先程、新ユニット「Sweetches」とスイーツショップとのコラボが無事に終了した。
メンバーそれぞれが考えたスイーツは大盛況を博し、飛ぶように売れていった。
今はその打ち上げパーティを事務所で行なっている。
自分たちで用意すると言ってパーティ用のお菓子を五人仲良く作る姿は非常に微笑ましい。
彼女らの邪魔をしないようにと事務室で作業をしていたところ、メンバーの一人である十時愛梨が困った顔で部屋に入ってきた。
「あっ、プロデューサーさ〜ん。お仕事お疲れ様です〜。」
こちらに気がつくと、おっとりとした口調で話しかけてきた。
大方作業中に暑くなって脱いだのであろう、肩を出したセーター一枚というあられもない姿をしている。
息に合わせて揺れる大きな胸が煽情的で、非常に目のやり場に困る。
一度咳払いをして自分を落ち着かせてから返答する。
「ああ、そちらこそお疲れ様。困っているようだけど何かあったのか?」
「それが、乃々ちゃんの姿が見当たらないんです〜。また誰かの机の下に潜っているのかなって探しに来たんですけど、ここにもいないみたいですね〜…。どこに行っちゃったんでしょう…。」
しょんぼりと俯く愛梨。
彼女の言うアイドル・森久保乃々はネガティヴ思考で事あるごとに机の下に身を隠す癖があり、事務所内では「森久保のいた机は少し片付くらしい」というウワサまであるほどだ。
今回のユニットでは自分に自信が持てない新入りの魔女っ子として参加していた。
打ち上げの準備をしているのを目にしてからこの部屋に来て、ずっと作業をしていたが誰かが出入りしたという記憶はない。
「この部屋には俺しかいないなぁ。せっかくの打ち上げだし、探すのは俺に任せて楽しんできたらどうだ?」
「わあっ、ありがとうございます〜!でも、私も心配ですから探し続けますね。これでもメンバーで一番のお姉さんですからっ!」
そう言って愛梨がえっへんと胸を張るとより一層強調されて、こっちが恥ずかしくなってくる。
「? どうしたんですか?」
どうやら本人は気づいていないようだ。
大学では常に友達がガードしているのも納得である。
「ああいや、なんでもない。それじゃあ俺は森久保を探してくるよ。」
✳︎
ちひろさんによると事務所から出て行ったのは見ていないとのことなので俺は虱潰しに部屋という部屋を探して回った。
「しっかしどこにもいないな…。そんなアクティブさのあるやつでもないし、近くの部屋にいると思ったんだが…。」
だんだんと事務所の中でもあまり使われていない部屋の方まで来てしまった。
物置や過去のイベントで使った小道具が乱雑に置かれた部屋などばかりで普段は人気がない。
換気もあまりされずジメジメとしているので輝子がキノコを栽培してたりもする。
同じユニットを組んでいることもあって、こっちに来ているかもしれないと思ったが当てが外れたようだ。
別のところへ行こうとしたその時、陰気な場所にふさわしくない甘い香りがほのかに漂ってきた。
「なんだ…?」
その匂いに誘われるようにして歩いて行くと一つの空き部屋に辿り着いた。
かつて応接室として使われていたが別の場所に新設されたため、そのまま放置されていたようだ。
ゆっくりとドアを開け、電気をつける。
「誰かいるのか?…ん?」
蛍光灯が付き、明るくなったその部屋の中心には、テーブルに乗せられたスイーツの山があった。
普段使われないこの部屋にはとても似つかわしくない光景だ。
「どうしてこんな場所に…。」
辺りは物音一つせず人の気配はない。
不審に思い、近づいて見てみるとお菓子の山のそばに一枚の紙切れが置いてあるのが目についた。
「プロデューサーさんへ
自由に食べてください」
と震えた字で書かれている。
この特徴的な字は森久保のもので間違いない。
「ははあ…もしかして俺にこれを食べさたくてこんなとこまで誘い込んだのか…?」
ユニット全員でドッキリを仕掛けている可能性も考え、とりあえず周りに警戒しながらお菓子の一つを手にとって口にしてみる。
…なんだか今までに食べたことのない味だ。
不思議な感覚に襲われながらもそのままごくりと飲み込んだ。
「…食べましたね…?」
「!?」
静まり返った部屋で突然テーブルの下から囁くような声が聞こえ、思わず驚き後ずさりしてしまう。
そしてのそのそと森久保が這い出てきた。
「今…そのお菓子を食べましたね…?」
小さくか細い声で確認するように再び問いかける森久保。
色々と聞きたいことはあったが、普段と違う何とも言えぬ気迫に押され、それに答える。
「あ、ああ。食べたよ。」
そう答えると森久保は微かにニヤリと笑った気がした。
「じゃあ…一口で、分かりますよね…?ここはおとぎの世界…。」
「おとぎの…?」
何のことだか分からずに困惑していると、森久保はこう続けた。
「ちいさくなぁれ…。」
✳︎
「…あれ…」
気がつくとだだっ広い空間に放り出されていた。
いつのまにか気を失っていたようだ。
見渡してみると周囲にはところどころに大きな柱が立っており、あるところには地面から数m離れたところに黒い壁が続いている。
森久保もどこかに消えてしまった。
あのお菓子に何か変な薬でも入ってたのか…?
森久保の言っていたことも気になりつつ、とりあえず歩き回ってみることにした。
そのとき。
ドォン!
天から巨大な物体が目の前へと降ってきた。
ベージュ色をしたそれが地面に着くと同時に大きな衝撃が辺りに伝わっていく。
振動でバランスを崩し、後ろに転倒してしまった。
呆気にとられながらも電車一両分の大きさはあるであろうその物体を観察すると、普段よく目にするものに似ていた。
「これは…ブーツ…?」
大きさこそ違うものの間違いなくそれは履物として使われる一般的なブーツであった。
そしてブーツを爪先からゆっくりと見上げていくと、ファスナーの付いた口から肌色の塔が伸びているのが確認できる。
それはつまり、ブーツがあるということは、その所有者がいるということであり、その所有者はブーツに見合った大きさである。
そんな単純明快だがありえない状況が理解できないでいた。
「目を覚ましましたか…」
そこへ上から聞き慣れた声が響いてきた。
そしてゴオオオ…という大気の動く音がする。
声のする方を見上げると巨大な森久保が古ぼけた本を抱えてしゃがみこみ、こちらを見つめている。
「な…」
あまりに現実味のない光景に言葉を失う。
普段見下ろしていた14歳の少女が、今目の前で超高層ビルと同等の大きさで鎮座しているのだ。
「セットの中にあったぐりもわーる…本当に成功したんですけど…」
スピーカーを通したように大きな森久保の声が先程より近距離で発せられる。
あまりの音量にクラクラしながらも、なんとか森久保に言葉をぶつけてみた。
「一体俺が眠ってる間に何が起こったんだ!?」
森久保の耳に届くよう精一杯声を張り上げる。
すると森久保は無表情でこちらをじっと見下ろした後、
「ぴーぴーうるさいですね…」
いつものオドオドした様子とは明らかに違う冷たい声でぴしゃりと言った。
予想していなかった反応に背筋が凍りつく。
「まだわからないんですか…?もしかしてそんなことも考えられないくらい、脳まで小さく…?まあ今のプロデューサーさんは虫同然なんですけど…」
言葉に棘を感じるが、言いようから察するに森久保が何か不思議な力で俺の方を縮めたようだ。
とにかくここは森久保を説得して元に戻してもらわないと日常生活にも支障をきたしてしまう。
「森久保!俺を元に戻してくれないか!この大きさじゃお前をプロデュースできないじゃないか!」
その言葉に反応してぴくっと森久保の体が小さく動く。
そして不機嫌そうな顔で大きくため息をつき言い放った。
「本当に気づいてなかったんですね…。もう…その必要はないんですけど…。ちょっとは戻してあげようかなと思ってたんですけど…。」
「今まで…もりくぼがどれだけストレスを溜めてたか…、本当は嫌だったのに、無理していることも…、わからないで…プロデューサーさんは…次々と仕事を…。」
そうだったのか。自責と後悔の念が自分に押し寄せてくる。
怒りがこみ上げてきたのだろうか、森久保は全身をぷるぷると震わせながら言葉を続ける。
「いつも…他のアイドルの方が、もりくぼにやさしくしてくれたから、なんとかなりましたけど…もう、むぅーりぃー…!」
そこまで言うと森久保はゆらりと立ち上がり、抱えていた本を前に掲げた。
「そんなとき見つけたのが、この本…」
その赤茶けた分厚い本の中心に埋め込まれた宝石が怪しく輝いている。
「女の子は誰でも、魔法使いに向いてる…と誰かが歌ってるのを聞いたことがあります…。もりくぼも例外じゃなかったんですけど…。読めない文字でも、この本に書いてあることが、わかりました…」
「あのお菓子は、食べた人の大きさを、自由に変えることができるんですけど…」
「それでこんな大きさに…」
周りを改めて見回すと、ここは元いた応接室だと理解できた。
どこかに放り出されたのではなく、周りが巨大になりすぎて元の部屋だと気づけなかったのだ。
俄かに信じがたいが、実際にこうして小さくされているのだから信じるしかない。
そして今、自分は森久保の意のままに大きさが変えられるという。もし森久保の機嫌をさらに損ねるようなことをすれば、これ以上に小さくされてしまうだろう。
「…森久保、俺が悪かった!どうすれば許してくれるか、俺にしてほしいことがあれば言ってくれ!」
言葉を慎重に選びながら叫ぶ。
一瞬だけ目をこちらから逸らし、すぐに見つめ直すと、口をゆっくりと開いた。
「…もりくぼは、心が疲れました…。だから、遊びに付き合ってほしいんですけど…」
どんなことを言われるかと身構えていたが、その言葉を聞いて安堵する。
なんだ、中学生の可愛らしいお願いじゃないか。少しでもそう考えた自分が馬鹿だった。
「それだけでいいのか?そのくらいならいくらでも付き合ってやるさ!」
そう、答えてしまった。
「…じゃあ、まず、鬼ごっこからしましょうか…もちろん、森久保が、鬼で…」
きっと森久保は縮めた時からこうする気であったのであろう。
この体格差で鬼ごっこなど絶望的であった。
「待つ時間は、30秒でいいですかね…。…早く逃げないと、すぐ捕まえちゃいますよ…?」
目を閉じてカウントダウンを始める森久保。
そう言われて、突かれたように身を翻し走り出す。
30秒程度ではどんなに走ろうともたった数歩で追いつかれるだろう。
だがその場で棒立ちしていても結果は同じ、とにかく逃げるしかなかった。
「じゅーうぅ…きゅーうぅ…はーちぃ…」
走れども走れども森久保の声が遠ざかっている気がしない。
死の宣告の数字は刻一刻と進んでいく。
「にーぃ…いーちぃ…ぜろ…あれ…?」
森久保が目を開けて足元を見るとブーツから数mしか離れていないところでチョロチョロと動くプロデューサーがいた。
「本気で逃げてるんですか…?追いかけるまでも無いんですけど…。」
森久保が一歩前に踏み出す。
ズゥン…
「うわっ!」
足が地面に着いた振動に足を取られ、思いっきり前のめりにつまづいてしまう。
倒れ伏した自分に追い打ちをかけるように森久保のブーツが襲い掛かる。
「うぐっ…」
大型トラック以上の重さを持つブーツが自分の上へとのしかかり、全身の骨が悲鳴を上げる。
おそらく全体重はかけていないのであろう、なんとか体はバラバラにならず済んでいる。
「もう勝負がついたんですけど…。あっけなさすぎて、つまらないんですけど…。」
森久保は不満そうに言葉を漏らしながら、足をグリグリと動かし、徐々に力をかけていく。
「っ…」
内臓が圧迫され、もう言葉も発せない。
もがこうとしようにも酸素が足りず、力が入らなくなってきた。
大の大人が、中学生の女の子に足を軽く乗せられただけで抵抗もままならず、蟻のように殺されそうになっている。
夢だと思いたいが全身を走る激痛がそれを許さない。
自分のアイドルに踏み潰されて死ぬのか…そう思い始めたとき、不意に体から巨大な足が離される。
「まだ、全然、もりくぼは満足してませんよ…?もりくぼの気が晴れる前に死んだら、困るんですけど…」
圧力から解放されたものの、すでに息も絶え絶えで立ち上がることもできずに森久保の言葉を聞くしかなかった。
「面白くなかったので…もりくぼに負けた罰ゲームを受けてもらうんですけど…」
薄れゆく意識の中で森久保の囁くような声が聞こえた。
「ちいさくなぁれ…」
✳︎
どれくらいの時間が経っただろうか。
意識を取り戻し、ボロボロの体に鞭を打ちどうにか立ち上がる。
「森久保は…」
辺りを望んでも果てが霞んで見えず、自分の状況が把握できない。
すると肌色の壁が上空から降りてきた。
ブーツのときとは違いゆっくりとしたスピードだったが、それでも空気が揺れる重々しい音が響く。
ドゴオン…
激しい揺れと共に眼前に接地する。
「それはもりくぼの人差し指なんですけど…。さっさと乗ってください…。」
天から大地を震わすような轟音が響き、体もビリビリと揺れる。
ただ森久保が呟いているだけで身動きが取れなくなる。
目の前に置かれたジャンボジェットほどもある指から推測するに1mm程度まで縮められたようだ。
急いで指に駆け寄り、爪から指紋を足掛かりにして登る。
少女の人差し指は軽いクライミングができる強固な壁として聳えていた。
足を乗せたぐらいでは指はへこみもしない。
心身ともに消耗した状態で崖登りをし、ようやく指の腹の上に着いた時には肩で息をしながらへたり込んだ。
「遅すぎるんですけど…。もりくぼをイライラさせないでください…。蟻の方が早く登りますよ…。」
そう言うやいなやぐわっと指が動き出し、一気に上空へと移動する。
森久保からしたら立ち上がっただけだったが、俺は地面にへばりついて振り落とされないようにするので精一杯だった。
近くに聳えるテーブルの上へと動くと指が傾いていき、ついに指に捕まっていられなくなり10mほど自由落下した後、天板へと叩きつけられる。
「っつぅ…」
言葉にならない悲鳴を漏らしていると数回大きな揺れが起こる。
震源地の方向へと目をやると両手と顎をテーブルの淵に掛け、こちらを見下ろす森久保の顔があった。
顔だけでも見上げるほどに高く、首を後ろに傾けていくと巨大な瞳と目があった。
自分の数倍もある双眸がこちらに向いているというのは恐怖でしかない。
普段直視することのない森久保の目にこんな形でまじまじと見られることになるとは思わなかった。
「もうゴマ粒より小さいですね…。次はプロデューサーさんが鬼をやる番ですけど…」
あまりの音量に耳を塞ぐがそれでも手を貫通して鼓膜へと響き、全身がビリビリと震える。
びゅうびゅうと小さく開かれた口からは風が吹いてくる。
言葉を発した時に僅かに漏れ出る吐息でさえ
暴風となって吹き荒んだ。
「勝負にならないので…もりくぼはここから動かないであげます…。流石に…たかだか10cmぐらい、辿りつけますよね…?」
森久保はうっすらと笑みを浮かべ嘲りを含んだ声でそう言った。
限界が来ている体の力を振り絞り、森久保の顔へと駆けていく。
動かないというなら可能性はある、そう信じて足を動かす。
すると森久保は微かに口角の上がった口をゆっくりとすぼめた。
まずい。そう思ったが時すでに遅し。
「ふーっ…」
森久保にとっては軽く息を吐いただけだったが、膨大な量の空気が全身に吹き付けられる。
表面が加工された化粧板には掴めるところなど無く、埃のようにあっけなく後方へと吹き飛ばされてしまった。
「ふふ…ただの呼吸にも勝てないんですね…プロデューサーさん…。虫さんよりもよわっちいじゃないですか…。」
フリーフォールのように十数mほど上空に放り上げられ、そのまま受身も取れずに落下する。
すでに幾らかの骨は折れてしまっているだろう。
臆病な少女のか弱い吐息はそれだけの威力があった。
スタート地点から後方数百mまで飛ばされ、もう動くこともできない。
「…もしかしてギブアップですか…?さっきからピクリともしないんですけど…」
「結局もりくぼは満足してないんですけど…。だってちょっと息を吐いただけで終わっちゃったんですから、当たり前ですよね…?」
「そんな頼りにならないプロデューサーさんは…」
「ちいさく…ちいさぁくなあれ…」
✴︎
甘ったるい匂いに刺激され、目を覚ます。
すると周囲は一変し、目を疑う光景が広がっていた。
「これは…本物のお菓子…?」
チョコレートの屋根板にウエハースの壁、ロリポップキャンディで彩られた外装、透き通る飴細工の窓などからなるお菓子の家、クッキーでできた道に蜂蜜の噴水…。
そこは紛れもなく、御伽噺に出てくるファンシーなお菓子の町だった。
町の外に目をやると周囲には同じような町がいくつもあるようだ。
「夢…か?」
だがそれは悪夢の方がマシだと思うような現実であった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
世界を揺るがすような地響きとともに、地平線の向こうから途方も無い大きさの森久保の上半身が出てくる様子が見えた。
ホワイトパウダーが降り積もったチョコレートの山の向こうにいるにも関わらず、その大きさは上半身だけで山を遥かに凌駕していた。
「プロデューサーさん…その町のお菓子はぜぇんぶもりくぼが魔法で生み出したものです…」
「遊び疲れたので…次はおやつの時間にしましょう…」
空の彼方から山彦のように森久保の声が聞こえてくる。ほとんど動いていないというのに疲れたなどというのは何か企みのための方便だろう。
「そして…今プロデューサーさんはどこにいるか…わかりますか…?わかるわけないですよね…」
「そこは…一枚のチョコチップクッキーの上にできた町の一つなんですけど…」
一瞬理解が追いつかなかった。
今いるお菓子の町はクッキーの上に作られている?
では、あの山のように大きなチョコレートはクッキーに埋め込まれたひとかけらのチョコチップ?
「もりくぼが一口で食べれちゃうクッキーが…プロデューサーさんにはどう見えてるんでしょうかねぇ…」
「もう微生物みたいなプロデューサーさんは見えなくなっちゃって…反応がわからないのが残念です…」
わざとらしくがっかりしたような顔をした後、すぐに顔をニヤつかせ、言葉を続けた。
「そのかわり…クッキーと一緒にプロデューサーさんを…ゆぅっくり…味わってあげますね…」
そう言うと、怪物のような二本の指が地平線の下から生えてきた。
そして怪物は大地へと接触し、がっしりと掴んだ。
するとクッキーの大地が大きく揺れ動き、あーんと開けた口が迫ってくる。
どんどんと大きくなっていく口は世界の終わりを彷彿とさせた。
少女に食べられて終わる馬鹿げた世界がそこにはあった。
小さく開かれた口から出る生暖かく湿った吐息がクッキーを包み込む。
ゴゴゴゴゴ…と凄まじい大気の揺れの音がそこかしこに響いている。
そして空は森久保の口に覆われた。
「あむっ…」
森久保の唇によって口内は闇に閉ざされた。
途端、不気味な轟音とともに未曾有の大地震が町を襲った。
ゴシャア!ゴシャア!
おそらく森久保がクッキーを噛み砕いているのであろう。
顎が上下するたびに大地が傾き、波打ち、大きく跳ね上げられる。
「んっ…色んな味がしてなかなか美味しいですね…」
口を開くたびに外からの光がわずかに差し込み、白く巨大な歯が照らされる。
一本の歯だけでいくつかの町が丸ごと潰される大きさだ。
もし自分が巻き込まれたらと思うと身の毛もよだつ。
そんな事を想像して震えていた矢先、自分のいる町のすぐそばに歯が振り下ろされる。
いともたやすく地殻が抉り取られ、地面は分断される。
とてつもない衝撃でクッキーの大地から放り出され、薄く白味がかった脈動するピンクの地面へと激突する。
「あう…プロデューサーさんを感じます…」
痒みすら生じない微かな刺激を森久保は感じ取っていた。
その言葉を発する際の天変地異の如き舌の動きに翻弄され、そんなことを気にしてはいられなかった。
粉々になり、舌に運ばれて深い喉の奥へと落ちていくクッキーの残骸が見え、どうにか脱出しなければと焦燥感に襲われる。
しかし、口内に首をもたげた舌がこちらへ向き、唾液とともに絡め取られてしまう。
もう脱出は不可能と諦観したが、森久保が取ったのは意外な行動だった。
舌は小さくぺろっと出され、指へと自分を含んだ涎ごと移し替えられたのだ。
口に流れ込んだ唾液を吐き出し、咳き込む。
突然外に出されて混乱し、届くはずもない疑問を森久保に投げかける。
「どうして急に助けてくれたんだ…?」
「それは…」
森久保は一瞬気恥ずかしそうな顔をした後、ハッと我に帰る。
「聞こえてるのか…?」
この大きさの差では聞こえるはずもない、そう思っていた。
しかし、森久保は俺の言葉に反応してしまい、動揺しているようだ。
「…むぐぅ…」
何かしら不都合があったのか、こちらからぐるぐると渦を描いた目を背け、思案している。
そして、じっとこちらを見つめなおすと、静かに口を開いた。
「でも…」
「でも…もう、いいんです…」
「ここまで来たら…」
「もっと…もーっと…ちいさくなぁれ…」
✴︎
次に目が覚めたとき、一面肌色の世界だった。
万里の長城のような肌色の壁が天高くどこまでも続き、しばらく歩いても景色は変わらず出口は一切見当たらない。
そうして途方に暮れていたとき、どこからか森久保の声が聞こえてきた。
そこら中に反響してもはや左右上下どの方向から聞こえているのかすらわからない。
「…最初は…もりくぼなんかがアイドルなんてできるわけがないと…思ってました…」
それは独り言のような、いつもの森久保の声だった。
「やっぱり…もりくぼには…合わない仕事が多かったんですけど…」
「…ストレスを貯めながら…今まで、なんで、アイドルを続けられたか…」
「…プロデューサーさんに必要とされて…本当は嬉しかった…」
「だけど、もりくぼがそう思っていることにも気づかないで…」
「…だんだんと…何十人もいる事務所のアイドルの一人だっていうだけで…もりくぼが特別必要とされているわけじゃない…そう、気づきました…」
「…あの本は…相手を自分のものにするための魔法…そう書いてありました…」
「…最初はこんな形でとは思いませんでしたけど…」
「だから…プロデューサーさんの言っていることも…いる場所も…手に取るようにわかります…」
「プロデューサーさんは…そこで…もりくぼの指紋の隙間で…もりくぼを必要として…生きてください…」
ーーそれから俺は、惑星よりも大きな森久保の指紋の中で、森久保の何kmとある垢を食べなければ生きていけなくなった。
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「あっ、乃々ちゃん!こんなところにいたんだ〜!」
「愛梨さん…わざわざ探してくれたんですか…」
「うん!プロデューサーも乃々ちゃんのこと探してたんだけど…見つかったって教えてあげなきゃ!」
「…プロデューサーさんなら…心配しなくても…もう知ってると思いますよ…」
「そうなの〜?じゃあ打ち上げに戻ってよっか!」
「はい…」
「ふふっ…」