春の身体測定では160センチメートルだった。それは間違いない。
 去年から1ミリも伸びてなかった身長に、月森 弥生18歳は成長期の終わりを感じたものだった。
 そして現在の季節は夏。ゴールデンウィークは過ぎ梅雨が明け、なぜ身長が160メートルになっているのかを弥生は疑問に思いつつ、今日の体育はサッカーだった。
 弥生の所属はクマさんチーム。ポジションはゴールキーパー。グラウンドの外にしゃがみこみ、指一本をゴール前に寝かせておくだけで終始無失点。しゃがんでいるのに地面とブルマに包まれた尻との間の空間は人間が立ったままくぐれるほどの広がりをもっている。
 なにかの拍子に、またサッカーゴールを横転させないように、再びうっかりゴールの鉄骨をゆがませることのないように、弥生の指とゴールの間には少しの隙間が空いている。
 ときたまイヌさんチームからのシュートが指に当たるが、集中しないと感じることができないほどの微細な刺激だった。
 イヌさんチームがうらめしそうな顔をして弥生を見上げた。その表情の中には嫉妬と羨望もいくらか混じっていることは、誰にも否定できない。
 義務教育を受けはじめてから今にいたるまでの体育において、もれなくお荷物だった自分がかつてないほど注目されている。
 ——そんな顔で見ないでよお。好きでこんなに大きくなったんじゃないんだからぁ……
 目をそらす。感情をなるべく表情には出さないよう努力する。
 かといってゴールキーパーとして手抜きをするのも自分が高慢な気がして嫌だった。
 弥生のお膝元で味方が、クマさんチームがイヌさんチームの陣地に向けてボールをおもいきり蹴り上げる。ボールはやや右寄りにセンターラインを越え、ゲームの攻守が入れ替わった。

 ゴールキーパーとしてはやることがなくなる。
 クマさんオフェンス部隊とイヌさんディフェンス部隊がボールをめぐって入り乱れるのを弥生はなんとなしに見始める。
 弥生の視界。
 先日まで肩を並べて歩いていたクラスメイト達が、しゃがんだ自分の更に眼下をせわしなく動いている。いつかの再放送で見たバンザイ地球大自然で見た、アリの行進のようにも見えた。
 続いて別の回で見た映像がぼんやり浮き上がってくる。
 ——現在最大の哺乳類はシロナガスクジラ……確か全長は30メートル。
 今の自分にとっては片手で持てる大きさだ。もう少し探す範囲を広げてみるとアルゼンティノサウルスとかいうのが出てくる。全長45メートル。肩の高さ6、8メートル。史上最大のトカゲだ。
「…………」
 弥生の座高は約80メートル。女子高生。アルゼンティノサウルス。全長45メートルで肩の高さ6、8メートル。史上最大のトカゲ。
 駅から少し離れた、住宅地のはじにつくられた高校。こうしてしゃがんでいたとしても座高約80メートルである弥生の身体をついたてるようなものは何もなく、学校から離れたところからでもこちらを見れば運動着の自分が視界におさまるのだと思い、意識せず弥生はうつむいた。
 いま弥生が立ち上がるなら、この辺では膝より高い建物はなくなる。街の中心部に行ってもふともも程度の高さのビルがぽつぽつとあるだけで、地上100メートルからの眺めが自慢の展望台が自分の腰辺りの高さにあるのを認識した時は泣きたくなった。


 弥生の思考が場を離れている間に、再度攻めあがってきたイヌさんチームからクマさんゴールへ向けてシュートが放たれた。サイドからゴールと指の間の隙間を狙って放たれたシュートはしかし大きく狙いからずれ、ボールはグラウンドの外へ放物線を描いて飛んでいった。


 意識せず、ただ歩くだけで人を跨ぐことができた。
 好奇心から手を伸ばした路線バスは、あっけないくらい簡単に片手で持ち上げることができた。必要以上に力は込めなかったはずなのに車体は軽く歪んでいたという。 シューズ2足は学校のプールを囲むフェンスの中にぴったり収まるような大きさだ。
 これまで何度も思い、どうにもならなかった思考が鎌首をもたげる。
 ——もうイヤだよう。こんなの……


「……生。……弥生!」
「……えッ?」
 クマさんチームメイトから弥生に声がかけられていた。右脳と左脳を堂々巡りしていた思考が一時停車する。
 イヌさんチームのシュートが外れたことによるスローインだった。
「え、ああ……うん」
 グラウンドから20メートルほど離れた芝生を転がっていたボールを、足を動かさず腕を伸ばすだけで弥生は摘み上げた。
 指とサッカーボールの対比が大きめのBB弾を摘んだ指にしか見えない。腕をグラウンドの中に戻す。
 大体30センチはあるサッカーボールを摘んだ弥生の指先は、小さいものを持っているときのようにプルプルとこまかく震えていた。
 縦80メートル、横40メートルの長方形グラウンド。
 スローインするにあたり、弥生がその気になれば一歩も動かずにイヌさんチームのゴールへ指が届く。
 ゴール前にボールを落とすのはさすがに不公平が過ぎる気がしたので、グラウンドの真ん中くらいにボールを落とそうかと弥生は考えた。
 スローインは両腕を使って頭の後ろから投げるものであるが、なんかまあ不可抗力扱いだった。弥生はグラウンド中央に向けて腕を伸ばす。
 クマさんチームのディフェンスとイヌさんチームのオフェンスが、高さ数十メートルの高さにかけられた腕のアーチを呆然と見上げる。グラウンドを這っていく巨大な腕の影の中に敵味方関係なく何人かが丸々呑みこまれる。
 そしてボールを指から離す数秒前、弥生の指の間で気の抜けた音をたててボールは破裂した。
 風に合わせてゆらゆら踊りながら落ちていく白黒の布地。
「えぇと……ゴ、ゴメンなさい」

 放課後。弥生はグラウンドの隅に体育座りで背中を丸めて小さくなっていた。落ち込んでいないと誰がいっても嘘になるオーラを醸しだしている。
 小さくなっているといっても小山ほどある大きさの体躯はグラウンドの三分の一を占領し、丸まった背中は体操着(白)と相まってゲレンデのように見える。
「うぅ……」
 またやってしまった。薬物反応なしにほとんどの陸上競技の世界記録のケタをいくつかずらして更新した身体の力(でも腕立ては3回しかできない)は、日常生活をおくるうえでは邪魔なものでしかなかった。持て余したものは吐き出すこともできず積もっていき、弥生を落ち込ませていた。
 地面に書くのの字の大きさはミステリーサークルですかこれはというレベルのものだ。ミステリーサークルが次々と増えていく。
 どうにかしなくてはならないものが色々ありすぎる。幸いといっていいのかどうかは分からないが将来の心配だけはしなくていいようだ。自衛隊と日本五輪委員会から日に三度はオファーが来るし、業界最大手の公告会社からも専属契約を結びたいと提案されている。
 しかし弥生にとってはもっと重要なことがある。クラスメイトの出席番号7番のB型の、歩く時は右足からの好きなものは酢豚の半年越しの……
「斎藤くん……」
 思わず口にでた。こんなに体の大きくなった自分を彼はどう思っているのだろうか——悲観的なイメージしか湧かない。それがブレーキになって直接気持ちを確かめることもできていなかった。
 ため息ひとつ。
「弥生、帰らないの?」
 気がつくと空は暗くなり始めており、グラウンドには自分以外誰も残っておらず、脇から美央が見上げていた。
「うん……もう少ししたら帰るよ。先に帰ってて」
 視線を外し、夕焼けを見ながら弥生が答えた。
「またあんたは落ち込んで……また斎藤のことでも考えてんの?」
 弥生の背骨がひきつった。
「なんで……」
「なんで分かったかって? そりゃ十年も親友やってれば大体のことは分かるさね……本当はあんたの口からいって欲しかったんだけどねー」
 昔から美央を相手に弥生がなにかを隠し通せたことはなかった。大人しく白旗をあげることにする。
「うん……」
 美央は手を髪の中に突っ込んでガシガシやりながら、
「ああもう昔っからあんたは一人で悩むのが好きなんだからまったくもう」
「別に好きってわけじゃ……」
 美央は弥生の言葉を手の平向けることで制す。
「知ってる? 斎藤、いま体育館で一人残ってバスケの練習中なの」
「……ないんだけど」
 弥生は体育館のほうを見た。校舎と渡り廊下でつながっている体育館の窓からは灯りが漏れている。
「そういうわけだからいまから告ってきなさい」
「えっ、そ、そんなぁ」
 美央は弥生の顔を勢いよく指差した。
「そんなこと言ってる間に半年経っちゃってあんたときたらその間にこんなにもうスクスク育ってくれちゃってじゃない。いまから半年経ってから後悔しない為にいま! 砕け散るなり花開くなりしておいた方が絶対いいから!」
「だ、だって……」
「人より158メートル背が高いだけで弥生のことを嫌うような奴なら最初ッから縁がなかったってことよ」
 ——美央のいっている事は分かる。私を心配してくれているのだろうということも。
「でも……」
「あーも−、だってとかでもとか禁止! ほら、これ飲んで気合を込めたらレッツゴー体育館!」
 美央は鞄の中から筒のようなものを取り出した。銀色に黒文字。
「……ビール?」
「そう。アルコールの力を借りて、ここでビシッと! いってきなさいマイフレンド」
「でも、私がビール飲んだって……」
 500ml飲んで今の自分がどうにかなるとは思えない。
「いいの! こういうのは飲んだっていう事実を確認することのほうが重要なの! ほら、確かブラボー効果とかスパシーバ効果とかいうやつ! これで弾みがつけばめっけもんじゃない!」
 言いながらプルタブをあけ、美央はビールを弥生に捧げ持つ。
 おずおず弥生はそれを受け取り、持ち上げ口に流し込んだ。舌先にほんのり苦味が広がる。500mlは舌が軽く湿る程度の水量だった。
「飲んだわね。よし! 弥生二等兵、私は魅力的って十回復唱したのち、体育館に突貫をかけなさい!」
 ——なんか頭の中がもやもやしたもので覆われてきている。
「私は魅力的、私は魅力的、私は魅力的、私は」
 ——二の段までは大丈夫だけど三の段がよく思い出せない。
「魅力的、私は、魅力的」
 ————眠い。
「ちょ、ちょっと弥生?」
 ——ああそうだ。思い出した。
「私は、魅力、的……」
 ——美央、それをいうなら、プラシ−ボ効果……
 弥生の身体がゆっくり傾いていき、地響きたてて仰向けにころがった。
 地面が大きく震える。
「うにゅう……」
 額から顎先まで真ッ赤になった顔は弛緩しきっている。枕かなにかのようにうなじの下に置かれたサッカーゴールは、重さに負け棒という棒がべきべきに折られて使い物にならなくなっている。
伸ばされた脚はグラウンドを越え、反対側のサッカーゴールをかすめ、校庭隅のテニスコートを越え、学校敷地のラインを示す金アミを押しつぶし、学校脇の道路にかかとがハミ出ている。交通量の多い夕暮れ時、たちまち渋滞が起こった。


「いくら弥生でもここまで酒に弱いとは思わなかったわぁ……ハッ、もしやこれが噂のブラボー効果?」
 美央にとっては遠くで、弥生にとっては伸ばした足の先で響く車のクラクションを聞き流しながら美央は一人仮説をたててみる。
 一人学会で2分の議論を経て仮説は否定された。多分天然だろうと学会のお偉いさんは口を揃えていい、美央もそれにあっさり同意した。
「まったく……こんなんじゃあんたが一人前になるまでお姉さん心配で彼氏のひとつもつくれやしないよ」
 寝ている弥生の身体の厚みは3階建て校舎の高さとどっこいどっこいくらいのものだ。一番高い部分、それなりに膨らんでいる胸の高さは明らかに3階部分よりも上にある。
 ——代われるものなら代わってやりたいんだけどねえ。
 でっかい妹分の二の腕のあたりをつっつく美央。
 ぷにょん。
 指に押されて肌がすり鉢状にくぼみ、指を引っ込めると弾力でくぼみが元に戻る。結構柔らかい。
「お、これは気持ちいいかも」
 ぷにょんぷにょんぷにょんぷにょんぷにょん。
 だからよーあれだ二の腕の柔らかさは胸の柔らかさとおんなじだって俺のダチのダチがいってたんだまちがいねえてめえ俺が信じられねえってのか。男子数人が教室でディスカッションしてたことを思い出す。
 ぷにょんぷにょんぷにょんぷにょんぷにょん。
「うぅん……」
 10分ほど続けていると弥生の口から細く声が漏れた。美央がおっと思う間に、弥生の腰から上がのっそり起き上がる。弥生が背中を叩いて払うと運動着についていた砂利が雨のように地面に降り注ぎ、手の動きで風が巻き起こった。
「うわっぷ」
 美央は人為的に起こされた砂嵐に目をふさがざるをえない。
 目を擦り、寝起きの顔でぐるりを見渡す弥生。その顔は変わらず赤く、目の焦点もうつろいがちだ。どこかで犬が遠吠えた。
「あー、おウマさんだあ」
 ふわふわした口調で弥生がいい、立ち上がって歩き始める。いい夢でも見ているような恍惚とした表情。おぼつかない足取りとでたらめな体重移動に地面は揺れ動き、校庭を慣らす用のローラーが上から踏まれ土の中に沈み込んで型をつくった。
「ちょ、ちょっと弥生!」
 美央の声は立ち上がった弥生には届かない。普段なら届くのだがいまや弥生の精神は幸せ夢気分。美央の声は途中で夢気分フィルターにカットされた。
 地面を揺るがしながら100メートルの距離を数歩で歩ききり、弥生の向かった先にあったのは体育館。
「おウマさーん」
 弥生は体育館にまたがり、腰をおろした。
「アハハハハー」
 果てしなく上機嫌。
 弥生のつま先から膝までは地面に沿って寝ており、太ももで体育館を両脇から押さえつけている姿勢。手は屋根につけ、自分の重さも考えずに残った体重をブルマ越しに体育館に押し付けている。
「おウマさんおウマさーん。ヒヒーンパッカパッカ」
 弥生は腰から上を前後に揺らし始めた。身体を動かすたびに建物が軋みをあげる。
 太ももに両脇から挟まれた壁に亀裂がはいり、ギシギシと亀裂が広がりはじめる。
 ブルマ越しの質量に天井もへこみ始めた。ガラス窓が何枚か弾けて割れる。ガラスの破片は弥生の太ももにぶつかりはするものの傷つけることはできず、キラキラ光りながら地面に落ちていく。
「アハハハハハハハ」
 体育館全体が悲鳴をあげはじめる。



 一人残って自手練をしていた斎藤君が音と震動に驚くと、体育館の側面と天井に異常が起こった。
 突然左右の壁が内側に向けて隆起する。まるで両側から超巨大な柱が体育館に向かって倒れ掛かりでもしたかのように。上からの圧迫感も感じる。と思ったら天井が大きくくぼんだ。縦横に張り巡らせられた梁の噛みあってる部分が砕ける音があちこちの天井から響く。
 遥か上空から、陽気な、笑い声のようなものもさっきから聞こえる……おウマさん? 一体なにが起こっているというのか。
 ガラスからは肌色の柱が上に向かって伸びてくのが見えていた。そのガラスが歪みに耐え切れず、弾けて割れた。
「うわっぷ」
 建物が悲鳴をあげて揺れる。地震だとしたら震源地がすぐ近くにあるような気がする。うまくいえないが、揺れているのではなく揺すられているような感じがした。
 このままではまずい。逃げよう。決めた瞬間、斎藤君の上に天井を突き抜けて巨大な手が落下してきた。パーの形に広げられた手のひらが、斎藤君の真上に!
 ……人差し指と中指の間に斎藤君はいた。もし自分のいた位置が少しずれていれば、指か手のひらに押しつぶされて大変なことになっていただろう。腰が抜けた。
 自分の後ろに、天井から下がっていた照明が一つ落ちてきたのが震動で分かった。


「あれぇ?」
 弥生の右手は体育館の屋根を貫通していた。
「ん〜〜」
 引き抜こうとして左手と腰に力を入れると、今度は尻を乗せている部分の屋根が大きく陥没した。
 大轟音。


 斎藤君が動かない脚を叱責しながらどうにか立ち上がろうとした時、自分を指の間におく手のひらから離れた天井からブルマに包まれた尻が降ってきた。バスケットコートより大きい桃。
 ブルマが地面にぶつかった衝撃で、斎藤君の身体が浮く。
 逃げなくては。なんとしても逃げなくては。


 またがっていた体育館の屋根が潰れ、弥生は女の子座りになっていた。
「んー、おウマさん壊れちゃったよぉ……」
 よろよろ立ち上がり、体育館を後ろに2歩だけ歩いたところで立ち止まり、
「眠い……」
 身体を丸め、段ボールに入った猫のような、グラウンドにすっぽり収まる姿勢で弥生はくぅくぅ健やかな寝息を立てて眠りはじめた。



 横から見るとM字型に中央が陥没した体育館。壁に空いたひび割れから人影がひとつ脱け出し、大急ぎで学校の外へ逃げ出していく。
「おー、斎藤無事だったか。一安心」
 それを離れた場所から美央は見ていた。
「さてさて、どうしたもんでしょうねえ……」
 体育館の残骸と安らかに眠る弥生とを見比べながら、美央の一人参謀本部は今後の対応を一生懸命考え始めた。