彼女の靴は大きかった。俺を足の指の間にはさむことができる彼女の事を考えると当然といえるのだが。
 30分前、修学旅行に行くとき乗った大型バスよりもずっと大きな靴——ローファーを俺の前に置き、指に摘んだ布の切れ端を適当に床に落とすと、髪をかきあげながら彼女は俺に言ったのだった。いつものように笑顔で。
「じゃあ、頑張って磨いてね」
 そして俺は与えられた布を使って、張り付くようにしがみついてローファーを磨いている。さっき見上げたときに見えたスカートの中身だけでは割に合わない重労働だ。
 あの青のストライプは、一本一本の縞だけでも俺の身長より幅があるんだろうなとぼんやり思う。
 靴を磨かせるべく彼女——晶が指先で摘んだ布。それは俺の体躯には余る大きさだった。
 たたんでたたんでたたんで、結果分厚くなった布を擦りつけるようにしてローファーを拭く。最大の力を込めて押してもほとんど凹まない。これが本当に革でできているのか疑問に思う。
 俺がどんなに頑張っても少しも持ち上げることのできないローファー。それを履き、なんでもないことのように歩く晶の力は今さらながら信じたくない。
 歩いてただけで、高速道路の高架を粉砕したというのは伊達ではない。
 というか、そもそも大型バスサイズのローファーが歩くときに跳ねる泥や水でどれだけ汚れるのかと聞かれれば、ほとんど汚れないと答えが出てくる。
 高速の高架を粉砕したときでさえ、飛び散った瓦礫は晶の衣服にほつれひとつつけることができなかったのだから。
 それでも靴磨きをサボることはできない。寝っ転がった晶が、頬杖ついてニヤニヤしながら俺を監視しているから。
 少し疲れた。手を休め、手の甲で額をこすりながら上を見る。悠々と俺を見下ろしていた晶と視線があった。
 半年前までは会話をするときこっちを見上げていた顔が、俺の視界を覆うようにして見下ろしている。
 口端と目元に押さえきれない笑みを湛え、晶は俺を見下ろしていた。
 晶の上半身はYシャツ一枚。制服のブレザーを脱いでいる。シャツのボタンも上からいくつかが外されており、そこから零れ落ちそうな胸の膨らみを見ることができた。
 手を動かしながらもついつい、視点が、そこにいってしまう。
「ん〜? なに? 靴のつま先も拭き終わってないのに、小さい優はもう疲れたの?」
 胸に向かう俺の視線には気付かなかったのか気付いた上でわざとこう言っているのかは分からない。どこか愉しげに、晶はやや俺のほうに身を乗り出した。胸の膨らみが強調される。
 晶のなにげない移動に——俺にとっては圧倒的な体積・質量の圧倒的な移動に、はからずもプレッシャーを感じた。意識していないのに足が一歩退く。
「エヘヘ〜」
 そんな俺の反応がお気に召したのか、晶の口から声が漏れた。
 なんか気に入らない。いつか絶対泣かすと心に誓いつつ、俺は作業を再開。
 ……拭いても拭いても作業が進まない。ちなみに三日に一度はこんな感じに靴磨きをさせられる。
 以前「なぜ俺にこんなことをさせるのか?」と訊いたことがある。
 晶が自分でやれば3分もかからずに終わる作業だし、やれと言っても俺が拒否すれば、無理に靴磨きをさせることを晶はしなかった。代わりに少し寂しそうな顔をするだけだ。
 なにも俺がする必要はないだろうと思って訊いたその際の答えは、
『ちっちゃい優がちょこちょこ動くのが見てて可愛いから』
 だった。
 ……まあ、わけも分からず家ごと100倍サイズに巨大化してしまった昔馴染みに対して俺がしてやれるのはこの位しかないわけだし。可愛いと言われるのくらいはまあいいかと考えて、なるべくは命令に付き合ってやることにしたのだった。
 俺は黙々と作業を続ける。晶は相変わらずニヤニヤ俺を観察していたが、急にもう片方の靴を持ち上げた。軽々と。片手で!
「ねえねえ、私と優とでどっちが先に靴を磨き終わるか競争しようか?」
 小動物をイジメルときのような表情でしたよ、はい。
「なにを言い出しやがるのかねこのアマは」
「ハンデは今まで優が作業した部分ってことで。じゃあスタート」
「俺はやめるぞ、もう作業やめるからなこの馬鹿女」
「やめちゃうの? ふーん……万が一優が勝てたらここに挟んであげようと思ってたのになあ」
 俺が拭き布を手放そうと思っている間に晶は腕を組み、Yシャツ越しに谷間を強調した。こいつ、さっきの視線に気付いてやがったな。ビルも挟むこともできるだろう深い谷間が形成される頃には俺は靴磨きを再開していた。
「単純……」
 空前絶後の勢いで靴を磨き始めた俺。ため息混じりに晶。一拍置いて、
「じゃあ私も靴用のブラシ持ってくるから、精々頑張ってね」
俺は返事をしない。黙々と手を動かし続ける。少しでもリードを広げておかねばならない。根性、根性!
 60メートルの歩幅で晶は玄関に歩いていった。しばらくして、地響きならして晶が帰ってくる。 手には牛より大きなブラシを持っている。
「ウワ、すごい勢いでやってるし」
 俺に驚きつつも、晶は自分のペースで靴を丁寧に磨き始める——



 結果は俺の惨敗だった。
 俺は約一時間かけてやっと靴のつま先部分を拭き終えた。それなのに晶はわずか数分でもう一足の靴を完璧に磨き終え、その上でご丁寧にも俺がへばりついた靴を持ち上げ(当然俺ごとだ)俺の拭いてない部分を軽々と磨き終えてしまっていた。鼻歌まじりで!
 おまけに俺がやったところはむらが見えるのに、晶がやったところはきれいな仕上がりを見せていた。
 ブラシをかけた後、埃をとばすために吹きかけられた息で俺もどこかに吹っ飛びそうになったぞこの野朗。
 ときに俺が10分かけて拭いた部分と同じ面積を、数回ブラシを往復させるだけで終わらせるのはさすがに反則だと思うのですよ僕は。コミッショナーはどこですか?
 決戦終了後、俺は大の字になって寝ていた。燃え尽きた。遥か高みにある天井の白さが目に染みる。
 俺と天井の間にコミッショナーの顔が割り込んだ。憎き敵がコミッショナーを兼任とはなんたることだ、おのれ。汗一つかいてない。
 俺を見下ろす表情はどこか物憂げ。テストの点が悪かった時なんかはこういう顔をよくしていたな、と。なんか不愉快だ。勝ったのだから、この俺を倒したのだからもっと嬉しそうな顔をしろ。
「えっと……ゴメンね」
 勝者が謝るな。なんか哀しくなるだろう。俺は大の字の状態からごろんと半回転。
「あう……怒ってる?」
 晶の声のトーンが下がった。だが俺は無視。
「…………」
 晶の手が、俺に触るべきかどうか、躊躇ってぶらぶら浮いているのが影の動きで判った。
「返事しないでいいから聞いて。優は……私を元気付けてくれるためにわざわざ勝負に乗ってくれたんだよね?
 わたしが急に大きくなって、世界の全部がちっちゃくて……戸惑ってたときと同じように……なのにさっきはちょっと調子乗りすぎちゃって……いつもこう……ごめんなさい」
 段々声が小さくなっていく。まったく仕方ない奴だ。
 俺は体を回転させ、大の字の体勢に戻ると言った。
「そんなに悪いと思うなら胸に俺を挟むのだ。さあ! さあ! フギョ!」
 セリフの途中で踏まれた。
 手触りのいいストッキング越しに、晶の親指がぐにぐに動き、俺の全身に圧力を与えてくる。
 靴の中の臭いを薄めたような、すえた臭いが漂ってきた。
「な、に、か、言ったかな? このこびとさんはァ!」
「ギブ! ギブアップ! まずい。このままではまずい。なにか、なにかが放出される! 内容物とか魂とか!!」
 ガシガシ足の指を叩く。びくともしない。
 最期にストッキングの感触でも楽しむべきかと覚悟を決めたとき、急に重圧が消えた。
「?」
「ゴメンね……あと、ありがとう。ほんとうに」
 見上げる俺に届いた声は、どこか泣きそうな響きを持っていた。
「だからそう思うなら谷間に俺をはさめとフギョ!」
 今度は意識が飛んだのだった。