「その……せ、先輩も、やっぱり、大きい方が好きなんですか?」
 声のよく響く、空気の澄みわたった秋口の帰り道。
 声のした方を——繋いだ手の先を見る。
 さつきちゃんと、目があった。うつむきながらも、ちらちらと視線を合わせてくる。
 手にいつになく力を込め、しっかりとこちらの手を握りしめてくるさつきちゃん。
 ——ふふふ、愛が痛いぜ。
 空いた手を、胸のあたりでもじらせていた。さつきちゃんはちらりと自分の胸に視線をやって、こちらの顔を見返して、もう一度自分の胸を見て、
「その……せ、先輩も、やっぱり大きい方が好きなんですか?」
 同じ言葉を繰り返した。
 …………把握しましたとも。ええ。把握しましたともさ。
 頭を撫でたくなる衝動を抑え、極めて理性的な回答を返す。
「大きいにこしたことはないけど、小さくてもそれはそれで好きだからさつきちゃんも自信を持って……」
 最後までいう前に、さつきちゃんが割り込んできた。
「大きいにこしたことはないですか……そうですか。やっぱり……先輩の部屋の、ベットの下にあった本みたいなのがいいんですね……」
 いつの間にか下を見ていたさつきちゃん。全身がプルプル震えていた。
「むしろ大事なのは大きさより……さつき、ちゃん?」
 つないでいた手を、さつきちゃんは振りほどく。そのまま帰り道と違う方向へ向けて走り出した。
「さつきちゃん、どこへ行くんださつきちゃーん! そっちには、そっちには!」
「……どうせ、どうせ走ってもかさばらないですよぉぉ!」
「バナナの皮が!!」
 さつきちゃん転ぶ。起き上がる。ほこりも払わず走りだす。
 遠ざかっていく背中へ手を伸ばす俺。届かない。
「ベットの下についてちょっと訊きたいことがさつきちゃーん!」
 走って俺も追いかける。
 ……新発見。さつきちゃんは、意外と走るのが速かった。あと足下には注意しようと思った。バナナの皮があったら困るから。転ぶと痛いし。
 息切れしながら帰った家。とりあえず、ベットの下は片づけた。
 うわぁ。



 後ろから追ってくる少年の姿がすでにないのは分かっていた。分かっていたが、どこまでも走りたい気分だった。
 夕暮れた街を、青い髪の少女が走り抜けていく。黒スーツを着た男と、出会い頭に衝突する少女。
 頭をさげる少女。応じる男。それからわずかのかくかくしかじかを挟み、男は少女に名刺を渡す。
「ココロのスキマ……お埋めします?」
 それから少しの会話が交わされ、別れる二人。
 少女の手には、渡された瓶が握られていた。



 あくる日。屋上。だし巻き卵はお弁当。
 だし巻き卵を箸に挟めたまま、さつきちゃんが今日三度目となるため息をつく。
 物憂げな表情。
 声をかけるのを躊躇われる雰囲気。昨日のことにはお互い触れようとせず、どこかぎこちない空気が流れている。
 そうしているうちに四度目のため息。
「そんなにすぐには効果ないのかなぁ……」
 箸を置き、半分以上残っている弁当を包み始める。
「もういいの?」
「あ……はい。なんだか、昨日汗をかいたら、軽く風邪をひいちゃったみたいで。先輩は、気にしないで食べてください」
 向けられた気弱な笑顔。どうも、釈然としない。
「ハ、ハクション」
 くしゃみをするさつきちゃん。
 ベルのような音が鳴る。
 さつきちゃんの昼の包みから、小瓶が転がり落ちていた。
 ころころと、こちらへ転がってくる瓶。拾い上げた。
 わずかな隙間を残して錠剤が詰まっているそれは、新しいものに見えた。
「あ、あの。それは……」
 さつきちゃんを見る。
 植木の鉢を倒した犬。
 なんかそんな顔してた。
 こちらへ伸ばすかどうかを決めかねた腕は宙をさまよう。焦燥と切願が入り交じった眼が震える。
 そんな反応されたら、気になってしまいますよ?
「あ……あの、…………先輩……それは、風邪薬です。だから、か、返して……」
 視覚の外から、小さくさつきちゃんの声が聞こえてきた。
 小瓶のラベルに眼を移す。

 ——ココロのスキマお埋めしますタブレット ブラック商会せぇるす——

 目をこする。もう一度見る。

 ——ココロのスキマお埋めしますタブレット ブラック商会せぇるす——

 ふじこ。
「…………A?」
「そ、それよりは大きいです!」
 ラベル裏に使用前→使用後があった。
【使用前】丸い頭。青い。
【使用後】猫の耳が生えていた。黄色い。
『猫型としての自分に自信が持てました。感謝の言葉もありません』
          写真提供:Dさん
「……いや。これは、F?」
 ふじお。
「そ、そこまでは大きくない、です……」
「たしか、Cだっけ?」
「は…………はぃ……」
 胸を押さえながらさつきちゃん。深くうつむいた顔が赤い。
 心の中でガッツポーズ。
 ……Cか。
 まじまじと見る……Cねぇ。
 腕に押さえつけられて、窮屈そうにしているさつきちゃんの膨らみ。に、違和感。
「あ……なん……か、変、で……す。私……」
 腕の枠組みが、胸へと食い込んでいくように見える。膨らみに上下から挟まれ、柔らかさへ埋まっていく腕。
 続いて、その身体が——大きくなっていく?
「あ、あれ? あれ? せんぱ、い?」
 俺とさつきちゃんは向かい合って座っている。が、さつきちゃんの声は上から聞こえてきた。
 さつきちゃんの座高は、屋上のフェンスより高くなっている。俺の身長より高くなっている。
 身体の横幅は、こちらが両手を広げても届かないように見えた。折りたたまれた足は、立てば俺をまたいで歩けるのではないかと思えた。
 制服、靴、ヘアバンド……さつきちゃんが身につけているものも一緒に大きくなっていくことに、直径が四十センチもありそうな弁当箱が降ってきて思い至った。
 ゴッツンコゴッツンコ。
 痛い。続いて落ちてきた箸に、頭部を襲われた。
「せ先輩、大丈夫ですか……」
 さつきちゃんの手が、こちらに向かって伸びてくる。
 頭を——撫でられる。
 この頭の感触が、指一本のものだとは思えない。手のひらで撫でられているような錯覚。
 妙に安らぐ心境の中、変な音が鳴り出しているのに気付く。
 梁と床が軋む音。建物の悲鳴。屋上へ、薄氷のようにヒビが入っていく。
 いまも大きくなってゆくさつきちゃんに、建物が耐えられなくなりつつあるようだった。
「ハクシュン」
 くしゃみ。一度に亀裂が広がる。風圧を受けて、こちらの体が倒れそうになる。
 さつきちゃんの座高は、見上げなければ胸元も見えないような大きさになっていた。
 さつきちゃんを中心に、屋上が凹んで行く。
「まずは、まずは落ち着くんだ!」
「は、はい先輩」
 頷くさつきちゃん。
 呼吸をシンクロさせ、深呼吸を繰り返す。動作は見事にシンクロし、屋上はさらにひび割れていく。
「駄目だぁ!」
「はいぃ」
 校舎より高い身長を持つ少女が、屋上に横座りしている光景はシュールなものだったに違いない。
「そうだ。まずは地面に降りるんだ」
 とにかく、このままではいけない。
「は、はい」
 さつきちゃんは立ち上がる。
 目の前で、巨大なさつきちゃんの身体が動く。
 何人かまとめて包めそうな手のひらが地面につく。ついた先から床はひび割れていく。ソックスに包まれた、白亜の柱にも見える脚が、上へ上へと浮き上がっていく。
 さつきちゃんが動くだけで自分がどこかに吹き飛ばされそうな、わたぼこりにでもなったような心境になった。
 目の前の靴。中になにが入ってますかこれには。車? 頭上の膝。膝蹴りなどしなくとも、のしかかるだけで相手を潰せそうに見える。スカート。……の、中までは見えなかった。
 それどころじゃない。それどころじゃない。
 三階建て校舎より長い脚を持つ少女が、屋上に、もじもじと立ちあがった。
 内股で、靴は内側を向いている。靴と靴の間にも寝そべるに十分なスペースがある。
 しかし、屋上はさつきちゃんが立つに十分なスペースも、強度もなかった。
「あわ、あわわわわ」
 さつきちゃんの声が降ってくる。足下の亀裂が、激しくなっていく。
「校舎から降りるんださつきちゃん」
「は、はい」
 さつきちゃんの脚は屋上のフェンスを軽く乗り越え、三階から地面までそろそろと降りていく。
 下の階から、驚きの声が伝わってくる。窓の上から一目で脚と判別できないほど巨大な足が降ってくれば騒ぎたくもなるだろう。
 もう一方の足が続き、さつきちゃんは地面に降りたった。
 進藤大地に立つ。
 ちなみに俺は屋上に立っている。でも、目線の高さがさつきちゃんの腰にも達していない。
 地面に立っているさつきちゃん。スカートの端が、屋上フェンスに引っかかっている。見えた。
「みずいろ……」
 色が声に出た。
「……みずいろ?」
 さつきちゃんの顔が後ろを向いた。きょとんと俺を見て、フェンスにひっかかったスカートが瞳に映る。
 その中身が、こちらに向けられていることを認識するかのように瞳が揺れた。
「イヤ——————!!」
 勢いよくその場に座り込むさつきちゃん。
 屋上が三階が二階が一階が、スカート越しの身体のもと、一息に押し潰された。
 地面が揺れる。崩壊する屋上に巻き込まれ、俺の体が浮く——落ちる?
 足下を見ると空。頭をしたに落ちていくのが分かった。世界はやけに鮮明で、一瞬にして思い出があふれ出す。砂浜、花火、姉妹、すれ違いと勘違い、誓い——眼を、閉じた。
 ……そして衝撃。
「痛く……ない?」
 たいして長く落ちてないように思える。死ぬときというのはそういうものなのだろうか? 経験がないので分からない。
「先輩……先輩、大丈夫ですか?」
 さつきちゃんの声が大きく聞こえる。近くから聞こえるというものでなく、マイクやスピーカーを通したような、純粋に大きな声。
「嗚呼さつきちゃん……キミに、綺麗になったベッドの下を見せられなかったのが心残りだよ。俺のことは隅っこに覚えつつ幸せに……」
「イヤァ、先輩——!」
「ギェェェエエエ!」
 万力のような圧力に、俺の体が悲鳴をあげる。両側から壁が迫ってきて、締め上げられているようだ。
 痛みに耐えかね目を開く。暗くて何も見えない。これが死後の世界というやつなのだろうか。それにしても痛い痛い痛い。
「ギブァップ! ギバーップ!」
「……先輩?」
 俺を締め上げていた壁の力が緩む。隙間から光が差し込んだ。
 光の中に現れたのは、巨大なさつきちゃんの顔。風にそよぐ髪の毛は、巨木の枝か葉のようだった。瞳に、涙を貯めていた。
 下を見ると……縮尺が違いすぎてよく分からなかった。手のひら? があって、俺はそれに乗っているようだった。
 さつきちゃんの小指に、俺の足は長さで負けている。
 柱と柱——指と指の間から下を見ると、さつきちゃんの折りたたまれた両脚が広がっている。その広さは、教室ほどもあるように感じられる。
 机や椅子がくぼみに乗っているのが見えるが、そんなにコンパクトに乗られていても困る。
「先輩……よかった……よかった。私……」
 頭が濡れる。バケツの水を浴びせられたかと思った。さつきちゃんの瞳から、涙が流れていた。
「ご、ごめんなさい」
 涙をぬぐうさつきちゃん。幅数メートルの目元を、指一本でぬぐうのはどうかと思う。
 ……察するに、落下中の俺はさつきちゃんに受け止められたようだ。
 そして俺の言葉からこちらが死んだと思ったさつきちゃんは、ぎゅっと俺を握り締めた、と。
 ……ふふふ、愛が痛いぜ。死ぬほど痛いぜ。
 どうしたものだろうか。
 手のひらから周りを見る。
 ——ほんとどうしたらいいものだろうか。
 校舎まっぷたつ。断面に挟まれるようにして、さつきちゃんが座っている。もうもうと土ほこりが舞っているが、それらはさつきちゃんの呼吸に吹かれてこの辺りまでは昇ってこない。
 下からの、見上げてくる視線が痛い。
 ——しかし本当に小さいな。自分が大きくなったわけでもないが、地面の連中を見てそう思った。
 さつきちゃんの足に押しつぶされそうだ。実際、足が動いたとしたら抵抗できずに——意味のある抵抗をすることはできないだろう。
 俺より高い場所にあるさつきちゃんの目線からは、どんな風に見えているのだろうとふと思った。
 もっとよく見てみようと、手から身を乗り出そうとする。
「せ、先輩……落ちたら危ないですよ」
 俺の前で、指と指の感覚が狭くなる。俺を落とさないようにという配慮だろう。
 ……腕で、閉じた指を押し広げようとしてみる。指二本というより人二人を相手にしているようだった。
 さほど力を入れなかったが、指の間は開いた。控えめなところが、大きくなってもさつきちゃんはさつきちゃんなのだと思った。
「せ、先輩、危ないですってば。落ちたら……」
 地面が傾く。さつきちゃんが、手を自分側へ傾けたようだった。
「えッ……」
 落ちた。バランスの崩れた体。靴の下にはなにもない。
 手のひらから落ちて、袖の中へ。後ろからトンネルへ落ちていくような視界。
「あ……せんぱ、い……や、やだ……」
 坂道を転がり落ちていった先——さつきちゃんの、袖の中。相当の距離を落ちたように思う。それが例え手首から肘までの距離であろうとも。
 人肌の温もり。温かい——そういえば風邪をひいたといっていた。なにかいい匂いがする。薄暗くて狭い。
 まずは姿勢を立て直そうとするが、狭さのせいで思うようにいかない。外からなにか聞こえてくる。
「先輩が……先輩が、中に入って……」
 足場も頼りない。なにか、ハンモックの上じみた不安定さ。その中で、楽な姿勢を模索する。
「ふぁぁ……駄目、あ、あまり動かないで……くだ、ください……もっと、ゆっくり」
 さつきちゃんの、やけに艶めかしい声が聞こえる。なんで?
 さらに動いてみる。嘆願するような声が、暗がりに響く。
「先輩ぃ……あまり、あまり、もぞらないでくださぃ」
 ——モゾル?
 なにやら耳慣れない言葉。
 どうやら、服の中でこちらが動くのが刺激になるらしい。が、そのようなことをおっしゃられても困る。そのままでいたら、絶対関節が悪くなる。
 もぞらないでといいながら、さつきちゃんは身をくねらせる——こちらはそれに振り回される。
 振り回され、崩れた体勢を整えようと動く。もぞらないでとさつきちゃんが身体を揺らす。崩れた体制を……この無限ループは何事ですか。
 多分四回目でループは終わった。
 その時、俺はさつきちゃんの二の腕と胴体に挟まれて身動きがとれなくなっていた。
 自分の身体を抱いているのか、肘より柔らかい部分と、胸の間にサンドイッチされている。
 片面では二の腕へ押しつけられ、もう片面では胸へ布越しに押しつけられている俺。
 俺は、芯のない柔らかさに包まれていた。身体の谷間に、全身が埋まっている。零距離の密着状態。
 手のひらに収まらないどころか、俺のつむじからつま先にも収まりそうにないほど大きく柔らかい胸……誰だ小さいとかいったのは。
 柔らかいのはいい——むしろ好ましい。ただ、万力のような圧力で押しつけられるのはあまりよろしくない。
 だって下手したら死ぬ。
 それをどうにか伝えるべく、トントンとリズムをとって体を動かし、信号を送る。さつきちゃんが知っているかどうかは賭けだったが、タップ——ギブアップの意思表示だ。
 柔らかくもしっかりと締め付けられた体を、どうにか動かす。さつきちゃんの弾力は、押せば押した分だけ押し返してきた。
 伝わってくれ!
「ひん……先輩ぃ、こんなところで揉……揉まな……まだ、お昼だし……」
 コミュニケイション失敗!
 さつきちゃんは腕に力をいれ、締め付けが強くなる。
 二の腕に押しつけられ、胸の中へ強引に埋めこまれていく。
 ひぃぃぃぃ。
 もがく。動かせる部分を、動かせるだけ動かす。結んで開いてする手のひらが、なにか巨大で柔らかいものをむにむに激しく掴んでいる。もがく足が、面を揉みほぐしている。
「そんな……激し……」
 さつきちゃんの腕へと、さらに込められる力。苦しい……もがく。
 いま時代は新しい無限ループに突入した!
 もうなんだか必死。
 軟塊に挟まれた足を腕を胴を首を顔を、わずかずつでも動かせるだけ動かす。
 こっちも苦しいが、さつきちゃんの呼吸も苦しい、なにかに耐えるもののようになっていく。
「先輩、先輩、先輩ぃ……」
 何度もこちらを呼ぶ。
「先輩………………ぁ」
 唐突に緩む拘束。腕と胸の間に隙間ができる。俺の体は落ちそうになるが、あわてて布越しに掴んだもの——ブラジャーの背ヒモだろう——で体を支えた。
 そのまま、さつきちゃんの服を掴みながらゆっくりと、滑るように下へ下へと向かう。
 地面へと降り立つ。
 頭がクラクラする。
 ふと思う。あの瓶はどこにいったのだろう——今は、そんなことを考えるよりやることがある。
 昼なのに暗い。暗いのは光が遮られているから。遮っているのはさつきちゃん。さつきちゃんは後ろに、視界一杯使って座っている。
 校舎のまだ無事な部分にもたれるようにして、ぐったりしていた。
 その呼吸が荒い。その顔が熱っぽい。風邪をひいてるといっていた。
 校舎へ向き直る。壊れていないのを確認。
 保健室へ向けて走りだす。
 薬は、バケツで足りるだろうか。



 瞼が重い。
 なんとか眼を開けると、天井。
 頭が、うまく回らない。体が、うまく動かない。
 窓からの、日差しが眩しい。
 時計を見る——朝より昼に近い。
 次第に頭がはっきりしてきた。思い出してきた。
 俺はさつきちゃんを看病していた。
 何百と結合させたタオルを(さつきちゃんが)プールに浸し絞り額に乗せ、身体を拭こうとしたら恥ずかしい自分で拭くと嫌がられ、買ってきたネギは首へ巻くに短すぎた。
 我ながら獅子奮迅の活躍だったことは間違いない。さつきちゃんの風邪も治った。ただ、その代償に風邪をうつされてしまったのだった。
 名誉の負傷だ。仕方ないと眼を閉じようとした時、窓から降り注いでいた日差しが突然に遮られた。
 窓越しに、巨大な瞳がこちらを見ている。
「あ、先輩……おはようございます」
 さつきちゃんが、二階の部屋を覗きこんでいた。
「おかゆができてますよ。こういう時は栄養つけなきゃ」
 さつきちゃんの指が伸びてきて、滑らかに窓ガラスを開く。閉まっていた錠が、鮮やかに吹っ飛んだのは俺だけが知っていればいい。
 続けて、巨大な指に挟まれたスプーンが部屋へ進入してきた。胴より太い指対普通サイズのスプーン。片方が冗談のように小さく見える。スプーンからは、湯気が立ちのぼっている。
 それからさつきちゃんは、澄み渡った空気の中、一帯に響き渡る大音量でいうのだ。
「はい。アーンしてください」
 熱が体感で四十度を超えた。言葉がうまく出てこない。
「あ、ごめんなさい」
 引っ込んでいくさつきちゃんの指。入れ替わりに入ってくる外の空気が身体を冷やして気持ちいい。
「いまフーフーしますからね」
 瞬時に四十八度を超える熱。外ではフーフーと強風が吹き荒れている。
「せ、先輩!? 顔が真っ赤ですよ? いま……いま、病院を連れて……病院へ連れて行きますから、頑張ってください!」
 窓から見える景色が、低くなっていく。
 さつきちゃんが家を持ち上げていたのだとはこの時にはさっぱり思わなかった。
 それからしばらくしての帰り道。まばらに雪が降る下で、肩に乗る俺にさつきちゃんは訊いてきた。
「その……せ、先輩も、大きい方が好きとかいって、ましたけど……今の私って、その……どうで、すか?」



 この時以上に、択一式選択肢の出現を待ち望んだことは生涯他になかったと彼は後に語る。
 冷えた道路に落ちていた瓶が、風に転がっていく。
 足下の瓶を拾い上げた黒ずくめのセールスマンは、笑いながら夜へ溶けていった。