家族の絆は永遠に
作:BLADE




            ※※注意※※
【現代が舞台の、人の死に関する描写があります。当たり前ですが、】
【フィクションと現実の区別をハッキリつけてお楽しみください。 】



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◆1
夕暮れに染まる空。西日を背に浴びて、前に自分の影が長く落ちていた。
遠くから、カラス達のカァカァという鳴き声も聞こえてくる。
カラスも一日を終えて、自分達のねぐらに帰るのだろう。わたしも同じだ。
学校も終わり、スーパーで夕飯も買ったから、あとは家へ帰るだけ。
カァカァという鳴き声が真上を通り過ぎていく。見上げると、数羽のカラスが山の方へ飛び去っていくのが見えた。

――家族か、群れかな……わたしも同じなんて思ったけど、大違いだったかも……

片手にぶら下げている、使い古したエコバッグの中には、二人分のお弁当と幾つかの惣菜などが入っている。

――私も家に帰れば、家族が待ってるんだ……掛け替えのない、たった一人の家族が……

ぼんやりしながら歩いていると、いつの間にか家の近所まで帰ってきていた。
夕飯時だけあって、寂れた住宅街にはどこからか、醤油や味噌を使った料理の匂いが漂ってくる。

「明日香ちゃん」

一軒の小さい平屋建ての木造家屋を通り過ぎると、ガラガラと戸を開ける音がして、名前を呼ばれた。
通りすがりの挨拶ではなく、わたしに用がある口調だった。
振り返り声の主を確認すると、その家に住む人の良さそうな50代ぐらいのおばさんが、勝手口から顔を覗かせている。

「……遠藤さん、こんばんは」

会釈する。挨拶は大事だ。

「こんばんは。明日香ちゃんは、礼儀正しくていい子ねぇ……不躾に呼び止めた私が恥ずかしくなっちゃう」

「……両親に教わりましたから」

わたしがそう言うと、遠藤のおばさんは顔を微かに歪めた。

「明日香ちゃん…何か、困った事はない?…私でよければ相談相手になれるわよ?」

「…ありがとうございます。大丈夫です。何にもありませんから」

「でも……もう、半年になるんでしょう?私心配だわ……明日香ちゃんが――」

「まだ、半年なんです」

沈黙が降りる。
遠藤さんを遮ってしまって、自分でも驚いた。
遠藤さんも驚いたようで、ショックを受けた表情のまま固まっている。このままではいけない……。

「すみません、用がありますから、これで失礼します。お気遣い、ありがとうございました」

この場をくぐり抜ける為に、別れの挨拶とお辞儀をしっかりとした。

「…え、ええ……急で悪かったわね、ごめんなさい……私の話、分かってくれた?」

「はい、さようなら」

踵を返し、早足でその場を後にした。

「やっぱり心配だわ……」

その場に留まって、学生服の女の子の後ろ姿を見送る壮年の女性の口から、ため息のような言葉が漏れた。



~~~



ポケットから鍵を取り出して、シリンダー錠を解除し、戸を引き開ける。
戸はサッシに曇りガラスをはめ込んだだけの単純なつくりで、家自体も築年数が経っている。小さい木造の平屋だった。
戸をくぐり、鍵を閉め、靴を脱いで、その靴を揃える。この家に上がるお客なんていなくても、
一連の流れが習慣として体に染み付いていた。しかし、『ただいま』という挨拶はここしばらく、まともに発した事がない。
今日は幸いにして、玄関を入ってすぐ右手にある部屋のドアは、完全に閉まっていた。
中から微かに、獣の唸り声のような音も聞こえてくる。
静かに、足音を立てないように、左手にあるダイニングキッチンへ行き、
エコバッグの中から、自分の分以外のお弁当と惣菜を取り出して、机の上に並べた。
水切りラックからコップを手に取り、蛇口を捻り水を湛えて、コクコクと喉を潤す。コップ半分ぐらいを残して、小さく息を吐く。
コップを手に持ったまま、降ろしたバッグを持ち上げ、また物音を立てないように、キッチン奥の自室に向かった。

自室のドア――襖を閉め切ると、大きく息を吐き出した。本当に一息つける感じだ。
今日も様子を窺いながら、トイレと入浴さえ済ませれば、明日学校へ行く時間まで、静かに勉強したり、本を読んでいればいい。
部屋の電灯を点け、カーテンを閉めると、タンスの前でセーラー服から家着に着替え始める。
いくら着回せるからといっても、洗濯の機会が少ない現状では、セーラー服を汚す訳にはいかなかった。

Tシャツにスウェットパンツという、ラフな格好になってから夕食だ。
折りたたみ式の小さい机の上に、エコバッグからお弁当を取り出す。この机は勉強机でもあった。
今日の夕食は、ワンコインで優に買える値段のお徳弁当で、焼き魚の切り身、卵焼き、
小さいエビフライ、シューマイ、煮物、きんぴら、漬物というありふれたラインナップだ。
畳に座って机の下に足を伸ばし、割り箸を割って、お弁当をつつき始める。
野菜が足りなくて、栄養価が偏るかもしれないが、お腹が減っていればそれなりに美味しい。

――だけど、お母さんの料理には、遠く及ばない……

学校鞄の中からシンプルな写真立てを取り出して、食卓の上に立てた。
濃いピンク色に鮮やかに咲き誇る、見事な桜を背景に、桜に負けない満開の笑顔をしている親子――母と自分だった。
一昨年、まだ自分が小学5年生だった年の花見シーズンに、近郊の河津桜の名所で撮った、思い出の1ピースだ。

――こんな笑顔が、できたんだな……

今より幼くとも、こんな顔で笑っている自分が、俄には信じられない。
お母さんが、もうこの世界にいない事を、まだ信じたくない。
鼻がぐずり出し、涙が溢れ頬を伝わる。口に入って、しょっぱかった。

――お母さん……


もう――まだ半年なんだ。






◆2
わたしが中学生になって一月も経たない、4月のある日。
お昼も終わり、うつらうつらとしながらも、午後一番の日本史の授業を教室で受けていると、
勢い良く教室のドアが開けられて、見慣れない若い男の先生が飛び込んできた。
事務員の先生かもしれない。前に御用聞きで職員室に行った時、見かけたような気がする。
その先生は、教壇で日本史担当の先生に耳打ちで何かを伝えている。何やら深刻そうな表情だ。
それまでは静かだったのに、クラス皆してざわつきだした。

「平林!」

日本史教師の鋭い一声が掛かる。先生達の内緒話が終わったようだ。

「平林!早く来い!この先生についてけ!」

「は、はい!」

強く繰り返されて、自分が呼ばれているのに気づいた。一体何事だろう?
見知らぬ先生にも急かされて、教室の外に連れて行かれる。
1階の教室から別棟の職員室の方へ、足早に歩く若い先生についていった――何か悪い事をしただろうか?
居心地の悪い、胸の詰まる気持ちで歩を進めていくと、その先生に腕を掴まれた。

「な、何ですか?」

「とにかく急げ!緊急事態だ!」

びっくりして訊ねるとそう言われ、腕を引かれるままに早歩きでついていく。
連れて行かれるのは職員室ではなく、学校の駐車場だった――上靴のままなのに……。
促されて、その先生の車の助手席に乗り込み、シートベルトをする。
間もなく、運転席に乗り込んだ先生は、即座にエンジンを掛けて発進させた。
車中まで、精々早歩き程度の運動だったのにも関わらず、心臓は早鐘を打ち、胸の奥に鉛でも詰まったみたいだ。

「何も言わないで悪かった……事情があったんだ――」

「…………」

ドクドクという激しい鼓動が、自分のものではないようで、これでは落ち着けと言われても、とても無理だ……。
助手席から見える景色が次々に流れてゆく。

「平林のお母さんが、交通事故に遭って、病院に救急搬送されたそうだ」

鼓動に痛みが混じり始めた。気が遠くなり、望遠鏡を逆に覗いたみたいに、視界が小さく、遠くに感じる。

「気をしっかり持てよ。急がないと――」

遠い意識の中で、先生のその言葉はやけにハッキリ聞こえた。
その後に続く言葉がなくても、何が言いたいのかも、ハッキリと分かった。

分かってしまった。



~~~



病院に到着し、半ば肩を担がれるように連れて行かれる。手足には重りが入ったみたいに重く、動きが緩慢で、感覚がない。
受付で用件を告げる先生。ただちに看護師が現れると、痛ましい表情で頭を下げられ、病院の廊下を先導されて、その部屋に案内された。


ベッドの上に人型の膨らみがある。その顔は白布が掛けられていて、誰だか分からない。
すると、看護師が優しく話し掛けてきて、顔の覆いが緩やかに外された。

「……お母さん?」

その顔は腫れぼったく、むくんでいるし、美白とも言えないほどに真っ白で……お母さんじゃないみたいだ。
おでこから頭に掛けて、包帯がグルグルと巻かれている。自慢の髪だと、お母さんが自負していた髪の毛も、
もみあげと、こめかみ以外は全く見えない。

――本当に、お母さんなんだろうか?

改めて顔を見つめる。
馴染みのある鼻、唇、耳――閉じられた目。右目の下の、泣きぼくろ――。
確かにお母さんだった。疑っていたとバレたら、きっと怒られてしまう。

「……あの、すみません!……お母さん、どうしたんですか?」

部屋から出て行こうとした看護師を呼び止め、質問した。
看護師は目を伏せて、『交通事故に遭われて、救急車でこの病院に着いた時にはもう――』
そんな事を聞きたいんじゃない。それはもう分かっている。

「お母さん、良くないんですか?」

看護師は何も答えずに何回も瞬きをして、深く頭を下げると足早に部屋から立ち去ってしまった。

――少しぐらい教えてくれてもいいのに……

急に両肩をがっしり掴まれ、後ろに引き寄せられた。
仰天して振り向くと、病院に連れて来てくれた若い先生だ。
気付かなかったけれど、この先生も、わたしとお母さんに気を遣って、部屋の隅でじっとしていたんだろう。

「――平林……お父さんも、村松先生も、もう少しで来てくれるからな……大丈夫だぞ……」

何が大丈夫なんだろう。お父さんや村松先生より、医者や看護師の方がずっと頼りになるはずだ。
思えば、教室に飛び込んできた時から、この先生は挙動不審だった。
現にこうやって、それなりの力で自分を捕まえて、つかず離れずの距離感を維持しているのもおかしい。
おかしいのに、何故かそれを振り払う気も起きず、ベッドの上に寝ているお母さんの顔を、じっと見つめ続けていった――。



~~~



部屋のドアが不意に開く。勢い余ってドアが壁にぶつかる、ガタン!という音がこの部屋に響いた。

「祥子!」

入ってきたのはお父さんと、担任の村松先生だった。
お父さんは、仕事途中で抜け出してきたままの、ネクタイを締めたワイシャツにスラックス姿。
村松先生は今朝と同じ、ブラウスにロングスカートだ。
お父さんは、寝ているお母さんに駆け寄って、布団の中から優しくお母さんの手を引き出し、両手で握る。
そして、お母さんの顔を見つめ、激しく身を震わせながら涙を流し、嗚咽を漏らし始めた。

お父さんが、こんなに取り乱す姿、初めて見る。
いつも元気良く快活で、近所でも評判のお父さん。
宿題を教えてと言えば、分かりやすく丁寧に教えてくれたり、
仕事のある平日でも、夜の空いた時間に、たまにお母さんも交えてボードゲームやトランプなどで一緒に遊んでくれたり、
休日になると、大抵家族三人でどこかしら出掛けて、その場を盛り上げてくれた、自慢のお父さん。
家族仲も良好で、生活の中でお母さんと、たまに小言を言い合ったり口喧嘩をする事はあっても、
直にどちらともなく仲直りして、仲直りした後は私から見ても、ぎこちなくイチャイチャしたりする、微笑ましい両親――

それなのに、今のこれは――滂沱と涙を流しながら、お母さんの手を握るお父さんと、それに全く反応を返さない、寝たきりのお母さんは……

「平林さん……お父さんとお母さんの側にいてあげて……」

優しい声が聞こえ、背中をそっと押された。振り向くと、担任の村松先生だった。
その40代の女性教師は、学校でも特別優しい印象もなく、普通の先生だと思っていたのに、
今の村松先生の悲嘆な表情と、その声から滲む優しさは、空恐ろしいものがあった。

「明日香……!こっちにきな、きなさい!」

村松先生の声が聞こえたのか、様子がおかしいお父さんに招かれる。
おずおずと近づくと、お父さんは私を強く抱き寄せてから、私の手をお母さんの手に重ね合わせて、上から強く握りしめた。
その間に、若い先生と村松先生は静かに一礼して、部屋の外に出て行く。
お母さんの手は、その前にお父さんが両手で握っていた筈なのに、それほど部屋の温度も低くない筈なのに、
信じられないぐらい冷たく、私とお父さんが握って、温めてあげなければと思わせられる。

「しょうこぉ……ごめんなぁ………あすかッ……おとおさん、おくれて……ひとりにさせて……わるかったなぁ……っ……」

何度も何度も、お母さんとわたしの名前を呼び、謝るお父さん。
そのうちに、お父さんはわたしを片腕で抱き寄せ、もう片方の手でお母さんの頬を、優しく撫でさすり始める。

病院の地下にある部屋のベッドの上で、温もりのなくなった母。その側でわたしを抱きしめ、慟哭する父。
ベッドの脇には線香が用意された台が置かれていて――

もう、認めないわけには、いかなかった。既に何度も濡れた頬に、また一筋涙が伝い落ちる。

――お母さんは、もう、いなくなっちゃったんだ……

涙は次から次へと溢れてきて、止まりそうもなかった。



しばらく、お父さんと二人、お母さんの亡骸に寄り添い、互いの体温を感じながら泣き続けた。
いつでも、時間は待ってはくれない。わたしもお父さんも、お母さんも、このままこうしてはいられなかった。
霊安室の外に出ると、大分時間は経っていた筈なのに、村松先生はわたし達を待っていてくれて、
『お悔やみ申し上げます』と深く頭を下げてくれた。
お父さんも深く礼を返してから、携帯でお母さん方の祖父母を始め、色々な人に連絡を入れ始める。
その間、村松先生に手を引かれて歩き――病院の喫茶室に入って、その隅に座らされた。
先生は隣に座って、わたしを慰めてくれているようだけど、なんだか耳が遠いし耳鳴りもする。単語を拾うのがやっとだ。
たまに聞こえる『お母さん』『お父さん』という言葉で、また喉が塞がり、嗚咽と熱い雫が溢れる。
自分が自然に泣いているのか、お母さんを悼んで泣いているのか、泣こうとして泣いているのか、全く分からなかった。

やがて、お父さんが私を迎えに来て、先生と何か少し話をすると、病院を後にした。
外はもう黄昏時だった。薄暗くなっていく空を背負い、病院から自宅までの30分程の道程を、
お父さんと手を繋いで、ゆっくりと歩いていった。



~~~



お母さんは、自宅から歩いて少しの距離にあるスーパーからの帰り道、信号無視の車に跳ねられたのだった。
運転手はその事故を起こしてから、すぐ近くで単独事故を起こし、死亡していた。
高齢の身寄りのない老人で、怒りはあっても、やりきれなさが募るだけだった。

それでも、お父さんは気丈だった。
お通夜でも葬儀でも、喪主として立派に役目を果たし、
葬儀の翌日には出勤し、その後の数日で引き継ぎを済ませて、会社を退職した。

わたしは、あれから学校を休んでいる。
何人かの友達も、お見舞いのような形で家に来てくれたが、
玄関先の立ち話でお礼を済ませて、早々に帰ってもらった。荷物の整理を滞らせないようにだ。
お母さんの遺品の分別もあったけれど、わたし達が引っ越す為に、お父さんと二人で少しづつ、集中力が続く限りずっと荷造りをしていった。
お父さんによると、貯金もあるし、退職金とお母さんの生命保険金もあって、引っ越しても経済的には全く問題にならないらしい。
私が生まれた時から建っていた、10年以上住んだ我が家は……この家は、二人で住むには広すぎる……。
お母さんとの思い出が、沢山詰まったこの家に、これからも住み続けるのは、耐えられない。
お母さんの命の火が、この家、わたし達家族の明かりだったのだ。

お母さんのお骨は、お母さんの両親――わたしの祖父母に預けられ、そちらのお墓に納骨する事になった。
お父さんの両親は、お父さんがお母さんと結婚する前に他界していたし、
お父さんは一人っ子で親戚も少なく、その親戚もわたし達家族とは疎遠だったので、
馴染みのない新しいお墓に入るより、そちらの方がお母さんも嬉しいだろうと、お父さんがお祖父ちゃん達と話し合ったからだ。

――でも、理由はそれだけではないと思う。

葬儀が終わってからの何日かの生活を、お母さんの遺影と骨壷と共にしたけれど――。
それらを目にすると、非情な現実を突きつけられて、わたしも胸が張り裂けそうだったから、
お父さんも、それらを遠ざけて目を背けたかったのかもしれない。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも、事情を薄々察してくれたみたいで、一も二もなく遺影とお骨を受け取ってくれた。

お父さんは、私の転校や相続などの色々な手続きを手早く済ませると、私を連れて縁もゆかりもない遠い土地へ、引っ越したのだった。
少ない親戚――お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、伯母さんにも行き先を告げずに。
お父さんとわたしの二人で、全てをやり直すように。
お母さんの死から逃げるように……。



~~~



お父さんは、新天地で家賃の安い借家を借りて、わたしは、新しい中学校に通い初めた。
お父さんも定期的に職業安定所に通って、失業手当を受け取りながらの、静かな生活が始まった。
新しい住まいは、前とは違って狭く外観も古かったものの、二人で慎ましく暮らすには丁度良かった。
お父さんは、最初こそ張り切って、近所周りの挨拶や、新居を整えるための機材調達に勤しんだり、
私の新しい学校で必要な買い物、洗濯・料理などの家事を頑張っていたけれど、その元気は長続きしなかった。
脈絡もなく急に泣き出したり、自室に篭って、昼間からお酒に逃げる事が増えていって――。


そして、今に至る。
お父さんは、昔からは想像できないぐらい変わり果て、自堕落な生活を送るようになった。
だけど、わたしはそれを責める気にはならない。

お母さんの遺品や写真を仕舞った物置から、ちょくちょく幾つかの品が消える事があった。
お父さんがお酒を買う時や、職業安定所に行った時にこっそり家探しすると、
決まってお父さんの寝室にあるタンスの奥や、枕の下からそれらが見つかる。
閉じられたドア越しに、押し殺した泣き声が聞こえる事も何度もあった。
わたしもお父さんと同じ気持ちだ。半年経っても、区切りが付けられない。
それに、お母さんとの付き合いは、わたしよりお父さんの方が長く、濃かったんだ。
わたしの知らないお母さんも、お父さんは沢山知っているんだろう。

わたしは、お父さんを誤解していた。お父さんは強い人じゃなかったんだ。
強くなくても、家族の為に強くあろうと、必死に頑張っていただけなんだ。
その努力、昔の姿を思い描くと、わたしが今のお父さんを非難するなんて……できるわけがないし、絶対にしたくなかった。
わたしがお父さんの分まで、今を頑張れば――少し我慢する事もあるけど、そのうちに立ち直ってくれて……
昔のような、元気で優しいお父さんに、戻ってくれると、信じている……。


長い時間を掛けて夕食を終えて、物思いに浸っていると、急遽そこから浮上させられた。
部屋の外から足音が響き、プラスチックの包装を荒っぽく剥がす音が続く。お父さんが起きて、ご飯を食べ始めたのだ。
体の節々が硬直する……息を潜めて、何事もなく時間が過ぎるのを待ち続けた――。






◆3
今日も学校が終わり、夕食も買ったから、家に帰らなければならない。
いつもより、かなり早い時間だった。司書の先生に捕まりそうになったからだ。
最近、宿題や自習をして、放課後を図書室で過ごす事が多かったせいか、目についてしまったのだろう。

――来週からの放課後は、どうやって過ごそう……。

今日は金曜日だ。土,日と連休を控えている――憂鬱だ。
考えを巡らせても、良い答えは出そうにない。
そうして歩いていると、もう家の近く、借家が連なっている区画の入り口。
そこには珍しい事に、社用車みたいな車が止まっていた。どこかの家に営業でもするのかと思っていると、
案の定、車の中からパンツスーツ姿で、デキそうなOL然の20代と思われる女性が出てきた。
しかし、その女性は車の脇に留まり、こちらに向き直って佇んでいる。訝しんでいると、声を掛けられた。

「こんにちは。平林、明日香ちゃん?」

容姿通りハキハキとした調子の、優しげな声だった。こんな人がわたしに何の用だろう?

「こんにちは……そうですけど、どちら様ですか?」

「初めまして、森崎香織です。聞いた通り、明日香ちゃんは礼儀正しい、いい子なんだね……この近所の遠藤さんはご存知?」

「……はい」

大凡の見当がついた。きっと遠藤さんが――

「私は児童相談所の職員なの。
 遠藤さんが、『明日香ちゃんの身の回りで、困った事があるんだ』って数日前に電話を下さってね。
 今日はご挨拶と、できたらご相談を兼ねて参りました――よろしくね?」

「……困った事なんて、ありません。お父さんが待ってるので、これで失礼し――」

一礼してその場を去ろうとすると、途中でいきなり引き寄せられて、さらに抱き締められた。ほのかに柔らかな香が鼻孔をくすぐる。

「大丈夫。お父さんは知らないし、家に押し掛けたりなんてしないから。
 私、遠藤さんの通報があってから何日か、明日香ちゃんとお父さんが家にいる時間に、この辺りで様子を窺わせてもらったんだよ……。
 遠藤さんや他の近所の人からも、事情を教えてもらったし、全部、分かってるから、ね…?」

こみ上げるものがあった。こんなに優しく、抱き締められたのは――。
そっと促されるまま、香織さんの車に乗り込んだ。



~~~



車が着いた先は学区外の、家からやや距離のあるファミリーレストランだった。
店内に入り、香織さんが店員にお願いして、入り口や窓から離れた隅のボックス席に案内してもらう。
時計を見ると16時前だった。この時間だとお客さんも少なく、主婦っぽいおばさん達がお茶を飲みながら話していたり、
時間を潰している風情のサラリーマンや、高校生がポツポツといるだけだ。

「さ、何か頼もうか?何でも頼んでいいから、明日香ちゃんも選びなよ。私の奢り♪」

対面に座った香織さんに微笑まれ、メニューを渡される。

「……お弁当もあるし、お腹も減ってないので……お気遣い、ありがとうございます」

つい、絆されてついてきてしまったが、やはりそわそわとして落ち着かない。
頭を下げて遠慮すれば、少しは早く切り上げられるだろう。

「明日香ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?育ち盛りなんだから、沢山食べないと大きくなれないよ?
 ……私は色々食べたいな。今日はお昼少なめだったし……このお店の私のおすすめもあるから、明日香ちゃんも感想聞かせてよ」

香織さんは、一方的に喋って店員を呼び、沢山の料理を注文した。



待っている間、香織さんは核心に触れない、当り障りのない話題を振ってくる。
固くなりながらも、失礼のないように受け答えをしていると、次々に料理が届けられていく。
並べられた皿の上は、二人で分けあって食べられるような、軽食やデザートが中心だ。
しかし、どう見ても一人で食べ切れる量ではない。
唖然として眺めていると、香織さんはジャージみたいな上着を渡してくる。

「汚してもいいからこれ使ってよ。この室温だとちょっと暑いかもしれないけど、大事な制服だもんね」

有無を言わせない香織さんの態度に小さく頷いて、渡された余裕のある上着を羽織ると、
注文の時に追加で頼んだ幾つかの取り皿に、香織さんは少しずつ料理を装い始めた。
サラダ、チキン、フライドポテト、ピザ、サンドイッチ、パフェ、紅茶...
目の前にささやかなフルコースが並んでいる。

「お皿がいっぱいで一見豪華だけど、安いものだから遠慮しないでよ?分けあって食べた方が美味しいもんね」

そう言って香織さんは、料理に口をつけ始める。
失礼にならないように、慎重にサンドイッチを口に運んだ。一口ずつゆっくり咀嚼していく。
パンのほのかな甘味、ハムの塩気、チーズのコク、レタスの食感とドレッシングが絡みあう、シンプルな味だ。
シンプルで、大した素材は使ってない筈なのに、とても、美味しかった――。
香織さんは、ハンカチとティッシュを差し出すだけ差し出して、わたしの醜態を無視してくれて……
その後も次々に料理を勧めてきては、『美味しいね』と、穏やかに話し掛けてくれた。



物音や人の気配に怯えずに、お腹いっぱいになるまで食べる事ができたのは、久しぶりだ。
空になったお皿も店員によって下げられて、お茶を少しずつ飲みながら、食後の心地良い時間をゆったり過ごしていた。

「せっかく落ち着けたところ悪いけど、大切な事だから本題に入らせてもらうわね。
 答えにくかったら答えなくていいし、『はい』『いいえ』みたいに簡単でいいんだよ。
 そんな構えないで、リラックスリラックス♪」

「はい…分かりました…」

児童相談所の職員である香織さんから、答えにくい質問をされるのは承知している。
それに、例え打算的な面があったとしても、こうやって親切にしてくれた人だから、無碍にしたくなかった。

「私は実際の場面を見た事はないけど、あの場で言ったように、明日香ちゃん達の事情は知ってる。
 その上で聞かせてね?……お父さんといるのは、怖い?」

「……………」

言葉にならない……でも、小さく頷いてしまう。香織さんも自分に合わせて軽く頷いた。

「そうだよね…。あと幾つか聞かせてね?……お父さんは、嫌い?」

首を横に振って否定する。嫌いなわけが、ない。

「そっか……もし、明日香ちゃんが、明日香ちゃんのお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、
 伯母さんと一緒に暮らせるとしたら、どう思う?これからも、お父さんと一緒に暮らしたい?」

「……………」

「明日香ちゃんがそうしたければ、私達――児童相談所の方から、
 明日香ちゃんのお祖父ちゃん達に連絡して、そうお願いすることもできるんだよ?」

「……お父さんは、一緒じゃないんですか?」

「ん?ああ、安心して。もしそうなったら、お父さんと完全に離れられるし、
 今日も帰りたくなかったら、今からお祖父ちゃん達の家に行く事もできるから」

「お父さん、一人ぼっちになっちゃうんですか?」

「え?」

「そんなの…お父さんがかわいそうです!」

不思議そうな顔の香織さんに声を荒げてしまった。呼吸も乱れている。
香織さんは対面の席を立ち、自分の左に滑り込んできた。

「明日香ちゃん、大丈夫。ゆっくり、深呼吸して……」

背中に手を回されて両肩を軽く掴まれる。言われた通りに息を整えて、たまに背中を擦られながら、気分を落ち着かせていった。



「なんで、お父さんがかわいそうなの?」

しばらくして、横に座った香織さんにそっと問われる。

「お母さんが、いなくなって、いつも、すごく悲しいのに、わたしまでいなくなったら……おとうさんはっ――!」

取り戻したと思った冷静はまやかしだった。さっきよりも感情が制御できていない。

「……お母さんがいなくなって、悲しくて、苦しいのは、明日香ちゃんも同じでしょ?」

「――はい……」

当たり前だ。お母さんの家族は、お父さんとわたしなのだ。わたし達二人以外に、この気持ちが本当に理解できる人はいない。

「じゃあ、お父さんをそんなに庇うのは何故?あんな、近所に聞こえる程の大声で、怒鳴られるなんて、嫌じゃないの?」

「………………………っ……」

黙っていると、香織さんに左腕を強い力で引っ張られ、同時に袖を素早く捲られた――。

「こんなに痣になって……お父さんが、明日香ちゃんを虐めてるんでしょ?
 私、学校の先生方にも伺ったから、知ってるんだよ。明日香ちゃんが、ずっと長袖の制服を着てるのも、
 体育の授業を見学してるのも、放課後遅くまで居残ってるのも……全部知ってる。
 明日香ちゃんを、こんな目に遭わせるお父さんは、お父さんとしての資格がないと思う」

自分の呼吸音と、鼻水を啜る音がやけに大きく聞こえる。

「――昔は……やさしい、おとうさんだったんです………。つい……よっぱらっちゃって……
 いまも……わたしに、てをあげても、すぐ……ちゃんとあやまってくれて………なきながら………
 おれをすてないで……いなくならないで……って、むかし、みたいに……だきしめて、くれるんです――――」

香織さんは、私が話し始めると、徐ろに私の左腕の袖を整えて、背中を手に回してそっと私を抱き寄せた。
そして、私が泣き止むまで、無言で背中を擦って慰め続けてくれた。
私が幼い頃、ぐずった時にしてくれた、在りし日のお母さんのように――。



涙と鼻水の味はもう慣れっこだ。
激しく泣いて、恥ずかしく思う気持ちもあったが、大分スッキリとした気分だ。
香織さんにもらったティッシュを大量に消費して、涙と鼻水を拭い終わると、

「つらい事を思い出させて、ごめんね。明日香ちゃんのお陰で、私も事情がもっと理解できたよ…ありがとう…」

「はい……」

「明日香ちゃんがお父さんを好きなのも、お父さんが明日香ちゃんを好きなのも、
 嘘じゃない、本当の気持ちだって分かるよ……でもね、今のままじゃ、お父さんも、明日香ちゃんだって傷つくばかりで、良くないと思う。
 私もこの仕事をするにあたって、学校で心理学の勉強をしたんだけど、今の明日香ちゃんとお父さんの関係に当てはまる事例が沢山あるの。
 第三者視点で、明日香ちゃんにとっては鼻につくかもしれないけど、しっかり聞いてほしい」

「……はい」

「『共依存』って事象があってね。複数の人が、互いの関係に、過剰に依存してしまう事なんだけど、
 お父さんと明日香ちゃんの関係は、正にそれだと思う。
 ……お母さんが亡くなって辛い中、お父さんもストレスが掛かって大変だったんでしょう……。
 始まりは何だったのか分からないし、もしかしたらお酒の勢いで、つい明日香ちゃんに、手を上げちゃったのかもしれない。
 だけど、明日香ちゃんを傷つけて、その後謝って、許しを乞う。その流れが、今はもう癖になっちゃってるのよ。
 『娘に認めてほしいけど、自分に自信がない。なら暴力に訴えて、自分の力をアピールすればいい。
 謝って、優しくすれば明日香ちゃんも許してくれるし、側にいてくれる』ってね」

「……………」

「お父さんや明日香ちゃんを責めてるんじゃないからね?
 ただ、そういうものなんだって第三者からの見解も、知ってほしかったの。
 ……明日香ちゃんも、そんなお父さんに影響されて、『じっと我慢していれば、許してもらえる、優しく抱きしめてくれる』って
 条件付けされて、その関係に――本当は嫌なのに、頑張って耐えてきた……」

香織さんみたいな、わたし達家族とは無関係の人に口出しされると、やはり嫌な気持ちにもなる。
だけど、その話も尤もなのはよく分かった。香織さんはまるで、今までのわたし達を見てきたような目をしている。

「このままじゃ、明日香ちゃんも、お父さんだって壊れちゃう……。
 ――『共依存』を治すにも、幾つか方法があるんだけど、明日香ちゃんとお父さんの場合、依存の対象から離れるのが一番だと思う。
 だから、明日香ちゃん……お父さんと一旦離れて、お祖父ちゃん達と生活してみない?
 お祖父ちゃん達には、事情を上手くぼかして、お伝えしてあるんだよ。
 『男手一つで娘を育てるのに、やっぱり不安があるし、明日香も二人だけの暮らしで寂しがってる』って、
 お父さんから相談があった事にしてあるから、何にも心配要らない。
 ……今からでも、お祖父ちゃんの家に行ってみる?」

「……でも、学校は…家にある荷物もあるし……お父さんだって……」

「お祖父ちゃん達ね、本当は、明日香ちゃん達が引っ越すの、前から知ってたんだよ?
 行き先は聞けなかったそうだけど、二人がお母さんの事、気に病んでたのが分かったから、引き止められなかったんだって……。
 こっそり廃棄業者に掛け合って、明日香ちゃん達がいつ戻ってきてもいいように、
 前の家の家具とか、明日香ちゃんが前に通ってた学校の備品とかも保管してくれてるそうよ。
 だから、手ぶらで戻っても大丈夫。前に通ってた学校にも、戻る事だってできるんだよ?
 ――村松先生も、明日香ちゃんが心配だって言ってた……」

香織さんの声、その話の内容は、とても暖かかった。
お母さんの通夜と葬儀、その後の数日に会った、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、伯母さん、村松先生の顔がちらつく。
わたしは、お父さんと二人きりじゃなかったんだ……。

「……ありがとう、ございます――」

「頭なんて下げないで。いいのよ、これが私の仕事だし、
 私個人としても、明日香ちゃんみたいないい子には、幸せになってほしいから――」






◆4
ファミリーレストランで1時間ぐらいは過ごしただろうか。
鍵を開けて、静かに戸を引き開ける――お父さんが待っている家の戸を。
今日は学校を出るのが早かったから、丁度いつもの時間だ。


結局、香織さんの提案は保留にさせてもらった。
お祖父ちゃん達と暮らしたいのはやまやまだが、お父さんを残して行けないと言うと、
香織さんは残念そうな顔をして、渋々と了承してくれて、
『何かあったら、いつでもこの番号に電話してね』と電話番号が書かれたメモを渡された。


今日もお父さんの部屋のドアは、ありがたい事に閉め切られている。
足音を立てずに、左手のキッチンへ行き、素早くお父さんの分のお弁当とお惣菜などを並べて、自分の部屋に逃げ込んだ。


お父さんはお弁当などを持って、自分の部屋に引っ込んだようだ。
起きていて気が向けば、野球中継でも見ながらしばらく酒盛りをする筈だ。
今がチャンスと、お風呂やトイレなどを手早く済ませて、自室でやりかけの宿題を片付け始める。

たまに部屋の外から響く、怒声や物音にビクビクしながらも、宿題や予習も完了した。
学校鞄の中に、筆記用具や教科書、ノートをしっかりと仕舞う。
朝起きて身支度をしたら、素早く登校できるように、準備は欠かせない。
やるべき事もやり終えたし、今日はもう寝てしまおう。
折りたたみ式の小さい机を壁際に移動して、畳んであった布団を広げると、その中に潜り込んだ。


お父さんは今の生活で、一日一回はわたしと顔を合わせるようにしているらしく、この部屋に入ってくる事もある。
昼寝、食事、トイレ、テレビや飲酒などを除けば、お父さんの唯一の日課と言えた。
わたしが起きていると、暴力を振るってくる場合が多いけど、
わたしが寝ている時は、布団の脇に座り込んでしばらくの間佇む。
じっとこちらを見ている気配があるし、その最中に優しくわたしの頭を撫でてきたりもする。
その時のお父さんは、大抵酒臭いし体臭もきついけど、昔に戻ってくれたみたいで好きだった。
寝るまでにお父さんに会わなかった日は、布団に入っても寝たふりをして、お父さんを待つ事もあるぐらいだ。
お父さんの顔を見たり、話ができないのは残念だけど、わたしがお父さんを庇うのも、この影響が大きいと思う。



~~~



……おかしい。

確かに今日は布団に入るのが早かった。
それでも、もう2時間は経った筈なのに、お父さんがちっとも現れない。
いつの間にかテレビへの野次も、物音すら止んでいる。

――酔いが回って、寝ちゃったのかな?

若干尿意もあったからトイレに行った。この生活では機会を逃してはならないのだ。
常夜灯の明かりを頼りに、トイレからキッチンに戻ると、
お父さんの部屋のドアの隙間から、明かりとテレビ音声が漏れているのに気づいた。
しかし、酔って寝る時に大抵かいている大鼾は、全く聞こえない。
不思議に思い、恐る恐るお父さんの部屋に近づき、ドアを開けると――

「……お父さん?」

電灯とテレビが点いたままの8畳間に、お父さんはいなかった。
辺りには空の酒瓶やボトル、紙パック、つまみの包装紙、ビニール、空の弁当箱などが散乱している。
布団ももぬけの殻だった。そこに横になってテレビを見ていた筈なのに……。
すぐに引き返し、玄関を探る。鍵は掛かっているし、いつも履いている靴もそのままだった。
キッチン、トイレ、浴室、物置、自室――全部見て回る。狭い家なのであっという間だ。
だけど、お父さんは姿形もない……。


自分の呼吸音と鼓動がやけに大きく聞こえる。
途方に暮れていると、不安が急激に高まってきた。
でも、頼れる人もわたしには――香織さんだ。
電話番号が書かれたメモを渡されたのを思い出す。
自室に急ぎメモを手に取って、キッチンの壁際にある固定電話で、香織さんの番号をコールした。

「はい、森崎です」

コールも4回目で途切れ、応答する女性の声があった。

「あ、あの、香織さんですか?」

「ええ……明日香ちゃん?こんな時間にどうしたの?何かあった?」

「あの、はい…お父さんが、いなくなっちゃったんです……!」

「お父さんが?出掛けたって事?」

「違うんです…いえ、分からないですけど、靴もあるし、部屋にいると思ったらいなくて、
 家の中を探しても、見つからないんです……。
 どうしよう……私がお祖父ちゃん達の家で暮らすかどうか、迷ったからお父さん……
 わたしをすてて、どっかいっちゃったのかも……っ……」

「……明日香ちゃん、急いでそっちに向かうから、そのまま家で大人しく待っててよ?」

「――はい……」

電話が切れて受話器を置く。
自室に戻り、布団の上に座り、掛け布団を被ってまんじりともせず、拠り所のない気持ちで香織さんを待った。



~~~



電動の呼び鈴が、静かな家の中に響き渡る。

玄関へ急ぎ、鍵を開けてドアを引き開けると、香織さんだった。
体感ではもっと長い時間だった気がするけど、あの電話から30分ぐらいで来てくれた。
唯一頼れそうな人の登場で、少しは緊張がほぐれたのが自覚できる。

「お待たせ、明日香ちゃん」

「夜分遅くに、すみませんでした。わたし、怖くて、頼れそうな人も、いなくて……」

「気にしないでよ。こういう仕事ってね、お互い気をつけていても、
 公私の厳密な線引も難しいものだし、いつでも電話してねって番号教えたのも、私なんだから」

「ありがとうございます……」

玄関先での立ち話もそこそこに、香織さんを家の中に招き入れた。

「それで、今もお父さんは見つからないの?最後に見たのはいつ?」

香織さんは早速、状況を質問してくる。

「今日はまだ、お父さんと会ってなくて……でも、お弁当とかを、部屋に持ってってから、
 テレビを見てた気配があったので、部屋にいると思ったんですけど、どこにもいなくて……」

「なるほどね……手掛かりがあるかもしれないから、お父さんの部屋を調べてみようか」

「すぐそこです」

ドアを開き、お父さんの部屋に入る。そこには、さっきと同じ散らかし放題の光景が広がっていた。

「ご、ごめんなさい!散らかってますけど、すぐ片付けますから!」

テレビも点けっぱなしだったので、すぐにリモコンで消す。

「しょうがないお父さんねぇ……」

こればかりは庇いようがない。身内の恥を曝け出して恥に思うわたしを慰めるように、
香織さんは戯けた口調で言ってから、ため息を吐いた。

香織さんと二人で、部屋を片付け始める。

「あ、お父さん、私のお土産召し上がってくれたんだ」

小さいちゃぶ台の上に、破かれた包装紙と空の木箱があった。
香織さんは嬉しそうに頷いている。

「中々手に入らない物なんだよ?お父さんが味わってくれたなら、取り寄せた甲斐があったな~」

「お父さん、元気な頃にもよく晩酌してて、おつまみも好きだったんです」

雑談も交えながら、わたしが主体となって、キッチンと部屋を何度か往復し、散らかったゴミも片付け終わった。



「スッキリしたところで…何かないかな?お父さんの行き先の、心当たりになるものとか、書き置きとか…」

そう言われて、ふとタンスの一番下の段の奥と、枕の下を探る。
お母さんがよく身に着けていたネックレスやペンダント、
濡れてボロボロの、お母さんが写っている何枚かの写真が、そこにはちゃんと存在していた。
そういえば、物置の大事な遺品も手付かずだったんだ。
もし、お父さんがわたしを捨てたとしても、それらを放ったらかしに、どこかへ行ってしまうとは考えにくい……。

「きっと、追加のお酒やおつまみが欲しくて、買い出しに出掛けたんだと思います。
 酔っ払ってて、行き帰りに時間が掛かってるか、ひょっとしたら道端で寝ちゃってるのかも……心配だな……」

「どうしてそう思うの?」

「お母さんの形見も持たずに、どこかに行っちゃうなんて考えられません。
 お父さん、お母さんが大好きで、いつも大事にしてましたから……」

「そうなんだ……ところで明日香ちゃん、お手洗いお借りしてもいいかな?急いで来たからちょっと……」

香織さんは、自分のハンドバッグを手にして立ち上がった。

「はい、部屋を出て、壁に突き当たって右手にあります」

「ありがとう」

香織さんは、わたしの案内通りにトイレに歩いて行った。



~~~



「どうしよっか…お父さんの帰りを待ってみるか、一緒に車で探しに行ってみる?」

香織さんが戻ってくると、そう尋ねられる。

「えっと……」

部屋の時計を見ると、もう10時半だ。
いくら頼りになる大人でもこんな時間に、泥酔状態のお父さんの相手を香織さんにさせるのは……気後れしてしまう。

「一人で待ってみます。お呼び立てして、すみません。
 香織さんが来てくれて、すごく心強かったです!ありがとうございました!」

「どういたしまして、そう言ってもらえると嬉しいな。
 帰り道、それとなく近所を回ってみるから、見つけたら電話するね。
 ――さて、お暇するとしますか……何これ、虫……?」

ハンドバッグを取って、不可解な声を出した香織さんの視線を追う。
布団のすぐ側の、香織さんのハンドバッグが置いてあったあたりに、奇妙な虫がいた。
わたしの親指ぐらいの大きさだ。全体が肌色で一部だけ黒っぽい。
じっと眺めていると、その虫は"立ち上がり"、そして、こちらに向かって"歩いてきた"。

「………こ、小人……?」

驚きのあまり小さく呟いて、その小人を凝視する。
よく見ると、両腕らしきものをこちらに向かって激しく振って、キーキーと鳴いていて――閃くものがあった。
その小人を迂回して、乱れた掛け布団を、敷布団から引き剥がすと、そこには――脱ぎっぱなしの"シャツ"と"トランクス"があった。
掛け布団を取り去る前から、一部が覗いていたシャツと合わせて、着用者が服を残して"消えてしまった"かのように、
普通に脱いだにしては、不自然に上下の位置が整っている。

「……もしかして……お父さん……?」

その小人は、両腕を激しく振りながら、ぴょんぴょんとその場でジャンプし始めた。まるで自分の問いを肯定しているみたいだ……。
耳を澄まさなくとも、キーキーという小人の声らしきものが、さっきより大きく聞こえる。呆然としていると、

「明日香ちゃん……ルーペ!虫眼鏡どこかにある?持ってきて!」

「はい!」

香織さんに従って自室に急いだ。



~~~



自室や台所の戸棚をひっくり返すようにして見つけた虫眼鏡で、小人を観察した結果、
その小人はやはり、お父さんだと確信できた。
虫眼鏡で拡大したその顔、どことなく弛んでだらしない体型は、今のお父さんと合致するし、
調べている最中に『お父さんなの?』と尋ねると、レンズ越しに何回も頷いているようだった。

「香織さん、やっぱり、お父さんみたいです……」

「……そう……不思議ね……」

虫眼鏡で観察する時も、お父さんは落ち着きがなくて大変だったが、
今はわたしと香織さんに向かって、腕を振り回しながら騒いでいる。
何を言っているのかもわたし達は分からないのに、執拗に何らかのアピールを続けていた。
きっとお父さんも、今の状況でパニックに陥っているんだろう……。
二人して、小さくなったお父さんを前に黙考していると、

「……もしかしたらお父さん、罰が当たったのかもしれないよ」

「え?」

香織さんが、思案げに言葉を紡いだが、その意味が分からなかった。

「実の娘の、明日香ちゃんみたいなかわいい子に、いくつも痣が残る程暴力を振るうなんて、本当なら許されないわ。
 神様が――ううん、もしかしたら明日香ちゃんのお母さんかな……。
 そんなお父さんを怒って、小さくしちゃったのかも……」

――そんな非現実的な事は、ありえない。だけど、現にお父さんは小人になってしまった……まさか本当に神様――お母さんが……?

「……そんな……どうしたらいいんですか……?……救急車…110番……?」

「待って。こんな事が世間に広まったら大騒ぎになっちゃうよ。
 明日香ちゃんのお父さんだって、世間の見世物にされちゃうか、
 悪ければ研究の為だって、捕まって監禁されたり……解剖されちゃうかもしれないよ?」

「……そんな………」

「まずはね、明日香ちゃんがお父さんと、よく話し合うといいと思う。
 お父さんが何て言ってるのか分からなくても、お互いの気持ちはきっと通じるでしょ?――親子だもの」

「……はい……」

「私もお父さんの事、絶対内緒にする。明日香ちゃんとお父さん、家族二人の問題だから、
 私が必要以上に、あれこれと口出しするべきじゃないわ。
 もちろん、明日香ちゃんが頼ってくれるなら、協力させてもらうけど、
 お父さんも見知らぬ私がいると、不安かもしれないし……今日のところは失礼するね?」

「……はい……」

「明日の朝必ず伺うから、しっかりね。
 今はお父さんも興奮しちゃってるし、こんな目に遭って凄く怖いと思うの。
 ……だから、明日香ちゃんが、お父さんを守ってあげるんだよ?今のお父さんは、明日香ちゃんが頼りなんだから」

「……分かりました……」

香織さんは私に微笑みかけて立ち上がり、玄関へ歩いて行った。私も見送りの為ついていく。
簡単な挨拶を済ませて、その別れ際。香織さんが真剣な表情で言った。

「……お父さんが元に戻れるように、頑張って――」






◆5

――俺はダメな父親だ……


祥子が死んで、それまで勤めていた会社も辞め、馴染み深い自宅も、無理やり手離してしまった。
根を張っていない土地に引っ越したのも、明日香の事を考えたらどうかと思う。
あんなに親身に接してくれた――村松先生だったか……あの先生のありがたい配慮も、裏切ってしまった。
認めたくない現実から逃げる為に、明日香の事も考えずに、時期外れの転校を強いて――。

だが、それだけならまだ、俺次第で、どうにか挽回できたんだ……。
俺の一番手に負えない罪は、妻の死から半年経っても未だに働いていない事でも、
こうやって日の沈まない内から飲んだくれて、怠惰に甘んじている事でもない。

たった一人しかいない、俺の家族――娘に、自分の醜い感情を、暴力をもってぶつけてしまっている事だ……。



最初は、そんなつもりはなかった。
明日香の為に、慣れない環境でも頑張ろうと気持ちを新たに、
失業手当を受け取りながら職を探して、ご近所付き合いだ家事だと気張っていられたんだ……。

しかし、現実は甘くはなかった。
40代も半ばになる男。その中途採用時に求められるのは、専門性のある技術、資格、豊富な経験――。
職を探せば探す程、自分が恵まれた時代に就職し、安穏と会社に守られていた事実が分かるだけだった。

家事も色々と挑戦してみたが、初心者という点を考慮したとしても、
自分の不器用さが浮き彫りになって、やるせなさが募っていった。
在りし日、祥子はそれなりにパートに出て働いていたが、家事は全て祥子に任せきりだった。
祥子は自分には勿体無い、よくできた妻であり、母だったのだ。

ある日、そんな自分を見兼ねてか、明日香が自分も家事を手伝うと言い出した。
俺がやんわり断っても、明日香は言う事を聞かず『お父さんに任せておけないもん』と笑って前言を曲げなかった。
あの時は酒が入っていたか、いなかったか……入っていたと信じたい。
俺は、明日香を小突き、突き飛ばしてしまって……床に倒れた明日香はびっくりした顔をして、やがて顔を歪めて、涙を流して……。
すぐ我に返り必死に謝ると、明日香は『お父さん、無理しないでね』と優しく許してくれて……。

それからだ。
段々と酒の量が増えていって、外出といえば酒やつまみの買い出しか、失業手当を受け取る為ぐらいのものになって。
自分に苛立ち、自分が誰からも必要とされてない事に怯えて、酒に逃げ、明日香に構い、手を上げて……。
いけないと分かっていても、優しく自分を許してくれる、明日香の優しさだけが、今の生活の光だった……。
明日香が寝入った頃、明日香の側に行って、後悔と反省をする事もある。
こんな自分を見捨てずに、側にいてくれる娘が堪らなく愛おしい。明日香がいなくなったら俺は――。


――俺はダメな父親だ……



~~~



日も暮れて、いつものようにキッチンの机に広げられたスーパーの弁当や惣菜などを一瞥する。
明日香が気を利かせてくれたのか、今日は高級そうなツマミ――乾物の詰め合わせもあった。

今日は見たい野球中継もあったから、早々に自室へ引っ込むとしよう。
娘が自分に怯えて生活しているのは知っているし、俺もその関係にいつしか慣れてしまった。
今までは気分次第でキッチンで食べる事もあったが、これからはなるべく、自室で済ませた方がいい。その方が明日香も少しは気が休まる筈だ。
弁当などを段々重ねにして、ゴミが散らかっている、主の人となりが窺える塒に持ち運んだ。


夕飯を食い終わり、布団に横になってぼーっとテレビを見ていると、やがて野球中継が始まった。
酒とツマミを開けて、ちびちび口に入れながら、選手がエラーや凡打をすると、これでもかと野次を飛ばす。
勝ち負けや試合内容には、大して興味はない。真剣にプレーしている選手がミスすると、なんだか安心するのだ。
一般人とは桁が違う給料を貰って、監督やチームメイト、ファンに期待されながらも結果が出せないその姿。
才能と努力の集大成とも言えるプロ選手も、失敗するという事実に励まされる。
野次を飛ばしている間は自分が強くなった気がするし、現実を一時的でも忘れられる気もする。
それに、こんな風にテレビの前で憤っているダメ親父が、全国に沢山いると想像すると、救われるのだ。
時たま酒をグビリと飲み、ツマミを咀嚼しながら野球観戦を楽しんでいった――。



~~~



ふわふわとする多幸感が全身を満たしている……。
遠くでテレビが囀っているようだ。薄ぼんやりと、そのまま心地良い眠りを楽しんでいると、澄んだベルの音が意識に割り込んだ。

(嫌に懐かしい音だ……何だったか……?)

回らない頭で訝しんでいると、部屋のすぐ外で足音がして、引き戸を開ける音が続き、話し声が聞こえてきた。
そうだ。あの音は呼び鈴だ……来客なんて久しくなかったから、すっぽりと抜け落ちていた。

(――だが、家に何の用だ?夜も遅い時間だろうに……)

話し声は続いており、徐々に意識も覚醒していく。質の悪い輩なら、明日香に任せずに俺がガツンと言ってやるべきだ。
目を開けて、布団の中で大きく伸びをする。辺りは薄暗い。寝ている間にシャツもパンツも脱いで、布団を全身に被ってしまったようだ。
布団を退けて起き上がった――と思ったら、布団がいつまでも体に纏わりついてくる。
苛つきながら乱暴に跳ね除けるが、ちっとも布団はなくならなかった。
それにその布団は、いつもより汗臭い饐えたような自分の体臭と、酒臭さが混じりあった不快な臭いが強く、質感もザラザラしていて、妙に重たく感じる。

(そんなに呑んだかな……まだ夢でも見てるのか?)

いつもと違う布団相手に奮闘していると、

「ご、ごめんなさい!散らかってますけど、すぐ片付けますから!」

布団の外から大きな声が聞こえた――明日香だ。
俺が部屋にいるのに、珍しくも部屋に入ってきたのだ。
床を伝わる響く足音がして、BGMとなっていたテレビ音声が消える。

「しょうがないお父さんねぇ……」

明日香じゃない、若い女の皮肉った声も聞こえる。その女も俺の部屋の中だろう……どういう事なんだ……?

「おい、明日香!何で客を俺の部屋に上げたんだ!」

布団をそのままに、大声で叱咤する。明日香と素性の知れない女の返事はない。
俺を他所に、二人は部屋の中を歩きまわり、騒がしい物音を立て始めた。

「お前ら聞いてんのか!迷惑だから出――!!」

「あ、お父さん、私のお土産召し上がってくれたんだ」

俺の怒声をまるっきり無視した、嬉しげな女の声が届く。

「中々手に入らない物なんだよ?お父さんが味わってくれたなら、取り寄せた甲斐があったな~」

「お父さん、元気な頃にもよく晩酌してて、おつまみも好きだったんです」

すっかり混乱状態に陥った。二人が俺を無視する理由も、明日香とこの女の関係も、まるでわからない。
だが、明日香が用意してくれたと思っていた今日のツマミは、この女の差し金だったのだろう事は理解できた。

「私が大雑把に分別するから、明日香ちゃんはゴミ回収して外に持ってってよ。
 どこにまとめればいいのか、私じゃ分からないし」

「すみません。ゴミ袋とか空き箱持ってくるので、香織さんはゆっくりしててください……!」

明日香が慌てた声を発して、一人分の足音が遠ざかっていった。
……この女は香織という名前らしい。それも、明日香と普通に話せる間柄だ…俺の娘と――!
ふつふつと怒りが湧き上がってくる。こいつにも分からせてやる必要があるかもしれない。
布団を退かすのを諦めて、布団から這いずり出るとした。
見回すと、奥に電灯の明かりらしきものが差し込んでいるのが見える。低姿勢になって頭上の布団を片手で支えながら、遠くの光の方向へ進んでいった。

(……遠く……?)

それまでも変な感じだったが、この違和感には及ばない。
1畳2畳の布団が、今では――。
大きな引っ掛かりに意識を奪われていると、すぐ近くでゴオオオオオと巨大な物が擦れ動く音がして、薄闇が完全に払われた。
一瞬遅れて電灯の明かりと分かったが、夜が一気に昼間になった感じだ。それでも、白い布団はまだ自分に纏わりついてくる。
いよいよパニックになって、キョロキョロと周囲を窺っていると、布団ごとグン!と急上昇した。
体が浮き上がり、グラグラと揺れ動いている地面がとても頼りない。
その揺れも束の間、天地が真っ逆さまになって、白い巨大な布団を滑り落ちていった……。

ドサッ

右肩から落ちたが、恐れていた衝撃は感じなかった。地面が柔らかく、クッションみたいに衝撃を吸収してくれたようだ。
すると、また極近くからよく分からない轟音と振動がして、完全に真っ暗になった。
こわごわ身を起こし、腕を回したり肩を上下させても痛みはなく、どこにも怪我はないようだが……
ここがどこで、一体何が起きたのかはさっぱりだ。
辺りには、香水のような匂いが立ち込めている。自分が乗っているクッションは布製のようだが、やたらゴワゴワしていて肌触りが悪い。
助かった口で言うのはなんだが、何の用途があるのか甚だ疑問だ。
暗闇の中、慎重に手を突き出しながらクッションの上を歩いて辺りを探ると、壁らしきものに手がついた。
足元のクッションより、ずっと肌触りは良かったが、壁にしては不定形でところどころ波打っているし、硬度も足りない気がする。
すると、時々この空間の外からだろう、こもった人の話し声と雑音が聞こえてきた。
明日香とあの女の声だと思うが……自信はない。
さっきまで自分の部屋にいて、そこに明日香と不審な女もいた筈なのに……目覚めてからずっと白昼夢の中にいるようだ。

「スッキリしたところで…何かないかな?お父さんの行き先の、心当たりになるものとか、書き置きとか…」

近くからくぐもった声が聞こえた。
あの香織とかいう女が、明日香に話し掛けているらしい。
あの女も俺を探しているのか……?というか、俺はどこにいるんだ……?

「きっと、追加のお酒やおつまみが欲しくて、買い出しに出掛けたんだと思います。
 酔っ払ってて、行き帰りに時間が掛かってるか、ひょっとしたら道端で寝ちゃってるのかも……心配だな……」

女の声に遅れて明日香の声が聞こえた。

「おーい!明日香ぁーー!俺はここ――」

「どうしてそう思うの?」

またあの女に遮られた。
思えば、あいつが来てからおかしな事になったんだ。
どこの誰だか知らんが、覚悟しておけよ……。

「お母さんの形見も持たずに、どこかに行っちゃうなんて考えられません。
 お父さん、お母さんが大好きで、いつも大事にしてましたから……」

激昂して我を忘れる間近、明日香の優しい声に諌められた。
まさか明日香が、俺の女々しいあの行いに気がついていたとは……。

「そうなんだ……ところで明日香ちゃん、お手洗いお借りしてもいいかな?急いで来たからちょっと……」

突如、急激な揺れがこの空間を襲った。

「はい、部屋を出て、壁に突き当たって右手にあります」

「ありがとう」

上下左右にユラユラと揺さぶられていった。






◆6
「さてと……」

大揺れと騒音が収まったと思ったら、真上から光が差し込んでくる。
見上げると、細長く縁取られた"外"の景色が見えて――

「平林、孝さん。お待たせしてごめんなさいね」

名前を呼ばれて――
俺を見下ろす、巨大な、女の顔が現れた。
その双眸は確かにこちらを捉えており、とてつもない迫力で上空を占領している。
信じられない気持ちで、その顔に向かって両手をかざすが、
両手は空を切るばかりで、こんなに巨大なのに、その顔に触れる事もできない。
離れているのに、これ程の大きさに見えるという事か……。

「な~に?手なんか振っちゃって……もっとびっくりすると思ったのに、期待外れだなぁ」

その顔と同じ迫力を伴った大音量の、不満気な声が降ってくる。堪らず尻もちをつき、唖然と見上げるしかなかった。

「うん、そうそう、そんな感じを想像してたの。頭の回転が鈍いだけかな?」

この巨人は……何だっていうんだ。
ここにきて、全身が震えているのを自覚する。
巨人から逃れようと、手をついて立ち上がろうとするが、腰が抜けて全く言う事を聞かない。
俺を見下ろしてニヤニヤ笑っている巨人は、俺の方に見せつけるように、ゆっくりと、その手を伸ばしてきた。
巨人の指は、1本1本が明らかに俺の胴回りより太い。もしその見た目通りの力を備えているとしたら……。
両腕を体の前にして身を捩る。だが、抵抗も虚しく巨人の指に捕まって、上空に攫われてしまった。絶叫マシン並のスピードで。

「おちびちゃん、人間やめた気分はいかが?楽しい?
 私は香織。どのくらいの付き合いになるか分からないけど、覚えておいてね」

眼前に、さっきより迫力を増した顔が――巨人の口があった。
口は横に開いていて、タイルみたいな歯が並んでいるのが見える。
俺を丸呑みにでも出来そうな大きさだ。……まさか、本当に俺を食うつもりか!?

「た、たすけて……食べないでくれ!」

俺の胸元から下をガッチリ拘束している巨人の指を叩いて懇願する。
拘束から逃れようと、力を込めて抜けだそうともしたが、巨人の指はビクともしないどころか、却って拘束が強まった。

「……っ……おい……お前は、何なんだ……俺が、何したっていうんだよ……!」

動く両腕両足を動かして必死に訴えるが、巨人はニタニタと笑っているだけだ。

「あははっ♪ 暴力男もこうなったら形無しね……このまま捻り潰してあげようか?」

既に十分だと思っていた巨人の力が更に増していく。
圧迫されている部分の、苦痛以外の感覚が曖昧になり、肺から空気が抜け、骨が軋む……口から色々戻しそうだ……。

「な~んてね……本当はそうしてやりたいけど、それじゃ筋が通らないし」

不意に圧迫がなくなって地面に落ちた。倒れ伏したまま、ゼーゼーと荒く呼吸を繰り返す。

……今、自分は死に瀕したのだ……。

斜めになった景色には、さっき俺が捕まっていた巨人の指が、並び立っている。
まだここは巨人の手の上だ。悪夢は未だ覚めない。この巨人の気まぐれで俺はきっと――

「力加減は間違えてない筈だけどなぁ……おちびちゃん、大丈夫かな~?」

直前の苦痛、恐怖が押し寄せてきて、まともに反応できない。
だが、この巨人を怒らせてはならないと、もう体で理解している。
せめてものリアクションとして、寝返りを打って巨人の方を向いた。

「自分の身に何が起きたか、知りたいでしょ♪
 何も理解しない内に終わるのもつまらないし、特別に教えてあげるわ」

巨人は上機嫌に話している。声を張り上げているのでもなさそうなのに、
体にその声がぶつかってきて、身も心も揺さぶられていった。

「まずこの場所ね。あんたは私の手のひらの上だけど、
 私がいるこの部屋は、あんたの家のトイレよ? ほら――」

空を泳ぐ肌色の怪物――もう片方の巨人の手に襲われて、足から逆さ吊りにされる。
何十mも下に白亜の構造物があった。その輪郭は楕円で、縁から中心に向かっていくにつれてすり鉢状に凹んでいて、大量の水を保持している。
巨人が身動きして、ぶらぶらと為すがままに揺られて、

「指を離しちゃおっかな~?」

楽しそうな声。その後に重々しい音が響いて、眼下の大量の水が轟音を起こしながら、
大渦を巻いてすり鉢の奥に飲み込まれていく――自分がどういう状況にいるのか、ハッキリと理解出来た。

「…や、やめて!離さないで!!お願いします――!!」

轟音と水流は続いている。今そこに落ちたら俺は――下水行きだ。
水流が起こす轟音で、自分が叫んでいるのかも分からない。
逆さ吊りのまま、さらに便器に近づけられて、水面が完全に落ち着くまで振り動かされ――。



「――あー、楽しかった♪おちびちゃんったら、ピーピー騒いじゃって……。
 せっかく私が手を回して縮めてやったのに、トイレに流すなんて台無しになるような事、するわけないじゃない」

……ここはまた、香織の手のひらの上だ。
背筋の凍りつく時間が終わり、蒼白になって震えおののいていた。
前回程強く圧迫された覚えはないのに、四肢は冷たく、力が入らない。これ以上なく肌も粟立っている。

「どうだった?自分が人間じゃなくなったって、少しは身に沁みたでしょ」

香織の声が頭を通り抜けていく。
もう言われなくても、この巨大な空間が、半年過ごした我が家の狭いトイレで、巨人に見えるこの女は、
普通の大きさの人間で、自分が虫みたいな大きさに縮んでしまったらしい事を思い知った。
今までの状況が思い浮かぶ――寝る前にテレビを見ながら食べた見慣れないツマミ、この女の言葉……おそらく、あれが原因なんだろう……。

「私も少しは楽しめたし、そろそろ戻ろっか……これから楽しみね」

指の壁が迫ってくる。明かりが遮られ、熱気と湿気が強まり――片手の牢獄に閉じ込められた。



~~~



香織が歩いているだろう揺れの中、ろくに動きが取れない――体もそうだが、頭もだ。
この状況でどうするか、どうすれば自分が助かるのか、全く分からなかった。

「どうしよっか…お父さんの帰りを待ってみるか、車で探しに行ってみるか……」

熱く、薄暗いこの空間に、隙間から香織の声入り込んでくる。

「えっと……」

香織とは違う声が聞こえた。

(……そうだ……明日香だ!)

失念していたが、娘がこの場にいたのを思い出した。
俺が小さくなっているというのなら、明日香はあの女と同じスケールの巨人になっている筈だ。
明日香なら香織にも対抗できるだろう。どうにか気づいてもらえれば、助けてもらうのも不可能じゃない。

「一人で待ってみます……。お呼び立てして、すみません。
 香織さんが来てくれて、すごく心強かったです!ありがとうございました!」

「ダメだ明日香!そいつに気を許すな!俺はここにいるんだよ!!助けてくれーー!!」

「どういたしまして、そう言ってもらえると嬉しいな。
 帰り道、それとなく近所を回ってみるから、見つけたら電話するね」

牢獄から急に放り出されて、地面を転がった。近くで巨大な物が動く気配がする。

「――さて、お暇するとしますか……何これ、虫……?」

香織の声が真上から降ってくる。
地面は荒く、溝が刻まれていたが、肌色ではなかった。この色と匂いは――畳だ。
慌てて立ち上がり周囲を見渡すと、広大なドームのような部屋の中に、目的の人物が見つかった。

「………明日香………」

明日香は同年代の女子の中ではやや小柄で、今でも抱っこやおんぶをしようと思えばできる体格だ――本来であれば。
それが今はどうだ。香織よりは背は低いと思う。しかし、両者を正確に比較できる余裕も物差しも、今の自分は持ち合わせてはいない。
あの可愛いらしい明日香と、目に映る巨人となった明日香をどうしても結び付けられなかった。
……それでも、助けを求めるしかないだろう。香織にあのまま連れて行かれずに済んだのは不幸中の幸いだ。

「明日香!この女が俺をこんな風にしたんだ!――」

香織を何度も指差しながら、明日香に向かって歩を進める。
どんな理由か、香織にも邪魔されずに明日香に近づいていくと、

「………こ、小人……?」

明日香がこちらを見て、目を丸くしながら呟いた。まだ俺と分かっていないみたいだ。

「俺だ!お父さんだぞ!――」

声を張り、両腕を振り、明日香にアピールを続けていると、
やがて明日香は俺から目を離し、巨大な両足を動かして、俺を避けるように俺の後方へ回りこんで行く。
振り返り、明日香の動きを追っていくと、明日香は山々の稜線のような物に手を伸ばし、その大質量を軽々と引き剥がした。
明日香がそれを持ち上げた事で露出した、その中身――大きさを除けば見覚えのある染みとタグ、この部屋の位置関係から、それが俺の布団だと気づいた。
明日香はこちらに顔を向けて、口を開く。

「……もしかして、お父さん……?」

「そうだ!俺だぞ!明日香!あいつを捕まえて…!警察を呼んでくれ!!」

明日香の行動はよく理解できなかったが、
俺だと気づいてもらえれば、こっちのものだ。
勇気づけられて、明日香へのアピールにも、より力が入る。

「明日香ちゃん……ルーペ!虫眼鏡どこかにある?持ってきて!」

「はい!」

「おい!待ってくれ明日香――!!」

明日香は俺をそのままに、香織にしっかりと返事をして、部屋から出て行った。



~~~



「虫と間違われて潰される、なんて事にならなくて良かったじゃない、おちびちゃん♪
 切っ掛け作ってあげたんだから、私にも感謝してよ?」

香織が気楽そうな小声で話し掛けてくる。

「……本当に!お前は何なんだよ!俺を元に戻せるんだろうな!?
 今すぐ戻すならまだ許してやらんでもないぞ!!明日香が戻ってきたら、警察にも通報できるんだからな!!」

恐ろしくもあったが、明日香の登場で、少しは余裕も出てきた。
今は力では敵わないからせめてもと、大声で香織に警告する。この女に弱気を見せてはいけない。

「……そんなキーキー鳴いても意味ないよ?おちびちゃんが何て言ってるのか、な~んにも分かんない」

「………は……?」

俺の大声が聞こえない?そんな筈は――

「あと忠告ね。私達人間には、不用意に近づかない方がいいよ?
 ふとした拍子で潰しちゃいそうだから、命が惜しければ気をつける事、ねっ」


ドン!!!


香織が手を動かしたかと思ったら、すぐ横で大きな爆発が起こった。
爆風でふっ飛ばされてゴロゴロと転がっていく。
――耳鳴りと衝撃で意識が定まらない。ヨロヨロと身を起こすと、笑い声が耳に入った。

「――ほらね?私がちょっと、手を振り下ろしただけでそうなっちゃうんだから、身の程知った方が身の為だよ~?
 明日香ちゃんへ償うチャンスを無駄にしないように、精々頑張りなさいよ」

呆然としていると、やがて明日香が足音を響かせて戻ってきた。



~~~



俺の部屋の畳の上。
明日香に覆い被されて、小山みたいな顔を近づけられている。
上空に浮いている巨大なレンズの奥で、拡大されていっそう巨大化した明日香の瞳が、恐ろしい。
香織が俺を虫みたいに思って見下しているように、
もしかしたら明日香も、今の俺の姿を嘲笑っているんじゃないか?と、不安がこみ上げてきたからだ。
とてもじゃないが、明日香の眼と視線を合わせるなんて、できそうもない。
自分が観察されていると思うと体も震えてしまう。
身の置き所もなく、悟られないようにしばしば体勢を変えて、自分自身と明日香を誤魔化していった――。



「香織さん、やっぱり、お父さんみたいです……」

「……そう……不思議ね……」

明日香の声は、大きく響いたものの、いつもと同じだった。
この年頃の少女らしさを含んだ、嘲笑などとは無縁の心配そうな声音だ。
やはり明日香は明日香だ――俺のたった一人になった家族で、実の娘なのだ。
勇気を奮い起こし、改めて明日香に助けを求めた。
自分の声が聞こえていない事も考えて、ジェスチャーに重点を置いてだ。

「――明日香!俺は!あの香織とかいう女に!縮められたんだ!
 あいつが犯人なんだよ!110番!警察に通報してくれ!!――」

二人の巨人の膝下で無様に踊っている自分が惨めだが、やらなければ。
俺の為は勿論、明日香の為にもだ。明日香の前では猫を被っている、得体の知れない香織という女は、
俺だけでなく、明日香にも手を出すかもしれない。そんな事は絶対に許せなかった。

「――もしかしたらお父さん、罰が当たったのかもしれないよ」

「え?」

香織が俺を見つめながら言った。俺の前で見せていたニヤニヤ笑いは消え失せている。

「実の娘の、明日香ちゃんみたいなかわいい子に、いくつも痣が残る程暴力を振るうなんて、本当なら許されないわ。
 神様が――ううん、もしかしたら明日香ちゃんのお母さんかな……。
 そんなお父さんを怒って、小さくしちゃったのかも……」

……ふざけるな……

「――お前が!!祥子を口にするな!!お前がやったんだろうが!!全部!!お前が悪いんだ!!おれは――!!」

激情のあまり涙が頬を伝わっていた。今、この女の顔をぶん殴れないのが、我慢ならない。

「……そんな……どうしたらいいんですか……?……救急車…110番……?」

「………明日香……」

聡い子だ。こんな異常事態でもパニックにならずに、俺の事を真剣に考えてくれている。

「待って。こんな事が世間に広まったら大騒ぎになっちゃうよ。
 明日香ちゃんのお父さんだって、世間の見世物にされちゃうか、
 悪ければ研究の為だって、捕まって監禁されたり……解剖されちゃうかもしれないよ?」

「……そんな………」

「まずはね、明日香ちゃんがお父さんと、よく話し合うといいと思う。
 お父さんが何て言ってるのか分からなくても、お互いの気持ちはきっと通じるでしょ?――親子だもの」

見世物、監禁、解剖……。そんな事が許されるとは到底思わない。ここは法治国家で人権というものがあるのだ。
――いや、しかし……。もし俺が元の大きさで、偶然世にも珍しい、話も通じない小人を見つけたら、どういう行動を取るだろうか……?

「……はい……」

明日香の返事が聞こえる。
香織が俺を置き去りに話を進めていく。

「私もお父さんの事、絶対内緒にする。明日香ちゃんとお父さん、家族二人の問題だから、
 私が必要以上に、あれこれと口出しするべきじゃないわ。
 もちろん、明日香ちゃんが頼ってくれるなら、協力させてもらうけど、
 お父さんも見知らぬ私がいると、不安かもしれないし……今日のところは失礼するね?」

「……はい……」

「明日の朝必ず伺うから、しっかりね。
 今はお父さんも興奮しちゃってるし、こんな目に遭って凄く怖いと思うの。
 ……だから、明日香ちゃんが、お父さんを守ってあげるんだよ?今のお父さんは、明日香ちゃんが頼りなんだから」

「……分かりました……」

話が終わると、香織は畳から立ち上がり、玄関へズンズン歩いて行く。
明日香もその後に続いていき、一人広い畳の上にポツンと取り残された。
玄関の方から二人の話し声がする。しかし、その内容まではハッキリと聞き取れない。
香織がこのまま逃げてしまったら、俺はどうなるんだろう……?
自分の存在が消えてなくなってしまいそうだった。






◆7
「お父さん、大丈夫?」

明日香が俺の部屋に戻ってきて、開口一番優しく聞いてくる。
俺の近くに座り込んで、困った顔でこちらを覗き込んできた。

「……明日香!…大丈夫だぞ……!」

上に向かって大きく片腕を振って答えた。

「……困ったな……。お父さんが何て言ってるのか、全然分からないの。
 だから、合図を決めた方がいいと思うんだ……。
 『はい』だったら立ってもらって、『いいえ』だったら座ってもらえないかな?
 ……お父さんは大変かもしれないけど、手を振ったり、指差したりする?…のはよく見えなくて、難しいの……それでもいい?」

「ああ、分かった!明日香は偉いな!」

肯定の証にその場で直立する。

「……えっと、私の話が伝わったのかな……?お父さん、分かってくれたなら、今だけジャンプしてくれない?」

明日香に言われた通り、その場でジャンプを繰り返す。

「…よかったぁ、わたしの話はちゃんと伝わるんだ……お父さん、何かしてほしい事はある?」

勿論肯定だ。明日香に信頼できる人物に、上手く相談してもらえれば、あの女だって――
……いや、誰に相談すればいい……?

この土地に引っ越してから、あらゆる人間関係を断ってきた。
俺には親しい親戚もいないし、祥子の生前も義父母との関係は薄いものだった。
最後に会ったのは、半ば無理やり祥子の遺骨を預けた時だ。
連絡も入れずに、明日香を連れて、あの土地から逃げてしまった過去を考えると、祥子の両親に泣きつくのは躊躇われる。
俺が唯一頼れて、信用できる人物といえば、それは明日香しかあり得なかった。

「明日香!!頼みたい事があるんだ!!」

両手を振りながら、明日香を仰ぎ見て叫んだ。

「……なんだろう……ご飯?…………お酒?……
 ……お風呂?………トイレ?………テレビ?………眠りたいの?………っと………」

合図の通り、胡座をかいて否定の意志を表す。
俺の気持ちが、明日香に中々伝わらないのがもどかしい。
明日香に、自分の怠惰な生活を羅列されて、責められている気分にもなってくる。
俺がこの家でする事といえば、まさしく明日香が並べ立てたものが全てだ。

「ごめんなさい……わたし、分からないよ……」

俺だって分からない事ばかりだ。でも、何かしなければ――何か……そうだ!

「明日香!!お前の部屋から!!紙と!!鉛筆――シャープペンの芯を!!持ってくるんだ!!」

一生懸命に、身振り手振りで明日香に示す。
けれども、明日香は困り顔で首傾げているだけだ。このままでは埒が明かない。

「お父さん?どこいくの?」

話もジェスチャーも通じないならば、『はい』と『いいえ』以外の行動で訴えるしかない――筆談だ。
彼方の、開いている部屋のドアへ走った。明日香の部屋に行く為に。
――凸凹した畳に足を取られながらも、部屋の入り口に辿り着く。明日香も後ろからゆっくりと俺についてきている。
玄関・台所との境界である敷居が、今の俺には文字通り高かった。腰の高さの段差に手をついて体を引き上げようとすると、

「お父さん、家のどこかに行きたいなら、わたしが連れてってあげるよ?」

そう言われて、明日香を仰ぎ見る。
家の中を移動するのもままならない自分が不甲斐ない。

「じゃあ、また聞いていくからね?
 ……台所?………物置?………お風呂?………トイレ?………家の外?………
 もしかして、私の部屋?……えっ、そうなんだ……分かった――はい、乗っていいよ」

明日香は、俺のすぐ側の地面に、手のひらを置いて促してくる。
慎重に、躊躇しながら、明日香の手のひらに乗り込んだ。明日香のリードに救われたのも事実だったが、
明日香に――巨人に身を委ねるのが不安でもあった。まだ、香織の手で弄ばれた恐怖は、ありありと残っている。

「行くね」

手のひらが上昇し、薄い水色の壁に密着した。
壁を見上げていくと、なだらかな起伏の奥に、明日香の顔が見える。
さっき上昇した時より大きな揺れが起こり、明日香が立ち上がったのだと分かった。
明日香の胸の下に抱え込まれて、明日香の部屋に運ばれていった。



~~~



「それで、お父さんはわたしの部屋でどうしたいの?」

明日香は俺を降ろすと早速聞いてくる。質問を保留にして、周囲を見回した。
俺の部屋と同じぐらいの広さである、明日香の部屋――広大な畳の大地が広がっている。
ノートか筆記用具はどこだ……最悪学校鞄か本でもあれば、紆余曲折したとしても明日香に伝えられる自信はある。
しかし、整理整頓が徹底された明日香の部屋には、ビル並のタンス、大きなテラスの屋根みたいな机、ステージのような布団、
壁際のハンガーに掛けられたセーラー服、懐かしい思い出を映した写真立てがあるばかりで、目的の物は見つからなかった。

「明日香!!学校鞄はどこだ!!紙と鉛筆だ!!」

無駄と知っていても、叫ばずにいられない。

「……だから分からないんだってば……お父さん、今日はもう遅いし休もう?
 明日になれば、香織さんも来てくれるし、きっといい知恵を貸してくれるよ」

「違うんだよ!!あいつじゃダメなんだ!!俺をしっかり見てくれよ!!」
 
明日香が虫眼鏡を持っている様子は――なかった。

「虫眼鏡はどうした!!俺の部屋に置いてきたのか!?」

反応を待たずに、取って返し明日香の部屋の入り口向かう。
だが、襖は完全に閉まっていて、俺の通れる隙間もなかった。
明日香が俺に近づく気配がして振り返る。襖を開けて、
ここに来たのと同じように運んでくれるのかと思ったら、
明日香は何故か眉を顰めて俺を見つめていた。

「……お父さんもこんな事になって、すごく怖くて、不安なんだろうけど、わたしだって困ってるんだよ?
 お願いだから大人しくしてよ……お水もご飯もトイレもお布団も全部用意してあげるし、
 わたしが絶対に守ってあげるから……今日はこの部屋で、昔みたいに並んで一緒に寝よう?……ね?」

明日香は俺の願いを却下して、こちらに手を差し出してくる。咄嗟にその手に駆け寄った。

「なんで!!分かってくれないんだよ!!俺は!!お前の父親だぞ!?」

感情を吐き出し、握りこんだ拳を明日香の小指の側面に、何度も叩きつける。

「……お父さん?」

明日香は困り声だ。それも、いつものような泣き声に変えてやる。
殴り、蹴り、引っ掻き、噛みつき、暴力の限りを尽くしていった。


――明日香、お前は、俺に懇願し、俺を許して、俺の言う事を聞いていればいいんだ――


「――もしかして、怒ってるの?」

またしても、明日香の困り声が降ってくる。しかし、さっきとは明らかに違う、
何か別の感情が混じったような、聞いた事のない声色だった。
その声につられて見上げると――

「――お父さん、全然怖くないし……痛くもなんともないよ?……ムズムズして痒いや」

明日香は、降ろしていた手を、風を巻き起こしながら上空に引き上げて、
もう片方の手で、俺が力を振るった所をカリカリとかきはじめた。
13歳になり、記憶より大人びた、俺より亡きの妻の面影が出てきた顔で――


明日香は笑っていた。


「香織さんも言ってたでしょ。
 お父さんが小さくなっちゃったのは、神様かお母さんからの罰なんじゃないかって。
 きちんと反省しないと、元に戻れないかもしれないよ?」


――やめろ……


「でも、安心して。お父さんを、早く許してもらえるように、わたしがお手伝いしてあげる」


――やめてくれ……


「わたしも頑張るから、お父さんも諦めないで、頑張ろ?」


――そんな顔で俺を見ないでくれ………


明日香が前屈みになって、こちらに手を伸ばしてくる。
その手で視界が埋め尽くされる間際、遠くの写真立てが見えた―― 一昨年、俺が撮った祥子と明日香の笑顔が。



――どうして、こうなってしまったんだ……






◆8
最寄りの駐車場に止めて車を降り、借家が連なる区画の砂利道の奥へ歩いて行く。
出勤時間より幾分か早い時間帯だ。土曜日だから、まだ安眠を貪っている人もいる事だろう。
10月にもなると、暑さもなくなって過ごしやすいが、雨が多く天気が不安定なのが面倒だ。
今の空模様も、これから一日が始まる朝だというのに雲行きが怪しい。
砂利道に茂る、背の低い雑草達の草露がヒールを汚すのも鬱陶しかった。
だが、昨夜あの家を後にしてからずっと、今日訪ねるのが楽しみでもあった。

明日香は大人しい子だが、あの年齢にしてはよくできた子だ。
あれ程虐げられても挫けずに、学校生活を送り、大人しい事を除けば性格も素行も至って問題ない。
あのクズみたいな父親の呪縛から解き放たれれば、これから光り輝ける原石だ。

――肉体的な力関係も逆転し、暴力に怯えずに済んで、娘は父親にどう接しただろう……?

昨夜の別れ際、それとなくヒントは与えた。
私の見立てでは、あの子は故意では命を奪わない筈だ。
おそらく、パニックになって死に至らしめてしまったか、力加減を誤って……そんな線が濃厚だ。
もしかしたら、あの子は今、あいつの死骸を前にして涙しているかもしれない。そうだったら、そのショックは仕方ない。
悲しみは一過性のものだし、時間が解決してくれる。あの子もあの男に縛られているより、思慮のある大人が導いてあげた方がずっといい。
私が慰めてやる必要はあるだろうが、あれぐらいの年齢ならどうとでもなる。

思索に耽っていると、その家に到着した。
『平林』という小さい表札が掛けられている家だ―― 一瞬見間違えたかと記憶を探る。
偵察を兼ねて密かに何回か訪れた時も昨日も、表札が掛けられている場所には、フックの金具が突き出しているだけだった筈だ……。
戸惑いつつも、脇にあるボタンを押し込み、呼び鈴を鳴らすと、

「は~い!」

家の中から、元気のいい少女の返事が聞こえた。
タタッと足音が近づいてきて、曇りガラスの向こうで速やかに動く姿、鍵を外す音。
ガララッと音を立てて戸を開けられると、そこには――

「あ、香織さん!おはようございます!」

「………おはよう、明日香ちゃん」

腫れぼったい目をして、その下に青黒い隈を作った、
爛々とした瞳の明日香がいて、元気良く、礼儀正しく挨拶された。

「どうぞ、遠慮無く上がってください。お茶もすぐ淹れますね」

「……ええ、お邪魔します……」

入って左手のキッチンに通され、椅子を勧められて2脚の内の1つに座った。
明日香は、テキパキと湯呑みと急須、お茶っ葉を取り出して準備していく。
逸らず、静かに明日香を観察した。
強がっているようでも、無理をしている風でもない。
まさか本当に、小人となったあの父親と和解したとでも……?
明日香が、急須から淹れたてのお茶を差し出してくる。
この家に来るのが楽しみだったのに、一転して居心地が悪かった。
とりあえず、お茶を一口飲んでから、明日香に切り込むとした。

「あれからどうだった?…お父さんは元気?まだ小さ――」

「――それが香織さん!聞いてください!
 あの後二人でお話して、お父さん、今までの事全部、わたしに謝ってくれたんです!
 真剣に反省して、もうお酒も飲まないし、真面目に生活するって約束もしてくれて――」

明日香は勢い込んで、嬉しそうに話を続けていく。太陽のようだった。
この子がこんな表情豊かに、魅力的になれるとは思わなかった。
……私にとってはまずい事態になったかもしれない。気になる事を尋ねてみる。

「……お父さんとお話、できたんだ?」

明日香はニッコリと笑い、深く頷いて口を開いた。

「色々な合図を決めて、意思疎通が取れるようにしたんです。
 ゆっくりでも、筆談とかにも挑戦して……そうだ!お父さん連れてきますね!」

「ええ……」

明日香は席を立ち、襖を開けて自分の部屋に入って、

「お父さん、良かったね。香織さんが来てくれたよ」

服の下、背中を冷や汗が滑り落ちた。
明日香がキッチンに戻ってくる。胸元に深めのタッパーを抱えていて、
机の反対側、私の正面の椅子に座ると、そのタッパーを私の方へ押し出してきた。
その中には――底面に写真が敷かれていた。
彩りも鮮やかな桜を背景に、素敵な中年女性と、可愛らしい女の子が収められた素晴らしい写真だ。
写真はプラスチックカバーの中で、タッパー底面の中央から微動だにしていない。接着でもされているのだろう。
隅には、何かの食材や液体の入ったペットボトルキャップが幾つかと、丁寧に何分の1かにカットされたティッシュの山もあった。
――あの父親はどこだ……?

「ごめんなさい。昨日の夜からずっとはしゃぎっぱなしで、
 さっき布団に入ったばかりなんです……ほら起きて、香織さんだよ」

明日香はタッパーの隅に指をやり、ティッシュを指でつまみ上げる。
すると、コロコロと何かがその中から転がり落ちた――あいつだ。
その扱いにも驚いたが、更に目を引く事があった。
その小人が裸なのは昨夜と変わりないが、肌色だった肌は所々赤黒くなっているのだ。


――この子は……


小人がヨロヨロと起き上がり、私を見上げると、両手を振って小さく跳ねながらピーピー騒ぎ始めた。
それを見た明日香は、タッパーの底を指でコンコンと叩いて、

「お父さん、挨拶は?」

と、一言呟いた。
小人は即座に身動きと鳴き声を止めて直立し、私に向かってゆっくりと最敬礼した。
唖然とした。明日香が期待するような表情で私を見ている。

「――孝さん、おはようございます。
 お元気そうで安心しました。親孝行な娘さんで、羨ましいです」

相応しい挨拶を選択した。
私が言い切ると、小人は最敬礼で頭を下げたまま、ガクリと膝をついた。四つん這いだ。
精神的なものだろう。起き上がってからの身動きを見る限り、骨折をはじめとする重傷を負っている様子はない。

「偉い偉い。そのまま休んでいいよ」

明日香が追い打ちをかけて、小人は自ら床に倒れ伏した。
そこにティッシュが被せられると、私と明日香は改めて、お互いに向き直る。

「――明日香ちゃん、言いそびれてたんだけど、
 お祖父ちゃん達、私が全て話さなくても、明日香ちゃんとお父さんの事情を、薄々察してくれてるみたいでね、
 実は昨日も、明日香ちゃんさえ良ければ、明日香ちゃんを引き取らせてくれないかって電話もあったんだ。
 ……お父さんはこんな事になっちゃったけど、明日香ちゃんは、どうしたい?
 このまま、今のお父さんと二人だけで暮らしたいのかな?」

「………お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、伯母さん達に一度会いたいです。
 でも、お父さんもこの家で、わたしと一緒がいいって言ってましたから、
 このまま、家族二人で暮らしていきたいんです……ダメですか……?」

じっと考えこんで出した明日香の返事は、予想できるものだった。

「ううん、ダメじゃないよ。でも……失礼を許してね、
 家計は大丈夫なの?明日香ちゃんも生活が大変じゃない?」

「大丈夫です。お母さんもわたしに沢山お金を遺してくれたし、お父さんの貯金もまだまだ沢山ありますから。
 今までも無駄遣いはしませんでしたし、家事だって頑張れます!」

「……分かった。お祖父ちゃん達には、私から上手く説明しておくね。
 お父さんの為にも、他の人には相談できないだろうし、
 困り事があったら力を貸すから、私にいっぱい頼ってよ?」

「はい!」

「明日香ちゃんも少し休んだら?…寝て、ないんでしょ?」

「はい、そのつもりです。お父さんに付き合ってたら、ついつい徹夜になっちゃって……」

「うん、私も今日は休みで職場には行かないけど、お祖父ちゃん達へ連絡する前の準備もしたいし、
 個人的な用事もあるから、これで失礼しようかな。あの番号なら、いつ電話してもいいからね」

様子も確認できて、必要な話も済んだ。この場は引き上げるとしよう。
親子水入らずの時間に、私が介入するのは無粋だ。
椅子から立ち上がり、玄関へ向かう――その途中、

「あの、香織さん!」

明日香に呼び止められて振り返る。

「ん、どうしたの?」

「お父さんへのお土産、ありがとうございました!」

頭を下げる明日香。その言動に目を見張った。
成る程、全て分かった――分かっていたのか……。
私の見る目は、良い意味で明日香に裏切られたのだ。


――この子の素質は、私の想像以上だった……


一晩であれ程の関係を構築しつつも、小人に重傷を与えないその手際。
自分を律し、何をすればどういう結果になるのか、自分がどうしたいのかを、
初めから理解していなければ、到底不可能な芸当だ。
私がこの子と同じ立場だったら――同じ真似はできなかった。

「――明日香ちゃん、もし、お父さんが病気になったり、怪我した時は
 口の固いお医者さんを紹介するよ。私の親友だから絶対大丈夫。
 明日香ちゃんが忙しい時は、お父さんを預かって代わりにお世話もできるし、
 色んなアドバイスもしてくれる……覚えておいてね?」

「はい、本当にありがとうございました!これからも、よろしくお願いします!」

明日香と笑みを交わし、気持よく平林家を辞する。



砂利道を駐車場の方へ歩いていると、曇り空からポツポツと小雨が降ってきた。
来る時に降られたら気に障ったかもしれないが、今は全く気にならない。
頭や顔、手に当たる雨粒と、視界に映る縦線が増えていく。
やがて駐車場に着き、自分の車の運転席に乗り込んだ。
背もたれに体を預けて、目を瞑る。


――今回のケースは、本当に身につまされた。


家族は掛け替えのないものだと、私があの子に教えられたようだ。
私の父はもう亡くなってしまったけれど――私にはまだ愛する夫がいるし、
一緒に暮らしてこそいないものの、血の繋がった大好きな兄だっている。
そういえば、ここしばらく義姉さんの家に顔を出してなかった。
この休日に夫を連れて遊びに行ってみよう。昔みたいに皆で仲良くゲームをしたい気分だ。


そうと決まれば、善は急げと、エンジンを掛けて、車を発進させる。
事故は起こさないように、留意しながらも迅速に家路を走らせていく。


――帰ったらすぐに夫に相談しよう。どんな顔をするか、今から楽しみだ……。






                         ~完~