都心から車を走らせること一時間。地方へと向かう自動車道は、二つ目の県境を跨いだあたりで急な渋滞に見舞われていた。それまでの快走がまるで嘘であったかのように、前を行く四トントラックは時速三十キロを上回らない。カーラジオに耳を傾けると、どうやらこの先で老朽化した路盤の陥没事故があったらしい。やれやれ、ここから先は一般道か。諒子はハンドルを切り、最寄りのインターチェンジで一般道に降りた。幸い、道順には覚えがあった。
 冬の空は低く、太陽さえ薄い膜に覆われているようだった。雲一つない快晴のはずなのに、その青空からはまるで暖かみを感じ取ることができない。道端で測量作業に勤しむ作業員たちも、ずいぶん着込んでいるように見える。これには彼女も今頃肩を震わせているに違いない。不意に、むかしから人一倍寒がりだった彼女の横顔を思い出す。学生時代なら、こんな寒い日はよく温かい缶コーヒーを頬にあてがっていたっけ。あれから三年。私は、私たちは、ずいぶん変わってしまったように思う。彼女は途方もなく大きくなり、そして諒子は以前よりずっと垢抜けた。ふと諒子はバックミラーに映る自分の姿を見る。洒落っ気のなかった眼鏡をコンタクトに変え、ただなんとなく伸ばしていた髪をウェーブがかったセミショートに変え。彼女のとなりで恥をかきたくないと、身なりに気を遣うようになったのも、今では遠い昔のことのように感じる。
 インターチェンジを降りて数十分。川幅の広い一級河川とつかず離れず、一定の距離を保ったまま車を走らせる。今はもう放棄されてしまった県庁舎を尻目に、廃墟と化した市街地を縫うように走る。つぶれた木造住宅に、ひしゃげた鉄骨。地面には、未だくっきりと残されたままの巨大な足跡もちらほら。彼女ももう少し道を選べば、こんなことにはならなかっただろうに。そう思いたくなるものの、あの大きさでは俄然無理な話か。ともあれ、この風景にも今ではすっかり慣れた。しばらく瓦礫をやりすごしながら走るうち、窓の外には長閑な田園風景が広がり始める。ひらけた視界の向こうに見えるのは、ゆるやかな斜面を伴った標高1800メートルの山。そしてその山の頂に三角座りをする、巨大な女の姿。
 彼女の大きさを見て、それを正常だと言い切れる者はいない。身長およそ300メートル。ビルよりも大きく、地形さえ変え、誰よりも空に近い人間。そんなものは人間というより破壊の権化か、慈愛の女神か。いずれにせよ、常軌を明らかに逸していることだけは間違いない。
 彼女の居座る山に近づくにつれ、その姿ははっきりと見えてくる。艶のある黒色のショートヘアに、爽やかで活発そうな顔立ち。もともと身長160cmの痩せた体型は、常人の200倍程度にまで巨大化した今も変わらず。細くしなやかな腕は、予想通り自らの肩を抱いて寒さに震えている。普段は明るい眼差しも今はきゅっと目を瞑り、口元は耐え忍ぶように大きくゆがんでいる。こんな真冬に、あの格好じゃ寒さもひとしおだろう。白い薄手のブラウスに、デニムのパンツ。着の身着のまま、巨大化しはじめた日が夏場だったことが運の尽き。その巨体を覆う衣類など他にあるはずもなく、冬場はただただこうして身を縮めている姿をテレビでよくみかける。
 ――こういうところは、昔と何も変わっちゃいないな。
 世界に楔を打ち込んだ後も、途方もない巨大化を知らしめた後も、本質的には何も変わっちゃいない。寒がりで、表情豊かで、ただ人より大きくなりすぎてしまっただけ。しかしその大きくなりすぎたという単純な事実こそ、世間にどれだけの影響を与えたことか。日本が荒れに荒れたこの三年間を、諒子はゆめゆめ忘れることはないだろう。



 車を走らせ長い時間が経つが、彼我の距離は依然として縮まる気配がない。
 彼女の輪郭はもう既にしっかりと視認できるというのに、実際のところまだ数キロと離れている事実があまりに辛い。
 標高1800メートルの山。その頂に居座る身長およそ300メートルの彼女は、今なお寒そうに白い息を吐いている。図体に見合う分だけ吐く息も大きいから、そのまま雲になってしまうのではないかと錯覚さえ覚える。それにしても、ずいぶんと退屈そうなこと。こっちは貴重な砂糖めがけて懸命に進む蟻の気分を味わっているというのに。
 これはもう、いっそ相手からこちらに来てもらった方が早いかもしれない。ふと思い立った諒子は休耕中の畑のそばに車を停め、外に出た。そしてポケットからスマホを手に、電話帳から「みゆり」の名を選ぶ。彼女への直通回線は一部の人間にしか権限が与えられていないが、諒子の場合は電話会社が特例的に便宜をはかってくれていた。事実、たったのツーコールで電話は繋がる。山頂に目を向けると、巨大なみゆりは、手のひらにすっぽり収まってしまうほど小さな受話器を耳に押し当てていた。
 もしもし、と電話口に語り掛ける。その瞬間だった。

「遅い!」

 耳をつんざくほどの大音量が響き、鳥たちが一斉に羽ばたく。諒子は反射的にしゃがみこみ、耳を塞ぐ。その声がスピーカーから放たれたものではなく、山頂から空気中を伝播して直接伝わってきたものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

「遅いって、まだ昼の十二時じゃないか」
「わたしを凍死させる気かっ!」
「大げさだよ、それは」

 電話口に語りかけながら再び山頂を見ると、みゆりは明後日の方角を向きながら唇を震わせていた。時間を指定した覚えはないが、彼女の中では半日すぎるともう別の日らしい。そういうせっかちなところもまた、あの子らしいと言える。

「真冬に半袖着てるこっちの身にもなってよ、もう」
「ごめん。でも実はもう、近くまで来てるんだよ」
「近く?」
「君から見てもっと左側、赤い屋根のサイロが見えない? その近くだよ」

 諒子はそう言うと一度電話を切り、大きく手を振ってみせた。みゆりはこちらに顔を向け、しげしげ見つめると、深呼吸にも似たため息ひとつつき、四つん這いになって山を下り始めた。
 ちゃんと立って歩かないのは、きっと足元のあれこれを踏みつぶさないための配慮だろう。みゆりは決して近眼という訳ではないが、何かに近寄るとき、彼女はいつも顔を地面に寄せるようにしていた。ずん、ずんと、重機のように重い音を響かせながら、用心深く山の斜面を下ってくる。迫り来る彼女の姿を見て、時の流れがスローペースになる者は諒子だけではないだろう。それは巨大な物体が動く時の距離感の齟齬、あるいは純粋な威圧感のせいかもしれない。

「こっちだよ、こっち」

 みゆりがすぐそばまで近づくと、諒子は乗ってきた実用性一辺倒のライトバンに半身を入れ、クラクションを鳴らした。みゆりはこちらを見定めると、犬のようにずいと近寄り、諒子に覆いかぶさるようにして鼻先を近づけた。

「ちょっと待たせ過ぎじゃない、諒ちゃん」

 ……みゆりだ。
 当たり前の事実を、口走りそうになる。彼女の顔は大きく、大きく、とてつもなく大きい。常人の約200倍ともなれば、顔だけで十階建てビルくらいの大きさはあろう。みゆりは寒さに震えながら、少しむっとした眼差しで諒子を見つめている。真珠のように白い肌に、桜色の薄い唇。少し手を伸ばせば、頭上を覆い尽くすそれらに触れられそうな気もするが、しかし諒子の手が届くことは決してない。凍えた吐息を漏らす唇も、ほんのり朱色がかった頬も、すぐそこにあるはずなのに、どれも見かけ以上に遠いものなのだ。

「ごめん。道が混んでいたんだ」
「……本当、それ」
「うん。ずっと前から、君の姿はしっかり見えていたのだけれど」
「牛久の大仏のように?」
「牛久の大仏?」
「覚えていない? むかし大学の仲間達と、海浜公園行った帰りに立ち寄ったでしょ」
「あぁ……」

 諒子が呻きにも似た声を漏らすと、不意にみゆりはふふっと息を漏らす。いたずらっぽい笑み。その様子に、諒子の記憶は学生時代に引き戻される。思えば、みゆりはいつも人をからかうのが好きだったように思う。あの頃の些細な悪巧みが、鬱屈とした毎日をどれだけ軽やかにしてくれたか。

「ねえ、諒ちゃんの目には、今のわたし何メートルくらいに見えるの?」
「私の目に?」
「なんとなくでもいいから」
「どうだろう。今朝のニュースでは、遠方観測器で約300メートルとあったけど」

 彼女の大きさは流動的である。今日はむしろいつもより小さい方で、日によってはこの山の標高をはるかに凌駕するほど大きくなってしまうから底知れない。当然その場合、彼女とコミュニケーションを取ることは格段に難しくなる。

「丸めないで、正確に」
「わからないよ。見ただけじゃ」
「そこは自分の目を信じないと」
「じゃあ、350メートルくらい?」

 答えを請うと、みゆりは不意にくすくすと表情をゆがめ、それから何が面白いのか、とうとう腹を抱えて笑い始めてしまった。彼女の荒い鼻息が、突風のように諒子の頭を撫でる。

「東京タワーより大きいって、それもう人の身長に対して使う数字じゃないよね」

 彼女は、無邪気な口調でそう言った。
 ……実際、そのとおりだと思った。
 世界はいま、みゆりという不確定な未来を内包している。彼女の質量が勝るか、人間の叡智が勝るか。全ての行方は、神のみぞ知ると言ったところ。

「自虐のつもりかい、それは」
「ううん。人ってここまで大きくなれるんだな、って思って」
「それは君だけの話だよ。いま例のものを準備するから、ちょっと待ってて」

 諒子はそう言うと、乗ってきた車のトランクを開け、そこに横たわる巨大な黒い箱に手をかけた。後部座席をまるごと潰し、棺桶よろしく鎮座するその箱の中には、みゆりの巨大化を遅らせる特製の錠剤が入っている。諒子は折り畳みの台車を準備し、直径一メートルはあろうその錠剤を外へと運び出す。
 みゆりが何故ここまで巨大化してしまったのか。結論から言うと、人類はその根本的原因を、三年経った今も知り得てはいない。しかしこの三年間、人々はただ手をこまねいていただけではない。科学の粋を集め、予算を案分し、彼女の野放図な巨大化に抗うために、その営みを抑制する薬を開発した。とは言え、その効果はまだ気休め程度のものでしかない。みゆりは月に一度これを飲むことを義務付けられ、そして諒子はこれを運ぶために、月に一度彼女のもとを訪れることになっている。

「ねえ、みゆり」
「何、諒ちゃん」
「もし元のサイズに戻れたら、何をしたい?」
「うーん……ディズニー行ったり、沖縄行ったり?」
「君らしい考えだね」
「諒ちゃんも一緒に、だよ」

 諒子の手に、暖かさが宿る。ああ、本当に私は、君という存在に滅法弱い。その言葉たったひとつだけで、心臓の鼓動が速くなってしまうのだから。

「ありがとう、みゆり」

 諒子が言ったその言葉に、偽りはない。諒子にとってみゆりは、大切な友達なのだから。彼女とはこれまで、本当にいろいろなことがあった。君が大きくなる前も、君が大きくなりはじめた後も。諒子は開けた場所へ台車を押しながら、今日までの日々を次々と思い浮かべた。



 彼女は名を、倉ヶ野美百合と言う。しかし当の本人は、そんな自身の名前をあまり気に入っていなかったようだ。「美百合って、なんだか華やかすぎて自己紹介の時に気が引けちゃう」と。それは自意識過剰なんじゃないかと諒子は思ったが、口にはしなかった。サークルの新歓ではじめて会った時から、彼女にはそういうきらいがあった。
 そんなみゆりの身体が突如大きくなりはじめたのは、今から三年前だ。そのとき諒子もみゆりも大学の三年生で、諒子は学年でも上位の成績を収め、一方のみゆりは単位を取ることに苦心していた。当時の彼女は、自身の成績と将来の不安に押し潰され、すっかり自信を失っていた頃だった。みゆりは人に気配りができる人間だし、定期試験の結果こそ奮わなかったものの、決して地頭が悪い訳ではない。だから諒子には、彼女がなぜそこまで自分を追い詰めてしまっていたのか、そのとき本質的には理解することができなかった。
 それは八月にしては嫌に涼しい、鳥肌が立つような夜だった。スーパーのレジ打ちバイトを終え、一人暮らしのアパートに戻ったという彼女は、急な目眩を覚え、床に伏したらしい。しばらくして意識を取り戻すと、数十秒に数センチずつ、身体がみしみしと大きくなっていることがわかった。とっさの出来事に気が動転したのか、みゆりはあわてて家から出ようとした。しかしその時にはもう、彼女は玄関を通れないまでに大きくなっていた。
 偶然通りかかった警察官があわてて住人達を避難させている間も、彼女の身体は留まることを知らなかった。木材や金属のきしむ音を響かせ、部屋のあらゆるを押し潰し、あるいはへし折る感触に、みゆりは半ばパニック状態だったという。ほどなく最後の住人がいくつかの家財とともに逃げ出すのと同時、みゆりは自らの意思とは無関係に、木造二階建てのアパートを突き破った。夜の住宅街に晒す身長数メートルの巨体。近所住民によって撮られたその写真はSNSに投稿されたことにより、テレビニュースに乗るよりも早く世間に広まった。
 諒子がスマホの画面越しにそれを見かけたのは、実家の引っ越しのために荷造りをしている最中のことだった。棚の食器を梱包し、切りの良いところで休憩していたその時、疲れた目を擦りながら、何気なく開いたスマホのSNSでみかけた彼女の写真。ひどい手ブレとピントの合っていない画像ではあったが、被写体の巨女がみゆりだということはすぐにわかった。もちろん最初は誰かが悪戯で作った画像かと疑った。しかし別のアングルで撮られた画像がいくつも出回ったり、現地の緊迫した動画が音声付で共有されるようになると、事態はいよいよ信憑性をおびはじめた。いてもたってもいられず、諒子は自宅を飛び出し、自転車を走らせた。みゆりの家まで数キロの距離があったが、当時は他に交通手段を持ち合わせていなかった。
 現場につくと、辺りはものものしい空気感につつまれていた。警察による規制線の向こう側、壊れた木造アパートの瓦礫の上に、みゆりは呆然と座っていた。夜空には満月が浮かび、小動物のように怯える彼女の姿を白く照らしている。情報通り、彼女は40メートル近くまで巨大化していたようだ。にもかかわらず、上下ともに破けていない衣服が、物事の異常性をことさらに際立たせる。みゆりは身を縮ませ、肩を震わせ、持ち前の闊達さなど欠片も失い、ただ顔面蒼白に俯いている。「みゆり!」と声をかけ、諒子は警官の制止を振り切って彼女に駆け寄る。

「来ないで!」

 しかし彼女の甲高い叫び声が、それを阻止した。諒子はとっさにみゆりの数メートル手前で立ち止まり、恐る恐る彼女を見上げた。みゆりは、怯えと虚ろが混ざったような眼差しで諒子を見ていた。いや、実際にはこちらに目を向けていたというだけで、諒子のことなど認識さえしていなかったのかもしれない。

「……ごめんなさい。わたし、いま何が起こっているのか、自分でもわからなくて……」
「みゆり……」
「ここから離れて。誰も傷つけたくないから」

 そう言って、みゆりは深く俯いた。
 諒子には、言葉もなかった。
 追ってきた警官に肩を叩かれ、諒子は踵を返す。結局、自分は何をしに来たのだろう。何がしたかったのだろう。
 規制線の外側に戻った諒子は、ふと気になってみゆりの方を振り向く。月明かりに神々しく照らされる巨大な彼女は、今この瞬間もなお数センチずつ大きくなっているのだろうか。だとしたら、彼女は一体どこまで大きくなれるのか。これからどうなってしまうのか。

(また、ごめんか……)

 何より、こんな異常事態にあってもなお、ひとりよがりに揺れ動く自分の心が嫌になる。一方的で身勝手な葛藤に、情けないと吐き捨てるのは簡単だ。だが実際のところ、諒子の中に根差した彼女という存在は、未だ胸の奥深くまで突き刺さっているようだ。人ならざる者になってしまった彼女を見上げ、諒子は無力感を噛み締める。離れゆく彼女の背を追いかけることができなかった、あの日のように……。



 みゆりの姿がテレビの全国ニュースに乗りはじめたのは、彼女が自宅アパートを突き抜けた次の朝からだった。その時みゆりはわずか一夜にして、単なる一般人から国民全員が知る有名人になってしまった。現場の半径数百メートル圏内に住まう近隣住人達は夜間総出での避難を余儀なくされ、人々は訳もわからないまま近くの公民館に待避した。自責の念に押し潰されそうなのか、彼女は三角座りの膝に顔を埋め、ほとんど持ち上げることはなかった。しかし仮に人々がみゆりの顔を拝めたとしても、そこに笑顔はかけらも浮かんでいなかっただろう。
 彼女の巨大化は最初の夜のうちに一度落ち着いていたが、依然として原因は不明のままだった。着ている服もあわせて、身長40メートルにまで巨大化した人間。そんな前例があるなら是非とも教えてほしい。みゆりが巨大化を遂げた木造アパートの跡地は、ほどなく彼女の異常現象を調査するための前線基地へと変貌した。彼女を取り囲むように、国が派遣したたくさんの医者や科学者がテントを設営し、果てはそれらを警護するための警察や自衛隊までもが数多く動員された。みゆりは彼らのいろいろな注文におとなしく従い、事態の早期解決のために終始従順な態度を崩さなかった。それが効を奏したためか、結果的に人的被害はずっとゼロのままで推移した。
 みゆりに関する研究は昼夜を問わず行われたが、めぼしい成果は見事なまでにゼロ。世の道理も最新の理論も、彼女の不可解な営みの前では全くの嘘でしかない。次第に彼女を救ってあげたいという世間の声も大きくなりはじめたが、具体的な案がなければ完全にお手上げだった。人よりずっと勉強を積んでいるはずの科学者達が結論を出せないでいるのだから、庶民にできることなどましてありはしない。
 あの子はもう、遠い存在になってしまったんだ。
 最初に巨大化しはじめた夜以来、諒子は彼女へ会いに行かなかった。いや、というより、あの夜だって別に行く必要はなかったはずだ。諒子には諒子の、彼女には彼女の人生がある。だからお互い、自分のことだけを心配していれば、それでいいはずだった。
 にも拘らず、テレビの中継で新しい彼女の映像が出る度に、ふと目を向けてしまうのはなぜだろう。事態は収束するどころか、むしろ日を追うごとに悪い方へと向かっているようだった。アパートの所有者がみゆりの親族に損害賠償を請求しようとしていること。近隣を経路とする路線バスが長期運休となり、市民の生活に影響が出ていること。中には国内に駐留する米軍が、「組織運用に支障をきたす恐れがある」と難癖をつけ、政府に早期解決のための介入を図ろうとしていたこと。たった一人のうら若い女のために、一連の騒動は国際問題にまで発展しようとしていたのだ。
 みゆりの態度がすこしずつ変化していることに気づいたのは、最初の夜から十数日経ってからのことだった。テレビ中継に映る彼女は、当初こそ調査員の声に耳を傾け、一生懸命縮こまろうと努力している様子だったのに、次第に慣れてしまったのか、ときおり姿勢が崩れるようになっていた。怯えと申し訳なさに押しつぶされそうだった表情からは幾分か悲痛さが溶け落ち、まれに不機嫌な様子さえ見て取れる。本来の彼女なら、どんなに親しい間柄にも決してそんな態度など見せることはなかったというのに。
 嫌になってしまったのだろうか。世の不条理に、進展しない現状に。しかし諒子とて、もし自分がみゆりと同じ立場に置かれたとしたら、いつまでも黙って三角座りしていられるほど従順な自信はない。それに世論の大半は、どちらかと言うとまだ彼女に同情的だった。多くは、彼女の些細な心情変化にほとんど気づいていなかったに違いない。みゆりの見せたささやかな苛立ちは、みゆりをすぐそばで見てきた者にしか判断できない、微かな違いだった。
 諒子は実家の片付けに追われながらも、隙あらば彼女のこと調べていた。だが結局のところ、彼女に関するあれこれを調べたところで、何らかの解決策を見出すことも、自分の心を満たすこともできない。そのうちどこから漏れ始めたのか、彼女のプライベートな情報まで深く出回るようになると、だんだん調べること自体が後ろめたくなり、諒子はじきに彼女に関するあれこれをなるべく見ないように努めはじめた。いずれにせよ、諒子も諒子で暇という訳ではなかった。諒子をとりまく適度な忙しさは、自分の脳からみゆりを追い出すうまい口実になった。



「なあ、最近ニュースになってるみゆりさんって、姉貴の友達だったよな」

 ある日、引っ越し作業も佳境を迎え、家具のなくなった居間でぼんやりしていた時のこと。弟の和斗が、真昼の暑さを団扇で懸命にかき消しながら話しかけてきた。和斗は諒子の一歳下で、昔はしょっちゅう姉弟喧嘩をした相手だったが、身長で抜かされてからはすっかり勝てない存在になってしまった。

「そうだけど、何?」
「あのひと、前に彼氏がいたって噂聞いたんだけど、それ本当?」
「本当だとしたら、どうするつもり」
「いや、あんな大きさになって、どうやって人とまぐわうのかな、って」
「……馬鹿じゃないの」

 諒子は深く嘆息する。一体どんな神経をしていれば、何の脈絡もなくそんな話を切り出せるというのか。そう怒りたくもなるが、裏を返せばそれは諒子が(実の姉とは言え)女性として見られていないことの証明でもあった。

「それ、私はともかく、人前では言わないでよ」
「冗談だって。それより、お袋が今日の昼飯準備してないから、どこかで食べてきてって」
「そんなことを伝えるために、下らない冗談言ってきたの?」
「そう怒んないでよ。これでも俺、姉貴のことちょっとは心配しているんだぞ」
「心配?」
「最近、なんかずっと表情が暗いしさ。特にあの人が大きくなってからは、なおさら」
「……お気遣いどうも」

 諒子と和斗は近所の大型スーパーに向かい、そこのフードコートで昼食を取ることにした。二人してカレーライスを頼み、口に運ぶ。少食の諒子にとっては多めの量だったが、体育会系の和斗には少なかったのかもしれない。和斗は諒子よりも先に食べ終え、自身の角刈りの頭髪を弄りはじめた。

「みゆりさんのことだけど」

 和斗はスマホの画面で自分の姿を確認しながら言った。

「あんな姿まで大きくなっちゃって、姉貴も少しは気にかけてるんじゃないかって」
「私が何かを気にかけたって、今のこの国にあの子をどうこうする具体的な術はないよ」

 諒子はぶっきらぼうに返すと、中辛カレーの残りを口に含んだ。和斗は、少し驚いたような表情でそれを見ていた。

「……ずいぶん冷たいな。二人とも、以前はかなり仲良さそうにしていなかったっけ?」
「どうかしら。もしかしたら、これは長い夢かもしれないじゃない」
「喧嘩でもしたの? 大人げない」

 ため息混じりに言う和斗だったが、諒子だって別に笑わせるつもりで言った訳ではない。

「みゆりさん、あんな状態になって、もう一ヶ月も経つんだ。誰かがそばにいてあげたら、少しは気が楽になるんだろうけど……」
「誰かって、例えば?」
「仲の良い友達とか。あのひとの交友関係について俺は何も知らないけど、ニュース見てる限りだと、なんだかずっと一人に見えてしょうがないんだ」
「みゆりのこと、ずいぶん心配しているのね」
「姉貴は本当に心配してないの?」
「私?」
「以前だったら、あの人のことになると目の色変えてたじゃないか」
「……それは気のせいでしょ」

 諒子は席を立ち、食べ終わったカレーのトレイを持ち上げる。そして返却口に向かい、そそくさと歩き始める。

「可愛くないぞ、姉貴」

 背後から言ってきた和斗に、「何様のつもりだ!」と言い返してやりたい気持ちもあるが……残念ながら自分が可愛くないのは図星だ。ああ、わかっている、自分の悪いところくらい。都合が悪くなったり、人から見透かされたような物言いをされると、諒子はいつも他人に対して冷たく壁を作ってしまう。遮るように、逃げるように。
 当時の諒子は洒落っけの少ない、モノクロの女だった。それに付け加えて、表情も決して豊かな方ではない。鏡の前で何度も笑顔の練習をしてみたが、どうにも板につかず駄目だった。気のきいた返事をすることや、周りに愛想を振り撒くこと。諒子は幼い頃から、そういうものを自然には出せなかった。人によっては、私を冷たい人間だと後ろ指さす者もいたかもしれない。
 ……しかし、だからといってなんだ。勉強ができれば進学できる。成績が良ければ認められる。冷たい。愛想がない。そんなの誰にも言わせないほど優秀な成績を手に入れれば、周りの目線なんて気にならなくなるに違いない。そんな思いで諒子は、今までずっと突っ走ってきた。自分なりに戦い、自分なりに居場所をつくってきたのだ。彼女に興味を抱かれる、その日までは……。

 ――やっぱりだ。諒子ちゃんって、冷たい人じゃなかったんだね。

 あれは大学二年のゴールデンウィーク。当時所属していたボランティアサークルのメンバー数名と、茨城にある海浜公園へ行った帰りだったろうか。
 各々なけなしの貯金から費用を出し合い、分乗した軽のレンタカーの中。ハンドルを握る諒子に、何かの会話の流れで、助手席のみゆりがそう言った。彼女と会話するのははじめてではなかったが、冷たい人じゃないと断言されたのは、おそらく産まれてこの方はじめてだった。
 高速道路の車線を変えようと、左のサイドミラーへ目を向ける。みゆりの穏やかな横顔がちらりと見えたその時、不意にハンドルを握る諒子の手に、暖かさが宿った。後部座席に座る他のメンバーは、疲れ果てたのかぐっすり眠っている。その姿に、みゆりは可笑しそうにくすくすと笑っている。小さな車内が不思議と居心地良く、諒子は道路標識に記されている東京までの距離に感謝した。
 目に映る景色が変わりはじめたのは、その時が最初だった。まるで視界全体の色温度が数ケルビン上昇したかのように、見るものすべてに暖かさが宿りはじめた。理屈でも計算でもない、論理で説明のつかない生き方があるかもしれないと、そのときはじめて思った。けどそう思ったのは諒子だけであって、みゆりにとっては別に何でもない、ただの日常のワンシーンにすぎなかったのかもしれない。
 わかっている。自分がおかしなことくらい。同性相手にここまで心のふちをくすぐられるなんて。けど友達も少なかった諒子にとって、明るく美人なみゆりはそれこそ花だった。あるいは花だったからこそ、距離感を見誤ってしまったのかもしれない。あの時せまい車の中で、ラジオは洋楽の激しいロックばかり流していた。そのときボン・ジョヴィの「You Give Love A Bad Name」が流れ始めたことは、今でもよく耳に残っている。諒子がその歌詞の意味を理解するのは、ずっと後になってからのことだった。



「仲直り、したら?」

 帰り道。横に並んだ和斗にそう言われ、諒子は恨めしい眼差しで弟を見遣る。

「くどい」
「チャンスなんていつでもあると思ったら、本気で機会なくすよ。あの人、またこれから大きくなる可能性だってない訳じゃないし」
「あの子と仲違いした訳じゃないの」
「じゃあ何なのさ」
「あなたには一生わからないでしょうね」

 言葉通り、和斗は何のことか理解できないといった眼差しで諒子を見ていた。ずぼらでガタイのいい野球少年の和斗には、諒子とみゆりの繊細な心情など、わかるはずもない。
 その日諒子は、家に戻ると自室から出ることはなかった。夏場にも関わらず寒気がして、布団を被って横になった。夜になると、カーテンの隙間から巨大な満月が、まるで地上を卑しく笑い飛ばすかのように煌々と照り輝いていた。満月を見て思い出すのは君の姿。人ではなくなってしまった、君の姿。

 君という存在が。
 私の心の中で大きくなり尽くすまでに。
 私に何かできることはあったのだろうか……。

 この時はまだ、みゆりが再び巨大化することになるなど、想像だにしていなかった。



 * * * * * *



 孤独は人を狂わせると言うが、友達が多いからと言って気楽とは限らない。なぜそんなことが言えるのか。それはみゆり自身の経験に依るところが大きい。
 幼いころからみゆりは物覚えが悪く、暗記や勉強が苦手だった。けどその反面、普通の人より洞察力と協調性には恵まれていた。相手の気持ちを察して一歩引いたり、逆に相手の欲しがっている言葉をかけてあげたり、そういうことをするのは昔から得意だった。みゆりはどんなグループにもすんなり溶け込めたし、どこに行っても一人になるようなことはなかった。結果的にみゆりは、たくさんの友人に恵まれた。
 みゆりはしばしば、容姿の良さを褒められることがあった。均整のとれた顔立ちや、真珠のような白い肌。周囲の同世代の女子とは、明らかに異性からの寄られ方が違った。講義のグループディスカッションで同じ班になった男子の目の色が変わったり、街を歩いていたら芸能事務所か何かのスカウトに声をかけられたりと、そういうことはままあった。だけどみゆりは、決して自分の容姿を鼻にかけるような真似はしなかった。それはみゆりが謙虚な性格をしていたからではない。そういうのを前面に押し出せば、どこかに快く思わない人が必ず現れることを知っていたからだ。みゆりはいつも自己主張を圧し殺し、必要以上に愛想笑いを振り撒いた。多少人からぞんざいに扱われても、なるべく言い返さないように心がけた。なまじ共感性が高すぎる分、周りの人から嫌われたくないという意識がひと一倍強かった。
 何かが決定的に満たされない感覚が常に付きまとった。結んだ縁のほとんどが、まがい物のような気がしてならなかった。けど何が原因でそういう気持ちに陥ってしまうのか、いまひとつ検討がつかなかった。いずれにせよ、そんなことを口にすれば、仲良くなった友人達はみんな離れてしまうに違いない。だから余計人間関係に依存してしまう。みゆりは周囲に明るい笑顔を振り撒きながら、心の奥底で矛盾を抱えていた。

 そんなみゆりも、身長40メートルに巨大化したことで、蜜とも毒とも言える人間関係からはいったん身を引くことになった。

 世界でたった一人だけの特異点。過去に前例のない現象。彼女はいま、言葉通りの意味で地球上に一人だ。かつて仲の良かった友達や付き合いのあった知人は、全員みゆりのそばから離れてしまった。彼女の足元までやってくるのは、政府から派遣された研究チームと警備員だけ。そんな現状に、みゆりは一抹の寂しさを感じずには居られない。
 自宅アパートを突き破るように巨大化した日から、早いもので一ヶ月が経とうとしていた。みゆりはこの一ヶ月間、ほとんど三角座りの姿勢のまま、人目と風雨に晒され続けていた。普段なら十数分と同じ姿勢を取り続けるだけで腰が痛くなってくるはずなのに、今のみゆりにはそれがなかった。まるで巨大化にあわせて、自分の身体組織まで根底から変わってしまったようだ。
 思えばこの一ヶ月間は退屈なようで、実際はあっという間だった。身体が大きくなりはじめてから頭はぼんやりとしか動かないし、時の流れが倍以上に速くなる感覚さえあった。だからこうして住宅街のど真ん中に三角座りをしているだけでも、時間なんてあっという間だった。きっと人間だった頃の平衡感覚が、少しずつずれてきているのかもしれない。
 不幸中の幸いだったのは、撮られても恥ずかしい格好じゃなかったこと。白のブラウスに、デニムのパンツ。衣服は一ヶ月前のあの日、スーパーのバイトから帰って来た時のままだし、これだけの巨大化をしたというにも関わらず、破けるどころか一糸のほつれさえ見当たらない。光沢のある黒髪だって未だに乱れてはいないし、何のケアをしていないはずの肌も艶々しいまま。……いや、それどころか、お腹も空かなければ排泄もない。まるで人として当然の摂理を、どこか別の空間に置き去りにしてしまったかのようだ。
 一連の騒動が夢であってほしいと、どれほど願ったことか。朝起きたらいつものように大学に行き、親しい知り合いの隣の席に座って講義を受ける。勉強はあまり得意な方ではなかったけれど、今考えれば学校自体はそれほど嫌いじゃなかったように思う。もしあの日々に戻る方法があるというのなら、神様にいくらでも拝み倒すと言うのに。しかし何度目を瞑っては開こうとも、みゆりを取り巻く状況は欠片も変化がない。
 このままずっと、こんな姿で居続けなければいけないのだろうか。元の姿に戻ることもなく、世界の特異点となったまま、一人でずっと……。良いことも嫌なことも、半分ずつあったあの日の日常が、今ではなんとなく恋しい。
 ちょうど、そんな風に考えていた時のことだった。
 彼女の身体に、再び異変が起きたのは。



 巨大化して二度目の満月の夜。
 うとうとしていたみゆりの身体に、ふと全身を覆い隠すような痺れが走った。身体の奥底から熱がこみ上げ、目眩と、言い知れぬ吐き気のようなものが襲いかかる。嫌な予感を覚えた次の瞬間、何かのスイッチが入ったかのように、背筋を電流が駆け巡った。
 するとそれまで身長40メートルからまるで変化しなかったはずのみゆりの身体が、突然ぐぐぐと音を立てて再び大きくなりはじめた。住人達の避難が完了し、人影のなくなった深夜の住宅街。最初に異変を感じたのはみゆり自身ではなく、現場に残っていた夜警の警備員達だった。彼らは突然思い出したかのように始まったみゆりの巨大化に驚き、戦慄し、声を上げて逃走しはじめた。みゆりは彼らのその姿を見て、自分の身体に異変が起きていることにはじめて気がついた。

「……嘘でしょ? そんな、わたし……嫌、嫌ぁ!」

 自分の身体が再び大きくなりはじめている。周囲の家々と見比べ、はじめてその事実に気がついた時、みゆりの心はとてつもない恐怖に襲われた。悲痛な叫び声を上げ、みゆりは三角座りの姿勢のまま強く肩を抱く。膨張する自らの身体を懸命に抑え込み、やめてやめてお願いとしつこく念じる。しかし彼女の意志とは裏腹に、身体の巨大化はむしろ反比例的に加速してゆく。「止まって、止まって……」。しきりにそう呟くみゆりに対し、手の施しようなどあるはずもない。
 一歩たりともそこから動いていないというのに、近隣家屋が巨大化する足や尻の下敷きになって次々と潰れていった。強固な木造住宅やかたいブロック塀も、今のみゆりにとっては障子のように脆いものだった。ぐんぐん、と身体の成長は留まることを知らず、夜空に向かって伸び続ける。みゆりは目尻に涙を浮かべ、自らの肩をより一層抱き締めた。誰でもいいから助けてほしかった。
 わずか三十秒ほどの間に、彼女の身長は160メートルほどにまで到達した。常人の100倍サイズにまで大きく膨れ上がり、みゆりは肩を大きく震わせながら涙を滲ませる。前に出した脚は一本となりの路地を突き破り、膨張した臀部は近隣家屋を木っ端微塵に敷き潰していた。異変を察知したのか、遠くから警察のサイレンの音が鳴り始め、それはゆっくりと近づいていた。
 瓦解。うち崩れ、潰れ、原型も留めず砕かれたのは周辺の家々だけじゃない。みゆりが抱いていた淡い期待も同じだ。いつか元の日常に戻れる日が来ると信じて、ずっと我慢して過ごしてきたのに、まさか逆のことが起こるなんて。

「そんな、わたし……」

 みゆりは巨大化した自身の身体を見下ろし、息を呑む。これが何かの罰だとしたら、みゆりの罪は一体何だというのか。何に謝り、何をすれば赦されるというのか。

「ごめんなさい」

 心の中で、何かが崩れる音がした。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 みゆりは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。深夜の住宅街に黒々と聳えるその姿は、もはや得体の知れぬモンスターだった。



 みゆりが160メートルに巨大化する少し前、諒子はベッドに横になり、SNSに投稿される彼女の画像や情報について流し見していた。この一ヶ月の間に、彼女に関するほとんどの事柄はネットの海に流出していた。名前、身長、年齢、通っていた大学、それに誰が言いふらしたのか、過去の男性遍歴まで。中には諒子の知らないことや、明らかに間違っている情報もあった。しかし真偽のほどなどどうでもよく、投稿者も閲覧者も、ただ盛り上がりたいだけだった。
 SNSに投稿されるワードは連日注目を集め、Youtubeにアップロードされる解説動画は毎回とんでもない視聴回数を記録する。みゆりに恐怖や戦慄を感じていた者は少なくなかったが、それでも大半はまだ同情や憐れみを抱いていた。身も蓋もない話だが、それはきっと彼女に愛嬌があったからだろう。もし諒子が同じように巨大化しても、同じように心配されることはなかったに違いない。
 諒子の一家は近々引っ越しを予定していた。今の諒子の自宅は、みゆりが巨大化した現場から距離にして二キロ以上、三キロ未満といったところ。対して今度引っ越す新居は、現場から八キロ以上、九キロ未満に変わる。これを遠いと見るか、近いと見るかは、人によって意見が分かれる。
 みゆりがうちに遊びにきたのは、過去に三回ほど。一回目と二回目は昼間に。三回目は夜に。最後については、両親や弟が居ないのを良いことに、そのまま朝まで泊まったのも今ではいい思い出だ。

 ――ごめん。

 諒子の目に映ったみゆりの最後の姿は、背中だ。
 彼女はそのまま振り向くことなく、去ってしまった。諒子とは別の、もともと仲の良かった友人達が居た場所に。
 愚かだったのは自分の方なのだろう。今までにないタイプの人間と付き合って、一過性の感情に少し勘違いしてしまっただけ。同性相手にあんなに心奪われていたことが、今ではなんだかおかしくて笑えてさえくる。
 私たちはこれからどうなってしまうのか。どこへ向かい、どんな運命を辿るのか。世界の特異点となったみゆりに、単なる傍観者でしかない諒子。既に二人の関係性は乖離し、引き剥がされる一方でしかない。そんな感覚を抱きながら、諒子はうとうとと浅い眠りに落ちた。

「姉貴、起きろって!」

 しばらくすると、ドアの向こうから弟の和斗の声が響いた。カーテンの隙間から見える景色はまだ暗く、時計を確認するも、記憶のある時間からそれほど経っていない。無視してやろうかとも思ったが、何だか嫌な予感がして、諒子は被った布団を押し退けた。外していた眼鏡をかけ、うんざりしながらドアを開けると、和斗はいつになく焦った顔で、スマホを握りしめていた。

「まずいよ。みゆりさん、また巨大化したみたいだ!」
「みゆりが巨大化?」

 いまひとつ状況のつかめていない諒子に、和斗はスマホの画面を見せつける。そこには、160メートルに巨大化し、周囲の家々より圧倒的に大きくなってしまったみゆりの定点カメラの映像が流れていた。

「嘘でしょ……これ、本当なの?」
「テレビつければどこもニュースになってるよ。いま親父と話して、ちょっと遠くに避難しようかって話になってる」
「遠くって、どこに?」
「とりあえず叔父さんの家。ここからなら、車で一時間もあればつけるから」

 諒子は急かされるまま最低限の荷物を整え、家族とともに玄関を出た。夜の住宅街は災害用のサイレンがけたたましく鳴り響き、家々の窓からは明かりという明かりが漏れ、完全に眠りを失っていた。諒子は和斗とともに後部座席に乗り込み、前方の父母に行き先を委ねた。家族四人でドライブに行くのも久々だが、まさかこんな形で実現することになるなんて思ってもいなかった。

「あれって、嘘だろ……」

 家を出てすぐ、車は狭い路地から幹線道路に入る。道路の幅が広がったことで、遠くの景色が少し広く見えるようになった。建ち並ぶ家々の向こう、距離にして数キロは離れているであろうその先に、何かとてつもなく巨大な像が見えた。自衛隊のヘリコプターがその周囲を取り囲み、サーチライトを使って明るく照らし出そうとしている。それが巨大なみゆりの姿であると気がつくのに、そう時間はかからなかった。

「でっけぇ……」

 和斗はそう呟いた。口にはしなかったが、諒子も感想は同じだった。三角座りの姿勢で肩を震わせるみゆりは、周囲の家や低層マンションなんかよりもずっとずっと大きい。彼女は誰に対するでもなく、しきりに何かを呟いているようだった。その言葉は遠くてよく聞き取れなかったが、諒子には「ごめんなさい」と言っているように思えてならなかった。



 夜明けを待たずして、一家はひとまず隣県にある叔父の家にお邪魔することになった。県を跨いでしまえば、流石に対岸の火事と思っていたのだが、諒子達を迎え入れた叔父の家族もまた、ニュースに映るみゆりの姿に恐れを抱いていた。今やみゆりは、誰にとっても恐怖の対象でしかなかった。

「姉貴、ずいぶん顔色悪そうだけど……」

 このときばかりは、和斗も諒子のことを珍しく心配してくれた。和斗はみゆりと直接の面識はあまりなかったが、諒子とみゆりが友人関係であることを知っていて、それを何となく気にかけてくれていたのだ。諒子は「大丈夫だから」と言うと、叔父の家族が用意してくれた布団で二度目の眠りについた。けど異様な緊張感からか、やはりなかなか寝付けなかった。
 みゆりが160メートルに巨大化した直後から、自治体の判断によって避難指示範囲は一気に拡大していた。もともと現場の半径二百メートル圏内が対象となっていたところ、今では十キロ圏までもが対象となり、現場はパニック状態に陥っているらしい。十キロとなると、諒子の旧居も新居もそこに含まれることになる。せっかくの新居に入れなくなるのは残念だが、誰よりも早く逃げる決断をしたことについては、ある意味正解だったのかもしれない。

「なあ、これ見てよ」

 正午頃、和斗と居間でお昼を取っていると、唐突に和斗はスマホの画面を見せてきた。それは報道機関が発したニュース速報で、みゆりに関する調査結果の公表だった。

「みゆりさんの症状、現場では月光症って名前で研究が進んでいるらしい」
「……月光症?」

 前線でみゆりの調査に当たっている科学者達は、どうやらひとつの仮説にたどり着いたらしい。その内容を要約すると、次の通り。

 ・みゆりの身長は、満月の日に伸び、新月の日に縮む。
 ・満月の巨大化にばかり注目が行きがちだが、実際は新月の日にわずかながら縮んでいる(直近の新月の夜の変化量は約30センチ)。
 ・何らかの方法で新月の縮みを増強させることが、当面の目標。

 ……正直、俄には信じがたい話だが、思い返せばみゆりが巨大化した夜はたしかに二回とも満月だった。しかし、一体なぜ彼女の身長変化に月の満ち欠けが関係してくるというのか。記事によると、調査員達もまだそこまでの真実には近づけていないらしい。
 月の満ち欠けは平均29.5日で一巡する。となれば、みゆりはあんな巨大化を、これからおおよそ一ヶ月に一回繰り返すことになる。仮に今のペースで四倍ずつ巨大化していけば、640メートル、2,560メートル、10,240メートルと、わずか三回でエベレストの標高を越えることに。正直そんな人間の姿を、諒子はうまく想像することができない。

「あの人が大きくなり尽くすまで、俺たちあと何ヵ月生き残れるのかな……」
「やめてよ、そんなこと言うの」

 縁起でもないことを言う和斗に、諒子は首を振る。自分たちを含めて、彼女のために命を落とす者がいるなど、正直考えたくもない。

「まだ希望が絶たれた訳じゃないんだから。変なこと言わないで」
「だけど、どっちにしたってもう、あの人を擁護する人なんてほとんど居ないんじゃないかな」
「擁護?」
「だってそうだろ。もう自衛隊だって動いてるし、もしかしたら手を施せるうちに『処分』する可能性だって否めない」

 その点は、確かに和斗の言うとおりかもしれない。もちろん悪いのはみゆりの身体に生じた現象そのものであって、決してみゆり本人に悪意がある訳ではない。でも世間はもう、そういう目では彼女を見てくれないだろう。これほどまで事態が大きくなってしまったのだから。実際、SNSを確認してみると、みゆりに対する人々の評価は見事なまでに裏返りつつあった。民衆にとって彼女は既に、同情できるような相手ではなくなってしまったのだ。
 思えば、みゆりは可哀想な子だった。彼女は人より容姿も性格も良く、転じて妬みの対象になりがちだった。みゆりは友人も多かったが、同じ分だけ敵になる者も多かった。彼女はそういう人たちにさえ真っ正直から向き合おうとするあまり、常に神経をすり減らしていた。
 みゆりに決定的に欠けていたものは、周りの目を気にしないマインドや、自分はここに居てもいいんだという図太さだった。いまごろ彼女は押し潰されそうになっているに違いない。希望もしていないのに否応なしに世界から場所を奪い取って、良くも悪くも人々から注目を集めて、つらいのにつらいことを切り出せず、怖いのに怖いことを言い出せず、彼女の心はいま、内側から引きちぎれてしまいそうなのではないか。

「神様は人類の何が気に入らなかったんだろうな」
「神様なんていないでしょ」

 和斗の一言に、諒子は反論する。確かにこの事象が神様とやらによる仕業なら、なぜこんなことをするのか、なぜみゆりでなければいけないのか、聞きたいことはいくらでも湧いてくる。しかし生憎、諒子は神など信じていない。たとえみゆりが、既存の科学で説明のつかない存在になったとしても。

「この地球上にいるのは神様なんかじゃない。人類と、人々の間に横たわるしがらみだけ」

 人はみな、一人では生きられない。だからこそ人は、人との間にしがらみを設けようとする。そのしがらみによって得する者もいれば、損する者もいる。諒子やみゆりは、間違いなく後者だ。二人は二人して弱い人間で、だからこそお互いに支えあおうとした。欺瞞に満ちたこの世界でも、笑いあって生き抜こうとした。
 けど今は、それがほんの少しすれ違ってしまっただけ。私たちは決して、仲違いをした訳じゃない。本当は諒子も、心の奥底で気づいているはずだ。もし諒子がいま、みゆりに対して何かひとことだけ言えるとしたら。それは以前からずっと変わらない。ただひとつだけ。

「……もし世界中がみゆりの敵になっても、私は、私だけは、最後までみゆりの味方でありたいと思う」

 ……ずっと言えなかった言葉を、諒子はこのときはじめて言えた気がした。そう、諒子にとってみゆりが大切であることは、今も昔も変わりはしない。たとえ彼女が何万キロメートルに巨大化したとしても、だ。

「味方って、じゃあ具体的に何かできることはあるのか?」
「それは……」
「何もできやしないだろ。ちっぽけな俺たちなんかにはさ」
「……」

 忘れてはならないが、みゆりがはじめて巨大化した夜に、諒子は一度彼女から拒絶されているのだ。仮に諒子が今後どれだけ彼女を思いやったとしても、それをみゆりが受け取ってくれる見込みがあるとは言えない。

「あんまり責めるつもりはないけど、結局味方だとかなんだとかって、言うだけなら簡単なんだよ。でも思いやりだけであの人の身体が縮むなんて都合のいい話はない。それができるくらいなら、世界からはとっくに戦争なんてなくなっている。そうじゃないか?」
「……そうね。和斗の言うとおりかもしれない」
「言い返さないんだな、いつもと違って」

 和斗はそう言うと、冷蔵庫からお茶を引っ張りだして飲んだ。弟と口喧嘩以外に真面目な会話をするのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
 諒子は和斗に反論することなく、その場でじっくり考え込んだ。彼女のためにしてあげられること。言葉や想いだけではなく、具体的に行動可能なこと。少し考えて、諒子は再び口を開いた。

「ねえ、和斗。みゆりの身体を現場で研究している調査団って、具体的にどんな組織かわかる?」
「組織?」

 和斗は何かを検索するように、しばらくスマホの画面を操作した。それから少しして、諒子にその中身を見せた。

「政府からの要請を受けた色々な団体や企業が混合して調査に当たっているらしい。東応大学、国立先端医薬技術研究所、株式会社桜木製薬……その他もろもろ。それらを総称して、現地ではベルーガと言われているみたい」
「ベルーガ?」
「ほら、ここの調査員達ってみんなシロイルカの腕章を付けているだろ?」

 表示された画像を拡大すると、彼らは確かにシロイルカをモチーフとしたデザインの腕章を付けていた。恐らく、現場で調査に当たる人間と、それ以外の警備員や作業員などと区別するために身につけているのだろう。

「本当だ。気がつかなかった」
「でも東応大も医薬技研も、相当なエリートじゃないと入れないとこだろ? 桜木製薬だって、バカの俺でも知ってる大企業だし」
「まあ、みゆりの調査に当たるくらいだから、それくらい優れた集団じゃないと務まらないってことなんでしょうね」
「でも、こんなことが急にどうして気になったの?」
「別に。なんでも」

 和斗には、言えなかった。
 まだ諒子の中に、確証めいたものなどなかったから。
 けど諒子は、この時にはもうすでに心の奥底で決意していたのだと思う。みゆりに対し、言葉や思いやりだけによらない、現実的な手段で協力できること。アルバイトでもいい。雑用でも何でもいい。ただ彼女の不可解な現象に立ち向かうために、少しでもできること。

 ……ふと、諒子は唐突に思う。
 そうか。愛って、そういうことなのかもしれない。

 愛情に、相手が応えてくれるかどうかは本来関係ない。ただそこに、自分の中に自立して存在するだけ。諒子はずっと怯えていた。友情だろうと何だろうと、相手が受け取ってくれなかったらどうしようとか、拒まれたらどうしようとか。そういうことばかりがいつもつっかい棒になって、どんな相手に対しても心の扉を開けなかった。
 けどみゆりは、みゆりだけは違った。あの子はそんな諒子の心の壁を取り払い、はじめて大切にしたいと思える相手だった。だからどんな仕打ちをされたとしても、それすら乗り越えて、彼女のことはもっと大切にしたかった。その気持ちは、彼女が人ではなくなってしまった今も変わらない。
 であれば、彼女が振り向いてくれようがくれまいが、諒子なりのアプローチをすればいい。

 いつか私もベルーガの一員になって、みゆりの現象を突き止めてやる。

 諒子はこの時、そう思った。このあと、彼女が人の命を脅かしかねない、とんでもない厄介を始めることになるとも知らず……。



 160メートルに巨大化してから一夜明け、昼間の太陽がみゆりを照りつける。よく晴れた空に反し、彼女の笑顔が晴れることはない。みゆりはその場から一歩も動くことなく、呆然と三角座りの姿勢を維持した。住人達の避難などとっくに完了し、静まりかえった住宅街。そこに報道用のヘリが飛び交い、みゆりやその周辺の様子をカメラにおさめている。みゆりは空中を飛び交うヘリを、恨めしそうな眼差しで見上げる。正直やめてほしいと思っているけど、何を言ったってどうせ止まりやしないだろう。今のこのしかめっ面でさえ、テレビのニュースか何かで放映されているに違いない。巨大化するということは、プライバシーの隔たりを失うということ。人は人波の中にいなければ、自分を隠すことすらできない。
 本当に、これからどうなってしまうのだろう。このまま街を覆い隠すほど大きくなってしまうのか、それとも予想もつかないような、もっとひどいことが起こるのか。
 160メートルに再巨大化した直後から、みゆりの周囲には自衛隊が付きまとうようになった。先日までは警察が主体となっていたみゆりの周辺警護も、今朝からは小銃を携えた隊員達の姿に様変わりしていた。見渡すと、少し離れた路上にはいくつもの装甲車が止まり、いつのまにか一帯はものものしい空気感に包まれている。彼らは市民からみゆりを守るために派遣されたのではない。みゆりから市民を守るために配置されているのだろう。ともすれば、わたしはここで殺されでもするのかもしれない。そう思ったりもしたが、人々はまだ諦めた訳ではなかったようだ。

「あなたの身体を縮める新薬を開発しています。どうか、今いちど身体検査に協力させて下さい」

 若い男性隊員のひとりが、拡声器越しにそう言った。その言葉通り、最新の研究機材と人員が次々と搬入され、皆々みゆりの足元から体組織の一部を採取したり、血を抜こうとしたりしはじめた。聞けば、新薬開発のために政府が各企業に協力を打診し、そのために必要な調査日程を大幅に前倒ししたと言うのだ。今の人類には、みゆりの身長変化に関するメカニズムが、まだ圧倒的に判明していなかった。
 とは言え、みゆりの身体は既に人智の埒外にあり、血液検査をしようにも肝心の注射器すら針が通らない有り様だった。それに皆緊張しているためか、素人目で見てもあきらかに段取りが悪い。結局、何も進展もないまま時間だけがいたずらに過ぎ、時刻は夕方を迎える。この調子では、夢の新薬とやらも夢のままでしかないかもしれない。
 隊員達は口々に「まだしばらくその場に留まっていてください」と言う。しかし今のみゆりは、もう誰の言葉も信じられそうになかった。「留まるって、一体いつまでですか」。震える声で問いかけると、隊員達は指示が下りるまでとか、当面のあいだとか、曖昧な回答ばかり。

 ――こんな時、諒子ならどんな風に切り抜けるだろう。

 不意に、思いを馳せる。もしも彼女なら、こんな姿になった時にどうするだろう。どんな風に気持ちを整理し、どんな風に時間が過ぎるのを待つだろう。
 そう思ってしまう自分もいるが、しかしその妄想が無意味であることは、みゆりが一番わかっているはずだ。彼女との関係を破壊してしまったのは他でもない、自分自身なのだから。
 みゆりはもう、とっくに疲れきっていた。いつまで経っても解決しない日常に。進展しない日々に。いっそ、平和で充実した日常をぶち壊してやりたいと思う瞬間がいくつもあった。けどそれを表だって口にすることはなかった。そんなことを口にすれば、いずれ元の姿に戻った時に、反感を買うことになるのは明白だったから。
 ……しかし、いろいろと気を遣うのも、もうそろそろ限界かもしれない。世界の特異点となって既に久しく、一ヶ月も経って未だに打つ手なし。おまけに元の姿に戻るどころか、その正反対の現象にさえ見舞われるとなれば、みゆりだって耐えられそうにない。
 みゆりの身長は160メートルのままで停止していたが、二度の巨大化を経験した以上、いつ三度目四度目が訪れるか、油断ならぬ状況にあった。世間には、みゆりは満月の夜にしか巨大化しないという仮説も流れはじめているようだが、今のところ推測の域を超えた話にはなっていない。現場にはピリピリとした緊迫感がはりつめ、それはみゆりにも肌を通して嫌というほど伝わった。様々な感情がいくつも混ざりあい、溶け合い、みゆりは身体の内側から引き裂かれそうだった。
 どうしてわたしだけがこんな思いをしなければいけないのだろう。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのだろう。みゆりの心は、この一ヶ月の間にすでに閉塞し、うち崩れそうだった。自分がこんなに苦しんでいるのに、誰も理解してくれないこの世界が嫌いになってしまった。
 歪んだ感情が、みゆりの心を黒々と染めてゆく。
 少し、ほんの少し、自分勝手に振る舞ってやろうか。この時になってはじめて、みゆりはそんな風に思った。



 すく、と立ち上がる。
 予告なく、ほとんど恣意的に。
 おおよそ一ヶ月ぶりの起立。にもかかわらず、足の痺れもなく、身体は異常なほど軽い。周囲から視線を一気にかき集め、どよめきと戸惑い、怒号と狼狽を巻き起こす。「何のつもりだ!」「動くな!」。血気盛んな自衛隊員達は、みゆりの意図をいまひとつ飲み込めないまま叫びを上げる。だけど、みゆりの耳にはもう、そのいずれも届かない。
 身長160メートルとなったみゆりの目線から見下ろす住宅街は、想像以上に広く、そして小さかった。まるで絨毯のように広がる一軒家の数々に、ぽつりぽつりと点在する低層マンションやビル。住人達の避難が完了しているのか、目に見える範囲に民間人の姿はない。だが電気のついたままの窓もちらほらと。少し前まで、この辺りで今まで通りの日常が繰り広げられていたことは容易に推察することができた。
 今の大きさなら、家を壊し、ビルを蹴り、街を、都市を、めちゃくちゃにしてやることも難しくはない。このときみゆりは、どんな表情をしていただろう。八方美人な笑顔の仮面を剥ぎ捨て、その下に鎮座する黒々とした生の肉塊。誰も、自分でさえ見たことのない、悪い表情をしているのではないか。
 みゆりにはもう、自分を縛るものがなかった。いやむしろ、謎の巨大化を遂げたその瞬間から、そんなものは欠片もなかったのだ。きっとこれは、みゆりを不憫に思った神様が与えてくれた贈り物なのだろう。いろいろなしがらみから自分を開放してもいいのだというメッセージ。もはやそうとしか考えられない。

「……山の方に行こうと思います。ここでは、地元の方の邪魔になってしまいそうですから」

 最後の良心が、みゆりの口を使ってそう呟かせた。みゆりは肩を大きく震わせ、荒い呼吸をしながら都心とは逆方向に歩き始めた。その進路上に、多数の住居が存在することを認知しながら……。

「でもね、わたしちょっとだけイライラもしているんです」

 歩みを止めることなく、彼女は周囲に向けて言葉を紡ぐ。もちろん周囲からは制止の声が相次ぐが、もはやみゆりにそれを構うだけの心はない。100倍サイズと化したみゆりの素足は、それだけで長さ25メートルにも及ぶ。彼女はその足で何のためらいもなく家々を踏み潰しながら、ゆっくりと進む。

「身体を縮める新薬とやら、今すぐ全力で作ってくださいね。でないと……」

 足の裏に感じる木造住居の潰れる感覚や、ばきばきと小気味良い音に興奮すら感じる。自らの強大さに恐怖していた頃が、まるで嘘だったかのように感じる。

「ちょっと人のいる方に寄り道しちゃうかもですよ?」

 わたしは本当にどうかしてしまったのかもしれない。
 そう思ったのを最後に、みゆりの意識は遠退いた。既に彼女の思考は、肉体の側に支配されていた。



 はじめ、諒子は目を疑った。
 テレビの速報に映し出されるみゆりの姿。恐らく、上空を飛ぶヘリからの空撮だろう。身長160メートルもの大きさになった彼女はいま、二足の脚で立ち、市街地を歩いている。
 彼女は足元に広がる建物を踏み潰しながら進んでいる。警護に当たっていたはずの自衛隊の別のヘリや装甲車が、少し遅れて彼女の背中を追いかけている。「止まれ!」「それ以上動くな!」そんな怒号を浴びせながら。
 みゆりの目は虚ろで、心ここにあらずといった姿だった。彼女は半分意識を失ったような印象で、市街地の中を歩き進んでいた。みゆりの足元に広がる住宅街は、想像以上に広く、そして小さかった。広がる一軒家の数々に、ぽつりぽつりと点在する低層マンションやビル。彼女はそれらを容赦なく踏み潰しながら、脚を前に送り出している。何かの間違いじゃないかと思った。

「なによ、これ……」

 そうひとりごちる諒子はもちろんのこと、それを見た家族の全員が息を呑んでいた。とても正気で見てはいられなかったが、何より信じられなかったのは、彼女が我々のいる方に近づいていたことだ。いくら県境を挟んだ場所とは言え、あれだけの大きさがあれば一時間とかからずここまで到達できてしまうだろう。「嫌よ、嫌よ、こっちに来るなんて!」。最初に狂い始めたのは母親だった。声を上げる母に対し、父は懸命に宥め、叔父の家族は慌てて避難する準備をはじめた。

「……あの人、まるで人が変わったみたいだ」

 呆然とする諒子をよそに、和斗がテレビの画面に釘付けになりながら呟いた。

「俺さ。みゆりさんって、ずっと美人だと思ってた。なんか乃木坂とかにいてもおかしくなさそうだなって。それに加えて育ちも良さそうだから、姉貴の知り合いにしてはとんでもない大物だと思ってた。俺は姉貴が一緒に居たときしかあの人と話したことなかったけど、こんなに美人で性格のいい人、この世にいるんだって思った」
「……そう思うでしょうね。みゆりは初対面の人ほど、自分の体裁とかすごく気を遣うから」
「でも、今のあの人は違う。今のあの人、まるで獣のようで、本当に人ではなくなってしまったみたいで……」
「……」

 和斗の言わんとしていることは、諒子にも痛いほどわかった。

「なあ姉貴、もしかして。あの人にまた会いに行きたい、なんて思ってたりしてなかったか?」
「どうしてそんなこと言うの?」
「だって俺、知ってたんだよ。あの人が最初に巨大化した夜。姉貴があの人のもとに自転車を走らせてたこと」
「……見てたのね」
「変な気を起こされる前に言っておくけど、姉貴はもうあの人に一ミリも近づいちゃ駄目だ。悪いけど、もうあれは人間なんかじゃねえ」
「そんな……そんな乱暴な口調で、みゆりのこと悪く言わないでよ」
「馬鹿言うなよ! こんなことして、許される訳ないだろ!」
「きっと何かのせいで正気を失ってるだけなんだよ。あんな目をしたみゆり、私見たことないもの!」
「知ったような口きくなよ、これでも俺は心配してんだぞ!」
「今さら家族ヅラして、何様のつもりよ!」
「姉貴こそ、あの人の何なんだよ!」
「大切な友達だよ!」

 このとき正気を失っていたのはみゆりだけじゃない。どうやら諒子も同じだったようだ。

「……私にとっては、みゆりは今でも大切なの。たとえあの子が、どんな姿になったとしても……」
「そう思いたいだけなんじゃないのか? 姉貴があの人に何されたのか、俺は知らないけど」
「あなたにはわかるわけないって、何度も言ってるでしょ!」
「ああ、知らねえよ! とにかく今は、逃げる準備をしないといけないだろ?」
「嫌。悪いけど、私はあの子を止めに行く。友達だからこそ、あの子のことは私が目覚めさせるの……!」
「あ、おい、待てって!」

 諒子は和斗の制止を振り切り、家を飛び出す。そして駐車場に停めてあった自転車に跨がり、全力でこぎ出した。向かう先はもちろん、みゆりのもとだった。
 諒子は自転車を走らせた。ほとばしる熱意をもって、獅子奮迅の力をもって。茜色に染まる空の下、幹線道路を爆走した。過去にこれほど力をこめたことはないと断言できるほどのスピードでペダルをこぎ回した。街はみゆりから逃げようとする車や人の数々で混迷を極めていた。すれ違う車たちは我先にとクラクションを鳴らし、信号無視に速度違反、反対車線を猛スピードで走ることさえ厭わない。そんな車たちを横目に、諒子はみゆりのもとへ近づこうとひた走る。みゆりに近づく方向へと走る愚か者の姿は、このとき諒子の他に一人もなかった。
 しばらく自転車を走らせると、次第に対向車の数が減り始め、人の姿はなくなっていった。街は閑散とし、普段は買い物客で賑わっているであろうスーパーやコンビニも、今は静まりかえっていた。それでもほとんどの建物に電気がついたままだったから、諒子は少し不気味に思った。それからしばらく自転車を走らせると、今度は規則正しい地面の揺れが襲いかかってきた。それがみゆりの歩行に伴う振動であることに、疑いの余地はなかった。
 遠く、遠くの方に、人の姿が見えた。まだほんの豆粒ほどの大きさにしか見えないが、彼我の間に途方もない距離が横たわっていることを考えると、その姿は十分すぎるほど巨大だった。一歩進める度に周囲に土煙が舞い上がっていることから、彼女が足元の建物を踏み潰しながら歩いていることが容易に推察できる。諒子は自転車をとめ、呆然と見つめる。そうしているうちにも、みゆりはどんどんこちらに歩みを進めてくる。
 諒子は自転車を乗り捨て、近くの手頃な雑居ビルの屋上に駆け上がった。五階建ての小さなビルではあったが、周囲にそれを上回る大きな建物はなく、見通しは十分だった。このあたりは都心からも遠く、あまり発展しているとは言えない。筋状にかよう道路とその脇に立つ住居を別にすれば、そこに広がるのは雑木林や、開発のために残された荒涼とした空地。みゆりは汚れた足裏で荒れた地面や木々をならすように歩きながら、うつろな瞳でこちらに真っ直ぐ歩み寄っていた。
 大地の揺れは一層激しくなり、その姿はどんどん大きくなってゆく。豆粒ほどの大きさだったみゆりも、今やあれよあれよと言う間に目の前に。身長160メートルという鉄塔のように巨大な彼女は、足元の様子などまるで確認もせず、大きな足音を立ててこちらにまっすぐ歩いてくる。既に住人が避難した後であろういくつかの住居をばきばきと押し潰し、それを何の意にも介さぬまま、迫り来る。

「みゆり……」

 諒子は声を漏らす。

「なんでだよ……」

 諒子の手は震え、自分でもわかるほど息づかいが荒くなる。あと十歩もすれば、みゆりは諒子の目と鼻の先に迫るだろう。

「なんでそうなっちゃうんだよ……!」

 この声が届くかはわからない。それでも諒子は、みゆりに叫び声を上げる。

「なんでいつもそんなになるまで我慢しちゃうんだよ!」

 みゆりはいつもそうだ。他人にばかり頼ってすがろうとするから、いつもいつも自分を圧し殺し、余計に辛くなってしまう。諒子には、彼女の孤独がわかる。わかりきっている。だって巨大化する前も、後も、みゆりのことはずっと見てきたから。

「もうやめようよ、みゆり!」

 諒子のもとまで残り五歩。だんだん諒子の首の仰角が上がり、全身像を捉えるのが難しくなってくる。

「今ならまだ間に合うから。まだ自暴自棄になるような段階じゃないから!」

 残り四歩。諒子はより一層声を張り上げる。だが、彼女の耳に届いているかはわからない。みゆりの目は虚ろなままだ。

「きっとみんなわかってくれるから、みゆりがつらい思いをしていたこと!」

 三歩。既に大地の振動は激しく、諒子は立っていることさえ儘ならない。彼女は四軒ほどかたまって建つ家々を一緒くたに踏み潰し、その瞬間に弾け飛んだ木片の一部が、180メートルは離れているであろう諒子のそばをかすめ、諒子はついに恐怖に耐えかねて腰を抜かした。

「み、ゆり……」

 二歩。もうすでに、諒子は彼女の全身が見えていない。天高くそびえるみゆりを、蟻のように下から見上げるだけ。一方の彼女は、足元をまるで見ていない。諒子のことに気づしもしていない。蟻と象。ここにきて、諒子はもう逃げ場がないことを知る。

「やめて、お願い、やめて……」

 諒子は尻餅をついたまま、わなわな震える。すでに諒子のいるビルはまるごとみゆりの影に飲まれ、暗闇に落ちている。残りあと一歩、その最後の足取りが地面を踏みつけた瞬間、これまでにない激震が諒子を襲い、尻から数センチ叩き上げられたような感覚が走った。目の前に聳え立つ彼女は、大きく、大きく、とてつもなく巨大だった。みゆりの着ているデニムの繊維や、ブラウスのしわなどが、肉眼でも容易に確認できるほどだった。そのブラウスのボタンですら、たぶん諒子の身長と同じくらいはあるんじゃないだろうか。この仰角では、もうみゆりの顔はほとんど見えない。彼女の丸みを帯びた白い顎が、諒子から確認できる最高点。つまりもう、みゆりが諒子に気づくことは、ない。

 ……いやだ。
 死にたくない。
 友達に踏み潰されて、死にたくなんかない。
 馬鹿だよ私は。一過性の衝動にほだされて、後先考えずに走り出して。いつもそうじゃないか。あの子がはじめて巨大化した夜も。今日この瞬間も。いつも痛い目を見るのは自分だった。和斗の言うとおり、私はこんなところに無策で来るべきではなかった。
 そう思う諒子のもとに、非情にもみゆりは足をかかげる。さまざまな物体を踏み潰して汚れきった素足の裏。踏みしめた大地の土くれがぱらぱらと降り注ぎ、そして間もなく足裏は降下をはじまる。

「みゆり――」

 諒子は目を閉じる。
 恐怖に耐えかねたかのように。覚悟を決めたかのように。
 するとその瞬間、脳裏にはこれまでの日々が次々と思い浮かんできた。



 短い夢を見た。
 それは諒子とみゆりが、共に過ごした日々の記憶。
 人は死の間際に、走馬灯を見ると言う。それは記憶の限りを尽くし、死を回避する知恵を絞るためらしい。それを見ること自体は、何もおかしなことではない。
 しかし諒子が見たそれは、みゆりと過ごした日々に限定された記憶たちだった。彼女と出会ってから今日までの様々な出来事。まるでヒントはそこにしか隠されていないと、自らの本能が訴えかけているかのようだった。
 二人のはじめての出会いは、大学に入ったばかりの頃まで遡る。
 それは何となく入ったボランティアサークルの新歓で一緒になった時のこと。諒子はその時数あるサークルメンバーの中からみゆりの姿をみて、なんだかひときわ綺麗な子がいるなと思った。でもその頃はお互い最初から仲が良かった訳ではなく、むしろみゆりに至っては、諒子の名前と顔が一致していたかも怪しかった。
 そしてそのサークルは、諒子の予想とは裏腹に、所謂飲みサーだった。だから諒子はあんまり着いていけず、顔を出す頻度は必然的に低下していった。対し、みゆりはむしろどんどん輪の中に取り込まれていった感があった。みゆりは顔も良ければ性格もよく、それでいておしゃべりも得意だった。彼女が集団から好かれるのは、ある意味では必然的だった。
 彼女には多少のドジを踏んでも、どういう訳か許せてしまう不思議なオーラがあった。容姿がいいだけあって、庇護欲を掻き立てられるとでも言うべきか。そういう訳で彼女の隣には、常に他の誰かの姿があった。彼女も彼女で、そういう人たちのことを有効利用して、人間関係をうまくやり過ごそうとしているようだった。だから諒子が彼女に話しかける余地など、この時点では全くと言っていいほどなかった。そもそも諒子自身も、まだみゆりにそこまでの興味はなかった。諒子とみゆりが仲良くなるのは、もう少し先の話になる。



 ……ところで、ちょうどその頃みゆりは、最愛の祖母を急に亡くしてしまったらしい。みゆりにとって祖母は最も信頼していた人物のひとりで、愛想笑いと八方美人で塗り固めたみゆりが、唯一仮面を剥がして素の性格で喋ることのできる相手だったようだ。地面に深く根差した大木がぽっきり折れたように、みゆりは人知れず泣いていた。諒子は偶然、学内のトイレですすり泣く彼女の姿を見たことがある。でもその僅か数分後、別の友人とにこにこ笑いながら廊下を歩く姿を目撃して、諒子は彼女がとてつもない役者なんじゃないかと思った。

「そんなに泣くなって。八十で死ぬなんて、別に普通のことじゃないか」

 みゆりには、当時高校時代から付き合っていた彼氏がいた。
 その彼氏に笑いながらそう言われたらしく、みゆりはかっとなって平手打ちをしたという。それは葬儀を終えた一週間後のことで、みゆりはまだ立ち直りきれていなかった。仮にも恋人ともあろう人物にそんなことを言われるのが許せなかったらしい。もちろん、直後に落ち着きを取り戻し、「ごめんなさい」と謝った。しかし今度は相手の方から「何すんだ!」と声を上げられ、逆に引っ叩かれた。
 後日、みゆりは頬が赤く腫れた。彼女は怖くなって、それ以来相手の目を見て話すのが難しくなった。みゆりを知る者や、共通の知人の幾人かは、みゆりの肩を持った。それはきっと、相手の方が普段からやんちゃな性格をしていたからかもしれない。中には別れた方がいいと進言する者もいたようだが、みゆりは何故かそうする気になれなくて、無理してでも関係を続けようとした。しかし相手の方はと言うと、みゆりにばかり同情が寄せられるのが面白くなかったのか、あるいはひっぱたかれた瞬間に愛想など尽かしてしまったのか、もうすっかり冷めきっていた。
 最終的に相手の方が別の恋人を作って別れることになったのは一年後のことだが、そこに至るまでの最後の期間、二人の間にほとんど馴れ合いはなかったようだ。別れるまでの一年間、みゆりは悩み、自責の念にかられ、そして孤独に翻弄された。明るい表情を作るのが上手いみゆりも、この時ばかりはすこし堪えていた。彼女は安心できる居場所を求め、さ迷っていた。
 ……人づてに聞いた話を諒子なりに整理しただけだから、どこまで真実なのか、どこまでが本当なのか、諒子もあまりよくわかっていない。しかしいずれにせよ、みゆりがその時とても寂しい思いをしていたのは事実で、だからこそ彼女は諒子に近づいてきたのだろう。

「あの、このあいだ諒子ちゃん、高齢の女性の方に、席を譲ろうとしていたよね」

 大学二年になったある日、偶然にも、諒子はみゆりと話す機会に恵まれた。仮にも同じサークルのメンバーだったとは言え、彼女とちゃんと言葉を交わすのは、意外にもこの時が最初だったかもしれない。みゆりは不意に、諒子に対しそう言ってきた。確かに、以前彼女と偶然乗り合わせた路線バスの中で、そんなこともあったかもしれない。諒子は特段意識をしていなかったが、みゆりはそれを見て、ずっと諒子のことを気にかけていたようだった。

「わたし普段そういうことあまりしないんだけど、なんかすごいなぁ、ってそのとき思って……」

 その時のみゆりは、人間関係に疲れていた。表面上の関係じゃない、ちゃんとわかりあえる相手を求めていた。恋人と別れた直後、というのも理由としてあるかもしれない。
 その点、人は八十で死ぬと平然と言ってのける相手より、不器用にでも人に気を遣おうとする諒子の方が、当時のみゆりにとってはよっぽど安心感があったのかもしれない。人の心の中なんて、覗き見ることなどできやしないけど。

「べつに、あのときはたまたま、目についたから譲っただけだよ」
「その目についた、ってところが重要なの」

 諒子には、お世辞にも愛想があるとは言えない。他人に興味のなさそうな表情。いかにも理数系一辺倒といった素振り。口数は少なく、人間関係も希薄で、正直みゆりとは正反対のタイプだった。実際、サークルメンバーの多くは、諒子のことをあまり快く思っていなかっただろう。諒子もそれを承知の上で、なるべく人とはかかわらないようにしていた。だからすんなり人の輪の中に入れてしまうみゆりのことは、正反対のタイプだと認識しつつ、正直少し羨ましいとも思っていた。

「だからわたし、その時こう思ったんだ」

 そんなみゆりが――みゆりもまた、諒子のことを陰ながら見ていたのだ。
 諒子が物陰から羨望の眼差しで見ていたのと同じように。
 それを象徴する一言こそ、やはりこの言葉だったに違いない。

「やっぱりだ。諒子ちゃんって、冷たい人じゃなかったんだね」

 大学二年のゴールデンウィーク。サークルメンバー数名と、ひたち海浜公園へ行った帰り。
 各々なけなしの貯金から費用を出し合い、分乗した軽のレンタカーの中。ハンドルを握る諒子に、助手席のみゆりが、そう言った。諒子は少し驚き、そして嬉しくもあった。人からそんな風に評価されるのは、おおよそはじめてのことだったから……。

「……イメージと違ってごめん」
「ふふふ。意外と面白い子なのね」

 微笑むみゆりに対し、このとき諒子の心は何故かとりとめもなくどきどきしていた。同性相手にしては、ずいぶんと心拍数が上がったものだ。ともすれば諒子は、自分が思っている以上にそっちの気があったのかもしれない。諒子の目に映る景色が、少しずつ鮮やかに変化しはじめた。



 さほどの暇を置かず、みゆりとの仲はどんどん深まっていった。大人しい諒子と、明るく奔放なみゆり。二人は全く正反対のタイプと思いきや、好きな食べ物や映画の趣味など、意外と相通ずるものが多かった。諒子にとってみゆりは新鮮な存在で、人と話していてこんなに楽しいと思うことは今までになかった。

「諒ちゃんって、休日は何してるの?」
「このところ中学時代の友達と謎解きゲームやってる。最近はアナログゲームでも、結構楽しいのあるんだよ」
「そう、頭使うのが好きなんだ」
「でも、出掛けたりするのも嫌いじゃない。それこそ店でボードゲームとか物色するのも楽しいし」
「じゃあさ、今日の講義終わったら、遊び行こうよ!」

 気が付けばお互いよく話すようになっていた。同じ講義を隣の席で受け、時間が合えばお昼ご飯を共にするようになっていた。そのうち一緒に出掛けるようになって、向かう先はどんどん幅が広がった。いつしかみゆりは、諒子の家にもお邪魔するようになった。仲良くなるにつれ、諒子もみゆりもいろいろなことで笑うようになった。みゆりは諒子を心から笑顔にしてくれたし、諒子もまた、みゆりの心を晴れやかにさせてあげられた。
 諒子は幼い頃からずっと自分の容姿に自信が持てなかった。彼女が家に泊りに来た晩、思いきってそのことをみゆりに打ち明けたこともある。けどみゆりは、諒子には磨けば光る素質があると言ってくれた。髪型をかえたり、もっとおしゃれに気を遣えば、絶対にもっと可愛くなるはずだと。「今度一緒に服見に行こうよ、わたしが選んであげるから」。そう提案されて、諒子は目を光らせた。諒子は本当に嬉しかった。
 いつしかみゆりと諒子は、気心の知れる間柄になっていた。ぴたりと吸着するような、相性の良さを感じた。産まれてはじめて、相手のことをもっと知りたいと思った。そして諒子の思い上がりでなければ、みゆりもまた、気持ちは同じはずだった。

「なんだか男より付き合うのが楽しいかも」

 ふと、みゆりはそんな風に言った。それが冗談なのかどうか、そのときの諒子には判断がつかなかった。しかしいずれにせよ、それだけの信頼を勝ち得ていることが嬉しくて、諒子は頬を赤らめた。



 だけどみゆりには、諒子と決定的に違う点があった。
 それは、彼女には諒子の他に数多くの友達がいたということ。
 そしてみゆりは、そういった友人達から嫌われるのを極端に恐れていた。
 彼女は諒子と違って、独りに対する耐性がない。常に隣に誰かがいないと安心できない。だからこそ彼女は、諒子が居ない間はまた別の誰かに依存することになる。
 みゆりは色々なしがらみを甘受してでも、集団に居残ることを第一としていた。彼女のプライオリティは、嫌われたくないの一心によって、その順位が容易く入れ替わることもあるのだ。
 みゆりは、人によって性格を変える。まるで役者のように、まるで別人のように。諒子に対して見せる姿と、それ以外の人に対して見せる姿。みゆりと深く仲良くなるまで、彼女が様々なペルソナを持っていることに諒子は気がつかなかった。



 ある日、午前の講義を終えると、みゆりから連絡が来た。きょう諒子と約束した予定を、後日に延期してほしいという旨の連絡だった。その日は以前みゆりが提案してくれた「一緒に服を見に行く」日で、以前から楽しみにしていた分、少し残念でもあった。
 けれど、みゆりにもきっと外せない大事な予定があるのだろう。そう自分に言い聞かせ、諒子は学食で昼食を取り、まっすぐ家に帰ることにした。
 駅までの道を歩いていると、偶然にも向こうから歩いてくるみゆりの姿を目撃した。彼女は男女混成数名のグループの中に取り込まれ、楽しそうに話しをしながら歩いていた。みゆりを取り囲む彼ら彼女らは、皆々髪を染め、派手な服に身を纏い、十分すぎるほど日焼けしていた。外観だけで人を判断するのは良くないが、正直諒子はもちろんのこと、みゆりにとってもあまり似合っているとは言いがたい。けどみゆりは、何故か以前からの一団の中にあって、離れようとしなかった。
 少し話が逸れるが、みゆりは真っ当な人間関係を構築しているように見えて、その実意外にも柄の悪そうな友人が何人かいた。諒子なら近づかないようなおちゃらけた人や、少し意地悪でやんちゃしがちな人とも平然と交友を持っていた。いや、諒子の目から見れば、むしろ彼女は多少の無理をしてでも、そういう人たちとの関係を維持していた節がある。そしてそういう友人たちは、みゆりのことを大事にしているように見えて、実際はただ一緒に盛り上がって、みゆりの容姿をちやほやしたいだけだった。時系列が前後するが、後にみゆりが巨大化した時、事実として彼らは誰一人としてみゆりのことを心配しなかったし、彼女のもとを訪れなかった。
 前に付き合っていた恋人ともそうだが、みゆりは自分をあまり大切にしてくれない相手に依存し、尽くしてしまうきらいがあった。それはきっと、みゆりにとってその方が都合が良かったからだろう。少しくらい薄幸なヒロインの立場でいる方が、それなりの満足を得ながら、余計な妬みを買わずに済む。あるいは、人に嫌われたくないと思う一心が、そうさせているのかもしれない。
 諒子はみゆりに気づかれる前に近くのコンビニに隠れ、雑誌コーナーのそばで彼らが通り過ぎるのを待った。

「最近みゆり、付き合い悪くて心配してたわ」
「あたしらのこと忘れてた? そんなわけないよねぇ」
「俺ら今からボーリング行くけけど、みゆちゃんも来るでしょ」

 口々にそう言われ、みゆりは愛想笑いで「あはは、みんなごめん」なんて言う。
 諒子は、別にみゆりが他にどんな友達と付き合おうが構わないと思っていた。いや、そう思おうとしていた。たとえそれが諒子の苦手そうな相手だったとしても、人の交遊関係にけちつけるほど冷たい人間になりたくはなかった。
 けどこうして実態を見ていると、どうしても思ってしまう。彼らは本当に、諒子との先約を破棄してまで優先しなければならない相手だったのか、と。
 みゆりはそんな諒子の存在に気づくこともなく、今まで見たこともないくらい大きく口を開けて笑っている。

「みゆり……」

 彼女にも事情があることはよく理解できる。
 そして恐らく、今彼女が見せているその表情が、お得意の演技であることも。
 けれど、諒子が判断を誤ったきっかけは、まさしくそこだったんだと思う。
 諒子は、みゆりに離れてほしくなかった。だってもう、彼女とはただの友達以上になってしまったのだから。
 みゆりの気を引きたい。彼女の他の友達より、ずっと。
 一瞬のうちに、考えて、考えて、脳の回路が焼き切れるほど考えた結果、諒子の取った行動は――。

「……ねえ、待って。みゆり」

 諒子はコンビニから出て、集団の背中に思い切って声をかける。みゆりは振り向き、少し驚いたような表情を見せた。

「その人たち、みゆりの知り合い?」
「そっちこそ誰? 何か用?」

 みゆりよりも早く言葉を発したのは、集団の中の一人だった。いかにも遊び好きそうなその男の目つきは明らかに煙たがっていて、諒子は今すぐにでも逃げ出したい気分になった。

「ねえみゆり、今日の約束って……」
「……ごめん、諒ちゃん。本当に、ごめん」

 みゆりはそれだけ告げると、背を向け、集団と共に諒子のもとから去った。「もういいの?」と、集団の中にはみゆりを気遣う者もいたが、彼女が振り向くことはなかった。諒子は、みゆりの言ったそのごめんが何に対する謝罪なのか、わからなかった。

「……なんで」

 取り残された諒子は、しばらくそこで呆然とした。集団の姿が小さく、街の人ごみに消えてなくなるまで。少しすると、友人の目を盗んでスマホを打ってくれたのか、みゆりからごく短い謝罪のLINEが送られてきた。けどそれ以上の内容はなく、諒子は自分が惨めに思えて、返事をする気になれなかった。

 ひどいと思った。
 冷たいと思った。
 でも、何も言えなかった。私は芋だから……。

 諒子はこのとき、みゆりがなぜ前の恋人と別れることになったのか、何となくわかった気がした。彼女には、たぶん悪意がない。悪意がないにもかかわらず、無自覚に人のことを突き落とすような冷たさが備わっていた。彼女としては、ただ立って、呼吸をしているだけ。それだけで、彼女は人の希望を奪い、失望させる。それは言葉では説明のつかない魔性のようなもの。この場合、愚かなのは勝手に思い上がってしまった諒子の側なのだろう。

 君は愛に汚名を着せたんだ。

 ふと、脳裏にひとつのフレーズが流れる。彼女と最初に仲良くなったあの日、車のラジオで流れた思い出の「禁じられた愛」だ。諒子にとってみゆりは loaded gun だった。諒子はもう、とっくに撃ち抜かれてしまったのだから。



 あれ以来、二人の関係は急速に仲良くなったのと同じように、急速に冷え込みはじめた。
 いや、みゆりの方は、回復を試みようと何度か明るく話しかけてくれたかもしれない。けど諒子の方は、何を言われても意固地になるばかり。人に壁を作る才能で言えば、諒子の方が何枚も上手だった。
 みゆりもみゆりだが、諒子も諒子だった。二人とも年齢の割に未成熟で、未完成で、あるべき関係に戻ろうとする弾性がなかった。だからこそ二人はどうしていいかわからず、やがて黙ることを覚えた。後腐れして時間ばかりが過ぎ、二人の間は完全に凍結された。まるで吹雪の舞う雪国の峠道のように。



 ……だけど、だけれども。
 心の奥で、諒子はやはりずっと、彼女との仲を直したいと思っていた。
 だってもう、諒子にとってみゆりは、ただの友達ではなくなってしまったから。
 もっとちゃんと見てほしかった。私のことを……。

「みゆり――」

 迫り来るみゆりの足の裏。最期の時。
 引き伸ばされた時間の中で、諒子は怯えながら最後の言葉を紡ぐ。

「私のこと、ちゃんと見てよ!」

 おそらく諒子は、この時産まれて一番大きな声を出したのではないか。
 それは、諒子の心からの声だった。
















「……見てたよ。ずっと」

 みゆりの足の動きが、止まった。
 彼女は諒子を踏み潰さんとする文字通り一歩手前で、自我を取り戻したのだ。
 みゆりはその場に手をついてしゃがみこみ、諒子のことを上から覗き込んだ。彼女の瞳は正気を取り戻し、目尻には涙が浮かんでいた。

「見てない訳ないじゃない。わたしが、諒ちゃんのこと……」
「みゆり……」
「だって諒ちゃん、わたしにとってはじめて『ホンモノ』だったんだもの」

 みゆりは諒子を指先で優しくつまみ上げると、手のひらに乗せ、お互いに見つめあった。

「あの日のこと、わたしずっと反省してた。でも諒ちゃんこそ、怒ってくれてよかったんだよ。約束を破るなんてひどい、とか、その態度はちょっとないんじゃない? 叱ってくれてよかったんだよ」
「そんなこと、言えるわけないでしょ……」
「言ってよ。言って欲しかったんだよ。諒ちゃんには」
「みゆり、それは違うよ」

 諒子は眼鏡を外し、目尻に浮かんだ涙を拭う。

「そういうのは自分の問題だから、自分で処理しなきゃダメなんだよ。叱ってほしいとか、制御してほしいとか、他人なんか頼っちゃだめなんだよ。そうやってなんでも人に委ねようとするから、君はいつも悪い友達や恋人にもつけ込まれるし、泣かされることになる」
「ああ、諒ちゃんのそういう建前を言えないところ、本当に好きだなぁ……。嬉しい。わたし、そうやって人から核心をつかれたこと一度もないもの」
「それ自虐風自慢のつもり? みゆりって本当に最低ね。ちょっと人より美人だからって調子に乗ってない?」
「ごめん。でもわたしだって、望んでこの顔に産まれてきた訳じゃないし」
「最低! 私なんか、子供の頃からどんなに頑張っても、人から好かれずに悩んだっていうのに!」
「ごめん、ごめんね。諒ちゃん」
「謝るくらいなら、最初から言わないでよ。いっそ私のことなんて、あのまま踏み潰してくれればよかったのに」

 いつしか諒子は泣きながらそんな風に言っていた。みゆりはそんな諒子を頬に押し付け、擦り寄せた。諒子はみゆりの肌に全身で埋もれる。みゆりの素肌はこんなに巨大化しても本当に綺麗で、なめらかで、諒子はもう居たたまれなくなった。

「そんな悲しいこと言わないで、諒ちゃん」

 不意に、頬を伝って滴り落ちるみゆりの涙が、諒子の頭にかかった。みゆりは諒子を頬から引き剥がすと、手のひらの中に大事に乗せた。

「諒ちゃんがいない生活なんて、わたしもうまっぴらだもの」
「そんなこと言うくらいなら、もっと人のこと大事にして。それか、その気がないなら、最初から仲良くなんかしないで」
「ごめんね。でも、わたしやっぱり諒ちゃんのことが大好き」
「わたしはみゆりのこともう、大嫌い」

 正反対の二人。
 性格も違うし、身体の大きさまでこんなにかけ離れてしまった。だから当然、言うことも全くの逆だ。
 けど二人は、お互いに笑っていた。泣きながら、もうどうしようもないくらい笑っていた。私たちは正反対だけど、本質的にはきっと似た者同士なのだ。みゆりとこんなに顔を見て話し合うのはずいぶん久しぶりで、諒子は憑き物が落ちた気がした。



 みゆりはその後、人々の生活の邪魔にならないよう、自ら人里離れた山の奥へと身を隠した。彼女は自らの足で家やビルを壊し、人々を恐怖と混乱に陥れたことをよく覚えていなかった。きっと過大なストレスに耐えかねて、一時的な精神倒錯に陥っていたのだろう。しかし振り向くと、市街地に刻み付けられた足跡の数々が確かにそこにあって、彼女はそれを目にするや諒子に聞いた。

「これ、わたしがやったことなの……?」

 諒子は、何も答えられなかった。そんな諒子の姿を見て、みゆりも何かを察したように押し黙った。
 彼女に対するいろいろな説明は、後にベルーガの職員によってなされた。みゆりはその事実を受け止めるのに、相当な時間を要したようだ。とは言え、詳しいことは実は諒子もあまりよくわかっていない。みゆりの危険性を認識した政府によって、彼女と一般人との接触が禁止され、二人はまたしばらく会えなくなってしまったのだから。二人が再会することになるのは、後に諒子がベルーガの一員となり、正規の手段でみゆりと接触できるようになってからのことである。

 あれから三年。

 諒子の家族は、あれから念願の新居で暮らすようになった。あれだけの行為をしでかしたみゆりだったが、幸運にも諒子たちの家は無傷で取り残されていた。父母も健康そのもので、生活はややもしないうちに元の姿に戻った。
 家族四人そろって朝ごはんを食べる。そんな当たり前の日常が、あの頃はもう戻ってこないかもしれないとさえ思った。みゆりによって壊された街は、徐々に復興し始めている。もちろんまだ時間はかかるし、放棄されたままの建物も少なくはない。しかし有志企業が一丸となって協力し、復興に向けた準備を続けている。
 諒子と和斗は大学を卒業し、二人して社会人になった。そういえば、あれから私たちはあまり口喧嘩をしなくなったように思う。

「っていうかさ、姉貴もほんと物好きだよね。約束破るわ、街壊すわ、どう考えても人として滅茶苦茶なあの人のこと、いつまでも味方でいたいなんて思うなんて」
「うるさいな。みゆりのことを理解するには、普通の人には難しいの」
「あんたがた、共依存の関係に陥っていない?」
「別に。なんなら今の仕事、和斗が変わってもいいんだけれど」
「そういうこと言うなって。せっかく努力して今の仕事にたどり着けたんだろ?」

 みゆりはその後、新月の日に縮み、満月の日には巨大化することを繰り返した。だけどベルーガが彼女の身長変化を抑制する新薬を完成させたことで、巨大化は数十メートルに留まるようになり、逆に新月の縮みの効果がだんだん大きく出るようになった。以来、みゆりは月の満ち欠けに応じて、数十~数百メートル単位で身体の変化を繰り返すようになった。月によって目まぐるしく変動するそれはそれで大変なようだが、今のところ人類文明を脅かすほどの大きさにはなっていない。
 ……嘘だ。たった一度だけ、満月の夜に薬の供給が間に合わなかったことがある。その日みゆりは2000メートルまで巨大化してしまい、恐怖のあまりすすり泣いてしまった。この時ばかりは、人類もついに終焉を迎えるものと誰もが思った。しかしみゆりは地上の人々を信じ、その場に留まってぐっとこらえた。ほどなく薬の提供が再開し、人々はあらゆる手段でそのことをみゆりに伝えた。みゆりは薬を大地まるごと根こそぎ口に含み、次の新月の日にその六分の一程度まで縮むことができた。以来、ベルーガは大幅な人員増強を図ることになった。諒子が就活を迎えたのは、ちょうどそのタイミングだった。みゆりのもとで働きたいと志す諒子にとって、それはまさしく願ってもいないチャンスだった。



 都心から車を走らせること一時間。地方へと向かう自動車道は、二つ目の県境を跨いだあたりで急な渋滞に見舞われていた。諒子はハンドルを切り、最寄りのインターチェンジで一般道に降りる。今はもう放棄されてしまった県庁舎を尻目に、廃墟と化した市街地を縫うように走る。つぶれた木造住宅に、ひしゃげた鉄骨。しばらく瓦礫をやりすごしながら走るうち、窓の外には長閑な田園風景が広がり始める。視界の向こうに見えるのは、ゆるやかな斜面を伴った標高1800メートルの山。そしてその山の頂に三角座りをする、巨大な女の姿。
 諒子は休耕中の畑のそばに車を停め、外に出た。そしてポケットからスマホを手に、電話帳から「みゆり」の名を選ぶ。山頂に目を向けると、巨大なみゆりは、手のひらにすっぽり収まってしまうほど小さな受話器を耳に押し当てていた。

「もしもし?」
「遅い!」

 耳をつんざくほどの大音量が響き、諒子は反射的にしゃがみこんで耳を塞ぐ。その声がスピーカーから放たれたものではなく、山頂から空気中を伝播して直接伝わってきたものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

「遅いって、まだ昼の十二時じゃないか」
「わたしを凍死させる気かっ!」
「ごめん。でも実はもう、近くまで来てるんだよ」
「近く?」
「君から見てもっと左側、赤い屋根のサイロが見えない? その近くだよ」

 諒子はそう言うと一度電話を切り、大きく手を振ってみせた。みゆりはこちらに顔を向け、しげしげ見つめると、深呼吸にも似たため息ひとつつき、四つん這いになって山を下り始めた。
 そして彼女は、犬のようにずいと、諒子に覆いかぶさるようにして鼻先を近づける。

「ちょっと待たせ過ぎじゃない、諒ちゃん」

 ……みゆりだ。
 当たり前の事実を、口走りそうになる。彼女の顔は大きく、大きく、とてつもなく大きい。常人の約200倍ともなれば、顔だけで十階建てビルくらいの大きさはあろう。真珠のように白い肌に、桜色の薄い唇。少し手を伸ばせば、頭上を覆い尽くすそれらに触れられそうな気もするが、しかし諒子の手が届くことは決してない。どれもすぐそこにあるはずなのに、見かけ以上に遠いものなのだ。

「ねえ、みゆり」
「何、諒ちゃん」
「もし元のサイズに戻れたら、何をしたい?」

 諒子は乗ってきた車のトランクを開け、そこに横たわる巨大な黒い箱に手をかけた。後部座席をまるごと潰し、棺桶よろしく鎮座するその箱の中には、みゆりの巨大化を遅らせる特製の錠剤が入っている。諒子は折り畳みの台車を準備し、直径一メートルはあろうその錠剤を外へと運び出す。

「うーん……ディズニー行ったり、沖縄行ったり?」
「君らしい考えだね」
「諒ちゃんも一緒に、だよ」

 諒子の手に、暖かさが宿る。ああ、本当に私は、君という存在に滅法弱い。その言葉たったひとつだけで、心臓の鼓動が速くなってしまうのだから。

「ありがとう、みゆり」

 諒子が言ったその言葉に、偽りはない。諒子にとってみゆりは、大切な友達なのだから。君が大きくなる前も、君が大きくなりはじめた後も。ずっと……。



「……それから、ね」

 諒子の準備した錠剤を飲み込む直前、不意にみゆりは、あることを口にする。

「やっぱり小さくなったら、わたしいろんな人に謝らなきゃいけないと思っているの」
「もう散々謝ったじゃないか。この三年間で」
「でも、みんなの生活を台無しにしてしまったのは、事実だし……」

 巨大化してからも、みゆりの心は本質的には変わっていない。
 弱く、脆く、今にもうち崩れてしまいそうで……。彼女は今も、くよくよ悩んだり、この世界から居なくなってしまいたいとさえ言うこともある。

「大丈夫だよ。みゆり」

 そんな時は、支えてあげるのが友達ってものだろう。

「私は、私だけは、みゆりの味方でいるから。たとえ世界中が、君の敵に回ってしまったとしても」
「本当に?」
「もう何度も言ってるでしょ。私、君を追いかけ続けて就職先までゲットしちゃったくらいなんだから」

 今の諒子には、思いやりや言葉だけじゃない、具体的なかたちでみゆりのことをサポートしてあげられる力があった。
 だから諒子は、みゆりのことをこれからも支え続けるつもりでいた。たとえ、君が大きくなり尽くすまで……。

「ねえ諒ちゃん。ここって、星空がけっこう綺麗に見えるんだよ」
「星? へえ、そうなんだ」
「今日、ここに泊って行かない? 綺麗だから、一度見てほしいな」
「そう? みゆりが言うなら」

 その夜、諒子はみゆりの掌で眠りについた。あまり良い防寒着を持ち合わせていなかったが、みゆりの手は暖かく、すぐにまどろんだ。空にはみゆりの言った通り、満点の星々が浮かんでいた。諒子とみゆりは、まるで子供のようにお互い向かい合い、小さく吐息を漏らして眠った。