始まりはあの子から
作:BLADE

長いですがアップロダーでは分割したくありませんでした。
なので、分かりやすいように各シーンに『◆1 登校』のように、◆の横に数字を付けてみました。
下記をコピペして、Ctrl+Fでジャンプして頂く事も出来ます。よければご活用下さい。

◆1   ◆2   ◆3   ◆4   ◆5   ◆6   ◆7   ◆8   ◆9   ◆10

------------------------------------------------------------------------------------------------



◆1 登校

麗らかな春の日差しと風の中、丘の上へ続く通学路を歩く学生服姿の凛々しい少年がいる。西野拓哉だ。
今日から中学三年生になる拓哉は既に身長170cmはある。
中学二年間水泳部で鍛えた体格もあって、ティーンエイジャー特有の瑞々しさに溢れていた。
しかし、今でこそ高校生と言っても通用しそうな拓哉だが
小学生時代は背が低い方で、第二次性徴前の顔貌の柔らかさもあったせいか、
成熟の早い一部の男子と女子にからかわれる事もあった。
それを未だに引きずって、拓哉は外面と釣り合うほどの内面を持っておらず、
どちらかと言えば奥手な性格だったが、事情を知らない人達はそうとは受け取らず、
拓哉を清潔感のある、親切でクールな少年だと評価しているのを、拓哉本人は知らない。



~~~



学校に到着した。
この学校は、小学校までのクラスメイト達と離れるために両親に訴えた結果、
父親の仕事の都合と、自分の学力を考慮して選んだ、中堅の私立中学だ。
幸い教育熱心な両親のお陰で、無事入学試験にも合格し、
身長もメキメキと伸びながら、充実した中学生生活を二年間終えて今朝に至る。

門をくぐってすぐの広場に掲示されているクラス表の前で、生徒達がワイワイと騒いでいた。
自分もクラスを確認する為に、掲示板の前に近づいていく。

「拓哉、今年は俺と同じC組!よろしくなー!」

「ああ、よろしく。悠斗」

掲示板前にいた、同じ水泳部に所属する五十嵐悠斗に元気よく挨拶され返事をした。

「今年はべらぼうにレベル高いぞ!一条、上原、森田…!神よ!」

「………」

美人で学年のアイドル的な女子達の内の三人が同じクラスだった為に、両手を組んで祈り始める悠斗。
軽く目を見張り、自分で改めて確認する。

(一条さん…)

いつから意識し始めただろうか……確か、2年の途中だったと思う。
一条早希は密かに想いを寄せる憧れの女の子だった。
艶やかな黒髪のポニーテールを振り、すっと通った鼻筋に、愛くるしいつぶらな瞳、色白の透明感のある肌にピンクの唇。
今まではクラスも違って教室も離れていたので、廊下ですれ違う時や学校行事で、こっそりと窺うぐらいしかできなかった。
しかし、同じクラスになれた今年こそは、何らかのコミュニケーションから関係を作れるだろう。
そう思いを馳せていると、クラスの掲示に思わぬものを見つけてしまう。

「あ、でも担任姑じゃん」

「うえー!マジかよぉ」

「世の中甘くはないんだな…」

自分達のクラスの担任教師が"姑"と名付けられている、
50代前半のベテラン女教師だった事実に、二人でガックリとする。
"姑"の由来は、その女教師の年齢とアダ名に相応しい容姿、生徒の生活態度に事細かく注意してくる性格からで、
HRやクラス毎の行事には、厳しくあれこれと口出しされる事必至だ。
しかし、受け持ちの教科である英語の授業は、その神経質さが良い意味で働き、単語・熟語、文法、発音、リスニングなど余念がなく、
ベテラン教師に相応しい教育実績を残しているため、クラス担任にさえならなければ、生徒の間でも評判は高い方だった。
気を取り直して、悠斗と雑談を交わしながら自分達の教室へ向かうのであった。



~~~



「皆さん、これからの一年、よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

"姑"の自己紹介が終わり、最後に勢い良く挨拶されたのでこちらの挨拶にも気合が入る。
中学二年間でこの教師の気質を皆理解しているからだ。誰だって新学年初日から姑に目をつけられたくはない。

「よろしい、これから講堂で始業式が始まります。
 席順と同じ出席番号順で並んで向かいましょう」

ゾロゾロと席を立ち、廊下に整列して講堂に向かった。



~~~



私立中学らしい立派な講堂で、並んだ椅子に腰掛けている生徒達――

「中学生という身も心も発達する時期に、勉学や部活動に励み、自分を磨く事は皆さんの大きな財産となるでしょう――」

始業式も終盤、ありがちな校長の訓辞に内心うんざりする。
他にもチラホラと姿勢を頻繁に変えて、無意識か意識的にか、不満をアピールしてしまう生徒もいた。

「――夜遊びや犯罪行為などに関わらず、自分を律して慢心する事のないように――」

(そんなに時間が大切だっていうなら、長話で生徒を拘束するのをやめてほしいな…)

心の中でぼやいて、雑念に浸っているとやがて校長が締めの言葉を放つ。

「皆さん、中学校生活の新しい一年を、充実したものに出来るように、頑張ってください」



~~~



教室に戻って10分程休憩を取ってから、早速出席番号順に一人ずつ前に出て話す自己紹介が始まった。
朝比奈という苗字の、如何にもフツメンと言われそうな男子の自己紹介が終わり、
悠斗が持ち前の明るさで元気よく話し終わると、彼女の番になった。

「一条早希です。部活には所属していませんが、最近興味がある事を見つけられたので頑張りたいです。
 今まで、一緒のクラスになった事のない人とも仲良くなりたいから、みんな、よろしくね!」

内容は無難な挨拶でも、発言者とその最後の一言は反則だった。
男子は見惚れて、ほぅ…とため息をつく者までいる。自分も勿論そのクチだ。
中途半端なぶりっ子は、特に女子からの評価が自然厳しくなるものだが、
一条早希の人柄が社交的で、嫌味がないと皆分かっている為に、
女子達は嫉妬する気持ちはあっても、完敗を認めるしかない。
朝倉という男子や悠斗の時より拍手の音が大きく、自己紹介タイムも序盤にして妙な雰囲気になってしまった。
一条早希に続き、上原という大御所の登場……この後の番はしばらく気が重いだろう。
姑の目と、アイドル的な女子の存在もあって、固くなってしまう人が多いが、
中学二年間で見知った仲も少なくないという事もあって、簡単な挨拶が次々と続いていき、ついに自分の番になった。

「西野拓哉です。小学生から水泳やってて、今も水泳部で鍛えてます。
 中学最後の一年なので、県大会は難しくても、地元の大会で賞を取れるように頑張ります。よろしくお願いします」

礼をして顔を上げると、窓際の前から三番目の彼女がニコリと微笑んでくれた。
礼儀正しい拍手に迎えられながら、自己紹介中よりも緊張し、硬い足取りで席に戻る。
やがて全員の自己紹介が終わると、そのまま担任によって新学年のガイダンスが進められていった。






◆2 誘い

今日は始業式なので昼前までの半日登校だ。
ガイダンスが終わり次第解散して、各自帰り支度を始める。
初日からクラスメイトを誘って遊びの約束を取り付ける者はいても、自分はそこまで積極的にはなれない。
三々五々散っていくクラスメイトを眺めながら、今日持って来た新学年用の水泳用備品を部室に置いてくるため、部室棟に向かうとした。
私立中学の恩恵に預かり、水泳部は室内プールを年中使用できるが、流石に今日は部活はないので、どんどん生徒が少なくなっていく。


「西野君、ちょっといいかな?」

渡り廊下を通って部室棟に入ってすぐ、鈴のような声に呼び止められた。振り向くと一条早希、意中の女の子が居た。

「……一条さん、何か用?」

ドクドクと鼓動が高まりながらも、冷静を装い答える。

「うん、ちょっと西野君にお願いしたいことがあって……」

(これはひょっとして自分にも春が来――)

「新しい部活……同好会かな?それを作りたくて、先生に申請しなきゃいけないんだけど、人数が足りないの。
 幽霊部員で水泳部と掛け持ちでもいいから、西野君も入ってくれないかな?」

(淡い期待だった……)

夢見がちな自分を戒めたくなる。でもこれは、彼女と交流を深めるチャンスではないだろうか。

「勿論、名義を貸してもらうだけで大助かりで、実際に活動しろってわけじゃないから安心して。
 こっちに顔を出してくれるなら嬉しいけど、西野君水泳部で頑張ってるもんね」

こちらを少し見上げ、上目遣いでお願いしてくる彼女……なんて破壊力だ。
自己紹介で水泳大会で賞を取るなんて言った手前、水泳部と一条早希との部活動との狭間で気持ちが揺れてしまう。
それでも、なんとか自重して答えを返せた。

「うん、僕も頻繁に顔は出せないけど、掛け持ちでいいなら入ってもいいよ」

「ほんと!?嬉しい~♪ ありがとう!じゃあ、私に着いて来て」

早希の後を歩いて、人気のない部室棟の階段を登る。水泳部は1階の室内プールの近くにあったが、荷物なんてこの際どうでもいい。
登るのに合わせてぴょこぴょこと跳ねる、早希のポニーテールがどうしても目についてしまう。
何で憧れの女の子の髪の毛っていうのは、こうも心惹かれるんだろう。
白いうなじ、ほっそりとした首筋も意識してしまい、自分の顔が赤くなってないか心配になった。

「西野君はさ、この後誰かと待ち合わせとか約束とかしてる?」

前を歩く早希に問われた。

「え?特に何もないよ。どうして?」

「ううん、もし約束とかあったら、全然時間は取らせないから安心してねって言おうと思って」

「なるほどね」

やがて部室棟の三階に着き、廊下の端の奥まった部屋に案内された。
ここは文化祭などの行事でしか使われないような多目的室だ。

「さ、ここでちょっとした説明を聞いてもらって、書類にサインするだけだから」

そう言って先頭を譲られ、早希に教室に入るよう促される。

ドアをガラララッと空けて中に入ると、いくつか机や椅子が並んでいるのが見えた。
その内の椅子の一つに、早希とよく一緒に行動している、活発な印象のあるショートヘアの女子の姿がある。
確か名前は安藤――

「やっほー」

「えーっと…」

「私、安藤佳苗。早希の親友、てのは知ってるよね?
 西野君、早希の我儘聞いてくれてありがとね~」

面白可笑しいといった様子で笑いながら挨拶された。

「ちょっと佳苗、私ちゃんと西野君にお願いしたんだからね! ね?西野君」

早希が後から遅れてやってきてドアを閉めながら言い放った。

「う、うん。同好会を立ち上げたいから、申請するために名義貸して欲しいって…そういえば何の同好会なの?」

応える自分に、座るように手振りで示して、早希も手近な椅子に座った。

「私外出てるね~、ごゆっくり♪」

佳苗は部屋から出て行く。

「それじゃ説明するね。この学校って新聞部あるでしょ? 行事の時とか、他にも定期的に写真取って記事にしたりする」

「うん」

「でも、写真そのものを楽しむ写真部って、まだないじゃない?
 だから、同好会でもいいから立ち上げたいと思ったんだ。
 私自己紹介の時にも言ったでしょ。興味のある事ってカメラなの」

彼女は鞄の中からゴテゴテとしたカメラを取り出した。

「へ~、一条さんみたいな子がカメラなんて珍しいね。確かに写真部……同好会も面白いかも」

彼女のまともな志に感心すると、満開の笑顔が咲いた。

「でしょー? 丁度いい機会だし西野君もとらせてよ。はい、そこに立ってー」

急だったが、憧れの女の子に写真を取られるのが嫌なんて事はない。
椅子から立ち上がり、彼女の指示通りにスペースのある壁際に立つ。
彼女はカメラを手に何かと調整をしていた。
やがて準備ができたようで、お決まりの合図が掛けられる。

「いくよ~……ハイ、チーズ!」

パシャッ

「うわっ!」

予想外にフラッシュが眩しかった。大佐程ではなくとも、目が痛く視覚も一時的に不自由になってしまう。
何度も瞬きを繰り返して目を慣らしていくと、何故かさっきまで目の前に居た彼女の姿がなかった。

「あれ、一条さん?」

それどころか、さっきまでとは全く別の場所にいるようだ。
やけに馬鹿っ広いスペースが目の前に広がって、その200mぐらい奥だろうか。えんじ色に縁取られて丸みを帯びた白っぽいオブジェが2つ並んでいる。
それだけで十分存在感を放っていたのに、そのオブジェからは紺色の太い柱が生えていた。

「やった!成功だ~♪」

上空から轟音が降ってきた。
それと同時にオブジェが勢い良く動き出す。
オブジェの大きさからも窺えるが、相当の質量があるらしくドーン、ドーンという地響きを何度か立てて前方20m程で止まった。

(何なんだこれは…?)

恐る恐る下から見上げていくと、紺色の柱が途中で薄いクリーム色に変わった。
よく見ると皺が目立ち、動物の皮みたいな質感だ。マジマジ見ていると

「佳苗~!もういいよ~!」

また轟音が響き渡る。さっきよりも近くからだ。耳を塞いでしゃがみこむ。
遠くでゴロゴロと雷のような音がして、また地響きが近づいてくる。辺りを見回すと、またあのオブジェと柱だ。

「どこどこ?……うわぁすごーい!……これが西野君……!?随分、かわいくなったね……
 初めて見たけど、自分の知ってる人がこんなに小さくなったと思うと、凄く不思議!」

ずっと耳を塞がずにはいられない。

「ちょっと、声を小さくしてよ。見張りしてもらった意味がなくなっちゃうじゃない」

「ごめん、ビックリしちゃって……もう分かったから」

「よろしい」

轟音の音量が落ち着くとそれが日本語で、それも話し声だった事に気がついた。

「西野君、落ち着いて。大丈夫、私が守ってあげるから」

片方の柱が折りたたまれて、上部の薄いクリーム色の部分が目の前にズシンと着地した。
高さがなくなっても太さをさらに増したそれは、もう建物というレベルの存在感だ。
もう片方の柱は聳え立ったままで、薄いクリーム色の建物と柱の上部には大面積の暗幕がまとわりついている。
薄暗い暗幕の奥には白っぽい何かがあるようだ。

「早希ぃ~、なに西野君にパンツ見せつけてんのよ~♪」

「ち、違うもん、西野君に落ち着いてもらう為に――」

大声が響いて建物と柱、暗幕とその奥の何かまでグラグラと激しく揺れ動いている。
ツンとするような甘いような、そんな臭いが漂ってきた。

「早希、冗談だってば。まずあんたが落ち着きなさいよ」

目の前の物体の揺れが収まってきた。しかし、この声の感じといい、話の内容と「早希」という名前といい――

「西野君、分からない? 上を見てよ」

確かに声は上から降りてくる。上を見上げていくと――
衝撃で腰が抜けた。上空には化け物じみた大きさの顔が浮かんでいた。

「う、ああ………」

言葉にならない。

「ごめんね?突然でびっくりしたよね?
 私、西野君が前から好きだったの。今日、一緒のクラスになれて嬉しかった……
 しかも西野君、二年生の時よりもまたかっこ良くなってたし、我慢できなくて――」

さっきまで何か分からなかったオブジェ、柱、建物、暗幕、そしてその奥の白いものの正体が分かってしまった。

「――物体縮小機で西野君を小さくしたの。私と一緒にいてもらうために」

巨大な顔の下にはそれを支える太い首、セーラー服を纏ったビルみたいな胴体も存在している。
片膝を付いて自分を見下ろしている早希の奥で、佳苗がにやにや笑っていた。
本来の対等な立場なら、好きな男子に告白する親友を誂うようなものなのだろうが
今の怪獣的な佳苗の笑みは、畏怖を覚える程、凶悪なものに感じた。



「西野君大丈夫?」

心配するように早希は優しく言ってくる。

「……は――う、うん、大丈夫……」

「もうちょっと、大きな声でお願いできないかな?」

「うん!大丈夫!」

「良かった。じゃあ、手に乗ってくれない?」

風を起こしながら早希の右手が自分の元に凄いスピードで伸びてくる。
ズンと手のひらが自分のすぐ近くの地面に降ろされた。ビクりと震えてしまい、早希の真意を問う。

「一条さん、手に乗ったら、どうするの?」

「えー?一緒に帰るんでしょ?早く行こうよ」

「帰るって……」

『どこへ』とは言えずに早希に急かされて、小指の根本辺りの低く登りやすい箇所からよじ登った。
指紋がちょっとした地層のようだ。地面はシットリと温かい。
早希の手のひらは自宅の自室よりは狭いものの、ちょっとした小部屋ぐらいの面積はあった。
落ちないように中央まで歩いて行くと、グンとGが掛かり尻もちを着いてしまう。視線の高さが凄い勢いで変化していった。
上昇が止まり上を見ると、さっきより近くに巨大な早希の顔がある。
正面には紺色の垂れ幕――セーラー服のタイと、緩やかなラインで中から持ち上げられている白い生地。早希の胸の高さだった。
周りの風景は遠近感が狂っているが、確かに自分が連れてこられた部室棟の多目的室だ……。

「ねぇ早希、私に西野君もっと見せてよ。こんな機会じゃなきゃ小人なんて絶対見られないんだし、いいでしょ?」

「え~」

「お願い。見張りも終わったし、この後の片付けだってしっかりやるから」

「見るだけだよ?」

早希の手のひらが揺れ動いて、自分ごと佳苗の前に差し出された。
佳苗が顔を近づけて覗き込んでくる。圧迫感があったがどこにも逃げ場はない。
佳苗はこちらに顔を向けて見ているが、こちらからは鼻の穴が丸見えで、瞳の向きのせいで見下されているように見える。
笑っているのも相まって、ハッキリ言ってしまえば醜悪だ。たまに吹いてくる強風のような鼻息も生臭い気がしてくる。

「ほんとに凄い……西野君って身長170cmくらいはあったよね……何分の1にしたの?」

「1/50だよ。今は3.4cmくらいだね」

「へ~~……それっ」

「うっ!」

おそらく佳苗の、丸太みたいな指だ。上半身を正面からどんっと押されて後ろに倒れこんでしまう。胸が詰まって息が少し苦しい……。
すると、極近くから衝撃と音と振動がして光が遮られた。

「見るだけって言ったでしょ!? 西野君に気安く触らないでよ!」

「ごめん早希、あんまり可愛かったから、ちょっかい出したくなっちゃって……」

「気をつけてよ……西野君だって怖かったと思うよ」

急造の天井が持ち上がって、それが早希の左手だった事に気づいた。

「突いちゃってごめんね、西野君」

佳苗が両手を合わせ謝ってくる。
実のところ、急に被せられた早希の左手の方が怖かった。でも、それらに怒りは感じない。そもそもこの巨人二人に、怒りを感じる余裕がない。

「あ、ああ!気にしないでいいよ!」

自分を奮い立たせて快活に答えた。
少しでも巨人達の心証を良くしなければ、どうなるか分からない。
自分の答えに二人の巨人は顔を見合わせて笑っている。

「一条さ――」

「じゃあ帰ろっか。西野君の荷物も縮めるから、私の家に着くまでこの箱に入っててね」

考え直すように言おうとしたところで早希が話し、
おそらく普通のサイズだと、指輪ケースぐらいの箱の中に降ろされる。箱の中には可愛らしいプリントが入った、ハンカチらしきものが敷き詰めてあった。
すると、箱の外からピカッとあのフラッシュが瞬いて、その後自分が多目的室まで運んできた鞄を摘んだ指が降りてきて、鞄を箱の中に落とし、
直後天井が降ってきて、衝撃、音と共に完全に真っ暗になる。

「私も今度その縮小機使わせてよー」

「ちゃんと秘密守ってくれるなら、また今度にね。人はダメだよ?」

「勿論!私は早希みたいに、『好きな人を射止めやるぅ』なんてつもりもないし」

そんな会話が聞こえてきた。






◆3 一条宅

暗闇の中、上下左右に大きく揺られている。
どうにかしてハンカチの端の取っ掛かりにたどり着き、それに抱き着いて体を固定した。
体ごと激しく揺さぶられる事はなくなったが、ひどい乗り物酔いを催す拷問は続いていく。
途中、早希が電車にでも乗ったのか金属の悲鳴が聞こえて大揺れが収まった。荒く息を着いて呼吸と吐き気を落ち着かせる。
他の人に助けを求めようとも思ったが、天井を開ける手段もなく出そうにも大声なんて今はとても無理だ。
それに例え大声を出せたとしても、今の自分が出せる声量では……。
早希の鞄の中に仕舞われているだろう小箱の中の小人の声なんて、他の人間が気づく筈がない。
今は体調を整える事だけに集中しよう。外から聞こえてくる物音とスー、ハーという自分の呼吸音、抱きしめているハンカチに縋りながら、じっと耐えていった。



~~~



「私の部屋にようこそ~♪」

麻痺した感覚で、光が差し込んだのが分かった。

「あれ……?わっ、西野君大丈夫!?」

早希の驚きを表す声が降ってくる。
あの束の間の平穏の後、再び地獄のような時間が続き、
胃液も出し尽くしたかと思うほど吐き戻して、自分の吐瀉物に塗れて横たわっていた。
小便も漏らしてしまっていると思う。

「……いち、じょうさん……ゆれて、きもちわるく、なっちゃって……」

「……?……あ!酔っちゃったんだ。気づかなくてごめんね……お水とか持ってくるからちょっと待ってて!」

自分の様子を察してくれたのか、早希がドタドタと足音を立てて遠ざかっていくのが分かった。
しばらく深呼吸をして、体を落ち着かせる。多分自分は真っ白な顔をしているだろう。

「西野君。お湯とかスポーツドリンク持ってきたよ」

箱の中、自分のすぐ近くに甘い香りを放つ白い塊が現れた。
その塊は水分を含んでいて大きな水滴がポタポタと伝っていて、熱を放っている。

「西野君が元気ならお皿であげたいんだけど、今は動かせそうにないから、
 ティッシュにお湯とスポーツドリンクを混ぜたものを漬け込んでみたの。どう?これで飲めそう?」

声で返事をする余裕がなく、手を上に向かって軽く上げ、フラフラと水源に近寄る。
喉も乾いて体調は最悪だ。体はこれ以上ないほど水分とエネルギーを欲している。
白い塊に倒れこむと、全身を温かい甘い香りの水分に包まれた。
顔の周囲から湧いてくる水を、ごくごくと飲み込んでいく。温かく微かに甘い。
体に染み渡るという表現があるが、今の状態はまさにそれで、自分にとっては砂漠のオアシスだった。

「私、しばらく側にいるから、何かあったら言ってね? ゆっくり休んでていいよ」

頭上から優しい声がする。自分の体調が悪いのが早希のせいだとしても、この配慮と声音を思うと、何故か怒りよりも感謝が湧いてくる。
無理な体勢でずっといた事もあり、強張った筋肉が少しずつほぐれていく。そのままティッシュに体を預けて少しずつ水を口に含んでいると、やがて眠気が押し寄せてきた。



~~~



微睡みを邪魔するムズムズとした感触がある。
目を開けると白い布団が覆いかぶさってガサガサと動いていた。

(これは……?)

仰向けのまま手を突き出して、その布団を退けようとすると

「あれ?」

声と共に布団がバッと取り払われる。布団が消えたその奥には巨大な顔があった。
顔の主の胴体は、Tシャツと薄手のカーディガンに変わっている。

(そうだった…一条さんに連れてこられて、体調崩してそのまま――)

「起きちゃったんだ。調子はどう?もう気持ち悪くない?」

「――ありがとう、一条さん。服がびしょ濡れで、汚れてて気持ち悪いけど、それ意外は大丈夫」

「良かった~、体が冷えると良くないと思って、水気を取ってから
 ティッシュ掛けてあげようと思ったんだけど、すぐお風呂入ったほうがいいよね。はい、乗って?」

箱の中に丸太でできた筏のような早希の指が差し込まれ、床が指の方へ少し傾いた。
指から乗って手のひらの中央に行くと、もう片方の手のひらがドームのように上からドッキングして、浮遊感のある移動が始まる。
上下にも揺れているので早希はどこかに歩き始めたようだ。


1分もしない内に揺れが収まり、隙間明かりが差し込む天井がなくなった。
今回は短時間で、早希も配慮してくれたお陰かまた酔う事もなくてほっとする。

「温度も調整できるから、遠慮なく言ってね。服も私が洗ってあげる」

反響する早希の声がして、ドボドボという水音が響き始めた。
早希の顔の奥、遥か高い本物の天井に暖かい色の光を放つ照明、
それに照らされてピカピカとしているそそり立つ壁が、この荘厳な空間を造り出している。

(これが風呂場なのか…物語の中の神殿みたいだ…)

「ほら西野君、丁度いい温度だと思うよ?」

手のひらの縁から覗いてみると、眼下には大浴場かちょっとしたプールのような、洗面器に張られたお湯が揺らめいていた。
十分飛び込める高さだったが、早希の目があって戸惑ってしまう。

「あの、一条さん…」

「あ!目閉じてるから、服脱いでも大丈夫だよ」

そう言ってぱちりと目を瞑る早希。
それを見て、ゴソゴソと肌に張り付き酸っぱい臭いのするワイシャツとスラックス、靴下、下着を脱ぎにかかる。
ベルトと履いていた上靴は、小箱で揺られていた時にどこかへいってしまっていた。

「服置きっぱなしだけど、お風呂、頂きます」

返事を待たずに洗面器の中のお湯に飛び込むと、ベタベタと肌寒かった体が温もりに包まれる。
水面に顔を出してほーー……と深く息をついていると、早希がこちらを覗き込んできた。

「熱かったり温かったりしない?」

「うん。丁度いい温度だよ」

「隣で西野君の服洗ってるからゆっくりしててね」

「お願いします」

十分な深さと広さの洗面器風呂で体を洗い、寛いでいると早希は別のガシャガシャと水音を立て始める。
洗面器の中から見える早希の体も小刻みに動いているから、別の容器の中で自分の服を濯いでいるのだろう。
それこそ巨大な洗濯機で洗濯物を洗うようなものだ。
やがて、水を流す音がすると、早希は容器を手に浴室から出ていき、隣の部屋でグワーーーンという騒音が始まった。
自分の服にドライヤーでもかけているんだろうなと思っていたら、案の定

「西野君の服乾いたよー。ごめんね、靴下小さすぎて分からなくて……水と一緒に流しちゃった……」

という声と共に洗面器上空に早希が現れた。

「ああ、それぐらいいいよ。それより、もう上がりたいんだけど」

「はーい」

水中に早希の手が滑り込んできて、周りのお湯と一緒に掬い上げられた。
お湯がどんどん引いていき、バスタオル――千切られたティッシュが何枚か掛けられて体を拭くように言われる。
ゴワゴワとしていても吸水性がいいティッシュで、一通り体を拭き終わった頃、すぐ近くに自分のワイシャツ、スラックス、下着がバサバサと落ちてきた。
まだ少し臭いが残っているが、他に着られる服もない。早希に見られないように手早く着替え始める。

「じゃ、私の部屋に戻ろっか」

着替えが済んだタイミングで早希の声が放たれた。



~~~



来たばかりの時は、小箱の中でダウンしていたため分からなかったが、
早希の部屋は、今自分が小さい事とは関係なしに随分と広く、
品の良さそうな家具が置かれ、可愛らしいレイアウトで装われた見事なものだった。
個人の部屋なのに、勉強机とは別に今自分が乗っている机、椅子、ソファ、大型テレビ、パソコンまで置いてある。
どこからともなく、芳しい香りが漂ってくるのが心に毒だ。
周りを見回していると、

「改めまして、西野君、私の部屋にようこそ~♪」

上機嫌な早希の声で歓迎された。

「う、うん。お邪魔します……?」

「ふふふ、好きな男の子が自分の部屋にいると思うと、なんだか恥ずかしいね」

早希は机に向かった椅子に座って照れ笑いしている。

「一条さん、前にも聞こうと思ってたんだけど」

「うん、なになに?」

「――僕って元の大きさに戻れるんだよね?早く元に戻してくれないかな?
 僕も一条さんの事好きだけど、こんな風に一緒になるのは、嫌なんだよ」

風呂に入ってスッキリできたためか、勇気を持って早希に訴えられた。

「え、西野君も!?」

轟音と強風。

「嬉しいな~♪ 去年まで、たまに通りがかった時に、私を見てくれてたのは気づいてたけど……そっか~……♪」

「一条さん、分かってくれた? 僕が元に戻りたいって」

本題を理解してくれたのかどうか、この態度ではとても不安だ。
もう一度確認してみると、早希は「う~ん」と思案している。

「せっかく一緒になれたんだし、もう少しこのままでいない?
 元の大きさだと私の家で過ごすなんて、なかなかできないでしょ?
 後でちゃんと元に戻してあげるから、お願い!」

ずっと心配だった元の大きさに戻るのは可能か?という懸念も払拭され、『後で元に戻してあげる』という言質も取れて、
何より、可愛らしくお願いされては頷く他ない。早希は微笑んで満足気だ。

「ところで、西野君お腹空かない?もうお昼の1時近くだよ」

確かに、吐いて体力も失ってとても空腹だった。
寧ろ、体調も良くなったからいつもより沢山食べられそうだ。早希には聞こえないだろうがグルグルと腹の虫も鳴いている。

「うん、お腹減ったな」

「御飯の支度するから待っててね」

早希は頷くとそう言い置いて、部屋の外に出掛けていき、机の上にぽつんと取り残された。
学校の運動場並の広さの机にはテーブルクロスが掛けられているだけで他には何もなく、部屋の広さも相まってひどく殺風景に感じる。
慎重に机の縁に歩み寄り、恐る恐る下を覗き込むとデパートの屋上から見えるような高さ、何十mも下にカーペットが敷かれた床が見えた。
体が小さくなった事で自重も減り、もしかしたらここから飛び降りても、大怪我はしないで済むかもしれない……とても試す気にはならないが。
縁から中央に戻って手持ち無沙汰に待っていると、やがて早希がトレーを手に戻ってきた。部屋を出てから10分も経っていない。

「お待ちどう様!今日はハンバーグ定食でーす。
 昨日の作りおきだけど、ちゃんと温めてきたから美味しいと思うよ」

ゴトッと音を立ててトレーが机に置かれ、和風ダレと肉が絡んだ臭いが漂ってくる。
トレーの上には茶碗、ハンバーグが覗く大皿、湯気を立てているスープ皿、水の入ったガラスのコップが乗っていた。

「西野君はこのお皿で食べてね」

シャーレみたいな薄めの小皿が自分の前に2つ用意される。
自分にとっては畳何畳…レベルのお皿の片方は水がたっぷり入っていて、もう片方は空っぽだ。

「本当なら、ご飯もお皿も縮めて西野君用のものを出すつもりだったんだけど、
 縮小機のバッテリーとご飯の準備が間に合わなくって……これで勘弁してね?」

早希はそう言って、空っぽの小皿に自分の箸とスプーンで米粒の塊、ハンバーグ、人参、じゃがいもの欠片、スープを装ってくる。
それぞれが自分と同じかそれ以上の体積があった。

「お箸とかはこの中に西野君用のが入ってるからね」

自分サイズの巾着袋が降ってくる。戸惑いながらも巾着袋の中から一式を取り出して小皿の前に移動し早希の様子を窺うと、

「召し上がれ♪」

ニッコリと笑った早希に食事を勧められた。

「頂きます」

食事を始める。
縁を跨いで小皿の中に入って、まずはハンバーグと野菜に取り掛かるが、
ナイフやフォークを駆使して、やっと大きめの一口サイズを作り出せるかどうかだ。
どれも繊維質で、丁度いい大きさにするのにとても苦労するし、なかなか噛みきれない。
米粒にいたってはナイフやフォークの入る箇所もなく、直接齧りつくしかなかった。
極めつけはスープで、自分がいる小皿の床に広がっているので這いつくばって啜る有様。
こんな自分の様子を早希はどう見てるのだろうと見上げると、
自分より大きなハンバーグや、米粒の塊を次々と箸で口に運んで自分の食事に集中していた。
圧倒されてしまうものの、早希に感づかれまいと急いで食事を進め、また奮闘していく。

やがて、空腹という調味料もあり、十分な量を腹に収めて一息着いた。
"料理"を総括すると、食感は悪く、ソースと素材が絡まない大味さがあり、
手放しで美味しいとは言えないものだったが、これは自分の大きさのせいだろう。
汚さないように気をつけていたのに、残念ながら服は所々シミになってしまった。これもきっと大きさのせいだ。
到底食べきれはしなかった料理の小皿を背に、水を飲み、汚れた手足と箸などを洗っていると早希の食事も終わりそうなのが分かる。
ゴクゴクとスープを飲み終わった早希が器をおろして「ふぅ」と息を吐いて口をティッシュで拭っている。

「ご馳走様でした」

今日日珍しく両手を合わせて言う早希に合わせて、自分も「ご馳走様でした」と挨拶すると、早希はこちらに顔を向けた。

「美味しかった? 実は私が昨日作ったものだったんだよ?」

早希は得意そうにアピールしてくる。

「美味しかったよ。凄いね、一条さん。僕なんて母親に任せっぱなしだよ」

「私も中学生になるまではそうだったよ。
 でも、ここでお姉ちゃんと暮らすようになってから、少しずつ料理覚えていったんだ」

「え?両親と一緒に住んでないんだ」

「うん、中学生になってからここで二人暮らし。お姉ちゃんが通ってる大学が自宅から遠くて、マンション借りてるの。
 そこに一緒に住まわせてもらってるんだ。お姉ちゃん忙しくて、あんまり帰ってこないから、実質一人暮らしみたいなものかも。最近は特にね」

「じゃあ、僕がここにいるのを知ってる人って……」

「うん、私だけだよ。佳苗は知ってるけど、ちゃんと口止めしてあるから大丈夫」

「そうなんだ……」

「後で色々お話しようよ。私食器片付けてくるね。
 あ、お箸とかは西野君が管理してよ?私には小さすぎて、よく分からないから」



~~~



「へ~西野君って妹いるんだ」

「うん、両親と妹の4人暮らし」

早希が片付けを終えて戻ってくると、
前に早希の姉や両親に触れた事もあってか、自分の家族の話になった。

「妹さんは何歳?」

「10歳の今年から小学5年生。生意気だけど家族皆で可愛がってるよ」

「じゃあ妹さんが、今の西野君見たらびっくりするよね」

妹の天真爛漫っぷりを思い出して、顔を綻ばせているところに爆弾が落とされた。
想像の中で、自分より頭一つは優に背の低い妹が、見上げる程の巨人になってしまったのだ。
絶句して早希を見つめてしまう。それでも、早希は悪気や悪戯心があるわけでもない、無邪気な笑顔をしていた。
おそらく、今のも大した意味もないあるがままの発言だったのだろう。

「羨ましいな~、私末っ子だから、弟か妹欲しかったんだー。
 お姉ちゃんも、昔はよく一緒に遊んでくれたけど、今は全然構ってくれないの。忙しいのは分かってるんだけどね~……」

「……一条さん、また質問してもいい?」

「いいよ、何でも聞いて」

「……縮小機って、何? どうして、一条さんはそんなものを持ってるの?」

ずっと疑問に思っていた。縮小機の存在なんて今まで14年生きてきて一度も聞いたことがない。
精々空想上の産物だったのに、今、自分が人の手に乗る程のサイズに縮んでいる現実。
それを感覚では理解できていても、自分の中の常識ではまだ信じ切れなかった。

「すごいよね? 私もそれまで全然知らなかったんだけど、
 今年の春休みに、お姉ちゃんの部屋のクローゼットの奥に仕舞ってあったのを見つけてね。
 何だろうって思って、側にあった難しい説明書みたいのを頑張って解読して、面白そうだったからお姉ちゃんには内緒で借りたんだ」

「……ってことは、お姉さんは縮小機の事、よく知ってるんだよね?」

「そうだと思う。お姉ちゃん、私と違ってすっごく頭いいんだよ。
 忙しいのも大学の研究室とかに入り浸ったり、その伝手で高収入のバイト頼まれたりしてるからだもん」

「そうなんだ…」

自分の境遇が早希の独断で起こされたのは確定的だ。人柄が分からないため不安だが、
縮小機の持ち主である早希の姉が姿を見せたら、助けを求める事も考えなければならない。
そう心に刻みながら早希と他愛もない雑談を続けるのであった。



~~~



「そろそろ買い物に行こうかな」

早希の色々な話に拙くも合わせていき、結構な時間が経った頃、早希がポツリと零した。

「本当は西野君と、一緒にお出かけしたかったんだけどなぁ……あんなに酔っちゃうとは思わなかったから、仕方ないよね」

激しく頷いてしまう。あれは、自分の意思で辞められない、遊園地の改造海賊船のようなものだ。二度と経験したくない。
早希はそんな自分の真剣なリアクションには気づかずに、部屋を出たり入ったりして外出用の身支度を整えていき、
クローゼットの方で何やらゴソゴソと音を立て始める。やがて四角い入れ物を取り出し、自分のいる机の上に持ってきた。

「私がいない間、この中でお留守番しててもらいたいんだけど…」

早希が置いたそれをじっと眺める。
入れ物の四方の壁は透明でプラスチック的な質感だ。
底面には全面に布が敷き詰められて、その上に食事で使ったのと同じ小皿が2つ、
隅には何枚かのティッシュを軽く丸めて作られた山がこんもりと作られている。
天井に当たる入れ物の上部は、藍色の格子状の蓋。つまり、これは小学校の教室にあるような――

「誤解しないで欲しいんだけど、西野君を虫扱いするつもりなんて全然ないから。ただ、丁度いい入れ物がなくて……。
 これなら外からも中からも様子が分かるし、密閉されてないから空気も音も通るし、丈夫だし……」

早希はしどろもどろに弁解を続ける。

「あのね、この部屋、マンションの高層階だから、虫なんてまず出ないけど、
 今まで一度も出なかったわけじゃないの、このぐらいの大きさの蜘蛛とかも出たことあるんだよ」

今の自分と同じぐらいの大きさを指で示す早希。

「だから、私がいない間、西野君が安心して過ごせるようにって考えたら、こうなっちゃって……
 ほら、これならもし大きな地震が起きて、部屋にあるものが動いても、西野君も大丈夫かなって……ごめんなさい……」

最初は自分が入るようにと言われた虫籠――飼育ケースに愕然としたが、
必死に早希が理由を話して、謝ってまでくれたので納得できた。
万が一でも、自分と同じ大きさの蜘蛛に襲われるなんて、想像したら背筋が何度凍りついても足りない。

「――そんなに思い詰めないでいいよ。僕の事気遣ってくれてありがとう。
 後で元に戻してくれるなら、文句なんてないからさ。いってらっしゃい」

感謝に自分の希望をしっかり念押しして、早希を送り出す。

「良かった、ありがとう。お水もおやつもあるし、テレビも見れるようにしていくからね。
 トイレは……えーっと適当にしてくれれば大丈夫だから」

虫カゴの蓋を外した早希の手が自分の元に降りてくる。
促されずともその手に乗って、早希がケースの中に自分を移すのを待った。
手からケース内の床に降り立ち、天井の蓋が再び填められると、
大型テレビが見える位置にケース毎移動され、早希がリモコンを手にしてテレビが点けられる。
「いってきまーす」と早希は慌ただしく出かけていった。

忘れずに持ってきた食器類の入っている巾着袋を適当に放り、
テレビのカットが切り替わる瞬きを浴びて、流れる音声をBGMに早速ケース内の物色をする。
ケース内は小皿二つが床の半分程を占めていて、片方には水、もう片方には早希にとって細かく砕いたクッキーが沢山あった。
食料と同様に大量のティッシュの山はトイレとして用意されたのだろう。
トイレに使う前ならその中に埋もれて布団やベッド代わりにも出来るかもしれない。
一通りケース内を確認し終わり、テレビでも見ようかと向き直ると、馴染みのあるものを発見した。
表面が汚れて酸っぱい臭いを放っていたが、小箱の中に置きっぱなしの筈の自分の学生鞄だった。早希が気を利かせて入れてくれたんだろう。
頭や世間の常識では理不尽な目に合っている自覚はあったのに、こちらを気遣う早希の言動と、
巨大になっても可憐さを損なわない早希の容姿や在り方にちょっとした感動を覚えてしまう……。
ふと、鞄の中から携帯を取り出してみるが、電源は点かなかった。

(まぁ、元に戻してくれるって言ってたし、今の状態をもっと楽しんでもいいのかも。
 今日まで、あんなに一条さんと気軽に話せるとは、思わなかったしなぁ……)

砕かれたクッキーの中でも小さい塊を手に取り、テレビに向かって座り込んで早希の帰りを待つとした。






◆4 留守番

「あはははは――」

大きな笑い声で微睡みからズルリと引き上げられて、ビクッと自分の体が硬直したのが分かった。
いつの間にか床に敷いてある布に横倒しになっていて、辺りには食べかけのクッキーと細かい食べかすが散らばっている。
テレビは寝る前までに見ていたものと変わっていて、出演者が大げさに笑っているバラエティ番組になっていた。
時計を見ると、早希が出掛けてから1時間半ぐらいは経っている。
色々あって疲れていたとしても、早希にこんな間抜けな姿を晒さずに済んで良かった……。
体についた食べかすを払って、食べかけのクッキーを元の皿に放り込む。
早希は気づかなくても、辺りに散らばった細かいカスも自分の精神衛生上掃除するべきだろう。
自分の鞄の中から下敷きとノートを取り出し、それらを使ってクッキー皿の近くに寄せ集めていく。
掃除もケリが着いた時に、部屋の外から物音が響いてきた。早希が帰ってきたのだろう。

「ただいま~」

一瞬何なのか分からず呆けてしまった。

「早希ー、いないのー?」

外から聞き覚えがない声が響いて、段々と気配がこの部屋に近づいてくる。
半ばパニックになって下敷きなどを鞄に仕舞い、巾着袋も抱えてティッシュの山に潜り込んだ。
部屋のドアから良く通るノックがして、間もなくガチャリとドアが開けられる。間一髪だ。

「なんだ、いないのか。買い物行っちゃったかな」

入り口の方で女性の声がした。恐る恐るティッシュの山から窺うと、
部屋の入口に早希より背の高い、若い女性がいた。
黒髪のストレートロングヘアーで、デニムパンツに薄手の白いセーターを着ている。
プラスチックの壁越しなので鮮明ではないが、
その女性の容姿は、早希がそのまま成長して大人びたような感じだという事は分かった。
部屋に入って来てから聞こえた声も、どことなく早希と似ているから、この女性が早希の姉で間違いないだろう。

「テレビ点けっぱなしじゃない……なにこれ、虫籠?」

テレビをリモコンで消してから、その女性は机の前でこちらに向き直った。
見られている緊張で、ティッシュの山の中にいても体が震えてしまうのをグッと堪える。
息を潜めて女性が去るのを待っていると、ケースがグラリと揺れて上昇していくのが分かった。
ティッシュの隙間からケースを掴んでいる女性の手が、壁越しに指紋がよく分かるドアップで見えている。

「……何にもいない……これから入れる予定かな。あの子がペットなんてねぇ……」

浮遊感の後、ガタンとケースが着地した衝撃がした。
慎重に窺うとその女性は勉強机の方でペンを取り、何かを書くような動作をしてから早希の部屋を後にした。
しばらく隠れたままで息を整える。遠くの方で聞こえていた物音もやがて止み、
完全に気配がなくなり、あの女性が立ち去ったと確信できて、やっとティッシュの山から這い出せた。
緊張で喉がカラカラだ。水皿から水を掬い、喉を潤して心身を休ませる。
しかし、早希の姉と会ったら、助けを求めようなんて考えていた自分が情けない。
実際に初対面で、事情も知らない巨人を相手に話をしようなんて、大甘だった。
それならまだ、自分をすぐに元に戻すようにと、早希に強訴する方がマシだ。
テレビも消えて静かになった室内で考えを巡らしていると、自分が尿意を催していた事に気づき、
さっきまで隠れていたティッシュの山に向かってちょろちょろと用を足す。
用を足して汚れたティッシュは、まだあまりあるボリュームを誇っていた。



~~~



「ただいま~」

女性の襲来からしばらく、早希が出掛けてから2時間ぐらい経った頃。
部屋の外から物音と早希の声が聞こえる。
テレビがなくても、鞄に入っていたガイダンスの冊子類を眺めていたので、それほど退屈はしなかった。

「ごめんね。色々回ってたら遅くなっちゃった」

「おかえり、何を買ったの?」

部屋に入って、まず自分の元に急ぎ、ケースの蓋を外して言った早希に問いかける。
スーパーの袋はキッチンに置いてきたと思われるのに、早希はまだ大きな紙袋を持っていた。

「ごはんの材料も買ったんだけど、西野君の生活用品を色々とね」

そう言って早希は紙袋の向きを変えて、こちらに近づけて見せるように持ち上げる。
それは某量販店のロゴが書かれていて、紙袋自体がまるでその会社ビルみたいな威容を放っていた。

「留守中何もなかった?」

「それが――」


一部始終を話す。


「うん、それお姉ちゃんだよ。今日帰ってくるとは思わなかったなぁ。部屋の鍵掛けておけば……う~ん……。
 でも、西野君が見つからないようにしてくれて助かったよ。縮小機の持ち出しがバレたら、ちょっと厄介な事になったかも……」

勉強机の上には、やはり姉の書き置きがあったらしく、早希はメモ用紙を手に取りそれを眺めている。
自分が見ているのに気づいた早希が、

「あ、これ? 『まだ数日留守にするから、一人でもしっかり頑張りなさいよ』 だって」

と説明してくれた。
姉の口調を真似たのか、いつもより低く調子掛かった声を作った早希だったが、姉の声には全然似てなかった。
姉の声はやや大人びているものの、早希と同じく綺麗な高音だ。
もしかしたら、そんな風に姉が早希を叱る場面もあるのかもしれない。早希の新しい一面を見て少し吹き出してしまった。

「今時書き置きなんて珍しいでしょ?お姉ちゃん、携帯全く使わないってわけじゃないけど、
 パソコンに慣れてる分、携帯で文章作るの面倒くさいんだって」

「優秀ってだけあるね。女の人なのに珍しい」

早希は小言をいいながら、帰宅後の身支度を整えてから、早速買ってきた荷物を整理し始めた。
机の上に、部屋の外からもあれこれと持ち込んだ物を広げ、買ってきた物と一緒に大きなボストンバッグに詰めていく。
やがて作業が完了したらしい早希は、うんうんと何度か頷いた。

「そんなに沢山どうするの?」

素直に聞いてみた。

「へへ~、西野君が不自由しないようにって集めたんだ。縮めるから西野君の好きにしていいよ」

「え?」

まさか、その荷物全部が自分の為の物だとは思わず、唖然としてしまう。
そうしている内に、縮小機を取り出した早希は荷物に向けてシャッターを切った。
眩い閃光。目が慣れてくるとケースの外の広大な机の上に、
ポツンと、自分にとって違和感のないサイズになったボストンバッグがあった。

「ほら、西野君も確かめてみてよ」

早希によってバッグの側に移された。
ボストンバッグの中には、男物の部屋着と下着、サンダル、バスタオル、ハンドタオル、プラスチック製のコップ、洗面器、
歯磨きセット、包装されたままのティッシュ箱、文庫、漫画単行本、雑誌、お菓子類、ペットボトル飲料などでいっぱいだ。
特に衣類は何枚も入っていて、自分の為だけに用意されたものだと思えないぐらいの量がある。

「こんなに貰っちゃっていいの?」

「そんなに高くなかったし、お小遣いも多目に貰ってるからね。遠慮無く使って?」

柔らかい声と表情でそう言われるが、これらを見て気になる事があった。

「あの、今日、元の大きさに戻してもらえるんだよね?」

「え?」

キョトンとした顔がまんま早希の答えだ。

「いや、今日家に帰らないと家族も心配するし……一条さんのお世話になりすぎるのも、どうかと思うから……」

「一日ぐらい外泊しても大丈夫でしょ? 友達の所に内緒で泊まってたって言えばいいじゃん。
 それに、私の事は気にしないで、西野君に一緒にいてもらえるだけで嬉しいの」

それまでは早希のかわいい笑顔に強く出られなかったが、ここはハッキリ言っておくべきだ。

「僕も一条さんにそう思ってもらえて、嬉しい。でも、このまま元に戻れないんじゃないかって不安もあるんだ。
 泊まるのも、一緒にいるのもいいけど、せめて一度元に戻してくれないかな」

それを聞いた早希は、じっとこちらを見つめて黙っている。
その間が少し恐ろしい。

「……そうだよね。私強引だったかな……。好きな人でも、男の人がすぐ側にいるのって、怖いところあるから……
 つい縮小機使っちゃったけど、西野君の事、本当に考えたら、そんな事しちゃダメだったよね……ごめんなさい……」

早希は真剣な口調で謝って頭を下げてくる。ここにきて漸く分かってくれたみたいだ。

「分かってくれて嬉しいよ。一条さんが、今まで誠意を持って接してくれた事は、僕もちゃんと分かってるから。
 一度元に戻れば、家族に外泊するって連絡もできるし安心だよ。戻れる保証があるなら、また小さくなってもいいからさ」

「……それなんだけど」

言いづらそうに早希が言葉を紡ぐ。

「さっきバッグ小さくしたでしょ?その分で、バッテリーの残量なくなっちゃって……
 元の大きさに戻すのに凄く消費するから、西野君が元に戻る為に必要な充電が、今から丸一日ぐらい掛かるんだ……」

「……そ、そうなんだ…じゃあ明日こそよろしく!色々用意してくれてありがとう!」

ガックリきたが、早希に悟られないように元気よく話した。
せっかく早希も自分の気持ちを理解してくれたのに、それをぶち壊すわけにはいかなかった。



~~~



気を取り直して、再びバッグの中を検分し始める。早希は縮小機のバッテリーの充電をセットしてから、勉強机に向かっている。
早希のセンスはなかなか良く、衣類も無難に揃っており、フィット感さえ無視すれば普段自分が身にするものと遜色ないだろう。
文庫、漫画、雑誌も自分の年代で流行っていそうなラインナップ。菓子はとにかく多種多様で大量。
ペットボトル類はありがたい事にジュースではなく、お茶やミネラルウォーターだった。
その他の備品も含めて全部チェックし終わる頃、早希が悩ましげな声を発した。

「一条さん、どうしたの?」

「宿題じゃないんだけど、私、数学苦手だから問題集解いて自習しようとしたのに……さっぱり分からない……」

「僕も見ていい?」

「いいよ。西野君が見るなら、あの籠の上からがいいかな」

早希はそう言ってケースを勉強机の上に置いて、自分を蓋の上に移した。早希が用意してくれたバッグも一緒だ。
準備が整って再び問題集に向かう早希。上から見ると、図形の合同や相似などの証明問題だった。確か学校ではもう修了した課程だ…。
早希の手が止まっている問題を見ていると、答えへの見当がついたので、早希に話しかける。

「口出ししてもいい?」

「うん、是非お願い」

「まず、材料を集めるんだ。取っ掛かりを見つける為に補助線を引いたり、
 答えそのものじゃなくても、余白に確定してる事はどんどん書き込んでいいんだよ」

早希はまだ問題とにらめっこしている。具体的なヒントを出そう。

「その三角形の底辺を伸ばしたり、四角形の対角線に補助線引くとどう? 同じ角度が見つけられるでしょ?」

「こう?」


ほとんど自分の指示通りに問題を進めて、始めは分かったか分からないのか微妙な顔をしていた早希だったが、
幾つか問題を解いていく内に、自発的なペンの動きが多くなっていく。
完全に早希だけで解けるようになるのは、勉強を始めてからしばらく経った頃だった。

「こんなに勉強が捗ったの初めてだよ!ありがとう、西野君!」

問題集も何ページもこなして早希はご機嫌だった。

「どういたしまして。でも、大したことじゃないよ。もう習ったとこだから。
 一条さんもコツ掴めたらスラスラ解けてたじゃん。他の教科の成績もいいんだし、数学が苦手っていうのも思い込みなんじゃないの?」

「……それがね――」

早希は内情を話してくれた。小学生時代、程々に教育熱心な両親の元で育ち、何かにつけて優秀な姉と比べられて嫌だった事。
それでも腐らずに勉強を続けていたある日、算数の問題で分からない所を父親に尋ねたら、その時は虫の居所が悪かったらしく、
『こんな簡単な問題も分からないのか!』と凄まじい剣幕で怒られた事。その時は姉が家にいて仲裁に入ってくれて事無きを得たものの、
それ以降、両親と勉強――特に算数・数学に苦手意識を持つようになってしまった事。

「ここに住むようになったのも、お姉ちゃんが 『一度親離れしてみたら』って勧めてくれたからなんだよ。
 お父さんとお母さんにも、『あの子にも伸び伸びとした環境も必要よ。私が監督するから』って説得してくれて……」

他所の家庭の事情、それも早希にとっては言いづらかっただろう話を聞いて、驚いた。
学年のアイドル、憧れの女の子―― 一条早希も人並みに悩んだり、苦労しながら生活してきたんだ……。

「いいお姉さんなんだね……一条さんは僕に妹がいて羨ましいって言ってたけど、僕も一条さんにそんなお姉さんがいて羨ましいよ」

早希は「あはは」と笑って

「うん……自慢の、お姉ちゃんなんだ……たまに小うるさいけどね?」

早希と、また少し近づけた気がした。






◆5 団欒、そして――

「あ、もうこんな時間!ごはんの支度しないと」

ケースの上で寛ぎながら早希の勉強を眺め、たまに口出しして過ごしていたら、いつの間にか時刻は18時過ぎだ。

「夜は和食にするつもりだけど、何か嫌いなものはある?」

「いや、珍味とかゲテモノでもなければ何でも好物」

「さっすが成長期の男の子。すぐ用意するから待っててね~」

早希は勉強道具をざっと片付けて、自分をケースの中にそっと移してから部屋の外へ出て行った。



~~~



「夕食のメニューは御飯、鯵の開き、煮物、お味噌汁。デザートに苺でーす♪」

差し入れの本を読んで時間を潰していると、
30分ぐらいで、大きめのトレーに料理を乗せて戻ってきた早希が、自分を料理と同じ机の上に招待して言った。

「もう主婦レベルじゃん……ホントにすごいよ」

「親離れの功罪だね。色々出来るようにはなったけど、面倒に思うことも多いんだよ?
 今日は学校も半日だったし、西野君もいるからオーソドックスに決めてみました♪」

得意気というより、もはやドヤ顔といってもいいかもしれない。
そんな早希を見て顔がニヤついてしまうのを抑えながら、早希が自分用の皿に料理を装ってくれるのを待った。
ハンバーグ定食の時とは違って、早希は幾つかのお皿に食材を別々に装ってからスプーンで押し付けて潰したり、
箸で解してくれたりしている。苺なんて予めみじん切りだ。
前回、自分が苦労しながら食べていたのをちゃんと見ていて、今回は配慮してくれたようだ。

「はい、召し上がれ」

「頂きます」

自分の御しやすい大きさになった食材に、どんどん箸(スプーン)をつけていく。
食べ易くそれぞれの料理が混ざらないように、早希が配慮してくれたお陰で昼とは段違いだ。
サイズ的に食感が普通とは違ったり、味が濃い部分薄い部分はどうしてもあるが、それすらも楽しめる余裕が今はある。

「ご馳走様でした。一条さん、凄く美味しかったよ。ありがとう」

「お粗末様でした。お昼に気づけなくてごめんね」

和やなやり取りをして食事が終わる。
自分用の箸などの食器類を水皿で洗って巾着袋に仕舞い、早希に片付けを任せて、そのまま食卓だった広い机の上でのんびり食休みだ。


30分ぐらいで早希が戻ってくる。このぐらいの時間なら、早希も自分をケースの中に入れる必要はないと考えているようだった。
いくら透明だとはいえ、頻繁にケースの中に入れられるのは遠慮したかったので好都合だ。
早希は片付けついでに、明日の朝食の下ごしらえ、風呂のタイマーなどを設定したそうで、部屋に戻ってくると

「暇になっちゃったから一緒にテレビ見ようよ」

と言って、テレビのチャンネルを合わせ始める。
もう19時になり、ゴールデンタイムに突入したテレビ番組は季節柄特番ばかりだ。
自宅でなら、有料放送のスポーツ中継や映画を見るところだが、早希の好みに任せてバラエティ番組にチャンネルが決まった。

「なんかさ、街中にいると自然もほとんどないから、
 気候よりもこういうテレビの特番でこの季節になったんだー!って気にならない? 大晦日とかお正月は特にそう」

「分かるよ。出演者の衣装とスタジオセットもそれらしくなるし、毎年恒例の長寿番組は独特の雰囲気出るよね。
 でも、今日新学年が始まったばかりの、学生が言う台詞じゃないと思うな」

早希のOLみたいな発言にツッコミを入れるのを忘れない。

「えー、だって4月になると並木の桜も殆ど散っちゃうし、中学3年生じゃ見知った顔ばっかりで、
 『春』って面白みに欠けるんだよ~……でも、私はこの季節、好きだな………。
 西野君と同じクラスになって、こうやって話せるようになったしね♪」

嬉しい事を言ってくれる。その後も机の上で、こちらに向かった椅子に座っている早希と、テレビの内容にリアクションを取り合い、
話を発展、連想、脱線させつつ、二人穏やかな時間を過ごしていった。



長時間の特番もキリ良く見終わり、セットしてあったお風呂のお湯が張られたという事で、早希は入浴の準備を始める。
早希の入浴が済むまで、ケースの中で待ちぼうけだ……と思ったら自分を乗せた手は、いつまで経ってもケースに向かわない。

「一条さん……?」

手のひらの上から早希の顔を見上げると、早希は顔を紅潮させてもじもじとしていた。

「――西野君、お風呂入らない?私と一緒に」

「え……」

予想外の事態に硬直してしまう。早希の様子も変わらず、恥ずかしそうなままだ。

「で、でも、もう昼にお風呂入れてもらったし、食事とかで少しは汚れたけど、水もタオルも沢山あるし……」

「普通の大きさだと、一緒に入るなんて機会まずないでしょ? せっかくだから……どう?」

「……一条さんはそれでいいの?」

「――うん。実は私ね……西野君がお昼にお風呂入った時、西野君の着替え覗いちゃってたんだ……だからこれでお相子だね」

「ふふふ」と紅いままはにかむ早希。頷くしかなかった。



~~~



今日の昼に来た筈なのに、随分と久しぶりに感じる。
柔らかい橙色の照明に照らされて煌めく壁。その壁に囲まれた壮大な空間。
以前と違うのは、湖と見紛う浴槽に張られたお湯。そこから立ち上る暖気。今、自分は裸で浴槽脇のスペースにいた。
今の心情のせいか、外部とある種隔絶した浴室ならではの効果なのか、非日常を強く実感する。
脱衣所から届く篭った物音も、絶対に無関係じゃないだろう。
想念に潜り、ゆらゆらと光を反射している水面を眺めていると、
外から聞こえていた物音が止み、脱衣所に続く曇り窓のドアがスライドしていく。

「お待たせ」

女神が降臨した。
照明に照らされて、尚ハッキリ美白と分かる肢体が艶やかに光と影を纏い、その体の実在を証明している。
引き締まった太ももは、その巨体を支える強靭さを感じさせながらも、靭やかで柔らかな曲線を描いていた。
上に続くにつれその太もものラインが外へ膨らんだかと思ったら、今度はキュッと窄まり見事なくびれを作り出す。
輪郭から視点を変えて太ももの付け根、その中心には色白の背景の中で映える、疎らな黒い林。
その下腹部から視線を上げていくと、見るだけで質感が分かりそうな肌が広がっていて……在って当たり前のお臍が、今はとても奇妙に感じる。
そして、なだらかな起伏の、それでも陰影を持つ膨らみが二つ。膨らみの先端には、桜色のサークル。サークルの中に蕾がツンと生えていた。

「西野君?」

ハッとして女神の顔を見る。女神の顔もその体と同じく輝く女性性を持っていて、顔は紅いものの温和な笑顔をしていた。

「――何?一条さん」

とりあえず返事はしておく。
早希はいつものポニーテールを解いて、後ろに流した髪の毛を下の方で束ねていた。
純粋な黒髪と髪型。その体の神秘性と相まってこの神殿の女神……巫女……?とか思い浮かんでしまう。

「そんなにマジマジ見られたら、恥ずかしいよ……早く入ろ?」

早希は昼に自分が入った洗面器でお湯を掬い、素早く体に掛け流していき、それが終わると浴槽の縁を跨いで湯船に身を沈めた。
その早希の動作の一部始終を見てしまったが、不可抗力だ。

「水面も落ち着いたし、西野君も入ってね。洗面器と違って広いから泳げるよ?」

早希はこちらと反対側の浴槽の壁に寄りかかっている。許可が出た以上否やはない。
浴槽の縁から水面までそれなりの高さがあっても、高飛び込みの要領で入水した。
自分に配慮してくれたのか、温水プール並の温度だ。水面に顔を出すと早希のはしゃぐような声が聞こえる。

「――すごく綺麗な飛び込み……!色々泳いで見せてよ♪」

自分の取り柄を褒められて、憧れの女の子と合意の元で混浴。心地よいお湯に浸かって今にも天にも昇りそうだ。
調子に乗って、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロール、古式泳法など次々に披露していく。
普段はキャップ、ゴーグル、サポーター、水着をぴっちりと着用するので、全裸で思う存分泳ぐのは妙に開放的で――変な気分だ。
早希は泳法一つ取っても、「すごいすごい!」と大はしゃぎで、ターンなどしようものなら水中にも響く、号砲のような拍手をしてくる。
その動きで一時的に大波が起こるのはご愛嬌だ。
そのまま、それぞれの泳法のコツ、息継ぎ、手足の動かし方などの解説までしてしまった。
早希は興味深げにこちらを見ながら、コクコクと頷いている。
泳ぎに関係するちょっとした雑学まで披露してしまってから、会話は一区切りついた。
久しぶりに思う存分体を動かせてリフレッシュでき、後はプカプカとのんびり風呂を楽しむとした。早希も目を閉じてリラックスしている風だ。

「ねぇ、西野君」

心地よい静寂がふと破られた。

「ん?なに?」

「もっとこっちに来てもいいよ?そっちだけじゃ、広いお風呂がもったいないじゃない」

「…………」

泳いでいても、漂っていても、早希とは反対側の半分ぐらいで済ませていた。
風呂の水位は早希の胸の高さぐらいで、顔をそちらに向ければ、どうしても見えてしまうから、
なるべく意識しないように、早希の方に近づかないようにと、自制していたところにこれだ。

「遠慮なんてしなくていいよ。前も言ったけど、お互い様だもの」

広い浴室に反響する早希の声。同じ立場なら、何かの啓示にさえ感じる人もいるだろう。
返す言葉もなく、ゆっくりと、慎重に、平泳ぎもどきで早希の方へ泳ぎ、近づいていった。
段々と視界の中で大きくなってゆく早希の体。水面から屹立する胸元から頭。
それは大勢の天才造形師によって世に具現化した巨像のようで――それでも、表面は滑らかな肉感を持ち、滴る水滴すらその体の一部に思える。
全体をギリギリ視界に収められる位置で、近づくのを止めた。早希に遠慮しているわけではない。
それ以上はその圧倒的な存在感に、ちっぽけな自分が飲み込まれてしまいそうで、本能的に躊躇われるのだ。

「…男子って女子の体――おっぱいとか凄く触りたいんでしょ? 紳士な西野君が恥ずかしいなら、私が触らせてあげようか♪」

悪戯口調の早希の声が降ってくる。すると、水中から巨大な水生生物が襲来し、背中から捕まった。
目に映る早希の体が――胸がどんどん大きくなっていき……ぎゅうっと色白の肌に押し付けられた。

「西野君っ……」

こんなにも迫力があるのに、繊細な感触を全身に感じる。柔らかで、滑らかなウォーターマットみたいだ…。
自分のものではない『どくん、どくん』という鼓動が聞こえる。自分を押さえつけ、拘束している早希の手の力も強いが、苦しくはない。
お湯に浸かってないのに全身が心地よい温かさで包まれていた……。
一条早希と、裸で体を重ねていると頭で認識したらもうダメだった。
それまで、理性で抑えながらも自己主張を続けていた下半身が、
今は脊髄から腹の下にビリビリと流れる命令を受け、はち切れんばかりになってしまっている。
もう早希の手で押さえつけられるだけではなく、自分からもぞもぞと手足を動かして、
ハリと弾力のある早希の肌に抱きつく――とても抱えきれないので、張り付いているだけかもしれないが。
――どれくらいそうしていただろう……衝動を解き放てないもどかしい時間が流れていた。

「ねぇ……」

色っぽい早希の声と同時に、背中に掛かる力がなくなり、
仰向けに倒れこんだ場所は早希の手の平だ。
見上げると、さっきよりも浴槽の壁に体を預けて、斜めになった早希の上半身が見える。

「私が支えててあげるから……ここも触ってほしいな……いいでしょ?」

早希は扇情的な表情でこちらを見つめながら、空いている右手の指で自分自身の左乳首をつんつん突いている。
ゴクリとつばを飲み込む。自分を乗せた左手のひらがゆっくりと、早希の右手が示すその場所に向かって動き出して、すぐに目的地に着いた。
眼前の、ピンクのサークルから突き出すピンクの蕾は、自分の頭何個分とかいうレベルだ。
これほど近いと、その表面のでこぼことした凹凸、皺までよく見える。
蕾の持ち主をチラと見上げると、こちらを見下ろし期待した表情で待っているのが分かった。ならば、その期待に応えよう。
両腕をその巨大な蕾に回して、がしっとしがみつき、さらに抱きしめる。

「はぁっ……」

巨体がグラグラと揺れて、周囲に響く吐息が零れた。それに構わず力を込めて蕾を抱きしめ、押し込み、顔と上半身を擦り付ける。
見た目通りごつごつとした感触だ。とても蕾全体は動かせないが、力を入れれば表面的に形を変える事はできる。
自分が蕾を刺激する度に返ってくる反応が面白い。興に乗って叩いたり、殴ったり、引っ掻いたり、舐めたり、噛み付いたりもしてしまい、
ついに早希の吐息も喘ぎ声になりかけだ。こんなに体格差があるのに、自分が早希を御しているような不思議な感覚だった。
蕾――早希の乳首はさっきよりも膨張して、体積と硬度を増している。
もう腕も上手く回らないので、滑り落ちないように、乳首に合わせて体を引き上げようとすると、
それに早希も気づいたようで、自分が落ちないように添える左手の高度が上がってベストなポジションに達した。
早希には悪いが、ここで発散させなければどうにかなってしまいそうだ。
両腕を下ろした状態で乳首に半ば体を預けて、凹凸の取っ掛かりを見つけて固定し、ストロークをつけて、ギンギンに膨張したペニスを乳首に擦り付けていく。
ストロークと乳首に置いた両腕に掛ける力にも強弱を付けて、早希を悦ばせるのを忘れない。何度も何度もひたすら擦り付けていく――。

「西野君……気持ちいいよ……」

その言葉で堰が切れた。最初に勢い良く迸ってから、ドク、ドクという脈動で次々に吐き出していく――。
精液も出し切り、快感の波も収まって、やりきった疲労感でいっぱいだ。
深呼吸を何度かして、乳首から体を離し後ろに倒れこむ。早希の手のひらに仰向けになると、微笑んでいる早希と目が合った。

「――おつかれさま。そのまま休んでなよ」

そう言われて、早希が浴室に入ってくるのを待っていた場所である、浴槽脇のスペースにそっと降ろされる。
早希はというと、浴槽から上がり、浴室の床で仰向けになって両脚を大きく開き、左手を右乳房、右手を陰部に添えた。
やがて、緩急を付けて小刻みに、時に激しく揺れる巨体。猥雑な水音と早希の呼吸音が、静かな浴室に響き続ける。
自分の位置からは、早希の陰部とそれを弄る右手がよく見えた。十分に濡れているそれらは、明かりに照らされて、揺れながらテラテラと艶めかしく光っている。
早希の躍動する右手は、割れ目をなぞり、開き、時に僅かに指を入れ――しかし、ほとんどはその割れ目の上部を執拗に責め立てていた。
中指、人差し指、親指が陰核を擦ったり、挟んだり、押しこんだりする度に呼吸音が激しくなっていく――。
その独り遊びに自分が割り込む余地は全くない。あれに巻き込まれたら、自分なんてあっという間にすり潰されてしまうだろう……。
大迫力の自慰にただただ圧倒され、自分の疲労も忘れて見入っていると、漂ってくる早希の臭いが、より濃厚さを増して空間を支配していく。
呼吸音に悩ましい喘ぎ声が混じり始め、早希の右手が速度を増していく――。
そして、最後に「んぁあっ」と大きく鳴いて、ビクンと跳ね上がった早希の体は数秒硬直し、その後クタッと脱力した。
早希の陰部には、とろっとした透明の液体が纏わりついている。
それを眺めていると、その割れ目から液体がバシャバシャと溢れ出し、眼下のタイルを流れて急造の小川が出来上がった。
その先頭は短時間で排水口に達し、それに導かれて次々と水源から湧き出す水が流れ込んでいく。
薄く色づいて、もわっと熱と臭いを発する小川の流れを呆然と見続けた。



~~~



入浴が終わり、早希の部屋の机の上でテレビを見ながら寛いでいた。

―――あれからの事はあまり覚えていない。
昼と同じように、洗面器風呂に入れられてテキトーに自分で体を洗った気がするが、
直前の印象が強すぎて『心ここにあらず』だったと思う。正直、今もそうだ。
体を拭いたり、寝間着に着替えたり、歯を磨く時間もあった筈なのに、
早希ともあれから会話らしい会話をした覚えがない。早希は部屋にある鏡台の前で、ドライヤーで髪を乾かしている。
早希に誘われて、自分も積極的になってしまったが、好きな女の子との初体験があれで良かったのだろうか?
そもそもあれを初体験と呼べるのか?などと、自問と扱いに困る感情が胸中を渦巻いている。
一人悶々としていると、ドライヤーの音が止まった。早希がこちらに近づいてくる。

「――今日は、私に付き合ってくれてありがとね」

「……うん、こちらこそ」

「明日は普通授業だから、帰ってくるのは夕方になっちゃうけど」

「分かってる……明日はよろしく……」

「うん。疲れただろうから、もう寝ちゃおっか……おやすみ――」

ケースに移される前にチュッと口付けされる。寝間着の上から全身に早希の濡れた唇が当てられた。
天井の蓋が填められると、早希は自分のベッドに潜り込み明かりを消して、部屋全体が暗くなる。
自分も手探りで寝床になりそうな所を探して横になった。
風呂に入ったばかりだというのに、早希の唾液で肌が露出しているところがベタベタとしている。ツンとした独特の臭いも漂ってきた。
暗闇の中、微かに早希の安らかな呼吸が聞こえる。
早希が完全に寝入った頃、また湧き上がってきた欲望を存分に発散させた。






◆6 二日目

バタバタという騒音で目が覚めた。天井の格子越しに明かりが差し込んでいる。
外ではセーラー服姿の早希が、忙しなく動きまわっている。どうやら学校に出掛ける時間のようだ。

「おはよう、私も寝坊しちゃった。学校行ってくるから、お留守番よろしく。
 はい、朝ごはんとお水。簡単でごめんね、時間なくて」

昨日の今日でどう声を掛けようか思案していると、早希が至って普通に話し掛けてきた。
古い二皿が取り出され、新たな二皿が入れられた。新しい皿には水と砕かれたコーンフレークがそれぞれ入っている。
よほど急いでいたのか、フレークは原型を留めるものもあった。

「テレビは何かリクエストある?チャンネル合わせたり、番組の予約とかOFFタイマー設定ぐらいはしてあげられるよ?」

「いや、今日はテレビは要らないや。ごはんもありがとう。
 気をつけて行ってらっしゃい。帰ってきたら、頼むよ」

「はぁい、行ってきまーす」

早希は部屋を出て外から鍵を掛けて、小走りの足音が遠ざかっていき、やがて気配がなくなった。

時刻は朝8時。早希が帰宅するまで8時間ぐらいか。確か縮小機のバッテリー充電もそのぐらいで完了する予定だ。
広くもないケースの中で8時間も過ごすのは憂鬱だが、幸い時間を潰せる小説・漫画・雑誌群がある。
朝食のフレークも自分からしたら山盛りで何食分にもなるし、早希から貰ったバッグの中には、まだロクに手を付けてない大量の食料・飲料もある。
昨日の消耗で眠気が残っていたものの、起床後の身支度――小用、洗顔、食事、大きい方の用を済ませていった。



本来は学校で授業を受ける時間に暇、というのは開放感と同時に罪悪感があるものだ。
昔、小学生時代に、ちょっとした微熱を誇大して、それを理由にズル休みしたのを思い出す。
あの時は、最初こそ『一日好きに過ごせるんだ!』と、ワクワクしてテレビを見たり、ゲームをしたりして過ごしていたのに、
時間が経つにつれて、そのワクワクが霧散していった。学校で勉強しているクラスメイトの事を思うと、申し訳ないような気がして落ち着かなかったのだ。
今も同じような気持ちはある。しかし、この状況が自分のせいではないという免罪符がある分いくらかマシか。
自分の教科書やノートがあれば自習でもして気を紛らわせられるが、昨日の始業式に持って行ったのは筆記用具と備品ぐらいだったし、
精々差し入れの本などの娯楽で、時間を潰すのに甘んじるとしよう。



ページを捲る音が続いている。早希の部屋は静かだ。
マンションの高層階だとは聞いている。それでも、隣室、上階・下階の生活音も全然聞こえない。
自分が知っているのは、この部屋と浴室、そこまでの廊下ぐらいだが、それぞれの内装と広さも考えたら相当の高級マンションだろう。
ケースの中から見える位置に窓はあってもカーテンは閉じられたままだ。
室内灯が明るく灯っていても、広大な部屋で巨大な家具に囲まれて、静けさに包まれていると郷愁がこみ上げてくる。
周囲は巨大なのに、自分の学生服と学校鞄は普通の大きさなのが、郷愁に拍車をかけた。


「――母さん……父さん……美羽……」


昨日の朝、玄関から送り出してくれた、しっかり者で、でも時々抜けるところのある優しい母。
普段は無愛想で威厳ある父親を自負しても、ここぞという時には温かく、頼れる父。
末っ子として家族から甘やかされて、お転婆で、いつも家の中を賑やかにする妹――大切な家族を想い描く。
昨日の朝、自宅で会ったけれど、随分恋しく思えた。景色が滲む。家族が恋しくて泣くなんていつ以来だろう……。
こんな姿、誰にも見せられない。見せてはいけない。
目を拭い、寂しさを誤魔化して、本に集中していく。

今日までの辛抱だ――。



~~~



「ただいま」

外から物音がしたから、一応荷物と一緒にティッシュの山の中、汚れていない部分に隠れていると、
鍵を開けて部屋に入ってから、そう告げる人物がいた――早希だ。
時刻は17時半。数十分前に部屋の隅のコンセントから、バッテリーの充電が完了したらしいお知らせ音が鳴って、早希を今か今かと待ち受けていたのだった。
隠れたのも無駄骨になってしまったけれど、これでいいんだ。もし今日、戻る直前でアクシデントに遭ったら悔やむに悔やまれない。

「おかえり、ちょっと遅かったね。予定通り、充電は完了したみたいだよ」

「うん、そうだね」

早希はタンスとクローゼットの前で制服を脱いで、部屋着に着替え始める。
自分もいつ元に戻ってもいいように、既にワイシャツとスラックスに着替え、早希から貰った靴下を履いている。
革靴もなく、余裕のあるサイズのサンダルしかないのが気の抜けるところだが、それぐらいは妥協すべきだ。
モラルを守って早希の着替えを覗かずに、自分の鞄とバッグの中に詰め終わった物品を再確認しておく。
すると、着替えの終わった早希が、部屋の隅のコンセントの方でガチャガチャと音を立ててから、
どこからか取り出したカメラのような縮小機も手に、こちらに近づいてくる。
天井の蓋が外されると早希の顔がよく見えた。困ったような、今にも泣きそうな顔が。

「一条さん?」

「……西野君、どうしよう……私、こんな事になるなんて、思わなかった……」

顔と同じ感情を宿した声で早希が言った。

「何があったの?」

「――学校に行って、朝は先生も何でもなさそうな顔で、いつも通りだったんだけど…
 午後の授業が始まるって時に、全校集会が開かれてね。生徒にお触れと確認があったの。
 西野君が行方不明で、西野君の行方を、知ってる生徒はいないか?って」

ありがちな話だ。両親が昨夜か、今朝にでも学校側に連絡したんだろう。
全校集会が朝一番じゃなかったから、連絡は今日だったのかもしれない。それか、自分が登校してくるのを見込んだのか。
いずれにせよ、職員への連絡、情報の共有、協議に掛かる時間もあるし、教師達も自分の授業があるから、お昼が終わってから集会が開かれたんだろう。
でも、そんなのが大事なのか?それぐらい早希だって承知してなきゃおかしいし、今日自分が元に戻って『何でもありませんでした』と
周囲に訴えれば問題ない。全て丸く収まるというわけにはいかなくとも、十分に事態を静められる。
訝しんでいると早希の話は続いていく。

「それだけなら良かったんだけど……その集会に刑事さんが来たの。
 その刑事さんがね、『事件として公に捜査する事になるだろう』って……!
 もう色々なテレビのニュースに流れて、大騒ぎになってるんだって……!」

早希の声は泣き声に変わり始める。
やっと自分も事態の重大さが分かった。まさか警察がこんなに早く動くとは……。
確かに父は顔が広くて、いざという時はこれでもかと活動的に動ける人だし、母だって自分を心配してくれている筈だ。
そういえば、夜遊びや家出は勿論、事前連絡なしの外出も殆どした事がなかった。
両親が一緒になって、方方に自分の行方不明を事件として強く訴えたのかもしれない。

「――それでね、集会が終わったら、刑事さんが話を聞きたいって、西野君と関係があったクラスメイトとか、
 元クラスメイトとか水泳部の人達を一人ずつ呼んで、事情聴取みたいな事をしたんだって……
 私、パニックになっちゃって、具合が悪いって保健室行っちゃって……どうしよう、私絶対疑われる。逮捕されるかもしれない!」

早希はその言葉を最後にしゃくりあげながら、ポロポロと涙を流している。

「そんな事ないって!大事になっちゃったのは仕方ないけど、
 自分が『何でもなかった』『少し遊び歩いていただけだった』って謝って回れば、大丈夫だよ!」

励ましても早希は泣きながら首を何度か横に振った。
しばらく泣き続け、少しだけ冷静さを取り戻した頃に、つっかえながら言葉を紡いでいく。

「西野君には、まだ言ってなかったけど、あの縮小機ってね。
 お姉ちゃんの持ち物だけど、お姉ちゃんの研究室仲間しか、知っちゃダメな、極秘扱いなの。一緒にあった書類に、書いてあった……。
 もし秘密がバレたら、私だけじゃなくて、お姉ちゃんと、その人達にも迷惑掛かっちゃう!」

「……そりゃ大変だけど、でも大丈夫だって!すぐ元に戻って、一条さんと縮小機の事は上手く誤魔化せばなんとか――!」

「じゃあ刑事さん達にどういう説明するのか言ってみてよ!!」

一条早希がこんなに怒りを表すなんて思いもしなかった。
その声の音量にも驚いたが、自分に向ける眼差しの苛烈さたるや――。

「――ビジネス……カプセル、ホテルとか……ネットカフェに、泊まってて、ずっと遊んでたとか……」

「学生服姿で?その施設に連絡されて、台帳とか監視カメラを追求されたら、どうするの?
 そもそも、未成年の、学生に見える年齢の人が、そんな施設、長時間使えるものなの?」

「と、途中で私服に着替えた事にして……ほら、貰った服があるから!それに監視カメラみたいな設備とルールが緩そうな店を探せば……」

「ねぇ、西野君」

「……ホテルやネットカフェじゃなくても、そこら辺!ブラブラしてたとか!色々な本屋で立ち読みしたり、24時間営業の飲食店で時間潰してたとか!」

「西野君は、私が好きなんだよね?」

「ダメだ!」

「それなら、このまま私の部屋で暮らすのも悪くないよね」

「一条さん!!」

「うん。そうだよ。私も西野君がいてくれるなら嬉しいし、
 縮小機を元の場所に戻せば、お姉ちゃん達にも迷惑掛からない」

「そんなのダメだ!!そんな事許されない!!一条さんが僕を――!!」

「元々秘密がバレないように上手くやったし、佳苗にもまた口止めしたから、きっと、大丈夫……。
 ――あ~あ、なんだか悩み事も解決して、スッキリしちゃった……西野君、これからも、よろしくね?」

涙の跡が残る、いつもと同じ可憐な笑顔がそこにあった。
一条早希はおかしい。狂っている。
正常な人間なら、他人の運命を一方的に決めつけて、こんな笑顔を作れるわけがない。
いつからだろう……?最初からかもしれない。あの部活棟の多目的室の時か、その前から……。
自分は早希の外面ばかり見て、肝心の内面はまるで分かってなかったんだ。

「丁度いいから、西野君の部屋、お掃除してあげる」

ケースの中に、自分を潰せる膂力を持った早希の指が入り込んできた。
その指が向かう先は自分ではない。自分より小さい物に伸びる。自分をあの世界と繋ぎ止める為の――

「やめ、やめろおおおおおおおおおおお!!」

丸太のような指より先に飛び付き、腹に抱え込んだ。これは絶対に渡せない。
その場を少しでも離れ、床に伏せ、指を背にする。

「うっ……ッ」

横殴りの衝撃を受けてケースの床を激しく転がった。
星が瞬いて、鼻の奥がツンとする。痛みで力が入らない。
倒れて傾いた視界の端で、ケースの床に巨大な指が着地し、ゆっくりと持ち上がっていく。
見上げると、自分が守りたかったものが早希の指に囚われて、手の届かないところへ行ってしまったのが分かった。

「これはもう使わないから処分しとくね」

粗雑に摘まれて、プレス機に掛けられたように原型を失くしてしまった、自分の学校鞄。
両親に頼み込んで入れてもらった学校で、2年間使い込んだ、この場で唯一の、自分のもの。
思わず立ち上がる。


「なんでこんな事するんだよ!!馬鹿…キチガイ女!!!」


言ってしまった。激情で後先も考えずに、喉が張り裂けるほどの大声で。
早希の顔が近づいてくる。もう早希の顔が天井みたいだ。

「……西野君。そんなに怯えなくてもいいよ? 私、西野君を怒るなんて、絶対しないから」

そう言われて、自分が立っていられないほど震えて、歯の根が合わないカチカチという音を発しているのに気づいた。
早希の顔は相変わらず、微笑みを湛えている。

「でも、悪い事をしたら叱って、相応しい罰を与えるのも大切だよね」






◆7 その生活

あれからもう3日だ……。
早希の"お仕置き"は体罰の類ではなかった。
それならまだ良い。痛みで自分を誤魔化せたり、負の感情を心置きなく早希にぶつけられるから。
罰の内容は、早希が自分に供したバッグとその中身の没収というものだった。今は服すら着るのを許されていない。
周りには自分サイズの物品は一切なくなったわけだ。
いや、いくつかの品――歯ブラシ、歯磨き粉、コップの所持と使用だけは許されているんだった。


以前は早希が家にいる間、ケースの外へ出される機会があったのに、今ではケース内だけでの生活を余儀なくされている。
食べて、寝て、排泄して、ただ過ごすだけを生活と呼べるかどうかは疑問だ……。
特に、早希が学校に行っている間の静寂は大変な苦痛で、それを乗り切る為にわざと夜は眠らずに、眠気を昼に持ち越している。
早希がいないと、本当に何もする事がない。ケースも部屋の隅の床、家具の物陰に置かれ、
白地の光と空気が辛うじて通るぐらいの厚布で、ケース全体を覆われるのだ。
これでは、もし早希の姉がまた現れても、助けを求めるのも不可能だろう。


「ただいま~」

早希は大抵16時~17時ぐらいに帰ってくる。今日の帰宅時間も16時半と平均的だ。
部屋に入ると、まず掛布を取り払ってケースを机の上に置き、制服から私服に着替え、
家の中で夕食の支度や洗濯などの家事をこなし、勉強机に向かって宿題を片付けるのが日課だった。
早希は部屋にいる間、こちらに顔も向けずに学校での出来事などを気ままに、一方的に話し掛けてくる。
それに答える気にはならない。早希もこちらに向き直って質問するでもない限り、自分が反応しなくても平然としている。


「ごはんだよ」

ケース外で食べさせられる事はなくなったが、食事は以前と遜色ないどころか、より手をかけられた、栄養のあるものを与えられている。
朝夕に大量の料理が盛られた小皿がケース内に入れられるので、それを手掴みか、直接口を付ける犬食いで食べるのだ。
夕食が終わると、すぐに深めのどんぶり風呂に入れられ、優しくかき回されるように早希に体を洗われる。
食休みも済んだ頃、今の生活で自分を唯一ケース外に出してさせる事の為に。



「西野君もおっぱいばっかりだと飽きちゃうでしょ。今日はこっちをお願いできる?」

手のひらに乗せられて、連れて行かれた場所は早希の太もも、その付け根。
早希は素っ裸でベッドの上に座り、大きなクッションを背もたれにして大きく股を開いている。
色白で曲線美の肉が詰まっている脚が左右に伸びていき、ベッドの上で自分を壁のように囲っていた。
脚と胴体の接合部分の中心に自分でも飲み込めそうな割れ目。
その周囲は他の肌とは違い、影が落ちたように薄い褐色に縁取られていた。
色素が沈着した肌から疎らにロープのような毛が生えている。
股を開いている事で、左右に広げられた割れ目は、動物的な生肉の色合いをさらけ出していた。
肛門は見えないが、ここまで近いと大便と小便、シャンプーのような甘い香り、そして生臭さ、酸っぱさが混じり合った臭いを強く感じる。
臭いとその威容だけで圧倒されていたのに、更に女性器が近づいてきて――自分を乗せた手のひらの縁がそこに密着した。
巨体が発する熱、臭気が全身に伝わってくる。

「ここをやってね。だけど、西野君でも気をつけてよ?落ちたら危ないから」

声と巨大な手が真上から降ってきて、自分のすぐ近くの、割れ目の上部に存在するピンク色で艶のある突起を、丸太みたいな指がつんつん突つき始めた。
今日はそこに奉仕しろという事だ……。急いでその突起に飛びついて刺激を与え始めると、もうお馴染みとなった巨獣の咆哮が上がる。
自分の頭より大きい突起に顔、腕、上半身を密着させて強弱を付けて揉み込んだり、舐めたり、噛んだり、叩いたり、殴ったりの重労働を続けていく――。

風呂で乳首を相手にした時とは決定的に違う事がある――奉仕が自分の意思ではなく、環境が遥かに過酷だという事だ。
胸とは違って温度も湿度も高く、臭気が強い。どれも逃げ場がなく篭ってしまう。
突起から直に伝わる熱も辛いし、乳首と違って塩気と苦味が強く、老廃物が饐えた臭いもするから、舐めたり噛んだりしているとたまにえずいてしまう。
休む暇がなく疲れは溜まる一方だ……それでも奉仕を止めるわけにはいかない。
早希の機嫌を損ねたら"お出かけ"が待っている。



~~~



学生鞄とボストンバッグを没収されたその日、甘えた声で奉仕を求められた。
あんな仕打ちをされた以上、自分の答えは明白だ。断った自分に早希は考えこんでから告げた。

『西野君が疲れちゃったなら、久しぶりに外に行ってリフレッシュしてみようよ。
 帰りに買い忘れちゃったものがあるから、今日はスーパーかな』

縮められて連れてこられた時のように、あの狭い小箱の中に自分を囚え、早希は外へ繰り出した。
前回の再現だ。暗闇、いつ終わるのか分からない吐き気を催す揺れが続くも、ひたすらに耐えるしかない地獄。
帰宅して、小箱の中ですっかり汚物に塗れて衰弱しきった自分を、初日と同じく早希は懸命に介抱し回復させる。
怒り、憎しみ、恐怖、悲哀――そんなものはあの体調の前では無意味だった。
行き場のない感情を抱えて、早希の介抱を一身に受け続けると、新たに奇妙な感情が生じるのが分かった。
それは愛慕、畏怖、崇拝などと呼ばれるもの。優しく話し掛けて自分を気遣う早希。その顔、その巨体を感じると確信してしまう。

――自分は、この主なしでは生きていけない。故に、逆らってはいけない――と。



~~~



今日も自分の体力がもつうちに、満足させられたようだ。
馬鹿になった五感、火照って朦朧とした意識で今までとは種類の違う吠え声が聞こえている。
激しくなっていた揺れも収まり、安らかな呼吸音がして、足場だった手のひらが自分を囚えて移動していった。
サイドテーブルの上のケースに戻されると、ベッドの上でほとんど仰向けになった早希が、目を閉じてリラックスしている全景が見渡せる。
今日も何とかなった……。重荷から解放され体の力が抜ける。
この後は、またどんぶり風呂で軽く洗われ、ケースの中から早希の生活風景を眺めているだけだ。明日の奉仕まで束の間の休息が取れる……。

正直、何度も死のうと思った。しかし、自分が取れる方法と言えば、窒息死、水皿を使った溺死、食を断つ餓死、
ケースの内壁に頭を打ち付ける殴殺ぐらいなもので、どの方法も挫折に終わっただけだ。
トイレとして設置されたティッシュがあれば何とかなったかもしれないが、
早希も警戒したのか、決別の日にティッシュは除去され、代わりに使い古したハンカチが用意されたのだった。
早希が飽きるか、自分が事故死か病死するかまで、ずっと飼い殺しにされるんだろう……。

ケースの中で座り込んで、ベッドの上の穏やかな早希の寝顔をぼんやり眺めながら、疲れを癒やしていった――。



~~~



「早希ー、帰ったわよー!」

部屋の外からくぐもった女性の声が聞こえた。
ガバッと早希が音を立てて飛び起きる。その間も、外から物音が立て続けに響きどんどんこちらに近づいてくる――。

「嘘、お姉ちゃん……どうしよう……ッ!」

早希は慌てて部屋の鍵を掛け、自分がいるケースを所定の物陰に移し掛布をした。
掛布の向こうで早希の影が行ったり来たりで騒々しい。
窓を開けるような音、ガタガタと物を探るような音、シューッシューーッと何度かよく分からない音がして、衣擦れと分かる音が後に続いた。

「いるんでしょ?入るわよー?」

女性の声とコンコンコンというノックが、この状況に割り込んでくる。

「ちッ……ちょっとまってー!」

狼狽を隠した早希の大きな返事と続く衣擦れ。着替えはまだ完了していなかった。
女性はガチャガチャとドアノブを回しもせずに、マナーを守って静かに外で待っているようだ。
――やがて、着替え終わった早希が部屋の入口へ向かい、ドアを開ける音がする。

「ただいま、あんた鍵なんて掛けてどうしたの?」

「ううん、なんでもない。おかえり、お姉ちゃん。
 今日帰ってくるなんて、意外と早かったね」

「まあね、あんたともしばらく会わなかったし、
 溜まってた用事も片付いて、予定も空いたからね。久しぶりにこっちでゆっくりできそう」

「そうなんだ……夕御飯の残り物ならあるけど、食べる?」

「外で食べてきたからいらないや。ね、それより、この前帰ってきた時、あんたの部屋に虫籠あったけど、何飼うつもりだったの?」

「……は、ハムスターだよ。友達の、佳苗に頼まれて少しの間預かってたんだ。もういないけど」

「ふ~ん。あんたペットの世話なんてできたんだ。でも、あんな何もない狭いケースじゃ可哀想じゃない」

「少しの間だけだからね」

「佳苗ちゃんがあんたにペット預けるなんて、どこかに旅行でも行ってたの?」

「うん、泊まりで遠くに行ってたんだって」

「こんな時期に?」

「…………」

「さっき、あんたを待ってる間、キッチンで飲み物探したら、
 この前見た時より随分ボトルの数が減ってたけど」

「……学校の行事で多目に必要だったの」

「学校といえば、あんたの学校の同じ学年で、行方不明の男の子がいるそうじゃない。知ってる子?」

「……………………」

「ちょっと入らせてもらうわよ」

「やっ…ダメ!お姉ちゃんやめて!」

二つの人影が部屋の中を歩きまわり、やがてドシン、ドシンと真っ直ぐこちらに近づいてくる。
バッと掛布が取り払われ、電灯を背負って逆光となった巨大な影が、ケースの上に覆いかぶさっていた。
巨大な影から伸びる両腕。ケースが空高くに掲げられる。
その勢いで、格子状の天井から流れ込んでくる空気に、消臭剤の強い香りが含まれているのを感じた。

「この子が――西野、拓哉君?」

壁一面に顔が映り、その双眸が寄り目で自分を注視していた。その顔の向こう側、辛うじて早希の姿が見える。
縮こまり、叱られた子供のような様相で、その顔はいつもより、とても幼く見えた。

「…………うん……」

早希が俯いて、一言呟いた。
その一言に答えたのは、深すぎる溜息。
早希の姉はケースを机の上に置き、窓とカーテンを閉めてから早希につかつかと歩み寄る。

パンッ!と強烈な破裂音が轟いた。
姉が妹の頬を力の限り叩いたのだった。

「あんた何考えてるのよ!自分が何をしたか分かってる!?」

激情を滲ませた姉の声が妹を責め立てた。
妹は泣き始め、喉を詰まらせている。

「…ッ……う……く……」

「私の部屋からあれを持ちだして勝手に使ったばかりか!人を縮めて攫って――!信じられない!」

「………こんな、つ、つもりじゃ…ヒッ…なかったのぉ……ほんとぉ、なら――」

「何がこんなつもりよ!西野君にあんな仕打ちをしておいて!……疲れ切ってるじゃない……!可哀想に……」

「……だって、わ、わたしに、にしのくんが、すきで……にしのく、も……たしをすきって、いって、くれて――」

「早希!!」

大音量が早希を黙らせる。早希は身をすくませて小さくなっているだけだ。
静寂……最後の大音量でキーンと耳鳴りがしている。早希の嗚咽が、唯一の音源だった。

「早希、あなた学校しばらく休みなさい。謹慎よ。私から学校に連絡する。
 西野君は私が預かるから、自分の部屋でしっかり反省してなさい」

早希の姉が言い放ち、早希を背にする。グラグラとした揺れで、自分がケース毎持ち運ばれている事にやっと気づいた。






◆8 姉

早希の姉の部屋は、客間か子供部屋みたいな設計思想なのか、小さめのクローゼットこそ付いているものの常識的な広さだった。
普通サイズのベッド、その脇にミニテーブル、ギッシリと中身が詰まっている幾つかの本棚、タンスが一棹、
PCモニターとキーボードがそれぞれ幾つか乗っている大きめのデスクと、それに対応する椅子などが置かれていて、それらで床面積のほとんどを占めている。
早希の部屋のように、人が歩き回れるようなスペースはなく、空調が天井にあるだけで窓もない。
家具もシンプルなデザインで高価そうには見えないし、部屋全体のレイアウトもベーシックと言っていいのか、生活感が余りなかった。
今、自分はPCモニターがある大きめの机の上のケースの中だ。この部屋に運ばれると「少し待っててね」と早希の姉は部屋の外に出て行った。



15分ぐらいして、早希の姉が戻ってきた。
やはり以前と同じく、黒髪のロングヘアーを靡かせて、早希をそのまま大人っぽく成長させたような容姿だ。
部屋に入ってくる時に初めて全体像が見えて、白いシャツに、ベージュのパンツというフォーマルな服装をしているのが分かった。

「お待たせ、早希から大凡の事情は聞いてきたわ。
 ごめんなさいね、西野君。あの子が鞄も服も処分しちゃったって。だから、今はこれで我慢して欲しいの」

早希の姉はケースの天井を外して、様々な大きさに千切ったティッシュを自分から離れた所に落とした。
一体何だというのだろう……?と呆然と見上げる。

「……今は服がないから、代わりにもならないけど、どうぞ遠慮無く使ってね?」

優しく促されて、やっと意味が分かった。自分は裸だったんだ。千切ったティッシュを服として使えという事だ。
言われた通り、苦労しながらも、トーガもどき、バスタオルを纏うように不格好に体に巻き付けた。


「では、改めまして。
 初めまして、早希の姉の、一条真弓です。
 この度は、不肖の妹が西野君に大変な事をしでかして、誠に、申し訳ございません」

自分に向かって、深く頭を下げる早希の姉―― 一条真弓。
真弓が頭を机の下まで下げて、もう十秒は経っただろうか……。
不思議な感覚だ。自分に謝罪してくれる――まるで対等かのように接してくれる人間がいるとは思わなかった。
真弓はまだ頭を下げている。

「……あの、西野、拓哉です……。一条早希、さんの、クラスメイトで、中学3年生です……」

そう言うと、真弓は顔を上げた。真摯な表情だ。

「本当にごめんなさい。拓哉君。早希だけじゃなく、私も。
 あれを家に置きっぱなしにして、妹諸共、監督不行届でした。
 許される事ではないと分かっています。それでも、本当に、ごめんなさい……」

真弓はまた頭を深く下げた。巨人に、ここまで誠実に対応されると、却って尻込みしてしまう。

「一条さ……いえ、真弓さん。頭を上げて下さい……。
 全然、気持ちの整理が、つかないですけど、真弓さんにそんな風にしてもらえると、
 …こわ……困る…えっと、丁寧語とか、敬語はちょっと……よく分からないんですが――」

「――分かりました。失礼します……謝るにしても、ちょっと押し付けがましかったかな。
 でも、拓哉君は全然気に病む必要はないんだよ。私に怒ってくれても構わない。
 私にしてほしい事があったら何でも言っていいんだから」

気持ちがぐらつく。真弓に一つ聞きたい事があった。でも、それを確かめるのが恐ろしい……。
口を開いて真弓の顔を見上げる。「あ」「え」とか言葉にならない音が漏れた。
真弓は黙って頷き、自分を見守っている。聖母の表情だった。
何度か口を開閉し、つばを飲み込み、意を決して問う。

「――僕は、元に戻れるんですか?」

言い終えると、真弓の表情を窺う。
聖母の表情が砕けた笑顔に変わっていった。

「拓哉君、ひょっとして『僕はこのまま、元に戻れないんじゃないか』とか思ってたの?
 大丈夫、私に任せて。絶対に元の生活に戻れるから」

さっきまでの深刻さはどこへ行った、と表現したい気楽な調子の、優しい声が降ってくる。
それを耳で捉え、頭で反芻して、意味を確かめると、バタリとケースの床に倒れこんだ。

「拓哉君!?どうしたの!?」

焦った大声。上空の真弓の顔が、心配そうな表情に変化していた。

「……問題ないです!……安心したら、気が抜けちゃって……」

「……なーんだ、びっくりしちゃった。
 そんな質問だけじゃなくて、他にも希望があればどんどん言ってよ?」

「……はい。でも、今はとても眠いんです……」

「うん、大変だったね……。ゆっくり休んでいいからね」


真弓に返事をしようとしたが、瞼が重くてとても上がらない。口ももう動かない。

最後に暖かく包まれた。


「おやすみなさい」と。



~~~



目が覚めると見知らぬ天井――天幕があった。
ケースの壁まで覆っている幕の向こうから、薄っすらと明かりが差し込んでくる。
見回すと、あのケースの中だった。寝ている間に解けたのか、自分の周りの床に癖のついたティッシュが散らばっている。
耳を澄まさなくとも、外からカチャカチャという音が鳴り続けていた。
水皿から水を飲み、隅で小用を足して、手を洗う。ティッシュでまた体裁を整えてから

「真弓さん?いるんですか?」

と、外に向かって大きく発声すると、
カチャカチャという音が止み、続いて天幕が取り払われた。

「起こしちゃった?許してね。気持ち良さそうに寝てたから、動かすに動かせなくて……。
 今回の件でどうしても、仲間と知人に急ぎの連絡を入れる必要があるの。もう少しで終わるから」

寝入る前と同じく、PCモニターのある大きな机の上だった。ケースは机の隅に寄せられており、
その脇に退かされた白い塊を見て、天幕の正体が大きめのタオルだったと分かった。
自分が起きて、遠慮がなくなった真弓の両手の指が、更にスピードを増して、猛烈な速度でキーボードの上で踊り始めた。
真弓は真剣な顔でモニターを見ながら、キーを打ち込んでいく。
自分からはモニター画面が見えないが、指と同じように画面でも文字が乱舞している事だろう。
部屋の時計を見ると、アナログ時計の短針が10、長針が12を指していた。おそらく同日夜の、ジャスト10時だ。
それから10分位して、

「終わったーー!ふーー……」

大きく反り、伸びをしながら、真弓が作業完了を宣言する。

「おつかれさまです。何だったんですか?」

「ん?ああこれ?私の研究仲間とスポンサーに一報入れたんだ。
 拓哉君には説明するべきだね。――物体縮小機は、私と数人の仲間と僅かな出資者で開発した物なの。
 画期的な発明だけど、悪用されると大事だから、世間が受け入れる準備が整うまでの間は、
 身内しか存在を知らない秘密扱い――ううん、極秘とか機密の方が正確だね。
 今回は身内の不始末だし、とてもじゃないけど公にも出来ないから、上手く立ち回ってもらうよう、連絡したのよ」

「……真弓さんもお仲間も、凄い人達なんですね」

「ありがとっ――確かに皆優秀だし、各界にちょっとしたコネクションも持ってるから、
 拓哉君の復帰の後押しもしっかりやってくれる筈よ。
 あと、新しい縮小機の持ち出しと使用の許可もなんとか取れたんだ」

「新しい、ですか?」

「あの子がね。浅はかにも、メンテナンスもなしに連続使用したせいで、家にあった縮小機は故障しちゃったの。
 ……安心してね。さっきの連絡で明朝、ここに直接、新しいのを届けてもらえる事になったからさ」

「……大丈夫なんですか?極秘なのに、ここになんて……」

「それを言われると耳が痛いなぁ……。
 でも、持ってきてもらうのは新型で、セキュリティも担当者もしっかりしてるから大丈夫よ。
 実験で使うような、振動を緩衝できる運搬用ケースがあったら、すぐにでも研究室に拓哉君を連れていけるけど、
 それもなしで私と外出するなんて、絶対嫌でしょ?」

ぶんぶんと縦に強く何度も頷き、肯定すると苦笑された。

「――だから明日の朝まで、私の部屋で過ごしてもらうけど、遠慮なんてしないでね?私を顎で使っていいからさ」

後半を冗談めかして言い、更に「特別よ♪」と付け足して破顔する真弓。

(ああ、明日家に帰れるんだな)

今度は容易に、胸にストンと落ちた。






◆9 その心的外傷は……?

「ところで拓哉君……お風呂入りたくない?そのままじゃ嫌でしょ」

今まで鼻が馬鹿になっていたので、気にはならなかったが、
改めて自分の体を嗅ぐと、早希におもちゃにされてそのままの、不快な臭いが纏わりついていた。
髪の毛にもボソボソと何かがこびりついている。
どうしようかと思案していると、

「良ければ私がお風呂に連れてってあげるし、部屋にお湯を持ってきてもいいよ。どうする?」

ケースの中に巨大な手が降りてくる。ケースの床に着地した手のひら。自分からは大分距離があるが、招かれているようだ。
上空を見上げる。すると――

「ッ……ぁ……ぁぁっ……」

早希が自分を見下ろして、肉欲に塗れた厭らしい表情で笑っていた。
早希を消す為に両手で顔を覆い、しゃがみ込む。

「拓哉君?」

早希が自分を責め立てる。早く奉仕をしろと命令してくるのだ。
巨大な手が近づいてくる気配を感じる。

「やめろぉぉおおおおおおおおおおおお――!!!」

恐怖の絶叫だった。
でも無駄だ。早希の手はもうすぐそこだ。囚えられて、あの日々が繰り返すんだ。

……しかし、いつまで経っても早希の手は自分を捕まえはしない……。
それどころか、手が遠ざかっていく気配が感じられる。
恐る恐る見上げると、そこに早希はいなかった。真弓が居た堪れないという面持ちで、こちらを見下ろしているだけだった。

「拓哉君……私が、怖い? 」

確かに真弓だ。部屋を見回しても早希はどこにもいない。
自分で自分が理解できなかった。真弓にも助けを求める。

「さっきまで一条早希が、いや、早希さ…妹さんが、すぐそこにいたんです!」

上空に指を向ける。指の先は真弓だった……これは――。

「……大丈夫よ。早希はこの部屋に来てない。自分の部屋で反省させてるから。
 馬鹿な妹だけど、私の言う事はしっかり聞くのよ。
 多分、拓哉君は今までの強いストレスで、私を早希と勘違いしただけ……少しは落ち着いた?」

心地よい冷静な声音で現状を説明され、腑に落ちた。

「ご、ごめんなさい!真弓さんに無礼を働いてしまって……!」

泡を食って真弓に頭を下げる。何て事をしてしまったんだ……自分が信じられない。

「そんなのやめてよ。寧ろ謝らなきゃいけないのは私の方。
 拓哉君にそんなショックを与えたのも、私と妹が原因なんだから」

真弓は自分の無作法をまるで気にしていない様子だった。ほっと息を吐く。息をするのも忘れていた。

「――でも、私、拓哉君にしてあげたい事ができちゃった」

全身に震えが走る。早希との決別が脳裏に浮かんだ。

「今から拓哉君に触れるけど、私を信じてくれる?」

震えながら、真弓を見上げる。その顔に、悪意や獣欲が浮かんでいないか、潜んでいないか必死に探る。
早希によく似た美形。それでも年上らしい色香を備えた真弓の顔貌は、穏やかに、内面を表に出したような、お茶目な笑顔を形作っていた。

「――何を、するんですか?」

裏返らずに言えた。質問を質問で返した気がするが、これを聞かなきゃ真弓にも答えられるわけがない。

「ちょっとね……いきなりするのもなんだから、一応質問したけど……今回拓哉君に拒否権はないんだよ――」

話が終わらない内に、獲物を狙う猛獣の襲撃があった。
あっという間に肌色で多脚の捕食者に捕まり、上空に攫われる。自分が何かするより前に、衝撃と共に景色が一変した。
生暖かい暗がり、地面は凸凹したマットみたいだ。周りには幾筋か規則的に並んだ赤っぽい光の筋がある。
真弓の両手に囚えられたのだ。

「真弓さん!ごめんなさい!助けて……許してください!!」

地面を何度も叩き、慈悲を乞う。
真弓は自分を無視しているのか、それとも気づいていないのか、そのまま移動しているようだ。
数秒もしないうちに下腹が浮き上がる浮遊感がして、その後に何度か大きい縦揺れが起こる――やがてそれも収まった。
暗闇の空間を作り出していた天井が、ゆっくりと持ち上がり、同時に地面が傾いて真弓の手のひらからずり落ちていく――。

落ちた先は起伏のある白い丘の頂上だった。見上げても真弓の姿はない。

「……真弓さん?」

不安から所在を問う一言が出る。

「拓哉君、こっち」

後ろから真弓の声が聞こえた。後ろだけではなく、地面からも直接響いてきた気がする……。
振り向くと、こちらを俯瞰する真弓の顔があった。しかし、自分はただ振り向いただけで、仰ぎ見てはいない。

「怖がらせてごめんね。でも心配しないで。
 拓哉君に何かひどい事をするんじゃないの……」

真弓の顔に繋がる首が、丘の奥から突き出していた。
自分のいる丘は双子山のうちの一つだった。左にも同じスケールの白い隆起がある。
地面が温かく、上下にゆっくり動いているのにも気づいた。


「拓哉君がこのまま元に戻っても、拓哉君が受けた心の傷は、消えないと思う。
 早希だけじゃなくて、同じ大きさの他人相手でも、怯えて生活する羽目になるかもしれない。
 本当は、専門の医師やカウンセラーにかかって、薬物療法も合わせて治療するものなんだけど、
 事情を話すわけにもいかないでしょ? だから、私が代わりに拓哉君の気持ち、全部受け止めてあげる」

緩やかに真弓の両手が自分の元に近づいて、そっと白い丘――真弓の胸に抱き寄せられた。
壊れ物でも扱うかのような、こちらを慮った動作。自分にも分かる繊細な力加減。
身を任せ、真弓の胸に伏せると、真弓の体温と、洗剤の臭い、香水・化粧品の香、体臭に柔らかく包まれた。
自分のものではないドクン、ドクンという心臓の拍動……。

「私が守ってあげる。怖くないわ。本来の意味とは違うけど、私の胸を貸してあげるから。
 全部洗い流すように、思いっきり話してごらんなさい。泣いても、怒ってもいいんだよ?」

自分に加えられていた繊細な力が、掛かった時と同じようにそっと消失した。
巨体の呼吸音と鼓動だけがこの空間のBGMだ。こちらを見下ろしていても、幼い我が子を心配する母親のような表情の真弓と目が合う。
いつしか2つのBGMに、形容しがたい動物の短い鳴き声のような、しゃっくりみたいな音が混じり始めた。
何回かその音を聞いていると、それが自分の喉から漏れているのに気づく。
喉が腫れたみたいだ。声を出そうにも、これでは話にならない。真弓の顔もぼやけて……まるで見えない。

「怖かったね……」

伏せた体勢そのままで、真弓が着ているシャツに顔を押し付ける。
溢れた雫がその生地に次々に吸収されていく。いつしか、赤ん坊のように自分でも喧しく思える泣き声で盛大に泣いていた。
シャクリ上げて、途切れ途切れの泣き声の合間に、自分の思いを吐き出し、真弓にぶつける。


同好会の勧誘と騙され、縮められ、訳も分からずにここに連れてこられて、凄く怖かった。
揺られて一生分吐き戻して、苦しくて、気持ち悪くて死ぬかと思った。二度と経験したくない。
早希が好きで、早希も自分が好きだと言ってくれて嬉しかった。
一緒にお風呂に入って、幸せで、気持ちよかったけど、不安にもなった。
信じていたのに、早希に裏切られて、玩具のように弄ばれた。ショックだった。
死にたくなったけど、死ぬのはやっぱり怖かった。
真弓も怖い。何故もっと早く助けてくれなかったんだ。信じたいし頼りたい。でも怖い。
自分でもよく分からない。自分は本当に人間だったんだろうか。
お母さん、お父さん、美羽に会いたい。自分の家に帰りたい。早く元に戻りたい。


長い時間を使って、気持ちを吐き出し終えた。泣き疲れて、それなのにスッキリとした気分だ。
真弓の呼吸に合わせるように、深呼吸を続ける。心地よい倦怠感に浸っていた。
今も丸太のような、恐ろしい筈の指が、優しく背中をさすってくれている。
泣き始めてから何度もさすってくれていたが、泣いている時にそれをされると、
泣き声の音量が大きくなっていたのが、自分でも可笑しかった。

「気分はどう?少しは拓哉君の役に立てたかな?」

鈴のような綺麗な高音の声がする。
はにかんだ真弓の顔は声と同じく、綺麗だった。

「……はい……スッキリしました……」

返事はできた。でも、まともに顔を見れない。年上と言っても10歳も違わないだろう女性に、
自分の感情を曝け出して、その胸の上で泣き喚いていたのだ。さっきまではとても安らいでいたのに、今は身の置き場がない。
冷静になってみると、自分が伏せているのは、真弓の胸だ。ここにいるのはまずいんじゃ……。
取り戻した冷静がまたどこかへ行ってしまう。

「あ、あの!ごめんなさい!シャツを汚してしまって!」

取り繕う為の材料は、自分が作った涙と鼻水と涎の染みだった。
真弓から見たら、ワンポイントにも満たない染みかもしれないが、自分からは見苦しい有様が見て取れる。

「そんなの、全然何でもないのに。それに、シャツなんかより拓哉君の方がずっと大事だもの」

お茶を濁す自分の発言に、真弓は真面目に返事をしてくれた。
その内容を聞いて、もう枯れたと思っていた涙腺が再び緩んでくる。

「……ここいたら迷惑じゃないですか?退かしてもらったほうが――」

「待って、そのまま聞いて欲しい事があるの」

「はい」

「早希の事なんだ。妹を擁護するわけじゃないけど、色々な事情、背景の話。
 あの子の話なんて、拓哉君には辛いかも知れない。でも、完全に整理を付ける為にも、拓哉君には聞いてもらうべきだと思う」

「……はい」

「まず、拓哉君に対する早希の行いを庇うつもりは、絶対にない。
 事件の要因である縮小機の管理責任を問われる立場の私もね」

真剣な話は続いていく。

「早希、あの子はね。今でこそ、学校も家事も身の回りの事も頑張ってるし、
 明るくて、友達もいるけど……昔は全然そんなんじゃなかったの。信じられないかもしれないけど……。
 
 うちの家庭環境が少し特殊でね……あの子の幼稚園時代はそうでもなかった……。
 ところが、あの子の小学生時代、私が高校生になった頃かな。
 両親共、凄く――異常に教育熱心になって、あの子が家にいる間は、ずーっと勉強を強いるようになったの。
 あの子が嫌だって言っても無理矢理ね。時には体罰紛いの事も、してたんだよ。
 私は高校時代、下宿してたから、それに気付けなかった……。
 
 不遜な言い方だけど、私が優秀だったのが、両親を焦らせたんだと思う。
 私の成績が良くて、名門校に入れたばかりに、両親もあの子に期待して、私に追い付け追い越せってね。
 あの子も両親の期待に応えようと、頑張ってたんだけど、元々あの子、あまり勉強は好きじゃなかった。
 たまに下宿先から家に帰ったんだけど、帰る度にあの子の様子が、どんどん変わっていって……。
 私が『どうしたの?』って聞いても、『何でもない』の一辺倒でね。
 妙だったけど、昔みたいに懐いてくるし、笑顔もあった。
 私に気取られないように、無理してたんだと思う。
 
 ある休日、私が下宿先から予定にない帰宅で家に入ると、
 家の中が異様な雰囲気で……あの子が、部屋で父親に虐待されてたの。何度も叩かれてて……。
 問題集とかドリルが床に散らばってたし、父親の暴言からやっと真相に気付けた。
 すぐに仲裁に入って、その場は何とか収まったんだけど、あの子からも事情を聞き出して――。
 母親も異常な環境を、黙認していたのが分かった。

 このままじゃ駄目だと思って、親戚・知人にあたって、あの子の環境を変えようとしたの。
 でも、私も当時は高校生だったし、大したことはできなかった。
 両親を説得して、あの子に干渉するのはやめてくれって頼み込んでから、
 せめて、あの子が家にいない間は心から楽しめるように、私が休みの日には、あの子をあちこちに連れ出して……
 あの子、学校でも暗くて、いじめられてはいなかったけど、友達らしい友達もいなかったから、
 同い年の友達ができるように、きっかけ作りもしてあげたの。
 幸い、すぐに仲良くなれた子がいてね。拓哉君は知ってるよね?安藤佳苗ちゃん。
 家もそこそこ近所で、佳苗ちゃんのご両親もいい人達で……少しずつ、あの子も明るくなっていったの。

 頻繁に顔を出して、あの子を見守りながら、高校生活を送っていって、
 それから何事もなく、私も大学生になった。
 特待生になれたし奨学金も取れて、個人的に仕事も請け負って、お金にも余裕が作れたから、
 この部屋を借りて、あの子が中学生になると同時に、ここで一緒に住む事にしたの。
 私も実績があったから、両親も簡単に説得できたし、私と住むと分かったらあの子も、凄く嬉しそうだった……。
 
 佳苗ちゃんとも示し合わせて、無事同じ中学に入れたんだけど、同じクラスにはなれなくてね。
 入学して数日は凄く不安そうにしてた。明るくなったとは言っても、それはあの子の尺度での話。元々あの子、奥手で人見知りする質だったから……。
 でもね、4月の行事の遠足で……今はオリエンテーリングって言うのかな?
 お昼休憩で、佳苗ちゃんともクラスが違ったから、なかなか佳苗ちゃんのいるグループに入れなくて
 皆自由にグループ作ってるのに、一人でポツンとしてたらしいの。
 そうしてたら、同じように一人でお昼を取ろうとしてた男の子が、あの子に『一緒に食べよう』って誘ってくれたみたいで……
 その男の子も、大人しそうな子で、ロクに話もできなかったらしいけど、『とっても優しく誘ってくれたんだ』って
 家に帰ってから、本当に嬉しそうに話してたの。

 それから、あの子、変わった。
 前とは見違える程、明るく元気に、姉の私からしても驚くぐらい、かわいく、綺麗になっていったの。
 自分に自信が持てるようになって、身だしなみにも一段と気を使って、
 学校だけじゃなく、家の事も練習して、少しずつ出来るようになっていって……。

 嬉しかった……。
 あの子をここに住まわせて、あの学校で正解だったなって、確信できた。
 だからね、拓哉君。あなたは、あの子の恩人だから、感謝しても、しきれない……それなのに――。
 ……私があれをしっかり管理して、あの子をもう少し、見守って、あげれば……。
 あの子も、拓哉君と……なか、よくなれて……ほんとのいみで……いっしょに、なれたのかなぁ…………」

時々声を震わせていた真弓は。その大きな瞳の堰が切れて、大粒の涙を流し始めた。
声を上げないように耐えている泣き方だ。しゃくりあげる揺れも、鼻をすする音もはっきりしない。
こんなに大きいのに、今にも消えてしまいそうな儚さだった。



~~~



中学一年、入学したばかりの頃を思い出す。
当時はまだ背も低い方で、顔立ちも幼くて、同年代にコンプレックスが強かった、あの頃。

最初の校外行事、オリエンテーリングなんていっても、クラスに馴染めずに気が重かった。
班行動をしてても、お昼になると皆自由に誘い合って、楽しそうに円陣を組んで団欒してたっけ。
仲間に入れてもらう勇気もなく、途方に暮れて、隠れるように人気のない場所を探していたら、
一人の女の子が、お弁当を広げる準備をしていて……渡りに船と、凄く救われた気分で、一緒に食べようって誘ったんだ。
大人しそうで、地味な印象のあるその女の子は、最初はおどおどとしていたけれど、
『僕も一人で寂しかったんだ』って事情を説明したら、ぎこちなくはにかんで、歓迎してくれて。
殆ど話も出来なかったけど、お弁当を分け合ったり、穏やかに寛げる時間を過ごして――。
休憩時間が終わって、名残惜しそうにお互い別れたんだ……何で名前も聞かなかったんだろう……。
その後も、学校でたまに、遠くにその子がいる事が分かっても、結局話し掛けられずに、いつの間にかその子は見掛けなくなって――。

姉に叱られて、縮こまっていた早希の顔が、あの女の子と重なる。


あの子が一条早希だったんだ。



~~~



「見苦しいところを見せたわね………拓哉君の前で泣くなんて――ごめんなさい……
 ――でも、知って欲しかったの……許してくれとか、分かってくれなんて言わない……ただ、知って欲しかったの……」

涙も勢いも緩やかになってきた頃、真弓の気持ちをぶつけられた。
か細い声だったのに、どんな大声や示威行為よりも、自分の心に強くぶつかった。



「……はい、知りました――思い出しました……」



「……ありがとう……」



真弓はそのまま目を瞑って、何度か深く呼吸をした。
ベッドの横からティッシュを取り、鼻をかんで、顔も拭う。

「さて!拓哉君から何もなければ、この話はおしまいね!
 いい加減、拓哉君もお風呂入ったほうがいいよ。私もシャワー浴びたいな」

心機一転、真弓は快活な表情と声で告げる。


「分かりました。あの、浴室に連れてってもらってもいいですか?」

「りょーかい、歯磨きも向こうでしちゃえばいいよ。準備するね」

胸元からケースの中に降ろされた。
真弓はゴソゴソと箪笥やクローゼットを探る。
真弓も自分も準備はすぐに終わった。

「さ、行こう?」

ケースの中に降ろされた真弓の手のひらに乗り込む。
巨大な手のひらは、もう全く怖くなかった。






◆10 事件、秘密、決意

真弓の手助けもあり、入浴は滞り無く済んだ。
久しぶりに、体の隅々まで清潔になって、真弓のお陰で鬱屈した気持ちも吹き飛んで、気分爽快だ。
新たに用意された、千切ったティッシュを、またトーガ風に巻きつけ終わり、
今、自分は真弓の部屋のベッドの上で真弓の帰りを待っている。
真弓は髪が長いので、髪を乾かすのにも時間がかかるのだ。
しかし、一つまずい事態に陥っている。

入浴の際に見えてしまった真弓の体は、早希と同じように輝く魅力に溢れていた。
早希の体は生娘的な神秘性を秘めていたが、真弓の体は母性的な神秘性を想起させるものだった。
真弓の性格と、胸で泣かせてもらった事も大きいだろう……。
だが、太っているわけではない。出るところは出て、引っ込むところは引っ込むというメリハリ、
大人の、若い女性としての成熟がそこにはあった。その光景、今もベッドから香ってくる真弓の臭い……。
つまり、猛りが頂点に達してしまったのだ。発散しない限り、この猛りはしばらく収まる事を知らないだろう。
しかし、真弓のベッドを汚すわけにはいかない――いけない。

健全な男子中学生にとっては非常につらいものがあった。ムラムラとする生殺しは続く。


「お待たせ~……ああ~いいお湯だった♪やっぱり我が家はいいわねぇ……」

寝間着に着替えた真弓が鍵を開けて部屋に入ってきた。
寝間着は薄い生地のピンク色のパジャマで、下のブラジャーが透けている。

「拓哉君も何か飲む?牛乳、フルーツ牛乳、お茶、烏龍茶にミネラルウォーターもあるよ」

真弓は片手にパック飲料とミネラルウォーターが詰まった小さな、網目のカゴを持っていた。
底部には自分用の薄めのお皿が見える。歯磨き用に使っていたコップを使いまわせば、直飲みもせずに済むだろう。

「み、水ください!」

成功だ。一応意識を飲料に反らせた。

「……水ね。――はい、どうぞ」

ベッドの上に、水を注いだ薄皿を置いてくれた。
早速、コップで掬い、ゴクゴクと飲み始める。火照った体に沁み渡った……。

真弓は残ったミネラルウォーターのボトルに直接口を付けて、自分と同じようにゴクゴクと飲み始めた。
ぷるっとした唇がセクシーだ。「ぷはぁ~」と野卑なようで、かわいらしい吐息が漏れ、その唇が形を変える。

「拓哉君はどこで寝ようか……。この部屋も広くないし、安全性と拓哉君のプライバシーを考えたら……
 中も色々入れ替えて、綺麗になったし……うん、やっぱりあのケースの中が良さそう。拓哉君はそれでいい?」

「はぃ……はい!」

「ありがとう――」

目の前に、ゆっくりとした動きで手のひらが到着する。
真弓も目で優しく促してくれるが、今は動けない理由がある。
悟られないように、慎重に、腰をやや引いて近づいていった。ティッシュを調整すればどうにか――。

バサッ

腰に巻いていたティッシュが解け、ベッドの上に広がった……。




フリーズ。




落ちたティッシュを数秒見つめていただろうか……。
現状に気づいた瞬間、ガバッと真弓に背を向けながらしゃがみ込むという、素早いターンを披露してしまう。
……何も言えない。顔が真っ赤になっているのが自分で分かる。真弓はどう思うだろう……?

「拓哉君」

普段通りの声で呼びかけられ、おずおずと振り向くと、
ベッドの脇にしゃがんで、顔をこちらに近づけた真弓がいた。

「私の裸見て、興奮しちゃった?」

嫣然と笑って、小悪魔的な口調で尋ねられた。

「…………はい」

肯定も否定もどうかと思うが、否定はより失礼な気がする。それなら正直に肯定した方がいい。
自分の返事を聞いた真弓の笑みが深まった。

「私の体で遊ばせてあげようか♪」

衝撃発言だ。またカチコチと硬直してしまう……全身が。

「あ、勿論私からは何もしないからね?私はベッドに横になるから、好きなように触っていいよ。
 それと、拓哉君が私にしてほしい事があったら、何でもやってあげる。どうかな?」

「……そんなの、本当にいいんですか?」

「いいのいいの。私達が縮小機を完成させた時にもね、動物実験で生物縮小の安全性を確かめたら、
 自分達を実験台にして……皆で代わりばんこに小さくなって、お互いの体で遊んだり、遊ばせたりしたものよ。
 私の仲間って、この界隈では珍しく女性だけだったから、ドロドロとする事もなかったし……」

ここに来てからずっと、良い意味でも悪い意味でも圧倒されっぱなしだ。

「私も何回も小さくなったんだよ?今の拓哉君より小さい時も沢山あった。あの頃は楽しかったなぁ……。
 思い返すと、凄く危険な行為だったんだけど、自分達の技術の結晶と成果に酔ってたんだね。
 それに、視点が違うと、こんなに世界が変わるんだ!って感動しっぱなしで……。
 
 でもね、そうやって遊んでる内に、仲間を危ない目に遭わせたり、逆に危ない目に遭わせられたりして、目が覚めたの。
 縮小機の怖さ、こういう体格差が齎す効果もよく分かってる。拓哉君の立場も分かるから、
 拓哉君に怖い思いや怪我なんて、絶対させない自信があるわ。 
 だから、安心して私で遊んでいいんだよ?こんな経験、普通の人じゃ絶対できないもの」

こんなに大きい真弓が、自分より小さくなった事があるなんて、信じられなかった。
いや、自分が元の大きさなら、真弓よりも幾分か背が高い筈だから、変ではないのか……?
混乱していると、目の前には巨大な据え膳がニッコリ笑って、自分の言葉を待っていた。

「さぁ、早速私に言う事聞かせてみてよ♪」

「……え、っと……じゃあ、パジャマ……。脱いでもらっても、いいですか?」

『何でもいいって、どこまでいいんだろう?』と、まずは様子見だ。
極論を言えば、下着姿なら水着とそう変わらないから、読み誤ってもダメージは少ない。

「そんなんでいいの?いきなりアクセル踏みこんで、冒険してもいいのにな~」

お茶の子さいさいっと真弓はベッドの横で、パジャマをスルリと脱いだ。
水色の――ナイトブラってやつだろうか。上下ともキツくなさそうな、ゆったりとした下着だ。
ただ覆っているだけで、カップを入れるようなものではない。
真弓は直立姿でこちらを見下ろし、自分の指示を待っている。これはもしかしたら、もしかするかもしれない……。
ゴクリと生唾を飲み込んだ。

「……ブラジャーの中に、入れてもらってもいいですか?」

「はーい、私が運んであげる。心配しないで」

数本の指でつまみ上げられて、真弓の胸元へ……。
ブラジャーの中は柔らかい弾力のマットが、傾斜を作りながらどこまでも伸びている。とても暖かい……。
上半身に残っていたティッシュを乱暴に脱いで、そこら辺に放り出す。
ふと辺りを見回すと、自分の体の1/3ぐらいの高さの、楕円球の構造物が近くの色の違うマットから突き出していた。
ブラジャー自体の締め付けは全く強くなく、寧ろ布団みたいだ。我慢できずに、肌色のマットに体と、膨張したペニスを何度も擦り付ける――。

――それなりの量を放出して、ひとまずの衝動は発散できたが、興奮はまだ収まりそうもない。
放った精液がマットをゆっくりと伝い落ちていくのを見送る。
真弓が直立していても、足元に足場があるから、自分は落ちることはない。真弓が外から手で軽く押し込み、自分の足場を作ってくれているのだ。

「普段は寝る時ブラ付けないんだよ?今日は拓哉君がいるから、一応の身嗜み。そのブラ、拓哉君専用ね♪」

ブラジャーの外からと、マットを伝わって真弓のおどけた声が届いた。
自分がブラジャーの中でゴソゴソと身動きしていたのは、分かっているはずなのに……。
この調子だと、自分が想像できる限りの『何でも』は全部許されそうだ。

「このまましばらくこうしててもいいけど、拓哉君が色々動きたいなら、私がベッドに横になったほうがいいと思うんだ。
 私が立ったままだと動ける範囲も少ないし、もし拓哉君が落ちちゃったら怖いもの。どうする?」

「お願いします。ベッドで仰向けになって下さい。
 あと……裸になってもらえたら……」

「はいよー。下脱いでからベッドに寝転がるから。ちょっと揺れるけど、気をつけてね。」

足場がより強固になって、自分の体も胸に軽く押し付けられた。
自分がやや埋まっている真弓の胸も、ブルンッと何度か大きく揺れる。
重力が掛かる方向が次々と変わって、やがて、その柔らかい感触の胸が地面になった。
布団みたいなブラジャーがずれていき、部屋の昭明に照らされて、外気にむき出しにされたのを肌で感じる。
自分が胸の上にいるので、真弓は身動ぎを抑えながらブラジャーを外していく――これで裸同士だ。

「一々どうする?って聞くのもバカらしいから、これからは拓哉君のリクエストに答えるのに専念するね。
 危なそうだったら私も口出しするから、遠慮無く」

「ありがとう、ございます……このまま、じっとしていてもらえますか?」

「はい」

真弓は自然体の仰向けで、顔を天井に向けている。
丘を降りて谷間をお腹の方へ抜けだすと、肌色の大地が広がっていた。
この体を、真弓の体を好きにしていいんだ……。ワクワクが止まらない。
早希も、真弓も、思えば胸ばっかりだった気がするから、胸はとりあえず後回しとする。
真弓の広いお腹の上で、思いっきり駈け出し、飛び跳ね、滑り込んで、子供のようにはしゃぎ回った。
お臍に足を取られて盛大にズッコケるのすら面白い。地面が柔らかいのでちっとも痛くなかった。
転んだまま少し休憩していると、ビクッ…ビクッ…と地面が痙攣しているのに気づいた。
豊かな双丘の向こう側、双丘で隠れて全体は見えないが、見える部分の真弓の顔がぷるぷると震えている。もしかして……擽ったいのか?
試しにお臍の近くの地面を、両手の指でワキワキと動かして刺激してみる。今の自分の力を考えて、力を抜きすぎずに。

「――くっ……ふふふッ……っ……ふふっ……ッ……スーーーー……スーーーー………ふッ」

真弓の声が歯の隙間から漏れ、くすくすという忍び笑いも加わり、鼻呼吸も荒くなってきた。
揺れも痙攣というより、もはや地震だ。面白くなってそのまま続けていく、だが同じ場所ばかりでは芸がない。
落ちない程度の肋骨の近くをより責めてみる――。
反応は強烈だった。いきなり地面が凹んだと思ったら、今度は急激に隆起した。
元より離れた位置の肌色の地面に落下する。自分の身長以上の高さには跳ね飛ばされて……驚いたが、痛みも恐怖もない。

「――あはははははッ……ご、ごめっ……ッ……ははははッはははっ………はぁーーーっ……ふぅーーーっ…………。
 歩き、回られるのは、我慢出来るんだけど………すーーー……擽られるのは、弱いの。危ないから、勘弁してね?」

艶っぽい声で懇願する真弓。その声を出させたのが自分だと思うと、感慨もひとしおだ。

「調子に乗ってすみません!分かりました……真弓さんには、悪いですけど、凄く、面白くって……」

「ううん、私も経験者だから分かるよ。テーマパークのアスレチックみたいで面白いよね。
 怪我しないように気をつけて、そのまま楽しんでよ」


めくるめく遊びの時間が続く。
下腹部の方へ歩き、黒い茂みに寝そべって小休憩を取ってみた。
太ももを足の方へ歩いて行き、今度は真弓に両足を慎重に近づけてもらって、
逆側の足に飛び移り、そちらの足の太ももを通って、胴体部分まで戻るという即席の周回コースを、時間を掛けて歩いて行く。
脚は人間の体の部位で筋肉量が一番多いというが、実際にその上を歩いて、観察するとそれがよく分かった。
表面は柔らかい曲線美の肌で覆われているのに、強大な力を内包しているのが分かる。
この巨体が立ったり、歩く時も常に支えているのだ。たまに内部から血流か筋肉が軋むらしき音も聞こえてくる。

お腹の大地に戻ると、次は両手を臍の上で組んでもらった。肘も体から離して、少し浮かせてもらう。
手の甲によじ登り、左前腕を歩いて肘に、上腕を抜けると肩の内側だ。
首元の鎖骨の窪み、喉、反対側の鎖骨という凹凸の激しい道のりをのんびりと楽しむ。
このコースは自然美を堪能できるのだ。コースの中央に堂々とした双丘が見える景色は、とても美しい。
あの上にいる時は分からなかったが、横や下から見上げるとその見事さが再確認できた。
丘というより、小山というべきかもしれない。その小山の頂にはローズ・ピンクの突起が。あそこも、後で絶対楽しもう。
ゆっくり上下するコースに気をつけて、景色を楽しみながらも、こちらも制覇できた。

真弓の顔の上に乗せてもらって、大スペクタルの顔面を見回す。
鼻の穴の近くの風量は凄まじく、穴の正面にいったら煽られて飛ばされてしまいそうだ。今は鼻の上で、辺りを見物している。
すると、突然口がガバッと開いて、白い歯が覗き、テラテラとしたピンク色の軟体動物が踊りながら姿を現して、こちらに近づいてきた。
驚愕しているうちに、それも穴の中に引っ込み、口が閉じられて、唇とその回りの肌が横に引き伸ばされる。
真弓の悪戯だ。自分のいる鼻の方へ、舌を伸ばしてきたのだ。
目の方を振り返ると、巨大な双眸が寄り目でこちらを見ている。近すぎて分からないが、おそらくその表情は『してやったり!』だろう。
そのサプライズ自体より、真弓のお茶目さが楽しかった。怒った振りで、抗議するように鼻をペシペシと叩く。
今度は困ったような顔をして、小さく口を開き「やりすぎちゃった?ごめんね?」と小声で謝ってくるのが、とても可笑しい。

「ビックリしましたけど、面白かったです。新種のエイリアンかと思っちゃいました」

「え~、それってひどくない~?」

「冗談ですよ」

訂正に訂正を重ねる羽目になったが、このやり取りも心地いい。



それからも、真弓に様々なリクエストに応えてもらう。

ベッドの上に四つん這いなった真弓の下を通って、肉空を仰いでみたり、
その背中に乗せてもらって巨大獣を騎乗している気分を味わったり、

膝立ちになった真弓の、薄暗いフェロモンが充満する、股のトンネルを行ったり来たりしたり、

うつ伏せになった真弓の背中で、また走リ回ったり、
お尻のクッションでトランポリンのように、何回もジャンプしたり、

真弓の長く太いロープのような髪の毛をかき分けて、その中に埋まってみたり

もう一度真弓にパジャマを着てもらって、パジャマの中を探検したり――etc...



「拓哉君、本当に沢山遊んだねぇ……」

再び仰向けになった真弓の谷間で、自分も仰向けになって休んでいた。

「僕ばっかり楽しんじゃって……ありがとうございました……」

「ううん、そんなに楽しんでもらえると、私も提案者――女冥利に尽きるってものよ?」

「……何でここまで、気遣ってくれるんですか?
 真弓さんが優しいのは分かってますけど、こんな風に……」

「――拓哉君が、早希の恩人で、被害者だから……は、理由としては不十分かな。
 拓哉君に胸を貸したのも、体で遊んでいいよって提案したのも、
 間違いなく、『拓哉君にトラウマを克服してもらおう』と考えての事ではあったんだけど――。
 きっと、私の償い……罪滅ぼしの面も大きいんだろうな……」

真弓の部屋の天井をぼーっと見ながら、過去を振り返る。真弓も同じだろう。

「……それでも、僕は真弓さんに、救われました。本当に、ありがとうございます……」

微震と共に「ふふっ♪」と含み笑いが聞こえた。
真弓の顔を振り返る。やはり真弓は天井を見て考えに浸っていたようだ。
今になって、こちらに顔を向けてくる。

「もう一つ大きな理由があったんだった」

「何ですか?」

「拓哉君がかっこいいから」

「……え?」

「私って大学で研究してるって言ったでしょ?……この世界って本っ当に男社会、父権社会なの。
 私もそうかもしれないけど、出会う人出会う人プライドの塊、見栄と体面を重んじるってタイプが多くて参っちゃう。
 粘着質な人でも、何とか社交辞令で乗り切れるし、中には尊敬できる人もいるんだけど、何かと気苦労が多いのよ。
 かと言って、大学の外で知り合った男性も、私が自己紹介すると身構えたり、妙に押さえつけてきたりでね……。
 だから、私は拓哉君みたいな、真面目で優しくて、青春時代を謳歌して、頑張ってる男の子の方が好き――納得できた?」

感情が昂ぶる。自分を助け、慰め、献身してくれた、美しく優しい女性への想いが膨れ上がった。

「じゃあ!もう少し、遊んでもいいですか!?この体勢のまま、真弓さんは休んでていいですから!」

真弓の返事を待たずに、谷間から小山の頂上へ登り始める。

「うん、拓哉君も体力あるね~。またおっぱいなんて、甘えん坊なんだから」

既に何回も射精して、あちこち動き回ってクタクタだったが、絶対にこのまま終わりたくなくなった。
あの真弓の発言こそが社交辞令だったとしてもだ。

目的のピンク色の突起にたどり着くと同時に、キツく抱きしめる。

「んッ……」

こんなんじゃとても足りない。全身を酷使して、真弓の乳首に奉仕する。

「た、拓哉君!?」

「いいから、真弓さんは動かないで下さい!」

自分の行為を辞めさせられないように牽制した。
早希に強要されたせいかお陰か、乳首の扱いは慣れている。
みるみるうちに乳首は膨張し、体積と硬度を増していった。

「……き、きもちいい……あ………はぅ……っ………」

素早く山を下り、また山を登る。今度は隣の乳首だ。
同じ要領で、奉仕していく。だが前とは少し違って、いきなり敏感になっているので、緩急と強弱を駆使したテクニック志向だ。
いよいよ真弓の息も切れてきて、喘ぎ声が大きくなっていく――頃合いか……。下山して、肌色の大地を疾駆する。
途中、振り返ると、真弓が自身の山の頂上を名残惜しそうに見ていた。大丈夫、これからが本番だ。
肌色の大地が途切れる、黒い林に到着する。慎重に林をかき分けて、"そこ"に向かった。

「た、拓哉君!そこは危ないし!せっかくお風呂入ったのにまた汚くなっちゃうよ!?」

焦った真弓の声が聞こえてくるが無視だ。
しかし、黒い林の先は傾斜がきつく自分ではそこで事を成そうにも、滑落してしまいそうだ。

「真弓さん!僕を手のひらに乗せて、あそこで支えててもらえますか!」

「でも……」

「お願いします!」

「……うん……」

渋々といった風に、ゆっくりと真弓の手が近づいて、自分をつまみ上げ、手のひらに乗せると、
真弓がもぞもぞと動き、ベッドの上で除けていた布団と枕で、大きなクッションを作り、ベッドの背と合わせて、それに寄りかかった。
それを待って手のひらが動き、目当ての場所の近くに、手のひらが密着する。予想通り、真弓の準備は整っているのが、全身の感覚で分かった。

「もうちょっと上です!……ストップ!!」

「はい……」

真弓の体勢――脚の開き具合も、手のひらの高度もいい塩梅だ。
出番を待ち受けていたかのように、真弓の芽が存在を主張している。早速取り掛かった。
その環境に五感が翻弄されるが、構わずひたすら奉仕に徹する。
真弓の下腹部から伝わる激しい揺れ、芽から直越伝わる熱、周りの空気を完全に支配した臭気、
どれも過酷だが、早希に強要された時のように嫌ではなかった。これは自分の本意だ。
それに、遊び始める前に真弓がシャワーを浴びて、隅々まで汚れを落としたお陰か、
臭気や味も嫌悪をあまり感じない。自分の行いが真弓へのお礼だと思えば、寧ろ、真弓の全てを受け止めるべきだろう――。




「あ!……んっ……ぁ!………きもちっ………ぃ……きそッ…………っ!」

ゴールは近い。真弓の波を感じながら、ギュッギュッと芽を絞り上げ、顔、口、上半身、両腕、両足全てで思いっきり刺激を与える――。
激しく真弓の体が震えた。激震の中に小刻みな震えも混じっている。自分を乗せた手のひらが傾き、その割れ目に押し付けられた。
今までにない、繊細さを失った動きと力だ。押し付けられ息も苦しく、何かが体に絡みつき、全身が軋む……。
間もなくその力が消え去り、割れ目から解放されて落下すると、そこは開いた真弓の両脚の間。
眼前に、巨大な女性器が壁のように聳えている。いつの間にか、真弓がよりクッションに体を預けて仰向けになったせいか、肛門まで見えている。
両方とも、よく見なくてもヒクヒクと震えていて、割れ目から垂れてきた、透明な粘度のある液体が、自分のいるベッドの上まで、真弓自身を伝い垂れていた。
とても消耗していたが、身の安全を考えて、真弓が身じろぎしてもいいように少し距離をおくと、
見計らったように、割れ目の中心からチョロチョロと薄く黄色がかった液体が溢れ出してきた。
途中から勢いを増して噴出し、その液体で体の殆どが濡れてしまったが、全く気にならない。
やりきった満足感、疲労感で満たされて、真弓を待ち、そして休んだ。



~~~



二人共体を汚してしまったので、また軽く入浴を済ませた。とっくの昔に日付は変わっている。
風呂あがりの水分を取って、今は真弓も自分も同じベッドの上で横になって、ピロートークを楽しんでいた。
勿論シーツも変えて、尿が染みてしまったマットには、応急処置が施されている。

「私、あんなに気持ち良かったの、初めてだったよ?
 これは冗談だけど、拓哉君といい事してた早希が、羨ましくなっちゃった」

「僕も、真弓さんがそう言ってくれると、凄く嬉しいです――これが男冥利に尽きるってやつですかね?」

「ふふっ、あんまり調子乗っちゃだめよ~?こういうのにのめり込みすぎるのも良くないし、
 拓哉君も将来があるんだから……。今日の事は誰にも言わない『二人の秘密』にしようね」

「……はい!」



いい加減夜も遅いから、トークも程々でお開きになる。就寝時間だ。

「拓哉君、本当にお疲れ様。私も早希も、今回の事件を反省して、
 二度とこんな事が起こらないように、努力していきます。
 早希も学校がどうなるか分からないけど、時間を掛けて話し合って、姉として監督していく。
 馬鹿な子だけど、かわいい妹だもの。区切りが付いて、もし拓哉君が許してくれるなら……
 手紙でも何でもいいから、早希に機会を与えてくれないかな?」

「……はい、僕も、早希さんと、ちゃんと話したいです」

「ありがとう……。拓哉君も明日から色々大変だろうけど、
 私も全力でバックアップするから、気負わずに、拓哉君のペースで頑張ってね」

「はい!……それと、僕と早希さんが落ち着いて、全部が落着したら、
 また、真弓さんと、早希さんに会いに行っても、いいですか?」

「もちろん……!でも、年上の収入もある大人としては、拓哉君に来てもらうわけにはいかないかな。
 ここも引き払うかもしれないし、私の予定もあるから、都合のいい時に連絡して、私達から拓哉君に会いに行ってあげる」

「楽しみにしてます」

「私も――じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」




早希と、真弓と出会えて良かった。
ここ数日の早希との関係は残念だが、真弓とその仲間も尽力してくれるのだから、取り返しがつかないわけではないだろう。
自分の気持ちも、真弓の話を聞いた今は、早希への怒りや恐怖、負の感情も和らいでいる。それどころか、過去の自分を不甲斐なく思う気持ちでいっぱいだ。
あのオリエンテーリングから、今の今まで……。小学生時代よりマシになったと思い込んでいたけれど、全然そんな事はなかったんだ。
自分も、自分の気持ちとあの子―― 一条早希と向き合う勇気がなかった。早希も勇気が足りなかった。
これからは、少しずつ強くなっていく必要があるだろう……大丈夫だ。
自分には温かで頼りになる家族も、優しく後押ししてくれる人もいるのだから……。








                             ~完~









































































真弓の根回しによって、学校生活に復帰して1週間が経過した頃。
今日も家から登校し教室に入る。クラスメイトはほぼ揃っているが、教室には早希の姿はなかった。
対面した時はクラスメイトも自分も驚いたものだが、徐々にクラスに順応できるようになっている。
席に着いて身支度を整えた頃チャイムが鳴り、担任教師が姿を現した。その隣には初めて見る女性が立っている。

「皆さん、おはようございます!」

「おはようございます!」

凛とした担任教師の挨拶に元気良く挨拶するクラス一同。
前と変わらず担任は厳しい人だった。

「えー、空席の稲本君、篠川君、関根君が欠席なのはこちらで把握しています。
 それと、皆さんも気になっていると思いますから紹介しますね。
 このクラスで研修する事になりました教育実習生の宮崎小百合さんです」

担任教師が下がり、教育実習生と紹介された女性が前に出る。

「宮崎小百合です。短い間ですがこのクラスでお世話になります。みんな、よろしくね!」

優しく笑みを浮かべ自己紹介する小百合。教育実習生に相応しい年の頃で、若さと自信で満ち満ちている。

自分もクラスメイト達も初対面の女性にどういうリアクションをするべきか迷い、
「よろしくお願いします」という返事も少数しか上がらず、タイミングも合わなかった。
それを気にするでもなく、担任の号令が掛かる。

「それでは、清掃を始めましょう。今日の担当は校舎内を1~4班、校舎外は5~8班です」

手拍子をしながら生徒達を促す担任教師。
各自、用具入れから雑巾やモップなどの掃除用具を持って持ち場に散っていく。

8班の自分は校外清掃だ。やがて5~8班の20名程が校庭に整列する。

担任教師と教育実習生の小百合がその様子を見ながら、さっきまでとは一転して砕けた態度で会話していた。

「みんな真面目ないい子達じゃない。
 中学生にしては結構逞しい子もチラホラいるよね。かっこいいなぁ……
 流石、美樹が自慢するだけはあるね」

「そうでしょ~、私が育てた自慢の生徒なの。まあ、たまに不貞腐れる子もいるけど、
 その時は生身で向い合って真剣に教育すれば、なんとかなるもんよ?」

担任教師の言葉にビクッと体を震わすクラスメイトがチラホラいるが、
自分は覚悟を決めて、これから始まる清掃の為に集中力を研ぎ澄ませていく。

「みんな聞いて~。5,6班は私、7,8班は小百合先生が引率します。
 ほら小百合もこうやって――」



とある高級マンションの一室。キングサイズのベッドが目立つ部屋の床、その隅におもちゃの箱庭が設けられている。
箱庭には"校舎"、"校庭"、"住宅街"の区画が作られており、どれも壁で仕切られているだけで天井もない。
その"校庭"に両手のひらを上に地面に降ろしているのは、20歳ぐらいの育ちの良さそうな全裸の女性二人。
降ろされた手のひら一つ当たりに5名ずつの"生徒"がよじ登っていく。

「うっわー!ほんとかわいいね~♪食べちゃいたいぐらい!」

小百合の発言は生徒全員を震わせる威力を持っていた。

「ちょっとー、大事な生徒達なんだから自重してよ?
 やっと真弓さんに高値で融通して貰えたんだから」

「冗談だってば~」

「よろしい。ただでさえ、昨日一昨日の教育で3名けっせ…除籍になっちゃったから、これ以上減ったら勿体無いもの。
 ――ほら、こうやって上と下の近くに降ろせば後は勝手にやってくれるから」

ベッドに仰向けになってお手本を見せる美樹。
小百合も美樹の隣に寝転んで同じようにしていく。

「はいはいっと……んっ、早速、竹箒の子かな…?…凄くゾクゾクする――あぁっ」

「7,8班は調子良さそうね。5,6班も頑張りなさいよ~?
 小百合、勝手にやらせるだけじゃなくて、色々"指導"してもいいからね」

「――うんぅ…わかったぁあ♪ ん……んぁっ」

二人の女性の嬌声が続いていく。


拓哉達の学校生活はまだ始まったばかりだ。























                         True?...False?...If?...

                              ~S'F~