魔術師クロネコと巨大OL、怪獣退治の夜



 社会人になって三度目の誕生日を、茜は珍しくひとり静かに過ごした。例年通りなら、実家の家族とケーキを切り分けたり、地元の友達と馬鹿みたいにはしゃいだりしたのに、今年はそれをしなかった。いつものように会社に行き、あわただしく仕事をこなし、何時間か残業して帰る。疲れた身体を引きずるようにして歩き、眠るためだけに自宅に帰る。貴重な二十代の前後半をわかつ分水嶺は、しみったれた日常のまっただ中にあった。
 子供の頃は誕生日が純粋に楽しかった。ひとつ歳を重ねるだけで、今までより一歩大人になるだけで、明るい未来に近づいている感覚があった。けど大人になったいま、茜を取り巻く環境はきらびやかとは言い難い。都内の商社で働きはじめて二年半。薄給激務に怒りっぽい上司、嫌気のさすような仕事の数々と重なれば、誰だって気分も落ち込む。日に日にやつれていく同僚達を見ていると、私はこのままでいいのだろうかと不安になる。
 帰宅ラッシュの中央線。快速電車は三鷹で特急をやり過ごし、延々と続く高架の直線を軽快に走る。茜は扉のそばに寄りかかり、何気なく窓の外を見る。暗い夜景を背後に、写り込むのは自分の姿。シニヨンに束ねた髪に、濃紺のスーツを着た身長165cmのすらりとした身体。すこし疲れた表情とは言え、きりっと目鼻立ちの整ったその姿は、かつて憧れていた大人の姿そのもの。しかし見た目に釣り合う分だけ、人間として成熟できているかと言われればいまひとつ自信はない。現実は理想から程遠く、仕事もプライベートも空回りの連続。子供の頃に思い描いた将来の自分は、果たして本当にこんな姿だったろうか?
 ……ダメダメ。ただでさえ疲れているのに、こんなこと考えちゃ気分まで落ち込む。こういう日は甘いものを食べて早めに寝るに限る。茜は最寄り駅で降り、近くのコンビニでショートケーキをひとつ買う。しかし帰宅途中の持ち運びが悪かったのか、無愛想な店員の袋の入れ方が良くなかったのか、箱の中でそれは崩れてしまったらしい。武蔵小金井駅徒歩十分のワンルームアパート。リビングでそれを開けたとき、中にはいびつに折れ倒れた白い塊が横たわっていた。

「……はぁ」

 つかないようにしていたため息が、ふと口から漏れる。またひとつ、幸せが逃げてゆく。どうしてこう、何もうまくいかないのだろう。しかしいくら落ち込んだところで、潰れたケーキが元に戻る訳でもない。



 窓を開け、秋の夜風を流し込む。スーツ姿のまま椅子に座り、崩れたケーキを食べる。けど手が滑って、パンツスーツに生クリームを溢してしまうのだから度しがたい。またひとつ、ため息が漏れる。ハッピーバースデーのはずなのに、どうやら今日という日はとことんついていないらしい。

『今日もお疲れモードみたいだね』

 ふと、カーテンの隙間から中性的な声が聞こえてくる。しかしここは二階だし、ベランダのない物件だから、本来人間なんているはずがない。

「聞こえてた? ため息」

 それでも茜は窓の方を向き、何事もなかったかのように返事をする。椅子から立ち上がり、カーテンを開けると、転落防止柵の上に一匹の黒猫が器用に座っていた。

「今日も来たんだ、サラ」
『その名前はやめて。黒猫なのに〈沙羅双樹の花の色〉なんて笑われる』

 サラという名の黒猫は、自らの前足をぺろぺろと舐めながら言った。それは間違いなく人間の言葉だったが、茜はさして驚きもしなかった。サラがこうして夜な夜な家を訪れてくるのは、今に始まったことではないのだから。

「笑われるって、あなた友達いないでしょ」
『茜だっていつもひとりじゃない』
「東京に出てから面倒な人間関係を避けているだけ。地元にはいっぱいいるんだから」
『そうやってお高くとまってないで、少しは周りの人とも仲良くしたら?』
「余計なお世話」
『せっかく顔はいいのに、勿体ない』
「自分を安売りしたくないだけ」
『その割には、今の会社は辞められないでいる』
「……」
『いま、猫のクセに生意気言う、なんて思ったでしょ』
「なんでわかるの」
『顔にそう書いてあった』
「生意気ね、やっぱり」

 茜は一度リビングに引っ込むと、崩れたケーキの上から苺をひょいと摘まみ、それをサラのもとに差し出した。サラはその金色の瞳で、茜の差し出した苺を見つめた。

『何これ』
「見ての通り苺。食べて」
『いらないよ』
「いいから。食べたら、もう帰って」
『どうしてさ』
「ひとりになりたいの」
『ひとりになって、何をするの?』
「何もしない。風にふかれて、ただぼーっとする」
『人間の気持ちは理解できないなあ』
「猫の同情なんていらないわ」
『でも、残念ながらこのまますごすご帰る訳にはいかない』
「どういうこと?」
『この星に、再び危機が迫っている』

 サラは、茜の差し出した苺を手に取ることもなく言った。その金色の瞳はきらりと鋭く、嘘をついているようには見えない。

「危機って、まさかアレ?」
『そうそう、アレアレ』
「ちょっと待って。地球侵略に来た異星人なら、このまえ軒並み退治してあげたじゃない」
『それが、どうも最近は敵の動きが活発になっているらしい』

 もしこの家に盗聴器が仕掛けられていたとして、誰かがこの会話を聞いていたなら、きっといまごろ首を傾げていることだろう。この星の危機? 地球侵略に来た異星人? いつからここはSF映画の世界になってしまったのか。

『この東京めがけて、もうすぐ巨大怪獣がやってくる』

 しかしサラは、まるでそれが日常会話であるかのように続けた。

「……怪獣、ねぇ」
『驚かないの?』
「別に。いっそ、こんな街もう滅ぼされちゃえばいいんじゃない」
『そんなこと言わないでよ。地球を守れるのは茜、君しかいないんだから』
「わたしが地球を救ったって、どうせ誰も褒めたりしてくれないもの」
『テレビをつければ、もうすぐ臨時ニュースが出るはずだよ。巨大生物、東京に出現って』
「今回はすこし様子を見てから行動しましょ」
『茜、地球に住んでいるのは、人間だけじゃないんだよ』

 サラは口を動かさずに言う。サラの言葉は、茜には音を介さず聞き取ることができる。

『死ぬのは人間だけじゃない。猫だってそうだ。人間が死ぬのは勝手だけど、僕は人間と心中するのだけはごめんだ』
「だったら、自分でなんとかしたら?」
『それは言わない約束でしょ、茜』
「やっぱり生意気よ、あなた」
『頭ならいくらでも下げるよ』

 そう言うと、サラは何のためらいもなく顔を伏せた。茜はふぅんと鼻を鳴らし、腕を組んでサラを見下す。果たして猫にプライドというものはないのだろうか?
 ……いや、そんなものを抱えて生きているのは、はなから人間だけなのかもしれない。下らない仕事に、下らない人間関係。そんなものに囲まれるうちに、茜も染まってしまったらしい。下らない人間というものに。
 唐突に、地面がずんと揺れる。それが地震などではないことは、言うまでもない。

『怪獣だ』

 サラは遠い空の方に目を向ける。その金色の瞳は相変わらず鋭かったが、不安げに少し揺れているようでもあった。
 ――地球の危機に、巨大怪獣。こんな話、親しい知り合いに打ち明けでもしたら笑われるに違いない。しかし残念なことに、世の中というものは誰も信じないようなことで溢れ返っている。その最もたる例こそ、いま目の前にいる黒猫サラの存在そのものだろう。茜はこれまでサラの力を借り、数多くの戦いに人知れず身を投じてきた。茜とサラは、奇妙な友人関係であるとともに、言うなればたったふたりだけの地球防衛軍なのだ。
 茜はまたひとつ、ため息をつく。しょうがない、とでも言わんばかりに。

「敵の大きさは?」
『え?』
「その怪獣とやら、大きさはどれくらいと聞いてるの」
『たぶん、身長100メートルくらい』
「なら、今回は楽勝そうね」

 茜はそう言うと、サラの傍らに右手を差し出した。

「ひとつ貸しよ。たったいま、わたしに溜め息つかせて、幸せを逃がした貸し」
『茜……』
「言っておくけど、あなたのためじゃないんだから。わたしの住む星に、土足で上がり込む不届き者を許さないだけ」
『ありがとう。それで、今日は何倍サイズにする?』
「〈5倍〉でどうかしら」
『お安いご用』

 茜の右掌に、サラは左の前足を浮かせる。するとその間に穏やかな光が生じ、茜のもとに暖かな熱が流れ込んでくる。茜は目を閉じ、もう片方の手を胸に押し当て目を閉じる。次の瞬間、夜の風がびゅうっと吹き、茜は音もなく消え去った。後に残されたのは、電気がついたままの部屋と、柵の上に残された生クリーム混じりの苺。サラは風向きを読むように遠くを見つめると、隣家の塀づたいに何処かへ立ち去った。路地裏には、都心から郊外へ逃げ走る猫達の長い列がいくつもできていた。



 * * *



 夜十時を回ったちょうどその時。お台場海浜公園の上空あたりで、夜空が急に裂けた。宇宙よりもずっとずっと黒い、全ての色を飲み込んでしまったかのような漆黒から、全高100メートルにも及ぶ巨大怪獣が姿をあらわす。怪獣の足元に居た者達は、その漆黒が亜空間の出入口であることを理解する暇もなく、ずんぐりぶっくりした足に踏み潰された。
 その東宝の有名な特撮怪獣を彷彿とさせる巨大生命体は、地球より遠くはなれた惑星からの侵略者だった。二足歩行ができる肉食恐竜をより凶悪に進化させたような姿で、全身はごつごつとした黒い鱗のようなもので覆われ、背中にはいくつものトゲがある。瞳から放たれる眼光は鋭く、地球人に対する強い敵意を明確にしている。
 怪獣はフジテレビのビルを尻尾で凪ぎ払うと、都心に向けてゆっくりと歩き始めた。レインボーブリッジを引きちぎるように破壊しながら港区に入り、いくつもの建物を巨大な足で蹂躙しながら前進する。崩れ落ちる高層ビル。阿鼻叫喚に包まれる都心。怪獣は人が多くいるところを積極的に狙い、少ない歩数でなるべく多くの人間を踏み潰すよう考えながら移動した。一見知性のないように見られがちな怪獣だが、実際のところその頭脳は人並み以上に明晰だった。怪獣はこの惑星に星間移動するまでの間、地球のことを詳しく調べ、そしてどこに多くの人々が住んでいるかを把握していた。最初の襲撃地点として東京を選んだことに深い理由はない。ゆくゆくは、他のあらゆる都市を襲うつもりでいる。
 怪獣は日頃からこう思っていた。弱い者に生きている価値はない。弱い者は生きているだけで罪である。だから弱い者はこの宇宙から取り除かなければならない。怪獣にとって力とは正義であり、絶対の価値基準に他ならない。
 やがて自衛隊の戦闘機が現れ、怪獣に攻撃を仕掛ける。だがその強靭な身体に傷ひとつつけることもできず、虫けらのように周囲を飛び回るだけ。――塵芥どもめ。怪獣は新橋駅を踏み潰したあたりで立ち止まると、全身の力をふり絞り、地獄の業火のごとき炎を吹き出す。市街地は一瞬にして猛炎に包み込まれ、駅前はおろか内幸町一帯、果ては500メートル近く離れた日比谷公園の木々さえも激しく炎上。当然、そこにあった建物は悉く飲み込まれ、誰も経験したことのないような大火が一帯を支配する。怪獣はひとしきり炎を吐き終えると、夜空に向かって咆哮を上げ、自らの力を方々に見せつけた。
 ぬるい。ぬるすぎる。こんな惑星、すぐに征服してやれるに違いない。このとき怪獣は、かつてないほどの自信に満ち溢れていた。もしオキシジェンデストロイヤーやヤシオリ作戦が相手でも、この怪獣を止めることは不可能だったはずだ。

「へえ。君、火も吐けるんだ」

 それは、何の前触れもなく背後から聞こえて来た。
 若い女の退屈そうな声。ボリュームは大きく、足元を逃げ惑う下等生物のものではない。
 怪獣は思いがけず耳をぴくりとさせるも、しかし決して慌てたりはしない。強者は常に落ち着きを持ち、優雅にたち振る舞わなければならない。怪獣は驚くそぶりを見せず、あえて緩慢に、ゆったりとした動作で振り向く。そしてまず、足下を見た。
 そこには人間の靴があった。この地でOLと呼ばれる婦女達が履く、パンプスというものだろう。地球人のことをきちんと予習してきた怪獣にとって、それを理解するのは造作もない。
 問題は、その大きさが明らかにおかしいことだった。人が履くのであれば20センチ台がいいところ。にもかかわらず、全長70メートルもの大きさを伴い、いくつものビルを踏み潰しながらそこに鎮座しているのはどう考えても不自然と言える。つま先の高さですら、建物の三~四階程度に相当するだろうか。

「でもね、そういうのは他所でやってほしいんだよね」

 再び頭上から同じ声がする。怪獣は意味のわからぬまま、恐る恐る目線を上へと這わしてゆく。濃紺のパンツスーツに包まれたすらりとした脚に、同色のジャケットを羽織った細身の胴体。高めの頭身も相まってか、全体的にシルエットは細く、無駄な肉付きはほとんど無いように見える。しかしその分、全身はほどよく引き締まり、スタイルの良さには目を見張るものがあった。怪獣にも、人間の美醜は少しくらいならわかる。グラマラスという訳では決してないが、スポーティーな魅力とでも言うべきか。恐らくこの惑星の住人の中でも、かなりの美形と言える部類のはずだ。目鼻立ちはよく整い、凛とすました眼差しは気高さに溢れ、すらりとした背丈や紺色のスーツ姿も相まって、その姿はまるで若さと大人っぽさのいいとこ取りをしているよう。しかしそんな品のある顔立ちとは裏腹に、目付きは氷のように冷たく、こちらを軽蔑まじりに見下ろしている。

「ここ、火遊び厳禁なの。わかる?」

 何よりも信じられないのは、その大きさだった。
 仁王立ちし、こちらを見下ろしている彼女。俄に受け入れがたいが、その大きさは自身の5倍相当。目算にして身長500メートルはあるだろうか。
 怪獣は首を上に向けたまま、口をあんぐり開けて驚いた。もはや優雅な立ち振る舞いなど取り繕う余裕もなかった。全身の細胞が脳に危険信号を発し、脚が完全に震え上がっている。これまでに見たことのないほどの巨人が目の前で仁王立ちしているというのだから、平静を保てと言う方が難しい。
 彼女と見つめあったまま、怪獣は一歩たりとも動くことができなかった。恐怖。圧倒的体格差による、ひたすらな恐怖。それが怪獣を石のように固く、硬直させてしまったのだ。



 * * *



「これが無断で暴れまわっている不届き者ね」

 500メートルにまで巨大化した茜は上体を少し折り、怪獣を見下ろしたまま静かに言う。周囲の逃げ遅れた群衆から突き上げるような目線を感じるが、今さら恥ずかしさなんてあったものじゃない。人々にとって怪獣被害は初めての経験なんだろうけど、茜にとっては今に始まったことじゃない。
 茜の怪獣退治の手段。それは黒猫サラの力を借り、無限大に巨大化し戦うこと。彼女はこの力を存分に活用し、これまで数多の外星生物から地球を守ってきた。しかしそれを覚えている者は一人としていない。戦いが終わった後、サラの能力によって時間が巻き戻り、何も起きなかったことになる。人々の記憶は削除され、茜とサラの活躍はふたりだけの秘密になる。

『にしても〈敵対生物の5倍〉なんて大きく出たね、茜』

 巨大化した茜の脳裏に、サラの言葉が響く。サラの言葉を音も介さず聞き取れるのは、巨大化する前も後も変わらない。

「別に。マナーのなってない客人相手に、手加減してあげる義理もないでしょ」

 どこにいるかもわからないサラとやりとりをしつつ、茜は目の前にいる敵をしっかりと目から離さなかった。500メートルにまで巨大化した茜にとって、今の怪獣はそれこそ猫のように小さい。勝敗は既に決したも同然と見える。

「さて、今日はどんな風に尋問してあげましょうか」

 とは言え、これでも茜はいちおう正義のヒーローである。どことも知らぬ星から現れ、許可なく破壊行動をする不届き者相手とは言え、何の事情も聞かずに手を下すのはさすがに如何なものか。

「ねえあなた、一体どこの星から来たの?」

 とりあえず、まずは住み処を問い質してみる。群衆の悲鳴や怒号が響く中、茜はその場にゆっくりしゃがみこみ、まるで迷子の子供に話しかけるよう優しく聞いてみる。だが人の言葉を発音できない怪獣が、茜の質問に答えられるはずもない。怪獣は子犬の鳴き声のように威厳のない声を上げ、怯えたように後退りする。

「怖がることないでしょ」

 それを逃さず、茜は怪獣の首根っこを掴み、ひょいとつまみ上げる。じたばたと暴れる怪獣。市街地一画をまるごと灰にしてしまう恐怖の存在も、今の茜にとっては単なる小動物に過ぎなかった。もちろん怪獣になす術などなく、茜の手の中から自力で抜け出すことさえ叶わない。
 ……あまりにも小さいせいか、なんだかこうして眺めているとちょっとだけ可愛く見える。その見た目はどこからどう見ても着ぐるみ怪獣のようで、こんなゴリラとクジラを足して二で割った名前をしてそうな怪獣が宇宙のどこかに住んでいたかと思うと素直に感心する。あとでサラに頼み込んで、数十センチに縮めてペットとして飼ってみるのも面白いかもしれない。

「ほら、いいから。何か喋ってみて」

 すこしからかってやるつもりで、まるで犬の顎下を撫でるように、喉元をすりすりと撫で上げてみる。怪獣はよりいっそう身動ぎし、情けない声をあげる。しかしそれは、やはり人の言葉にはなっていない。

「んー、やっぱ喋れないのかなぁ……」

 さて、どうしたものか。ある程度は知性のある生物のようだが、会話にならないようではどうしようもない。

「じゃ、実力行使ということで!」

 ひとしきり悩んだ末、とりあえずデコピンすることに。
 ぴん、と人差し指を怪獣の腹にはじくと、瞬間、ズドンという凄まじい音と共に、怪獣は衝撃波を伴いながら亜音速で東京駅方面に吹っ飛ばされる。言葉にならない声を上げ、目玉をひんむき、舌を出し、超高速の肉弾となった怪獣は大手町の高層ビル群に見事ストライク。数多のビルを一瞬にして木っ端微塵にしつつもそれだけに留まらず、そこから更にバウンドし、ぐるぐる回転しながら北へ北へ。秋葉原を空中で飛び越え、御徒町のあたりに再び着弾し、上野公園の木々をなぎ倒しながら玉のように転げ回る。ありとあらゆる構造物を粉砕しながら、鶯谷駅のあたりでようやく仰向けに静止する。

『あ、茜! なにも街に向かってやることないじゃないか!』
「あら。別にいいでしょ、後でぜんぶ元通りにするんだから」
『それをするのはどこの誰だと思っているんだい!』
「頼りにしてるよ、サラ」

 茜は立ち上がり、破壊された街の惨状を俯瞰する。崩れ落ちた高層ビル群に、あちこちから上がる火の手。特に東京駅や上野駅周辺の被害は凄まじく、数多くの建造物が瓦礫の山と化していた。

「……ふふふ。取引先の何社かは、これで潰されたかも」

 そしてその実行犯たる茜は、罪悪感を覚えるどころか呑気に笑みさえ浮かべていた。巨大化すると気が大きくなるのはよくあることだが、最近は鬱憤が溜まっていたせいか、いささか性格の方も悪くなったかもしれない。だがそんな茜を叱責する者は、今のこの世界にはどこにもいない。身長500メートルの彼女を上回る存在は、少なくとも日本においてはスカイツリーを除いて他にない。
 茜は全長約70メートルにも及ぶ巨大な足を一歩一歩と踏み出し、悠々と怪獣のもとに近寄る。その道中、ひしめき合う市街地を容赦なく踏み潰し、粉々に砕いてもお構い無しに。

『あああ、街が……』

 サラの悲痛な声が脳裏に響くも、茜にとってそんなこと知ったことじゃない。一歩踏み出すごとに天文学的な額の経済損失を更新しながらも、茜はゆっくりと怪獣のそばへと歩み寄った。

「さ。お次は何をしてほしい?」

 力なく横たわる怪獣のすぐそばにたどり着くと、茜は腰に手を当て、勝ち気な眼差しで見下ろす。茜を見上げる怪獣の瞳は、痛みと恐怖で揺れているようだった。

「せっかくだから、日本語のお勉強でもしてあげようかしら」

 言いながら、茜は脚を高く持ち上げ、怪獣の腹にパンプスのヒールを思いっきり踏みつけた。怪獣は一瞬何が起こったのかわからないまま、その激痛に思わず目を見開く。

「まずは単語のお勉強。これ、靴っていうの。く・つ。こうやって他人を踏みつけて〈苦痛〉を与えてやるための道具。リピートアフタミー。くつ」

 怪獣はこの世の終わりのような顔を浮かべ、地獄のようなうめき声を上げる。当然、それは茜の望む回答ではない。

「何言ってるかぜんぜん聞こえないよ?」

 脚の力をより強め、ヒールを怪獣の腹へぐりぐり押し付ける。こういう弱いものいじめは普段なら気が引けるが、侵略者相手ともなれば話は別だ。どことも知らぬ惑星から唐突に現れ、何の宣告もなく破壊活動を始めるような身勝手な輩、情けをかける必要などあるはずがない。

「あはは。ねえあなた、見かけによらず全然たいしたことないのね」

 不意に、茜の頬が緩む。異星から現れた凶悪な蹂躙者も、片足だけでこのあり様。自らを悪趣味と心の中で断じつつも、やはり笑わずにはいられない。

「弱い者に生きている価値はない」

 茜は、言う。

「弱い者は生きているだけで罪である」

 語気を強め、畳み掛ける。
 怪獣は、自分のことを指摘されているのかと思い、目を見開く。

「……なんて思ってるんでしょ? あなた」

 ――実際、この手の外星生物がそういった思考に陥りがちだということを、茜は経験的に把握していた。これまで戦ってきた相手の多くは、そのほとんどが地球人に対し傲慢そのものだった。おそらく広い宇宙から見たら、地球は辺境のちっぽけな小惑星のひとつに過ぎないのだろう。

「まあ、そう思う気持ちもわからなくないよ。わたしだって上司に怒られたり、他の人に迷惑かけたりした時、ポンコツすぎて自分なんてホントに生きてる価値あるのかなって落ち込むことあるもの。けどそんなこと言い出したら、結局誰が生きるべきで誰が死ぬべきかなんて、何をもって判断すればいいのかわからないものなのよ。少なくとも、自分の価値観を他人に強く押し付けるのは違うんじゃない?」
『……茜、仕事でよほど疲れてるんだね』
「うるさいサラ。せっかく人がいい話してるのに割り込まないでよ」

 サラの横やりに不快感を露にしつつ、茜はすっと脚を持ち上げ、怪獣の腹からパンプスをどかしてみせる。圧力から解放された怪獣は大きく息を吸い込むも、しかし既に立ち上がることさえままならない。意識朦朧なのか、目はうつろで、今にも失神寸前。せっかく茜が隙を見せてあげたというのに、反撃の一手にすら及ぼうともしない。

「ほら、立って」

 そんな怪獣に対し、茜はおもむろにしゃがみこみ、両手を怪獣の脇にさしこんで無理やり立たせようとする。怪獣は瀕死のボクサーのように、ふらふらとよろめく。既に重傷な上に、茜の行動の意図さえ読めないとなれば、どれだけ自信に満ち溢れた侵略者も困惑は必至か。怪獣は怯えた目つきで茜を見上げた。

「今の話がもし通じたんだとしたらさ、あなたに特別にチャンスを与えようと思うの。どちらか選ばせてあげる。このまま死の時を待つか、あるいはわたしのペットとして生きる道を選ぶか。もちろんどちらを選ぶかはあなた次第。でも何も遂げられずに死ぬより、下僕としてでも生きる道を選んだ方がまだマシだと思わない?」

 それは茜なりの最低限の慈悲のつもりといったところか。別にこのまま一方的に踏みつぶしても問題はないが、それでは単なる暴力と何ら変わらない。もちろん、この提案自体が茜の単なる気まぐれに過ぎないのだが。とは言え、怪獣にはそんな茜の思惑など推し量る余裕もなく、焦点の合ってない目付きでこちらを見上げるのみ。

「降参するなら、スーツについてるこの生クリームを舐めて」

 不意に茜は股を開き、濃紺のパンツスーツの太ももの内側についた白い生クリームのあとを指差す。それは巨大化する直前、自宅でケーキを食べようとした時にこぼしたものだ。

「さあ、どうするの?」

 茜は破壊された市街地の瓦礫にずんと腰を下ろすと、長い脚をより大きく、しなやかに開脚する。いくら細身の茜とはいえ、巨大化した今の身体なら太ももの大きさは直径50メートルほどにも及ぶ。それは近隣の崩れかけの十階建てビルよりも余裕で大きく、もし逃げ遅れた人がそこにいたとしたら、市街地を分断するかのような巨大な壁にひどく狼狽えたはずだ。
 二つの脚の間に佇む怪獣は、茜の姿に呆気にとられたまま、縮み上がったかのように立ち止まっていた。もはや戦意もなければ、立ち向かう体力さえ残っていないらしい。

「早くして!」

 しかし茜が声をあげると、怪獣は子供のようにびくっと身体を震わせ、そしてゆっくりと近づいた。パンツスーツに鼻を寄せ、茜の太ももの内側を恐る恐る舐め始める。

「ふふふ。そう、いい子ね……」

 茜は怪獣の頭を指で優しく撫で、じっくりと征服感を味わう。怪獣の舌触りは思ったほど悪い感触ではなく、むしろこそばゆい感じさえする。怪獣を縮めるのはサラがやってくれるとして、自宅に虫かごはあっただろうか。茜は怪獣の頭を撫でながら、そんなことを考えていた。



 * * *



 何故、こんなことをしなければならないのか。
 怪獣はそれが屈辱的行為であることを理解しながら、自らの命惜しさに女の腿を舐めていた。最悪の一日だった。こんなことになるなら、地球侵略などやめればよかった。しかしいくら嘆いたところで、後の祭りでしかない。

「あなた、けっこう可愛いところあるじゃない」

 巨人は頭を優しく撫でながらそう言う。それは完全に手懐けようとしている声で、おそらくこのまま主従のなんたるかを叩き込む腹積もりでいるのだろう。勿論、この女の下僕に成り下がるなど嫌に決まっている。しかしいくら自尊心の高い怪獣と言えど、自分の命はやはりそれなり以上に可愛い。
 舌を動かす力さえ、次第に抜けてくる。どうやらもう、立っていることさえやっとのようだ。このわずか数分間のうちに、どれほど夢であってほしいと願ったことか。これほど追い詰められた経験は、他に例がない。

「どうしたの? 綺麗に舐めとるまでは止めちゃ駄目よ」

 それでもなお、巨大女は未だにこちらをこき使おうとする。悪魔め。悪態のひとつでもついてやりたいが、残念ながらそれをするだけの力も残っていない。
 このまま運命を受け入れるしかないのか。
 ……否。まだ、道はあるはずだ。
 極限の生命状態において、怪獣はあるひとつの事実を思い出す。それは地球侵略にあたり、事前にこの惑星の生物について調査をしていた時のことだ。怪獣は、自らと同じ火炎を扱う生物がこの星に生息しないことに気がついた。それはつまり、多くの原生住人は炎を扱う敵対者に慣れていないことを意味する。恐らくこの女も例外ではないだろう。
 ふつふつと、怪獣の中を闘志が再燃しはじめる。この状況を容易に覆せると考えるほど、甘い見積もりをしている訳ではない。だが少なくとも、逃走経路を切り開くくらいのことはできるはずだ。

「こら、聞いてるの?」

 反逆の決意を固めた怪獣は、腹の底に力をこめる。女の声に耳も貸さず、残ったエネルギーを全身からありったけかき集める。一か八かの賭け。だが、新橋の一角を丸ごと焼き払い、ビル街を瞬く間に火の海に変貌させた火炎放射なら、女の意表を突くことができるかもしれない。
 怪獣は目を見開き、全ての力を口腔に一点集中。女の顔はもちろん、髪の毛さえ一本残らず丸こげにしてやるつもりで、口から地獄の炎を吐き出す。

「きゃっ!」

 案の定、女はそれまでの攻勢がまるで嘘であったかのように、可愛らしい声を漏らす。どれだけ巨大であっても、しょせん内面はか弱い小娘のままということか。いずれにせよ、女に一瞬の隙が生まれたことは怪獣にとって好機だった。
 すぐさま女の股ぐらから遁走。脱兎のごとく逃げ出し、市街地のビル群を押し倒しながら全力で逃げ去る。怪獣は両足のみならず、その四足歩行をするにしてはあまりに小さな両手をも存分に使いこなし、東京の街並みを走り抜けた。その姿はまるで、獲物を見定めたチーターの如く。このとき怪獣の動向を遠くから双眼鏡か何かで観察している者がいたとしたら、ひどく驚いたことだろう。見るからに重そうな体躯に、小回りの効かなさそうなずんぐりぶっくりとした足。誰がどう見ても、この怪獣にジェット戦闘機並みの俊敏性が備わっていることなど予想できなかったはずだ。それもそのはず。能ある鷹は爪を隠すという言葉があるように、これまでの怪獣の余裕ある態度、スローペースな所作は、すべて演技によるものでしかなかったのだから。
 鶯谷を起点に、わずか数秒足らずで荒川区を突破。二つの河川を瞬きひとつの短さで横断し、住宅街を踏み荒らしながら北へ北へ。西新井、竹ノ塚、草加。驚くべき速さで、怪獣は女のもとから逃げ走り、そしてその過程で莫大な被害を生じさせる。
 勝った、と怪獣は思う。どれだけ巨大な女でも、手の届かない範囲にさえ飛び出してしまえば逃げきれる。あと少し距離を置いたら、亜空への扉を開いてこの惑星を去ろう。本来の目的は果たせなかったが、今は自分の命が何より大事だ。しかし一度は相手に従順な態度こそ取ってしまったが、だからこそあの女から油断を引きずり出すことができたようだ。怪獣は、自らの幸運に心から感謝した。この惑星には人間万事塞翁が馬という言葉があるようだが、今の怪獣はまさにその通りだった。

「サラ、追加オーダー」

 ふと、背後から女の苛立ったような声が聞こえる。しかし距離はずっと遠く、怪獣でなければ聞き取れないほどの小さな声だった。後ろを振り向く余裕などないが、おそらくあの女、元の位置から一歩たりとも動いていないのだろう。このとき怪獣は、女から既に20キロメートルほどの距離を確保していた。これだけ離れれば、十分すぎるはずだった。

「巨大化、5000倍」

 だが、彼女の静かな言葉を耳にした瞬間、怪獣は不自然な寒気を感じた。何か、とてつもなく嫌な予感がする。その予感が的中するかのに、突如として地面が波打ち、怪獣はトランポリンのように叩き上げられる。……なんだ? 怪獣は空中に放物線を描きながら、何が起きたのかを推し量ることができない。しかし激震によって瓦解する住宅街に仰向けに倒れ込んだ時、怪獣は信じがたい光景を目の当たりにすることになる。

「わたしから逃げられると思ってた?」

 ――そこに、空はなかった。
 凄まじく、ただただとにかく凄まじく巨大な二本の塔が、空を覆い隠すように屹立している。その頂点がどこに到達するのか、もはや怪獣の目では見ることができない。しかし塔の正体が何なのかを、怪獣は一目見ただけで理解した。そいつはどちらも濃紺色をしていて、微かな弓なり状の優美な曲線を描いている。あれを舐め続けた時の味は、今でもこの舌に残っている。

 さっき、あの女は何倍に巨大化すると言った?

 巨大化、5000倍。そう、彼女は確かにそう口にしたはずだ。だが女性の平均身長を157センチとして、その5000倍となれば、身長おおよそ8750メートルということになるはず。それだけでも十分に頭がおかしいのはとりあえず置いておくとして、しかし今目の前に聳え立つ彼女は、どう見ても身長8キロという大きさではすまされない。もっともっと、その大きさはそう、数百キロに及ぶほど。
 ――もう嫌だ。もし過去の自分にひとこと言えるならば、地球侵略を思い直させてやりたい。怪獣の目には、深い後悔と、絶望の色がにじみ出ていた。



 * * *



『茜、ほんとにやるの? 〈敵対生物の5000倍〉なんて前例ないし、やめようよ……』
「今さら何を躊躇っているの? 文句言うなら、もう二度とちゅ~る買ってこなくたって良いのだけれど」

 手懐けたはずの怪獣に逃げられた茜は、すぐさまサラにお願いし、500キロメートルにまで巨大化していた。一度は手厚く扱ってあげても良いと思った茜だが、目の前でいきなり火を吹かれれば交渉は決裂だ。人の顔めがけていきなり攻撃してくるような輩を易々許せるほど、茜も聖女ではない。
 いま茜は太平洋上に足を下ろし、足元を見下ろしている。今や茜はオゾン層をはるかに突き抜け、スペースシャトルが飛び去るほどの高度にまで顔を出す存在。眼下には日本列島が端から端までよく見え、気分はさながらグーグルマップといったところ。関東地方の巨大な市街地も今の茜にとっては単なる白い平面でしかなく、そこに居座るであろう怪獣の姿さえ視認するのは難しい。あれだけ地球人に対して猛威をふるった怪獣も、1/5000サイズとなればひとえに風の前の塵に同じ。

「わたしから逃げられると思ってた?」

 茜は東京近辺めがけてそう言うと、脚をゆっくりと持ち上げる。茜の足は全長70000メートルもあり、それを大地に押し付ければどうなるかは火を見るよりも明らか。

「心しておきなさい」

 それでも茜は静かに足を踏み下ろす。すとんと、軽く、乗せるように。その瞬間、南は横浜、北は春日部に至るまで、おびただしい数の家が、ビルが、そこに居座るであろう怪獣と共に踏み潰される。一都二県にも及ぶ広大な範囲が一気に圧縮され、大地に還る。茜のパンプスは、地球に巨大な足跡を深々と刻み付けたのみならず、その際の衝撃波で数千キロもの範囲に甚大な被害をもたらし、関東地方全域を大きく瓦解させるほど揺さぶった。それはもう、怪獣退治という名目をはるかに超越していた。

「同じ目に逢いたくなければ、もう二度と地球には来ないことね」

 そんな足元の惨状に目もくれず、茜はさらりと髪を撫で、涼しげに言う。宇宙空間の息を吸い、生物の理を超越した茜の言葉など、もはや受け取り手はいない。

「……ぷっ。ふ、ふふふっ……!」

 しかしせっかくクールに決めた茜だったが、しばらく間を置いて声を漏らさずにはいられなかった。身長50万メートルというかつてない大きさに、実はちょっと興奮しちゃってる自分がいるのは秘密。怪獣退治? 地球防衛? いつでもウェルカム。こんなにストレス発散にもってこいな娯楽、他にない。最初にサラの依頼に渋ったのは、あくまで交渉を有利に進めるための芝居。そのあたりの手の内は、サラには決して言えない茜だけの秘密だったりする。



 * * *



 さて、事が終われば、サラが時間を巻き戻してくれる。破壊された東京は綺麗さっぱり元の姿に取り戻され、茜は家でケーキを食べていた頃に逆戻り。そういう段取りのはずだったが、サラはどうやら時間を少し戻しすぎてしまったようだ。
 気がつくと茜は、中央線の快速電車の中でぼんやりと立っていた。扉のそばに寄りかかり、何気なく窓の外に目を向けている。移り行く暗い住宅街を景色に、映りこむのは自分の顔。シニヨンの髪に、目鼻立ちのきりっとした大人な顔。いつもなら仕事帰りで疲れているはずなのに、なんだか表情が少し柔らかくなった気がする。これもサラのお陰だろうか。もうすっかり仕事で心を落としてしまったと思っていたのだけれど、どうやらまだ自分のことも捨てたものじゃないらしい。
 最寄りの武蔵小金井駅を降りると真っ直ぐにコンビニに立ち寄り、同じショートケーキを買う。ガラの悪い金髪の男性店員に「今度は丁寧に袋いれてください」とお願いすると、男は茜のことを苛立ち混じりに一瞥くれながら作業しはじめた。しかしそんな不遜な態度とは裏腹に、袋詰めは実に丁寧そのものだった。駅から徒歩十分のワンルームアパート。リビングでそれを開くと、茜の注文通り、ケーキは陳列されていた時の姿を綺麗に保っていた。
 フォークを突き刺し、ケーキを食べる。甘い味わい。リラックスしたい時はやはりこれに限る。スーツに溢さないよう慎重に口へと運びつつ、年甲斐もなく大好きな生クリームの舌触りに心をほどいていると、ふと窓の外からとんとん、と音が鳴った。目を向けると、窓ガラスに爪を立ててノックする黒猫の前足が見えた。耳をすませば、『茜、茜』と声が聞こえないでもない。

「うわ、どうしたのサラ」

 窓を開けると、転落防止柵の上で、サラはぐったりと横たわっていた。
 その毛並みはボロ雑巾のように荒く、猫にとって大事なはずの触毛も明後日の方向に折れ散らかっている。覇気のない表情のせいか、元の姿から十歳以上も老け込んだように見える。

『どうしたも何も、君のせいで僕はもうボロボロだよ』
「まさかあなた、わたしの踏みつけに巻き込まれたんじゃないでしょうね?」
『いいや、あの時僕は高尾まで逃げていた』
「相変わらず逃げ足の速いこと。電車より速いんじゃないの?」
『そんなことはどうでもいい。ともかく地球を直すの、むちゃくちゃ大変だったんだぞ……』

 サラはくたびれた目付きで茜を見上げた。サラの能力は、修復対象の変化量が多ければ多いほど、大きな力を必要とするようだ。一都二県をひとまとめに踏み潰せばどうなるか、言うまでもない。

「なんだ、そういうことか」
『他人事みたいに言わないでよ。全長70キロの靴に踏み潰される東京の絶望感ったら、半端じゃなかったんだから』
「わたしも見てみたかったな、その光景」
『冗談は勘弁してくれ』
「ごめんごめん。次はほどほどにするから」

 ――地球を訪れる外星生物。彼らはいつも、茜の手によって呆気ない最期を迎えることになる。彼らが弱いのではなく、茜が強すぎるだけ。
 別に可哀想とは思わない。人様の惑星に土足で踏み込み、街中を一方的に引っ掻き回すマナーのなっていない輩、手加減する義理もないだろう。しかしこうも呆気なく終わってしまうと、敵ながら同情の余地くらいはある。そんな風に思ってしまう時こそ、サラの作戦は有効に機能する。

「でもこれで、あの怪獣も諦めたことでしょうね。地球侵略なんて」

 茜たちの戦いは、言うなれば〈最終的に誰も傷つかない戦い〉。
 サラの能力は全てを復元する。東京の街並みも、街の住人達も、猫達も、あまつさえ敵である怪獣でさえも。
 だから時間が巻き戻った今、茜が仕留めたはずの怪獣は、地球侵攻前の姿を取り戻し宇宙のどこかを漂っているはずだ。
 それでは戦った意味がないじゃないか。茜も当初は、そんな風に思っていた。けど実は、茜が地球防衛に徹する裏で、サラはもうひとつの細工を敵に仕掛けていたのだ。
 それは、時間が巻き戻っても記憶を残すためのプロテクター。サラはそれを怪獣に仕込ませることによって、時間が巻き戻っても茜に敗北したという記憶を引き継がせるようにしていたのだ。
 ふと、時計を見る。時刻は夜十時過ぎ。もし以前の歴史通りなら、既にお台場あたりに怪獣が出現していてもおかしくはないだろう。しかしテレビのニュースはだんまりを決め込み、スマホで見る限りSNSも特に荒れた様子はない。それはあの怪獣が地球侵略を諦め、元の惑星に引き返してくれたということを意味している。
 茜とサラは、これまで同じやり方で数多の外星生物を退けてきた。戦い、勝敗をつけ、そして勝ち負けの結果を相手の記憶に刻み付けたまま、戦いの過程そのものを歴史から抹消してしまう。そうして後に残されるのは、何も知らない住民達と、平穏な東京の街並みだけ。

「ありがとね、サラ」
『……どうしたの、急に』
「あのさ、これでもわたし感謝しているのよ。いちおうあなたのお陰で、地球は守られてるっぽいんだし」
『かしこまってそう言われると、何か寒気がするんだけど』
「人の好意は素直に受け取りなさいよ」
『だって、茜からそんな風に言われるの、滅多にないし……』
「じゃあこういうことにしましょう。持ちつ持たれつ。わたしに困ったことがあったら、次はあなたが助けに来てよ」
『猫相手に無茶言うなあ』
「早速だけど、今日わたし誕生日なの。何か贅沢な気分になれる差し入れでもあれば嬉しいのだけれど」
『僕の話、聞いてた?』

 茜とサラ。たったふたりだけの地球防衛軍。誰も信じないような奇妙な仲。けど、これだけは言える。サラが居なければ、きっと茜の日常は退屈と鬱屈で押し潰されているに違いない。明日もまた頑張れそうな気がするのは、きっとサラが居てくれるからだろう。

『……まあ、物品の差し入れはないんだけれど、一応それなりに準備しておいたことはあるんだ』

 やおら、サラは口にする。そのもったいぶった口調に、茜の浮わついた心は急に現実に引き戻される。

「何、準備って」
『サプライズプレゼントだよ。こう見えても僕、君のために気を遣ったんだよ』
「サプライズ?」

 サプライズプレゼントって、自分から言ったら何の意味もないのでは……? ちょうど、そんな風に思った瞬間だった。サラの用意したそのプレゼントとやらが、急に窓の外から飛び込んできた。とっさの出来事に、茜は驚き、後退りする。しかしそいつは茜の胸元にしがみつき、そのまま抱きついて離れない。

「わっ!」

 思わず脚がもつれ、茜はその場に尻餅をついてしまう。尻を抑えながら胸元に目を向けると、そこには綺麗な毛並みをした茶トラ猫が、茜の胸に顎を埋めていた。猫は茜の目を見ながら、元気に「にゃあ」と口にする。

「猫? ちょっとサラ、これどういう――」

 サラを問い質そうと、窓の方を見上げたその時だった。一匹、二匹……いやそれ以上に、大量の猫、猫、猫猫猫が、茜めがけ一斉にダイブしてきたのだ。突然の来訪者集団に、凍りつく茜。「うわ!」と声を上げるも、白猫黒猫、三毛にサバトラ、マンチカンやシャムやペルシャ、多種多様な猫達に覆い尽くされ、なすすべもなく仰向けに倒される。大量の猫達は茜に毛並みをすりつけると、顔を一斉に舐めつくしはじめる。

「ちょっと、何なのよこれ!」
『実は、今回の戦いは東京じゅうの猫達にも記憶を引き継がせてあげたんだ。みんな茜のファンなんだよ。ぜひ、全員と戯れてくれ』
「戯れるって、あなたねぇ……!」

 呑気に解説するサラだが、茜にとってそれは死活問題だった。何故なら茜は、サラ一匹ならまだ我慢できるレベルなのだが、実は――
 不意に、くしゃみが出る。
 それだけではない。目が充血しはじめ、鼻水が垂れる。瞬く間に喉がいがいがし始め、なんなら呼吸することさえ段々辛くなってくる。
 ――実は茜、子供の頃からひどい猫アレルギーなのだ。本音を言うと、正直サラと関わってる時もちょっとだけ辛かったりする。事実、茜とサラは会話こそすれど、お互い直接触ったことはほとんどない。それでも猫一匹分だけならまだ何とか我慢することができたが、この数相手では地獄でしかない。

「……サラ。あなた、これのどこがサプライズプレゼントになると思ったの?」
『嫌なのかい? 傲るわけじゃないけど、人間ってみんな猫のこと好きなんだろう?』
「それはわたしには当てはまらない」
『またまた、照れちゃって』
「顔が火照ってるのはそういう理由じゃないから」
『せっかくだからみんなのこと紹介してあげるよ。そこにいる三毛猫は、たまきち。そっちのオッドアイは、すず。あっちの僕以上に毛並みが黒い三匹は右からガイア、マッシュ、オルテガ。そして君の胸元に飛び込んできた茶トラは、みかん――』
「あなた、友達いないんじゃなかったの!」

 茜の悲痛な叫びが夜空に響く。その後体調がみるみる悪くなって、次の日の仕事を半日休んだのはまた別の話だ。