一、ゆかりの憂鬱

「どうしたの、ゆかりちゃん。」
 昼休の学校。喧騒に満ちた教室の片隅で、窓から空を見上げて物思いに耽っていた一人の少女『浅倉ゆかり』は、ふいにぽんと肩を叩かれて我に返る。
「ぁ…ユキちゃん…」
振り返るとクラスメートにして入学式来の一番の友である『新條ユキ』が立っていた。
「悩み事?最近何か元気ないよね?」
「そ、そう…?そんなことない…と思うよ…。」
慌てて取り繕うように笑顔を見せるもあっさり見透かされる。
「ははぁん…これはもしかして恋の病…ですかね?」
「…!」
大正解である、半分は。
「あはは、分かりやすいなぁ、ゆかりちゃん。顔に書いてあるよ。で、相手は何処の誰さんかな?」
「そ、そんなことないって。…あ、ちょっとお手洗いに行ってくるね。」
逃げるように彼女の元から離れて廊下に出たところで再びよく知っている顔に遭遇する。
「やぁ、浅倉君。」
彼はゆかりの顔を確認すると、笑って挨拶をしてきた。
「あ、こ、こんにちは。」
途端に上気して俯き、消え入りそうな声でどうにかそう返すゆかり。ここのところやけによく会う青年。そして顔を合わせて一言二言交わす、それだけでゆかりはこの上なく喜ばしく思う。
「…ユキちゃんに御用…ですよね…?」
が、次の瞬間にはゆかりの声の調子は些か沈んだものになる。よく会うことは確かなのだけれども、だからと言って別に偶然会っているわけではないのだ。
「んー…うん、まぁ…ね。いるかな?」
北沢はどこか曖昧に応えた。
「はい、呼んできますね…。」
彼はきっとゆかりにではなく、ユキの方に用事があって来ているのだから。

教室に戻るとユキは自分の席に座り鞄から文庫本を引っ張り出しているところだった。
「あ、おかえり、ゆかりちゃん。」
「ユキちゃん、北沢さんが…。」
その言葉にユキは一度は持ち上げた視線をすぐに手元へと戻す。
「…あぁ、そう。」
「…行かないの?」
「いいよ、どうせ大した用じゃないだろうから。居ないって言っといて。」
「で、でも呼んでくるって言っちゃったよ?」
「構わないって。『やっぱり居なかった』って言えばさ。そうだ、何なら一緒に散歩でもしてきたら?」
「え…わ、わたしが!?」
その言葉に思わず驚いて目を見開くゆかり。それを見たユキはおかしそうに言う。
「冗談、冗談。もう、ゆかりちゃんは真面目なんだから。学校なんて散歩しても面白いこと無いもんね。」
「そう、そうだよね…あはは…。」
そうに決まっているのだ。ユキが本気でそんなことを言うはずなどないのだから。
「まぁ、何にしてもめんどくさいから適当にあしらっといてよ。」
「そ、それはやっぱりまずいよ…。」
「そうだよ、先輩に対してその態度はないんじゃないか、新城君?」
と、背後から柔らかい調子で同意がある。ゆかりとユキが振り向くと北沢がすぐ後ろに立っていた。
「…結局勝手に入ってくるわけね。あら、北沢先輩、中等部の教室に一体何の御用事です?誰かに会いにでもきました?」
若干ジト目でユキが北沢に問う。
「随分含みのある物言いだな…。」
「気のせいですよ。」
言い合って互いに小さく笑う二人。
 ゆかりはそんな二人のやり取りをすぐ側で見詰めながら、心の中で深い深い溜息をついた。三人を関係付けるのは『英文学研究会』、学校の部活動である。元々内向的で人見知りの激しいゆかりは、その為か相当の読書家であった。勿論そんな性格の彼女だから、入学当初は部活動に所属するなんて考えもしなかったのだが、半ば引きずられる形でユキに連行され、気づいたら入部していたというのが真相だったりする。ゆかりも当初は驚いたのだが、快活明朗にしてスポーツ万能なユキは意外にも文学少女だったのだ。北沢はいつも誰にでも優しく、面倒見の良い高等部の二年生、そしてゆかりが心密かに想いを寄せている相手その人であった。が、そんな淡い恋心は届くはずも無く、引っ込み思案な気質の彼女は、現状では挨拶するだけで一杯一杯の日々。
 そんなゆかりの胸中に大きな大きな『気がかり』が出来たのは一週間程前のことだった。ユキと北沢が二人でいるところを目撃してしまったのだ。そしてその時、普段は男女問わず後輩は『苗字に君付け』で呼ぶ筈の北沢が、なんとユキを呼び捨てにしていたのである、それも下の名前で。ユキの方も先輩である北沢に敬語を使うことはせず、二人は英文学のことから、音楽やスポーツ、果ては昔話に至るまで、本当に楽しそうに盛り上がっていた。二人の付き合いは古いのだろうか、住んでいる所は近いのだろうか?そのことを思い出すと大きな不安と切なさ、そして嫉妬にゆかりは胸が張り裂けそうになるのである。ユキはいつでも良き友であり、これまでも何度となく相談相手になってくれたのだが、今回ばかりはどうしようもない。それで思い切って北沢当人に二人の関係を尋ねてみたりもした。ゆかりとしては全身全霊、最大限、ありったけの勇気を振り絞った。すると北沢はその問いに軽く驚き、それから酷く困った顔をした。…で、結局適当にはぐらかされて終わってしまったのだ。疑惑は募るばかりである。
「明日のことでしょ?」
「ああ、まぁね。」
 ふいに『明日』という言葉が耳に入り、ゆかりはびくりとして我に返った。明日は創立記念日で学校は休み。件(くだん)の一週間前の立ち聞きの際、二人が交わした『約束』についてもゆかりは耳にしてしまっていたのである、創立記念日に『ファン・ポート』に行こうという。ちなみにファン・ポートとは三年ほど前に隣町に出来た臨海遊園地で、更に余談ではあるが一押しは世界一の高低差があるという記録で認定されているジェットコースターだったりする。
「別にわざわざ来なくたってメールなり電話なりで済ませばいい話じゃないですか。」
「まぁ…そうなんだけど。」
素っ気無く言うユキに、困った様子で返す北沢。
「それで…何か変更でも?」
「いいや、特には…。」
「となると…やっぱり単に会いたいから?」
悪戯っぽい表情を浮かべて再度問うユキに、
「…うるさいよ。」
北沢は少しだけむすっとして早口で言ったのだった。

「はぁ…。」
 弱弱しく一つ肩で息をして、暮れていく夕陽を背にとぼとぼと独り歩くゆかり。いつもと変わらずユキは一緒に帰るよう誘ってくれたのだが、今日ばかりはどうしてもその気になれず『ちょっと用事があるから』と嘘をついて先に帰ってもらった。思い切って明日のことを訊いてみようか、北沢との関係を問い質してみようか、そう思ってもみたのだが、しかしもし彼女の口からはっきり肯定されてしまったら…。そう考えると怖くてたまらなかった。そうでなくても二人の関係は限りなく黒に近い灰色。…なんだか合わせる顔がない。
(やっぱり北沢さんもジェットコースターとかお化け屋敷とか…好きなのかな…。)
北沢に遊園地というのは些かイメージし難いのだが、彼が明日ユキと行くのもほぼ間違いのない事実。ちなみにゆかりはといえば、絶叫マシーンもお化け屋敷も大の苦手だった。勿論彼女だって人並みに女の子、遊園地でのデートに憧れたりもするのだが、いざ行ったところで、あれも無理、これも無理というのでは、一緒にいる方も楽しめないに違いない。やっぱり自分は駄目なんだ。そんなことを考えてますます沈んでいくゆかり。
「ぁ…?」
様々な想いが交錯し、渦巻き、気がつくと彼女の左頬に熱いものが伝っていた。慌ててそれを拭う。何となしに湿った手の甲を舐めてみた。やはりしょっぱかった。
(泣いているんだ…わたし…。わたしが…もっと…強い子だったらな…。)
と、その時、ゆかりは突然眩暈(めまい)を覚えてはたと立ち止まった。最初は錯覚かと思ったのだが、そうでもないらしい。すぐに立っていることもままならなくなり、思わずその場にうずくまる。治まる気配は全くない。それどころかますます酷くなっていく気さえする。と、意識はそこで途切れたのだった。


二、ゆかりの異変

「ん…うんん…ここは…?」
 気がつくとゆかりは倒れていた。半身を起こして辺りをきょろきょろと確認する。比較的遠く彼方まで見通しが利き、頭上を仰ぎ見れば青い空がある。…ということはどこかの屋上なのだろうか。格好はと言えば、紺のハイソックスと黒のローファーを履き、ブルーのタータンチェック柄のスカート、ブラウスにアイボリーのセーター、そして首元にはリボンタイをつけている感覚。早い話が学校の制服。ゆっくりと追憶の糸を辿ってみる。確か最後の記憶は夕方だった。学校が終わって、帰ろうとして、校庭に差し掛かった辺りで急にめまいを覚えて、それから——頭は妙にすっきりしているのに、そこから先がさっぱり思い出せない。ということはやはりあのまま気を失って一晩寝てしまったのだろうか。しかし、だとしたら校舎がまず目にはいるはずなのだが。そう思いつつ視線をすぐ近くに引き戻す。
「え…!?」
そこで彼女の表情が凍り付いた。たった今目にしたもので、一瞬にして自分の記憶に間違いないことが証明された。確かに、見慣れた、最近塗装工事をしたばかりの真新しい白色の建物が、校庭にいる彼女を取り囲む様に立ち並んでいたのである。ただしそれはとても小さかった。一番大きな本館でさえもせいぜい30cm程度の高さしかない。視線をぐっと下げて、小さな窓ガラスから中を覗き込んでみる。見覚えのある教室、見覚えのある廊下。まるで模型のように何もかもミニチュアサイズだが、確かにそれは彼女が普段通っている学校に違いなかった。そこからもう一度視線を持ち上げて辺りを見回す。とてもよく知っている町並みが広がっている。
(えっと…つまり…)
比較的容易に彼女は自分の現状を理解し、受け入れることが出来た。
(わたし…大きくなっちゃったの…?)
それにしても泣いて大きさが変わるなんて、不思議の国のお話じゃあるまいに…。

「ん…?」
 ふと手元に妙な感触を覚えて見下ろすと、校庭に鉄杭が打ちつけられており、左手が幾重にもチェーンで固定されていた。…左手だけ。よく見ればその手の周りには二足歩行で迷彩柄の小さな生き物が幾つも見える。勿論それが人であることは言うまでもなく、ゆかりが動き出したからであろうか、彼らは皆一様に固唾を呑んで彼女の方を見上げていた。
(なんだか『レミュエル』みたい…。)
何となくあるイギリスの小説を思い出すゆかり。主人公である船医が想像上の不思議な国々を訪れる物語、その最初に登場するのがこびとの国であり、そこで彼は身の丈12倍もある巨人となって活躍するのである。…が、手元にいる彼らの大きさから考えるに今の自分のサイズはそれどころではないようだ。或いは彼らも、本当のところはゆかりの全身を緊縛することを本懐としていたのかもしれない。…身体が大きすぎてチェーンが足りなかったのだろうか。とはいえ、こんな髪の毛のように細い鎖と、針のように頼りない小さな杭では、たとえ充分な長さがあったとしても、動きを封じられることはなさそうである。案の定、試しに軽く力を入れてみると、杭が抜けたのか、はたまた鎖が断ち切れたのか、あっさりと左手は解放された。同時にそれを目の当たりにした小さな人々の間に明らかに動揺が走る。そして一瞬の間があった後、彼らは何がしか叫び声を上げながら蜘蛛の子を散らすように彼女の手元から離れていったのだった。
(酷いなぁ…これじゃあ巨人っていうより怪獣扱いだよ…。)
そう思いつつも何故か悪い気はしない。日頃内気でオドオドしているという自覚があるゆかりにとって、この圧倒的に優位な感覚は新鮮であり、心地よくあった。
(怪獣だったら逃げ惑う人達を何の躊躇いも無く踏み潰しちゃったりするのかな。)
ちょっとした悪戯心から、のろのろと走っている小さな人々の上に、今自由にしたばかりの左手を掲げてみる。彼女の手が影を成し、彼らをまとめてすっぽりと包み込むと、それに恐れおののく小さな悲鳴が幾つも聞こえてきた。何だか嬉しくなる。
 その小さな人々は校庭内に停めてあった何台かの迷彩柄の車に分乗してその場を離れるつもりらしく、彼らは次々と車に飛び乗り、急発進させていった。その成り行きを上から見守っていたゆかりだったが、ふと思うところがあり、少し身を乗り出してそのうちの一台に手を伸ばした。人差し指と親指で車体を挟み込むと、走り出していた車はそれだけであっさり止まった。それでもどうにか逃れようとしているのだろう。アクセルをふかす音と共に校庭の砂を巻き上げるその様子は本当に一生懸命という感じで、それこそ手を離したら、そのまま一直線に走って正面にある塀にでもつっこみそうな勢いである。それでも彼女の指はそれを制するのにまるで力を必要としないのだから、少々気の毒にすら思えてくる。が、だからとて逃がすつもりはない。ゆかりはそのまま潰さないように力を加減しつつ高々とそれを持ち上げ、校舎の屋上へと下ろしたのだった。


三、ゆかりの尋問

 どうやらそれには四人乗っていたらしい。車から出てきた彼らは皆怯えた表情を浮かべてゆかりを見上げる。そんな彼らとは対照的にゆかりは面持ちも穏かに尋ねた。
「あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
自然に口をついて出るそんな言葉遣い。相手が年上でそれも初対面の男性、従来のゆかりならば確実に敬語を用い、声も小さく、或いは緊張から震えたものになってしまったかもしれない。しかし、今の彼女の心には大きな余裕があった。体格差、延いては力の差がそれを生んでいることは間違いない。
「今って何月何日の何時何分かな?」
ゆかりの用事はそれだけだった。単にそれが知りたかったがために彼女はその車を捉まえ、校舎の上まで引っ張り上げたのである。しかし答えは帰ってこなかった。それどころか、彼らは一瞬互いに顔を見合わせると、彼女を無視する形で突然一斉に走り出したのだ。
「あ…ちょっと…?」
恐らく校舎内に逃げ込もうとしているのだ。彼らが目指している方向から、すぐにそう解釈したゆかりは一度はそれを手で阻もう(はばもう)と考えたが、すぐに考えを直し、おもむろに立ち上がった。立つと視線は更に高くなり、視界の妨げになるものは何もない。遥か高みから見下ろすと、四つの小さな点がちょこまかと一方向に向かって移動しているのがわかる。校舎は大体向こう脛程度の高さか。ゆかりは左足を前へと滑らせた。爪先が校舎へとぶつかり、大した抵抗を感じることもなく一階部の壁とガラスを破って沈み込んでいく。そのまま更にそれを押し進めると、程なく足の先っぽが向こう側の壁をも突き抜けるのを感じた。その行動は振動となって屋上にいる4人にも少なからず伝わったのか、彼らの動きも止まる。よく見れば転んでいた。が、すぐに起き上がると、性懲りも無く扉の方へと、恐らく全速力で移動を再開した。
「もぉ…しょうがないなぁ…。」
ゆかりは校舎を足で貫いたまま呆れ半分の口調でそう呟く。しかし彼女の方としても、何もその衝撃で彼らの足を止めようとしたわけではなかった。より確実に彼らを逃がさない方法。それは…
「それっ」
彼らが出入り口へと程よく近づく、その頃合いを見計らってゆかりは軽くその足を蹴り上げた。彼女のローファーは五階層分の床と天井をぶち抜き、難無く屋上を突き破る。それに伴って、壁やら、窓ガラスやら、机やら、椅子やら、黒板やら、テレビやら、ロッカーやら、消化器やら、彼女の足の上にあったありとあらゆるものが一緒くたになって天高く舞い上がる。彼女が足を潜らせたその場所はちょうど職員室だった…などということは今のゆかりには至極どうでもいいことで、実はそこはちょうど屋上の出入り口の真下だったのである。余談だが、ゆかりがわざわざ手を使わずに、こんな乱暴な方法を取ったのも、彼らが扉付近に達するまで少し待ってやったりしたのも、ひとえにただの気まぐれであった。もう少し言えば、ちょっとした力の誇示と、後はほんの可愛い悪ふざけ、とでも言ったところなのだろうか。
 が、そんなゆかりの『ちょっとした』だの『可愛い』だのも屋上を必死に走る四人にとってはたまったものではないに違いなかった。何しろ、もうあと幾許(いくばく)かで届きかけていた一縷(いちる)の望みである扉は、目前で人知を越えた信じ難い力によって、その辺りの屋上の床諸共(もろとも)にまるで噴火さながらに打ち上げられたのである。尤も届いていたのならば、彼らもついでに吹き飛ばされて、確実に絶命していたところなのだが。かくして大小数多の瓦礫が、雨霰となって辺りに降り注ぐ中、彼らにできることはと言えば、それらから身を守るべく必死に右往左往するのみであった。やがて、もうもうと立ち込めていた砂煙が晴れると、後には彼女の靴が通った軌道で校舎が削り取られ、彼らの眼前は高さ30mの絶壁となったわけである。
「はい、残念でしたー。」
ゆかりはそんな彼らに向かって楽しそうに言うと、足を引き戻し、再び校舎の脇に屈み込んだ。
「ねぇ、誰も時計持ってないの?それともゆかりに意地悪しているのかなぁ?」
少々拗ねた様に言ってみる。
「………。」
最早唖然として口も聞けない、身動き一つ取れない男たち。
「…ねぇ?」
余りに動かないし、反応もないものだから、ゆかりは少々不安になって、人差し指でそのうちの一人を軽くつっついてみた。彼女の指先に微かに何かが触れる感覚があり、同時に小人のほうは後ろに吹き飛ぶ。そんな大袈裟なリアクションにゆかりは思わず呆れ顔を作るも、ふらふらとしてなかなか起き上がることが出来ずにいる様子を見るに、彼女が思う以上に大きなダメージがあったようだ。仲間の一人が助け起こそうと彼に向かって走り出した。ゆかりは今度はその背中を人差し指で少し押してやる。案の定、彼もまた軽々と突き飛ばされ、うつ伏せになって倒れた。ゆかりがそのまま倒れている二人の上に人差し指と中指をそれぞれ乗せると、潰されてしまうとでも思ったのだろうか、それを呆然と見ていた残りの二人が慌てて指へと取り付く。二人がかりで一本の指を持ち上げようと懸命になっているようだったが、動かされる気は全くしない。
「…教えてくれたら手を退けてあげるよ?」
ゆかりはそんな懸命な彼らに視線を向けて、ゆったりとした調子で再度問いかける。
「……」
しかしやはり答えはない。
「…取り返しのつかないことになっちゃっても良いのかなぁ?」
そこで彼女は少し考えてから、若干含みのある言い方をしてみた。
「ご…5月27日の午前10時35分です!!た、ただ正確に秒までは仰られましても…」
すると四人の中で一番若い男が半分裏返った声で馬鹿丁寧な口調で叫んだ。やはりあれから一晩明けたようである。創立記念日、覗き込んだ校舎に誰一人見当たらなかったのもこれで納得がいく。それにしても何も時刻一つにそんなにかしこまって、しかも必死な形相で答えなくても良いのに。そう思いつつも、
「そっか、そっか。大体で良いんだよ、ありがとね。」
ゆかりは礼を言うと、約束通り二人を開放して手を引っ込めて見せた。そんな彼女の行為に大きな安堵を見せる四人になんだかおかしくなる。確かにゆかりは彼らからひとまず手を退けた。しかしその気になればいつでも彼女の手は彼らに襲いかかる。今よりもずっと強い力でねじ伏せることだって出来るのだから。
「あ、そうだ、もう一つだけ質問。」
とゆかりは思い出して再び彼らの方に視線を向けて言った。再び彼らの顔が緊張に強張る。
「ファン・ポートに行きたいんだけど、どっちにいけばいいのかな?」
「…というとあの海の遊園地…ですか?」
「うん。」
「そんなところに一体何の用が…?」
問われたゆかりは、途端に自分の顔が火照るのを感じ、少しだけ強く早口に言う。
「…!そ、そんなのあなたには関係ないでしょ。今はわたしが質問しているんです!」
「す、すみません。ファン・ポートでしたら先ずそこの28号線を右手方面に道なりに進んで、突き当りの川を渡ったところで左に折れて、それから川沿いに——…」
「………。」
男の中の一人が慌てて謝り、道順を説明し始めるも、ゆかりの冷ややかな視線に気圧されたのか、声は徐々に先細りになっていき、ついには黙る。
「……あ…あの…何か…?」
暫くの沈黙の後、おそるおそる問うてくる男の言葉には応えず、ゆかりはおもむろに右手で握り拳を作ると、屋上の彼らの車の上へと振り下ろして見せた。勿論彼女の力に抗うことは叶わず、拳は一瞬で車を叩き潰す…だけに留まらず、今度は上から下へと校舎を貫く。
「ひぃ!?」
上がる悲鳴。
「あのね…?」
顔をついっと近づけるゆかり。その動作が更に恐怖をかきたてたらしい。尻餅をついて、足腰立たずにいる彼らに、彼女はゆっくりと諭し聞かすように、優しく言う。
「何でわたしがちっちゃなあなたたちの都合に合わせなくちゃいけないのかなぁ?」
「…ど、どういう…?」
その口調と浮かべた微笑みとは対照的に、ゆかりは完膚なきまでに四人を威圧し萎縮させる。
「もう一度だけ聞くね?ファン・ポートは、どっち?」