君は無言でノートを差し出した。

「はいよ」
「ありがとー!」

ノートをパシっと受け取った留恵はすぐさま自分の席に戻り写しを取り始めた。
身体は大きくなったけど、パタパタと動き回る様は変わらないな。
そんなことを思いながら速君は留恵を見つめていた。

「おい速君ー」

そこへ男友達が話しかけてきて速君は留恵から目を離した。
あとの授業が始まるまでの時間はその友人達と他愛の無い話に花を咲かせていた。


  *


時間は流れ放課後。
委員会の仕事で残っていた速君は午後6時を回ってようやく解放された。
本来なら留恵と一緒に帰るはずだったのだが、自分は委員会、留恵も部活へ顔を出すということでお互い取り残されずに丁度良かった。
校舎二階から体育館わきの道場を見下ろすと中ではまだ活動が続けられている。
この時間なのだからもうすぐ終わるのだろう。
速君は覗きにいくことにした。

開いている入口から中を見ると十数人が活動をしていた。
皆が白い道着を身に纏い、互いに拳や蹴りを突き出しあっている。
空手部である。
学生レベルのそれであるが、動きの一つ一つに切れがあり、速君には達人のそれと見分けが付かなかった。
拳を突き出したとき、蹴りを放ったとき、ビュッという風を切る音とともに汗の水滴がキラキラと飛び散るのが男女問わず美しかった。
男子空手部と女子空手部がある。
速君は留恵の姿を探すべく女子空手部の方へと視線を走らせた。
そしてこうやって男子と女子を見比べて思うのは、やはり女子の方が身長が高いことである。
無論男子の中にも背の高い生徒はおり、彼は周囲の生徒から頭一つ抜きん出ているが、女子の方は皆が背が高いので抜きん出るということは無い。
平均は、圧倒的に女子が上だった。

で、その空手部女子達の中に留恵の姿を見つける。
留恵は今、別の女子と向かい合い試合をしていた。
組み手というものである。
真剣勝負さながらに拳と蹴りと技を繰り出しあい、相手を攻める。
相手の女子の拳が次々と放たれるが、留恵はフットワークをきかせ上体を華麗に動かしてそれらの拳をさばいていく。
身体をひねるたびに長いストレートヘアーがバサリと翻っていた。
相手もさるもの、拳が留恵の道着を掠める。
その時、開いた道着の合間に見えた留恵の汗に濡れた胸元に、速君は顔を赤らめて視線を逸らした。

乱打を次々と避けられこのままでは埒があかないと判断したのか、相手の女子は拳を引き、そして渾身の一撃を持って留恵の顔を狙った。
だがその大降りの拳は軽くいなされ、逆に留恵の拳が刺す様な速度で相手の女子の顔面を捉えた。
やられる! 女子が、目を閉じた。

 ヒュンッ!

だが、拳は顔に届かなかった。
恐る恐る目を開けてみると拳は顔の1cm前で止まっていた。
止まっていた時間が動き出す。
留恵が拳を寸止めした瞬間、髪がその勢いに後れてバサッと広がった。
にこっと笑う留恵。

「1本! そこまで! 白の勝ち!」

審判を務めていた主将の声で勝負は決した。
挨拶をしたあと、相手の女子の手を取ってぴょんと跳ねた留恵だった。

と、その留恵がこちらに気付いた。
「およ?」という顔をしたあとにぱっと笑うとこちらに向かって走ってきた。

「はっくん! 今の試合、見ててくれた!?」
「ああ、凄かったぞ」
「へへー! だよねー! 最近調子良いって主将にも褒められたんだ〜!」
「それより俺と話してていいのか? まだ部活中だろ?」
「あたしは今試合が終わったから休憩中。だから大丈夫だよ」
「そう…か……」

速君の声が尻すぼみになったのは、目の前に立つ留恵の肌蹴た道着の合間に汗で輝く肌色の胸元を見てしまったからだった。
夏のこの季節、下着を着け無いことの多い留恵の大きな乳房。
先ほど留恵が試合していたときはこの乳房が道着の中でぶるんぶるんと揺れたに違いない。
その光景を想像するだけで速君はのぼせてしまいそうだった。
そんな速君の動揺に気付いた様子も無い留恵は続ける。

「でもごめんね。今日は一緒に帰れそうにないや。もうすぐインハイだから…」
「あ、いや、ならいいよ。俺は一人で帰るから」
「うん。ごめんね」
「いいって。部活頑張れよ」
「ありがと、はっくん」

留恵はにっこりと笑った。
この笑顔は昔のままだなー。
そんなことを思いながら道場を去ろうとしたとき、

「おっ! 誰々この子? 留恵の彼氏?」
「や〜ん、かわいい〜」

留恵の後ろから二人の空手部女子がやってきた。
ショートヘアーの女子とポニーテールの女子だった。
ショートの女子は留恵の肩に手を回し、ポニーの女子は頬に手を当てて目を輝かせていた。
例によって身長は留恵と同じかそれ以上。
頭一つ高い女子達に見下ろされ速君は硬く笑うしかなかった。
ショートの女子が留恵の頭に拳を突きつけぐりぐりとまわす。

「まさかこのほわほわ娘に彼氏がいたとはね〜」
「空手に興味あるの? 中で見ていってもいいのよ。お姉さんがんばっちゃう」

ポニーの女子が手を伸ばしてくる。
速君は顔を引きつらせながら一歩後ずさった。

「いや俺は…」
「違いますよ先輩。はっくんは彼氏じゃなくてお兄ちゃんみたいな人です」
「兄!? そこまで親密なの!? くぅ〜…まさかあんたに先越されるとは…」
「ガーン! じゃあもう留恵のものなのね…。食べたかったなー…」

ショートの女子は大仰な振る舞いで天上を仰ぎ、ポニーの女子は唇に手を当てて物欲しげな瞳で速君を見つめてきた。

「し、失礼します!」

速君は駆け足でその場から逃げ去った。


  *


その後、速君は正門へと抜けるため、校舎裏を歩いていた。
その最中に思い出す。
留恵は随分と小さい頃から格闘技にはまっていた気がする。
あれは幼稚園の頃か…。

『お兄ちゃんしょうぶー!』

と言いながらポカスカ叩いてきたのを思い出した。
頭を押さえてやるともう手が届かずブンブン回すしかない。
あの頃はかわいかった。
そして小学生になり本格的に空手を習い始め今に至る。
いつからか留恵は自分で技の練習をしなくなった。
昔は良く相手をさせられたものだ。
もっとも、今相手をさせられたら一発でK.O.だが。

と、その途中、校舎の影から数人の話し声が聞こえてきた。
何かと思ってみると、数人の男子生徒が二人の男子生徒からカツアゲをしていた。

「これっぽっちなわけねーだろ! 持ってるもん全部だせや!」
「ひぐ…っ! で、ですから…これで全部で…」
「出せっつってんだよ。なぐられてーのか!?」
「ひぃッ!」

寄って集っての蹴る殴る。
生徒達の苦悶の声が、夕闇に沈みつつある校舎裏に響いた。
それを見ていた速君は思わず後ずさった。
速君には武芸の心得も弱きを助ける義勇の心も無い。普通の一生徒である。
例えば今割って入れば、今度痛い目に遭うのは自分なのだ。
心苦しく、良心の呵責の重さに潰され、罪悪感に苛まれながら、速君は振り返って逃げようとしたとき、

 カァン!

そこに落ちていた空き缶を蹴り飛ばしてしまった。
その音に、そこにいた不良生徒達が一斉に振り返る。
たったそれだけだったが、速君はあまりの恐怖に腰を抜かしてしまった。
不良達が近づいてくる。

「見やがったな…」
「おら、てめぇも金出しやがれ!」

不良の手が速君に迫る。
その時、

「はっくんをいじめるなぁぁぁぁあああああああああああああ!!」

それは一瞬。
速君に迫っていた不良の横っ面に留恵の飛び蹴りが炸裂。不良は凄まじい勢いで蹴り飛ばされアスファルトの上を転がっていった。
スタン。尻餅を着く速君の前に道着姿の留恵が降り立つ。
速君は自分の前に仁王立ちし、不良達からその背に守る留恵を見上げた。

「はっくん、大丈夫だった!?」
「る、留恵…、お前…なんで…」
「用事を思い出して追いかけてきたの。そしたら…」

キッと、留恵は目の前の不良達を睨んだ。
不良達は唾を吐き留恵に詰め寄る。

「女ァ! ちーとでけぇからっていきがってんじゃねぇぞ!!」
「男なめんじゃねぇぞコラァ!!」

留恵を取り囲む不良達。
不良はみな留恵より背が低い。留恵は全員を見下ろすことができた。
だが、それでも多勢に無勢は違いない。
あまりにも不利だった。

 ドン!

突っ込んできた不良の顔に拳を叩き込む。
さらに別方向から殴りかかってきた不良の拳を受け、空いたみぞおちに突き上げるように膝蹴りを入れた。
だがこの時、留恵は背中を別の不良に殴られアスファルトに倒された。

「あぐ…!」

留恵の口から苦悶の声が漏れた。

「留恵!」

速君が留恵に駆け寄る。
その横から不良の一人が留恵に追い討ちをかけてきた。が、それに気付いた速君は留恵を庇うようにして不良の前に割って入った。

「邪魔だオラァ!」

顔面を殴られ吹っ飛ばされた速君は留恵の背中に倒れこんだ。

「はっくん!」
「うぐ…だ、大丈夫だ…」

言いつつも速君の頬は赤くはれ上がり鼻血も出ている。
それでも速君は留恵の上に倒れた身体を起こし、留恵と不良達の前に立ち塞がろうとする。
膝が震えて立てない。速君は座ったまま両手を広げて留恵を庇った。
倒れたまま、留恵は速君の背中を見上げた。

「はっくん…! あたしが!」
「いい!」

留恵を制し、速君は不良達を見上げた。

「こいつには手を出さないでくれ…。お願いだ…」
「気取るんじゃねーよ! 最初に手ぇ出したのはその女だろうが!」
「オラどけッ!」

 ドフッ!

速君の腹に蹴りが突き刺さる。
ぐ…っ。腹を押さえて倒れこむ速君。

「はっくんッ!」

身体を起こした留恵は速君の上に被さるようにして速君を庇う。

「やめて! それ以上はっくんをいじめないで!」
「お前のせいだろが女!」

不良がもう一度脚を振り蹴りを撃とうとしたときだった。
その不良の肩にガシッと腕が回される。

「ほらほら、そのへんにしときなよー。留恵は怒らせると怖いぞ〜」

それはショートの空手部女子。
不良の肩に手を回しつつやはり身長は頭一つ分は大きい。
そのショートの女子の腕が不良の首をキュッと締め上げた。
ガクッ。不良の首がだらんと垂れ、ショートの女子が腕を放したとき、不良の身体はドサリと崩れ落ちた。
横にいた別の不良がそちらを見て慌てて叫ぶ。

「な、なんだてめぇは!!」

すると横から、

「う〜ん、やっぱりあの子の方が大きいかな」

と言う声とともに、いつの間にか横に立っていたポニーの女子の手が、不良の股間を握り締めていた。
その手をぐにぐにと動かすと不良の顔がどんどん青くなってゆく。
だがポニーの少女はそんな不良など見もせず目の前の速君とその上に覆い被さる留恵を、唇に指を当てながら見ていた。
物欲しそうな瞳の向こうに溜まる欲望が大きくなるほどに、手の動きも激しくなる。
そして手をギュッと握ったとき、不良は全身から血の気を引かせて倒れた。
二人の不良があっという間に倒された。
見上げていた留恵。

「先輩…」

その留恵の背後、別の二人の不良は仲間がやられたのをみて慌てて踵を返し逃げようとした。
が、振り返った直後、その胸ぐらを掴まれグイと持ち上げられた。
不良の足が地から離れる。
二人を持ち上げたのは、一際長身の道着を着た空手部女子。
膝まで届く長い黒髪。同じく長い前髪は片目を隠し、唯一見える隻眼は虎のそれの様に鋭かった。
不良達はばたばた暴れるが、この空手部女子はまるで気にしていなかった。

「うちの部員に手を出さないでもらおうか。もうすぐインハイでね、大切な時期なんだ」

女子の不良の胸ぐらを掴む拳がさらに難く握られる。
するとワイシャツがさらに締め上げられ、不良の首を絞めた。
ぱたぱたと暴れていた不良はやがて手足をだらんとぶら下げ、解放された二人はその場に落ちた。
留恵は自分の前に仁王立ちするその勇ましい空手部女子を見上げた。

「しゅ、主将…」

呼ばれた女子はフッと笑うと膝を折って屈みこんだ。

「大丈夫か? 留恵」
「は、はい…。でも、はっくんが…」

速君は未だ腹を押さえて蹲るままだった。
そんな速君を見下ろし主将はまた笑った。

「大したものだ。自分の女のために身を盾にしたんだからな」
「はっくんはそんなんじゃないですよ」
「いいからいいから。我が女子空手部の次期エースを身体を張って守った男だ。これを見捨てたとあっては我が部の名折れだな」

と、主将が前のショートの女子とポニーの女子に目配せした。
二人は笑った。

「そーですね! では我が部の名にかけて誠心誠意治療させていただきましょう!」
「救急箱は持って来れないので、このまま部室に連れて行っちゃいましょうか」

二人はどんと胸を叩いた。
そしてそんな二人の足元、留恵に覆い被さられる速君はドキッとした。
不味かった。
非常に不味い。
今、自分が身体を蹲らせているのは、腹を蹴られた痛みのせいでは無いのだから。
道着の肌蹴た留恵が背中越しに覆いかぶさり、薄手の夏服越しに、その丸く大きな存在を感じて男たる象徴が目覚めてしまっていたのだ。
ここで立ち上がることは、できなかった。

「い、いや…俺大丈夫ですから。そんな気を遣って貰わなくても」
「そんなはっくん! お腹蹴られたんだよ!」
「大したことないって。ほんと、大丈夫だから…………さよなら!!」

ダッ! 瞬時に身を起こし留恵を跳ね除けて速君は走り出した。
だがすぐに何かにぶつかって尻餅を着いた。
視線の先には空手部主将。
道着の間から特大の乳房が覗いている。今、自分の顔はあれに跳ね飛ばされたのだ。
身長は200cmは超えているだろう。
倒れ足元から見上げるとその大きさも一段と強く感じられた。
主将はフッと笑っていた。

「遠慮するな。我が女子空手部のサポートは完璧だぞ。……そっちの方も含めてな」

主将が意味ありげに笑ったのを見て速君は思わず後ずさった。
その速君の両腕がガシッと掴まれ、速君は無理矢理立たされる。
立たされたとは言ったが、足は地に着いていなかった。
左腕をショートの女子に、右腕をポニーの女子に掴まれていた。

「え!? ちょ…ッ!」
「じゃあいきましょーか。一名様ご案な〜い」
「うふふ、気持ちよくしてあげるからね」

え? え!?
速君の左右から二人の長身少女が笑顔で見下ろしてきた。

「う、うそ!? ちょ…待って! …留恵! 留恵ーーーーー!!」

二人の女子に運ばれる速君の声が校舎裏に響く。
その声を聞いて、速君の安堵に半ば呆然としていた留恵はハッと我を取り戻し、慌てて速君を追いかけていった。
それを見てまた小さく笑う主将だった。


  *


下校。
速君と留恵は家路へとついていた。

「恥ずかしかった…」

速君は顔を赤らめて俯いた。
実際、予想していたような展開にはならなかった。
本当に、救急箱から取り出した薬や湿布薬で擦り傷や打撲を軽く治療した程度である。
長椅子に座った速君の殴られた頬や蹴られた腹、そこに、留恵がやさしく薬を塗ってくれた。
今思うと、あのときの留恵の表情は怖がっていたようにも見えた。
それだけ、自分の身をあんじていてくれたのだ。
だから薬を塗るとき留恵の顔は真剣で、速君は自分でやるとは言い出せなかった。
もっともその時は、椅子に座る自分を見下ろす十数の好奇の視線に晒され恥ずかしさに顔を俯けることしかできなかっただけであるが。
部室内、道着を纏い汗だくの少女達がキラキラとした瞳で自分を見下ろし何かを囁きあっている。恥ずかしい以外の何ものでも無かった。
唯一あのポニーの少女だけがなんか期待はずれみたいに詰まらなそうな表情をしていたが。
そして速君は解放され、ついでということで留恵も一緒に帰らせてもらえることとなった。

そして今の下校中である。
二人は何を喋るでもなくスタスタと家に向かっていた。
ほとんど夕日の沈んだ暗い道。二人以外には歩く人の影は見られない。
見渡せる世界に二人きりだった。

ふと、留恵が呟いた。

「ねぇ…はっくん…」

そのか細い声に、赤らめた顔を上げたくない速君は暫く迷った後、横を歩く留恵の顔を見上げた。
すると突然、自分の唇が、留恵の唇によって塞がれた。
留恵が、自分の頭を抱き寄せるようにして唇を押し付けてきたのだ。
恥ずかしさなど一気に吹っ飛び、目を見開く速君。
その目に飛び込んできたのは、文字通り目の前にある留恵の、硬く閉じられた目の端に浮かぶ大粒の涙だった。
数秒、二人は動かなかった。
長くもあり短くもあり、二人にとっては永遠とも言える時間。
ようやく速君の頭も解放され、二人の唇が離れる。
今、目の前にあった留恵の顔は、再びいつもの見上げる高さへと戻っていた。
薄く開かれたその瞳は涙に揺らいでいた。

「留恵…」
「よかった…はっくんが無事で…」
「…」

溜まっていた涙が頬を伝い、片手で目を擦る。

「あたし…昔から大きくなったらはっくんを守ろうって思ってたの…。小さい頃ははっくんがあたしを守ってくれたから、大きくなったらあたしがって…」
「…」

記憶の向こう。
セピア色の景色に映るは幼少の頃の二人。
あの頃の留恵はまだ背が低く、幼稚園などではよくいじめられていた。
そんな留恵を、速君はいつも守っていたのだ。
相手が何人でも、留恵の前に割って入り留恵を背に庇っていた。
留恵は、自分のせいでボロボロになる速君をいつも見ていた。
そしていつからか、速君に頼らなくてもいいようにと格闘技を覚えてゆく。
強くなって速君に守ってもらわなくてもいいようになれば速君は傷つかないと。
そしていつかは、自分が速君を守れるようになりたいと思いながら。
その願いもあってか、留恵は腕っ節も強く体躯も大きくなり、誰も留恵をいじめようとはしなくなった。
強くなれたと思っていた。速君を守れるくらいに。
でも結局は、自分は速君に庇われ、そして速君は怪我をした。
あの頃と、何もかわっていなかった。
守りたかったのに。
傷つけられたくなかったのに。
でも…それは何故か。

涙を拭った留恵は速君の顔を見下ろした。
今は自分の方が大きくなってしまったが、それでも昔から自分を守ってくれる兄を。
速君は自分でも不思議なくらいに穏やかな気持ちだった。
消え行く夕日を背負う留恵の影になった顔を見上げる。

「はっくん…わかったの。あたし、ずっとはっくんが好きだった!」

膝を折り、速君にすがるようにして抱きつく留恵。
速君の顔の横に留恵の顔がある。
互いの顔は見えない。
が、そこに確かに通ずるものがあった。
速君は背中に手を回し、そして抱きしめた。

「なんで泣いてんだよ」
「だって…だって最近はっくん冷たかったし…」
「…そうだな。お前の方が背が高くなってからなんか一緒にいるの恥ずかしくてさ」
「あたしのこと…嫌い…?」

キュッ…。
速君を抱く留恵の腕に力が込められる。
否定されるのを拒む力だった。
速君は留恵の背中をやさしくぽんぽんと叩き留恵を落ち着かせる。

「嫌いなんて言ったか?」
「…ううん…」
「だろ。俺もお前が好きだよ。ただ外ではあまりベタベタしないでくれよ。女の子と一緒にいるのを見られると恥ずかしいからさ。ほら、俺って昔から根性無しだろ?」
「…ううん…はっくんは根性無しなんかじゃないよ………大好き」

顔を遠ざけた留恵は頬を赤らめて唇を突き出してきた。
ただしそれは、ドラマの男女がやる儚く自然なそれではなく、子どものそれの「ん〜」と唇をタコのように突き出すものだった。
近づいてくる唇を見て速君は苦笑した。
大きくなったけど、中身は昔のままだな。
そして近づいてくる留恵の唇に、自分の唇を重ねた。

夕日の中に顔をくっつける二人の姿がシルエットになった。















  ぢゅ〜〜〜。

「んん…ッ!? ッ………! ッ……………………………………………………ップハァ!! 吸うなバカ!!」
「え!? キスって吸うものじゃないの!?」
「お前のは威力が桁違いなんだよ! 本来はもっとやさしくやるものなの! さっきはできたじゃないか!」
「さっき? いつ?」
「…む、無意識…!?」

速君は思い切り吸引され痛む頬をさすりながら留恵の顔を見上げた。
留恵はきょとんとして速君を見下ろしていた。この表情は昔とまったくかわらない、無垢なままだった。
やれやれ…。苦笑する速君。

「ふぅ…。じゃあ帰ろうか」
「うん!」

すると留恵は手を差し出してきた。

「…。繋げと…?」

半目睨みながら見上げる速君に留恵は笑顔で肯いた。
はぁ…ため息のあと、速君は恐る恐るその手を取った。
女の子と手を繋いで帰るなんて恥ずかしかったが、幸いもう夕刻の遅い時間で人はいない。
速君が自分の手を取ったのを見て、留恵は笑顔を一際輝かせ言った。

「帰ろ、お兄ちゃん」
「はいはい…」

留恵は自分の兄のような存在を見下ろし幸せそうに笑った。
速君はそんな妹のような存在を見上げて諦めたように笑った。

手を繋いだまま二人は家へと向かって歩いていった。