聖女の言い分、事の真相

「……ここは…一体…?」
次に少年が目を開くと、そこは薄暗い洞穴の様な所だった。
砂とも岩とも異なる、不思議な感触を有した柔らかな、何だか肌触りの心地良い地面。
寝転がったままで天井を見上げれば、それには小さな隙間があるらしく、幾筋かの光が細く見えた。
「僕は…一体…?何が…どうなって…?」
頭の中はどうにもぼんやりと霧がかっていて、どうにも思い出せない。
何かとても痛くて、恐ろしいことが、あったような気がするのだが。
記憶の糸を手繰り寄せながら身を起こし、改めてきょろきょろと見回すと、
「あ…」
程なく斜め上方に、特別大きな光の塊を見つける。恐らくは出口なのだろう。
そう考えた彼は何気なくそれに近づき、外の様子を窺ってみる。
そして、その目に飛び込んできたものを認知し、同時に洪水のように急激に記憶が蘇ってきて、
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
少年はパニックを起こし、絶叫と共に尻もちをついたまま、わたわたと後じさりをした。
艶やかな金髪に白い肌、そして青色の瞳はこちらには向いておらず、
どこか遠くを眺めていたようだったが、それは間違いなくあの女の顔だったのだ。
既に暗がりの一番奥にまで逃げ込み、背中は壁についているというのにまだじたばたと足掻く。
気がつかれる前に少しでも遠くへ。あの恐ろしい巨人から出来るだけ離れる為に。
しかし、そんなことは所詮無駄であった。上げてしまった叫び声のせいだろうか。
唐突に自身を覆っていた天井が取り除かれ、大きな碧眼による注目がこちらへと落ちてくる。
同時に少年は混乱と焦燥の中で、自分の置かれている状況を理解し、ますます顔から血の気がひいた。
「て…てて…ての…ての…!」
何のことはない。自分が寝かされていたのは部屋ほども広さがありそうな、高く持ち上げられた掌の上、
背に当たっているのは折り曲げられて隙間なく並んだ彼女の四本の指、
そして上にかぶさって影を作っていたのは彼女のもう片方の掌だったのだ。
先のようにぞんざいに摘みあげられているというわけではないが、
それでもこんな状況で彼女から逃れることなど出来る筈がない。
「………」
彼女の薄紅色の唇が動き、何か言葉を紡ぎ出している。けれども、それは少年の耳にこそ届いても、
恐怖によって完全に埋め尽くされてしまっている頭の中までは達しない。
カチカチと歯を鳴らしながら、懸命にぶんぶんと首を横に振るばかりの少年。
途端に女の美しく整った顔が小さく歪み、眉を潜めたのが分かった。
それはとてもささやかな表情の変化、しかしたとえ微細なものであろうとも
機嫌を損ねたように見えた少年は、ますます恐れ慄きぶるぶると震える。
と、次の瞬間彼女がおもむろにこちらへと、空いている方の人差し指を突き出してきたのだ。
「ひ、ひぅあああああああっ!?」
間抜けな声を上げ、冗談のように震えて言うことの利かない手で、ナイフの柄を握ろうとする少年。
しかし、当然上手くいくはずもなく、またそんなものを抜いたところで、所詮どうすることもできないのだが。
そうしている間にも自身の顔の数倍もの太さがありそうな指先が、もうすぐそこまで迫ってきて。
彼は思わず固く目をつぶり、覚悟を決める。きっとこのまま頭をすり潰されるに違いないと。
「…………あ、あれ…?」
けれども、その覚悟に反して、いつまで待てども僅かな衝撃すら無く、
代わりにそれは、大きさとは裏腹に器用な動きを見せ、静かに頬を撫でただけだった。
それは心地良く、柔らかく、少しだけくすぐったく、少年の気持ちを静めていく。
その時になって彼はやっと気がついたのだ、その瞳の放つ気配が、先程とは全く異なっていることに。
「落ち着いた?」
「………」
まるで自身の全身を優しく包み込むような、慈愛に満ちたその目。
今度はしっかりと彼女の言っていることが分かり、無言のままこくりと頷く少年。
「そう……どこか痛むところはない?」
その言葉に少年の脳裏に瞬間的に全身を襲った激痛と恐怖を蘇り、一瞬顔を引きつらせる。
しかし、今改めて己の体に注意を向けてみると、小さな痛みはおろか、
これまで砂漠を歩いてきたことで溜まっていた疲労すら無くなっている。
「…う、うん…大丈…夫…」
そのことに驚きと戸惑いを禁じ得ない少年だったが、今度は声に出して応えながら頷くと、
「そう……よかった」
彼女は心からほっとしたような柔らかな微笑みを返してきた。
けれどもすぐにそれは影を潜めたかと思うと、その表情はとても真剣なものになった。
そして、両の掌が少年の足元で合わさったかと思った瞬間、
「ほんっとうに、ごめんなさい!」
彼女はその言葉と共に、深く、深く頭を垂れたのだった。
それはさながら御神体か何かを天に掲げて祈りでも捧げるかのような格好であり、
動きに伴って立っている彼女の両手が大きく揺れて急激に持ち上げられたことで、
少年は内心小さく狼狽してしまう。けれども、その動作が決して悪気のあるものではないことがわかったこと、
何よりそれに対してどう応えたらいいか分からなくて、半ばぽかんとして暫くそれを見詰めていた。
が、そのまま幾ら待っていても彼女の顔が一向に持ちあがる気配がないことに我に返り、声をかける。
「あ、あの…そんな…頭を上げて…下さい…」
対して、おずおずと顔を持ち上げる彼女の仕草と表情は、
先の荘厳にして冷徹なそれらからはおよそかけ離れたものであり、
何かを言おうとしているものの、なかなか言葉に出来なくて困っているという感じだった。
「…その…どう…して…?」
対して少年が次にぽつりと呟いたのは、そのような言葉で。
正直、その問いには明確にして特定の回答を求める意図は無かった。
どうして助けてくれたのか?
殺すつもりだったのではなかったのか?
それ以前にどうして自分を殺そうとしたのか?
そもそもあなたは何者なのか?
人なのか?魔物なのか?それとも神なのか?
勿論少年としても知りたいことは山とあった。
けれども少年の方としても何からどう尋ねたらいいものか、どうにも整理がつかなかったのだ。
それでもとりあえずこの重苦しい沈黙をどうにか払いたい、そんな少年の意図は叶ったのか、
彼女はそれをきっかけに、もじもじとしながら訥々と語り始める。
「えっとね…言い訳にしか聞こえないかもしれないけれども…私だって…ほら…これでも一応女…だし…」
その様相は如何にも恥ずかしそうで、声はそれなりに大きいものの調子は弱々しく、
元々色白だからなのだろうか、その頬ははっきりと分かるくらい、目に見えて朱に染まっていた。
「それで…あんなことをされたから…びっくりして…つい、カッとなっちゃって…よく確認もせずに…」
「あんな…こと…?って………あっ…!」
その言葉を小首を傾げて反芻した後、自分の行いに思い至って言葉を失い、固まってしまう。
言うまでもなく、彼女の服の中に潜り込んで、その尻に思い切り刃を立てたことだろう。
「こ、こちらこそ、ごめんなさい!…ま、まさか…その…こんな巨大なものが…その…
 あなたみたいな女の人だったなんて…全然思いも及ばなくて…。絶対魔物だと思っていたから…
 そ、それで…やっぱりナイトを志す身として、戦わなきゃって思って…」
すっかり恐縮してしまい、しどろもどろになって弁明するものの、
「そっか。キミはナイトになりたいんだ」
彼女は全くそれを責める風は無く、一度目をぱちくりとさせた後に小さく一つ頷く。
「え?あ、うん、まぁ…」
少年が戸惑いがちに応えると、彼女は柔らかい表情を湛えたままで更に続けてくる。
「いいのよ、謝らなくて。だってキミの取った行動は至極当たり前の…
 ううん、それどころか誇るべきものだったんだもの」
「へ…?」
「だって…そんな巨大な化け物が襲いかかってきたと思ったら、普通は逃げようと思うでしょう?
 だけど、キミは立ち向かおうとした。ノービス君なのにとても勇敢なんだね。
 きっと立派なナイトさんになれると思うわ」
「そ、それほどでも…」
自分のしてしまったことをそんな風に好意的に取られ、意図せず褒められたことに思わず視線を落として
照れ笑いを浮かべる少年。が、すぐに彼は表情を引き締めると、顔をあげてそれを否定した。
「あ、いや…違う、違うんだ…」
「ん?何が?」
「僕があなたにナイフを向けたのは…その…」
そこまで口にしたところでつい逡巡せずにはいられない少年に対し、
「ん?」
言って御覧なさい。そう優しく先を促すかのように彼女は小首を傾げて覗き込んでくる。
そんな尻上がりの相槌にも背中を押されて、彼は宝石のように美しい空色の双眸を、
真っ直ぐな眼差しでしっかりと見詰め返し、思い切って口を開いた。
「僕があなたにナイフを向けたのは、あなたが僕の命の恩人を殺したかもしれないから…なんだ…!」
「えっ…!」
一旦口に出してしまえば、もう後は野となれ山となれ。畳みかけるように更に問う。
「どうして…?どうしてハンターさんを踏み潰したの…?」
「そ、それは…!」
そして言葉に詰まって目を逸らすという彼女の様子に少年は確信した。
「やっぱり…ちゃんと分かっていたんだ…。気がつかずにうっかりとかじゃないんだね…。
 ねぇ、どうして?確かに…僕はあなたに失礼なことをしてしまった。
 怒られても無理も無いかもしれない…。でも、それでもあなたは僕をこうして許してくれた。
 だけど、あの人は…?あの人はあなたに何をしたの?」
彼女は暫く無言のまま少年を見詰めた後、その問いには答えることなく静かに口を開いた。
「そう…それで…キミは果敢にも私と戦おうとしたわけだ…」
一段低くなったその声が、僅かながらも先に自身に向けられた敵意の気配を彷彿とさせたものだから、
少年はどきりとして身構えた。考えてみれば、自分の命は未だに文字通り、彼女の掌の上なのだ。
「特に何かされたということはないわ…って言ったら?
 ただ、私がそうしたいと思ったから、そうしたのって答えたらキミはどうするのかしら…?」
逆に余りにもあっさりと、事もなげに問い返されて、少年は言葉に詰まってしまう。
「……ぼ、僕は…!」
自分を助けてくれた人にもう一度刃を向けるという不義理への躊躇い。
それ以前にそもそも、自分が彼女をどうこうできるわけでもないという無力感。
そして何より最も大きく、そして正直な感情、即ち死に対する絶対的な恐怖心。
挑んだところでまともな戦いにならないことは目に見えているし、
たとえそうであったとしても、彼女の機嫌を損ねてしまえば、今度こそ殺されてしまうかもしれない。
「僕は…きっと…あなたを許さないと思う…」
けれども、それでも、自分を誤魔化すことは出来ない。正しいと思う道を選び続けたい。
葛藤の末に小さく全身を震わせながら、精一杯声を絞り出す。
「ふーん…?」
すると彼女は微かに目を細めてそう一言発しただけで、それっきり口を閉ざしてしまい、
代わりに正面から真っ直ぐに据えられた瞳は少年の全身に重くのしかかってきて、息が詰まりそうになる。
けれども、もしここで目を反らしてしまっては、何だかいけないような気がして、
逃げ出したい気持ちを懸命にこらえて見合うこと暫く。不意に彼女の唇がふいっと緩み、
伴って張りつめていた辺りの空気が柔らかくなったような気がした。
「本当に、キミって人は…素晴らしいナイトさんになりそうね」
そんな言葉と同時に彼女の上へ上へと遠のき始める。
少し遅れて少年は自分が乗せられている掌がゆっくりと下降していることに気がついた。
「キミは真実なんて知らなくてもいいんだし、知ったところで意味はない。
 私もどう思われたところで結局同じとことだから…別に構わないのだけれども…」
やがて移動が止まると、降りるよう求めてくるように掌が微かに傾く。
促されるままに降り立つと、そこでもまた弾力のある不思議な感触が足裏に伝わってくる。
「ここは…」
これまでの手の上と比べるとかなり広くあるものの、そこはまだ砂の上ではなく、
代わりに足下に広がっているのは赤色の、中心には大きな十字架が描かれた絨毯であり、
そのことから自身が下ろされたのは彼女の正座をした太腿の上だということを少年は察する。
とは言え、それでもまだまだ大地は遠い。故郷の町を思い返して比べてみても、
この高さに及ぶのは、せいぜい町の中央に鎮座する王城くらいのもので、
きっと町の中にある殆ど全ての建物を眼下に見ることが出来るのではなかろうか。
そんなことを考えながら辺りを見渡す少年の、その背後上空から、引き続き声は降ってくる。
「幾ら何でも小さなナイトのタマゴさんの清らかな義の心に泥を塗ったままで
 フタをしてしまうっていうのはやっぱり何だか忍びないものね…」
「へ…?フタ…?ってどういう……?」
その真意が理解出来ず、尋ね返そうと顧みれば目の前一杯に断崖の様に
高く、広く、彼女の上半身がそそり立っているばかりで、
その大きさと近さが相まって、最早思い切り顔を持ち上げても、その表情を窺い知ることは出来ない。
そんな彼の疑問をよそに、広大な太腿の上に自分を置き去りにした掌は、
そのまま少年の上空を通過して、膝の向こうの地面へと達し、おもむろに砂を掘り返し始めたのである。
一体何をしようとしているのだろう?少年もまた落ちないように注意を払いながら、彼女の膝先まで行ってみる。
「ちょっと待っててね。えっと…確か…この辺りに…」
そんな呟き声とともに動かされる両手はさながら子供が砂遊びでもしているかの様であったが、
混ぜ返され、かき分けられる砂の規模はまるで桁違いであった。
そうして、やがて、それはそれは大きい、家が一軒丸々埋葬できてしまえそうなほどの穴がそこに穿たれると、
「あ…!」
その中心の奥深くからそれが彼女に摘まみ上げられるのと、少年が声を上げたのはほぼ同時だった。
地中から掘り出されたもの、それはあのハンター…のなれの果てだったのだ。
それっきり声が喉に貼り付いて二の句が続かなかったのは、ひとえにその余りの惨たらしさからだ。
視線の先で如何にもぞんざいに二本の指で挟まれたそれは、先の凄まじい力と質量による一撃で、
無惨にも拉げ、左腕と右足が根元から無く、左足も今にも取れかかってぷらぷらと揺れていた。
一体どうしてこんなことを。改めてその真意を知りたく、振り返って見上げる。
ちょうど彼女が覆いかぶさるように前傾姿勢になっていることもあって、今の表情はしっかりと分かった。
微笑。目が合った彼女は穏やかに微笑んでいたのだった。意味不明。理解不能。
どうして?こんなにも酷いことをしたのに、どうしてそんな顔でいられるのだろう?
それから、まるで『見て』と言わんばかりに、彼女の視線が自分から外れて
再び背後のハンターに移されたのがわかり、少年もそれに釣られて、血の気の失せた顔を力無く正面に向け直す。
そんな少年にまるで追い打ちをかけるかのように、今度は彼女のもう片方の手が彼へと迫り、そして、
「………………!!」
少年はもう直視できず、思わず目を固く閉じて、俯いてしまっていた。
けれども、その直前、視界の片隅でその人間離れした蛮行がはっきりと見えてしまっていたのだ。
形の良く綺麗な人差し指の爪の先が、ハンターの背中へと突き刺さったと思うと、
まるで獰猛な肉食獣が群れで獲物に襲いかかるかのように、
残りの親指と人差し指が一斉に取り付き、四本の指があっという間に彼の胴を胸辺りで、
捻じちぎり、真っ二つに引き裂いてしまったのである。
その拍子に取れかかっていた左足が、ついに胴から離れて、砂の上に落ちていったが、
それは彼女にとって、とても些末な、どうでもいいことのようだった。
「………何て……こと……を……!」
少年乾いた唇を懸命に動かし、掠れた声でそう呟くのがやっとだった。
既にハンターが事切れているのは間違いないだろう。しかし、それにしてもあまりに惨過ぎる仕打ちだ。
「ほら、ね?」
それなのに背後から聞こえてくる声は先とまるで変わらず、如何にも事もなげな軽い調子。
少年は骨の髄まで恐怖を感じ、全身の震えが止まらなくなっていた。
勿論最初も恐ろしかった。それは余りに大きかったし、あからさまに自身へと敵意を見せていたから。
でも彼女が優しく笑ってくれて、攻撃してきたことも真摯に謝ってくれて、
だから彼女は確かに巨人ではあるけれども、もしかしたら自分と同じ人なのかもしれない思い始めていた。
それなのに何で?どうしてこんな酷いことを?
「あ、ご、ごめんね…。そっか、そうだよね。最初にちゃんと説明しなきゃダメだよね。
 これ、人じゃなくて人形なのよ?…って、こんなに離れていたら、よく見えないかな?」
呆然と立ち尽くしていた彼が我に帰ったのは、掌がゆっくりと近づいてきていることに気がついた時だ。
「ひっ…ぐ…う、うわあああっ!」
そこに乗せられているであろうものに思い至ると、少年は子供のひきつけの様な奇声を漏らし、
狂ったような悲鳴と共に、踵を返して遮二無二なって全力疾走する。
逃げるアテなどあるわけなどない。分かっていても、そうせずにはいられなかった。
太腿の中程まで来たところで、柔らかく弛んだ足元の赤い布に足を取られて転んでしまう。
背後に感じる大きな気配に、慌ててがばりと身を起こして睨み付ける様に見上げれば、
すぐ斜め上空にまで迫ってきた手の甲と、更にその上から覗きこんでくる心なし曇った笑顔。
「ね、ねえ、落ち着いて。嘘じゃないんだよ?本当に人じゃなくてただの人形だったんだよ?
 た、確かに一見すると人にしか見えないかも知れないけれども、でも、本当に、本当に違うんだよ?
 北の隣国のリヒタルゼンっていう町にある生体工学研究所で、
 一時期禁忌の知識と技術を用いて研究、開発されていた禁断の半自律型自動人形…」
一生懸命という様相で、そしてどこか諭すような口調で説明してくる彼女だが、殆ど耳には入らない。
しかし、それでも碧く澄んだ澄んだ双眸に映る悲しみの陰りが、ほんの僅かながら彼の心に余裕を生み、
辛うじて『人ではなく人形』という一フレーズのみ、聞き取ることが叶う。
とは言え、それでもやはり、いきなりそんな突拍子も無い話は受け入れられるわけもない。
大サソリと対峙し救われた時、すぐ間近で見たハンターは、確かに人の形(なり)をしていたのだ。
それに、彼女の話が真実であり、そのハンターが人形とやらであったとしても、
少年からすればそれは等身大の存在なのである。尻込みしない筈がなかった。
「……………」
そうして、そんな少年の態度と表情に、彼女もまた漸くその心持ちを汲みとったのだろう。
暫く何がしかを説明し続けていた彼女だったが、不意に口をつぐんで言葉を飲むと、
その代わりにこの上なく寂しげにふっと小さく息を吐いたのが分かった。
「…そっか…そうだね…。怖くないわけ…無いよね…。
 これが人じゃないってことをちゃんと確認してもらえれば誤解も解けるかなって思ったんだけど………
 ごめん、無神経だった………」
そんな詫びの言葉と共に、おもむろに彼女のもう一方の手が、降ってきて
未だに立ち上がれずにいる少年の上にすっぽりと、まるで蓋でもするかのように覆いかぶさった。
あのハンターの胴をあっさり切断した、剛力と残忍さを兼ね備えた彼女の手、
だからこそ、自分も潰されると思い、少年は迫ってくるそれに恐れ慄く余りに大声を上げそうになった。
けれどもどうしてだろうか、そんな恐怖を覚えたのはほんの一瞬だけで、
掌によって包まれた、その空間は何だかとても心地よく、みるみるうちに安らかな気分になっていく。
「ごめん、本当にごめんね…。でも、もう大丈夫。怖いのはもうおしまいだから。
 後ほんの少しだけ我慢してね?今すぐに…」
暗闇の向こうから聞こえるそんな優しい声は、微かに震えているような気がした。
抱いた恐怖や不安は、まるでその闇に溶け出て、吸い込まれていくかのようにどんどん小さくなり、
驚いたことにその根幹部分、即ち少年がたった今見たもの、体験したことまでもが
急激に色褪せ、風化し、消えていこうとしている。一体自分は何をそんなにも怖がっていたのだろうか。
どんどん曖昧になっていく記憶。鈍っていく思考。伴って襲ってくる強烈な睡魔。
このまま目を閉じたら、どんなにか気持ちが良いことだろう。けれども、
「ま、待って!」
落ち着きを取り戻した少年はその安らぎ誘惑に抗って、そう叫んでいた。
それに驚いたように周囲を取り囲んでいた闇にぴくんと震えたような気配があり、
少年は失いかけていたものを取り戻す。彼は闇の中で四つ這いになったままでもう一度叫んだ。
「ねぇ、待ってよ!ちょっと驚いただけなんだよ!お願いだから、ちゃんと確認させて欲しい!」
「え…!で、でも…」
掌は尚も少年を包み続ける。きっと力ずくで退けることは到底叶わないだろう。
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
「そ、そんなに無理しなくても…」
「違うよ!僕自身がちゃんと見たいんだ!そうしないといけない気がするんだ!
 だって、そうじゃないと…そうしないと…」
このままでは彼女は本当に人を殺した化け物以外の何者でもなくなってしまう。それも自分の思いこみで、だ。
けれども、幾ら心から彼女の言葉を信じようと自身に言い聞かせても、それだけではダメなのだ。
どうしてもあのハンターの亡骸を直接見て、自ら納得しなければ。
掌の向こうでは、尚も暫く逡巡の気配があったものの、
「………ん、わかった」
言葉と共に、やっと視界が開かれる。
「でも、もし、恐くなったり嫌になったりしたら、いつでも言ってね?無理はしなくて良いんだからね?」
少年はまだ微かに震える足に喝を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
見上げれば、僅かに半身を退いて、心配そうに見下ろしてくる青い瞳と目が合う。
きっと自身のすぐ背後には、既にあの二つになったハンターが置かれていることなのだろう。
彼女は急かそうとはしない。ただじっと少年のことを待ってくれている。
彼は大きく三回深呼吸をすると、ついに意を決して勢い良く振り返ったのだった。

「これって…!本当に…!?」
無造作に転がされた二つの塊。流石に目に入った一瞬だけは息が止まった。
けれども勇気を振り絞って凝視すれば、それがおかしいことは一目瞭然であった。
勿論少年に人体に関する専門的な知識があるわけではない。
切断された人の胴を見たことだって、当然あろうはずはない。
けれども、それが明らかに『異様』であることくらいは否応無くわかってしまうのだ。
そこには『命』の気配も残り香も全くなかった。顔は行き違った時と寸分違わぬ無表情のまま。
思い切って覗き込んだその断面は、全体的に白っぽくて、血など一滴たりとも出ておらす、
その代わりに言語なのかもしれないと思しき点と線の組み合わせの羅列がびっしりと書き込まれていた。
続いておっかなびっくり手を当ててみると、それは思いの外硬く、ざらつき、乾燥していて、
肉の質感とはおおよそ似ても似つかない乾いた手触りが伝わってくる。
「本当に…人間じゃない…?」
信じられない面持ちでひきちぎられた胴を見て、少年はもう一度確かめる様に呟いた。
「ええ」
上からそれを首肯する彼女の声がある。
「外観、質量は正しく人そのもので、強度にしても若干人より頑丈なだけで殆ど変わらない。
 だけど、決して人ではないモノ。骨と肉で構成されているわけでも無ければ、血も流れていない。
 思慮も感情もなく、ただ、与えられた命令をこなし続けるだけの人形よ…」
『人と同程度の強度』恐らく何の気なしに呟いた言葉なのだろうが、
たった今それを難無く引き裂いた彼女の口からさらりと発せられると、どうしても複雑な気分になってしまう。
が、すぐに彼はそれを振り払って気を取り直すと質問を続ける。
「だから…殺したっていうの?…あ…いや、壊した…て言うべきなのかな?」
「ええ、そうよ」
なるほど。確かに彼女は人ではないとしっかり知った上で、それを踏み潰したのだ。
けれども、やはり彼女の行動には納得できないところがあり、小さく唸ってしまう少年。
「…?まだ信じられない…?あ、そうだ。何なら頭部も潰して…」
「い、いいよ!」
少年は慌てて見返り大きく手を振る。
幾ら人形だと理解しても、すぐ目の前でその大木のような指先によって、
首から上が押し潰されるなどという光景は、絶対に見ていて気持ちの良いものではないだろう。それに、
「そういうのじゃないから」
「じゃあ、何?」
「えっとさ、この人…じゃなくてこの人形は、僕を助けてくれたんだよ?
 魔物に襲われて、もう少しで、食い殺されそうになっていたところを…だから…
 だからさ…幾ら人形だからって…何もこんな風にしなくても良かったんじゃないのかなって…」
「残念だけどそれは違うわ…」
すると彼女は少し眉をひそめ、申し訳なさそうな顔になると、ゆっくりと横に首を振った。
「これはただ主の単純な命令を忠実に遂行して、魔物を狩っていただけ。決してあなたを助けたわけじゃないの。
 だから、もしあなたが矢の軌道にいたら、その時はたぶんあなたも一緒に…」
「あ………」
対して少年もまた言葉を失い、ふと思い出しては思わず自身の右耳を撫でる。
今や傷はすっきりと消えていたが、確かにハンターの態度には有無を言わせぬものがあった。
「で、でも…でもさ?魔物を退治し続けるっていいことなんじゃないの?
 そりゃ…僕はたまたま居合わせて、巻き込まれそうになったけど…」
けれども彼女は金色の髪の毛をさらさらと揺らして、今一度首を横に振った。
「ダメなのよ。この力は…人が手を出していいものではないわ。
 これは人を堕とし、心を殺し、やがては世界を破綻させてしまう忌まわしき業…
 世界の理に反する、絶対的背徳なの」
彼女の口調は静かなものだったが、顔つきは厳しく、怒っているように見える。
「え…と…」
「それにね、魔物だって生命なのよ?それを奪うという行為を、まるっきり人任せに…
 いいえ、それどころか事もあろうに魂の無い人形に任せるなんて…
 幾ら魔物が相手だと言っても礼に欠いている。…そうは思わない?」
「…ごめんなさい。よく…わからない…」
少年は少し迷ってから、結局正直に答えることにした。
そう答えた上で、それでも漠然とではあるが、思ったことをおずおずと口にする。
「けど、何ていうかな…やっぱり、ズルはいけない…んだよね?」
どこか顔色を窺うような物言いと態度になってしまったのは、彼女が怖かったからではなく、
単に自分がまるっきり的外れなことを言っているかもしれないという思いから。
「ん、正にその通り」
しかし、幸いにもそれは見事に的を射ていたのか、彼女は満足げに大きく頷く。
「だからね、私はこうして世界を蝕む毒虫を駆除しているの」
彼女が自分に対して口にした『人形』という言葉は、比喩でも何でも無く、正にそのままの意味だったのだ。
「そっか…それでさっきは僕も人形と勘違いされて…」
『駆除』という冷たい言葉と、自分への非情な仕打ちが容易に結びつく。
もっとも、そんな言葉もロクに通じない、思考能力も無い人形である筈の自分に対して、
あんなに感情的な態度を取られたのは、言うまでもなく、自分が彼女にしてしまった行いゆえだろうが。
けれども、そんな彼女の厳格さ、非情さはあくまでも相手が人形であったならば、のことだ。
意識が無くなるその直前、最後に見た彼女の表情を少年は思い出す。
そんな人形が大量に血を吐き、それによって人だと分かった時には、さぞ彼女も慌てふためいたのだろう。
「うん…でもね、考えてみたらノービス君の人形なんているわけないことくらいすぐにわかることで…」
まだ気にしているのだろう、そんな言葉と共に勢いを失っていき、
しおらしく肩を落とす彼女の姿は、見ていて気の毒なくらいで、何だかこちらのほうが心苦しくなってしまう。
「も、もういいから、そんなに落ち込まないでよ。誰にだって間違いはあるものなんだしさ」
「…ありがとう、優しいのね」
「そ、そんな…大したこと………あ…!」
と、そこで思い出して少年は居住まいを正すと、彼女の太腿の上で逆に深々と頭を下げ返した。
「むしろこちらこそ、だよ。本当にありがとうございました!」
「へ?な、何が…?」
対して彼女はキョトンとする。
「傷、治療してくれたんだよね…?」
すると彼女は合点がいったようだったが、けれどもすぐにとてもバツの悪い顔を見せた。
「…でも…ほら…それって…元々私のせいだったわけだし…」
「ああ…うん、まぁ…そういう部分もあったかもしれないけど…でも僕、おねえさんと会う前から怪我してたし。
 それに、もうへとへとにくたびれて、倒れそうだったんだよ。だけど今は凄く調子いいから…」
実際これはおべっかなどではなかった。大サソリに対峙した際に受けた傷は勿論のこと、
砂漠を歩き続けたことによる疲労はすっきりと抜けていたのだ。
「これっておねえさんのお陰なんでしょう?だから、ありがとう!」
対して釈然としないのか、少しの間困り顔で小さく唸っていた彼女だったが、
もう一度重ねて少年が謝意を伝えると、彼女は相好を崩し、
「うん、どういたしまして!」
そうしてとても嬉しそうな、飛び切りの笑顔を見せたのだった。



「あの、ね…。良かったら…なんだけど、もう少しだけお話したいな」
そのような申し出があろうとは、よもや思いもしなかったが、
遠慮がちに、そう言ってくる彼女に、少年は二つ返事で応じることにした。
ただ、その前に出来れば喉の渇きを潤したい。そう少年が訴え、移動することとなったのである。
但しその行き先は、先に彼が見つけた、あの最寄りのオアシスではなく、もっと遠く離れた場所だった。
「あー…えっとね、あのオアシスだとちょっと小さすぎて…私が水を頂いたら枯れてしまうかもしれないから…」
それでも、こんなスケールの大きな彼女だから、その移動行程はものの十分とかからなかったように思う。
一体自分ならばこの道のりにどれほどかかることだろう?そんな疑問も一瞬は頭を過ったものの、
彼女のやや控えめに踏み出した一歩だけでも、自身の一体何歩分になるのか、想像もつかない。
しかも、彼女には障害となるものも無いのだ。例えば自分ならば、比較的緩やかな傾斜を求めて岩壁伝いに歩き、
その坂道をえっちらおっちらと登り、今度はそこから下りる為にまたなだらかな下り坂を探す、
そんな回り道必至で越えねばならない様な、台地状の起伏でも、彼女なら少し足を持ち上げるだけで、
それこそまるでちょっとしたような段差か何かを上って降りるかのような動作で、
事もなげに真っ直ぐに突っ切って進んでしまうのだから、もう比べようもない気がしてくる。
それにしても立ち上がった彼女の掌の上から見渡した景色は、それはそれは壮観だった
こうして見ると砂漠というものも、なかなかどうして雄大で美しいものだ、なんてことまで思ってしまう。
つい先程まで砂に足を取られ、チリチリと背を焼かれ、魔物の気配に脅えながら
神経を尖らせ、削りながら歩いていた過酷な環境に対して
そんな余裕綽々の感想を抱いてしまうのも、ひとえに彼女のお陰だろう。
何しろ座っているだけで、少年の歩く何十倍ものスピードで進み、
彼女の気遣いによって掲げられたもう一方の手は、少年の上空で日傘の役割を果たしてくれている。
そして何よりも大きいのは彼女の絶対的な庇護だった。
これほどの高さにまで襲いかかってくる魔物などいようはずもないことは言うまでもないことだが、
それどころか、規則正しくズシン、ズシンという重々しい低音を響かせている彼女の靴の周辺を見れば、
先程自分を苦しめたあの大サソリの魔物が、まるで小虫のように小さく、
あわや踏み潰されそうになっては、ちょこまかと逃げ惑っているものだから、気の毒にすら思えてくる。
そう、彼女の歩みを阻めるものなど、この砂漠には何一つ存在しないのだ。
と思いきや、その途端に彼女がはたりと立ち止って、おもむろに屈みこんだものだから、
臓腑が浮き上がる様な感覚と共に、少年自身も一瞬宙に投げ出され、
思わず間の抜けた悲鳴を小さくこぼしながら、掌の上で無様に尻もちをついてしまう。
幸い彼女の注意は足元の方に向いていたようで、醜態に気づかれずに済んだものの、
一体これは何事だろう、と少年もまた彼女の視線が向いている方へと目をやる。
すると、ついさっきまで自身の上に陰りを作ってくれていた右の手が、
いつの間にか地面へと伸びていて、そして何かを捕まえたらしかった。
「知っているかしら?デザートウルフ」
軽く握られ、少年の方へと差し出されてくる拳。その中にじっと目を凝らせば、
指の隙間から濃茶色の獣の姿を垣間見ることができる。旅立ったばかりの彼には勿論初見の魔物。
それはとても大きく、彼の身の丈に勝るほども体長がある、いかにも凶暴そうな大きな狼で、
屈強な指の檻に吠えかかり、全身で体当たりをしたり、牙を立てたりしている。
「ほらほら、ものすごく暴れているでしょ?この子達、とっても獰猛なの」
そんな攻撃を別段意に介する風も無く、軽い口調でそんな説明する彼女。
しかし、改めて狼の様子を観察すると、どうもそれは戦おうとしているのではなく、
助かりたい一心で、必死になっているように見えてきて、少年は思わず何とも言えない表情が浮かべてしまう。
「デザートウルフはね、この辺りに数多く生息していて、縄張り意識がかなり強いわ。
 下手に近づくと群れを成して襲いかかってくるから、キミも気を付けないとダメだよ?」
言われて辺りを見回せば、なるほど、確かに。十頭余りの狼の存在に気がつく。
けれども、そんな彼女の言葉とは裏腹に、狼達には襲ってくるような気配は全くなく、
かなり遠巻きにこちらの様子を窺っているだけ、そんな感じである。
もしかしたら彼等は仲間であり、囚われとなっている狼は逃げ遅れたのではないだろうか。
或いは単に彼女の気まぐれによって、不運にも選ばれてしまっただけなのかもしれないが。
そうして改めて件の狼へと注意を戻せば、つい先程まで暴れていた筈のそれはもうすっかり大人しくなっていて、
「後はえっと………そうそう、こんな環境で生きているだけあって、炎に強く水に弱い。
 うん、こんなところかな。…って…あ、あれ…?少し強く握り過ぎた…?」
彼女もまたその様子に気がついたらしく、些か慌てた様子で手を開く。
狼は尾と耳が垂らし、ぺったりと腹ばいになって、まるで死んだように動かなくなっていた。
いや、よくよく観察すれば、小刻みにぷるぷると震えているのが分かる。
そんな掌の上に伏せたまま殆ど身動きの無い獣を、折り曲げた親指でそっと撫でる彼女。
対して茶色の獣は一度ぶるりと大きく全身を揺らし、まるで媚びるような目で見上げた。
「あ、動いた、動いた」
それを見てほっとしたような顔をし、どこか無邪気な、子供の様な反応をする彼女。
一方の少年は、相手が獣、それも魔物だというのに、その気持ちが痛いほど理解、共感できてしまい、
密かに苦笑いを禁じ得なかった。それから彼女が掌をそっと下ろして傾け、狼を解放してやると、
その角度が些か急過ぎたのか、はたまた何かを戸惑っているのか、
狼はたたらを踏む様にとととっと二、三歩進んで立ち止まった後、今一度彼女へちらりと視線を向けた。
それから案の定というべきか、それはもう脱兎の如く、
尻尾を巻いて仲間と思しき集団へと駆け寄り、連れだって一目散に走り去っていったのだった。
それをどこか微笑ましいという様な瞳で見送る彼女。
「あ、逃がしてあげるんだ…」
「うん、まぁ、ね…。特に悪さをしたわけじゃないし。………ごめんね」
「へ?あ…そんな…な、何で謝るの?」
独り言のつもりだったのに、彼女の耳に届いてしまったこと。
更には自身の言葉を非難と受け取られてしまったらしいことに大いに狼狽する少年。
「未来のナイトさんとしては、やっぱりモンスターを見逃すなんて、許せないんじゃないかなって」
「別に僕は…そんなつもりじゃ…。大体自分が戦ったわけでもない相手について、
 どうこう意見するのはおかしいことだと思うし…それに…」
確かに少々意外だったのは事実だが、決して彼女に文句を言いたかったわけではない。
むしろ少年はそんな彼女の対応に、心のどこかで安堵していたくらいだった。
実際彼女の前では、恐ろしい肉食の大狼も、まるきり形無しだった。
相対的な大きさも相まって、むしろその一挙手一投足は、極小の愛玩動物にすら思えた。
だから、少年自身としてもやはりあのまま握り潰すというのは、何となく違う気がしたのだ。
「それに…僕もこれで良かったと思う…かな…?」
そうして、そんな言葉に対して彼女が見せた穏やかな微笑みは、
少年は抱いた『何となく』を確信へと変える。やはりその方が『らしい』と思う。
たとえそれが魔物であっても、不要ならば殺生はしない。あらゆる命にその大きな慈愛の心を注ぐ。
それは正に彼がハイプリーストという尊大なる存在に抱くイメージそのものであり、
また同時に、これこそがこの人の本質なのだろう、とも。
優しくて温和で親切で。ただ、しっかりしているように見えて、
ほんの少しだけそそっかしいところがあるのかもしれない。
つい、そんなことを思ってしまい、少年は緩みそうになる頬を懸命に引き締める。
勿論自分が人形と間違えられたのも言うまでもないことなのだが、このレクチャーにしたってそうだ。
他意はなく、単純に知識も経験も乏しい自分の為に、良かれと思ってやってくれたことで、
また慈悲深い彼女だから、済んだ後にあの狼を逃がしてやったのだろうことも分かる。
ただ、幾ら命は取らないとはいえ、決して抗うことの叶わない圧倒的な力に、
いきなり問答無用で捕まるということの大変さにまでは、今一歩考えが及んでいないようで。
「あ、それからね、この子は白蓮玉。外観は…おかしいでしょ?
 どう見ても大きな目玉焼きなんだけど、これでも立派な悪魔なのよ。
 …と言ってもさっきの子とは違って大人しくて、こちらから攻撃しない限りは襲ってこないわ。
 属性は、何とこれまたこんな見た目に似合わず水。だから、弱点は…」
自分に対するそんな純粋な親切心に巻き込まれ、とばっちりを食らうその魔物。
なるほど、見れば見るほどフライパンつき目玉焼きで、表情どころか顔自体見当たらない。
それなのに指の間でハタハタともがくそれの、必死な様相がありありと分かってしまい、
少年は同情と共に、何となく申し訳ない気持ちをも抱いてしまう。
続いて彼女の方もちらりと盗み見れば、そんな魔物の動きを制することなど、まるで何でも無いのだろう。
楽しげに、それでいてほんの少しだけ得意げに喋り続ける、どこか少女の様な澄まし顔で。
少年は思わず苦笑を浮かべつつ、彼女の講釈に耳を傾けたのだった。