====================================
「Nest」

注意
この小説には縮小された男性に対しての非常に残酷な表現が含まれております。
また、弱小ながらもスカや食い表現も含まれております。
お読みいただける場合にはご注意下さい。               2007/05/31 AN-J
====================================


 一学期初日

「初めまして。居川真弓といいます。皆さんこれからよろしくお願いします」
なかなかかわいい転校生の登場に教室の男子生徒達は沸いた。
その男子の様子に女子は少しつまらなそうな感情は持つものの、転校生を迎える気持ちには持ち込まなかった。

「じゃあ席はー、ちょうど空いてる大野の横に座ってもらおうかな」
教師が一番後ろの席を指差し、真弓に席へ着くよう促した。
「大野君ていうんだ。よろしくね♪」
「う、うん・・、よろしく」
大野陽平は軽く頭を頷かせながら答えた。
「なにー?大野照れてない?一目惚れしたんでしょー!」
お調子者の小山比奈が前の席からこちらを向き茶々を入れる。
教室から軽い笑いが沸く。
「でも居川さんてホントかわいいよねー、カラーとか超キレイだし!」
「そんなことないってー、あ、ないですよー」
「いいよいいよ!普通の喋り方で!ね、メアド交換しようよ」
ちっちゃいクマのぬいぐるみストラップがついた携帯を取り出す比奈。
「あ、うん、えっとね・・・」
「おいおい、そういうのは昼休みにしなさい」
教師が困ったような笑顔で注意する。
「はいな!」
ササっと携帯をしまう比奈。
比奈と仲の良い女子達から笑いが起こる。
「また後でね!」
「うん」
ありきたりな転校生の登場は終わり、穏やかに授業が始まった。


--


しかし転校生は次の日から全く学校に来なかった。

三日ほど経ち。昼休み
「ねえ、大野の隣、転校生来てたよね?」
「だよね、変だよ。あれから全然来ないし」
比奈の席の前で丸井夕菜と紺野昌美が来なくなった転校生について話し合う。
「ていうかヒナのテンションが高すぎで来なくなったんじゃん!?」
「それは無いって!」
なんでもないことのようにキャアキャアと笑い話にする女子達。一日しか教室にいなかった転校生の心配は、本気ではしていないのかも知れない。
「ねー大野君はなんでだと思いますか?」
大野の方を向き、わざと君付けで話し掛ける比奈。
「知らないって・・・。小山のテンションが高すぎたんしょ」
「あ、ひどっ!!」
キャアキャアと笑う比奈達。
比奈は再び女子達の方に向き、違う話題に変わる。
「これ見て!この間の昌美の写メ。このポーズすごくない!?すごくない!?」
『キャハハハハハ!』
「なにこれー!いつ撮ったの!?」
『あはははは!』

大野は女子達の視線が全く自分に向かなくなったことを確認し、机の上に腕を組み、顎を乗せ、教室の時計を見る。


大野陽平は居川真弓を知っていた。

とはいっても、大野と真弓がお互い顔見知りというわけではない。大野が一方的に居川真弓を知っている。具体的には、居川真弓本人をよく知っている訳でもない。
居川の父 居川辰三は裏の世界で有名なマッド・サイエンティスト。その巨大な財力と脅威的な技術力、何の役にも立たないような、しかし人類学的には画期的な薬を作り出す天才科学者。
そんな存在がオカルト雑誌、ネット上のみで囁かれていた。
表のメディアには現れない。居川辰三のバックにいる、その才能を買った世界の三本指に入る権力者が辰三の存在を隠しているという。
裏の世界でも本人が言動を発していることは無い。

そんな、お話の世界でしかありえないような、まさにオカルトな存在を、大野は信じていた。
そして三日前にそれは確信に変わっていた。
「居川辰三には、父の研究を熱心に手伝う娘がいる。」そんな噂話をネット上で腐るほど見ていた。
「辰三は娘をモルモットにし、様々な薬を投与している」「父親の趣味によって、娘は物凄い爆乳にされている」「薬の効果で空を飛び、獣に変身する」「お湯を浴びると男に、水を浴びると女になる」「娘じゃない。妻を薬で娘同然の年齢にしているのだ」「居川辰三自身だ」
そんなネット上の適当な噂話を全て信じていたわけではない。実際それほど胸が大きすぎたりも、おばさんくさくも、角が生えてたりもしなかった。
しかし転校してきた居川真弓は、大野自身がなんとなく根拠も無く「信憑性が高いな」と感じていた、囁かれている娘のプロフィールそのままの人間だった。
自己紹介の時に話された生年月日、血液型、身長、好きなもの嫌いなもの、尊敬する人は父親。
そして自分が思い描いていた容姿そのままの姿だったのだ。
もしかすると「居川真弓」という同姓同名を聞いて、その場で勝手に頭で当てはめてしまったのかも知れない。
しかしそれでも大野は、居川辰三、居川真弓の存在は真実だと思い込んでしまっていた。

そんな話をいきなり女子達にしても、引かれるだけだろう。ネット上で「居川辰三の娘に会った」等と書き込みしても、また作り話かと流されるだけだろう。
証拠写真を撮ろうにも本人はもう姿を見せていない。実際撮れても「どこが証拠だ」と言う話だ。
自分の中では確信しきってしまっている分、どうにもできなさによる虚しさを感じていた。
しかし、居川辰三の存在を世界に証明することなど、実は半分どうでもよくなっていた。
・・・もう一度会いたい。
本来自分がファンだった居川辰三。の娘。ネット上の話題から思い描いていた想像上の女性。半分空想の世界の人間が、実際に自分の横に一日存在した。
特別な感情を生まずにはいられなかった。そんなことを無しにしたとしても、かわいい女の子だった。
なんとかもう一度接触することは出来ないだろうか・・・。あの日、下校後、後をつけていればよかった・・・。
そうしたら住所もわかっていたかもしれない。
「住所・・・。・・・、そうだ!」

大野は放課後職員室へ向かった。
「先生、転校生の居川さん。全然学校に来ませんよね?」
「ああ・・・、どうした大野。気になるのかい?」
教師は椅子をこちらに向け、半分茶化したように尋ね返す。
「気になりますよ。せっかく転校してきたのに、来なくなったのは隣の席になった僕のせいかも知れないじゃないですか」
「いやいや、そんなことは無いよ。あ、いや、そんなことは無いんじゃないかな」
「・・・?どういうことです?」
「どういうこともなにも、お前居川をいじめたりとか、そういうことはしてないだろう?」
「いや、そういうことじゃなくて・・・」
「まあ気にしなくて大丈夫だ。さ、部活が無ければ早く帰りなさい」
はっきりとした返答が無く、なんだか苛々する。
「先生、僕居川の家に言ってどうしたのか聞いてきますよ。一日だけとはいえ隣の席でしたし、一番話しやすいと思います」
「大野お前な・・・」
単刀直入に言い過ぎただろうか。急に下心がバレバレな気がして、恥ずかしくなってくる。
「そんなことはしなくていいんだ。うん、わかった。誰にも言うなよ?」
「・・・?」
ドキリとする。意外な情報が掴めるのかも知れない。
「居川真弓はな、実はな」
「はい」
「もう転校するんだよ」
「・・・」
「お父さんの仕事の都合らしくてな。先生も残念だよ。来週頭にでもクラスの皆に発表しようと思っているんだ」

拍子抜け。肩透かし。白けながら帰路につく大野。
もう会えないのか・・・。大野の心は折られかけている。
一時の夢だったと思うしかないのだろうか。



月曜日
朝のホームルームで居川真弓の転校が告げられた。


--


緊張するなあ。うまくいくかな?
お父さんの薬は失敗したこと無いから大丈夫だと思うけど、段取りがちゃんと進められなかったら「コラ!」って怒られるしね。
体育館がざわついてる。色々とドキドキする。薄暗い舞台袖にいてこのざわめきを聞くと、小学校の頃の学芸会を思い出す。
そろそろ出て行かないと誰か逃げちゃうかな。みんなと会うのは、もう2ヶ月ぶりか〜。
深呼吸して・・・。よし!

あたしは学校指定のカバンを持って舞台中央、壇上に向かった。

「みなさん、お久しぶりです。居川真弓です。覚えてます?」
一瞬スピーカーからキーンとハウリングの音が鳴った後、喋ると同時にあたしの声が体育館に響いた。
マイク設定下手だなあ・・・。スタートでつまずいちゃったじゃん。
館内のざわめきが、お喋りのざわめきから疑問のざわめきに変わる。
「実は今日皆さんに集まってもらったのは、えっと、私のお父さんの実験のためなんです」
実験?何の話?誰だっけ?転校生?この前の?なにこれ?
色んな声が散り散りばらばらに聴こえてくる。
もしこの時に気づかれて襲われたら大変なことになるのよね。ま、そんなことは有り得ないと思うけど。

「心の準備が出来てない人もいると思うけど、急な話でごめんね。はい、ここまでで何か質問ある人いますか?」
ざわざわとしながらも、少しの間の後、素直に手を上げる生徒が出てきた。
体育館の舞台ってすごい。こんな、多分わけのわからないことでもみんなまだ従順に付き合ってくれてる。
小さい頃からここはそういう場だって刷り込まれてるのね。

「はい、そこの、えーと・・・、河野、河野和也くん」
「これなんなんです?」
「えっと、お父さんの実験です」
「何の実験?」
「お父さんの作った新しい薬の実験です」
ざわめきがちょっと大きくなった。薬って言葉はやっぱりちょっと怖いよね。
「・・・ていうか、俺たち、進路の重要な話があるって連絡網で呼ばれたんだけど」
「進路っていうのはちょっと嘘だけど・・・重要なことなのはほんとだからごめんね」
ざわめきから、はぁ?や、なにそれーといったブーイングが混じり始める。
「なんなの?これ誰の許可とってやってるんだよ?」
「つーか日曜なのにさ、今後の進路に関係するからって予定潰して来たのになんだよこれ!」
あ、あれはえっと・・・、田島智くんだ。手挙げてないのに勝手に喋っちゃってる。
「ていうか転校したんじゃなかったのかよお前!」
今度は真下大樹くん。やっぱりちょっと不良な男の子がまず噛み付いてくるよね。
「帰ろうぜ。意味わかんねえ」
あ、何人か立ち上がり始めた!
まずい、そろそろ始めないと。

あたしは急いで壇上の赤いスイッチを押した。
館内のあちこちから少しピンクがかったガスが噴射される。

ブシュー!

ウワー!キャー!と悲鳴の混じったざわめきが聴こえてくる。

ドキドキする・・・うまくいくかな。
でも凄いなあ。ちゃんと隅々まで煙でいっぱい・・・。

・・・あ、出しすぎかな!
あたしはスイッチから手を離した。

もうもうと立ち込める煙が少しずつ晴れていく。
ゲホゴホと咳き込む声もたくさん聴こえる。急だから仕方ないよね。
あ、急じゃなくても煙吹き付けられたら咳き込むかな。

さてと・・・。
あたしは煙が消えきる直前に、あらかじめ用意しておいた学校机と椅子を持って、舞台横の階段を降りた。
この机と椅子はちょっと小さめに作ってあるの。

みんな寝てる。
みんなの前に机と椅子を置いて、あたしは座った。
膝の上に手を置き、みんなが起きるのを待つ。
個人差はあるけど、ほとんどの人は慣れるまで4、5分気絶しちゃうだろうってお父さんは言ってた。
大丈夫かな。いきなり死んじゃうとかそんなことないよね。

・・・この姿勢だとパンツ見えちゃうかな。
脚閉じなきゃ・・・。だめだ、真ん中は見えなくてもお尻の方で見えるかも。
スカート短くしすぎちゃったかな・・・。この制服スカート短くした方がかわいいんだもん。
・・・んー、ま、いっか・・・。どうせ最後にはね。

あ、一人起きた!早いなあ。強い子なんだね。
辺りを見回してる。こっち見てギョッとしてる。ふふ、かわいい♪
あれはえーと・・・誰だっけ。
とりあえずあたしは手招きをして彼を呼んだ。
不安な顔しながらも、そろそろとこっちへ来た。
よかった。すぐ逃げ出したりする子じゃなくて。

あー、やっぱり最初にしては小さくしすぎちゃったかな。
「・・・え、えと、これ、どういう、え・・?」
あたしは人差し指を口にあてて注意した。
そのまま机から立ち上がってみる。
ビクっと後ずさりしてる、かわいいなあ。
もう一回笑って手招きしてあげた。・・・きたきた。
一対一ならこれくらい小さくすれば結構言う事聞くんだよね。
小学校2、3年生くらいの大きさかな。おどおどしてる。かわいいなあ。
えっと、あたしの胸くらいだから・・・120・・・130・・・125cmくらいかな。
「君、名前なんだっけ?」
「・・・わ、渡部洋人、だけど・・・」
「ありがと♪」
頭をなでなでしてあげた。目を白黒させてる。気づいてきたかな?かわいい♪
あたしはカバンから表を取り出した。
わ、わ、わ・・・、あった。
渡部洋人、168cm そっかあ、あたしより背高かったんだ。
そりゃそうだよね。あたし別に背高い方じゃないもん。
将来の夢、ギタリスト。あは、ちっちゃいギタリストだね。

ん?あ、みんな結構起きはじめてる。ざわついてるけどまだ静かな方だ。さっきに比べれば。
そろそろ再開かな。

「えっと、ここまでで何か質問ある人?」
「ちょ、ちょっと待てよ、何で俺寝てたんだ!?」
さっきの田島くんだ。手も挙げずに不真面目な子だなあ。
「手を挙げてから質問してね。えっとそれは私のお父さんが作った薬、ガスを吸ったからです」
「そ、そうだ!なんなんだよさっきのガス!説明しろよ!」
「うーん、じゃあ何か気づくこと無い?」
「へ?・・そ、うん、あ、で、でけえ・・・そうだ!お前と体育館がなんかでけえぞ!おいみんな!」
全員がキョロキョロとしてる。ざわめきが急に大きくなってきた。
「惜しい!」
「は、はあ?」
「私と体育館が大きいのは、惜しいの。正確にはみんなが縮んだってこと」
「はあ!!?」

「ええええ!!」「うおおお!!?」「キャー!なにこれ!!」「ちょっと待って!!どうなってんの!!?」

また色んな叫び声が聴こえてくる。
「なんだこれ!・・・うおお、す、すげえな!お前の親父さん!はあ!?まじで!?」
「うん、すごいでしょー。えっと、大体みんなは今ー、小学校2、3年生くらいの身長みたい」
「すげー!まじすげー!ありえねーよ!うわー!」
似たような声が色んな所から聴こえてくる。あ、みんな散り散りばらばらになってる。
そりゃ興奮するよね。体が縮むなんて普通あり得ないもん。

「おもしれー!!おいみろよ!ボールでけーよ!!」
誰かが体育倉庫を開けてバスケットボールを持ち出してる。なんかすごいなあ。
でもちょっとかわいい。

カバンを持って舞台に戻り、壇上から見渡してみる。
バスケをする男子。
得点表、ボールや跳び箱と一緒に携帯カメラで写真を撮り合う女子。
自分の持ち物を確認する男子。
体重計に乗ってはしゃぐ女子。
みんなわいわいキャッキャと縮んだ体で遊んでる。とても高校二年生には見えない。・・・うん色んな意味で見えない。
ボーっとこっちを見てる男子もいる。
って・・・あれ?あの子は確か大野君?懐かしい!
笑って手を振ってあげた。

あ、こっちに向かってきた。なんだろう?



「な、なあ・・・」
「なーに大野君?」
会話がマイクに乗っている。
ヒューヒューと野次を飛ばす男子もいる。

「これ、さ・・・。元に戻れる、よな?」

みんながハッとして一斉にこちらを見る。

鋭い質問。気付くのが早いね。

「・・・うん、戻れるよ」
安堵感の混じったざわめきに戻ってきた。

「ほ、本当だよな・・・?」
「ホントだよ、嘘じゃないよ♪」
頭をなでなでしてあげる。
それを見た生徒達から笑い声が上がる。
あ、大野君照れてる。かーわいいー♪
とても同い年には思えないよね。

さすがに恥ずかしくなったのか、大野君はそそくさと戻っていった。


--

男子数人の輪の所に入る大野
「お、高校生になでなでされた男が戻って来ました!」
遠藤が大野を茶化す。
「うるせーな!あいつがでか過ぎんだよ!」
やはり恥ずかしかったのか、言い返す大野。

「なあ大野、お前あいつのこと好きだったんじゃねーの?」
「な、なんでだよ・・・」
星野が図星を指す。
「だってさ、あの女が転校してきて学校来なくなって一週間くらい、明らかに元気なかったもんな」
「そうそう」
「いや、それは、心配してただけだって・・・。だって俺の隣の席になったら学校来なくなったのと一緒だぜ?」
「あーそりゃショックだわ」
笑い声が上がる。

「でもマジすげーよなあいつの親父。まだ信じらんねーよ。まだデカい体育館とデカ女がいるだけな気がするわ」
「いや俺はまだそう思ってるよ!ありえねーよ体小さくなるとか」
「でもこのでかい携帯、絶対俺のだぜ?」
遠藤が一回り大きくなった携帯電話を取り出してみせる。
「うーん・・・」
「あれ?遠藤の携帯なんで小さくなってないの?」
星野が自分の携帯電話をポケットから取り出す。
確かに星野ののは見慣れたサイズだった。
「あれ?ほんとだ。なんで?俺のカバンに入れてたからかな?」
「さ、さあ・・・?」

「けどこれ、ノーベル賞もんだよね」
「こんな人体実験いきなりして、そんな正式な賞貰えるんかねー?」
「いや、普通に捕まるだろ・・・」
「もし失敗してたらどうなったもんかわかったもんじゃないしな」
「訴えれば賠償金とか貰えるんじゃね?」
「ただの親父の趣味とかの範疇越えまくりだよな」

大野は言い訳をしてからずっと黙っていた。

「大野?」
「・・・お前らさ、なんでそんな安心してられるんだ?俺わかんねーよ・・・」
「いや、だって戻れるって言ってたじゃん」
「そんなの口先だけかも知れないぞ」
「・・・いや、そりゃまあ・・・。でも実際小さくなったんだし、戻れるっしょ」
「戻れなくても、賠償金とTVの出演で食っていけるよこれ絶対」
「はは、おーまーえな、考え明るすぎ」
「進路に関する重要な話ってのも間違いじゃないな!」

「・・・俺知ってるんだよ・・・あいつの親父、マッド・サイエンティストなんだよ」
「・・・?」
「ぶっ」
「『マッド・サイエンティスト』なんて表現今時ねーよ!」
「マッド・サイエンディストじゃなかったら、こんな薬、人体実験、誰がやるんだよ」
「ま、そうか。・・・間違った表現じゃない、のか」
「俺たちが無事に戻って無事に解放されて、無事に今まで通りの生活ができるとホントに思うか?」
「・・・」


--


みんなまた不安になってきたのかな。
ざわめきに動揺が強くなってきてる。

じゃあそろそろ再開かな。

「えーと、ここまでで何か質問ある人」
あたしは壇上のマイクから呼びかけた。

あ、比奈ちゃんが手を挙げてる。
「はい比奈ちゃんどうぞ!」
「あの、急すぎて、よくわからないんだけど・・・、これって本当にあたし達小さくなってるの?」
「うん、なってるよ」
「でもさ、着てる服とか、昌美のメガネとか、そういうのも小さくなってるよね?」
いい質問。
「やっぱこれってさ、あたし達眠っちゃった間に、こう、そっくりな大きい建物に移動されてるとか・・・。でも、それだと、えっと、居川さんの大きさの説明は出来ないけど・・・」
「やっぱそう思うよね!うん、今回のお父さんの発明ですごいのはそこなの!」
全員キョトンとしている。
「あたしが作った訳じゃないから上手く説明できないけど、なんていうかガスを吸った人に付着してる物? も一緒に小さくなるのかな?」
「でもでも、それだと、服とかってさ、繊維で出来てるじゃん? 色んなもの全部そういうものだけど、なんていうか、境界線とかもなくない?」
「だ、だからあたしも上手く説明できないの!上手く出来てるの!都合よく出来てるの!」
「そ、そう・・・あ、ありがと」
「ごめんね。これ多分今回お父さんが見逃して欲しい点だと思うの。なんだかわからないけど、うん。ごめんね」

そんなこと言ったらあたしだって、人間の機能が正常なまま体を比率そのままで小さくする原理も知りたいし・・・しょうがないよね。
比奈ちゃんは座ってしまった。

「えと、じゃあ他に質問ある人」

「これさ、どうやったら元に戻れんの?」
また田島君。クラスの代表格なのかな?それとも物事を堂々と言えるお調子者?なんか不良っぽいしね。
「うーん、手を挙げて答えて欲しいなあ。一応見てる人もいるんだし」
「いや、いいからそういうの・・・ていうか、監視されてんの?俺ら」
「うん。実験だからね」
「そいつら隠れてないで出てきて欲しいんだけど」
「それはー、うーん。ちょっとダメ」
「・・・ふーん。でさ、どうしたら元に戻れんのよ?」
「それもまだ内緒」
「なんだよそれ!」
「ごめんね」
「じゃあ実験とかいうのはいつ終わんだよ!?成功じゃねーの?もういいから早くもとに戻せよ!」
「それもまだ内緒なの」

「ふざけてんじゃねえぞテメェ!!」
ブンッ!
田島君の隣にいた真下君がバスケットボールを投げつけてきた。
あたしはとっさに腕で顔を守る。

ガスッ!

ガゴコンッ! ドン、ドン、ドン、トントントン・・・・

腕にぶつかったバスケットボールが跳ね返り、マイクを倒し、壇上から舞台に落ちてバウンドした。
館内はシンとし、生徒達の大半は引いている。

痛い。・・・いきなり攻撃されるとは思ってなかった。
ちょっと、うかつ だったかな。

「なめてんじゃねえのか!?オメェよ!さっさと戻せよコラァ!!」
ドガンッ!!ガンッ!!
田島君がさっきの机を蹴り飛ばし、床に倒した。
静かな館内に響いたその音に、・・・ちょっとビクっとした自分に腹が立った。
さっきまで楽しそうにしてた人間の、態度のでかさにも少し腹が立った。

・・・よし。
あたしは壇上のスイッチを再び押した。

ブシューー!!

再び館内が薄いピンクのガスでいっぱいになる。
うわーー!!キャーー!!と叫び声が響き渡る。ドタバタと走り回る音。続いて咳き込む音。
でも一回目より音量が小さい。



煙が晴れ切る直前に、あたしはカバンから手の平サイズのスプレー缶を取り出し、舞台横の階段から降りた。
机を起こし、中にスプレー缶を入れ、席についた。

煙が晴れ切る。
みんな気絶はしていないけど、意識が朦朧としているようだ。



みんな正気に戻る。うわ、かわいい・・・。

「・・おい!まだ小さくなんのかよ!ていうかするならするって言えよ!!おい!!」
真下くんが凄む。でも、あんまし迫力は無い・・・。ていうかかわいい。

「戻せよ!」
「そうだよ!戻せよ!」
「責任取れよ!」

ボン   ゴン    ドン

威勢のいい男子達が色んなボールをあたしに投げてきた。
でもあんまり勢いがなく、そこまで痛くない。
それどころか、かなり離れて投げてるのでほとんど机にぶつかったり、よくわかんない方向へ飛んでいったりしている。
よくみると、ボールが重いのか大きすぎるのか、ほとんどの子がスローインで一生懸命投げてきてる。ふふ、かわいい。
でもあんまり気分良くないな・・・。弱いとはいえ、ボールもそれなりに質量を持ってるし、ぶつかると机も少し移動したり、体に当たればボールの重さも感じる。

「やーめーろ!やーめーろ!」
女子達はその男子たちの後ろでコールしている。コール組に比奈ちゃんはいないみたい。

うーんでも、このサイズになって文句言ってくるのは、このクラスが始めてかも?
・・・あ、そっか。あたしまだ脅してなかった。

バンッ!!!
「静かにしなさい!!」

あたしは思いっきり机の上を叩き、大声で言ってみた。

みんな一瞬、脅えというよりも、条件反射的な感覚でビクッと動きが止まった。
コールも止んで、館内が静かになる。
ああ、胸がスッとする・・・。気持ちいい。。。。

・・・だめ。まだ溜めなくちゃ。


「・・・なんのつもりだテメェ!」
田島君がこっちに向かってきた。やっぱり結構度胸のある子なのかも知れない。
体は小さいくせに態度はでかい。


「大体こっちは協力してやってるのによ!!なんでちゃんと・・・説明・・し・・・」
ふふ、口篭もった♪
思わず笑っちゃいそうになる。けど、我慢する。

「な、何ニヤニヤ笑ってやがるて、めぇ・・・」
いけない。口元が歪んでたみたい。
椅子に座ってるあたしを見上げながら、まだちゃんと言うのね。偉い偉い。
でも語尾が震えてヤギさんみたいになってるよ。かわいい♪

座ったまま田島くんをじっくり見下ろす。
顔を上げ、椅子から立ち上がった。
ガタン
反射的に1、2歩後ずさり、身構える田島くん。
「なな、なんだよ!なんだ!何する気だよ!やんのかぁ!!」

なにをするもなにも、あたしはただ立ち上がっただけだ。田島くんの顔もまだ見てない。
それに勝手に脅えて戦慄してるのは田島くん。ふふ、また笑っちゃいそうになる。

あたしはわざと顔の角度を変えずに、田島くんの方に顔をやる。
目線だけ落として見下ろす。
体育館の照明はたくさんあって、影もたくさんできる。
その中の一つの、あたしの影が田島くんをすっぽり包み込んでいる。
やっぱり小さいなあ。ふふ。どれくらい小さいんだろう。
田島くんが離れた分、一歩近づき、手を上げる。
田島くんはビクッと震え両手を頭の上へ持ちあげる。
すぐに自分の行動に気がついたのか、すぐに手を降ろす田島くん。ふふ、もう遅いよ。みんな見てるよ。

あたしは田島くんの頭の上にゆっくりと手を降ろし、乗せた。
小さくなっても比率がそのままな分、頭が小さく、そのまま掴めそうな気がしてくる。ううん、まだちょっと無理かな?まだね。

その手をそのまま自分の方へ持ってきた。
丁度おへその辺りだ。
「うーんと、100cm、いってる、かな?いってないかも。あは、背の小さーい幼稚園児くらいだね♪」
幼稚園児から見る女子高生はなんと大きいことだろう。ふふ、ぞくぞくしてきちゃった。

「ふ、ふざけんなぁっ!!!」
たじまくんはあたしの右手をペシリとやった。軽いしっぺみたいな感触。
もういいかな?

あたしは自分の机を斜めに思い切り蹴り上げ飛ばした。

ドガンッ!!      ガンッ!!  ガコッ!! ガガンッ! ガスッ!ガンッ!ガドンッ!

女子生徒達の方角から悲鳴が上がった。

手の平サイズのスプレー缶しか入ってなかった机は軽く、3、4回転しながら体育館内を駆け走り、壁に激突した。
学校机の発する音の大きいこと。
でもみんなにはもっと大きく聴こえてるかもね。
スプレー缶は机から飛び出し、コロコロと思ったよりこちら側へ転がってきた。

たじまくんはほぼ自分と同等の大きさの机の行方を見ている。
あ、へたり込んだ。

「これはさっきのお返しね♪」
声をかけても たじまくんはガクガクと震えているだけだった。


あたしはスプレー缶を拾いに歩き出した。
スプレー缶の周りにいた生徒達が雲の子を散すように離れていく。
情けないなあ。まだそんなに大きいのに。

スプレーを拾って、今度は「ましたくん」の方へと歩き始める。

ましたくんは両手を前に突き出し、少し後ずさりしながら、来ないでくれという表情をしている。
でもあたしは向かう、ズンズン歩いて ましたくんを追い詰める。

そろそろみんなあたしの足音だけじゃなく、揺れも感じ始めてるかも知れない。
そう思うと、またゾクゾクした。
あたしのただの歩行が、生徒達全員に影響を与えている・・・。気持ちいい・・・。
一回気持ちよくなり始めると、もっともっと気持ちよくなりたくなる。

ましたくんは足元で震えている。
「お、落ち着けって・・・待てよ、ねえ、待てってば!」
「どしたの?さっきの勢いが無くなっちゃったね」
あたしは言ってやる。
同じ内容でも、あたしの思ったことを何度でも言ってやることで、相手は萎縮するのをあたしは知っている。
言えば言うほど効いてくるのを、あたしは知っている。

「ねえ、さっきの勢いはどうしちゃったの?ねえ。あんなに怒ってたじゃん」
「待って・・・待って・・お願い・・」
もう懇願態勢だ。しゃがみ込んでる。思ったより早いなあ。
「なんでー?さっきあたしにボールぶつけてきたじゃん。あんなに怒ってたのに、もう怒ってないの?怒鳴ってたのに」
「怒ってない・・・怒ってないよ・・・だからさ、なあ・・・もう許して・・」
「そう怒ってないの。ふーん。・・・でもあたしは今すごく怒ってるよ!」
語尾を少し強めに言っただけで、ましたくんはビクッと震える。
両腕で顔を隠した。ちっちゃくてかわいい。
かわいくて、もっとかわいくしてあげたくなる。
「ねえ、怒ってるんだけど!」
今度は顔を近づけて言ってやった。
「ごめんなさいごめんなさい許してください許してください許してくださいぃぃ・・・!!」

もう折れちゃった。ほんとは弱い子だったのかな。それともやっぱ恐いのかな。ふふ。
でもこんなんじゃ許してあげないんだから。
折れて閉じきった心を無理矢理こじ開けて、その中にまた『あたし』という存在をねじ込んであげる。ふふ。
今はもうガードに入っちゃってる状態。ガードをしっ放しだからあたしは何にも面白くない。
うそ。それはそれで結構面白いけど、こういう時はまた自分はどうしたらいいかをわからなくさせて、そこで思い知らさせてあげるの。

「許して欲しいの?」
「許してくださいお願いしますごめんなさいごめんなさいお願いしますお願いですお願いです・・・・!!!」
「じゃあその前に・・・」
「・・・?」
あたしはスプレーのキャップを外した。
噴射口をましたくんに向ける。
「?・・??・・・???」
何がなんだかわからないという顔だ。普通わかるよね?
でも脅えて状況が良く理解できてないのかもね。
「えいっ」
シュッ プシュッ プシュー!

「うわップ・・・ぷはっ! ゲホッ!ゲホゴホッ!」
目の前でましたくんがスルスルと縮んでいく。
まるでゆっくり落ちて行ってるみたいに見える。でもましたくんは落ちて行ってはいない。

「ゲホゲホッ・・・ぶほっ・・・うう・・・」
「ふふ、またちっちゃくなっちゃった」

後ろのみんなが明らかに動揺しているのが、背中越しに感じられる。
離れていて見えにくいとはいえ、本当に人間が小さくなっている所を見ちゃったんだもんね。

「うう・・・、うわ・・うわあ!うわあああああああ!!!!!!」
足元から静かに叫び声が聴こえる。後ろのみんなは聴こえてるのかな。こんなに静かな体育館なら聴こえてるかもね。

「うわあああああ!!うわああああああああああ!!!」

まだ叫んでる。あたしのことどう見えてるのかな。ましたくん小さい上に尻餅ついてるから、足首よりちょっと高いくらいの場所に顔がある。
ビルみたいに見えてるのかもね。あはは、脅えてる脅えてる。かーわいいー。
「何もしないで!お願いです!何もしないで下さい!」
声が小さいけど、必死にお願いしてる。変な頼み方。おかしくなっちゃったのかな?
「だめだよ。お返しするんだから」
あたしはすぐ後ろに落ちていたバスケットボールを持ち上げて、ましたくんに見せてあげた。
「うわあああああああああああああ!!!!やめて!!!お願いだからやめて!!やめてください!!!」
バスケットボールの直径は多分、ましたくんの今の身長と同じくらいだと思う。どんな感じなんだろう?
「いくよ?いくよー」
「やめでえええええええうわあああああああああああああ!!!!!!!」
「3、2、1、ハイ、お返し」
ボールに少し力を加えて ましたくんに落とした。バウンドで自分の手元に返って来るぐらいの強さで。

メシッ!  ドン!ドン、ドンドン ド トトトトト・・・

落とした一回目のバウンドは、いつも聴こえるダムッという音より、硬さのほとんど無い音を発して、ちょっとしか跳ね返らなかった。
だいぶ質量を受け止めちゃったね。ましたくん。
そのままボールは右に転がっていった。
ボール円周の距離感覚で点々と赤い小さなシミが、転がる道筋に付いていった。回転するごとにシミは小さくなり、すぐにシミはできなくなった。


赤と黒と少し肌色の物体が足元にある。ましたくんだ。
「・・・・ ・・・・ ・・・」
なにか喋ってる、のかな?よく聴こえないから、わざわざしゃがんであげて、耳をすませてあげる。
よく見ると口から泡と血を同時に出してるように見える。
「・・・ヴぁ・・ァァ・・イァイ・・・だぶづげ、で・・・」
「ん?痛いの?あたしも痛いよ?まだボールをぶつけられた右手首、ジンジンしてるもん」
「ァ・・・ぁば・・・れが、だづげて・・・」
人間の生命力には驚かされる。こんな姿でもまだ、生きている。
「とにかくこれで許してあげるね。もう怒ってないよ♪」
「ぁぁ・・・ぁぶぁ・・・ああぁ・・・」


--


「さて、と・・・」
真弓は立ち上がって、生徒達の方に振り向いた。



映画でも見ていたかのような心境だった生徒達。
ほぼ同時に全員 ハッと目が覚めた。

「うわ・・うわあああああああああ!!あの女、あの女イカれてるよおおおおお!!!!」
「誰か!誰か助けて!!助けてええ!!!!!」
「開かねーよ!!おおおおい!!!この正門開かねーよおおお!!!誰か!誰か開けてくれえええ!!!」
「嘘でしょ!?夢だよね!夢だよね!!?ねえ!!夢だよね!!?」
「やめてくれよ!!冗談だろ!?悪趣味だよ!!それ人形なんだろ!!?トリックかなにかあるんだろ!!?」

一斉に、バラバラに動き出す。叫びだす。

「なあ!俺あいつにボール投げたけど、ぶつけてないよな!!お前見てたよな!!代わりに言ってくれよ!!頼むよ!!」
「どこか!どこか出口は無いの!!ねええええ!!みんなああああ!!!」
「なんで圏外なの!?やだ!!あやの携帯も?!うそ!うそ!!」
「見てるんだろ!!おい監察官!!人が!人が怪我してるよ!!!大怪我してるんだぞ!おおい!!!!」


「んー・・・やりすぎちゃったかな」
真弓は少し反省した。本当は皆が固まって動けなくなる、静かになる程度で今は止めるつもりだった。
しかし体の奥から沸き上がる興奮と快感に押され、つい好き放題やってしまったのだ。
なんとか生徒達をなだめる方法を考える。


「ねーみんなー!」
真弓は両手を口にあて、拡声器の要領で声量を上げ、アナウンスした。
「みんな大人しく集まってー!もうあたし怒ってないからー!」
生徒達の様子に変化は少ない。ドタバタという感覚と、大勢が走り回る足音と、様々な叫び声が飛び交う。
「もっと小さくしたらボールは全然痛くなくなったしー、それに、それに、えっと、みんなかわいいしー!大丈夫だからー!」
真弓は自分の言動が生徒達の恐怖を増幅させてることに気がついているのだろうか。
男子生徒が思い切りぶつけたボールを痛くもないと宣言し、急に生徒達のことをかわいい等といい始めている。
明らかに「変」になっている。「怒ってないし愛してる」という表現のつもりだろうか。

半ばヤケになった真弓は再び叫ぶ
「もー!・・・そんななら怒るよー!」
生徒達の動きと思考に変化が生じ始めた。

気が触れているとしか思えない真弓の所には誰も行きたくない。しかし、集まらなければ怒ると言っている。
田島と真下は彼女の怒りに触れあんな目に会ったのだ。
戻るべきか、逃げるべきか。しかし逃げ場所もどこにも無い。無いという確証もまた、無い。
どうすればいいかわからない。
自分だけが彼女の所に行くなんて嫌だ。他のみんなに合わせたい。でもみんなそう思っているのかもしれない。
自分が戻ればみんなも戻る?そんな賭けは恐くてしたくない。

結局は混乱に拍車をかけるだけだった。

「・・・うーん・・・」
真弓は悩んだ末


--


うーんどうしよう。みんな言う事聞いてくれない。次のステップに進んでもいいのかな・・・。
集まらないなら怒るって言っちゃったし、しょうがないかなあ。

あたしは舞台に戻った。
ここに来たら狙われると思ってるのかな、みんな舞台の方には来ようとしてない。
まあその方が好都合だけど・・・。

壇上に上がり、マイクに向かって喋る。
「みんな集まってくれないんだね。それじゃあ実験は強制で進めるからねー」
みんなギャーギャー騒いでるけど、多分聴こえたと思う。
あたしは壇上の赤いスイッチをまた押した。

ブシューー!!!

体育館内に立ち込める薄いピンクの煙。
聴こえる悲鳴と叫び声。咽る声、咳の声。
シチュエーションはそんなに変わらないけど、断然さっきよりみんなの声が小さい。


煙が晴れてきた。
うわー、また小さくなってる!当然だけどね。
でもちっちゃいとやっぱりかわいいよみんな。
あ、正門開けようとしてた男の子達、ドアノブに手が届かなくなってる!あれって結構位置高いもんね。
ああ・・「こんなとこにも手が届かないの?」って言ってあげたい・・・。
ワクワクして来ちゃった・・・。

よーし!

今度は横の階段を使わずに、舞台を軽くジャンプして飛び降りた。


--


煙が晴れてきた。
くそっ!また小さくされみたいだ!
俺はフラフラとする意識を、強くまばたきをすることで覚まし、立ち上がり、周りを見回した。
明らかに床が広がり、天井が高くなり、色んなものが広がって大きくなったように見える。
もちろんあの女もだ。
離れて舞台上にいるが、舞台と共に明らかに巨大さを増している。
人間の目はよく出来ていて、比較対照が無くとも距離から大きさを感じ取ることができる。
ただ、周りがよく見慣れた体育館のため、若干おかしくも感じる。
人数が少なくなったのかと思うほど、周りの騒がしさ、慌しさが薄くなっている。

女が歩き出した。大型トラックが急に動き出したような存在感を感じる。離れていても迫力を感じる。
そのまま女は舞台の端に足を乗せ止まった。
一瞬浮いたかと思うと、スカートをふわりとさせ、舞台を飛び降りる。

ドンッッッッ!!!

「わっ・・!」
思わず声が出て、体がビクッとなる。
女の着地と同時に館内が揺れ、ビーーンという体育館特有の衝撃がビリビリと足裏から伝わってくる。
・・・こんなに揺れって伝わるもんだったか?
体育館は意外と揺れが伝わり、音も響く空間だということは知っている。
一人や二人で遊んだ時よく感じてる。
けど、今の着地はなんだか違った。今までに無いほどの揺れと音だった気がする。
これはあの女に対する恐怖心が感覚を増幅させているのか?
それとも小さくなったことで俺たちが敏感になりすぎているのか?
机を蹴飛ばされた時よりも数倍衝撃があったように感じる。

なんにしても今の着地による衝撃が、館内を再びシンとさせた。
静かになったことに気を良くしたのか、女は少し笑顔になった。田島と背比べをしていた時の顔によく似ている。

一体何が始まるんだ・・・。

女はキョロキョロと見回しながらこう言った。
「渡部洋人君、いるー?」

心臓が今までに無いほどズキンとした。
あの女が俺の名前を呼んでいる。
生まれて初めて先生に指された時のズキンという感触。一瞬で体中が冷え、じわりと汗が噴出す感じがする。
いや、先生に指されて教室で一人で喋ることになっても、ここまでハラハラとはしなかった気がする。
なぜいきなり俺の名前を・・・?
一体なんなのだというのか?

「渡部君ー?いるよね?いたらちょっとこっちに来てー」

再びズキンとする。
胸が苦しくて、声が出ない。
俺を呼ぶのを諦めてくれないだろうか。どうか、無かったことにして欲しい。

館内はシンとしたままだ。

10秒ほどの沈黙が、1分にも2分にも感じられる。

「・・・ねー、渡部君? なんにもしないからー。 ・・・うーん、気絶してるの?」

そうだ、頼む。俺じゃない人に代えてくれ、頼む、頼む・・・。
強く強く念じる。

「お、おい、渡部、お前だろ? は、早く行けよ」
星野が小声で喋りかけてくる。
「ば、ばか・・!話し掛けるなよ! 頼む、頼むよ・・・!」
精一杯小さい声で返す。

・・・まずい。何人かがチラチラと俺の方を見始めた。
やめてくれ・・やめてくれ・・・気づかれるよ・・・!

悪い予想は的中した。
女はこちらの方を見ている。
俺は必死に顔を別の方にやる。

星野と目が合った。

「・・・なあ、頼むよ渡部、今はあいつのところに行ってくれよ・・・!俺たちまでなにされるかわかんなくて恐いんだよ・・」

・・・、みんな恐いのだ。
不良とはいえ、敵対する相手が一致して頼りに感じていたあの田島や真下が、あんなにも脅えていた。
あんなのを見せられては、こちらはもうどうすることもできず、ただ恐がることしか出来ない。

確かにこのまま黙っていたら、また全員小さくされるかも知れない。
それに怒りを買ってしまうかも知れない。ここは大人しく従うべきなのか。
・・・決心がついた。

俺は顔をあげ女の方に目をやる。

またズキンとした。女は既に俺の顔に目線を合わしていた。
俺が目を合わせると、パッと顔が明るくなった。こんな雰囲気の体育館で、あの女は一体何が楽しいのだろう。

女が手招きを始めた。
あの手招きを見るのは初めてじゃない。
最初のガスの後、俺だけが目を覚ましたら、あの女が既に椅子に座っていて・・・
・・・わかった、これから何をするのか・・・。

俺はゆっくりと歩き始めた。
そうだよ、俺は別に恨みを買った覚えは無いし、俺自体何も悪いことはしてない。そうだ、大丈夫だ。大丈夫だ。
自分に言い聞かせながら足を進める。女子高生に向かって歩くことが、こんなにも不安なものとは思わなかった。
少しずつ近づく。想像より距離があった。こんなに体育館が広く感じたのは・・・いや、実際広いんだ。

段々と視線がローアングルになってくる。
スカートの奥側の裾が見えてくる。太ももの表面がほんの少しずつあらわになっていく。
別に女がスカートをたくし上げているわけではない。女はただ普通に立っているだけで、こちらが近づくのを待っている。
あまり視線をそのままにしていると怒られる気がして、視線を上げ、顔を見る。
本当に大きい。
女は口はあけずにニヤニヤとした笑顔だった。田島はこの顔を見てあんな引きつった声を出したのだろうか。

ふと、歩を進めることの躊躇いを強く感じ始める。なんだろうこれは。
味わったことのない不安を感じる。体が勝手に足を止めようとする。
人間の本能がこれ以上近づくことを危険と判断し、警告を発しているのだろうか。

女の位置まであと8歩という所だろうか。俺は足を止めた。
いや、俺自身が止まろうと思って止まった訳じゃない。足が勝手に歩くのを止めてしまった感じだ。
動けない。

見上げていると、女は笑顔のまま更に手招きをした。
もっと近づけと言うのだ。
動けない。しかし動かなければならない。足を無理にでも前に進ませなければならない。
進め、と命令したと同時に足がブルブルと震え始めた。どんどん言う事を聞かなくなる。
1歩、2歩、 3歩   ・・・4歩。
げ、限界だ。
また俺は足を止めてしまう。
こんな感覚は始めてだ。
今度は俺の足が俺自身に「逃げろ!」と命令してくる。しかしそれはできない。ガクガクと震えが増す。
女は手招きをやめて腰に手を置いた。

・・・大きい。本当に大きい。
『人間の目はよく出来ていて、比較対照が無くとも距離から大きさを感じ取ることができる。』
そんなのは全くの嘘だった。俺の目は良く出来ちゃいなかった。
さっきまでの5倍も6倍も大きく見える。これは脅える俺の頭がそう見させているのだろうか。

その時だった。

ゴト

女が一歩こちらへ近づいたのだ。ローファーの硬い足音にドキリとする。
そして更に巨大さを増したように感じる。
「う、う・・・」
思わず声が漏れた。心臓がズキンとする。今日だけで寿命が何年縮んだかわからない。
反射的に4、5歩後ずさってしまう。

「・・・もう、離れちゃ意味無いでしょ。もうちょっとこっち来て」

恐ろしいことを言う。近づけと言うのだ。もうこの距離で充分なのではないのだろうか。
それに、また近づいたら、そう。さっき近づかれた時に、ほぼ顔面直前に来た、・・・あのパンツが見えることになる。
気づいて無いのだろうか?

「ああ、そっか。・・・うーん」
こちらの心を読んだかのように、スカートを軽く手で抑えながら言う。

「じゃあこれでいっか。どっちにしてもこうしないと手が届かないし。ハイ、こっち来て」
女はスカートの端辺りに手を乗せながら、上半身を倒してきた。
「うわ!」
倒れてくる気がして思わず手を前に出し屈んでしまう。少しだけ辺りが暗くなった。

そうか、わかったぞ。さっき勝手に足が止まろうとした理由。
女がすぐに俺に危害を加えられそうな範囲からだ。
自分より強い生き物のテリトリーを、俺という人間の、鈍った僅かな野生の心でも感じたんだ。

女はおじぎのようなポーズ。小さな生き物を観察する時の、あのポーズのまま、さらに近づくよう命令する。
俺は意を決して、一歩一歩。脅えながらも足を進める。


目の前に胴回りほどの太さの脚がある。膝には俺の顔をすっぽり握ってしまえそうな手がおいてある。
指一本一本が腕のような太さだった。
俺は恐くて目を落とした。
ちょっと大きめで平たいダンボール程の大きさのローファー。
質感と光の反射によるテカりから、硬さと重量を想像させる。
俺から見て左のローファーの先が、さっき机を蹴飛ばした時に付いたのか かすかに擦れているような傷がある。
こんな、こんな物であの机を吹っ飛ばしたのか・・・。いや、物じゃない。これは女の足なのだ。

スッと閉塞感が強まる。
頭にズシリと重量がかかった。
女が俺の頭に手を乗せたのだ。
そのまま木の幹のような脚にスライドさせる。

「膝小僧より、ちょっと上くらいだね。60cmあるかないかくらい、かなあ。ふふ」

60cm
自分の思う60cmとの大きさの違いに、少し混乱する。
そうだ。女が大きいのではない。俺が小さいんだ。
その数字は自分の小ささを何度も再認識させる。
大きい・・・。
とてもこの差がたった1mだとは思えない。4mにも5mにも思える。

俺が女に近づき比較対照が出来たためか、60cmという数字からか、クラスメイト達の空間から動揺めいた空気が流れてくる。

女は上半身を起こしたようだ。俺は上を見ないようにする。
「あたしのスカート以下かぁ・・・。あはは。そうだよね、パンツ見えちゃうしね」

スカート以下
わざと言っている。わざわざ口に出さずに、頭の中で思っていればいい事を、この女は口にしている。
しかし聞いてしまったら、認識せざるを得ない。スカート以下、自分はスカート以下の存在だと。
ただスカートの位置が高いだけだというのに、こういう言葉にされると、なにか他のものまで自分が小さくなったように感じられてくる。
しかし、うるさいとか、そんな言い方ないだろうとか、そんな風に抗議する勇気は全くでない。
自分は女の押し付けてくる価値観を一方的に受け止めるしかないのだ。
目の前にあの机を蹴飛ばした足がある。そんなものを前にして、反論を口にしたりなんてできるだろうか?
ただ脅えることしかできない。
その時は身長100cm程だったとはいえ、反論をし、しかも相手に手を上げた田島を尊敬した。
ただ理性が吹っ飛んでいただけなのかも知れないが、俺には到底出来ないことだった。


「うん、大きさもわかったことだし、じゃあそろそろみんな集まって!」
パン、と手を叩き、召集をかける。

相変わらずクラスメイト達はどうしたらいいかわからない、といった様子だ。

彼らはこの女を目の前にしていないから、そんなことをしていられる。
まだ遠くの世界の出来事のように、心の奥で思っているのだ。
俺のように近づき、目の前の現実として一度受け止めたなら、余程のことがなければ命令に逆らうなんて真似は出来ない。


「集まってよ、もー・・・。 ・・・はやくしてよ!!」
女は大声を張り上げた。

ビリビリ、と体が揺さぶられたような気がした。館内の静けさのせいか、耳がキーンとする。
思わず腰が抜ける。さっきの召集の声が、大声じゃなかったということにも驚く。
これは目の前だからなのだろうか。鬼体育教師の五十嵐に怒鳴られるのの何十倍も迫力があった。

目の前だからというわけでは無かったようだ。何人かがパラパラと近づき始め、それを確認してか、ぞろぞろとみんな集まり始めた。
女子の中には泣きはらした顔の子もいる。

大勢で集まれる皆が羨ましい。集団というのは心強いものだ。それほど度胸を使わずに近づいて来ているように見える。

「渡部君もみんなと一緒になっていいよ。ありがとね」
嬉しい。嬉しさを感じる。解放された気持ちになる。
俺は早足で足元の空間から逃げ出し、クラスメイトの集まり始めている空間へと混ざった。

・・・やっぱこれくらいの距離で足を止めるよな。


「お、おい、大丈夫か?」
星野が話し掛けてきた。
「大丈夫だよ、大きさの確認をしただけみたいだしな・・・」
「良かったなあ、無事で・・・。でもよ、なんで渡部が呼ばれたんだろうな?」
「ああ、俺、最初に大きさの確認に使われたんだよ。みんな気絶してる時に」
「そうだったのか・・・」
「あの時は確か、胸くらいだったよ。最初は目の前のデカ女が誰なのかわかんなかった。同じ顔なのにな」
「胸くらいか・・・」
星野は女の方を見上げた。
「あんな高かったのか・・・最初は・・・」
「いや、違うだろ、最初はあいつより背高かったはずだぜ」
「・・・!?そうか、そうだよな・・・」
星野は本来の自分の大きさを忘れかけているようだった。

とはいえ、自分も女の方を見上げてみると・・・確かに信じられないのも無理は無い気がした。
これだけ集団の中に混じっている自分の視点から、膝から上が全て見えるのだ。
舞台に乗っているわけでもなく、足が始まっている場所は自分の足元と同じ地面。
あんな大きさが自分にあったとは到底思えない。


「もうみんな集まったかな? ハイ、じゃあここまでで質問ある人ー」

質問・・・。
何より聞きたいのは、こんなことはいつ終わり、無事に帰れるのかということ。
しかし田島が聞いた時にはまともに答えてはもらえなかった。

「ハイ、比奈ちゃんどうぞー」
小山が恐る恐る手を挙げていた。

「えっと・・・ど、どうしてこんなことするんですか?」
「うーん、お父さんの実験はいつも突然なの。生の実験結果が知りたいんだって」
「で、でも、私たち、実験に参加するとか何も聞かされてないし・・・なんていうか・・・」
「いやだ?」
「あの・・その・・・」
小山は口篭もってしまう。無理も無い。既に発言するだけでかなりの勇気が必要な状況だ。
質問に対する返答も、回を重ねるごとに挑発的になっている。

「じゃあ許可を取れば良いのかな?じゃあ聞いてみようかなー。ハイ!あたしは続けたいけど、実験続けるのが嫌な人、手挙げてごらん」

ひどい聞き方だ。これはただの脅迫だ。
言い換えれば「文句のある人いる?」と同じ事じゃないか。
あの女は絶対わかってやっている。

「手を挙げる人はいないねー。それじゃあ実験は続けるねー。ハイほかに質問のある人」

・・・田島が手を挙げた。

「はい、田島君どうぞ」
「は、はい・・」
当然のように敬語だ。
「あの・・・真下、真下は助からないんですか?」
皆が体育館の隅で肉塊のようになった真下を見る。
息をしているのかどうか、ここからではわからない。

「どう思う?」
「え、いや・・・、あのままじゃ、あのままじゃし、死んじゃいますよ!」
「そうかも知れないねー」」
「そ、そんな!救急車とか呼べないですか!?」
「実験中はダメだよー」

異常な会話である。
人が大怪我をしているのに、救急車を呼んではいけないという。

「保健室とかから、治療道具を持ってきたりとかは・・・」
「だからー、実験中はダメなんだってば」
「どうしてあんな目にまで合わせる必要があったんですか!!どうして、どうして・・・」
「あたしボールぶつけられたから、ぶつけ返しただけだよ?」
「・・・でも、でも・・」
「田島君はどうしてあたしの机蹴飛ばしたのかな?」
「・・・」

田島は黙ったままうずくまってしまった。
明らかな過剰防衛に対して、文句を言える者はもういなかった。

気が狂っている。狂った世界だ。
しかし、従うしかなかった。


「もういいかな?えっとそれじゃあ・・・。誰にしようかな」
クラスに緊張が走る。
また誰かが指名されるのだ。何をするというのだろう。

「まあ、いっか。じゃあまた渡部君とー、その隣の坊主の男の子、名前なんていうんだっけ?」
俺と星野が指された。名前を覚えられてしまったことに後悔する。
「・・・星野です」
「星野なに?」
「ほ、星野 雄太です!」

「うん、じゃあ星野君と渡部君さ、舞台にあたしのカバンがあるでしょ? ちょっと持ってきて」
言う事の命令色が強くなってきている。図に乗ってきているのだろうか。
「おい、行くぞ」
「あ、え・・ああ、うん」
俺は、すぐに星野を促した。
悔しさはゼロじゃないが、かといって断ることはできない。
俺と星野は女の後ろの方にある舞台へと向かう。

女はニヤニヤと品定めをするかのようにクラスメイト達の方を見下ろしている。

女の横を通り過ぎるとき、近づいた時の巨大さを感じたのか、星野の表情が少し変わったように見えた。


・・・舞台は壁だった。
ジャンプして届くはずもなく。俺達は階段の方を目指した。


階段の一段もまた高かった。仕方なく手をつきながら一段一段上がっていく。

「よっと・・。 しかしでかいな・・・」
「あ、ああ」

わかりきっていることだが、あえてまた口にしてしまうほど、階段は高かった。
全て登りきる頃には二人とも少し息が上がっていた。

舞台の上が見渡せる。
舞台下から見る舞台上の景色に似ていた。もちろん元の大きさでの話である。
ただ違うのは壮大さ。視点は似ていても、規模に天と地の差があった。
大体この高さで、あの女と同じ視点の高さだろうか。
俺は女の方を見た。

ギョッとする。
女や体育館の大きさにではない。クラスメイト達の小ささにだ。
あれだけの人数がいて、1〜2人分程にしか空間を使ってないように見える。
あの中のたった1人分でしかない自分の存在が、いかに小さいか思い知らされる。
星野も呆気に取られているようだった。


壇上の隣にあったナイロン製の深い青のカバン。この学校指定の見慣れた物だった。
大きさ以外は。
寝かせた冷蔵庫のような大きさだった。
まず一人で端を持って持ち上げようとしてみる。

・・・重い。
渾身の力を入れれば、少しは持ち上げられるかも知れないが、一人で運ぶ気には到底なれない重さとサイズだった。
「一体何が入ってるんだよこれ・・・。俺向こう側持つから、星野こっち持ってくれ」
カバンの向こう側へ周り、カバンの端を掴みながら星野の方を見る。

星野は親指で壇上の方を指していた。
「・・・なんだよ?」
「あいつさ、この上で何か操作して、あのガスを出してたよな?」
「・・・そうだっけ?」
「そうだよ!あいつがこの上でなにかしたらあのガスが出てきたんだ」
自分にはそんな記憶が全然無かった。自動で出てきているか、監視している人間が噴射させているものだと思っていた。
「よく見てたなお前・・・でもそうだとすると、その装置をなんとか破壊すれば・・・。俺たちがこれ以上小さくされるのを防げるかも知れないな」
「だろ?今チャンスなんじゃないか?」
「でも、どうやって?」
俺達は改めて壇上を見上げる。
カバンに乗って、片方が肩車をして、ジャンプをすればなんとか届くかも知れない。

「それに、なんとか破壊できたとしてもな・・・真下がどうなったかはお前も見てたろ・・?」
「・・・」
星野が目線を落とす。
真下はスプレーで吹き付けられて更に小さくなり、ボールをぶつけられ、重傷を負っている。
・・・もしかすると既に息を引き取っているかも知れない。
俺たちが小さくなる要因は、館内全てに噴射されるガスだけではないのだ。

「バレた時点でどう考えても殺される。スプレーがある時点でメリットはそんなに無いしな・・・」
「・・・くそ!・・・せめてケーブルでも出てれば、ここで切断して行くって手もあったのに・・・」
星野の言うその装置があるとしたら、マイクと同じようにコードレスなのかも知れない。
壇上からそういったケーブル類が生えていることは無かった。

「俺はな、もう諦めたんだ・・・」
「え?」
「勿論、無事に生きて帰りたいさ。でもそれをあの女に逆らうことで実現させるのはもう諦めたんだ」
「・・・」
ふとこの会話が女に聞かれていないかと不安になったが、そういう様子も無いので俺は続けた。
「正直に言うよ。心底ビビッてるんだよ、俺。一人で近づいた時、ただ近づいただけなのに、もうダメかと思うくらいビビッたんだ」
「それは俺だってわかるけど・・・」
「いや、わかってないね。全然違う。一対一は全然違うんだ。完璧に支配されるんだよ。近づいただけで」
「渡部・・・」
「俺のこと情けない男だと思うかもしれないな。実際、情けないと思う。俺は田島の事見直したよ。あいつ、一対一で手を出したんだぜ あの女相手に。俺には到底真似できないよ」
その時は田島ももう少し大きかった。という事はあえて省いた。
「だから俺はもう従いつづけて、この悪夢が終わることをただ祈ることにしたんだ。その方が助かる気がするんだ」
「そう、か・・・」

何故こんなに自分の弱さを星野にアピールしているのかわからない。
あの女に支配された心がそうさせているのかも知れない。
ただ、自分の気持ちをぶちまける事で幾分か自分自身の気持ちに少し整理がついた。
助かるために従う。
そう思うことで自分の僅かなプライドをなんとか保つことが出来た気がする。

「じゃあ、運ぶぞ」
「あ、ちょっと待って」
また星野が止める。一体今度はなんだ。

星野が大きいTVのリモコンみたいなチャックの取っ手を掴んでいる。
そのままゆっくりと開けた。

ブブ、ブ、ブブブブブ

意外な音の大きさにハッとなり、女の方を見る。
・・・気づいてはいないようだ。

「開けるなら開けるって言ってくれよ、心臓が止まるかと思ったぞ・・・」
「ああ、悪い・・・。ちょっと確認しとこうかと思ってさ」
なんでそんな危険なことが平気でできるのか、俺にはわからなかった。

ブブブブ、ブブ

「・・・こんな状況で、こんなサイズのでも、・・・女子の鞄を開けるのってなんか緊張するな」
「お前な」

でも、全くわからない気はしなかった。



「おい、その辺にしとけよ・・・」
星野は少し出来た隙間から懸命に中を覗いている。
「・・・そうだな」
星野が再び取っ手に手をかけた時。

「おそいよー」

心臓が飛び出るんじゃないかとさえ思った。
女の声が響いたのだ。
星野は急いで、かつ音をさせないよう慎重にチャックを閉め、俺は女の方を向いた。
女は上半身だけこちらに向けている。
星野とカバン半分は壇上に隠れて見えていない。はず。

「なにしてるの?」
「え、いや、ちょっと重くて・・・」
「よく聴こえないよ」
「ちょ、ちょっと、重かったんです!」
「ふーん、はやくしてね」

女はまた向こうを向いた。
カバンを開けていることがバレずに済み、ホッとする。
早くしたいのならどう考えても自分で取りにくるべきだと思うが、そんなことは言えない。

「急ごう」
「あ、ああ・・・」

二人で両端を掴む。カバンのコーナー補強チューブが、掴む手に非常にフィットする。
逆に本来の取っ手紐は太すぎて硬すぎて、掴むのには向かなかった。

せーの、と持ち上げる。
ズシリとくる。
もう少し下のほうを持てば良かったかな、と思う。
「これは・・・押して運ぼうぜ」
星野が言う。仕方ないかも知れない。
星野が俺のほうに周る。
二人で「せーの」と押し始めた。

カバン底のゴムが押す力を邪魔するが、何とか運び進めることが出来た
ズズズズズと階段の方へ近づく。あ。
「おい、階段どうする?」
「落とすのは・・・マズイよな」
「それはマズイよ。階段は・・・、そうだな・・・。まず一旦持ち上げて一段下に降ろすだろ?
「ああ」
「その後二人で一段降りて、また一段降ろして、と繰り返そう」
「・・・?・・あ、ああ、わかったわかった」
手前まで運び、階段と並行にし、再び持ち上げる。
一段下に運ぼうと階段の方を見る。
バランスを崩したらカバンごと転げ落ちてしまいそうな気がして恐怖する。
「慎重にな・・・慎重に」
「お、おうおう・・」

ドス
カバンの重量が音をたてる。
転げて落ちていかずに、安定したのを確認し、二人で一段降りる。

一段、また一段と作業を繰り返していく。
思っていた数倍の労働だった。

ドス
「はあ・・やっと地面か・・・」
「ふう・・・。よし、もう一頑張りだ」

クラスメイトと女のいる方向へ再びズズズズと押していく。

それにしても重い。
「・・・なあ、何が入ってたんだ?これ」
押しながら星野に喋りかける。
「あ、ああ。えっとな・・・。とりあえず馬鹿でかいスプレー缶は見えた」
スプレー・・・。
とんでもない物を運んでるんじゃないかという気がしてきた。
「さっきの小さいやつじゃなくて。カバンから察するに、多分普通の大きさのやつだと思う」
「なるほど・・・後は?」
「後は、なんか白い?板?が数枚と、何か書かれた書類見たいなのと、かわいらしい筆箱みたいなのもあったな。」
「板?」
「うん、多分この重さはその板がほとんどを占めてるんじゃねーかな。まだ何か入ってたかも知んないけど、暗くてよくわかんなかった」
「そうか・・・ありがとう」

重いものを運んでいると体育館が更に広く感じられる。


体育館の中央より少し舞台寄り。
女の足元横まで運ぶ頃には随分汗をかいていた。

「ぜえ・・ぜえ・・。やっと・・・着いたぁ」
星野がカバンから手を離し、地面に尻をつけて座り込む。
妙な達成感も沸いていた。

女が見下ろしながら口を開く。
「なんで押して持ってくるの?」
少し褒めの言葉を期待していた心がドキリとする。
「いやその・・・、重くって・・・」
「カバン汚れちゃうじゃん」
「えっと・・その・・すみません・・・」
疲れとは違う汗をかきはじめる。
「男のくせに」
「・・・・」
「二人もいるのに」
「・・・」
グサリグサリと来る。言い返す言葉はあっても口にすることは、できない。

女が手を伸ばしてきた。
「うわっ!」
とっさに身構えて屈んでしまう。

女は片手でカバンを持ち上げた。
浮かぶカバンに吸い込まれそうになる風が少し吹く。
空中に浮いたカバンが再び落ちてきそうな気がして恐くなる。

「はい、戻っていいよ」
女はカバンを空中で開け、中身を確認しながら言った。
クレーンで持ち上がっているようなカバンを見つめながら、ハッと正気に帰る。

星野と急いでクラスメイトの中に戻った。


遠藤が小声で話かけてくる。
「大丈夫、か?」
星野が答える。
「疲れた・・・マジで重いんだよ・・・」
「そ、そうなのか・・・凄いな・・・」
凄いな、という言葉には色んな意味が含まれているようだ。

クラスの集まる空間、女の足元には、どこか先生に怒られている時のような緊張感があった。
非常に息苦しい。
早く解放されたい、と常に思う。

女はカバンを物色しながら、ゆっくり首を傾げたりしている。
「・・・あれー・・」
なにか見つからないのだろうか。星野と俺は何も取り出したりはしていない。

二度ほど真下の居る方を向いたり、首を傾げたりしながら、物色は終わり、書類のような物を取り出した。

それをパラパラとめくり、なにか黙読している。


「・・・んー、じゃあ星野君」
星野がハッと女の方を向く。

「ちょっと、誰かと手を繋いで」
・・?よくわからない命令だ。

星野は少し戸惑った後、やはり俺に手を差し出して来た。
やめろよとも言えず、仕方なく手を握る。
本音はもう実験とやらが終わるまでそっとさせて欲しい。

「ふふ、仲良いね。じゃあ渡部君も誰かと手を繋いで。で、その人も誰かと繋いで、そうやって全員繋がってみて」
全く変な注文だ。意図がわからない。

俺は・・・。
とりあえず遠藤に手を渡した。
仕方なく手を受け取る遠藤。遠藤は相山に、相山は本橋に。
本橋、宮崎、及川、西浦、新田、三木、
柳沢、伊藤、村瀬、元木、田島、藤田、久瀬、河口、佐藤、松本、
長谷部、金森、丸井、紺野、小山、深谷、大倉、橘、亀井、上山、
前田、森、清水、中島、東。

この空間にいない人間のことを、口にする生徒はいなかった。

皆が手を繋ぐ人を探したりしている間も、女は書類を黙読していた。
東が手を繋ぐ相手がいないことに気がつき、キョロキョロとしている。


数秒の後、生徒達に動きがなくなったことを察しただろうか。
書類を横にし顔を出す。

「ん?みんなもう手繋いだ?」
片手が空いている東に目線をよこす。

東はコクコクと急いで頷く。
「うん、じゃあみんな横一列になってー」

皆言われたとおりに動き出す。
表裏が逆になっていた生徒も握る手を変え、全員前向きになった。

「ちゃんとなったね。えーと・・・うん?」

全員に目線を流し通し、少し疑問系の声を出した。

「・・・うーん、まあいっか。じゃあ始めようかな。みんな、絶対あたしが言うまで手を離しちゃダメだよ?」
そういいながら書類をカバンにしまう。
カバンを片手にこちらへ近づいてきた。

ゴト    ゴト    ゴト
足音と微かな揺れが近づいてくる。
思わず手を離しそうになるが、それはやってはいけないことだ。

星野が後ずさる。
手が引っ張られ、連鎖で少し後ずさってしまった。

「星野君、絶対手を離しちゃダメだよ?」
「は・・・、はい・・」
星野の手がじんわりと汗ばむ。俺の汗でもあるかもしれない。

女はカバンから巨大なスプレー缶を取り出した。

「うわああ!!」
星野がさっきより勢いよく後ずさる。手が引っ張られ、汗で滑り離れてしまった。
しまった・・・。

「ちょっと・・・、離しちゃダメって言ったでしょ?」

心臓がバクバクしてくる。俺まで規約違反でなにかされるのではないかという不安が頭を埋める。
俺じゃない、俺じゃないと自分に言い聞かせる。

「ほら、早く戻って手を繋いで」

とくに罰は下されなかった。星野はこわごわと手を握ってくる。
軽く震えている。汗だくだ。

そうだろう。これはどう考えても星野がまたガスをかけられる。
もう小さくなりたくないのは皆一緒だ。

「じゃ、もう離さないでね♪」

プシューッ

言うやいなやすぐにスプレーを噴射させてきた。
俺はとっさに目を瞑り、息を止め、遠藤の方へ顔をやる。

「ぶはっ、ゲホッ・・ゴホッ・・・」

暗闇の中、頭の後ろから星野の咳き込む音が聞こえる。

そのまま、握る星野の手が引っ張られるように段々小さく・・・

ならない。
どういうことだろう・・・?
引っ張られる感覚はあった。


俺は目を開けた。
星野を含め、全員大きさは変わっていなかった。

・・・目の前の女と体育館を除いて。

「あはは、すごいすごい!これでもみんなちゃんと小さくなってる!」

さっきよりも音量のある声が響く。
女の膝小僧が上にあった。

「ふふ、もう少しかけちゃえ」
プシュップシューッ
女は再び星野の頭上にスプレーを噴射した。

途端、遠藤が手を振りほどく。

「ばっ・・離しちゃだめだ!」
俺が遠藤の手を握り返そうとしたその時、星野も手を振り離した。
「星野!?」

なんと星野が女の方へ走り出したのだ。
女もそれに気づいたのか、少し後ずさる。


女が後ずさる事で生み出した距離は、大きかった。
走りながら縮みゆく星野。
スピードは、速くない。


星野が女のローファーに倒れ掛かる頃には、縮小化は終わっていた。
・・・ローファーに、倒れかかっている・・・。

女は少し驚いたような顔をし、足元を見る
「・・・どういうことかな?星野君?」
星野は女を見上げ、そのまま後ろに尻をつき、手をついた。

「ねえ、説明してみてよ」
星野は手と足をばたつかせながら、虫のように懸命に後ずさる。

ゴトン

星野が一生懸命作った距離を、女は小さな一歩で埋める。
それでも懸命に距離を作る星野

「もしかして、あたしのことも一緒に小さくしようとしたのかな?」

ゴトン

段々こちらへ近づいてくる。
女は既にあの笑顔だった。

「でも失敗しちゃったんだ?頑張って走ったのにね」

ゴトン

「あたしのカバンも汚したしね」

ゴトン

「星野君はあたしのクツに体当たりしたんだよね?」

ゴトン

ゴーカートのようなローファーがこちらへ迫ってくる。
星野には自家用車のように見えているかもしれない。

俺の2、3歩先で大きめの人形のような星野が手を滑らす。
後頭部を地面にぶつけた。

・・・ローファーが先ほどまでより高く高く浮き始める。


「・・・はい、残念でしたー」

巨大な足裏がそのまま星野へと落下する。

ズバンッッ!!


ドカンという音と、ミシャリという音と、激しい揺れが同時に発生した。
ビシッピシャッと何か液体のような、固体のようなものが、自分の服と顔に付着した。

顔についたものを指で拭い、目をやる。
生暖かく、赤黒い。


--


「キャアアアアアアアアア!!!!!」
「うわあああああああ!!!!!」

生徒のほとんどが再び館内を逃げ惑う。
逃げ出さない生徒は気絶をしているか、もしくはその場に尻餅をつき、動けなくなっていた。
「もー、またー・・?」
真弓はスプレー缶を床に置き、腕組みをし、半分呆れたような声を出す。

その足元では膝をついた渡部洋人がローファーを見つめていた。

「あ、渡部君は逃げてないんだ。偉い偉い」
渡部は固まっている。

「ねえ渡部君、ちょっと立ち上がってよ」
真弓は話し掛ける。

渡部は固まったままだ。

「・・・やっぱ友達だったのかな? 渡部君?聞いてる?」
反応しない渡部に真弓は苛立ちはじめた。

「・・・渡部君?」
ゆっくりと星野を踏み潰した足を持ち上げる。

目の前の巨大な物質移動にハッと我に帰る渡部。
星野かどうか区別のつかない、平たい肉塊が姿をあらわした。
「う、う・・うわああああああああ!!!」
叫びながら女の子座りのように腰を落とし、後ろに手をつく。

「気がついたかな? 渡部君?」
足を戻す真弓。グチャ、という音が渡部には聴こえた。
「あああ、あ、ああ・・・」
叫び声がかすれる。
「ねえ、ちょっと立ち上がってくんない?」
「うあ・・・あ・・・う、動けない、です・・・」
「なんで?」
「う、うご、動かないです・・・」
「頑張ってよ」
「は、はあ、は、ははは・・・」
叫び声のような、呼吸のような、笑い声のような、わからない声を出している。

「役に立たないのかな?」
再び足を上げ始める真弓。
「はま、ま、待って、待ってください・・・お、お願いです」

「もー・・・」
再び足を戻す真弓。

ゴトンッ!

脅しの意味も含めて、少し強めに足を置いた。
実際渡部はまだ、真弓が気楽に踏み潰しきれる大きさではなかった。




「ねー、出口なんて無いのはもうわかったでしょー?早く戻ってよー」
生徒達は脱出できると思って逃げ出した訳ではない。
人間が、それもクラスメイトが一瞬にして踏みつぶされる瞬間を目の当たりにし、どうしたらいいのかわからなくなったのだ。
戻ろうとしない生徒達に呆れながら、真弓は舞台の壇上へめんどくさそうに戻った。
赤いスイッチをちょっとだけ押す。

ブシュッ!

少量のガスが館内の至る所から吹き出る。
生徒達が悲鳴と共に少しだけ縮む。

「早く戻ってこないとドンドン小さくなっちゃうよー? 5分毎に出すからねー」



ブシュッ!
また少し縮む生徒達。
30人はお互いに体を寄せ合い、二つの意味で縮こまっている。



ブシュッ!
三回目の噴射。
生徒達は小さくなることで生まれる、お互いの隙間を寄せ合い埋める。

「なあ、なあ・・戻った方がいいのかな俺たち・・・」
「いやあ・・・あたしもう小さくなりたくない・・・」
「やだよ!踏み潰されちまうよ!・・さ、さっき・・・みたいに・・」
さっきという言葉で星野が踏み潰された瞬間を思い出す生徒達。
さらに体を寄せ合い、震える。

「・・・ふーん。戻ってこないんだ? じゃああたしがそっちに行ってあげるよ」
正門出入り口下で固まっている生徒達を一点で見つめながら、真弓は告げる。

壇上から離れ、舞台端まで移動する。

ダムンッッッ!!!

真弓が舞台下へ着地する。
一瞬の遅れと共に、揺れと着地音が生徒達の所へ届く。
前にも感じた筈の揺れと音が、より巨大さと激しさを増している。
体育館内で一番離れている出入り口にいても、だ。

真弓は渡部の所へやってくる。
「あわ・・あ・・あう、うわ・・・」
10分という時間で何とか戻り始めた理性が再び崩れそうになってくる。
巨大な脚の到着と共に一瞬の風もやってくる。

真弓は足元のスプレー缶をカバンにしまいながら尋ねる。
「どう?もう立ち上がれる?」
上空から声が降ってくる。声質は穏やかだったが、怒鳴られているかのような音量だった。
「あ、ああ、は・・・、はい・・」
震えながらもなんとか立ち上がる渡部。立ち上がっても景色はさほど変わらなかった。

まず目に飛び込んでくるものはベッドのような大きさのローファー。
その奥から生える靴下の巨木。生地に均一に並ぶ筈の繊維が押し広げられ、その伸び広がり具合から、中身の質量を感じさせる。
上に伸びるに従って太さ質量が増していく。側面に刺繍されたロゴが輝いている。
顔を上げ、視線を上空へ移すことで肌色が現れる。
肌と靴下の境界線。境界線の下側、靴下のゴムの部分は、そこまでよりも少しだけ締め付けが強い。
境界線の上側、前面の脛より柔らかさを持つふくらはぎの部分、締め付けから解放された肌がほんの少しだけ境界線より盛り上がり、僅かな段を作っている。
しかし弛むことなく形の崩れないそのフォルムから、肌の若さ、柔らかさと張りのバランスを感じる。
バランスは間違っていない。ただ、その位置の高さと質量。 大きさだけが異常だった。

たとえ足元の渡部がこの強大な威圧感を撥ね退け、そこまでよじ登ることが出来たとしても、両腕をまわし抱きつくことなど到底不可能と思われる。
その分巨大になった繊維を握りしめ、しがみつく事が精一杯だろう。
脚が普通より太すぎるのではない。渡部が小さすぎるのだ。

ここまでが膝よりも下の、ふくらはぎまでの部分である。それも片脚だ。

そこより上空へと目線をやると、更に太さと質量を増す太ももが存在する。
一瞬ピントがぼやけた後、その先の白い下着が無理矢理視界へ先に飛び込んでくる。
男の性か癖か、周りより発色が強いためか、その存在を意識から外し観察することが出来ない。
本人の、本体の意思以上にその部分は自己主張が激しく感じられ、翻弄されてしまう。
更に上へと目線をやるが、紺色一色のオーロラ、カーテンのようなスカートに遮断され、上半身を拝むことが出来ない。
真弓の表情が伺えないため、その下半身の無表情さが増し、渡部が感じる威圧感を増大させている。

「うわ、あわ・・・」

ふいに真弓の顔が渡部の視界に現れた。
遠近感のせいか、周りのローファーや脚よりも大分小さく見える顔。
渡部の頭上にあった体育館のライトを隠し、辺りが少し暗くなる。

「うわー・・大分ちっちゃくなっちゃったねえ」

言葉が真弓の意思以上に渡部を萎縮させる。

「さっきの星野君くらいかな?」
言うやいなや、真弓は床に置いてあるカバンを持ち上げた。
渡部から見れば平屋の建物が台風か何かで飛び去ったような現象だった。
カバンが再び真弓の顔を隠す。

「えっとー・・・あ、あったあった」

ガサガサと物色した後、何か平たく細長い物を取り出した。
カバンを横に置くと同時にしゃがみ込み、渡部の方へ人差し指を伸ばす。

渡部が両手で防ごうとする。
「もー、ダメでしょ、ちゃんと立ってなきゃ」

自分の顔ほども大きさのある指先が命令した。・・・ように渡部は感じた。

渡部は脅えながらもなんとか気を付けをする。
その頭上に指をちょこんと乗せ、自分の方へスライドさせる真弓。

「あはは、踝くらいだね。どれどれ・・・」
真弓はもう片方の手に持ったものを渡部の隣へ立てた。

「もう15cm定規で測れちゃうねー。えっと・・・12cmくらい?あ、余白部分があるから、13cmくらいかな? ちょっと、震えないでよ」

渡部は最初から震えている。
その震えは、真弓にとって定規に当てて見るぐらい集中しなければ感じ取れないものだった。

「・・・13.4cmってところかな。定規にも背比べで負けちゃったね」

渡部の隣にある15cm定規は端に余白部分が有り、16cmほどのものだった。
渡部には信じられないほど幅広な1cmが、いくつも表示されていた。
その1cmが渡部にとって本来の15cm定規のような大きさである。
本来の15cm定規とは、目の前の定規なのだが。


「渡部君は逃げなくて偉いね♪ご褒美にみんなの所まであたしが運んであげる」

真弓は定規をしまい、震える渡部を持ち上げた。
一本一本が人間の体ほどもある指に締め付けられる。
呼吸が苦しくなる。渡部は抵抗しないのか出来ないのか、じっと震えている。

「そこで寝てる子も持っていかなきゃね」
真弓は予告無しに渡部をスカートのポケットへ入れた。


--


ドサッ、と安定感の無い床へ放り出された。
生地の隙間から差し込む光が、紺を薄くした色で辺りを淡く照らしている。
制服の匂いとあの女の香りが混ざった匂いがする。

暖かく、少しほこりっぽい。
ぐにゃぐにゃとする地面。
立つことが出来ない。
手をつくと反対の地面が盛り上がり、腰へ体重を戻すと体が不安定になり、そのまま倒れた。
仕方が無く横になる姿勢でじっとすることにした。

ここは、ポケットの中、なのか・・・?
信じられない。信じられないことの連続で頭が思考を止めようとする。
それだけでなくとも、今日は色々なことで頭が疲れきっている。
不思議なガスを振りかけられ、自分の身長は60cm、かと思いきや13cm。既にこの世にいない友人。目の前の空間。

その空間は同い年の女の子のポケットの中。
夢じゃない、と考えた思考もまた、夢じゃないか?と自分自身に投げかけてくる。
整理が面倒くさい。だが、死人まで出てきている。

星野・・・。
星野の死に方は、真下の大怪我よりもショックを与えた。
さっきまで一緒にカバンを運んだり、会話をし、手を繋いで確認できていた存在が、女の足で一瞬にしてほぼ0へとされた。
星野とは大親友だったというわけでもない。
顔と名前を遠くからでも認識でき、気軽に話し合える程度の仲だった。
地元で一緒に遊んだりとかはないぐらいの仲だ。・・・だった

星野は身を呈して女に一矢報いれないかと行動に出た。
冷静に考えれば多少女の大きさを縮められたとしても、立場の逆転は有りえない。
星野に「俺は女に従う」と主張したのは、星野の言動が何かこういうことが起こすんじゃないかと心の底で予想させるものだったからかも知れない。
何もしない自分が恥ずかしい。計画的でない、失敗した星野の行動を「馬鹿だ」等と責めることが出来ない。

そして再び目の前に現れた、さらに巨大となった女。
足元で震えるだけしか出来ず、今も震えてポケットの中でじっとして、縮こまっている自分が恥ずかしい。
「従い、解放を待つ事が最善だ」等と、今も隙を狙って訴えかけてくる自分の心を、思い切りぶん殴ってやりたい。

だが、出来ないだろう。これからも自分は解放をただじっと待ち続けるだろう。
結局は自分も存在を一瞬で0にされることが怖くて仕方がない。
・・・もし元に戻れたら、星野を弔ってやろう。
そして・・、この、この女をどうにかして、おい、追い詰めて・・・。
・・・くそっ!! 想像の中でさえ女に脅えてるのか俺は!!


ふいに地面が揺れ出した。
空間ごと後ろに放られ、戻される。
胃がギュウとなった直後、顔面と体にバンッ!と壁がぶつかってきた。

ポケットの中で振り子のように揺れた俺が、太ももに激突したのだろう。

柔らかさと弾力を持つはずの腿は歩行のための筋肉に力が入り、硬さが増している。
・・・女自体は意識して力を入れてはいないだろう。
自分の体サイズのこぶしに、軽めに殴られているかのようだった。
次の衝撃を柔らげるため、体勢を整えようとしている最中に遠慮無しに壁が激突してくる。
ドンッ      バンッ       ドンッ      ドンッ

・・・。
止まる・・・。

鼻頭がジーンとする。涙が出てきた。
くそ、鼻血も出てきそうだ・・・。

今度は地面が落下する。
しゃがんでいるのだろうか?

落下と同時に側面からゆっくりと壁が迫ってくる。
つ、潰される!!

ギュウ、と下半身を強めに押された。
上空の方に空間があるように感じる。
大きな丸みを帯びた壁と生地に挟まれた体で、なんとか上の方へ手をかけ、必死でよじ登ろうとする。
が、スルスルと生地で滑り、思うように上へ行けない。

「くすぐったいよ。じっとしててよもう」
命令かひとり言かわからない声。
すぐに外側からも圧力がかかりはじめる。
これは・・手か?
本当に潰される。と思ったが、手は体をスルスルと滑らせ持ち上げる。
壁が地面となった。

スカートのポケット部分を俺ごと太ももの上へと運んだのだろう。
そこはなだらかな坂になっており、さっきよりも安定感がある。
とはいえプニュプニュとした弾力と張りを、生地を通してでも感じられる。
この地面が太もも・・・、それも一部分だって言うのか・・・。

ポケット内側のサラサラとした生地が手を滑らせる。
滑り落ちてしまう気がして、その姿勢でじっとすることにする。

坂が急になったり、なだらかになったりを何度か繰り返していると、再び声がした。

「起きないかな?うーん、まいいや」

声の後、坂がグンと急になった。
体が浮き、再び不安定な空間へ倒れこまされた。
そのまま上昇していく。


上から誰かが握られた手が現れた。
手が離され、女の子が落下してくる。
ドスッととっさに受け止め、重い・・・、不安定ながらも横へずらし、なんとか寝かせる。

・・・丸井?
落ちてきた女の子は丸井夕菜だった。
「う・・ううん・・ん」
「・・・おい、丸井?丸井! 起きろよ!」
肩を揺さぶる。
じんわりと開きかけていた目がスウっと開く。
「うん・・・渡部・・・くん? なにここ・・・?」
瞳がキュッとなり、体が起き上がる。
「え、夢!?夢だったの?!ねえ!ここどこ!?」

夢という答えを期待している丸井に、申し訳ない気持ちで答える。
「多分・・・夢じゃないよ」
「え・・・」
「ここは、あの女の、馬鹿でかい女のポケットの中だ」
言ってて馬鹿らしくなってくる。
「・・・」
丸井は見上げたり、周りをキョロキョロと見回している。
巨大なポケットも、二人も入ると大分狭い。
丸井と顔が近い。
「うそ・・・そんなに・・?え・・」
状況を頭で噛み砕いているのか、これを理解するのには時間がかかったようだ。
「俺だって、信じ切れてはいないよ・・・。でもここはあの女のポケットなんだ」
驚いていた顔が段々と崩れ、目に涙が溜まり始めた。
俺の懐に倒れかかってくる。

「うえ・・・星野君・・ほし、星野君が・・星野君がああ・・」
「・・・」
丸井は星野のことが好きだったのだろうか。
好きかどうかは別として、クラスメイトがあんなことになってしまったのを、受け止めきれていないのかも知れない。


「じゃあ、そこで座ってる子たちはついてきてね。あたしが向こうに着いても動いてなかったりしたら、承知しないから」

ポケットの中に女の声が響いてくる。
座っている子とは誰なのだろう。

丸井が顔を上げ、壁の方に殴りかかる。
「ばか!ばか女!なんで・・・!なんであんなことするのよ!!」
ドンドン、ドンドンと壁にグーの側面を叩きつける。
壁は無表情だった。
「ばっ、馬鹿!やめろ・・・!」

「ちょっと、じっとしててよー。スカートずれちゃうじゃん・・・」

丸井の怒声は届いていないのだろうか。
それともあえて無視をして、大したことでもないように返事をしているのだろうか。
「なによ・・・!なんなのよ!!」
丸井は足場を踏みつけるようにジャンプする。
ジャンプするごとに、ほんの少し地面が沈んでいるような感覚がした
四回目で丸井はバランスを崩し倒れかかってきた。
「キャア!」
ドサリと丸井に乗られる。
・・・重たい。

「もー、大人しくしてよね」

バンッッッ!!

外側から巨大な壁が激突してきた。
ポケットを軽く叩いたのだろうか。

歩行の時の何倍もの力の激突に、意識がフラフラとし、痛みが体中を走り始めた。
右腕全体がジンジンとしている。
「う・・・く・・・」
痛みに耐える声が漏れる。
自分の何も出来なさに気づいたのか、丸井の逆上は収まった。

平手打ちをされた時のような唖然とした顔をし、段々と下を向く。
顔を、目を何度も拭いはじめた。
「いやあ・・・もう、いやあ・・・」

クッ、と地面が揺れ持ち上がった気がした。



「・・・丸井、これから多分この女が歩き始める。そうすると、今の程ではないけど、壁がぶつかってくるんだ」
「・・・?」
赤くなった目を開いて、なんだかわからないというような顔をしている。
「壁、じゃなくて、脚がぶつかってくるんだ。だから、今の内に安全な体勢に・・うわ!」
言い終わる前に激突が始まる。
バンッ    ドンッ    ドンッ   ドンッ
丸井を守るように、ぶつかる壁を背にしながら、生地を握り締めた。
姿勢は大の字だ。
揺られて丸井の体が体当たりしてくる。
「キャア!」
バンッ    バンッ    バンッ

激突のリズムからほんの少し送れて丸井の体がぶつかってくる。
衝撃のせいか、どうも丸井の体が俺より大きい気がする。
バンッ      トン    ドスッ

ブランコの要領で足の力を使い、揺れをなんとかコントロールしようとする。
最初よりも激突を和らげはじめた。
丸井のうなじより少し下の部分が鼻にぶつかる。
ドンッ
「くはっ」
鼻頭がジーンとする。鼻血が出ているような気がする。
「ご、ごめん・・・大丈夫? ん!!」
二の腕が俺の顎を押し込む。


丸井も要領を掴み始めたか、自分と似たような体勢になってくる。
「だ、大丈夫?ごめんね・・・。ありがとう」
「いや、いいよ、気にしなくて。わざとじゃないんだし」
目の前で同じ姿勢になっている丸井を、軽く見上げながら言った。

そうか・・・わかったぞ。
連鎖で体が縮んでいる時、遠藤が手を離してそのあと星野が手を離して・・・。
クラスメイト達とのサイズに少なからず差が出来ているんだ。

丸井も気づいたのか、不思議そうな顔をで足元とこちらを交互に見ている。
「・・・ごめん・・こんな時になんだけど・・渡部君て、身長いくつだっけ・・・?」
「168・・・だったよ」
「そうだよね、それくらいだよね・・・。・・・」
その先を口にしない丸井。
あまり深く突っ込むと、あの女と同じことをしてしまうと思ったのだろうか。
自分のことをポケットに入れているような女のことを考えれば、大した問題ではなかった。


--


ふふ、あたしが歩くたびに、小人達がどんどん脅えている。
互いに体を寄せ合って、わざわざ自分達を小さくして見せてる。
ほらほら、もうちょっとで着いちゃうよ。逃げなくてもいいのかな?
・・あ、やっぱり逃げた。
一人左に逃げたらみんな急いでついて行ってる。かわいい。。。

そんな所に逃げたら角になって、あたしもっと追い詰めちゃうよ?いいのかな?
右に逃げても左に逃げてもおんなじだけどね。

そのまま小人達が逃げた方向へ向かっていく。
遅いなあ。もっと速く走らないと追い越しちゃうよ。

小人達が角に到達するのと同時に、あたしも到着した。
脅えてる脅えてる・・・。

一人がもう一回左へ逃げようとする。
そっちはもう、こっちみたいなものだよ?
左足を上げて、その小人の前に踏み降ろす。
あはは、恐いの?足を降ろしただけだよ?

壁につま先をくっつけて、道を遮断した。
右足も右の壁にくっつけて、三角の空間を作る。
カバンを足の間に置いて、完璧に逃げ道を消してあげた。

・・・ちょっと脚が開きすぎだから、更に近づいて空間を狭くしてあげた。
一生懸命体を寄せ合って、ぶつけあって、おしくらまんじゅうをして、あたしから離れようとする。
後ろは壁なのにね。

脚の間で小人達を閉じ込めた。
大分狭そうにしてる。
両手を腰にあて、小人たちを見下ろしつづけた。


まだ喋ってあげない。逃げ道も作ってあげない。
小人達はしきりに、あたしの足と顔をキョロキョロと見比べてる。
逃げ道でも探してるのかな?
あたしの顔と足が、同じ人間のものだって思えてないのかな?

またもうちょっとだけ空間を狭くしてあげた。

30人が必死に保とうとしてる空間を、あたし1人の空間で押し潰してあげる。
足元に小人達の空間はもう無い。その空間はあたしの空間、あたしの場所。

もうほとんどの小人が脅えながら顔をじっと見ている。
助けて欲しいんだと思う。
脅える小人達の顔が必死にそう伝えてくる。
でも、まだ喋ってあげないよ。


顔を上げて、スカートで顔を見せてあげなくする。
唯一お伺いをたてることのできた、あたしの顔を見せてあげない。

今小人達は多分、あたしのパンツを見上げてると思う。
顔が見えなくなって、伺えるものが無くなって、呆然と見上げてるはず。
恥ずかしさはもうそんなにない。だって、小人だもん。
恥ずかしいのは多分見てるそっちの方。あ、でも恐さの方が大きいかな?

あたしは意識を自分の股間に置いてみた。
小人達は、ここを見つめてる。逃げ出す場所も、他にすがるものも無くて、どうしようもなくて、脅えながら見つめてる。
あたしはパンツ越しに、じっくりと見下ろすように意識した。
視線を感じる。中にはもう、心の中でパンツに許しを乞う見当違いな小人もいるかも知れない。
あたしのそんな所にお願いしてどうするの?それパンツだよ?
・・・興奮してくる。意識を置いたら集中的にゾクゾクしてきた。
もっともっと見下してあげる。

やだ。・・・少し滲んじゃったかも知れない。
でも多分まだ表面には出てないよね。
ちょっとだけ恥ずかしい。
でも、そんな気持ちも興奮で拭い去れる。
ほら、もっと見つめて、こんな所を見つめることで自分の存在の弱さを確認してごらん?
そこに見えるのはただの白い布。でも、視界で一番高い場所。

ほら、謝んなさいよ。許して欲しいんでしょ?許してくれる存在が欲しいんでしょ?
30人で必死に、一生懸命謝れば?
でも返事はしないよ。だってパンツだもん。あはは。馬っ鹿みたい。
返事をしないってことは許してくれてないんだよ?ほら、もっと脅えてごらん?許してくれてないんだよ?
あたしももっと見下してあげる。わざわざこんな所から見下して、威圧してあげる。

・・・気持ちいい。
やっぱり変態なのかな。これ。
でも、やめられない。


あたしは右足を大きくあげて、そのまま強く振り降ろした。

ドンッ!!

自分にも揺れと音が伝わる。
足元から更に高まった緊張感も伝わってくる。
このあたしでもこんなに音と揺れを感じたんだから、足元の小人達にはどんな衝撃がいっているかわからない。
でももう一度振り下ろす。

ドンッ!!

強制でさらに脅えさせられた小人達の様子が思い浮かぶ。
あたしはただ足を踏み降ろしただけなのに。

ゆっくりと上体を戻し、小人達を見下ろす。
・・・やっぱり見上げてる。それに、気絶してる子も何人かいる。
・・・気持ちいい。


「・・・なんで勝手に逃げだしたの?」
言ってやる。
そんなのは恐いからに決まってる。そんなことわかってる。恐がらせてるんだもん。
でもあえて言ってやる。

集団でギリギリ理性を保ってるみたい。
口をパクパクさせてる。
多分声は出てない。一人だったら多分もう折れちゃってるはず。

苛めがいがある。・・・ゾクゾクする。

「あたし、言うまで絶対手を離しちゃダメって言ったよね?そんな約束も守れないのかな?」

カバンからスプレー缶を取り出す。
泣き叫ぶ声が聴こえる。でももう逃げ場は無いよ。

カバンに座るようにしゃがむ。
ももの外側に違和感を感じる。
あ、そうだ。ポケットに小人入れたまんまだった。

ポケットから二人を取り出し、目の前の小人達に参加させてやる。


--


突然ポケットから取り出され、満員電車かと思うようなクラスメイト達の上にダイブさせられる。
「うわっ!」
ドサッ
もみくちゃになりながらも何とか隙間に入っていく。
せ、狭い・・・。皆の背が高いのもあるが、異常に狭い。
「ちょ、み、みんななんでこんな・・・」

・・?様子がおかしい。
ここは角?か?
自分の向いている方向の壁はそんな感じだ。

それに、やっと外に出たというのに、まだ薄暗く、ポケットの中と似たような匂いも漂っていた。
なんとか体を曲げ、後ろの方を向く。

・・・異常な世界だった。
体育館のライトはほとんど差し込んで来ていなかった。
後ろから光を当てられた、あの女の、とてつもなく巨大な顔が上空からこちらを見ている。
無表情、に見せているが、溢れる余裕は抑えられていない、というような顔。
後ろから伸びる壁は、両端とも女の靴で遮られ、正面はカバンと股間が迎えている。


・・・だんだんと理解し始めた。
ここは体育館の角。そこにクラスメイト達は閉じ込められている。
女の体とカバンで。

クラスメイト達の中にいると、皆震え上がっているのを肌で感じる。
俺自身も恐怖が更に湧きあがってきていた。
なぜなら、女は片手にあのスプレー缶を持っている。

逃げ場はどこにもない。満員電車のように狭く、まともな思考ができない。
暑く、息苦しく、これだけクラスメイトがいるのに、辺りはあのポケットの中の香りが優先されていた。
ほんの少し匂いの「刺激」が強まっている気もする。


「じゃあ、いくよ」

プシュッ!プシューーッ!

ガスが上空から噴射される。
慣れて来たのか、咳き込むことは少ない。
だが酸素ではないため息苦しさが増す。

「う、うぶ・・・」
頭がクラクラしてくると同時に、皆の体が離れていった。

床に手をつく。
床の木目が少しずつ近づく。






・・・縮小化は、止まった。

おそるおそる女の方を見る。

・・・冷や汗が噴出す。
ガスを吸うことに慣れたとしても、この女の巨大化にはいつまで経っても慣れなかった。

左右のローファーの靴底。それと、上面との境界線、皮の縫い目がよく観察できる。
しかし上面自体を見ることが出来ない。
底と上面の間から盛り上がり、突き出している丸みがギラリとテカり、皮の丈夫さを訴えてくる。
目の眩みそうな高さまで脛が伸び、膝まで見上げきるのを断念させる。
正面にはビルが潰れているのかと思うようなカバン。
その屋上へ腰掛け、その重みでカバンのビルをひしゃげさせている腰。
その上に建立する上半身が斜めになっており、落ちて来そうな気がしてその場に立っていられない。

皆が集まり始めている隅の方へ自分も向かう。
恐い、助けてくれ、恐い、落ちないでくれ、恐い。
そんな言葉ばかりが浮かび、立っているのがギリギリの足を無理矢理走らせる。

我先にと中へと移動しようとする、バーゲン会場のような集団の中に自分も入ろうとする。
外側に居たくない。周りに誰か立って守ってほしい。そんな欲求が強くなる。

誰かに後ろから挟まれた所で、安全確認のためか、また女の方を見上げてしまう。


・・・女が足をすり寄せながら近づいて来ていた。
その動きが、迫ってくる巨大な物体の移動が、体を強張らさせる。
右のローファーの壁が迫る。左の壁も迫ってくる。
それらに引っ張られるように前面からの圧迫感が増大してくる。

「そんなにちっちゃく固まっちゃって・・・。もう、いっぺんに全員踏み潰せちゃうかも知れないよ?」

女の出す声のボリュームが段違いに上がっている。耳をふさいでも聴こえるだろう。
その言葉の内容で、自分を含めたクラスメイト達を更に強張らせる。

「・・・でも許してあげるね♪   ・・・その代わり」

「許してあげる」という言葉がとてもありがたく感じる。
一番言って欲しかった言葉だ。
・・・いや、本当に聞きたいのは「戻してあげる」だということを忘れている。

「その代わり」という言葉が、クラスメイト達の緊張を少しも解かない。


女は後ろにあるカバンから、何かを取り出した。
・・・。たこ糸、なのか?あれは。
そしてギラリと光る巨大なハサミ。
こっちから見れば巨大だが、女の手と見比べると小さいハサミなのかも知れない。



--


真弓はたこ糸を6㎝ほど解いて切り、足元へ落とした。

「それで一人一本自分のおなかを縛ってね」
シャキ、という音と共にもう一本落とす。

シャキ、パサ。
シャキ、パサ。

たこ糸、今や身長3cmになるかならないかの生徒達にしてみれば、非常に太いロープ。
それに近づく生徒はまだ誰もいない。

シャキ、パサ。

ハサミが止まる。

「・・・なにしてんの?はやくしなさいよ」

ドンッ!

真弓が左手で壁を思い切り叩く。

生徒達にしてみれば、ドン なんて音ではなかった。
心理的な恐怖からか、いつまでも頭に響きつづける大砲のような轟音と、それに比例した揺れだった。

一人生徒がたこ糸の方へ歩き出す。
渡部洋人だった。

「そうそう、ちゃんと言う事聞いてね♪」

シャキ、パサ。
シャキ、パサ。

渡部が自分の腹を縛り始める頃には、一人、また一人とたこ糸へ近づく生徒が現れ始めた。

シャキ、パサ。
シャキ、パサ。

「あ、体から抜けないようにきつく縛っておいてね。ベルトに絡ませたりした方がいいよ」

シャキ、パサ。
シャキ、パサ。

「寝てる子は起こしてあげてね」

シャキ、パサ。
シャキ、パサ。





全員縛り終わり、生徒一人一人の腰からロープが垂れ下がっている。

「全員縛り終わった? 今度はこれにそれを縛り付けてね」
真弓は本体の糸先を、生徒達の方へ放る。


段々と生徒達にも真弓が何をしようとしているのかわかってくる。
このロープで自分達を逃げられないよう拘束するのだ。
腹を縛ったのみの状態では、いつでも自分のロープを解くことが出来る。
しかし、この状況でそんな危険な真似をする生徒はいなかった。
目の前には自分達全員を潰してしまえそうな足があるのだ。





糸先から本体へかけて、綱引きの並びを彷彿とさせる間隔で全員縛り終わる。
とはいえ、全員寄り添う用に縛ったためか、間隔は狭い。

「終わったかな?」
言い終わる前に真弓は糸をグイと引っ張る。
予告無しで引っ張られた生徒達は一斉に転ぶ。

「あはは、偉い偉い。ちゃんと縛ってるね」

真弓がたこ糸本体から糸を3mほど解き伸ばし、切る。
ハサミとたこ糸本体、スプレー缶をカバンにしまい、筆箱から赤ペンを取り出す。
「どうせだから綱引きでもしよっか♪」


糸本線の丁度真中に赤の印をつける。
ペンをしまい、カバンの取っ手を片方の肩にかけた。

「赤い印が体育館の中央線を越えたらあたしの勝ちね♪」

糸の先を手に軽く巻きつけ、握りしめながら立ち上がる。
立ち上がる真弓に吸い込まれるような風が、生徒たちの隙間を吹き抜ける。

生徒達は真弓に飼われるペットのような風体になる。
犬猫よりも小さいため、糸のついた玩具のようにさえ見える。
実際、生徒達は既に真弓の玩具と成り果てていた。


まず真弓が合図なしに突然歩き出す。

強烈な力と速さで引っ張られる生徒たち。
踏ん張れる者など一人もいなく、ズルズルと全員が床を滑った。
生徒達にとってはズルズルというものではなかった。


この綱引きとは到底呼べない競技の、生徒達側の勝利条件は聞かされていない。
そんなものは必要ないのだろう。

真弓が立ち止まり、生徒達の方に目をやる。
「情けないなあ・・・。もうちょっと頑張ってよ」
無茶な注文をぶつける。

「じゃあハンデ。あと5秒したらまた歩くからね。5〜4〜」

生徒達は急いで立ち上がり、無駄とはわかりつつもロープを引っ張る。
壁に打ち付けられたロープを引っ張っているかのようだった。

「3〜2〜」

カウントダウンが生徒達の無力感を煽る。
なにも変わらない。少しも移動しない。

「1〜、ぜろー」

真弓が歩き出す。

手からロープが奪い取られ、すぐに腰がグイと引っ張られる。
一斉に転び引きずられていく。
ロープと生徒達が絡み合い、もみくちゃになりながら引きずられていく。

10歩ほど歩き、真弓はまた足を止める。


「5〜4〜」
何の予告もなしにカウントが開始された。
真弓は生徒達のほうを見もしない。

生徒達は試合を放棄し、真弓の方へと走り出す。
もうあんな力で引っ張られるのは嫌だ。
少しでも引きずられたくない。こんなのは綱引きじゃない。
全員が同じことを思っていた。

「3〜2〜」

真弓の横辺りまでたどり着く生徒達。
その生徒達の速さにも追いつけず引きずられる生徒もいた。
一回り体の小さい渡部もその一人だ。

「1〜ぜろー」

ゴトン、ゴトンと真弓の歩行が始まる。
真弓は力を入れて歩いているわけではない。ただ、歩いているだけである。
必死で走り続ける生徒達の横を、黒い壁が抜き去っていく。
垂れていた糸が浮き始め、生徒たちに緊張が走る。
腰がグイグイと引っ張られ、足がもつれる。
1人3人5人10人と倒れ始め、結局思い切り引きずられる。

靴が脱げたり、服が脱げたり破けたり、絡まるロープと格闘している生徒もいる。
体力が限界に近づいた生徒が、吐き気をもよおしている。

それでも真弓は遠慮無しに歩き続けた。



真弓が体育館の中央へと到着した。
引っ張られる力が止まる。

再びカウントが始まることを予想し、急いで体勢を立て直す生徒達。

しかしカウントは始まらない。


真弓が生徒達の方へ向く。
「ほら、もうすぐ中央線越えちゃうよ?がんばらなくてもいいのかな?」

そんなことを言われても、生徒達にはもう体力がほとんど残っていない。
立っているのがやっとだ。

ズン

真弓が突然床に片膝を落とす。
不意を突かれた生徒達がビクリとする。
もう片方も落とし、今度は右手がドンと落下した。
生徒達は真弓がこちらへ向かって倒れてくるのかと思ったがそうではなかった。

真弓は脚を後ろに伸ばし、左半身が地面と接するように横になった。
左手で頬杖をついている。
中央線は丁度真弓の腰あたりで十字となっている。
左肘のみで支えられた真弓の顔が地面に降り立ち、その高さでも斜めに生徒達を見下ろしてくる。
つまらなそうな、こちらに責任を押し付けるような、冷たい目で見つめてくる。

「あたしが綱引きしてあげるって言ってるんだけど、どうして引っ張ってないの?」
5、6人の生徒が慌てたように引っ張り始めた。

「言うこと聞かない不真面目な子は、どうなるかわかってるのかな?」
全員が、最後の力を振り絞ってロープを引っ張り始めた。
綱引きになるかならないかではない。

命令を聞くか聞かないかが重要なのだと、生徒達は悟った。

真弓は右手に、クイ、クイ、と引っ張られる力を感じた。
「あ、すごいすごい!ほら、引っ張れてるよ。がんばって〜」
真弓にパッと笑顔が戻る。

全く力の入っていない右手を少しずつズラすことが、30人全員の最大パワーであった。
それでも、腕の重さが加わりだすと、移動は更に微かなものとなった。

真弓は右手がク、ク、と引っ張られる感覚にワクワクしていた。
こんなのが生徒達精一杯の力なのかと思うと、引かれる度に優越感が増してくる。
ドンドン気持ちが大きくなる。

真弓は生徒達のリズムに合わせて、同じぐらいの力で引っ張ってみた。
糸の中心がピン、ピン、となる。
急に抵抗が生まれたため、生徒達のリズムが崩れる。

再び力が釣り合い始めたら、今度は生徒達にほんの少し勝る力で引っ張っり始めた。
ドタドタ、ドタドタ、と足が前に出る。
限界が来て手を離してしまう生徒や、バタバタと転び始める生徒が出てきた。
それでも引っ張るのをやめない真弓。

結局生徒全員が転び、力を感じなくなった所で真弓も力を抜く。

「もう、ほんっとーに弱いなー。それでも高校生?ほら、早く立って」
貶しながら生徒たちを促す。
真弓は寝転がり、片肘をついている。力は足腰どころか、ほぼ右手首しか使っていなかった。

生徒達が体勢を立て直している間、真弓は右手首をくるくる回転させる。
糸を少し巻き取ったのだ。
引き合い時の距離が狭まる。

生徒達が再び懸命に引っ張り始める。
真弓は今度はリズムをつけずに、少しずつ引っ張る力を強くしていく。

生徒達は立って踏ん張れているものの、ズズ、ズズズと引きずられていく。
真弓と生徒達との距離が更に縮まっていく。

ある程度引っ張ると真弓は再び手を回し、糸を巻き取っていく。
巨大な肘と顔がドンドン近づいてくる。

生徒達が引っ張るのを強めようともやめようとも、接近は止まらない。

肘を通り過ぎ、比喩ではなく真弓の鼻息が生徒達にかかり始める。

頭上には真弓の顔、右には今にも倒れてきそうな巨大な胸の膨らみ。
生徒達は一体何と綱引きをしているのかがわからなくなってくる。
それでも懸命に引っ張る。やめることは許されていない。


とうとう真弓の右手と生徒達の距離が10cm程となってしまった。
糸のについた赤い印は、既に真弓の手中である。
一応それは中央線を越えていない。

高さ3mはありそうな右手が目の前まで接近し、生徒達が更に脅え始める。
このまま巻き取られて、握り潰されてしまうのではないか?
そんな不安が心を支配する。


途端、糸を握る右手が少しずつ宙へ浮き始めた。
「!!!」
これから起こる事に怯え、悲鳴を上げる生徒達。

足が浮き始めた生徒はロープに捕まり、足をバタバタとさせる。
真弓の右手は何も重さがかかっていないかのようにグングン上昇していく。
ついには生徒全員が空中へ持ち上げられてしまった。

「あははははは、ほらほらがんばって〜」
右手で生徒達の葡萄を吊り下げながら笑い、からかう真弓。

頑張りようが無い。足が地面に接していないのだ。
たとえ生徒たち全員の体重がかかろうとも、右手の上昇は止まっていない。

葡萄から米粒のような靴がポツポツと落ちてくる。

右手の上昇が止まる。
ユラ、ユラとするその空中からの視点は、落ちれば死を免れないような高さ。
ビルの窓から紐でぶら下がっているかのようだった。
足が地面に着いていない不安が血の気を引かせる。

女子高生の右手に吊り下げられているとは思えない。
それも30人一辺に。


次に真弓は、振り子の要領で生徒達の葡萄を少しずつ揺らし始めた。
悲鳴が一層大きくなる。

「キャアアアアアアアアア!!!!」
生徒の一人、藤田がボトリと落ちた。


「あーあ、だから強く縛ったほうがいいよって言ったのに。・・言うこと聞かないからだよ?」
藤田は頭を強く打ったのか、失神している。

振り子のふり幅が段々強く速くなってきた。
左右に移動するたびに生徒達の胃がギュウとなる。
「うわああああああ!!」
「助けてえええええええ!!」
「止めて!!止めてええええ!!!」
生徒達が必死に泣き叫ぶのも無視し、真弓はニヤニヤとしている。

真弓はとうとう生徒たちを回転させ始めた。

強烈な遠心力と風圧で、既に泣き叫ぶことも出来ない。
腹に縛ったロープが強烈に食い込んでくる。
靴や眼鏡、携帯電話等がバラバラと飛び散る。
吐いている者もいた。

「あははは!ほーらほーら、まだ負けて無いんだからがんばりなさいよー」

風圧音を押し破り、真弓の声が強烈に響いてくる。
しかし言葉の意味を理解できるほど冷静な生徒はいなかった。
遊園地の絶叫アトラクションなど比では無い。
安全性は全く保障されていない。現に一人落ちた生徒がいた。

回転が更に強まり始めると、生徒が何人も飛ばされ始めた。
さっきとは比べ物にならない遠心力で地面に叩き付けられる生徒。
その軽さから、アーチを描き何mも飛ばされる生徒。
もし一命は取り留めたとしても、大怪我は免れなかった。



こんな地獄絵図が、真弓一人の、それも片手のほんの僅かな力で生み出されているという現実に愕然とする生徒がいた。
フッと飛んでしまいそうな理性を何とか抑えつつ、その生徒は真弓の隙を虎視眈々と狙っている。
そしてそれは、この状況が最後のチャンスなのだと確信していた。



真弓は飛び散った生徒の収拾を面倒くさく思ったのか、反応が薄くなってきたことにつまらなくなったのか、ピタリとその右手を止めた。

ふわりと回転の頂点へ浮く生徒達。
一瞬時が止まる。

「うわあああああああああああ!!!!!!」
「キャアアアアアアアアア!!!!!!」
そのまま真下へガクンと落ちる。
その衝撃で右腕の折れた生徒もいた。



ユラユラと揺れる大量のストラップのような生徒たちを見つめる真弓。
真弓は息一つ上がっていない。

その高さのまま、それをゆっくりと中央線まで移動させた。

「はい、あたしの勝ちね♪」
返事の出来る生徒は最初からいなかった。

-

20人ほどにまで減った生徒達の塊。
真弓はそれをその場に置き、ごろんとうつ伏せの状態になる。

真弓の右腰が生徒達の目の前にまで倒れ迫った。
スカートとその中の質量が風を起こし、生徒達をブワと吹き付ける。

倒れている生徒達はそれを脅えながら見上げることしか出来なかった。

覆い被さるようなスカートの縦ラインが、その中に存在する巨大な盛り上がりの、ドーム型のフォルムを想像させる。
大きさもまさにドームのようだった。

そこから巨大でありながらも長い二本の脚。
舞台の方向へ長く伸びている。
その脚は、膝の所で曲げては倒し、曲げては倒しと運動している。
巨大な物質移動の運動から生まれた波が、腰の方まで伝わり、スカートの表面にまで揺れを伝達させている。
大きく揺れながらもすぐにその揺れを吸収し、崩れず、形を保つドーム型の山。
その動きから質量の柔らかさ、張り、膨大さを物語る。

もし真弓が何かの気まぐれで、こちら側に寝転び、仰向けになったとする。
そうしたらこの巨大な山は容赦なく倒れこみ、生徒たちを一人残らず飲み込むだろう。
如何に優れた柔らかさを持っているとはいえ、同時に兼ね備えられたその張りが、上から圧しかかる重量に耐えるために硬さを生む。
3cmの人間など、スカート越しに平たく押し潰すだろう。

そんな危険な物体が目の前にあろうとも、疲れと脅えから生徒達は誰一人逃げ出すことが出来ない。
半ば諦めている者もいる解放の時を、じっと待つことしか出来なかった。


真弓はカバンの中をまさぐっていた。
足をパタパタとさせながらカバンの中をまさぐるその姿は、明日の準備をしているかのような本当にただの女子高生だった。
ただそれは、自宅のベッドではなく体育館の中央で、腰元に約3cmの人間が数十人、息を飲んで脅えきっているという状況を抜かせばの話である。


また、息を潜め忍び足で真弓の後ろへと近づく生徒の姿も、例外ではない。


真弓はまだ気付いていない。
またその腰元の生徒達にも、その姿は真弓の腰で遮断され確認できていなかった。


真弓はカバンから白い板を4枚取り出した。
厚さ1.5cm 横幅25㎝ 高さ15㎝
まな板を少し小さくしたような板である。
材質はアクリル製で、光を淡く透き通す白いものだった。

真弓はそれを寝転びながら、それぞれ板の端と端にあるくぼみを合わせ、パチッパチッと固定していく。
じきに、高さ15cmの四角い筒状の箱のような物が出来上がった。

真弓は腰もとの生徒たちを糸ごと持ち上げる。
再び腰を引っ張られ浮かせられた生徒達は、ダラリとしていた。
真弓はそれをさっきの筒状の箱まで運び、ゆっくり中へと降下させていく。


その時、吊るしている生徒の一人二人の視線がおかしいことに真弓は気付いた。
「・・・?」

自分の左斜め後ろを驚愕の様子で見ている生徒がいる。

真弓はすぐに手を離し振り向く。

シュッー!プシューッ!

真弓の顔面にスプレーが噴射される。

「キャア!」
突然のガス噴射に咳き込む。
右側に肘をついて倒れこんだ。

「ゴホッ!えほっ!えほっ・・・」


白い部屋の中へと落とされた生徒達のほとんどは、突然の騒ぎに何がなんだかわからない。
部屋の中から上空を見上げていると、薄いピンクの、あの煙が広がっていた。

すぐに煙は晴れていき、奥に見えていた影が姿を現した。


それはスプレー缶を右手に握りしめ、身構えた河野和也だった。
和也の大きさと、右手のスプレー缶と、落ちる瞬間に聴こえていた真弓の悲鳴。
生徒達は状況を理解し始め、歓声を上げる。


「くそっ、まだか!?」
再び和也がスプレーを左の方へ、真弓の方へ吹き付けている。
生徒達はその光景から小さくなっていく真弓の姿を思い浮かべ、期待に胸を膨らませる。


煙の中からブンッブンッと左手が飛び出す。

それが河野の右手首を掴んだ。
「なっ・・!!」

その手が河野の右手首をギリギリと握り締める。

ガンッ ゴロ ゴロ

和也は痛みから、絶対に離さないと決めていたスプレー缶を落としてしまう。

「いづっ・・あ・・ぐ・・・」

煙が晴れてくる。
和也の右手首を握る左手は、どう見ても和也の右手より大きかった。

その大きさの差は、グーとパー程の印象を与える。


「コホッ・・コホッ・・・。はぁ・・はぁ・・」
真弓の咳と呼吸が聞こえてくる。
更に煙が晴れ、生徒たちにも全体像が掴めてくる。


そこには生徒達の期待していた光景は無かった。
形成は逆転していた。
和也より少し背の高い真弓。
真弓は和也の右手を握り締めていた。


ズンッッッ!


右腿が生徒達の視界に現れると同時に、地面が重々しく揺れる。
震動で生徒達を浮かせる。

少しではなかった。
さっきの真弓は膝をついていたのだ。

真弓の頭がグングン上昇していく。
同時に、和也の手首を握り締める手も上昇していく。

肩でするほど荒かった真弓の呼吸が少しずつ収まる。
口が閉じられ、唾を飲み、静かな呼吸へと戻っていく。

-

真弓は呼吸を整えている間も、和也の右手を離さなかった。
さすがに和也自身を持ち上げはしていなかった。
が、二倍はあるように感じるその手は、和也の右手を胸の辺りまで挙げさせていた。

「ぐ・・・あ・・・は、離せっ・・・!」
「離、『せ』?」

和也は右手を封じられている。
なんとか届くもう片方の手で、真弓の左手をパンパンと叩く。

「・・・痛いじゃないのよ!!」
真弓の右手が動く。

ビシィッッ!!

和也は顔ほどもある右手で平手打ちをされた。

ガッッ!!

すぐに甲が帰ってきた。


首がもげるかと思うような平手打ちと、骨の出っ張る甲での打撃。
和也の視界は一瞬グラリとした。

実際真弓自身の右手にも強い痛みが走るほど、強烈な往復ビンタだった。

真弓は和也の右手首を掴みながら、足元のスプレー缶を拾い上げる。
スプレー缶は手の平サイズのものだった。

「・・・どこにいったのかと思ってたら。・・・ふーん・・・」
スプレー缶と和也の顔を交互に見下ろす。

和也はスプレー缶を取り返そうと左手をブンブン振り回している。
「・・・」

ドスッッ!

真弓の右足が和也の腹を勢いよく押し蹴った。
「う・・・ぶ・・・」

ローファーの踵が急所に入ったかもしれない。
和也の下腹部への痛みがズンと二通り来る。


「他人の物を盗るなんて泥棒だね」
「ぐ・・・う・・・」
真っ赤な目で真弓を見上げる和也。

「そんなにコレをあたしにかけたい?」
真弓は和也がこっちを見ていることを確認すると目を瞑る。
スプレーを自分自身の顔付近に、まるでコロンをかけるかのように吹きかけた。

シュッ シュッ プシュッ

「・・・」
真弓はムセないよう静かに深呼吸をする。


真弓の体に何も変化は無かった。

「・・・・・!!??」
和也は何がなんだかわからなかった。

深呼吸をする真弓はゆっくりと目を開く。
呼吸に合わせて口元から少しずつ余裕の笑みがこぼれ始める。
「そんな・・・!そんな・・!!に、ニセモノだったのか・・!??」
反対に和也の顔は驚愕の顔へと変貌していく。

プシューー
言葉に返事をするように、今度は和也の顔に向かってスプレーが噴射された。
「ぐっ!!」
顔をそむける和也。

一拍の後、少しずつ和也の体が縮みはじめる。
「!!」
信じられない、信じられないというように顔を左右に小さく震わせる和也。
和也の足が地面を離れていく。
「そんな・・・う、腕を掴んでるのに・・なんでお前は・・・」

真弓の笑みが少しずつ増していく。
「・・・こんな薬を、抗体薬を用意しないで実験すると思う?」
シュッ
言いながらほんの少しまたスプレーを吹きかける。
また少しだけ縮む和也。

既に和也の足はスカートの端よりも上の位置だ。
和也の右肘から手首までを真弓の左手がすっぽり握り隠している。

「あ・・・あ・・・」
口をパクパクとさせる和也。
どんどん嫌な汗が噴出し始める。

「そういうのが無くちゃ、体育館もちっちゃくなっちゃうじゃない?」
シュッ
吹きかける。
縮む。

縮む度に、縮む腕に手の表面皮が引っ張られないよう、牛の乳搾りの要領で左手指を波立たせる真弓。
その手の動きが和也の右手を血液で圧迫し、和也は右手が破裂してしまいそうな気がしてくる。

「ぐ、ぐ・・・ああ・・・・は、はな・・・はな・・・」
「『はな』、なにかな?」
シュッ
縮む。
既に真弓の左腕にはそれほど力は入っていない。
指先のみに圧迫させる力を持たせている。


「は、はな・・・・・・・・・せ・・・・・」
スッと真弓の顔から笑みが消える。目が冷たさを増す。

痛みと緊張による汗で制服をじっとりと濡らしている和也。
1.5倍程に膨らんでいる右手の爪と指の間から、血が噴出しているのではないかと感じる。
頭がグワングワンとし、何度も意識が飛びそうになる。

「・・・ふーん、そんな頼み方なんだ?」

真弓は握る手を自分の頭の上までゆっくり持ち上げる。
「!!・・うわ!うわ!うわあああ!!」

「じゃ、離そうかなー?」
和也の足は真弓の肩辺りでバタバタとしていた。

3階のような高さ。
遠近感で地面に向かって細くなっていっているような真弓の体。
真弓の冷たい視線。
それらが和也の「助かりたい」という心を大きくしていく。

真弓の小指は既に開いており、和也の腕の太さに合わせてつまむような形となっている。

薬指も開いていく。

続けて、中指も開いていく。

和也を吊るすものは親指と人差し指のみとなった。

ふらり、ふらりと和也の体が揺れ始める。
「うわあああ!!わああああああああ!!」

親指と人差し指、とはいえ最初に握り締めていた手ほどの太さの指。
その力が、少しずつ弱まっていくのを感じる。

「5〜4〜」
カウントが始まる。
カウントに合わせて和也の「助けて欲しい」という気持ちが更に巨大化していく。

「3〜2〜」
ズッ、と和也の手が真弓の指から少しずれる。
「はっ・・!はああああ!!は、は、はな、離さない、で・・・!」
和也のプライドが、とうとう押し潰されていく。

「・・・。・・・い〜ち。」
「は!離さないで!!離さないで下さい!!」

真弓の口元がニヤリ、とした。

真弓は和也を顔の前まで持ってきた。
「どうして欲しいって?おチビちゃん?」

「・・・・・・・」
和也は悔しさと脅えを混ぜたような顔で涙目となっている。

「・・・黙ってちゃわかんないよ?」
真弓はつまむ指に力を入れ始めた。

ギリギリギリという感触と共に、和也の顔が苦痛に歪み始める。

「ちゃんとしたお願いも出来ないのかな?おチビちゃんは」
力を強めていく。
「う・・・お・・・降ろして・・・・」

「降ろして?」
強める。
「お、降ろして・・・下さ・・い・・・」

「注文に聞こえるよ?お願いなんでしょ?」
強める。

右手にミシッという感触。
真弓の指先に、あとどれほど余力が残っているのかわからないという不安。
右手が終わろうとも、言うまで何をされるかわからないという不安。
それならもうここは早く言ってしまった方がよっぽど良いのではないかという心。
和也はどんどん支配されていく。

ミシッ・・ミシミシッ・・・

「降ろしてくだ、さい・・・。お、お願いしま・・・す」
スッとつまむ力が弱まる。

圧迫が引いたことに心から安心してしまう和也。
しかしまだ降ろして貰えていない。

「ふふっ、もう言っちゃうんだ?弱いんだね。弱虫」
「・・・・・」
グサリ、とくる。

「じゃあ今度は謝ってごらん?そんなに弱いくせに、人のものを泥棒したんだから」
「・・・・・」
ギリギリギリ・・・
再び力が強まりはじめる。

「ぐう・・あ・・が・・あ・・・」
さっきよりも強まるスピードが速い。
ミシ ミシミシッ メキッ

「!!!!  ご!ごお、ご・・めんなさい・・」
力が戻る。

「あれ?さっきより力入れてないのに言っちゃうの?ホントに弱いんだね」

「・・・・・」

「弱虫のくせに、なんであんな事したのかな?それも言ってごらん?」
ギリギリギリとまた強まり始める。

「うぐ・・ぐ・・・うう・・・」
和也は溜まりはじめていた悔し涙をとうとう落としてしまった。

「え、泣いてるの?うそ、男のくせに?」
「ぐ・・・・う・・・」
「男なのに、女の子に指でちょっとつままれただけで泣いちゃうんだ?泣いて謝るんだ?」

この女はいつまで続けるのか。
そんなに俺をいじめて楽しいのか。
なんでこんなことになってしまったんだ。
なんでうまくいかなかったんだ。

そんな気持ちが和也の涙を押し上げる。
涙を抑えたいという気持ちが、なぜか押し上げる方へ働く。
それがまた悔しい。

「泣いちゃったんじゃしょうがないね。降ろしてあげるよ。もっと小さくても泣いてない女の子もいるのに、泣いちゃうんだもんね。あはは」
和也の心をズタズタにしながら、地面にそっと置く真弓。

「でも、さっきあたしにたくさんスプレーかけてくれたよね。お返ししなくちゃ」
そういいながらカバンから大きい方のスプレー缶を取り出そうとする真弓。


「・・・・・」
後ろを向いている真弓を見て、すかさず走り出す和也。
諦めていないのか、それとも半ばヤケになっているのか。
さっきまで潜んでいた体育館倉庫へ向かって懸命にダッシュする。

真弓はそんなことはわかっていたかのように、スプレー缶を持って慌てず追いかける。

すぐに縮まっていく二人の距離。
真弓は追いかけながらスプレーを吹きかける。
和也は息を止め、逃げ切ろうとする。
何故今更体育倉庫へ戻るのか。
この状況で戻った所で何が出来るのだろうか。
何か策を持っているのだろうか。

「ブはぁっ!!」
息を止めて長くは走れず、たまらず呼吸を始めてしまう。
縮みゆく。

景色が高くなる。
体育倉庫が離れていく。
酸素が吸えずに苦しい。

プシューーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もう真弓はほとんど歩いていない。

シューーーーーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・



--



「う、うう・・・ここは・・・」
奇妙な空間にいた。
辺りは一面真っ白な大地。
真っ白とは言っても、所々は茶色かったり黒かったりと薄汚れてもいる。
少し向こうに、家のような大きさの角張った岩石が見える。
高さ6メートル、横幅8メートル。
目測の数値だが、とにかく自分の体より巨大な岩があった。
「あれ・・・体育館にいたはずが・・・」
ボンヤリとする意識。
ひとまず起き上がる。


「あはは、すごーい。こんなに小さくなっても生きてるんだ!?」


突如凄まじい轟音が鳴り響く。
和也は思わず耳を抑えてうずくまった。
頭がガンガンする。

後ろを振り返る。

その光景にそのまま仰向けに倒れそうになる。
今までに見た中で一番巨大だと感じた物体は東京の高層ビルだった。
あの時の高層ビルは、見上げているだけで頭がクラクラとした。
だが、大分向こうに見える、が、近くとしか言い様の無いその真っ黒な壁。
それは初めて高層ビルを見た衝撃の何倍もの感覚を与えた。

見上げていく。


・・・革靴、なのか?
物質の認識に時間がかかる。
その巨大で妙な形の黒い崖の向うから、上空に伸びる巨大な紺色の塔。

塔・・・。塔を何十棟も束ねたような塔。
あんなに巨大なものがこの世にあるのか。
更に少しずつ視線を上げていく。
その塔はさらに太さを増していき、いき・・・・。

地面についた手がブルブルと震え出す。
本当に遠いのか?実は目の前なんじゃないか?
しかし顔を揺らしても、全く移動しない。側面など現れたりはしない。
震える手を前に出しても、触れるなんてことは無い。
この遠近感が正しいというのか。

塔の裏側には、横幅が視界に収めきれないほどの壁、肌色の壁があった。
塔自体も途中から肌色に切り替わった。

やっと理解でき始めた。
これはやはり屈んだ脚だ。
それも片脚だ・・・。

視線が勝手に全体像を掴むため脚と脚の中央へと移動する。
ピントを合わせようとするだけで疲れる。
・・・あの肌色の壁が差し込まれた巨大スクリーンが股間だとは到底思えない。
だがその位置関係と独特のフォルム、縦長のドームのような膨らみ。
やはり股間であり下着なのだ。
いつもは有り難いはずの光景が、恐怖しか与えない。

そのさらに上空に紺色の天井が存在する。
そうだった。これは全体像なんかじゃなかった。
まだ半分、下半身なのだ。
覚悟を決めつつ、首の前後が痛くなるほどの真上を向いた。

ピントが合った。
そうだった。
この女だった。
居川真弓だ。
あの女の顔だ。
驚きつつも笑っているといった表情。

前面上空の下半身、その遥か上空、真上にある顔。
それらが近くにあるのか遠くにあるのか未だにわからなくなる。
しかし・・・、この遠近感を・・・もし信用するのなら・・・。
これがもし、倒れてきたら・・・。
何かの拍子に、落ちてくるんじゃないのか・・・?

「う、うわああああああああああああああああ!!!」

想像を絶する威圧感により生まれた恐怖が頭の中を支配する。
体勢をドタバタと直しつつ、さっきの巨大な岩石に走りだす。
身を隠したい。
あれが生き物で、生きていて、自分に危害を与えてくるかも知れないなどとは、信じられない。
身を隠したい。
早く。

巨大な岩石に辿り着く。
すぐに女から身を隠した。
体の震えが止まらない。
心臓が心配になるほどの速さで脈打つ。
呼吸を整えたい。
早く整えたい。


「なにしてるのかな?」

再び凄まじい音量の声が体を飛び上がらせる。
頭が痛くなり、まともに脳が働かない。
耳から頭が割れそうだ。


「そんな砂粒に隠れてなんになるの?」

砂粒?砂粒だって?この大岩が砂粒だって言うのか?
信じられない。
把握できない。
あいつとの感覚の違いに脳が追いつかない。

「あ、でも白テープの上じゃなかったら見失ってたかなあ」

白テープ。
まさかこの白の大地は・・・、体育館の境界線の、あのテープなのか?
よく目を凝らせば確かに地平線の奥の景色は体育館・・・。

・・・この岩は校庭から何らかの形でここに来た砂粒で、この大地は・・・。
横幅5センチもないような、白いテープ・・・なのか。

段々と自分のサイズが掴めてきた。
と同時に、言いようのない絶望も襲ってきた。

そんな・・・そんな・・・。


「でも残念でしたー。制服が黒いからどこに行ったかよくわかるよ。早く出てきなさい」

何度聞いてもこの音量には慣れない。
耳と頭が痛い。
気を失いそうになる。

恐る恐る岩陰から女の方を見る。

・・・愕然とした。
さっきの景色と何も変わっていない。
ほんの数秒とはいえ、全力で走ったというのに、足元から少しも離れられていないのだ。

真上を見る。
天井の顔と視線が合った。
ドキリとした。
あの冷たい目をしている。
顔を青くしながら再び岩陰に隠れる。


「・・・はやくしなさいよ」

轟音に急かされながら必死でどうすればいいか考える。
逃げたい。どうしても逃げたい。
絶対に言う事を聞いちゃダメだ。
一度刃向かったんだ。
もし出ていっても、またオモチャにされた挙げ句殺されるだろう。
どんなに許して欲しくなろうとも、絶対に近づいちゃダメだ。

その前にあれに近づくなんて真似がまずできない。
あいつに自分を見失わせるにはどうすればいいか・・・。
この体なら一度見失えばそうそう気づかれないはずだ。
どうする・・・どうする・・・。


「無視する気?ねえ?砂粒より小さいくせに?」

心から許しを乞いたくなる。
・・・ダメだ。
絶対にダメだ。
もう考えてる暇もなさそうだ。

俺は急いで制服を脱ぎ、パンツ一丁となった。
制服を囮として岩陰から投げ捨て、同時にその反対方向へ全力で走り出した。

彼女が黒い制服の方へ意識がいっている間に、白いテープから脱出する。
なんて情けない、ダサい計画だ。
しかしこの状況のこの頭じゃもう、これ以上思い付かない。

走った。
これまでの中で一番必死に走った。
自己新記録の速さだろう。

視界の奥に白と薄茶の境界線が見えてきた。
あれだ。
あれを越えればなんとか見失わせられるかも知れない。

あそこにたどり着いたらまず走るのを止めよう。
動かない方が見つかり難いはずだ。

境界線向こうの薄茶の部分が少しずつ広がってきた。

もう少し、息が苦しい、もう少し、もうす
急に凄い風圧に背中を押されたかと思うと、意識が消えた。


--


「無視する気?ねえ?砂粒より小さいくせに?」
砂粒の奥で黒色がモニュモニュとうごめいている。
・・・ぼやけてよくわからない。
ホントにあれが人間なのかな?

・・・最初はこんなに小さくても動いてて、ちょっとスプレーの力にビックリしたけど・・・。
小さすぎてなんか飽きてきちゃった。
どうせ会話とかできないだろうし。
ま、いいや。

あたしは砂粒のあたりに足を置いて立ち上がった。
さっきの続きに戻ろうっと。

もしかすると風で飛ばしちゃったり、靴の溝で潰せてなかったりするかも知れないけど、別にどうでもいい。


--


地面に薄くついた足跡。
横幅は白いテープ三本分はあった。
真弓は和也の生死も確認せず、生徒達の所へと戻っていった。


遥か上空で和也が責め続けられるのを、絶望しながら見ていた生徒達。
最後の頼りが容赦なく壊されていくのを、指を咥えて見ていることしか出来なかった。
二人が視界から消えてからも、聞こえてくる物音と声で和也の最後を強制的に想像させられ、絶望していた。

逃げ出そうとする生徒はいなかった。
逃げられなかった。
四方に高さ8mはあろうかという白い壁。
表面は何の引っ掛かりも無く、平らで、よじ登る気力さえ与えなかった。
腰につけているロープを使い何らかの形でこの部屋から逃げられたとしても、それは真弓に対する反抗となる。
真弓の姿が見えなくても、その力、権力に逆らうことができなかった。

ズン   ズン   ズン
心臓に響く足音と揺れがする。

壁の向うから真弓が出現した。
和也の姿はどこにも無く、一筋の希望も断ち切られてしまった。

「よしよし、逃げてないね。偉い偉い♪ やっと立場がわかってきたみたいだね」
こんな巨大な塀に閉じ込められては逃げられるわけが無い。
たとえ周りに何も無かったとしても、逃げる勇気は無い。

「あ、それとも そんなお部屋からも出られないのかな? 蹴っ飛ばせちゃうくらいちっちゃい部屋なのに」
一々ひやりとさせるようなことを言う。
生徒たちにとって、教室のような広さのこの空間を、一蹴りで処分してしまえるというのだ。



真弓はカバンから取り出した書類を眺めている。
その内容を生徒たちが知る術は無い。

書類をしまい、しゃがんで生徒たちを眺める。
何か考え込んでいる様子だ。

「・・・うーん・・」
真弓の顔が部屋の天井となる。

その視線が怖くて目が合わせられない。
顔と塀の隙間から差し込む光は少なく、部屋は大分薄暗くなっていた。

なにを始めるというのだろうか。


「・・・うん、やっぱ比奈ちゃんに決定!」

その言葉にうずくまっていた小山比奈がビクリとする。
「なに・・・なんなの・・?」
小さな体を震わせながら、おそるおそる真弓の方を見上げる。

目前に巨大な指が迫っていた。
「・・・!!」
比奈の体がつままれ、上空へと連れて行かれる。
「いや・・・いやああああ!!」

「もー。なんにもしないから安心して」
比奈の頭の中にはさっきまで和也がされていたことが鮮烈に焼き付いている。

比奈は辺りを確認する。
真弓のもう片方の手にはスプレー缶が握られていた。

「ひっ・・・」
体を強張らせる比奈。


真弓はスプレーを噴射した。

プシューーッ

プシューーーーッ

プシューーーーーーッ


ドライアイスを入れた箱の中のように、生徒たちの閉じ込められた部屋の中に煙が充満する。


「え・・!え・・・!?」
その光景を見させられる比奈。
どういうことなのか全くわからない。

真弓はスプレーを比奈にではなく、生徒達の部屋の中へ噴射していたのだった。

次第に煙が晴れていく。

「ふふ、比奈ちゃんをこの部屋の女王様にしてあげるね♪」


「ど、どういうこと・・・!?」
比奈を部屋の中央へゆっくり降ろしていく真弓。

「え、待って、え・・・。・・・!!」
自分が降り立とうとしている場所に、こちらへ気付いていない生徒がいることに気付く比奈。

「あ、危ない!!よけて!!」
着地までの時間を稼ごうと脚を曲げる比奈。

その声に気付きこちらを見上げる生徒。
西浦浩二だった。
「う、うわああああああ!!!」
「お願い!よけて!浩二君!早くよけて!!」
真弓は比奈が地面に着く前に手を放す。

ドンッッ!  ドッ!

自分一人分程の高さから落とされた比奈は衝撃で手をついてしまう。
「いたっ・・・。・・! だ、大丈夫!?浩二君大丈夫!?  ・・・・!?」
浩二は寸での所で比奈に潰されるのを免れていた。
避けた体で比奈を見上げている浩二。

その顔は恐怖に引きつっていた。

「・・・こ、浩二君、だよね・・?」
浩二のあまりに小さいその体と、見たことの無い表情に一瞬誰だかわからなくなる比奈。

浩二の震える口が開く。
「待って・・・こ、来ないで・・」
浩二が脅え震えながら後ずさりしていく。

「・・・え? あ、あたし何も・・・」
誤解を解こうと、まだあまり離れていない浩二の方へ手を伸ばし始める。


「じゃー、あたしあっち行ってるから、みんなを手なずけたりして楽しんでね♪ 糸も使っていいからね」

頭上から声が聞こえ、振り返る比奈。
「待って!このままにしないで!お願い!!」
聞こえていないかのように真弓は壁の向こうへ消えてしまった。

「そんな・・・、なんで、なんであたしが・・・」


ハッと周りを見回す比奈。
生徒たちは比奈から遠ざかり、息を飲んでいる。
生徒達からの比奈のサイズはおよそ8m
いくらあの真弓より遥かに小さいとはいえ、自分達を踏み潰してしまえそうな大きさなのである。

生徒達は巨大な体に対する恐怖心を、真弓に心の底まで深く植え付けられてしまっていた。

「やだ、ちょっと待って、みんな、なんでそんな・・・」

クラスメイトの所へ行こうと立ち上がる比奈。
その急激な目線の上昇に後ずさり、壁に張り付く者もいた。
生徒たちの身長は比奈の膝よりも下だった。

「あたし、あたしなにもしないよ? だから・・・」
クラスメイトの所へ歩き始める。
生徒の目線は更に上昇し、加えて前面から巨大な脚が迫ってくる。

生徒たちは左右にバラバラと散り始める。
それはまるで比奈の脚が波をかき分けているかのようだった。

「ねえ・・・やめてよみんな・・・」
今まで一度もされたことの無い、クラスメイトからの扱いに立ち尽くしてしまう比奈。
いつも仲良くしていた、仲良くしてくれていた友人達が、突然自分のことをここまで恐れ脅えている。
さっきまでみんなと一緒に脅えていた自分が、脅えられる存在になるとは思っていなかった。

生徒達も比奈が自分達を踏み潰しに来るとは思っていない。
ただ、その大きさが真弓を彷彿とさせ、体が勝手に脅え、逃げてしまうのだった。

比奈はゆっくりと振り向く。
本当に小さいクラスメイト達が、端でこちらの様子を伺っている。
誰かが縮まる時に壁に手を触れたのか、部屋は少し小さくなっていた。
しかし、比奈にとって部屋の広さは何倍にも感じられた。
特に仲の良い女子達までも一緒になって脅えていた。

「・・・・」

比奈はその場でゆっくり体育座りをし、腕を膝の上で組み、顔を埋める。

「・・・・」


--


大野陽平は体育館倉庫にいた。
さっきまでここで河野和也と共に隠れていた。
河野は居川真弓にいいようにされ死んでいく友人達を見ていられなくなり、スプレー片手に出ていってしまった。

それでも熱くなりすぎず、奇襲をかけられる最高のタイミングで向かっていき、それは成功した。
しかし勝利は勝ち取れていなかった。
河野はスプレーが彼女に効かないということを予想しきれていなかったのだ。
結果河野はほぼ目の前で、大野の目には見えなくなるほどまでに小さくされてしまった。

大野は彼女にスプレーが効かないということも予想していた。
しかもそれをあえて河野に伝えはしなかった。

もしそれを伝え、河野が更なる策を練り、彼女を陥れることに成功でもしたら、自分はもう居川真弓に本当に会えなくなってしまうと思ったからだ。
だから実際河野がスプレー奇襲に成功した時は心の中で祈っていた。
"どうか効かないでくれ"と。

祈りは届いた。
彼女はスプレーを吹きかけられても縮むことはなく、それどころか河野の最期までを自分に見せてくれた。
河野が虐めぬかれていた時、自分がされているわけでも無いのに胸がドキリ、ドキリとしていた。
それは恐怖や怯えとは違った。
河野がいじめられ、存在を消された事がそうさせたのではない。
一時は逆転までをも想像させた河野を、その圧倒的な力で嘲り、罵り、ボロボロにしていく彼女を見て、一種の快感を覚えていた。
自分にこんなアブノーマルな感情があるとは思わなかった。

河野がやられた時だけではない。
倉庫に隠れ、河野と共に館内を蚊帳の外から見始めた頃から。
彼女と生徒達との力の差が歴然としていく辺りから。
一段、また一段と、手に負えなくなっていき、それに合わせ彼女がどこまでも増長していくのが、心地よくて、怖くて、嬉しくてたまらなかった。
生徒達に対する同情の心はゼロではない。
それがなければこんな感情は生まれてこない。
ただ、限り無くゼロに近かった。
仲は良くない、かといって悪くもない、大野にとってほぼ形だけの付き合いであった生徒達。
彼女に対する気持ちの方が断然勝っていた。

彼女はもうすぐここへやってくるだろう。
河野が逃げ込もうとした場所は明らかにここである。
何か他にも危険要素があってはまずいから、確認にやってくるはずだ。

大野はその時に備える。
倉庫出入り口正面奥の壁に寄りかかり、座して待った。
暗い倉庫。
覗くために少しだけ開いた正面のドア。
そこから細く光が射し込む。
その光は倉庫内の埃っぽさを伝えていた。

重みのある足音が近づいてくる。
ドアの前で止まる。

ゴロゴロゴロゴロ…

普通よりも大分重量感のある扉が左右へ開いていき、倉庫内が明るくなっていく。

「へえ〜。大野くん、こんなとこにいたんだぁ…」

名前が呼ばれる。
彼女がとうとうここへ光臨したことを実感する。
彼女を後ろから照らす光は、倉庫の暗さに慣れた自分には眩しく、彼女のシルエットをぼやかす。
表情はギリギリ見える程度だった。
目の前で現実に起きていた絵空事の中に、今自分も参加している。

「ここってガス出てこなかったんだ…。今度から気をつけなくちゃ」
「…なあ居川、この実験ってあとどれくらいで終わるんだ…?」
「どうしてあたしがそれに答えなくちゃいけないのかな?」

序盤との返答の違いにまたゾクリとする。
「それに、実験の終わりまでいられるって本当に思ってる?」
「…だめかな?」
「ふふ、態度次第。かな〜」

「居川…。俺、居川の親父さんがどんな人か知ってるんだ」
「…ふーん。知ってるから、なんなのかな?」
「居川の親父さん。居川辰三のファンなんだ俺。ネットとかでも情報見つける度にチェックしてたよ。都市伝説みたいな扱いだったことが、まさか本当だったなんて、そんなに信じてなかったよ。2ヶ月前までは。ただなんとなく憧れてたっていうか——」
「じゃあ実験に参加できて本望じゃん。良かったね」
自分の許可無くベラベラ喋り始める大野に真弓はイライラし始めていた。

「…ああ、ある意味本望だったかも。うん」
「じゃあ」
彼女が近づいてくる。
段々包まれるような感覚が心地いい。

目の前にしゃがみ込み、俺の頭に左手を乗せる。
右手でスプレーの噴射口を向けてくる。
一度乗せられたことのあるその手が大きくなっていて、興奮した。

「もっと小さくされても本望だよね♪」

「ん…。うん。小さくされても良い。だけど」
「?」
キョトンとした顔がかわいい。
「小さくされても全然良いからさ、俺、俺を居川と一緒にいさせてくれないかな?」

「……はあ…?」

言ってしまった。
言わなきゃ言わないまま死んだだろうし、言っても駄目なら死ぬだろうし。
うん、いいんだ。

「だめかな?俺居川と一緒にいたいんだ」
「…なにそれ。ファンだからお父さんに会わせてほしいとか、そういうこと?」
「いや、親父さんの事はもうどうでもいいんだ。俺、居川の側にいたいんだよ」

プシューッ!プシューーッ!

突然

スプレーが噴射された。
視界が遮られ、気管へ無理矢理入ってくるガス。
「ゲホッ!ゲホゲホッ!」
「ふーん。たった一度しか会ってないくせにそんなコト言って。 好きだから助けて欲しいって言い訳にしか聞こえないよ?」
「ゴホッ…、…いや、えふっ…。…好きだからっていうより、なんか一緒に、一緒にいたいんだよ」

プシューッ!プシューッ!

「ぶほっ!ゲホゲホッ…!」
真弓は咳き込む大野を左手で持ち上げ、立ち上がった。

「ほら、落ちたらきっと死んじゃうよ?手離してあげようか?ほんとのこと言えば?」
更に音量を持った彼女の声が気持ちいい。
「…肩でもポケットでも良いから、側にいさせてほしい」
「…」
ムッとしていた顔の目線。
左下に向いている。

この願いは届くだろうか。





ムッとしていた顔が突然笑顔になった。


「あ、そう。一緒にいたいのね。いーよ。いても」
「え…?」
届き、受け入れて貰えたのだろうか。


--


真弓は手を開きその上に大野を乗せる形にした。
「でも大きいと難しいから、もっと小さくなってもらうね」

大野は真弓といられるなら、いくらでも小さくてよかった。

甘んじてスプレーを受け止める。

プシューーーーーーーーー…



「こんなもんかな?」

大野の足元。地面には広い肌色の床があった。

安定感がある。
真弓から見れば、手にゴマ粒が乗っているというところだろうか。


そのまま真弓はゴマ粒を口に放り込んだ。
噛まずに飲み込む。


喉が鳴った。
真弓は小さい空気を飲み込んだのか、大野を飲み込んだのかよくわからない。

大野はあまりにも小さく、真弓の胃液に溶かされるスピードは驚異的だった。
薄れゆく意識の中、大野がこれを幸せに感じたのか、裏切られたように感じたのかは、もう誰にもわからない。

「…たまーに、いるのよね。こういうタイプ」

真弓は周りに他の生徒がいないか確認し、倉庫を後にした。

ドアが閉じられた倉庫は真っ暗だった。



--



比奈は壁の向うから真弓が戻ってきたことに気付く。

「あれ?比奈ちゃんまだみんなを手なずけてないの?」
「お、お願い居川さん!もう、もうこんなことやめよ、ね!」
「どうしてー?みんなよりおっきくなって気分よくない?」
「そ、そんなことない・・・。あたし・・あたしこんななら、みんなとちっちゃくなってた方がいい・・・」

「あは、ねえみんなー。比奈ちゃんみんなのことちっちゃいってー」
「・・・!!ち、違う・・! あたしただ・・・みんなと一緒にいたくって・・・」

「ほらみんなー、比奈ちゃんのとこに一緒にいてあげないと、比奈ちゃん怒っちゃうかもよー?」
「違うの・・・そんなんじゃないの・・・そんなんじゃないの・・・」

そのまま座り込んで、泣いてしまう比奈。

真弓は比奈のことをいじめているのだが、内心どこかで、比奈が自分のように小さい人間をいじめる喜びに目覚めてくれないかとも期待していた。

が、どうもそんな脈は無さそうである。

「みんなと一緒にいたいんだ? ふふ、ちょうどいいのが用意してあるんだよ♪」
「え・・・」


真弓は再び比奈のことをつまみ上げる。
そして隅で固まっている生徒たちにスプレーを吹きかけた。

プシューー!

「・・・!!」
再び縮みゆく生徒達。
「いや・・!いや・・!!なんで、なんであたしだけ・・・!!」

スプレーを吹きかけ終わると、真弓はカバンから何かを取り出す。
それは鉛筆のキャップのような物だった。

「入るかなー?ちょうど良いくらいだとは思うんだけど・・・」
真弓はその筒の中に比奈を入れようとする。
比奈は体を小さくして固まっていた。

「そうそう、そうしててくれると助かるの。ありがとね比奈ちゃん」

その筒は身長3cmの比奈がギリギリ入ることの出来る大きさだった。
電話ボックスを大分狭くしたようなキャップの中。
もしもう一人比奈が入ろうとすれば、満員電車のようになってしまうような狭さだった。

「あたしもう指入れられないから、離すよー」
比奈をつまむ指が開かれる。

ストン

キャップの地面に比奈の足が着く。
深さはそれほど無かった。
比奈が思いっきりジャンプをして縁に手を掛けられるか掛けられないかという高さだった。

「んーやっぱりもうちょっと小さくしてからだったかなあ・・・。ま、でも入ったからいいかな」


「ね、ねえ居川さん・・・これ、これなんなの・・・?」

「あれ?比奈ちゃん。みんなより大きくなって気も大きくなってきたのかな? 言葉使いが悪いよ?」
コン、とキャップを軽くデコピンする真弓。
キャップの中に伝わる衝撃で、比奈は気絶しそうになる。


今度は何か小さい台座のような物を取り出す真弓。
それを生徒達のいる箱の中へと運んでいく。

砂粒のようになってしまった生徒たちの前に、巨大な台座が現れる。

「はい、そこのおチビちゃんたち。これの中央に集まって」

台座の中央へ急いで向かう生徒達。
なだらかな坂になっている

「そうそう。ちゃんと言う事聞いて偉いね〜。あ、真ん中に溝があるでしょ?そこより内側に入ってね」
溝はあった。
が、その崖のような溝の深さに腰が引ける生徒達。
なんとかジャンプして渡れない距離ではないのだが。


「・・・はあ〜〜・・・めんどくさい・・・。そんな溝も渡れないの・・・?」
一瞬、指先で全員を潰してしまいたい衝動に駆られる真弓。
生徒達は丁度それくらいの大きさだった。
指先一つで20程の命が消えてなくなるのかと思うと真弓はゾクゾクした。
が、次のステップのためにそれは我慢する。

生徒達は蜘蛛の糸より細いのではないかと思うようなロープを命綱にし、少しずつ渡っていった。


5分後
台座の中央に生徒達が固まる。

「やっと集まった?・・・ほんとにちっちゃいねー。・・・もしあたしがこの上に指を置いたら、みんな潰れちゃうよ?」
言葉にするのは我慢できなかった。

しかしそれを生徒達に伝えても、真弓の目と耳には生徒達がどんな反応をしているか確認することが出来なかった。

やっぱりこのサイズになると、反応がわからなくて面白くない。
一気に大勢潰すくらいしないと、面白くない。
真弓はそう思った。


この体育館の床の、木と木の間のほんの小さな隙間も、生徒達にとっては地割れの起きた地面のように見えていたはず。
自分の息が台風のように感じたりするのだろう。
指が高層ビルのように見えているだろう。

でもその反応を楽しむことが出来ない。
今になって、生徒達に小型カメラと小型マイクでも持たせれば良かった、と後悔していた。


「いい?少しでも動いたら潰れちゃうからそのつもりでね」
生徒達にそう伝える。
今度は左手に持ったキャップに顔を向ける。

「比奈ちゃん、これから床がほんの少し無くなるよ。その間壁に手をついたり落ちないようがんばってね。もし滑ったりして、どんな高さから落っこちても知らないから」
これからの比奈の立場を羨ましいのか、少し冷たく言う真弓。

キャップを台座の近くまで持って行き、キャップ底を左に回転させて外す。
床が無くなり、横になっていたキャップが段々縦になってくる。

引きずられた時に靴が脱げてしまっていた比奈。
落ちないよう大の字に手と足を壁にくっつけ、踏ん張る。
運動神経はいい方だったが、緊張による手汗と、靴下による安定の無さで、ずり落ちてしまいそうになる。
「は、はやく・・・!・・・!!・・・え!!!」
キャップの底から見える景色に、クラスメイト達が入ってくる。


真弓はキャップを台座の溝にはめ、右に回転させる。
ネジのようにキャップは台座に固定された。


--


生徒達は巨大な井戸の底に置かれている。
上空の巨大な、さっきより比べられないほど巨大になった比奈を見上げ、どうしたらいいかわからなくなっていた。
その異様な光景は、不安感を増幅させる。

比奈はまだ壁に手と足をつき、落ちないようにしていた。
落ちたらクラスメイトを踏み潰してしまう。
だが、体力の限界も近い。

「っ・・!お、お願いみんな・・・!端に、端に寄ってぇぇ・・・!!お、落ちちゃう・・・!!」

井戸の中に響き渡る声。
クラスメイト達は比奈から見て右奥の方へ走る。

ズズ、ズ、ズ

比奈の左足が段々と滑り落ちる。

ドンッ!!

直前で滑り、勢いよく地面に落下させてしまう。
比奈の耳に足元から小さい悲鳴が微かに届く。

「ご・・、ごめんみんな・・!!」
比奈はまだ右足を上げたままの状態である。

生徒達にとってその足裏は今にも自分の頭上へ落ちてきそうで、足が上がっていればいる間だけ不安感を増幅させる。

比奈自身もクラスメイト達を踏み潰そうとしてるかのようなポーズになっていることに気付く。

「お、降ろさなきゃ・・ね・・・」
どうしてもその言葉を悪い方へ想像してしまう生徒達。
足元から緊張感が伝わってくる。

「ちっ、違う違う!もちろんみんなのいない所に・・・」
片足を上げたまま足元を確認する比奈。
この空間の右奥以外に生徒がいる様子は、・・・無い。

「じゃ、じゃあ降ろすねみんな・・。絶対、絶対そこから動かないでね・・・」
出来るだけゆっくりと足を降ろしていく。
本当に誰もいなかったことを祈って、本当にゆっくりと地面にくっつけていく。

「・・・・。・・・みんな、大丈夫・・・?」
潰されたクラスメイトはいない様だった。


--


「比奈ちゃん、みんなと一緒の居心地はどーお?」
突然上空から雷鳴のような声が響く。

キャップ。
生徒達からすれば、とても出ることのできない巨大な井戸。
見上げていけば比奈の脚、紺のボックススカート、肘まで捲くったYシャツ、顔。
その先、井戸頂上の大穴からは真弓の目のみが見えた。

「居川さん…!お願いします…!あたしが、何か気に障ることしたのなら謝ります!だから、だから…ここから出して下さい…!」
「比奈ちゃんがみんなと一緒がいいって言ったんじゃん」
「ち、違うの…あ、違うんです!こんな狭い場所にいたらあたし、何かの拍子にあ、あたし…」
その先の言葉が出せない。
「そこから出る方法教えてあげようか?」
「お、お願いします…!」
「その前にー、そこにいる小人さん達の大きさ教えてもらえる?」
「え…?」
オロオロしながらクラスメイト達の方に線を送る比奈。

いくら見つめても大きさは伝わってこない。

「わ、わからないです…。どうすれば…」
「もー、人差し指でもなんでもいいから体のパーツと比べるの」
再びクラスメイト達の方を見る。
比奈の体を基準として、キャップ内の広さは前も横も幅約50cm
指を置こうにも、体を曲げようとすれば頭がぶつかる。
しゃがもうにも、しゃがむためにはまず足を前に出す必要があり、怖くてできない。

「できないです…。危なくて…」
「出る方法わかんなくていいのー?」
「…」

比奈は考えた。
どう考えてもこの方法しかなかった。
「ね…みんな。あたし約束する…。絶対に動かさないって約束するからさ…。誰か一人、その、足元に来てもらっても…、いっかな…?」

「へえー、足の指先と背比べさせるなんて、比奈ちゃん屈辱的なことするねー」
『や、やらせてるのは誰よ…』と、心の中で思う比奈。

「約束する!絶対に動かさないから…。ここから出るために…、誰か、お願い…!」

目を瞑り、クラスメイト達の方ヘ手を合わせる。
生徒達はお互いに顔を見合わせ、困惑していた。
目の前の巨人は真弓ではなく比奈。
頭の中では理解していた。
だが、どうしてもその大きさに怯えてしまい、まともな判断ができなくなる。

「やっぱり…難しい、かな…」
今まで一緒に真弓の巨体に脅かされていたのだ。
比奈自身もクラスメイト達の気持ちが全くわからない訳ではない。



渡部が遠藤に話し掛ける。
「・・・遠藤」

遠藤は渡部に呼ばれただけで大体を察する。

「・・・マジかよ・・」
「頼む。俺が行っても良いんだけど、俺みんなより一回り小さいからさ・・・。まさかそれがあの女にバレるとは思えないけど、何があるかわかんねーし・・・。小山の頼み聞いてやってくれないか。みんながここから出るためでもあるんだ・・・」
「・・・ああ・・・わかったよ」

渡部は右腕を骨折していた。
遠藤の持っていた少し大きめの携帯とロープで、その患部を固定している。
骨折している人間から。そして生徒全員からの申しわけ無さそうな懇願の目を断ることはできない。
遠藤は比奈の元へ歩き始めた。


比奈の視界に足元へ近づくクラスメイトが入ってくる。
「!!・・ごめん・・・。ここからじゃ、ちょっと誰だかわからないけど・・・ありがとう・・・」

段々と比奈の右足先へ近づく遠藤。
井戸の底は既に比奈の靴下の匂いで充満していたが、指先へ近づくに連れその度合いも高まってくる。
鼻をつまみたくなるような成分は少なかったが、生暖かい空気が少しだけ呼吸を苦しくする。

靴下に包まれた足先。
その膨らみ方から、どこが何指なのか大体掴めてくる。

「・・・すげえ」
思わず声を洩らす遠藤。
これが女の子の、比奈の足の親指部分だとは信じられない。

横幅は親指だけで遠藤よりも優にあった。
硬さを持った爪の部分が繊維を押し上げ、少しだけ尖らせている。
その部分が大体遠藤の目線だった。

比奈は足先を絶対に動かさないようにしながら、その部分を見つめていた。
「・・・、えっと・・・」
こんなにクラスメイトが小さいのかと、いくら見ていても疑いたくなる。

「まだ?」
雷鳴のような声。

「あ、え、ええっと、その・・・」
比べた結果を口にすれば、クラスメイト達にも現実を押し付けるかのように聞こえてしまう。
それが恥ずかしかった。

「こ、これくらい・・です」
比奈は右手の指先で、空気をつまむようにして上空へ掲げた。
「そんなんじゃわかんないよ? どんくらいなの?」

「・・・足の親指と、同じくらいの高さ、だと思います・・・」

「ふーん、足の親指かあ。さっき比奈ちゃんをつまんだとき、これくらいだったから・・・えっとー・・・」
井戸の口から真弓の目が引っ込み、向こうから計算する声が聞こえてくる。

「比奈ちゃんが3cmくらいとして、その親指だから・・・。うわー」

計算が終わったのか、再び目で閉じられる天井。
「比奈ちゃんすごいよー。そこの砂粒たち、1mmもないよ。0.5mmくらい」

強烈に小さい数字が伝えられる。
生徒達はその内容にショックも受けるが、それよりも声の音量に耳を塞いで縮こまることしかできなかった。
それでも声は無理矢理頭に入り込んでくるのだ。

「比奈ちゃんは物凄い巨人だねー。みんなは比奈ちゃんから見て大体2cmの小人。指先みたいなもんだね。その小人から比奈ちゃんを見たら・・・、なんとその高さ約130m!超高層ビルだよ。あたしにとってはたった3cmだけどね」
「・・・」
比奈は返す言葉を思いつかなかった。

「それで、比奈ちゃん。ここから出る方法だけど、すっごく簡単だよ」
「お、教えてください・・・!」
「あはは、出たい?どうしてもそこから出たい?」
「もう、もういやです・・・。こんな危ない場所・・・。狭くて、苦しいし・・・」
生徒達にとって絶望するほど広々としたその空間は、比奈にとって狭くて苦しい空間でしかなかった。


「出る方法はね、ふふ。・・比奈ちゃんが誰でもいいから、自分の意志で一人小人を踏み潰せばいいの」

「!!!!!」

真弓の声以外の衝撃が井戸の中を震わせた。

「そんな・・・そんな・・・そんなの・・・そんなの駄目!ありえない・・・できるわけない・・!!」
「簡単だよ〜? ちょっと足の親指を、クイッてするだけで良いんだよ?」
「できない・・・できない・・・だめ・・・」
「でもこれ以外にそこから出る方法はないからね。実験もそれで終わりだから、元に戻れるんだよ♪」
「いや・・・いやあ・・・」
比奈は泣き出した。

「みんな?比奈ちゃんそこからどうしても出たいって言ってたから、気をつけてね〜」
「!!違う!!あたししない!!そんなこと絶対にしないから!!」
クラスメイト達の方へ必死に訴える比奈。

「あ、そう? じゃあそこからずっと出られないから。がんばってね」
「ああ・・・ああああ・・・」
頭がおかしくなりそうだった。

「じゃ、またあとでね〜」
「待って!!お願い!お願いします!もうこんなことやめて!!!」

真弓の目は無くなり、足音と揺れが小さくなっていった。





比奈は顔を下ろせなかった。見上げたまま呆然としていた。
しかしそのため、生徒達には比奈の表情は伺えず、生徒達の不安が強くなっていく。
何かの拍子に、比奈がもし、ヤケクソにでもなったりしたら…。
そういう想像ばかりが浮かんでいた。


比奈はハッと下を向いた。
いくら今のクラスメイト達と顔を合わせるのがつらくても、気づかない内に取り返しのつかないことにならないとは限らない。
不意の事故が起きないようしっかりと見ていなければいけない。

案の定クラスメイト達は脅え、壁に張り付くように固まっている。

「み、みんな…」
悲しさがこみ上げてくる。
みんなの気持ちがわかる分、悲しさが強くなる。

「あたし、本当に、本当の絶対、そんなことしない…。間違ってもしないから…」
言葉が出ない。涙が溢れてくる。

明るくてお調子者で。
それでいてやさしくて、かわいくて。
スポーツも出来て、でも勉強は人並みで。
誰とでも親しく話せて、みんなといつも笑っていて。
クラスの誰からも嫌われる要素のない、小山比奈が。
泣いていた。

生徒達にも同情や慰めたい気持ちが湧いている。
しかし今までに起きた様々なこと、異常なことと、今も続く不安が、生徒達に余裕を与えなかった。




10分が過ぎ、20分が過ぎた。
重い空気が、その時間を何倍にも感じさせた。
必死に涙を抑えようとしている比奈が、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。

「そうだよね…。あたしがしっかりしないと、ダメなんだよね…。泣いてなんかいたら、まずいよね…。大変なのはあたしじゃなくて、みんなだもんね…」

一生懸命目をこすり、視界をハッキリさせようとする。
比奈の耐える姿に、生徒達が突き動かされる。


「…ヒナー…」
下から声がし、比奈がハッとする。
昌美の声のようだった。
「…」
じっと耳を済ます比奈。

「…たい……チ…」

「…え?え?ごめん…よく聴こえない…」

「けい……ピ……ス」

「けい、た…携帯?…あ!!」

比奈は思い出した。
自分のPHSと昌美のPHSにはトランシーバー機能がついていたのだ。
公衆の電波が無くともふたつの電波が通じれば会話ができる。
急いでPHSを取り出し、機能をONにする。

「ヒナ!ヒナ聴こえる!?」
「・・聴こえる!聴こえるよ!!」
通じたこともだが、久々に会話が出来たのが嬉しかった。


「…ごめんヒナ。ヒナはそんなことするヤツじゃないって、あたし、あたしよく知ってたのに…、いきなりだったからビックリしちゃってて…。でも、でももう大丈夫。あたしヒナのこと信じてるよ!」
「昌美…」

西浦が昌美からPHSを借りる。
「俺も、俺も悪かったよ。なんていうか、いくらでっかくても、小山は小山なはずだよな。なんか忘れてたよ。ごめん…。ごめんな!」
「ごめん」「ごめんね」「ごめんな」
小さくて聞き取りづらい声が、受話口からたくさん聴こえてくる。

「みんなぁ…」
せっかくハッキリさせた視界がまたぼやけてくる。
「みんな…ありがとう…ごめんね…。…ありがとう…。ごめんね…」
違う言葉が見つからない。
比奈が泣き止むのには時間がかかった。


「あたし、どうすればいいかわかんないけど…、でもみんなで…何か、なんとかして、無事に帰ろうね…。ね…」

学芸会のような、陳腐な学園ドラマのような会話が、異常な風景の中で、比奈を含めた生徒達に安らぎを与えていた。
無事に帰れなかった生徒は既にたくさんいた。
そんな死と隣り合わせな状況では、どこかで聞き慣れたような会話が落ち着きを取り戻させてくれるのかも知れない。

「…あ、それと、ヒナ?」

「…?」

「パンツ、丸見えだよ?」

「…。…。…あ…。…あは、あはは、あははは…。やだ、あははは…。どうしよっか? あはは」

しらけさせるような、暖かみのあるような、恥ずかしさ。
そんな雰囲気だった。



--


しかし時間は無情に過ぎていく。

一時間
生徒達はまず脱出を考える。
生徒達が四方どこを調べても、壁には隙間一つなかった。
比奈が内側からキャップを回して外そうとしても、渾身の力を入れようとも、キャップはビクともしなかった。

上からの脱出はもちろん比奈に頼るしかない。
しかし、思いっきりジャンプして手が届くか届かないかの高さ。
ここに思いっきりジャンプできるような広さは無く、もしジャンプに失敗しようものなら足元の保証はない。

次に出た案が、生徒達が比奈になんとかしてもらって外へ投げ出してもらうというもの。
だが、それで無事出れた場合どうするかである。
脱出の考察は全てその点でどうしようもなくなった。

生徒が出れても、0.5mmの大きさで何が出来るというのか。
比奈が出れたとしても、3cmである。
さっきまでの、あの白い壁が無くなっているという保証もない。
そして比奈が間違って踏み潰すという危険が緩和されたとしても、脱出に気付いた真弓が何をしてくるかはわからない。

脱出という考えは無くなった。

次は説得。
説得はありえなかった。
だが騙すというのはどうだろう?

誰かをクジか何かで決めて一人踏み潰したと嘘をつくのだ。
その人にはポケットか何かに入ってもらって…。死体はどうすればいいのか。
いや、真弓にとって砂粒の大きさの死体があそこから確認できるとは思えない。
それが誤魔化せても、大きさを戻して貰えたとしたら、ポケットのなかはどうなるのか。

元の大きさに戻る前に、少しだけ大きくされてから確認をされたら?
思いも寄らない確認方法があったとしたら?
それらどの段階でも、バレた場合何をされるかは…。

というように、案が浮かんでは沈みの一時間が過ぎていった。
案が止まり始め、皆絶望感と共にぼんやりとし始める。

皆座りながら考えていた。
小山比奈以外。


--


脚を曲げたい…。
でも、そんな空間はここには…。ギリギリありそう…。
でも、座ったりしたらみんなの居場所が…。ギリギリありそう…。

だ、ダメだよね。みんなとせっかく打ち解けあえたのに、そんな怖い思いさせちゃ…。


--


更に一時間。


--


打ち解けあえたからこそ、聞き入れて貰えるかも知れない…。
曲げたい…。脚を曲げて座りたい…。
でも…。
もうダメ…。

頭の中が「座りたい」でいっぱいになってしまった。

「ね、ねえみんな…」
何十分ぶりかの発言をする。
やばい。みんなこっちを見てる…。
でも、みんなに協力してもらわないと出来ないんだからしょうがない、よねぇ…。

「実は…ちょっとー…、その、座りたいんだけど…、いっかな…?」

みんな忘れていたかのようにハッとして、動揺が伝わってくる。

ど、どうしよう…。

PHSから声が聞こえる
「そ…そうだよね。ゴメンね気がつかなくて…。で、でも、大丈夫かな…?」
昌美が応えてくれた。

「うん、ちょっとみんなの居場所が狭くなっちゃうと思うけど…だ、大丈夫。みんな横になれるぐらいのスペースは残ると…思う。ごめん…、ちょっと限界で…。お願い…」
嘘じゃなかった。
本当に限界で、脚が震えて…。

「う、うんわかった…。じゃあ、あたし達どうすればいいかな?」

「あ、あのね…」
頭の中でシミュレーションしていた座り方を説明する。
空間は約50cmの四角形。
自分の足は今踵が後ろの壁にぶつかっていて、その足先の前25cmぐらいの空間にみんな散らばっている。
その空間の中央にみんな寄ってもらう。
右奥と左奥に足を置いて、今まで足があった場所に座る。体育座りのようになると思う。

「だから…ちょっとみんなの居場所を足と足で挟んじゃうことになると思うけど…。お願い!多分そんなに狭くないと思うから…!」

みんなどうしようとしてるかは理解してくれたみたい。
早く…早く座りたい…。
昌美がみんなの方に確認をとってくれている。

「……あ、あたし達の方は…、ヒナさえよければ…いいって言ってるよ。限界ならしょうがないって…。でも、でもヒナ…ホントにいい——」
「ほんとに!?みんな!みんなほんとにありがとう!」
みんなのやさしさに感謝する。
嬉しくてたまらない。座れる…。
みんなの場所を3分の2以上も取っちゃうのは悪いけど、甘えさせてもらう。

「じゃ、じゃあみんな奥の中央に…」
みんな中央に固まってくれた。
あたしは焦る気持ちを抑えて、まず右奥に右足、左奥に左足をゆっっくりと置く。

後ろの壁にもたれ掛かる形になる。
…よかった。みんな踵までのスペースにうまくおさまれてる。…座れる。

「じゃ、じゃあ座るね…危なかったらすぐ止めるから、ゆってね…」
ゆっくり後ろの壁に擦らせながら、しゃがんでいく。
やっと…やっと座れる。
中腰の姿勢がツラい。けどなにかあったらまずいから我慢してゆっくり、ゆっくりと…。

…着いた。

「はあ…」
下を向きっぱなしでつらかった首も、後ろの壁にもたれるように上げてしまう。

すごく…楽だ…。
肩も下がる。

「…みんなー。ほんとに、ありがとね…」
脚が少しも伸ばせないのは苦しいけど………待って…。

他のことが段々考えられるようになってくる。

忘れてた恥ずかしさがどんどんこみ上げてくる。
この、ポーズは、どう考えても…。
みんなから見たあたしは…。
顔がすごい速さで熱くなってくる。


「ご、ごめん!!!みみ、みんなこんなのみ、見たくないよね!!!」

急いで手で隠そうとする…けど、手をあてがうとそれはそれで逆にリアルにえっちい感じに…。
クセで脚を閉じそうになるけどそれはできない。


「みんな…………………………ごめ、ん……」
声が震えた。

今日ほどスカートの下に短いジャージを履いてこなかったことを後悔した日はなかった。

あたし…………………ばかだ。


--

遥か上空に比奈の顔。
その手前に脚の間からスカートの裏生地と短く白いペチコートが見えるが、脚が直立しているため腹の方へずり下がり、比奈の顔を見せている。
太ももから膝、そして足から膝までの合計四棟もの12階建てビルに囲まれている生徒達。
全員固まっていた。二つの意味で。
その景色は、本人に照れられると生徒達も更にどうしようもない。
とは言え、もしさっきのように笑い流されたとしても、意識から外すことはもう不可能な距離だった。
上空70mの高さに飛んでいた飛行船がすぐそばに着陸したようなものである。
もちろんその大きさも並の飛行船の比ではない。
その存在感は空間を一瞬で支配した。

肌色の丸みを帯びた、太ももが二棟。
スポーツの好きな比奈の太ももは健康的そのものだった。
太ももと言うだけあって、そのはちきれそうな程の太さ、雄大さは凄まじい。生徒達の目では見回さなければ全てを収めることができない。
生徒達にとってまさに体育館のような、その広々とした空間を、女性ホルモンが充満した太もも同士の押し合いで「狭すぎる」と主張していた。
実際比奈にとっては狭すぎる空間なのだ。
ギュウギュウと窮屈そうにしているその太ももが、持ち上げ気味で閉じ気味のため、二棟の中心の膨らみがかなり押し出されている。押し出されて形を保つということは柔らかいのである。
その盛り上がりを阻止しようとするかのように接着している生地は、後ろの壁に擦りながら座ったせいで壁との摩擦に引っ張られ、食い込みがより強いものとなっていた。
中央で横に引かれたクロッチの境界線が、中身の位置関係の目安となっている。その境界線でさえも3階のような上空に位置し、腰巻のような太さで段を作っていた。
だが全体から見れば、境界線というような細さである。
床からそこまでの間に走る微かな斜めのしわと、模様である薄い青の横縞の曲線と、生地自体の厚みが、膨らみを何段階にも強調し、そこに一体何があるのかを卑猥に主張させていた。
左右の太ももとの境界線はゴム素材でピッチリと閉じられている。ゴムの縫い目が小さいしわをいくつも作っており、しわ量のフェードもまた盛り上がりの段階を表現していた。
そのゴムの密着具合が、太ももと中央の張りを伝えている。
二本のゴムは、地面に接地する直前で左右に広がり、生地を僅かに末広がりにさせていた。その最下部周辺の生地は密着はすれど膨らみは少なく、その奥行きを物語っている。
全てが本人の意思とは裏腹に、存在の巨大さをこれでもかと生徒達へアピールしている。

とにかく生徒ほぼ全員の脳裏にバッチリと小山比奈の超巨大M字が焼き付いてしまった。


「あたし、その…いや、えっとぉ…、あは…いや、わ、笑えないよね…あたしも…笑えない…」
真っ赤になった顔の右頬に手をあて、困った顔と苦笑いを足して割ったような表情で左上の方を見る。
そこに何があるわけでもないが、クラスメイト達の顔をまともに見れない。

「パンツ見えちゃった」のノリでは済まない規模だった。
「パンツ見せつけてます。堂々と。足よりも内側で」である。
それも、クラスメイト全員同時に。
脚自体も久々の休息に、場所の狭さと危険性も手伝って、立ち上がろうとはしなかった。

「たた、立てない…」
恥ずかしさと気まずさが汗をかかせる。

「…ひ、ヒナ…?」
昌美が声をかけてきた。
「ヒナ…気付いて、無かったの…?」

「座りたいってばっかり思ってて…、みんながそこにいるのはわかってたんだけど、そ、そこでみんなが見るっていうのを忘れてたっていうか…見るも何も…た、ただ座るだけって思ってたっていうか…」

「と、とにかくみんな後ろ向いたから、あ、安心して!」
…生徒達は壁の方を向いてくれていた。
自分一人の座り方のために、クラスメイト全員がそんなオーバーアクションするはめになっているということ自体がまた恥ずかしい。
かといって「気にしないで」なんて言える状態ではない。

「座ってるのがもう良くなったら、いつでも言ってね!あたし達、また協力するから!」
「…あ……、……ありがとう……。……ごめんね……」
さすがにこの状態に慣れるのには結構な時間が掛かりそうだった。


生徒達だって恥ずかしかった。
既に脳裏に焼き付いてしまった巨大な光景が、真後ろにあるのだと思い出しては照れ、思い出しては照れしている。
あえて見ない方が卑猥なことだってあるのだ。

それに、比奈がまだ気付いていないと思われる恥ずかしさだってあった。
生徒達周辺の空間に充満する空気。
比奈の上半身が急激に近づくことによって、比奈がいつも使っているコロンの甘くてかわいらしい香りもしてきたのだが、生徒達の鼻の位置はもっと下である。
その周辺にはその周辺相応の、そーゆー匂いが蔓延していた。

着慣れた制服特有の匂い、いつも比奈が使っているコロンの匂い、そして比奈自身の匂い。
全てが混ざり合い、一つの香りとなっている。
座る前の状態でさえ、空気は比奈から発せられる匂いの独壇場であったのだが、座ることによって空気中の「比奈」の成分が何倍にも濃くなっていた。
なにせ比奈にとってその空間は50cm四方。占領しないわけがない。

そして恥ずかしさのためか比奈から発せられる体温と汗量が急激に強くなってきており、そのまま室温湿度の上昇へと繋がっている。湿気が強い。
運動でかく冷却のための汗と、恥ずかしさでかく汗の成分はまた変わってくる。
照れという一種の興奮状態が生み出す汗には、その人間特有のフェロモン成分が多く含まれている。
ましてや思春期の若者、そういうものを分泌する量も、察知する感覚も過剰で敏感な年頃である。
そうでなくても、今日は一日中過度な運動や緊張を強いられた。

室温湿度の上昇が、それら「小山比奈」成分の放出、充満、伝達を更に助け、相乗効果となっている。
そして体の巨大さが、それらの放出量を何百倍にもしていた。


そんな空間に閉じ込められて、それだけで変な気になってくる男子の元へ、頭上から比奈に「ごめんね……ごめんね……」と囁かれる。
その言葉だけでなんだか全員口説き落とされてしまいそうだった。
背後には脳裏に焼き付いている光景。
思春期の男には、つらい。
女子でさえどうにかなってしまいそうだった。
比奈と仲の良い女子は、比奈の家で感じたのと良く似た匂いから、ノスタルジックな気分にもなってくる。

昌美がたまらず伝えてしまう。
「…ヒナ…。すごい…すごいよ…。ホントに…これ、すごいよ…」

「なに、なに!?どうしたの!?大丈夫!?昌美!?みんな!?」
焦る比奈。

理由を話せば更に比奈にプレッシャーがかかると思い、
何でもないとだけ伝えて通信を切る。

皆、ぐったりと、していた。


--


閉じ込められてからもう四時間が経とうとしていた。
携帯電話の表示を見ると18:46 午後7時が近い。
そろそろ一部の親達が、連絡もなく帰りが遅い子供の心配をし、学校に警察に連絡をしてくれててもいい頃である。
携帯電話が繋がらないのだ。
ちょっと過保護な親なら心配でたまらないはずだ。
一人ならまだしも一クラス全員が失踪している。大事件にならないはずがない。

その期待を頼りに比奈と生徒達は待ち続けている。
先生か警備員か誰かが体育館に入り…この驚愕の事実を受け止めて、居川真弓を確保し、元に戻す薬のありかを聞き出し…。
そんなにうまくいくのだろうか?
第一に人が小さくなっているなんて気付くのだろうか?

そんな話をしていると、強大な揺れと足音がズンズンと響いてきた。

「もう誰か潰したかな?」
四時間ぶりの雷鳴が響く。
真弓だった。

生徒達は嘘をつく準備も結局出来ていなかった。
「…い、いいえ…」
真弓の目と轟音はいくつもの惨い現実を思い出させる。

「うそー、まだなの?どうして? 足の親指でチョンってするだけでいいんだよ?」
側にある巨大な足が持つ恐ろしい凶器性を生徒達に思い出させる。

「できない…できるわけない…。そんなこと…」
「なんで?」
「だって…だって…みんな友達で…大切な友達だから…」
「ぷっ」
真弓は吹き出した。
「あははは!比奈ちゃん、やさしすぎるからー」
「だって!だってそうじゃない!一緒に暮らしてきたクラスメイトだから…」
「比奈ちゃん、次そんなクサいセリフ言ったら、あたしが代わりにやっちゃうからね?」
「……」
返事ができなくなる。

「で比奈ちゃん。そこにいる虫みたいなのがホントにクラスメイトに見える?」
「…見えます…」
「見てないじゃん」
「…」
今クラスメイトに目線を合わせると不安にさせてしまいそうで、うずくまりながら答える比奈。

「大きさ0.5mm、比奈ちゃんにとっては2cmだけど、そんな人間がいる?」
「…」
「もしそんな生き物がいたとしたら、虫だよねー」
「違う…違います…」
「そんな虫がいるだけで、座るのもままならないなんて、不公平じゃない?」
「…」
「その空間で一番偉くて強いのは比奈ちゃんなのに、なんで親指の先しかない虫にお伺いをたてなきゃなんないの?」
「やめて…あたし…偉くなんかない…」
「偉くないなら、なんで座ってるのかな?」
「これは…、疲れたから、みんなにお願いして…」
「別にお願いなんかしないで、勝手にいきなり座って堂々としてても何にも変わんないと思うよ?」
「そんなことない…そんなことない…!」
「でも実際比奈ちゃん、虫の居場所のほとんどを奪ってるよね〜」
「だって!体が大きくて仕方なくて…それに大きく…みんなを小さくしたのは…」
「ほら、自分は大きいんだからこれくらい場所を取っても当然って思ってる」
「違う!!」
比奈の怒鳴り声にもビクリとする生徒達。

「ちょっとなーに?比奈ちゃん、あたしにとっては虫みたいな存在なの忘れてない?」
「……」
怒りと悔しさでまたうずくまる比奈。
「ほーら、あたしに言い返せない。虫っていうのはそんなものなんだよ?」
「…」
「いい?大きいっていうのは強いのと同時に偉くなきゃいけないの。ほんの少し大きいだけなら優しさでカバー出来るかも知れないけど、そこまで小さいのを相手に優しさ振りまいてたら、なんにも出来ないよ?」
「違う…ぅ……」
また泣き出してしまう比奈。

「そー。違うんだ。じゃあまだまだ出られないね。がんばってね」

真弓は去ってしまった。
比奈はぐすぐすと泣き続けている。
ここが比奈のテリトリーになっていることを生き物の本能で自ずと感じていた生徒達は、あれだけ無茶な言い方にでさえ説得されそうになっていた。
真弓の腰ぐらいの大きさになった時でさえ、全く真弓に逆らえなかった自分達が、今の比奈といつものように仲良くできるのだろうか?
真弓が来るまでは出来ていたと感じていた。
和気あいあいとやれていたと思っていた。
だがそれは無理矢理思い込んでいたのではないか?
思い上がっているのはもしかして自分達なのか?
そんな心が生徒達に、言葉ではなく感覚で湧き始めてくる。
まさか比奈も自分達を虫だと思い始めていたりはしないだろうか?
なんとか忘れていた怯えが少しずつよみがえる。



比奈は父親から「思い上がりは身を滅ぼす」と教育されていた。
戦争も独裁も、人間の思い上がりが生み出すと教えられていた。
『だから比奈には、やさしくて強い子になって欲しいんだ』
『つよく?』
『そう。強くてやさしくない人は思い上がる。やさしくて強くない人は、強くて悪い人から人を守れない。だからやさしくて強い、それが本当に強いってことで、やさしいってことなんだよ』
『力持ちになればいいのかな…?』
『はは、それは恐いなあー。』
『うーん…』
『それでね、思い上がった人は色んなことを忘れちゃうんだ。それを思い出させたり教えたり、そういうことを正しく出来ることが強さでやさしさなんだよ。…ちょっと難しかったかな』
『むずかしい…』
『ごめんごめん。何でこんな話になっちゃったんだっけ?お父さん忘れちゃったよ』
『あ、おもいあがったんだね』
『うわ、比奈に一本取られたなこりゃ』
『あたし何もとってないよ?』
『うんうん、比奈は人の物を取ったりする悪い子じゃないよ。ははは。んー、じゃあ比奈は、お父さんが最初は何の話をしていたか、覚えているかい?』
『…なんだっけ?』
『うん、お父さんも忘れちゃったから強くは言えないけど。そんな時、人にものを教えるときは、自分も何かを忘れていないか、気をつけるんだよ』
『はーい』


比奈は小さい頃の父親との会話を、なぜか思い出していた。
何かを忘れないようにするために、思い出したのかもしれない。

「みんな…大丈夫だから…、あたしみんなのこと、そんな風に思ったりしないから…、安心してね…」
泣き止み始めた比奈が、自分の気持ちを確認するように言う。

「…ヒナ、大丈夫、あたし達だってヒナのことそんな風に思ってないから、ヒナも安心して!いつものヒナでいいんだよ!」
クラスメイト達もコクコクと頷く。

「みんな…。ありがとう…」
クラスメイトの暖かさが、不安や緊張を解いてくれる。



・・・グルゴウゥゥゥゥ



真弓の声ではない、小さい雷鳴が響く。
「…?」
生徒達がキョトンとしている。

比奈を見る。
目をパチクリとさせ、生徒達の少し上を見ている。
顔が真っ赤だ。
「え、ヒナ…、まさか…今の…」


「…あは、アハハハ、お、お腹空いちゃったね…、あはは、あ…。…。…やだもー!!」
腕に顔を埋める比奈。
生徒達も笑う。
すぐにいつもの雰囲気に戻って来れるのが、比奈の持つ魅力のひとつなのかも知れない。


--


30分

「でも…ほんとにお腹空いたね…。それに喉も…」
「あー俺なんで飲み物カバンに入れっぱにしちゃったんだろ…。くそ」
「いや、そりゃしょーがないでしょ…」
「ボタンをなめろ。唾が出る」
「お前それこの間の映画じゃねーか」
「腹減った—…」

生徒達の話題は空腹が支配していた。


「あっ!」
比奈が突然声を出す。
「ヒナ?どうしたの?」

「あたし確か…」
ポケットの中をまさぐる比奈。

「…じゃーん」
一瞬の遅れの後、それを確認したクラスメイト達から歓声が上がる。
比奈の左手にはボタンサイズのクッキーがつままれていた。
個数は二つ。
一つずつ裂くタイプのビニールに包まれている。
「ちょっと潰れちゃってるけど、砕けてる方がみんな食べやすいよね」
「ヒナ、サイコ—!」
「じゃあみんなのとこに置くからまた座るね」

四回目の座込が始まる。
立っているのも疲れるが、脚を伸ばせない状態の体育座りもお尻を痛めてしまう。
小さい生徒達はほぼ自由に座ったり寝転がったり出来るが、比奈の体はそうはいかなかった。

四回目ともなると生徒達も慣れたもので、何の指示もなく右奥へ速やかに移動していく。
移動が済んだのを確認すると、比奈は左足と右足を左奥へと置き、腰を降ろして行く。
四角形の空間を斜めに使った座り方だった。

「最初からこうすれば良かった」と比奈は座る度に思う。
結局クラスメイト達には見えてしまうのだが、ど真ん中よりは精神的に大分マシだった。


ビニールを開け、中身をクラスメイト達の所へ置く。
「はい、お待たせー」
巨大クッキーへ皆集まっていく。

「やばっ!みんな、マジかわいいんですけど…」
「ちょ、小山、かわいいとか言うなよ!」
西浦が噛み付く。
「いやー、だいぶかわいいっすよ?」
比奈は西浦の頭を軽くちょんちょんとやる。
西浦は内心、巨大すぎる指に一瞬ヒヤリとしたが、口には出さなかった。

比奈はもうひとつのミニクッキーの封を開け、口へ放り込む。

「お、ヒナさん。この巨大クッキーを一口で食べました。さすがですねー」
「ちょ、ちょっと昌美やめてよ、しょーがないでしょ!」
生徒達に笑いが起こる。




ふと比奈が自身で気付く。
なぜ20人もいて、クッキーの二分の一が自分の分なのか。
それも、無意識にそうしていた。


自分は大きいんだからこれくらい場所を取っても当然って思ってる。
そう真弓に言われたのを思い出す。

いや、違う。これは真弓に無理矢理されていることなのだ。
クラスのみんなは一枚でお腹一杯になるだろうし、これは元々自分のだ。
思い上がりなんかでは決してない…。そう考えながらも比奈は、少し自分を責めていた。

みんなの方を見る。
みんなでクッキーを食べている。
大きいことが役に立ったようで、少し気が楽になった。
今日は大分疲れた。
異常な疲労と、異常な状況が自分をマイナス思考にしているのかも知れない。

クラスメイト達をぼーっと見ながら、そう考え始めていた。






「あーヒナごちそうさまー。もう食べらんないよー」

「…」

「…ヒナ?」

生徒達の中では比奈の方をなるべく見ないということになっている。
しかし返事がないので昌美は比奈の方を確認する。

「…!!」

比奈は目を瞑っていた。

「ヒナ…!ヒナー!ヒナー!!ヒーナー!!」
必死で叫ぶ昌美。

「…?…あっ!な、なになに!?」
「ヒナ…眠いの…?」
「う…うん…。あ、ででも寝ない!助けが来るまで寝ない約束だよね!」
もし誰かが来たとき、普通サイズの人間と会話が出来るのは比奈がギリギリなのだ。

携帯の時計を確認すると19:52。高校生が寝るにはまだ早い時間だが、一日の疲れが睡眠を猛烈に要求していた。

比奈だけではない。
生徒達の中にも、腹が膨れ、うつらうつらとしている者がいる。

「み、みんなは寝ていいよ!あと一時間もしたらきっと見回りの人とか来るから、そしたら起こしてあげる!」
「う、うん。ありがと…」

昌美は返事をしながら、自分も絶対に寝ないようにしようと決めた。
比奈のことは多分自分が一番知っている。
そうでなくとも、比奈は女子の中でも寝坊や授業中の居眠りが多い方なのだ。

「ヒナ…がんばろうね!」
「うん!」


--


一時間

20:53
まだ誰も来る気配がない。
午後9時にもなれば、夜の見回りがはじまるのではないか。
それに、もうさすがに誰かの親が学校に連絡を入れてもいい頃である。
昌美はクッキーのチョコチップの部分を更に砕いたものを食べながら、少しずつ不安になっていた。

みんなの半分は寝始めている。昌美自身も眠い。
チョコの成分が目を覚ましてくれないかと、少し多めに取り、口に入れる。

比奈の方を見る。
起きてはいるが、心なしかさっきよりもまぶたが落ち気味に見える。
「…ヒナ!」

「…ん、なになに?」
「もうすぐ九時。気合い入れてこうね!」

「…うん。ありがとう昌美」

--

21:55

昌美達は今か今かと待つ。
見回りは多分10時からなのだろうと考えていた。
自分の学校の、それも日曜の見回りが来る時間なんてそうそう知らないものだ。

昌美も大分うつらうつらとしていた。
何かを待ちながらの時間は本当に長い。

比奈の方を見る。
左手で右目をこすり、左目をこすり、両手を膝に乗せて、その上に顎を乗せた。
それは比奈が机の上で寝る10分前の兆候に、よく似ていた。
まずい、比奈に大分限界が来ている。
目も半分しかあいていない。

「ヒナ!ヒナー!」
「…うん。寝ない…」
「ヒナ!手の上に顎乗せちゃだめ!」
「え、え、そうなの??」

顔を上げて手を膝の前に組む。
「うん。ヒナ寝るときいつもそんな感じだから…」
「うそ…、そう、なんだ…?」



--



「紺野…紺野、おい…」
ハッと目を覚ます。
…寝てしまっていた。
「え…渡部君…、そうだ、あたしたち小さくされて…」

ヒナを見る。
…寝てしまっている。

「俺も少し寝てたんだけど、目覚めたらみんな寝てて…」
「あ、ありがとう渡部君…」

渡部の右腕が痛々しい。
「ごめんね、今右腕大変なのに…」
「いや、もういいんだよ。右腕は半分諦めてる」
「え…?」
「それより、なんかすげー熱っぽいんだ…。俺もうちょっと横になるわ…」

そういい、渡部は自分の居た場所へ戻っていった。
「うん…」

諦めたというのはどういうことだろう…。

携帯を見る。
00:43
二時間は寝てしまったかも知れない。
ヒナはいつ寝たんだろう。起こすべきだろうか。
あまり起こそうと叫ぶと、ヒナ以外のみんなを起こすことになりそうだ。
それに、ヒナにとってはあたしの大声なんかより、誰かが来たときの足音の方が強力かも知れない。

それにしても…こんな時間なのに見回りひとつ来ない。
自由奔放主義な自分の親でも、一人娘が日を跨いで連絡ひとつなかったら、心配はするはず。

どうなっているのだろう。
助けは来ないのだろうか。
でも、さすがに明日になれば朝に先生や生徒が登校するはず。
それなら今の内に寝ておく方が正解かもしれない。

ヒナの方を見る。
ヒナは左に頭を寄りかからせて、目を瞑っている。目線は下の方だ。
あれは目が覚めたら首を痛めてるに違いない。
手は前に組み、あれだけ頑なに閉じていた脚が少し開いている。

両足先はくっついているので、こちらに足先が向かってくることは無さそうだ。

スースーと、起きているときよりも呼吸が長く大きい。
ヒナの寝息は大きい方ではないが、今は格が違った。

ズズ、と右脚がまた少し開いた。

「…!!」
恐ろしいことに気がつく。

もしあの右脚が重さで開いていけば、膝は壁にぶつかって落ちてこなくとも、前で組んでいる腕と手が右脚に引っ張られていき…。

手が外れて、落ちてくる…!

ズズ、とまた少し右脚がこちらへ接近する。
緊急事態だ。

「ヒナ!ヒナ!!ヒナー!!起きてー!!」
みんなが起きてくる。
ヒナは起きない。

「みんな…、みんな大変!ヒナが、ヒナが寝ちゃったの!!」
みんな目をこすりながら、状況を思い出してくる。

ズズ、ズとまた少しヒナの脚が開く。
もう手は指先でしか組まれていない。

それを見た生徒達が現在の状況に気が付き、一緒にヒナによびかける。
「ヒナー!お願い!起きてー!」
「小山ー!起きろー!起きてくれー!」

ヒナは起きない。
ヒナにとっては、小さい目覚まし時計の音にも感じていないのだろうか。

「ま、まずいよ…、あ、あのままじゃ手が…!」
「安全な所は…どこ!?」
ヒナから見て、手の落ちないような安全な場所を思い浮かべる。

手が落ちてこないと思われる場所は、部屋右角ギリギリか、その対角線の位置か。
しかし向こう側にも左手が落ちてこないとは限らない。
足の甲の上という案もあったが、斜めになったり、ほんの少しも動かないという保証も無かった。

そうなると、今とにかく確実に手が落ちてこない場所は…。
ヒナの踵と太ももの僅かな隙間だった。

「あ、あそこ…」
「ま、まてよ。わざわざ俺たちからあの場所に行くのは…」
「でもあそこしかないの!」

ズ、とまた少し動く。
「急いで!!」

生徒達は恥ずかしがりながらも、必死にヒナの座元へと走る。
目の前まで来ると、その部分の迫力はより一層だった。

間もなく太ももの塔が横に倒れ始める。
同時に右手の甲がさっきまで生徒達の居た場所へ落下する。


バンッ!!ガッガッ、ガガガガカガ・・・

「きゃああああああ!!!!!」
巨大クッキーが勢いよくはね飛ばされ、欠片を振りまきながら右角に激突し、生徒達の方へと滑ってきた。

目の前で止まる。
右隅にいても、クッキーに激突し大怪我していたかも知れない。



「…ん、んうん…」
悩ましい声が響く。
起きるのかと思われたが、すぐに寝息が戻ってきた。

生徒達は寝ている比奈に怯えていた。
落ちた手がわきわきと、少し動いたかと思うと、止まった。


--


空間は狭かった。
「…じゃ、じゃあ俺たちは、あっちに行くよ」
遠藤が比奈の右手の方を指差す。

「うん…」
昌美が返事をする。
「じゃあ、俺たちはこっちな…」


比奈は寝ている。

男子達の半分はクッキーの間をすり抜け、右手のある空間へやってきた。
「足があんだけでかいんだから、そりゃ手もでかいよな…」
手は空間の中央で、巨大オブジェのような存在感を放っていた。

比奈が無意識に手を動かすかも知れないが、全員があの場所にずっといるのは狭すぎる。
そして、居づらい。

残りの男子達は左の空間に集まる。

比奈の左手は左膝に挟まれ、落下はしていなかった。
しかし、いつ落ちてくるかわからないため、できるだけ隅に寄る。

生徒達の目はすっかり覚めてしまった。
比奈はぐっすりと寝ている。

「ねえ…比奈ちゃん起きないかな…。ちょっとこの格好は、かわいそう…」
「うん、だよね…」
昌美は叩いて起こすことを考えた。


ドンドンと比奈の太もも裏を叩く昌美。
「ヒナー!起きてー!」
思い切り叩くも、巨大な太ももはその弾力で衝撃を無表情に跳ね返す。
ただただ生徒達を見下ろす。

もっと敏感そうな部分が近くにあるのだが、そんな所を叩いて起こしても、フォローが出来ない。


「ねえ!起きて!お願い!」
無駄なのだと感じつつもドンドンと叩く。

突然比奈の右手が動き出した。
昌美の方へと接近する。

「キャア!」
昌美は間一髪避ける。


右手は昌美が叩き続けた場所をポリポリと軽く掻いている。
ゆっくりとクッキーに覆い被さるようになり、止まった。


比奈は寝ている。
股は恥ずかしがることもなく、開いたままだった。

「…」
昌美が一生懸命叩き続けても全く変化の無かった太ももの部分。
比奈が指で掻いた形に合わせてほんのりと赤くなっていた。
無力感を感じずにはいられなかった。


とにかく、右角の空間は広がった。
女子達もそっちへ戻る。


「…ん…」

寝息の合間に時折聞こえる、大音量の悩ましい声に悩まされながら、生徒達は再び寝に入っていった。


--


目が覚める。

あれ…なんで座って寝て…。

…。

そうだ。昨日のことは夢じゃなくて…。
あ…!

「み…」
みんなは角で寝ていた。

自分がすごい格好をしていることに気が付き、みんなにばれないよう脚を戻す。

首と左腕がスゴく痛い…。
携帯を取り出し時間を確認する。


7:28
うそ…。
誰も来なかったのかな…。
それともあたし気づかないで寝てたとか…。

申し訳ない気持ちになる。
どうしよう。結局朝になっちゃった…。





突然隅から電子音が聴こえる。
誰かの携帯のアラームかな。

何人かがそれで起き始める。
でも音は止まらない。
鳴らしてる本人が寝ているんだと思う。

「…あ、ヒナ、おはよう…」
昌美が起きて挨拶してくれた。

「お、おはよ…」
それでほとんどのクラスメイトが起きた。

…そんなにあたし声大きいのかな。



「……あ、わり…」
相山君が携帯を取り出してアラームを止める。


結局みんな7:30に起きた。
自分の上着を掛け布団にしたり敷き布団にしたりしてる人も、服を着始める。




「顔洗って、歯磨きたい…」
長谷部さんが呟いた。
そういえばあたしもそうしたかった。

「無茶言うなよ…。でも、それより俺…」
「…あ、俺も」
「あたしも…」
「トイレ…」
そういえばあた………。



--



「……あ、あたしも…」
「だよね…。ヒナもみんなも…。…!」

生徒達が事の重大さに気付く。
自分達は、恥と汚臭に耐えれば、隅ででもできるかも知れないが、そうは行かない人間が一人居た。


全員比奈の方へ向く。
困った顔が真っ赤だ。
それに、もじもじ、としている。
比奈自身は気取られないようにモジモジしているつもりだったが、ほんの小さい動きでも生徒達には大きいものだった。


「ど、どうしようか…ヒナ…」
自分達のもあったが、全員比奈の尿意が一番心配だった。

「あ、そ、そうだあたし…」
ポケットからガサガサと何か取り出す。

ポケットティッシュだった。
比奈はそれをパリと開け、一枚取り出しクラスメイト達の前にふわりと置く。

「みんな、それで工夫してやってくれたら、それを包んで、あたし上から外に捨てるよ」
「な、なるほど…」
「あ、ごめん、ちょっと立つね…」

比奈はその一枚を二枚にして床に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
この姿勢はちょっとまずい。

立ち上がり、伸びをする。
こんなに恥ずかしい朝は初めてだった。


「じゃあ、あたし中央に立つから、女の子こっちで、男の子は後ろでしようか…」
「あ、ありがとうヒナ…って言っても聞こえないか…」

男子達は巨大なティッシュを運びながら比奈の後ろへと向かう。


比奈の前面と背面で、巨大なティッシュを使った排泄の、様々な工夫がなされた。



「…、比奈ちゃん、どうするんだろう…」「わかん、ない…。かわいそう…」
目の前の比奈の靴下が、グニグニとうごめく。
それが女子達の同情を誘った。

様々な工夫のもと、ティッシュの塊が二個出来上がった。
包まれているとは言え、多少臭う。

「じゃあ、座るね…」
中腰時間が、いつもよりツラい。

比奈はもう一枚ティッシュを取り出し、その並んだ二個の上にかぶせるようにし、持ち上げ、丸める。


立ち上がり、上へ放った。
…上手くいった。

こうして、生徒達の恥ずかしい時間は終わった。
一人を除いて。


会話のために、仕方なくまた座る。
「ひ、ヒナは…どうするの…?」
事が済んだ生徒達は冷静にかつ慌てて考える。

「わかんない…やだ…、やだもう…」
明らかにモジモジとする動きが激しくなっている。

なんにしても、このままはマズい。





強烈な足音が近づいてくる。

「えっ!」
微かな期待をしながら、立ち上がる比奈。


「比奈ちゃん、もうさすがに潰したかな?」
「…」
真弓だった。
落胆と怯えの空気が広がる。

「そんなこと…しないです…」
色々耐えながら答える比奈。


「まだなの?じゃあまだ出られないね」
「まっ、待って下さい…!」

「……なに?」
小さい存在に呼び止められたのが気にくわないのか、明らかに不機嫌な声で返事をする。

「そ、その…。トイ、レ…」
それを聞いた真弓は一瞬キョトンとする。
その後、今までにないほどにニヤつきながら答えた。


「……しちゃえばいいじゃあん」

その声の抑揚が全員の頭に下品な想像を思い起こさせる。


「ダメ…ダメです…。絶対に…」
「じゃ、一人踏めばあ?そしたら出られるよ?」
「いや…いや…」
「じゃあ決まりだね。やだ比奈ちゃん、ひどすぎー」
「お願い…お願いします…!」
「あたしでもそんな酷いこと…、あれ、したことあったかな…?」
こめかみを人差し指で抑える真弓。
「出して…、ここから出して…」
「あはは、出しちゃえば? じゃあねー♪」

足音と揺れは去っていく。



「…もうやだ…、誰か、助けて…」

我慢しようにも、大きく動くとクラスメイト達が危ない。
それに全員、確実にこちらの様子を伺っている。


「いやあ…あ…」
大分限界が近いのか、手で壁も抑え始める。

「ひ、ヒナ…」
下から見るその比奈の動きは、その光景は、凄まじかった。







「……………も…もう…、ダメ…ェ…」
「!!!!」
比奈のそのセリフに、全員最悪の展開を覚悟する。

比奈はポケットティッシュを取り出した。
そこからシュッと一枚取り出し

「ぜっ、絶対にこっち見ちゃダメだから!!!!見たら許さないから!!」

こんな時ばかりは比奈も巨体を利用した脅しをする。
生徒全員回れ右した。


ハンカチも取り出し、ポケットティッシュの中へ上手く素早くねじ込む。
パンツを降ろし、取り出したティッシュの方ではなく、ポケットティッシュ自体を股間にあてがう。

「……」

ビニールから零さないよう、出量をうまく調整する。

静けさが、その巨大な染み込む音を生徒達にまで届けてしまう。

「……」
早く止まってほしい。


生徒19人の様々な排泄も、ティッシュ一枚で難なく済んだ。
が、こちらはティッシュが何枚も重なっていようと、更にハンカチが入っていようと、それにビニールと厚紙があろうと、全てを受け止めきれなかった。

溢れてきそうな気配を感じ始め、仕方なく、途中でストップする。




さっき取り出した一枚で、後処理をし、染み込んだハンカチとティッシュに加える。


「…」

上へ放る。


…滴を落とすことなく、上手く外へでた。が

ドシャッ!

という水気のある音が外から生徒達に聴こえる。

その音質と音量から、凄まじい水分含有量を感じとってしまう生徒達。
しかし比奈は全部出し切ってはいない。


スルスルと下着を履く音が響く。


静けさ。


生徒達は言われるまで振り向けない。



「…怒鳴ったりして…ごめん…」
昌美が恐る恐る振り向く。
顔が真っ赤なこと以外は大分落ち着いた比奈がいた。



--



座った比奈は、30分は喋らずうずくまっていた。
生徒達も気を使い、そのことは話題にしない。

「それにしても…もう8時半だよな…。誰か来ても良さそうな…」
「それに月曜だし、ありえないよ…」
「どうなってんの…?」

「おい…渡部、大丈夫か?無理すんなよ?それでなくても骨折れてるんだし」
「あ、ああ…、うん。じゃあ俺、横にならせてもらうわ…」
生徒数人の上着で布団を作ってもらい、右角で横になる渡部。

「まずいよな…高熱って。水もないし…」
「喉、かわいた…」
食料はクッキーがあるものの、水気を吸うため、皆あまり食が進まない。

「ヒナ…、ヒナも食べなよ。あたし達もうお腹いっぱいだし…」

「…。…ううん、いいの。あたしが食べると、クッキー無くなっちゃうし。それに、一口だから、そんなに変わらないし…」
「そう…、ごめんね。あたし達ばっかり…」

比奈は左を向いてうずくまっていた。
まだ恥ずかしさが取りきれないのだろう。

グルルゴウゥゥ…

「もう…やだ…」
恥ずかしさが麻痺しそうだった。

笑ってあげられる空気ではなかった。

「なんで…なんであたしだけにこんな事させるんだろ…」
比奈はスネて来ているのかも知れない。






「…ごめん。みんなの方が大変だよね…」
「ヒナ…」

みんな大分落ち込んでいた。


--


昼になった。


「あたし…あたしもう帰りたいぃ…」
長谷部朋絵が急に泣き始める。

「もう…、帰って、元に戻って平和に暮らしたい…」
愚図る。

場の空気が更に重くなる。

「なあ長谷部、我慢しろよ…。気持ちはわかるけどよ…」
遠藤がなだめようとする。


「…。もう、もう誰も助けに来てくれない…」
「やめろよ…」
「だってそうじゃない!おかしいでしょ!祝日でもないのに、昼になっても誰も来ないなんて!あたし、あたし帰りたい!」
「やめろって言ってんだろ!!!」
遠藤が怒鳴る。


「…空気悪くなるから、言いたくねーけど…。それ小山に、誰か殺せって言ってんのと同じ事になんだぞ…」
「…」

遠藤の言うとおり空気は重くなる。

助けが来ない以上、比奈が誰かを踏み潰さない限りここから出られない。
みな絶望し始めていた。

「…小山さん…ごめんなさい」
「…いいの、トモちゃん…。あたしだって本当に帰りたいもん…。でも、クラスの誰かを踏むなんて、もっとやだ」
「…」
「それと…トモちゃん」
「…?」
比奈が長谷部の方へ向く。

「ヒナ、でいいからね♪」
笑顔で伝える。
「…。本当にごめんね…小山さん…」
「だからヒナでいいってー」


「…さすがヒナ、やっさしーい!マジ泣ける!」
昌美が口を挟む。

「…昌美は小山さんて呼んでくださいねー」
「なんでよっ!」

クラスメイト達は久しぶりに少し笑顔になった。


--


夕方になろうとしていた。

喉の渇きと絶望感とが、再び誰も喋らせないようになっている。



「ごめん…また立つね…」
比奈が立ち上がる。



比奈もかなり限界だった。
比奈は喉の渇きに加えて空腹。
もう腹の虫も鳴らず、空腹特有の腹痛も消え、体力だけが減り始めていた。

壁に腕をつき、そこにおでこを当てる。

鼻でため息をついてしまう。





チラと下を見る。

クラスメイト達が横になっていたり、壁にもたれかかっていたりする。


"自分も横になりたい。"
正直な欲求だった。




右足先に一番近い女子が背中を向けている。
多分、東さんだ。
東さんはクラスで一番背の小さい女子だ。
大人しい子で、教室でもよく本を読んでいる。
その東さんの頭上に、ゆっくりと足の親指を置いていく。

グズブズリ

そんな感触がする。

それに気づいたクラスメイト達。
何が起こったかわからないような、とうとう来たかというような顔で東さんの方、自分の足先を見る。

「うそ…ヒナ…うそ…ヒナ…?うそ…!ヒナぁ!!…、いやああああああ!!」

昌美が泣き叫び、崩れ落ちる。


クラスメイト達は驚愕し、後ずさるが、誰も反撃をしようとはしない。
「なぜ」「どうしていきなり」
そんな感想が聞こえてくる。

居たたまれなくなって、もう一度右足を上げると、全員喋らなくなる。





…ダメだ…。
想像でもそんなことをしてはいけない。
比奈は自分がとうとうソレを頭に描いてしまったことを後悔する。


「誰かを潰せば実験は終わり。戻れるよ」
真弓が言ったその条件が、比奈に想像をさせてしまった。


顔を上げ、腕に視界を奪わせる。
"帰りたい" 正直な欲求だった。


--


19:42

二回目の夜になった。




強烈な足音と揺れが来る。


「まだかな?」

やはり真弓だった。


「…」
「潰した?」
「…」
「ねえ、なに無視してんの?あたしが一辺に全部潰して実験終わらせてもいいんだよ?」
「…潰して、ません…」
「あそう。じゃーねー」
そういってすぐに去って行った。


わざとだ。
わざと12時間も来ないで、
来てもすぐに帰って行くのだ。
絶望感を煽っているんだ。
本当に誰かを潰すまで終わらないと思わせるために。


--


20:00

「駄目だ…、腹痛い…」
「俺も結構、きてるわ…」
生徒達に第二の便意が来ていた。


「…」

比奈がYシャツに付いているリボンを外し始めた。

「ひ、ヒナ…?」
「ごめん、もうティッシュ無いから…、難しいと思うけど、これにうまくやってみて…」
比奈はリボンを四本にちぎり、一本置く。手で塀まで立ててくれた。


便意を訴えていた生徒達が、申し訳ない気持ちになる。

「俺、小山にそこまでしてもらったら…」
「いいの、みんなの服は一着しかないけど、あたしのは大きいから、ちぎればまだ…」

一人の男子生徒、伊藤敦士が服を脱ぎだした。
「お、俺はまず自分のを使う!」
シャツを地面に敷く。

「ま、待って!」
「止めるな!これじゃあ小山に悪すぎるよ!」

「それだけ小さいと、外にうまく投げれないの…」
「…」

すごすごと着直し、落ち込む伊藤。

「ね、だから気にしないで使って」
「小山…」
「大丈夫、言うまで絶対見ないから…」
「…戻ったら、絶対弁償するからな…」

生徒五、六人が用を足し、うまくくるんでいき、
あの時のロープで縛る。

それを更に包み、外へうまく投げる。
リボンは後二本しか無いから、次回も出来れば複数人で。ということになった。


「ところで…ヒナは大丈夫な…」
そこまで言って昌美はハッと口を閉じる。

「うん…」
久々に顔が赤い。
「ヒナごめんね…」
「…」

便秘中だった。

それは不幸中の幸いだったかも知れない。


--


22:14

二度目の睡魔がやって来た。

「ねえヒナ…」
「…どしたの?」
「実はヒナ、昨日寝てるときにね」
「うん」
「…ごめんなんでもない」
「え、なに?どうしたの?」
「ううん、ただヒナ今日寝る時は、手をお腹に置いて寝て欲しいの」
「そ、そうなの? …あたしもしかして何かした…?」
「いいのいいの、気にしないで」
「う、うーん…」

手をお腹に置こうと、組んだ手を外そうとする。
すると、脚が開こうとする。

「…昌美」
「うん」
「もしかして昨日あたし…」
「…」

もう今更感もあった。
が、どうにもこのまま脚を開いて寝るのは気が引ける。

比奈はまた手を前で組んだ。

「ごめんみんな…。みんな寝てからあたし寝てもいい、かな…」

皆了承した。



全員寝静まったと思われる頃、
手に腹を置いた。
…脚を開いてもこの体勢は結構ツラい。
昨日どうしてこんな格好で寝れたのかわからなくなる。






が、比奈は一時間で眠りに就いていた。




--



目が覚める。
全然疲れがとれていない。
みんなはまだ寝ている。
一番最初に起きることには成功したようだった。

脚を閉じ…体中が痛い…。
なんとか体育座りになった。

携帯を見る…え、10時28分?

ぞろぞろとみんな起き始める。
…とても寝起きの動きに見えない。
「…あ、ひ、ヒナ…おはよう…」
「…おは、よう…」

…もう忘れることにした。



--


朝のトイレは殆どの生徒が出なかった。
何人かはいたが、その生徒達の分はクッキーのビニール袋を使ってなんとか凌いだ。


12:30

「渡部…、大丈夫か…?」
「…多分、大分まずいだろうな…。熱も、酷くなってる…」
「水が無きゃ…渡部、お前…」
「…」

その先の会話はできなかった。
クッキーはまだあれど、水が一切無いのだ。

水がなければ人は三日で死ぬという話も聞いた。逆に水さえあれば三十日は持つという話も聞いた。
昨日までの雑談の時、誰かが喋っていたのだ。


既に一体何を待っているのか生徒達はわからなくなっていた。
二日間誰も来ない。
異常である。




心の奥底で「既に何人も死んでいるんだ…あと一人ぐらい…自分以外…嫌いなアイツを…」
そう考えている生徒は、悲しいことだがいた。

だがおくびにも出さない。出せない。
一度出してしまえば崩壊するだろう。何かが。




「ごめん…立つね…」
立ち上がる前に声を掛ける比奈。

だが前回座るときの右隅から移動している生徒はいなかった。



ふらりとして、手を壁につく。

昌美も、心配の言葉をかける気力を持っていなかった。



比奈にも誘惑は、ゼロでは無かった。疲労と現実が、立ち上がる度に想像させる。
足元のクラスメイトの誰かを踏む自分を。



比奈がショックを受ける。





「…あたし」
急に喋り始める比奈に、注目が行く。

「あたし…あたし…、何で踏めないんだろ…」
その発言にドキリとする生徒達。

「ヒナ…?」
昌美の声は届かない。

「違うの…、みんなをじゃなくて…あたしが、あたしのことを、何で踏めないんだろうって…」

一瞬比奈を疑った生徒は罪悪感を感じた。

「あたし、本当のこと言う…。本当は誰かを踏む想像、何回もしてるの…。そうしたら、自由になるのかなって…。でも、一回も自分が自分を踏む想像をしてなかった…。それって、あたしが自分のことを棚に上げてたってことだよね…。心の奥で、あの時言われたとおりに、自分を偉くしてたってことだよね…。それに気付いたらみんなに、謝りたくて…謝りたくなって…。ごめんね…、本当にごめんね…、本当に…」
枯れたと思っていた涙が出てきた。

「ヒナは…ヒナは本当に、偉いよ…」
聞こえないとわかりつつ、昌美は呟いていた。







あの足音と揺れが近づいてきた。

「比奈ちゃーん?もう潰したでしょ?」



「居川さん…」
「どうなの?潰したの?」
真弓は体力が有り余っている。
きっと何か美味しいものをお腹いっぱいに食べて、喉を潤すものをたくさん飲んで、ここへ来たのだろう。

その食べた物飲んだ物の何十分の一でもあれば、この空間の人間は全員満腹になれるというのに、一口も残さず、自分達の事を殆ど考えもせずに、平らげたのだろう。

それをもう五度ほども繰り返しているのだろう。



「なーに?その目?踏み潰されたいのかな?」
「はい…」

「…なにそれ、みんなと死にたいってこと? それ比奈ちゃんが誰か一人踏むより自分勝手じゃない?」
「違うんです…。あたしが潰されることで、みんなを助けられないですか…?」

「またそういうクサいこと言うー。ホントはそれで全員踏み潰して終わるところだったけど、やーめた」
「…」

「とにかく、それは無しだよー。比奈ちゃんが誰か潰すまで終わらないから」
「お願い…お願いです…」

「だめ。いい比奈ちゃん?もうわかってると思うけど、みんなはもう比奈ちゃんが誰かを踏むのを心待ちにしてるんだよ?」
「…」

「なにかと理由つけて、踏まない比奈ちゃんにイライラしてるんだよ?」
「やめて…」

「誰のことも踏まないから、みんな疲れて嫌になってる。間違ってでもいいから誰か一人、早く踏んで欲しい。
早く踏んで終わりにして欲しいって思ってるんだよ?    そこにいる人も」




真弓はこっちを指差して言った。


指が大きすぎて誰を指しているかよくわからない。

「もう比奈ちゃんはね、一人踏むことでみんなを喜ばせられる人間になってるの。それだけ立場が上になってるんだよ? なのに踏まないなんて、比奈ちゃん、ヒドいねー」
「わからない…全然、わからな、い…」
「あ、気づいたね? みんなのためを思うなら、早く踏むんだよ?じゃあねー♪」


真弓は去った。


「…」
久々に饒舌に喋る真弓に、少し説得されそうになった自分がいた。
疲れているからだろうか。
頭がうまく働いていないせいだろうか。
でも、もしそうなら、やはり自分自身を踏みたい。


「なあ…」
田島が口を開く。
「…くじ引きで、決めないか…」

その言葉に、宮崎晴敏が立ち上がった。
「なんでお前にそんなことが言えるんだよ…!」

田島も立ち上がった。
「んだよ、おめーもホントは終わりにしてぇって思ってんだろ!」
「うるせえ!お前が言う資格ねーって言ってんだよ!お前が変にあいつに突っかかんなきゃ、もっと違うことになってたかも知れねーだろうが!」
「んなわけねぇだろ!!」
「結局ビビって何も出来なくなったくせによ!」
「じゃあてめえはあの時ビビってなかったっつーのか!?」
田島が宮崎の胸ぐらを掴む。

「今更そんなことしてなんになるんだよ。お前が言うべきセリフは「どうかわたしを踏んで下さい、小山様」だろ?」

バキ

宮崎が吹っ飛んだ。
ように見えた。
実際は吹っ飛ばすほどの体力は残っていない。

「へ、殴りやがった。やっぱ踏まれるべきなのはお前なんだよ…」

止めるものがいない。
女子は頭や顔を抑えてうずくまり、男子は目線を外し自分が言ったり言われたりしているような気分になりながら、ギスギスしていた。


比奈も自分がなにをしていいかわからなくなっていた。
「ねえ…昌美…、PHS…お願い…」
「ヒナ…」

PHSのトランシーバー機能が繋がった。

「昌美…いま何が起きてるの…?」
「…田島君と…宮崎君が……」
「…」
「ケンカ…してて…」


「…昌美…あたし、あたし、どうすればいいのかな…?あたしどうするべきなのかな…」
「ヒナあ…。あっ!」

田島がPHSを奪った。
「小山、俺たち今からくじ引きする。それで当たったやつを…」
「だからお前が言うんじゃねぇぇ!」
宮崎が田島に体当たりした。

喧騒と、PHSが床に落ちる音が受話口から聞こえてくる。



「なんで…なんでこうなっちゃったの…。やだ…もうやだ…」
比奈は崩れ落ちそうになる。
が、それはできない。



自分は本当に踏まないでいるべきなのか。
いつまでも誰も踏まないでいたからこうなってしまったのか。
第一、なぜ踏み潰したりしなきゃいけないのか。

目を開けていられない。






二、三発の殴り合いの後、宮崎が倒れる。

「…クジだ。いいな」
田島が周りに目配せする。

「ふん、お前はクジで当たっても言い訳してそうだな」
宮崎を無視し、田島は生徒手帳を取り出した。
付属の鉛筆と空きページでクジを作ろうとする。




「いや、クジは、しなくていい」
渡部が入ってきた。

「なんのつもりだよ…」
「思ってる通りさ、俺が行く」
「カッコつけんなよ、今それ以上言ったら止める奴なんていないぞ。クジになりそうなんだから甘んじればいいんだよ」
遠藤が遠回しに渡部を止める。

「いや、俺は無事戻れても自殺する」
「は…」

「なあ紺野、小山呼べるか?」
「…やめてよ…渡部君…」

「…小山ー!小山ー!!」
渡部が自力で叫ぶ。
昌美は泣き出した。



比奈は様子にハッとし、PHSを耳にあてる。

「携帯…PHSの電池まだ残ってるよな。紺野、頼む貸してくれ」
「…」
「頼むよ」
「…」
「これ、だよな? 紺野。ごめん、借りるな」

「渡部、お前の覚悟はわかったよ。でも、もうちょっと待ってみないか?」

「小山は多分これを越えると、本当に誰も踏まずに衰弱死しちまうんだ」
「けど…」
「俺たちはクッキーたらふく食ってるけど、あいつ一口だけなんだぜ」
「…」
「その前に、俺も病死するしな」

遠藤はもう止められなかった。



渡部はPHS片手に比奈の足元へと歩いていく。

「小山…」

「え…」
受話口から急にかすれた男の声が聞こえてくる。

「小山、多分小山のことだから嫌だって言うかも知んないけどさ…、俺で終わりにして欲しいんだ」
「…、なんで…誰…どうして…?」
一人足元に向かって歩いてくる。
右腕に違和感がある。

「!…渡部君…?どうして渡部君が…」


「小山…、あの女の言うとおりなんだ。もう終わりにしたいやつがほとんどだ」
「じゃあ…じゃあひどいのはあたしだったの…?いつまでも誰も踏まないでいた、あたしが馬鹿だったの…?」
比奈は混乱してきていた。

「いや、小山は悪くない。小山は関係無いんだ」
「…?」
「小山は誰も踏んでなんかいない、一人心の弱い奴が自殺するだけだ」

「…渡部君…やめて…変なこと考えさせないで…」
「変なんかじゃない、イカれてるのはあの女だけだ。全てあの女がやってることなんだ。小山の意志じゃないんだ」
「…でも、それでも渡部君を踏むなんて…無理だよ…」
「もし何かの拍子に俺達みんな助かったとしても、俺は自殺する」
「…え…」

「俺ひどい熱が出てるんだ。これは多分、骨が飛び出してそこから雑菌が入ってきてる証拠だ。
もう二日も放って置いてる。多分右腕の切断は免れないと思う。ずっとやってきたギターも弾けなくなるんだ」
「…」



渡部は小山の右隣までやって来た。

「それに、…橘も、もういないみたいだしな」
「…」

「ほら、小山こっち向いてくれ。そうすれば左足で隠れられる」
「待って…お願い…」
「俺、今まで何度かあの女に刃向かって状況をなんとか出来るかもしれない時があって、それを全部逃げて来ちゃったんだ」
「…それは…」
「それは、実験さえ終わればなんとかなるかも知れないのに、女に刃向かうのはデメリットが有り過ぎるとか言い訳してさ」
「…」

「でも、それはまだ変わってない。今女に刃向かってる小山を、俺が無理矢理従わせようとしてるんだ。だけどそれで実験が終わる。それでみんなが救えるんだ。
なあ、こっち向いてくれないか。頼むよ」
「…」

「こんな所で俺が女に従わないでいたら、俺星野や河野に顔向けできないんだ。俺のためだと思ってくれよ」
「あたし…今踏んだら…この二日間が…。渡部君の右腕を、ほっとくことにしたのも…あたしで…」
「小山は優しすぎるくらいだ。間違ってるのはあの女なんだ。小山は何もしてないよ。俺の骨を折ったのもあの女だ」
「…」
「…」


五分の後、比奈はゆっくりと右を向いた。
渡部の目の前に巨大な右足先が現れる。
靴下の外からでも、その重量感は充分に感じられる。

「…ありがとう。あとはその右足を上げて降ろすだけだ。踵は上げなくていい。爪先だけでいいんだ」
「…」
「小山が踏むんじゃない。俺が、俺自身を踏むだけなんだ。小山なら気持ち、わかってくれるよな」
「…」
「小山はそれをあの女に叶えてもらえなかったけど、今俺はそれを小山に叶えてもらえるんだよ」
「…」
「あの女はやってくれないけど、小山ならやってくれるだろ?…頼むよ」
「…」

水門かとも思うような、ゆっくりとした速度で、足の親指が上昇していく。
渡部はスキを突いて、足裏の膨らんだ部分、親指の少し奥の部分へと入り込んだ。


渡部の姿が視界から消え、もう踏んでしまったのではないかと不安になる比奈。
「わ、渡部君…?」
「大丈夫だ。さあ降ろしてくれ」




踏む直前になることで、比奈の心が再び比奈を止めに来る
「…や、やっぱり…できないよ…」
「…小山、恨むぞ」

「…!!」
「そうでなくても、もう熱で死にそうなんだ。踏まなくても明日までには死ぬと思う。もしそうなったら、俺小山を恨みながら死ぬよ」

「…」
「俺だけじゃない、クラスのみんなが、そう思う。口には出さなくても、そう思い続ける」

「…」
「小山が足を降ろすことで、俺とみんなが、小山も幸せになるんだ」

「…あたし…幸せになんか…なれない…」
「じゃあ18人をこのまま不幸にするのか!!それが小山の幸せになるのかよ!!」
「……ぅ……ひっ…ぅ」


声が出せないほどに比奈は泣き始めた。



「…怒鳴って悪かったよ。
じゃあ小山、無事戻ったらさ、まず携帯とPHSを紺野と遠藤に買ってやってくれな。
金はカバンに入ってる俺の財布から出していいからさ。
そのあと、天気が良かったら、星野や河野、いや、今いないみんなをさ。弔ってやってくれよ。
頼んだよ」
「……っ…ぅ……っ……」


「さ、頼むよ」

比奈は片手で自分の顔面を抑えている。

「クッキー、ありがとな。  じゃあな」



いつまで待ってもその次の言葉は聞こえてこなかった。




渡部の目の前には、ほんの少し薄くなっている比奈の靴下裏が見える。



その周りの薄暗さがスッと濃くなり、渡部は目を閉じた。




ズチッ

想像よりもずっと軽い感触だった。
同時にPHSから聞こえる音がホワイトノイズに切り替わった。


比奈はPHSを落としそうになったが、それでも落とせなかった。




--




誰も何も喋らないまま、誰も誰にも目を合わせられないまま、30分が過ぎた。



「比奈ちゃーん、潰したかな?」
真弓が現れた。

「…」
比奈は顔を上げられなかった。

「あ、その様子はやっちゃったっぽいね。誰をやったのかな?」
「…渡部君…です」
「自分の意志で?」
「……はい」
「へーえ、渡部君かわいそ〜」
「…」

「じゃあ出してあげようかな♪」


真弓がキャップを左に回し始めた。
四方の壁の回転に、生徒達は中央に固まる。



少しずつ壁が浮き上がり、側面からも眩しい光が射し込み始める。


「はーい、お疲れ様ー」

キャップは真弓の右手の中に包まれていた。

巨大な台座の上に、比奈と生徒達が残っている。





比奈はゆっくり手を顔から離し、目を開ける。
上空以外の体育館の景色。

あの日から小さくはなっていないのに、とてつもなく広く感じられる。


二日振りに歩く。
体をどう動かして歩いていたか
一瞬思い出せない。

台座から降りる。
一歩、二歩と歩く。





「みんな…外だよ…。体育館だけど、外…」
自分の声が反響しない広さを、体中で噛み締める。

そしてみんなの方へ振り向く比奈。

台座の中央にはキャップの代わりに巨大な指が立っていた。





「みんな…?」
比奈は飲み込めていない。



声が響く。
「あはは、気持ちいい…。たくさんの人生があたしの指で…」

指を見上げていく比奈。


想像を絶する大きさの太ももより、上からそれは伸びていた。

その上に、二日振りに見る真弓の顔全体があった。

目を細め、ニヤニヤとした、あの顔があった。

「み…」
PHSを落とす比奈。


「あたし比奈ちゃんだけに出られるって言ったんだよ? それなのにあのおチビちゃん達、勝手に動こうとしてるんだもん」


一瞬真っ白になったかと思うと、真っ黒になった。

「あれ、気絶しちゃった?そんなにお腹空いてたのかな?あはは」





--





ゆっくりと目が覚める。

なんだっけ…。
体育館?
凄く狭い気がする…。

立ち上がる。

いつの間にか上履きを履いてる。
あたしのだ…。

足元にあたしのカバンがある。

…。

持ち上げる。
すると、下に何か書かれた紙があった。

拾い上げて読む。
かわいらしい字で色々書いてある。

『比奈ちゃんおはよ〜。実験に協力してくれてありがとね。比奈ちゃんはすごいね。二日も誰も踏まないなんて。別の学校では二時間でみんな踏んじゃった子とかもいたのに。』

あれは…夢じゃなかったんだ…。
じゃあ…みんなは…。


脚がすくんでそのまま座ってしまう。


手紙はまだ続いていた。
『でもとにかく、今比奈ちゃんは普通の大きさだから安心してね。それにお腹も空いてるでしょ? カバンにパンとお茶入れといたから食べてね♪ お土産も入ってるからね。じゃあまたね〜』
手紙が終わった。

裏面にもなにも書かれてない。

…。

カバンを少し開ける。
あたしの鏡や筆箱の間にコンビニパンが入っていた。
もう少し開けるとペットボトルのお茶も横になって入っていた。
その下に何かある。

取り出すと…スプレー缶だった。

「ひっ!」
あたしはその忌まわしいスプレー缶を投げ捨てた。

ガコンガコンと跳ね、舞台下までゴロゴロと転がって行った。

…。

PHSを取り出す。
ちゃんとポケットに入っていた。

電波は三つあった。
震える手で警察に電話する。

…繋がらない…なんで…。


友達の番号も繋がらなかった。

色々いじっても、なにも繋がらない。
電波はあるのに…。






15分ほどボーっとしていた。
パンを食べる気にはならない。



静かな体育館。



体育館中央に何かある。
ものすごく小さい、あの台座だった。


駆け寄り、目を凝らして中心を見る。

…何もない。
誰もいない。


色んなことを思い出す。
昌美やみんなの声が、聞こえてくるかのようだった。
体育館の静かさが、本当に聞こえているかのようにさせる。

…でも、何もなくて、何も聴こえなかった。



体育館には他にもう何もなかった。

キャップに入らなかったクラスメイトもいない。
どうなったのかな…。

クラスメイトを小さくして、酷い目にあわせてる居川さ……居川真弓を思い出す。

…。

あたしはスプレー缶を拾いに行った。

あんな、こんな物を置いていったら危ない。
ちゃんと処分してしまわないと、安心できない。

スプレー缶を拾い上げて、出口に向かう。


帰ったら、みんなに会える気がまだしていた。
全部夢で、家で寝たら、普通の一日が始まる気がして、帰りたくなった。


--


門を開ける。開かないことはなかった。

……ズババババリバリバリバリバリ!!

「!!!!!!!!!」

開けるのに合わせて凄まじい轟音がフェードインしてくる。

「なに!?なんなの!!??」
あたしは急いで廊下を抜け、下駄箱に着く。
音はまだ続いている。

下駄箱で上履きから皮靴に履き替える。

ハッとする。
みんなの下駄箱は…!

…皮靴が入っていた。


下駄箱を抜けて外に出る。
物凄い風が吹いていて、砂埃が舞っている。

バリバリバリバリバリバババババババ……

夕方だった。



上空を見たこともない茶色のヘリが飛んで行った。
大きい。
なんでこんな低く飛んで…!?
ヘリを目で追うと、奥にもう一台。

その先に信じられない…信じられなくもない、光景が広がっている。


民家の奥に、見慣れない制服の女の子がいる。
背丈がビルより高く、辺りを見下ろしている。
居川真弓では、ない。

「あはは…、あはは、私が、私が一番偉いのよ?まだわからない?」

大音量の声が、女の子の口の動きから少し遅れて聞こえてくる。
見たことのない顔だった。

「なに…これ…」
思わず呟く。

巨大な、今度は本当に巨大な女の子が、右側にあるビルを片膝で押した。

脚がビルに沈むように入っていき、ビルがグニャリと、パリパリと崩れていく。

…ゴゴゴゴゴゴゴ…

遅れて地響きのような音が響いてくる。

「アハハハハハ!ほら、こんな大きいビルも簡単に壊せちゃうんだよ?怖くないの?」

その地響きより大きい声が響いてくる。
あたしに向かって言っている訳ではない。
のに、聞こえてくる。


「…おい!おい!そこの君!」
フェンスの向こうから、知らない顔の、ヘルメットを被った自衛隊みたいなおじさんが声をかけてくる。

「君今まで何してたんだ!まだ逃げてないのか!もう電車はストップしてるぞ!」
「え…え…」

「…何にも知らないのか!?あんなのがずっと暴れてるっていうのに!!避難勧告はいつ出たと思ってるんだ!!」


そんなことは聞いていない。さっきまであんなに静かだったのに…。
あ、あの子が暴れてたの…?

「一人か!?はやく、早くしないとあいつがこっちに来るぞ!一緒に逃げ…」


自衛隊の人が急に黙る。
何かと思いそっちを見る。

「…そ…その、…そのスプレー……!お前……」
あたしの右手を震えながら指差す。
あたしはスプレー缶を持っていた。
「う、うわああああああああ!!!」
「ちょ、ちょっと待って…」
自衛隊の人は走って行ってしまった。


「ん?なにこれ?ヘリコプター?キャハハハハ!ラジコンよりちっちゃいんですけど?」

再び女の子の声が響く。

「15歳の女の子になにムキになってんのー?でも無駄だよ? …あ、それでも逆らうんだ?あはは」

年下…?
そういえば幼く見えなくも無い。

「ふーん。逆らうんだ?勝てると思ってるんだー?」
言葉から居川真弓を彷彿とさせる。

「じゃーいいよ、この大きさにも飽きてきたし。勝とうなんて思えなくしてあげる」

女の子はポケットからスプレー缶を取り出した。

「…え?え?!」
スプレー?
しかもどう見ても自分のと同じスプレー缶だ。


ブシュウウウウウウ!!

女の子が凄まじい量の、少し青みがかったガスを涼しそうな自分の顔に振りかけている。

途端、女の子の体が近付いてくる。

違う…、あれは、大きくなっている。スプレー缶と一緒に…。

女の子はさっきと比べて約3倍程の大きさになっていた。

「…あは、また音が小さくなった」

さっきよりもかなり大きい声が響く。
耳を抑えたくなる。

女の子が目を開けた。

「ねえ、そこの飛んでる虫さん?女の子のスカートなんて覗いて恥ずかしくないの、かな?」

女の子が声にあわせ足を振り上げ、ヘリの上に落とす。
ヘリが沈み、そのまま足元のビルまでが女の子の茶色い革靴で潰された。
ビルは足首ぐらいまでしかなかった。

…ズドドドドドドドド!!!

遅れて物凄い地震が起きる。
立っていられない。
フェンスに電柱が倒れてきた。
砂埃が舞う。

「あれ、地面沈んじゃったよー?もしかしてここの地面って15歳の女の子も支えられないのかなー?」



手紙を思い出す。
2時間で全員を踏んだ子…。


…。

あたしはスプレーを何もないところに少しだけ出す。

シュッ

…青い。

じゃあ…、これって…これってやっぱり…!!

「とにかく、今私のが見えてる所は全部ぺちゃんこにしてあげるね。罰だよ?」

もちろんあたしにも、見えていた。



夢は、悪夢はまだ終わっていなかったようだった。