「まるで虫になった気分」

 8年前に初めてこの場所を訪れた時、最初に言った言葉がこれだった。
 それから毎年この場所に来ているが、毎回同じ言葉を口にしている。

 僕は今、広大な和室の片隅に座って、ぼんやりと宙を眺めている。
 
 西側の壁の天井付近には、まるで大型バスのようなエアコンが取り付けられている。
 そのすぐ下には、大型船のスクリュー以上に大きなプロペラのついた扇風機が鎮座している。
 テレビも競技場の大型スクリーン並みに大きい。
 部屋の中央に置かれているちゃぶ台は、高さ5メートル以上の巨大な四本の足に支えられ、たとえ人間が何百人乗ったとこでびくともしないほど堅牢に見えた。

 僕は、こてんっと横になった。
 遠くでヒグラシが鳴いている。

 僕の大きさは、この世界では10センチメートル程度しかないのだから、小さなセミでも怪獣に見えるのだろう。
 想像力を働かせていると次第に眠たくなってきた。瞼の重さに耐えきれず、僕はゆっくりと目を閉じようとした。
 その時である。
 
「ただいま!」

 快活な声が響くとともに、ガラガラという、玄関の引き戸を開ける音が聞こえてきた。
 どうやら、この部屋の主が帰ってきたようだ。
 
「相変わらず元気がいいな」と、僕は思わず笑みをこぼす。

 どすどすという大きな足音が響いた。
 廊下を歩きながら近づいてくるそれは、僕のいる部屋の前でぴたりと止まった。
 
 部屋と廊下を隔てている巨大な襖が、重たい音を上げながら動き始めた。そして、1メートルほど開いたところで、ゆっくりと動きを止める。
 寝ころんだまま僕が見上げると、襖の影から覗き込む大きな目が見えた。

 ぞくっと、背筋が凍りつく感覚を覚えた。
 その目の下にある大きな口の縁が、にぃっと歪んでいくのが見えたからだ。
 
「大変、小人が入り込んでる。退治しないと……ティッシュあったかな」

 わざと僕に聞こえるに言って、襖の後ろにいる巨大な影は、大きな足音を立てながら廊下を引き返していった。

「小人、退治……ティッシュ」

 僕の脳裏に、潰れた虫と、それを拭きとる巨大な手のイメージが浮かんだ。
 額に冷たい汗がジワリとにじむ。

「逃げたほうがいいのかな……」

 呟きながら、僕は体を起こした。
 しかし、ここは広大な部屋の中。
 逃げ場などないことに気が付いて呆然とした僕の背後で、どすどすという重たい音が響いた。
 
 僕はごくりと息をのむ。そしてゆっくりと振り返り、わずかに開けられた襖を見る。
 巨大な、四本の指が見えた。
 人間を軽々と摘み上げられそなほど、巨大な指である。 

 がりっ、がりっと、わざと数メートルごとに動きを止めながら、巨大な手は襖を開け始めた。

 恐怖が僕の身体を貫いた。足が震えて動けなくなる。
 息が荒くなり、うまく唾液を飲み込むこともできない。

 まるで、パニックホラーのフィクションを実体験しているかのような心地である。
 そしてこれがパニックホラーであるならば、僕は、恐ろしい怪物が初登場したシーンに出くわした、哀れな人間。
 その末路は……考えるまでもない。
 
 徐々に広げられている隙間から巨大な顔が見えた。
 目を細め、白い歯をちらつかせながら狂暴そうな笑みを浮かべている。

「ひっ」と、僕は思わず、乾いた悲鳴を漏らす。

 襖の隙間は5メートル程度になっていた。襖の後ろにいる巨人は、ゆっくりと足を差し入れ、勢いよく踏み下ろした
 畳がミシミシと悲鳴を上げる。がら、がらと、襖を開ける勢いが増す。
 僕の心音はいよいよ高まり、呼吸も、苦しくなるほど荒くなった。

 怖がるな。大丈夫。
 きっと、何かの間違いだ。
 きっと、分かってくれる。
 ガチガチと震え始めた歯をぎゅっと噛みしめ、僕はゆっくりと声を出した。

「ひさしぶり。げ、元気にしてた? しばらく会わないうちに、また大きく」

 と、僕がそこまで言ったところで、それを遮るよう、勢いよく襖が全て開け放たれた。
 恐ろしい轟音が耳をつんざき、僕の恐怖は絶頂を迎える。

 恐ろしすぎて涙が出てきた。
 もはや、口を動かしても声は出ない。
 まるで陸に上げられた魚のように口を開け閉めしながら、僕は固まった。

 足は勢いよく部屋に滑り込み、空気を渦巻きながら、轟音とともに、僕のすぐ隣に踏み下ろされた。

 あまりの衝撃に体が跳ね上がり、僕はしりもちをついた。
 その気になれば人間の一人や二人、一瞬で踏み潰せてしまうだろう巨大な足が僕のすぐ隣にあった。
 見ればそれは、こんがりと日焼けをしていて、じっとりと汗をかいている。
 ツンとした酸っぱい匂いが僕の鼻孔を刺激した。

 見上げれば、紺色のハーフパンツが見えた。
 さらにその上には、真っ白なTシャツが揺らめいているのが見える。

 僕の隣に下された足が、ミシミシと畳を踏みしめた。
 そしてすぐに、もう片方の足が持ち上げられ、すさまじい轟音とともに踏み下ろされた。

 悲鳴を上げそうになった口を押えて、僕は思わず後ずさった。
 巨大な足の持ち主は、ゆっくりと腰を下ろし始める。
 巨大な顔が、じわじわと近づいてきた。

 細められた目の端や、小さな鼻の頭につぶのような汗が浮かんでいる。
 口元からのぞいた歯は白く、日焼けした顔の肌とのコントラストで、とても健康的に見える。
 短く切りそろえられたショートカットの髪は、水に濡れてつやつやと輝いていた。
 顔立ちは整っているが、美人、というよりも可愛らしいく、ボーイッシュな外見とは裏腹に、すぐに女の子だと判断できる。

 僕は彼女を知っている。
 さらに言えば、僕は彼女に会うために、この部屋にいたのだ。

 彼女の名前は『如月なずな』
 年齢は15歳。中学生。
 趣味はスポーツ全般で、水泳が得意。
 活発で元気な僕の親友……のはずである。
 
「私の部屋に無断で上がり込むなんて、生意気な小人ね」
 
 僕の可愛い親友は、僕に向かって威圧的に声を掛けた。
 そして、ゆっくりと手を伸ばし、その太い指を僕に向ける。
 どうやら、僕を摘み取ろうとしているらしい。

「ね、ねえ、ナズ、僕だよ。本当に気付いてないの……?」

 僕は言った。声が震えていた。
 巨人はみんな耳がいいので、僕の声は聞こえているはずである。

 しかしナズは、僕の声を無視したまま、僕に向けて手を伸ばした。
 彼女の湿った手の平が僕の目の前に迫る。そして、その巨大な親指で、僕の首元を強く押した。
 僕はバランスを崩し、後ろに倒れた。
 
「うわぁ」と声を上げた僕の体を、ナズの小指、薬指、中指、人差し指が支えた。
 そしてそのまま、ゆっくりと僕を包み込み、彼女は僕を握りしめた。
 汗で蒸れて湿り気を帯びた、なんとも表現しがたい女の子の匂いが僕を包む。
 
 僕をつかんだナズ手は、ゆっくりと上昇を続けた。
 一応手加減をしているらしく、僕の身体は人の形を保っている。呼吸も詰まる程度だし、骨も折れていない。
 しかし生きた心地はしない。

 緩やかに上昇いていた手は、ナズの目の前で、ぴたりと止めれた。
 その大きな目に見つめられて、僕はカチカチと奥歯を鳴らした。
 少しでも抵抗しようと体中に力を込めるが、ナズの指はびくとも動かない。
 力の差は歴然で、僕はまさに、蜘蛛の巣にからめとられた羽虫のような存在だった。

「怖い?」

 と、ナズが問いかけてきた。
 僕は、小刻みに震える頭で、何度も頷いた。

「このまま、握りつぶしてあげましょうか?」

 僕はぶんぶんと首を振る。
 恐怖であふれてくる涙が飛び散って、ナズの指に落ちた。
 ナズは僕を睨み付けたまま、堪え切れない様に、小さな笑い声を漏らしていた。

「じゃあ、こんなのはどう?」

 言いながら、ナズは大きく口を開ける。
 真っ赤な口内は、たっぷりと唾液が蓄えられており、所々でねばねばと糸を引いていた。
 巨大な舌は、まるでそれ自体が意思を持っているかのように、グニグニと蠢いている。
 まるで、新鮮な果物を手にして、今にもかぶりつこうとしているかのようである。
 いや、まるで、ではない。 

「うそでしょ……や、やめ、助けて」

 僕は、絞り出すような声で、ナズに命乞いをした。
 ナズは僕を食べようとしている。

「嫌だ、助けて……ナズ、僕だよ、ヒロだよ……卯月まひろ」

 僕の声は、きっとナズには届いていないのだろう。
 ナズの口は、ゆっくりと僕に近づいてきた。
 彼女の白い歯が、とろとろと唾液を滴らせながら近づいてくる。
 
「ナズ!!」

 僕は、声を振る絞って叫んだ。
 ナズの口がぴたりと止まる。
 しかしそれは一瞬で、すぐにまた動き始め、僕のすぐ目の前にまでやってきた。
 唾液をいっぱいにまとった舌が、ゆっくりとせり出してくる。
 蕩けるほど熱い吐息が、僕の顔を包み込む。
 ナズの舌はゆっくりと動き、僕の頬をぺちゃりと舐めた。

「ひいっ」

 僕は悲鳴を上げる。
 唾液のツンとした刺激臭が、嫌というほど匂ってくる。
 ナズの舌は、そのまま僕の顔を舐め上げて、満足したように口の中に戻っていった。
 そしてそのまま、ナズは口を閉じた。 

「くふっ」と、彼女が声を漏らす。そしてすぐに、

「あははは」

 快活な声で、笑った。
 僕は、ぽかんと口を開けたまま、それを見ていた。
 混乱で頭がふわふわとしている。
 そんな僕に、ナズは、ねっとりとした視線を送った。そして、

「久しぶり、ヒロ。ねえねえ、怖かった?」

 クスクスと小さく笑いながら、いじわるな口調で言った。
 僕は、全身から力が抜けていくのを感じた。
 こてんと顔を横にして、半開きの口から魂を吐き出す。

「ナァズゥゥ……」

 満身の恨みを込めて、僕は声を出した。
 ナズは相変わらず陽気な笑い声を上げながら、ゆっくりと手を開いていった。
 拘束を解かれた僕は、まるでぐにゃぐにゃのタコのような気持で、彼女の手のひらの中に崩れ落ちた。

「冗談じゃない」

 ナズの手のひらで仰向けになって、息を整えつつ僕は言った。

「殺されるかと思った……本気で食べられるかと思ったよ……」

 それを聞いたナズは、僕を乗せた手をゆっくりと持ち上げて、自分の顔の前に持ってきた。
 そして僕と視線を合わせ、さも優しげに目を細めた。

「やだなぁ。私が友達を食べるわけないでしょ。私のことをいったい何だと思ってるのよ」
「その言葉、そっくりそのままナズに返すよ」

 本当に。
 ナズは、僕のことを玩具か何かだと思ってるのではないだろうか。
 少なくとも、僕は友達にこんなことはしない。
 そんな僕の思いを察したのか、彼女は少しだけばつが悪そうに目をそらした。

「そんなに怖かったんなら謝るわよ。ごめん。ところでヒロ……もしかしてあなた、お漏らししてないよね?」
「漏らし」

 僕は自分の股間に視線を移し、湿っていないことを確認した。
 すぐさま否定しなかったのは、完全に漏らしてないと自信がなかったから。
 それほどの恐怖だったのだ。
 
「してないよ!」
「そう、よかった」

 僕が声を上げて否定すると、ナズは、ほっと胸をなでおろした。
 その安堵した顔が、なんとなく腹立たしい。わざと漏らしてやればよかったか。
 いや、それでは僕のプライドが。

 そんなことを考えていると、不意に体がふわりと軽くなった。
 ナズが手を降ろし始めたのだ。
 僕は慌ててうつ伏せになり、身を縮めた。

 数秒間の急降下の後、彼女の手はゆっくりと止まった。

「ヒロ、降りて」

 ナズが言った。僕はゆっくりと立ち上がる。
 グニグニとしていて歩きにくい彼女の手のひらを踏みしめながら進み、僕は地面に飛び降りた。
 そこは、光沢のある木の地面。どうやら僕は、ちゃぶ台の上にいるらしい。

 問題なく立っている僕を見て、ナズは手をひっこめた。 
 僕は、両手を突き上げて、思いっきり伸びをした。
 強張っていた体がほぐれ、パキパキと心地の良い音が耳に届いた。
 そんな僕の様子を見ながら、ナズはちゃぶ台に肘をつき、頬杖をついた。

「おかえりなさい」

 僕を見下ろしながら、ナズが言った。
 僕は大きく息をつき、ゆっくりと彼女の顔を見上げた。

「ただいま」

 僕が言うと、ナズは満足げに笑った。

 遥かなるシャングリラ。ここは巨人の国。
 僕たちの住まう人間の世界とは、また違った次元の世界。

 人間代表の一人として、僕の、この国へのホームステイが決まったのが8年前。
 それ以来、僕は毎年、巨人の国を訪れている。

 決まってそれは7月終わりの5日間。
 やはり今年も平和な時間は過ごせなさそうだ。

 僕の頭上で笑うナズの顔を見上げながら、それでも僕は、きっと楽しい時間になると確信する。
 どんなにひどい悪戯をされても。
 どんなに生きた心地がしなくても。
 僕はこの巨大な少女に恋をしているのだから。