コーヒーを飲んでいると、部長が口を開いた。
「ところで伊勢谷君、人体実験は好きかね?」
「嫌いです」
 即答し、何事もなかったようにコーヒーを口へ流し込む。熱い。ほろ苦い。我ながら美味しい。
 放課後の化学部室。火力とビーカー、水には困らない場所だ。こっそり持ち込んだ豆で、美味しいコーヒーを淹れる技術ばかり向上していく。
「そうか。残念だな」
 いつものことながら、ちっとも感情を含まない口調で部長がいった。いいながら、視線をアイスコーヒーの水面に移す部長。氷が軽く音をたてた。冷蔵庫に、もちろん私が作り置きしておいたやつだ。
「嫌いな人体実験をされるなんて、本当に残念だ。同情さえ覚える」
 ——このメガネはなにをいっているのか。
「その口が同情とかいうと薄ら寒いんですけど。されませんよ。人体実験なんて」
「その返答は予想できるものだったから、あらかじめコップの底に睡眠薬を塗りつけておいたわけだ。熱で溶けるやつ。君はいつもホットコーヒーを飲むしね。だから私のは平気」
 部長はアイスコーヒーのコップを眼前に運び、振って見せた。氷の音。
「あんたはなにやってん……で……すか……」
「うむ。そろそろ効いてきたようだ」
 そんなだから部員が集まらないんですよと、いおうとして、ろれつが回らないことに気付いた。そして、身体から力が抜けていくことに気付いた。まぶたが抗えない重さでさがってきて、身体が崩れて、最後に頬へ感じた冷たさはたぶん床の温度だろう。
 意識が、墨を垂らしたみたいに塗り潰されていった。



 ——これはたしか、春の記憶だと思った。
 入学して二週間、やっと右と左が分かってきた頃のこと。私はそろそろどのクラブに入ろうか決めなきゃなーと思っていた。そんな放課後の教室へ、部長がやってきた。ドアを蹴飛ばして。
 ネクタイの色から二年生だとわかった。放課後の教室の喧噪が、一瞬で静まりかえる。登場しつつ場を呑みこんだ部長は、靴音をたてながら歩き、私の席の前に立つ。
 わかっていることを確認するような口調で、口を開いた。
「伊勢谷 真名水くんだね?」
「は、はい」
 クラスの注目が私と彼に集中しているのがわかった。
「君が欲しい!」
「は、はいぃ?」
 彼は大声で宣言した。声量に、内容に、私は硬直する。いま、かれはなんておっしゃった? よく見ると意外とかっこいい。えっと、それは、つまり——?
 彼は情熱的に、謳うように言葉を続けた。
「データは見せてもらった。正直、震えが止まらなかったよ。身長、体重、学力、運動能力、体型、すべて全国平均値——これほど人体実験の被験者として相応しい対象がいるだろうか——いや、いない!」
「はい?」
「化学部は、貴重な実験た……貴い検た……得難いモルモッ……君を獲得するために如何なる手段をもとる用意がある。もう一度いおう。君が欲しい!」
 ……無言で放った私の右ストレートが部長のメガネをはじめて台無しにしたのがその時だったわけで。
 ……部長が校内でも有数の有名人……危険人物だったことをしばらくして知るわけで。
 ……「如何なる手段をもとる用意がある」の意味をそのあと思い知らされるわけで。
 色々あって、なかば生け贄を捧げられるようにして化学部にいれられて、そろそろ一年が経つ。



 夢を見ていたらしいが、途中で目が覚めた。
 どのくらい眠っていたかは分からないけれど、どうやら私はしゃがんでいた。辺りは暗い。まず立ち上がろうとして、頭が上にぶつかった。頭をおさえようとしたけど、手が左右につかえる。どうやら、箱に詰められているらしい。周りからは、箱越しにくぐもった歓声が聞こえてくる。
 状況がよく——まったくもって分からない。
『あの大爆発からはや一年。さああ、いよいよ今年もはじまりました各部対抗部費争奪トーナメント。互いの部費を賭けあって戦い、見事優勝した部には莫大な部費と名誉が与えられます』
 と、これは拡声器——マイクを通したような声。
『空手部 対 化学部。一回戦にして大本命とダークホースの対戦となりました。オッズは1.2:3.5。化学部は去年の優勝者である部長が出場停止とあって、空手部有利との評価が下されている模様です。どうでしょうか、解説の三浦さん?』
『はい。部員の少なさに伴っての部費の少なさに悩む部が中心になってはじめた本大会ですが、総力戦の形式をとる限りにおいては、部員の多い部が有利となるのは皮肉ながら必然ですからね。はい。空手部の黒帯十五名に対して化学部一人、このハンデは大きいでしょう』
『なるほど。……しかし、化学部の持ち込んだあの箱はなんなのでしょうか? 黒く巨大な、まさにブラックボックス業界の革命児! 黙々とアップを続ける空手部も、先ほどから意識せざるをえません! 会場の期待はいやがおうにも高まっています!』
 私はその時、暗闇の中に一人しゃがんだ体勢で、なぜにこんなことになったのか考えていた。
 ——ああ、そうか。あの外道のせいか。
 暗闇の中に浮かんだ幻のメガネが、理知的にレンズを光らせた。
 こめかみがいかりに震える。狭い中で、指を鳴らす。
 ——完全に平均値の身体能力に、残虐な性質一つ足すだけでここまで恐ろしい戦士になるとは思わなかった。
 包帯だらけの部長に以前言われた言葉が脳裏に浮かび、残虐さを発揮させているのは誰ですかと心の中で反論した。
『そろそろ薬がきれるころだが、目覚めたかね伊勢谷くん』
 だしぬけに外道の声がした。どこかにスピーカーが仕込まれてると見た。悔しいので返事せず、寝たふりをする。
「プッ……ククッ…………や、やめて」
『なんだ。やっぱり起きてるじゃないか。呼ばれたらちゃんと返事しなさい』
 どこかにくすぐり用のマジックハンドが仕込まれてると見た。とても悔しい。
「なんなんですかこれは! 今度はなにが目的なんですか!?」
『なに、すぐに分かる。起きていたようでひとまず安心した』
 通信がきれるノイズ。しばらくして、外から部長の肉声が聞こえてきた。
「さあ諸君、いまこそ化学部の秘密兵器をお目にかけよう。オープン・ザ・ボックス!」
 真っ暗な視界に、光が差しこんでくる。空気が流れこんでくる。私を閉じこめていた箱が、どうやら開かれていく。
 そして喧噪に包まれていた場は静まりかえった。そして私はまばたきした。
「え?」
 場所はどうやら学校自慢の室内プールのようで、凹みに水ははられていなくて、広さを全部使って四角いリングが張られている。誰が設営したのか、リングのぐるりには階段状の客席が設けられていて、観客がすし詰めになっている。
 そして私はリングの端にしゃがんでいて、紺色の、ワンピース水着を着ていた。あとはなんといったらいいか、周りが小さい。
 しゃがんでいるのに客席の最上段と頭の高さが似たような場所にある。15×25メートルのプールの、15メートルの幅が妙に狭い。正面の空手着を着た人達——多分空手部の人達を、膝と膝の間から見下ろすことができた。あ、一歩退いた。リングの脇で不敵な笑みを浮かべる部長が、しゃがんだ私の腰くらいの身長しかなく、私の腕くらいの胴の太さしかない。
 なんか、これは、ひょっとして、私が、巨大化している?
 会場が、沸いた。
『おおおおおおおおおおおおおっと、これは驚いた驚いた驚いたぁ! 歓声で、自分の声が耳に届きません! 化学部の運んできた箱からは、なんと水着を着た、身の丈数メートルの巨大少女が現れたあ!』
『あれは見たところ旧型スクール水着ですね。胸に縫いつけられた名札を見る限り、伊勢谷という名前でしょう。エントリーしている化学部選手と同じ名前です』
『解説ありがとうございます』
「……えーっと」
 私は、部長をわしづかみした。部長の腕と私の指が同じような大きさ。眼前に持ちあげた。なるべく笑顔を崩さないようにしながら、問いかける。
「これはいったい何事なのでしょうか、部長様」
「何事って伊勢谷君、特に運動能力に秀でているわけでもない君がこのトーナメントを勝ち抜けると思っているのかね? 相手は体の半分くらいが牛丼で構成されているといっても過言ではない、いわば牛だぞ」
「なんで、私が、こんな大会に出なきゃならないのですか!」
「なにしろ私は去年はりきりすぎて出場停止食らってしまってね。消去法で君が出るしかなかったのだよ」
「出場しないという選択肢はなかったんですか?」
「我々は部員二人の弱小部だぞ。負けても失うものは少ない。そりゃあ出るだろう……まあ、調子に乗りすぎて、優勝できなかったら君を元に戻すのに必要な道具も揃えられない状況だが」
 大した問題ではないと、ハハハと笑う。私は静かに、手へ力を入れる。入れようとする。
「おっとそんなことをしてもいいのかね伊勢谷君? いまや君が元に戻れるかどうかは五体満足な私の技術で決まるというのに」
 それを聞くと、部長を握る手に——力をこめることができなかった。うめくような声をしぼり出した。
「会計は——今度から私がやります」
「見上げた心がけだ」
『おおっと化学部、仲間割れかぁ! これを好機と見た空手部が、一斉に迫っているぅ!』
 実況の声に正面を見ると、空手着を着た人達がこちらへ駆け寄ってきていた。
 しかし——近づけば近づくほどに、小ささが目立ってくる。
「さあ、戦え! 敵を倒すのだ! 部費のために! 一生巨人で過ごしたくなければ! 優勝するのだ!」
 部長は緩んだ拘束から腕を出し、正面を指さした。自分の歯ぎしりの音が聞こえてくる。
「あー! もー!」
 どうやら、選択の余地はないらしい。屈した。
「戦えばいいんでしょ戦えば! でも、大きくなったからって負けたって、そんなこと知りませんからね!」
 しゃがんだままに、裏拳を横なぎに放つ。空手の射程外からとんでくるドラム缶サイズの拳に、なすすべなく空手部の人たち数人が場外へ吹っ飛んだ。
 ——あれ? たいした重さも感じない。かえす拳でもう数人、反対の場外へ吹っ飛ばす。リングからさらに数メートル深くへ、団子になって飛んでいった。
 まじまじと自分の手を見る。私が見る限り、普通の手だ。グーパーさせてみる。自分はいまきょとんとしていると思う。
『なにをしている巨大少女ぉ!』
 空手部は三人残っていた。半分以上の仲間を犠牲に、見えにくいところから距離を詰めていた。気付いたときには肉薄されていて、脚に正拳突きを放たれる。しまったと思った。反射的に目をつぶる。体勢が崩れて、座り込んだ。
 ……痛く、ない? 指で、つつかれているような感覚。そーっと目を開けると、三人は私の右足首を囲み、次々に正拳を放っていた。しばらく見ていたけど、どうも手加減している様子は見受けられない。突きを受けている足は、色も変わらない。
 囲まれてる方の足を、持ちあげてみる。……攻撃する対象を突然見失い、戸惑う三人が俯瞰でひとながめできた。もう届かないところにある足の裏を呆然と見つめる三人。
 ……心に余裕が生まれてくるのを感じた。
 持ち上げたのと反対側の足裏を三人に向け、まとめて場外へブルドーザーしてみようとする。
 まだ上を見ている三人の横から、押しつけた。三人分の感触を足裏に感じる。そのまま押し込んでいく。
 上から見ると、三人は迫る壁を押し返そうと懸命に頑張っていた。頑張っているのは見えるのに、抵抗する力を感じない。こちらはたいした力もいれていないのに、三人はずるずるとリングの端へ追いやられていく。
『これは……なんということでしょうか! 個人の片足が、三人の全身を凌駕しております。文殊の知恵もこの足裏には通用しないのか!』
 横から逃げだそうとする人もいたけど、かかとと指先を工夫して動かし、足裏を咬ませて逃げ出せないようにした。
 指先に、かかとに軽々と押さえ込まれる体。片足しか使っていないのに、三人がかりで為すすべがない。どんどん私の身体から遠いところへ追いやられていく。
 私はてきとうなリングの端へ向き直ると、そのまま一気に足を伸ばした。私の足が壁になって、三人の姿は見えなくなった。
 ——少しだけ、つまらない。
 そこから一息に足を伸ばし、足裏で押しきり、足首までリング外に突きだして、三人をまとめてリングから落とした。
 ゴングが、鳴った。
 その音にハッとした。なんか怖いことを考えていたような。
『強い強い強い! なんという強さ! 恐るべきは化学の力! 優勝候補筆頭、空手部の精鋭を、座ったまま、一歩も動かずにリングアウトさせてしまいました!』
 そんな大仰にいわれても困るのですがと、頬をかく。耳の近くから声が聞こえてくる。
「なにをしているんだね伊勢谷くん、次の試合のためにもさっさとリングを空けないか。円滑な進行に協力するのは参加者の義務だぞ」
 あ、そういえば部長を手に握ったままだった。その手が頬の近くにあったわけで、まあどうでもいいか。てきとうに放り捨てた。部長は空中で一回転して着地。
 リングから降りようと、私は、立ち上がった。
 ——うわ。
 座ってさえ高かった視界が、さらに高くなっていく。完全に脚をのばすと、天井の梁に頭がつっかえそうになった。確実に、いま会場で一番目線が高いところに頭がある。あー、改めて意識すると凄い数の視線を感じる。ちょっと恥ずかしくて、下を向く。
「勝、勝てるわけねえ……」
 足下で、さっきリングから落とした空手部の人が、仰向けのままにつぶやいた。
 たしかに、私も負ける気がしないと思った。そうなると気楽なもので、優勝する姿以外想像できない。元に戻れるのはほぼ確実だろう。
 体育座りして、会場の隅で二回戦の始まるのを待った。リングで行われている試合は、なんというか、熊が戦うクラッシュベアとか米が戦うコメブレードの試合みたいなようなものにしか今の私には見えない。あくび混じりでも負けるとは思えない。
 トーナメント表を見るに、四回勝てば優勝らしい。とっとと優勝しておうちに帰りたい。
 買ってきてもらった焼きもろこしが小粒ながら美味しい。
 部長は横で、一回戦で私に賭けていた札束を数えている。私は舌打ちした。お気楽なことに音楽でも聴いているのだろうか、イヤホンをつけている。私は舌打ちした。こちらの気も知らないで。私は舌打ちした。
 と、部長がこっちを見た。
「なにかいいたいことがあるならそういいたまえ」
「いーえー。別ッつにぃー」
「そうか。ならばいいんだ」
 つくづく皮肉の伝わらないメガネだ。擬音で首も絞めれそうな歯ぎしりをした。部長は不思議そうな顔でこちらを見上げてくる。
「ひょっとして——たこ焼きの方がよかっただろうか?」
 唐突に、その口端が吊り上がる。ほれ、というように、片耳からイヤホンを外してこちらに差しだしてきた。聞け、ということらしい。
 ——ただ、身長差がありすぎる。部長は両耳からイヤホンを外そうとしない。私が座って部長が立ってもコードは届かない。
 仕方なく、部長を肩に座らせた。と、不意打ちに首によりかかられる。たしかな重み、息づかいと体温が——唸りをあげて首を振る。
「こら、なにをする。イヤホンを挿入しづらいじゃないか」
 耳もとから聞こえてくる声。
 ああはいはいすいませんすいません。決してコチコチになったわけじゃなく身体を微動だにさせずにいると、部長が耳の穴にイヤホンを放りこんだようでなにか聞こえてきた。
「……どうするよどうするよ、オイ」
「この際俺らの得意な勝負を挑むってのはどうよ。バスケで」
「そんなの駄目に決まってるだろ……受けてくれたとして、勝てるか?」
「しゃがんでダンクシュートできそうだもんなあ。空手部見たろ? 脚一本が俺たち何人分の体積かわかんねえぞ。一回擦れちがったけど凄かった。ほんと丸太」
「ああ俺の横も通ってったよ。たしかに凄かった。幼稚園通ってた頃の保母さん見る視点の再現て感じ」
「バスケの話だけど、身長差を逆に利用してなるべく低いところでボールをまわすのはどうだ?」
「踏みつぶされる未来が見える」
「それにどうやって点とるんだよ。ゴール前に陣取られたら終わりだろ」
「点は入れられないし一回ボールをとられたら失点確定か。自分たちの間だけでボールまわすとして、百回やれば一回くらいは0-0で引き分けにできるかもな」
「二回目くらいで全員踏みつぶされる展開が見える」
「これだけ大きさが違うと、同じことをしても俺たちはただ被害を受けるだけなんだな……対等どころじゃない」
「待て待ていつバスケで勝負できることになったんだ」
「それもそうだ」
「じゃあ、正面から戦うのか?」
 …………沈黙。
 焼きもろこし吹きちらかした。耳もとで部長の声。
「盗聴器というものがあってだね」



 二回戦は相手のバスケ部が棄権すると伝えてきた。不戦勝だった。1.0:15.7のオッズは流れて払い戻しが行われているそうだがほとんど人がいない。それだけ売れなかったのだろう。
 自惚れるわけでなく、無理もないと不戦勝に思う。というか楽でいい。他の試合もこういかないだろうか。
 いかなかった。三回戦。準決勝。相手は棄権しないという。それどころか、盗聴機は早々に見つかったようでイヤホンからは雑音しか流れてこない。恐るべしサバゲー部。
 それでも——負けるとは思えない。
 私が立つと周りの空気が変わる。なんとも居心地が悪い。なるべく控えめに歩いた。遊ぶ気はない。早く終わらせようという一心でリングにあがる。私が乗って、リングが傾いた。
 いつの間にか部長の姿が見えないが、たこ焼きでも買いにいってるのだろうか。むしろいない方が助かるので丁度いい。
『巌流島戦法かはたまた無謀を悟ったか、なかなか対戦相手が現れません』
『私が思うに、これは巌流島戦法かはたまた無謀を悟ったかでしょう』
『解説ありがとうございます』
 サバゲー部はなかなか現れない。やっぱりまた不戦勝かと思っていたら、対面のプールの壁が弾け飛んだ。
「………………は?」
 もうもうと巻き上がる粉塵の奥、そこには——戦車がいた。
 キャタピラが地面を踏みしめている。長々と伸びる大砲からは煙がたっている。ギザ歯の並んだ口と、三角目のペイントがされている。
 私の太ももくらいまでの高さがある。寝ころんだくらいの長さがある。大きい。
 なんか戦車から勇ましい音楽が鳴りはじめた。
 戦車は地面にキャタピラの跡をつけながら前進してきて、リングに車体を乗っけてとまった。私に傾いていたリングが、向こうに傾く。
 なんか戦車からの勇ましい音楽が止んだ。
 砲塔が動いて、大砲の照準が私に向いた。……左右に動いてみると、照準が私を追いかけてくる。
『予想外に次ぐ予想外! なんと巨大少女に対しサバゲー部、巨大少女に対し戦車を持ち出してきましたあ! 我々はもしや、東映を見ているのではないでしょうかあ!』
『そういえばサバイバル部の部長は四菱の重役の息子さんでしたね。ええ、はい。つまりそういうことでしょう』
『解説ありがとうございます……おお、試合前は1.0:34.9だったオッズが、いつの間にか2.2:2.5に変動しております! 巨大少女と戦車、戦力は五分と会場は評価している模様』
 試合開始の鐘が鳴った。
「ちょっとちょっと、これいいの!? だって、戦車!」
 指さした戦車の、上を向いた大砲が火を噴いた。私の頭をかすりそうになりながら斜め上に飛んでいった弾は、プールの屋根を豪快に削りとる。なんか天井は螺旋のかたちにえぐりとられ、かなりの部分が持っていかれていた。……どんな技術?
「いまのは挨拶代わりだ」
 うわ、戦車がしゃべった。
「ふふふ。礼をいうぞ化学部。はじめはこんなものを出す気はなかったが、日本の戦車乗りたる者一度は巨大生物を相手にしたいという思いを抑えきれなくなった」
 お願いです。そんな思いは抑えてください。
 次は当てると、上に向いた照準が私に向き直る。冗談じゃありません。背を向けて、逃げようとした。命が大事です。負けでいいです。身長数メートルの巨大女として余生を生きていきます。
 ——少し、楽しいかもしれないし……いやいや、このくらいの方がどこかの馬鹿を止めやすいし。うん。
『おおっと、これは敵前逃亡かぁ!?』
 リングから降りようとする動きが止まる。私の進行方向に、部長が立っていた。どこかの馬鹿に止められていた。
 君には失望したといいたげに手を広げ、首を振る部長。懐から竹筒を取り出すと、口もとへ持っていく。部長の頬が膨らむと、先の穴から、注射器が真っ直ぐ飛び出した。
 注射器は、私の足に刺さった。なにか仕組みでもあるのか、後ろのピストンが、回りながら内へ内へと押し込まれていく。ピンク色の泡立つ液体が、私の中へ注射されていく。
 身体が跳ねるような心音。
「切り札を用意して戻ってみれば敵前逃亡とは……見損なっては困るな。切り札のひとつもなしに貴重な実験た……貴い検た……得難いモルモッ……可愛い部員を戦いに送り込むと思っているのか君は」
「どう思ってるかはよく伝わりました」
 一年前からなにも変わってやがらない。
『これはルール的に大丈夫なのでしょうか?』
『部長氏は出場停止とはいえ、これはリング外でのサポートに含まれます。セーフでしょう』
『なるほど』
 そういう部長の声が、小さくなっていく。……いや、そうじゃなく、私以外の世界がどんどん小さくなっていく……じゃなく、認めたくないが、私の身体が、更に大きくなっていく。
 頭が天井にぶつかって、まず膝立ちになった。それでも数秒で天井の梁が目線と水平になった。次に座った。それでも巨大化は止まらず、再び天井の梁が目線と水平になった。ふと気付くと、座っている私の身体の面積は戦車の面積よりも大きくリングを占めている。
 それでも巨大化はおさまらず、私はとうとう四つん這いになった。それでも止まらずに、正面へ向かって——戦車に向かって大きくなっていく身体。
「く、来るな、こっちへ来るんじゃない、うわああああ!」
 戦車が、後退しながら何発も弾を射ってくる。弾は、大きく身動きとれない私の、肩に、腕に、胸に直撃してくる。が、痛くない。どこかから底知らずのエネルギーが巡ってきているようだ。
 ——リングの上を、私の身体が覆った。ついに、背中が天井につっかえた。
 額を下につけ、上下逆さまの視界で、影の中の戦車を見ていた。
「く、くそ。じわじわと潰すつもりか。そうは——いくか!」
 上への遊びがなくなって下だけに拡がっていく身体は、戦車からは天井が下がってくるように見えるんだろうな。
 戦車の大砲からドリルが飛び出した。明らかに大砲の穴より大きいドリルは強力な歯医者みたいな音を出して回転しはじめる。大砲が持ちあがって、ドリルが私のお腹に押し当てられた。身体を浮かせようとしたけど、天井の軋む音が躊躇させた。
 その隙に、ドリルが私のお腹へ押し当てられる。そして折れまがる。
 …………目が点になった。歪んだドリルが力なく大砲から抜け落ち、床にぶつかり乾いた音を立てた。思わずじっと手を見た——普通の手だ。
 続いてお腹を押してみる——不本意ながら、柔らかい。
 だというのに、ドリルは布地越しの肌に先端をめり込ませて一瞬アリジゴクをつくった後、身体に押し返されて三角を歪ませたのだった。
 …………巨大化がおさまったとき、限りなく身を低くしての四つん這いになった私の背中では天井が軋みをあげていた。つま先と手の先が、リングの端から端までを横断している。たぶんはみ出している。
 戦車は、私の身体の傘の下に収まっていた。なにか——たぶん安全な場所を探すように、影の中を走りまわっている。リングの中には、もう、そんな場所はないのに。
『なんという大きさでしょう。これは……人間が、これだけの大きさとなることが許されるのでしょうか』
 さすがにこれは……と自分でも思う。さっきまではの自分さえ、今の私から見ればこびと以外のなにものでもない。いまでは、戦車は手につかめそうな大きさになっている。頭がくらくらして、身体を支える力が緩み、前のめりに傾く。
「うわあ、うわあああああ!」
 私の身体に潰されると思ったか、戦車は全速で後退して、リングから降りてしまった。
 決着のゴングが鳴った。
「あー、うちの馬鹿がご迷惑をかけております」
 決勝戦のまえに、他にどうしようもなく天井は外すことになった。いまは校庭に置いている。終わったら戻せばいいだろうと思うことにする。思わなきゃやってられない。
 座っている。肩より上が体育館の屋根があった場所より高い場所にあって随分見通しがいい。そしてまた部長の姿が見えない。もの凄い不安に襲われるけど、いたらいたでこちらの理性がきかなくなる可能性があるのでここは少しでもいい方向に考えるようにしよう。
 決勝の相手を立って待つ私は、膝から上がプールの壁で隠せていない。地面につけている左右の足だけで、リングの三分の一くらいを占めている。足と足の間に、何人並べるか考えたくもない。
 正直負ける気がまったくしない。さっきまではどこか現実感のある自信だったけど、いまはもう非現実的といってもいい自信だ。たしか相手は——拳法部。少数精鋭の実力派だけど、ミクロも関係ない。立てた指を向ければこちらの身体に触れることもできないだろう。
『オッズは0.2:99.0。もはや賭けとして成り立っておりません。会場から帰り支度をはじめる姿も目立ちはじめました——っと、これはどういうことだぁあ!』
 などと思っていたら、校舎の影から校庭に現れた拳法部に目を丸くした。服装はチャイナ服で、さっきなんとなく見ていた試合と変わらない。記憶の試合と違っているのは、大きさ。
 私と肩を並べるくらいの身長。長く伸びた影が、会場を呑みこんでいる。腰に手を当て、挑発的な表情を見せた。
「どうしたアル? ひょとして、自分が負けるはずないと思っていたカ?」
 うわあ、思っていたけど、なんというか、口調!
 プールの壁を一またぎして、垂れ幕みたいな裾を翻しながら校庭からリングインしてくるチャイナ服。
 二人がリングに向かいあって立つと、間の空間がほとんど残らない。
『なんという——なんという接近戦でしょうか! 本当にこのリングは、プールサイズなのでしょうか! もしや我々が小さくて、リングは1メートル四方もないものだったとでもいうのでしょうか!』
『絶対的アドバンテージだった大きさがなくなった以上、化学部と拳法部では化学部が不利と見ていいでしょう』
『これは分からなくなってきたぁぁああ!』
 足下が騒然となっている。しかし、私は不思議なほど平静を保っていた。
 これは多分、予想が正しければ——視線を巡らせ、探していた。そして見つけた。
 客席の影に隠れるようにして、目の前のチャイナ服と同じものを着た生徒と、うちの部長がいる。チャイナ服がうちの部長に封筒を渡した。部長は受け取った封筒を無遠慮に開け、中の——たぶん銀行券を数え、チャイナ服と握手を交わした。
「キシャー!」
 まともな言葉が出てこなかった。いまなら火もふけると思った。
 私は感じるままに、かかとを部長へ振り下ろした。踏みつけなかったのは最後の理性の力だったに違いない。かかとは部長のすぐ横の地面を陥没させていた。チャイナ服は腰を抜かし、部長はムッとした顔を向ける。
「なにをするんだね伊勢谷君。私は利潤の最大化を……」
「キシャシャシャシャー!」
「なるほど。そんなことより——よそ見をしていていいのかね?」
「そうアル。アナタの相手はこちらヨ」
 後ろから声がして、私の腰に手が回される。
「四千年スープレックス!」
 どうやら、いつの間にか開始のゴングが鳴らされていたらしい。
 一瞬だけ天井が見えて、すぐに床へ——校庭へ頭が落とされる。頭への衝撃に星が見えた。ブリッジになってるだろう相手の身体は、脚が会場に頭が校庭についているらしい。
 腰から手がはなされる。私の身体が、倒れていく。倒れていく身体が、壁とか客席とか、なにかとかを潰していくのが感触でわかった。
『近代建築がなす術なく腰に、尻に、太ももに潰されていくぅ! 逃げまどう客席と相まってまさに阿鼻叫喚! 化学部ダウン! ダウン! ダーウーン! 会場が、凄まじい震度で揺れております!』
『あー、太ももから下はリングにのっていますね。これは続行でしょう』
『解説ありがとうございます。……なんと、試合前は圧倒的だったオッズが、ただいま逆転しました! 試合の流れを反映したのでしょう!』
 ……ああ、まだリングに乗っているから負けではないらしい。でもいいやもう。もうほんとどうでもいい。
 あお向けの視界。足下に、随分大きな人影が立ちはだかった。
 拳法部の人だった。腕組みしている。スリットが風に揺れている。
「会場の方へ倒れ込んできて助かったネ」
 余裕がにじみ出る表情。
「さっきはつい手が出たケド、大きささえ同じなら赤子の手をひねるも同じヨ」
 おっしゃるとおりです。
「素人サンに技を使うのも気がひけるアル」
 はぁそうですか。
「だからここは、技を使わず勝負するあるね」
 拳法部の人は、滑らかに指を鳴らしながら笑った。
 はい?
 脚をつかまれ、リングの中へひきずりこまれる私の身体。
「ちょっと待っ——」
 腰の辺りにまたがる拳法部の人。あ、これ知ってる。マウントポジションとかいうやつだ。
「行っくアッルよー」
 拳法部の人は、手をわきわきさせた。
「ヤ、やめ——ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」
 くすぐったい! くすぐったい! くすぐったい!
 10本の指がそれぞれ別の生き物みたいに身体を這いまわる。身をよじってもマウントポジションから逃げられない。暴れる手足がいろんな所にぶつかっているらしいけどもうそんなこと関係なくてウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ。
『いたるところに破壊の嵐! そしてさらに、笑い声が会場を震わせております!』
『なんだか私興奮してきましたよ』
『解説ありがとうございます——おぉっと、これは! オッズの差がさらに! 100:2! 百対二です! 誰も彼もが拳法部の賭け札を求め、販売所へ押し寄せております! この命知らずどもが!』
「ヒブ、ヒブアッ……」
 もう耐えられない。ギブアップしようとして、
「諦めるな伊勢谷君。あの凶暴性はどうした。立ちあがるんだ!」
 いつの間に移動してきたのか、部長の声が頭の近くで聞こえてくる。視線を動かすと、自信満々な顔をしていた。拳法部の人はくすぐるのをやめ、部長を指さした。
「フッフッフ、無駄ヨ無駄ヨ、仮に立ち上がってきたところで、素人が四千年の奥義に勝てるわけないネ。第一、ソチラから手を組もうと——」
 しかし丸太のような指にも怯まず、強い意志を感じさせる口調でいいはなった。
「四千年など、しょせんは0万年に過ぎん!」
「ど、どこを四捨五入してるネ!」
 狼狽する拳法部の人を見ながら、私ははあ、そうですかと思った。部長のいうこの手の理論に突っ込んでいたらきりがないですよ拳法部の人。
「私が考えなしに敵方へ技術を提供したと思っているのかね?」
 部長は、メガネの位置を直した。
「さっき私が受け取っていたのは拳法部への賭け札だ。さすがに私と拳法部が揃って買いにいっては怪しまれるだろう? 予想以上に安く買えたうえ、金をドブに捨てるなと忠告までしてくれたそうだ。これまでに見せつけた圧倒的強さのおかげだな。ここまでオッズを育てた甲斐があった」
 あんた姿が見えないと思ってたらそんなことしてたんですか。
 そして考えるに私はこの瞬間だけのための生け贄ですか? 怒ってないから答えてください。ほんと怒ってないですから。心の声に答えるように、部長はピースサインした。怒っていいですね?
「——怒ってもいいと思うアルよ?」
 ありがとうございます。
「そしていま、売り場が混雑している隙を狙って拳法部の賭け札を額面の二割増しで売り払ってきた」
 完売御礼と告げる。
「ハィィ?」
 拳法部の人の声。
 部長は、いっぱいの紙を扇子みたいに広げてみせた。
「そして得た資金あるだけ使って買ってきたのが、この君への賭け札だ」
「なんですと?」
 私の声。
「戦いに赴くなら切り札奥の手最後の手段は最低持っておくものだ。切り札はさきほど使った。最後の手段は逃亡用。そして、いまから奥の手を使う」
 部長は、さっきも見た竹筒を再び取りだした。うわ凄い単純な奥の手。
「う、裏切ったアルか!」
「一面から見ればそういえるかもしれないな」
 ちょっとまたそれですかやめて。という訴えを無視して、寝ている私へ部長は注射器を発射した。
「させないアルよ!」
 チャイナ服の手が、注射器の前に立ちはだかった。手の甲を口もとにあて、勝ち誇るように笑った。刺さった注射器へ舌を伸ばす——
「フフフ、残念だったアルね。最後の手段とやらを用意した方ヨクナイカ? さらに巨大化してしまうアルよ? 裏切り者を容赦する気は——」
「問題ない。だってそれはアイスコーヒーだから」
 筒の中には、黒い液体が詰まっていた。
 拳法部の人が勝ち誇るのを無視してスタスタ歩いてきていた部長は、ピンクの液体が詰まった注射器を私の頬へ突き立てた。折れず、曲がらず、一気に刺さった。
「一応説明しておくと、この注射針は特別製だから刺さるのだ」
 どうりで痛い。部長が手ずから、泡立つピンク色の液体を私へ一息に注ぎいれる。
「よ——陽動アルとぉ!」
「どうだ? 伊勢谷君の淹れたコーヒーは美味しいだろう?」
 身体が跳ねるような心音。
 コーヒーの詰まった注射器が、砕け散るのが見えた。
 寝たままの身体が、雨だれを受けとめる水たまりみたいに拡がっていく。馬乗りになっていた拳法部の人の身体が持ち上げられていく。
 膝立ちになり、足の甲立ちになり、立ちあがり、つま先立ちになって、ついに靴が地面から離れた。一足に跳んで、私の身体から素早く飛び退いた。
 さっきまでは太ももから下がリングに乗っていたけれど、今は太ももの一部がリングに乗っているようになっている。頭は校庭なのに、足の先がプールの壊れていない側の壁についたのがわかった。
 せめて壊さないようにしないと。私は、少しでも被害を減らそうと立ち上がろうとする。
「ア、アイヤー」
 その言葉をいう人をはじめて見た——見下ろした。上半身を起こすと、座高だけで見下ろしていた。さっきまでの身長よりいまの座高の方が高いということで、浅く体育座りになった脚と脚の谷間から肩より上がのぞいているのが見えた。
 大きくなっていく身体が、さらに拳法部の人を深くに埋めていく——埋まった。中でなにか抵抗しているみたいだけど、さっきまで組み敷かれていた力を面影さえ感じない。ああ触られてるなという感触がある。
 立ち上がると、すでに拳法部の人の頭はこちらの膝にも届かなくなっていた。抵抗をやめ、ただ見上げている。全体像が見えない状態より横に立たれる方が戦意をくじかれるっぽい。
 普通の人はもう虫みたいにしか見えない。さっきの戦車はいまなら指二本でつまめると思う。
 そこからさらに、大きくなっていく。
 さっきと違い屋根もないので、立ちっぱなしのままに身体が大きくなっていく。折れ曲がらず、真っ直ぐと、ただただ視線が高くなっていく。もう下を見たくない。私はエレベーターに乗ってるのと思うことにする。エレベーターは上へまいっていき、展望台にのぼった時より高く、向こうの向こうの向こうまでよく見えるようになっていく。随分高いところまで行くエレベーターだ。高さ日本一かもしれない。
 仮にこの高さの身長があるとして。普通に歩こうと思えば、並の身長より数倍高いところにまで足が持ち上がるだろうという視界。
 遮るもののない風を受ける身体が心地いいと思うけど、決して現実逃避しているわけじゃない。このエレベーターに外壁がないのだ。なんて危険な!
『………………! ……?』
『————————————————』
『………………』
 足下の方での声はもう雑然としていて、マイク越しでさえよく聞き取れない。
「アイヤー」
 その中で、聞き取れる声がひとつあった。
 声に引きずられるように下を見た。しばらくピントがあわなかった。
 足二つがリングを圧し、収まりきっていない。プールを囲む壁は紙の厚さ。私の足から逃げたのだろうか、室内プールから溢れた人たちが、わらわらと校庭に散っているのが描点に見える。
 幻想が打ち砕かれた。地面からこの高さまでを補っているのは、私の身体だ。建物でもなく、私が浮いているわけでもない。
 拳法部の人は、足と足の間で、足につかまるようにして弱々しく、所在なさげに立っていた。
 つかまれている足を軽く振ってみる。つかまるが、しがみつくに変化した。
 うーん。少しでも大きさの差を縮めようと思い、しゃがんだ。
 しゃがみ、しがみついている拳法部の人に上から話しかける。小さな瞳は涙ぐんでいた。
「あの、降参してくれませんか?」
 ぶんぶんと首を振られる。
「借金までして高いお金を払ったアル、ここで退いたら大損ネ。こんなことなら、こんなことなら棄権すればよかったアルよ」
 ああ、あの外道の被害者がこんなところにも。共感できる。友だちになれそうだ。
 しかし、私だってすでに取り返しのつかないことになっている。心を鬼にして、勝利すべく腕を引きはがす。指二本でできた。頭の上で手首を重ねるかたちにして、左右の手首を片手で包むように握って持ちあげる。宙づりの状態だ。じたばたもがかれる。いじめてるような気分になる。誰も見ていなければやってもよかったかもしれない。
 ただ、いまは——リングの外、校庭の、誰もいないところまで運んで、手を広げた。校庭に尻もちをつく小さな巨人。ここからはわからないけど地面がけっこう揺れたようで、周りの何人かが一緒に転ぶ。
 その様子から、私は歩いちゃいけないなと思う。ゴングの音が、小さく聞こえてきた。



 表彰式後、化学部のV2を達成したという私は部長を手のひらに乗せていた。高いところの風に白衣のすそひるがえって、いかにも「それ」っぽい。耳を澄ませ、部長の小さい声を待つ。
「よくやった伊勢谷君。これでしばらくは予算を気にせず活動ができる」
 ねぎらいはいいから早く元に戻してくださいといい、わかったわかったと返された。
 生命線の辺りに注射器が刺さる。この時を待ち望んでいたのです。ピストンに押し込まれていく中身。
 全身がかゆく、熱くなった。あっという間に汗ばんでいく。動かせない部分のあちこちが痙攣を起こしている。
 身体に、変化が起こっていくのがわかった。
「あ、ああ、ぁぁぁぁぁ…………」
 違和感がおさまるにはしばらくかかった。
 未だに荒い息を整えていると、
「おお、成功だ」
 部長の声がはっきりと聞こえた。それはつまり——あれ?
 手のひらの上には、さっきと変わらない大きさで部長が立っていた。頭の上に二つ、膨らみを描いてみせる部長。
 その辺りに手をやると、なにやらふさふさげな感触が指先に——
「猫の耳を模したものを生やしてみた。様式美として尻尾もついでに。これで周りの音も不都合なく拾えるだろう。もうしばらくは、その大きさで実験につきあってもらえるというわけだ」
 肩から背中を見ると、尻尾が——純白の尻尾が、左右にくねり揺れていた。どこかから聞こえてくる重低音が心を揺らすような雰囲気。
「ん? 誰もすぐ元のサイズに戻すとはいってないじゃないか。少なくともあと三回の段階を経て——」
 胸の奥で赤いものが灯ったかと思うと、あっという間に炎は全身の内側へ燃え広がった。このこびとに対し全力全開の臨戦態勢をとるのに迷いはなく、いまこそこの力を存分に使うべきだと思った。
 まず、とびっきりの笑顔を浮かべ——
「覚悟はいいですかワン?」
 部長の乗った手を、迷いなく握りしめていく。
「君のそういうひねくれたところは嫌いじゃないぞ」
 握る勢いがわずかに緩む。
「そしてこれが最後の手段。しばしさらばだ。トゥッ!」