治験             
作:BLADE




◆応募

特に予定もない平日の朝――と言うには少しばかり遅い時間。
3年過ごした住処である狭いアパートの一室でパソコンを駆っていた。

(スケジュールも空いてるし、どうせならまとめてガッツリ稼ぎたいよなぁ)

ネットで代わる代わる求人サイトのページを開いては閉じてを繰り返す。
割のいいバイトを探していたが――どれもこれも肉体的にきつそうで時給も平凡なものばかりだ。


俺はもう大学4年目。文系ながらも面接を片っ端から受けまくったお陰で
なんとか地元の中堅企業の内定も取れ、3年目までに必要な単位は粗方取り終わり、
バイトばかりの大学生活もようやく落ち着いたところだった。
頑張った自分へのご褒美として心身を休めるために、
それまで勤めていたバイトを辞め、少しの間でもとゆとりのある生活を堪能していた。
だが悲しいことに、倹約しながら必要なものや欲しいものをあれこれ買っているだけで、
3年間汗水垂らしたバイトで貯めに貯めたお金はすぐに心許なくなっていくのであった。


(楽して儲けるなんて所詮大した取り柄もない学生には絵空事なのかねぇ)

心の中で愚痴り、望み薄と分かっていても「楽で儲かるバイト」と検索するあたり、自分の諦めの悪さが自覚できる。

しばらくそうやって色々なサイトを巡回していった。



~~~



「おっ!」

途中、ニュースサイトなどにうつつを抜かしながらも、本来の目的を取り戻せた。
ヒットしたページは治験がテーマの求人サイトで、様々な条件の書かれたモニター募集の文章が溢れている。

(治験か…そういえば先輩が暇な時に沢山稼げたって自慢してた事もあったっけ…)

確か、先輩の自慢話を聞いた時は自分はまだ未成年だったし、
バイトに講義にレポートにと大忙しだったし、自分には関わりのないものだと聞き流していたのだった。
それに、当時はまだ自分も青かったというか、潔癖な一面も持ち合わせていた頃だったから、治験というものをなんとなく敬遠していた。

今は違う。
バイトながらも社会に揉まれ、キャンパスライフをエンジョイする同期や先輩後輩を羨みながら、耐え忍んでいたのだ。
美味しい話があるならそれを逃すわけがない。

体験談や応募条件を見ながら勘案していると、ふと新着募集を発見した。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

対象:20歳以上30歳未満の男性(BMIが18.5以上25.0未満)
期間:2泊3日入院  定員若干名 報酬:30万円
※急募の為お早めにお申し込み下さい

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


全文読むが早いか即座に応募要項を神速で打ち込んでいく。
入力に漏れがないかざっと確認し応募をクリック――完了の文字。
試しにページ更新してみると早くも応募終了となったのか、
応募した求人はもうどこにも表示されていなかった。
本当にこの旨みのあるバイトにありつけるか不安が勝り始めた頃――携帯が鳴った。勿論すぐに出る。

「おはようございます。中村良介様でいらっしゃいますか?」

「ええ、そうです」

「先ほどの、弊社の治験モニターの募集にご応募下さり、ありがとうございます」

ささやかな勝利と満足感に浸りながら、担当者との応答を続けていった。



◆摂取
電話で告げられた通り、即日から治験を受けるために郊外にある私立病院に電車を乗り継いで到着した。
日曜日という事もあり、病院の駐車場としては比較的空いている。
それでも高級車・外車が結構な割合で停まっている。自分の懐を考えるとどことなく妬ましさを覚える。

自動ドアをくぐり、正面にある受付で用件を問い合わせる。
すぐに今回の治験のスタッフらしい看護師が現れ、説明会が行われる部屋に案内された。

机と椅子、本棚などがある10畳程度の部屋だった。
机の上にある説明用の冊子と契約書が1組、椅子が2脚しかないところを見ると、今は自分だけしか対応しないらしい。
座って待つようにと言い残されたので、椅子に腰掛け冊子を斜め読みしていると丁寧なノックが鳴り、白衣の女性が一人入ってきた。

「こんにちは、今回の治験を主に担当する医師の田中由美です。よろしくお願いします」

身長165cmくらいか。スラッとした、白衣を着こなす優しい面差しの美人だった。
化粧も濃くなく『これが理想的なナチュラルメイクです』と、
ビューティー番組で紹介されるようなモデルさんだったとしても、全く不自然ではない容姿だ。
実年齢はともかく、20台前半と言われても納得してしまう。
これで女医というのだから、今回のバイトは報酬以上に役得だ。

「…こ、こんにちは!よろしくお願いします」

煩悩が次々に浮かび、消えていく頭を自制し、慌てて立ち上がって返礼した。
礼儀正しく会釈を交わし合ってから、着席を促され元の席に座る。その美人は机を挟んで対面に座った。
その際に僅かに乱れた空気で、嗅神経をくすぐるフローラルな香が漂ってきた。

「早速今回の治験について説明させて頂きますね。
 応募時に電話で説明を受けられたと思いますが、改めてお聞き下さい」

冊子を開くように言われ、具体的な話が始まる。

「今回の治験は、投薬による人体の代謝を測定する事が目的で、
 投薬してからの2泊3日間はこちらでご用意する部屋で一人で過ごして頂きます。
 期間中は外部と遮断され、中村さんが治験の中止を要請するか、
 災害などの緊急時を除いて部屋の外には出られません。また、治験が中村さんの意向で中止になった場合、報酬はお渡しできません」

 (せっかくの30万をみすみす逃すもんか)

リタイアなんて絶対しないと意思を固めるうちに彼女の話が続いていく。

「期間中は、部屋にある連絡用スクリーンでのスタッフとのやり取りを除いて、外部とは一切連絡は取れません。
 又、物品の部屋への持込も認められません。ここまではよろしいですか?」

電話でのやりとりで大まかな内容は知っていたが、改めて条件を確認されると少し気になったので聞いてみる。

「ええ、はい。でも珍しいですよね。治験の体験談とか見るとノートパソコンとか本とかゲーム機持ち込む人も結構いるのに」

「室内に備え付けのスクリーンがありますから、それでテレビや映画などを見て暇をつぶして頂けたらと思います」

僅かな困り混じりの微笑でそう返される。

「いや~報酬が美味しいんで!テレビ映画三昧で2泊3日なんて大歓迎ですよ。
 それにしても、ただ過ごすだけで30万も貰えるなんてやっぱりリスクのある薬なんですか?」

報酬に即釣られた自分が今更言うのもアレだが一応聞いてみた。

「いえ、そんな事はないですよ。
 大抵そうなんですが、治験というのはそもそもサンプル数、ノルマ稼ぎの意味合いが強いんです。
 私も今まで行われた、同じ薬の治験に何回も立ち会いましたが、重篤な副作用や後遺症があった被験者も0でした。
 もともと、きちんと管理されていれば、リスクのある薬ではないんです。すごく画期的な薬なんですけどね」
 ――今回の治験は急募ですし、治験実施中は制約と拘束力が強い環境なのと、
 期間が長く設定された事が相まって、報酬がかなり高く設定されたみたいです」

「へぇ~……画期的ってどんな風にすごいんですか?」

「申し訳ありませんが、薬の効能について詳しく被験者にお伝えしないのも治験の一貫なんです」

自分が摂取する薬について興味と若干の心配はあったが、
由美さんの分かり易い説明と、ネットで仕入れた偽薬、プラセボ効果などの知識があったので了承しておいた。

その他にも守秘義務といった常識的なルールや、自分が滞在する部屋に関する一風変わった衣食住について説明される。
少しの雑談も挟み、この部屋に案内されてから30分ほどで契約書に捺印して、正式に治験に合意した。

由美さんが携帯でスタッフに連絡を入れると、すぐ近くにある検査室に移動する。
身長体重の測定は勿論、採血、MRIまで行った。
そうやって投薬前の検査が終わると、今度は診療室に行く。

診療室で由美さんと他愛もない雑談をしていると、小さく音を立ててスタッフ専用のドアが開き、看護師が顔を出した。
由美さんは看護師に契約書等の書類を渡し、代わりに注射器、錠剤、水の入った紙コップが乗ったトレーを受け取った。

「では、中村さん。この錠剤を飲んでください。
 飲み終わったらお注射ですよ~」

短い時間でも雑談のお陰で気心が知れたのか、
生来の柔らかさ、優しさが乗った口調だった。
差し出された紙コップを取り、錠剤を口に含み、水で喉の奥へ一気に流しこむ。

それを見届けた由美さんに腕を出すように言われ、注射台の上に右腕を差し出した。
腕を消毒され、彼女が注射器をトントン叩き、注射針から僅かに液体を滴らせた。

「はい、ちょっとチクッとしますね~」

小さな注射器の針を自分の右腕、肘の内側に潜り込んでいく。
そして、注射器の中の透明な液体がゆっくりと体内に入ってくる――。



注射が終わるとすぐにストレッチャーに寝かせられた。
何でも、すぐ眠気が来るので治験部屋への移動はスタッフ側でやってくれるとのこと。

まぶたが垂れてくる中、軽く手を握られた。

「中村さん、これからよろしくお願いします」

最後に聞いたのは由美さんの柔らかい、安心する声だった。






◆1日目 始まり

スースーする感覚で目を開けると、見知らぬ天井があった。
曇りガラスの向こうに明かりがあるらしい天井を見つめながら、10秒ほどボーッとして治験が始まった事を思い出す。
部屋の隅にあるやたらゴワゴワした生地の布団から起き上がり、20畳ほどの窓もない壁も床も真っ白の殺風景な部屋をゆっくりと歩いた。

(ついに始まったかぁ。3日もここで過ごすんだよなぁ)

凝った体を解すため伸びをしていると、壁面にある2つのスクリーンの内の1つが点灯し由美さんが映った。

「中村さん、おはようございます。お体の具合は如何ですか?」

そう言われて自分の体を見下ろし頭が真っ白になる。裸だった。
慌てて布団に飛び込み、掛け布団だと思われる布で体を隠し返答する。

「ゆ、由美さん!おはようございます!」

クスクスと笑われた。

「大丈夫です、中村さん。部屋にカメラは付いてますけど、細部まで鮮明に映るような性能はありませんから。
 それに期間中は衣服なしで過ごして頂くんですから、早めに裸に慣れてくださいね?」

俺も恥ずかしかったが彼女も少し照れているように見えた。
彼女の話が続く。

「それよりお体に違和感はありませんか?痛みがあったりしませんよね?」

「ええ、大丈夫です」

照れ隠しですぐに冷静な返事をした。

「良かったです。それでは部屋をご覧下さい。
 今私が映っているスクリーンが、期間中にスタッフ側との回線が繋がる連絡用のスクリーンです。
 頻度は低いですがこちらから定期的に連絡させて頂きます。
 中村さんから何かあれば画面上を触って頂ければこちらとの回線が開きます」

頷き、そのまま説明を聞く。

「横にあるスクリーンはテレビが映るようになっていますから、
 先ほど外での冊子を思い返しながら操作なさってください。
 食事は定期的に投入されるので壁面のスロットから都度お取り下さい。
 水は水桶に常に一定の量まで溜まるようになっています。トイレは部屋の隅にあるのでご確認ください。
 ……簡素で不便なところが多いですがご容赦下さい」

「分かりました。問題ありません」

内心その通りだと奇妙に思うが、由美さんに不満を言うのも憚り、
また報酬を思い出してこれぐらい問題ないと割り切った。
彼女にニコリと微笑まれ、「それでは」と回線が閉じられる。

「さて……」

一通り部屋を実際に使い、見て回ることにした。
テレビ用スクリーンは大雑把なタッチパネル式だ。
リモコンがないので操作が婉曲だったが、とりあえずローカル局をつけておく。

部屋の隅のトイレは30cm四方のただの穴だった。何の仕切りもない。
この穴が並んで他に使用者でもいたらニーハオトイレというやつか。
近くにガサガサとした質感のA4ぐらいの紙が乱雑に積まれている。
幸い穴の中は緩くカーブして別のところへ汚物が排出されるようだし、小さく空調らしき作動音もする。
使用者も当然自分一人なので、由美さんやスタッフ側が見るカメラの視線さえ気にしなければどうという事もない。
そのカメラもトイレとは反対側隅の天井にある大きい魚眼カメラとスクリーンにしかないようだ。

食事のスロットや水桶も見てみる。食事は既に投入されていた。
自動販売機の排出口を大きくしたような形の蓋のないスロットに
リンゴほどの大きさで丸い形の焼き菓子が1個入っていた。
試しに齧ってみるとカロリーメイトを思い出す、腹が減ってなければ旨くも不味くもない微妙な味だった。

(妙に粒っぽいようなザラザラ感があるなぁ)

ゴミバケツほどの大きさの水桶は壁にややめり込むように固定されており、
近くの床には排水用だろう拳大の穴がいくつか作られていた。
水桶の中に張られている水を両手で掬って飲み喉を潤すと一息つく。

期間中は外部から遮断されるというだけあって、
出入り口らしきものは壁の一面を占めている金属製の大きな防火扉のようなものしかなかった。
扉を軽く叩いてみると密度の高い音が返ってくる。実に頑丈そうだ。
部屋の内側には一切取っ手やそれに準ずるものがなく、外からしか開ける事はできないようだ。

とりあえず隅にあった布団をテレビ用スクリーンの前に動かし、
その布団の上に横になりテレビを見て寛ぐとした。
番組の内容からいつの間にか夜になっているのが分かった。



~~~



突如テレビ用スクリーンの隣の連絡用スクリーンが点り、由美さん映った。

「こんばんは、中村さん。定期連絡です。
 今日は昼からでしたけど、1日目を終えて如何ですか?」

「こんばんは、暇でしたけど、あと2日で30万って考えたらバリバリ頑張れます!
 頑張るといってもボーっとしてるしかないんですが。あはは」

少し調子に乗って話していると小さな笑い声が聞こえ、由美さんの後ろに人影があるのに気がついた。
由美さんも俺が自分の後ろを気にしたのが分かったようで、

「中村さん、こちらは小野麗華さん。
 私も期間中この病院に詰めてはいますが、これから休憩に入るので担当の引継ぎです」

と後ろにいる女性を紹介して自分の前に促した。

「こんばんは~、これから面倒見てあげる小野麗華だよん♪よろしくね~!」

やや語尾を延ばし媚びた口調で自己紹介したのは、自分より幾分か若いまだ高校生のような女の子だった。
由美さんよりほんの少しだけ背が低いが160cmはあると思われるので女性としては十分だろう。
由美さんを綺麗系の美人だとすると、この子はかわいい系の美人と言っていい。
一応白衣を羽織っているが着崩しすぎて白衣らしさを感じられなく、
胸元を強調するようなワンピースを着ている。

「麗華さん、中村さんは被験者なんですから、ちゃんと丁寧語を使ってください」

由美さんがその女性を窘めた。

「えー、由美さんと中村さんだってフランクな雰囲気でしたよねー。ちょっとぐらいいいじゃないですか~」
 
「――麗華さんは医学生で、今回の治験で使う薬を開発した製薬会社のご令嬢なんです。
 ちょっと事情があって、急遽治験スタッフを担当してもらう事になりました。
 ……中村さん、ごめんなさい。少しだけ大目に見てくださいね」

由美さんは眉を若干顰め困り顔だった。
製薬会社のお嬢様――年下でも由美さんからすれば、扱いにくい上司であり部下でもあるような存在なのかもしれない。

「……中村良介です。小野さん、どうぞよろしく。
 由美さんもおつかれさまでした。また明日もお願いします」

礼儀知らずの麗華相手に無難な挨拶をして由美さんを送り出す。

「では中村さん。今日はこれで失礼します。
 麗華さんも、しっかり職務を果たしてくださいね」

お辞儀をして由美さんが画面から消えた。
引き継ぎの挨拶も終わり、このまま回線も閉じるかと思っていると小野麗華が話しかけてくる。

「中村さんって何歳なんですか~?」

「22歳の大学4回生だよ。医学生って聞いたけど小野さんは?」

「ふーん、年上なんだ。わたしは去年まで高校生だった19歳で~す☆」

「……そうなんだ。でも治験っていったら20歳以上なんだから、被験者がみんな年上なのは当たり前じゃない?」

TPOを弁えない緩さの意趣返しににやりとして突っ込みをいれた。
麗華が気に障ったら仕方ないが、由美さんにも生意気な態度だったこの女性はあまり好きになれそうもなかった。

「それはそうですけどね。今はあんまり年上に思えなくって……ふふっ」

長幼の序をどうのなんて言うつもりはない。
だが、お互いの年齢がはっきりしても麗華は相変わらずの小生意気な態度で接してきた。
このお嬢様はよほど甘やかされて育ったようだ。

「中村さんは何でこの治験受けたんですか~?」

「今日、ネットで求人見つけて。凄く割が良かったからすぐ応募したんだ。
 貧乏学生には千載一遇のチャンスだったよ」

相手は共感しないであろうが、俺にとっては報酬という言わずもがなの理由を話す。

「ふ~ん、30万…でしたっけ?早く貰えるといいですね♪」

30万を軽々しく口にする麗華を見て、庶民たる俺と大企業令嬢との金銭感覚の差を実感した。

その後はすっかり麗華のペースで、ころころと話題が変わり、
由美さんの情報(両親は彼女が小さい頃に他界され、結婚もしていないらしい)だとか、
好きなスイーツのお店だとか、好きな芸能人だとか、ペットが欲しいとか、
興味のある話や下らない話も合わせてべらべらと一方的に喋ってきたが、何とか話を合わせていった。

やがて弾を打ち終わり、麗華は満足した様子で回線が切れた。
おてんば娘から解放されほっしていると、ズーンとどこからか重低音が聞こえてくる。同時にグラッと揺れも感じた。
その揺れは殆どの地震の例に漏れず段々と強くなっていくが、10秒もしないうちに揺れは収まった。

スタッフ側からの連絡もなかったから、特に問題ないと判断し明かりを落として就寝する事にした。
今日は投薬されて少し眠ったから寝つきが悪いかと思いきや、
麗華で疲れたせいか布団に入ってから寝るまでの時間を長く意識する事もなかった。



◆2日目 接近

昨日のように呆ける事もなく、意識が覚醒してすぐに治験二日目が始まったのを自覚する。
テレビ用スクリーンを点けると時刻は朝7時を過ぎており、朝のニュース番組が流れていた。
トイレ、洗顔、食事などを済ませ一服していると、連絡用スクリーンがこちらの様子を見計らったように点灯する。

「中村さん、おはようございます。二日目もよろしくお願いします」

「由美さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします!」

昨日の就寝前とは打って変わり、爽やか朗らかな気分で返事をした。

彼女は微笑み、体調や昨日の麗華の担当時間に問題はなかったかなどを聞いてくる。

「小野さんの長話は疲れましたけど特に問題ないですね。睡眠も普通に取れたし…
 あっそういえば、昨日寝る前に地震がありましたけど、由美さんは大丈夫でした?」

「地震、ですか?」

やけに真剣な顔で質問に質問で返される。

「ええ、震度でいったら3の強めから4ぐらいで10秒程度でしたけど…気づきませんでした?」

「………あっ、そういえばありましたね。あの後早めに寝てしまったものですから
 昨日は気づきませんでしたけど、朝のニュースでやってたのを見ました」

彼女は数秒の間の後、やや早口で答えた。
そして、昨日の麗華の態度や長話に付きあわせてしまった事を謝られた。

「全然気にしてないですよ。初対面でああいう人は珍しいので昨日はびっくりしましたけど、
 由美さんに謝ってもらうほどの事でもないです」

そうフォローしておくと彼女は済まなそうに説明する。
話を聞くと本来担当するはずだったスタッフは別にいたが、
麗華がこの治験に興味を持ち親族にせがんだ結果、製薬会社側の強権で急遽麗華が来る羽目になったらしい。

「そういえば俺、由美さんって名前で呼んじゃってますけど失礼じゃないですか?」

話を変えようと今更の事を聞く。

「いえ、苗字で呼ばれるより名前で呼んでもらった方が親しみやすくて私は好きですよ。
 それに、両親が心を込めてつけてくれた名前なので、由美って呼ばれると嬉しいんです」

「いい名前ですよね、由美さんの雰囲気とジャストフィットって感じ!」

「好き」という言葉に一瞬ドキリとした。
年甲斐もなく顔が赤くなっている気がするが、冷静を装って砕けた態度で答えた。
返答の内容はジョークでも冗談でもないのだが。

名前と間接的に容姿を褒められて満更でもないのか、彼女は嬉しそうに微笑していた。
少しだけ頬が赤くなっている気もする。

「私も中村さんの事、良介さんって呼んでもいいですか?」

「……由美さんみたいな素敵な女性に名前で呼ばれるなんて大歓迎ですよ。ほんと、役得だな~」

和やかな雰囲気で雑談を続け、昨日麗華に聞いた話を茶化しながら尋ねる。

「由美さんって独身なんですよね?もし恋人もいなかったら俺立候補しちゃおっかなぁ~?」

「良介さんって、結構お調子者なんですね?
 恋人はいませんが、その件は後ほど治験が終わったら改めてお願いします」

名前で呼んでもらえた事、由美さんに恋人がいない事、少なくとも脈なしではないと分かる彼女の態度から内心有頂天だったが、
今までの人生経験から張り切りすぎて墓穴を掘るべきではない。

「楽しみにしてます!」

とだけ元気良く返事をし、定期連絡が終わった。




今日は日がな一日映画を見るつもりだ。
既に2本の懐かしの名作を視聴し終わり、昼過ぎに食事を取っていると連絡用スクリーンが点灯した。

「すみません良介さん、急な外回りの用事ができたのでしばらく外します」

「ああ、問題ないですよ。気をつけていってらっしゃーい」

「担当を他の医師に言い付けて行くので、何かあればすぐに連絡用スクリーンで呼び出してくださいね。
 麗華さんはもう担当しませんから安心してください」

安心しろと言う本人が少し心配そうにそう言い残して、彼女は出掛けていった。

(由美さんがいなくてもスタッフがカメラで逐一こちらの様子は掴めるはずだけど、
 一々俺に断りを入れるなんて、スタッフの人数も思ったより少ないのかな)

疑問を抱いたが、考え続けて答えが出るわけでもないので時間を潰すためにも映画鑑賞に戻った。






◆2日目 把握

映画を見てれば1日なんて余裕で潰せる。そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。

画面の一部分をぼんやり見ているといつの間にかカットが変わっているし、
登場人物の台詞を頭で反芻しないと何を言ってるのかも分からない。
映画の内容も掴めなくなってきて、ひたすら眠いのだ。
今日5本目になる映画を見ているうちに集中力が霧散してしまった。

(睡眠時間指定されてるわけでもないし寝ればいいか)

そう思いスクリーンと電灯を落とし、布団の上で目を閉じる。
意識がなくなる瞬間の気持ちのいい浮遊感に揺られながら、夢の世界へと旅立った。



~~~





ガクン!と急に高いところから落ちる感覚がして、布団の中で全身が一瞬硬直した。
まず意識できたのは、安眠が途切れて残念な気持ちだった。
しかし、それも自分自身のジャーキングという生理現象なので仕方ない。

寝直そうと体勢を整えてそのまま横になっていると、意識ははっきりしているのに今度は奇妙な浮遊感があった。
そして、急に激しい、高層階での長周期振動もかくやという横揺れを感じる。
――暗闇の中パニックになりかけたが、すぐに自分を瞬時に取り戻し、苦労しながら電灯と連絡用・テレビ用スクリーンをそれぞれ点灯させた。
テレビ用スクリーンはチャンネルをNHKにあわせ、地震情報を即座に見られるようにしつつ、連絡用スクリーンを確認する。
しかし、連絡用スクリーンは電源こそついているもののブラックアウトしているだけだ。
自然テレビ用スクリーンを見てみるが、丁度夜10時からのニュースを普通にやっているだけで、地震情報は流れていない。
しばらくその横揺れと、定期的に混じる横揺れほどではない強さの縦揺れに耐えながら、縋るようにニュース音声に耳を澄ませていた――。

まただ。
地震にしては奇妙な浮遊感。
正確に言うならば、エレベーターが上昇しているときのGと……止まる時の浮遊感。
そして今度は、ジェットコースターで味わうような下腹が浮き上がるような落下、衝撃。
それと共に室内に反響する重低音―― 一切の揺れや振動が止んだ。

最後の衝撃で盛大に倒れてしまったが、もともと中腰になって備えていたお陰で怪我はなかった。

だが……

いよいよニュースは地震のじの字もなく、連絡用スクリーンも音沙汰無しだ。
完全に混乱した頭で、今までの治験の奇妙さを思い返す。

妙に高い報酬。外部からの物品の持込禁止。外部からの遮断。粗末な衣食住。
スタッフとの定期連絡が少しあるだけで、定期的に何らかの採血などの測定もない"治験"。

もしかしたらと思うが、この状況も治験の一環で、エレベーター兼地震発生装置のような施設を使って、
不確かな状況に対する精神の動きを見られてるんだろうか……?

わけの分からない状況で光明が見えた気がした。
そう考えてみると、応答しない連絡用スクリーンや、地震を報道しないテレビを見ても不安が高まる事はなかった。

今もカメラ越しに自分を観察しているであろうスタッフに向かって、ドヤ顔でVサインを送りたくもなってくる。
しかし、由美さんが見ている可能性も考えて、ここは知的にクールさを演出すべく取り澄ませた顔で事態を静観しておいた。
怖いのにお化け屋敷で強がる子供みたいな真似はゴメンだ。

何やら、外から物音が聞こえてきた。
この部屋唯一の出入り口である扉のすぐ外だ。
壁一面の大きく、頑丈な扉がゆっくりと開いていき――
大勢力のトルネードに煽られるように、猛烈な力と轟音と共に引きちぎられていった。

そして――

「中村さ~ん、出ておいで~」

拡声器で特大に音量を上げたような声が聞こえた。
それでも、拡声器にありがちなノイズは混じらない。

呆然とした。

「どうしたの~?はやく出てきなよ~」

もう一度さっきの声が轟いた。
声が体に振動を直接伝えるようにビリビリとする響き方だった。
自分の体の震えが、声自体のせいだと思ったが、声が止んでも一向に震えは止まらなかった。

「出てこないなら無理やり出しちゃうね」

苛立ちを孕んだ大声が響いた直後、床が急激に傾き扉の外れた出入り口が下になった。
為す術もなく滑り落ち、目を瞑って体に力を入れると――地面らしき場所に落下したみたいだ。
恐怖で視野も狭まる中、溝が多く刻まれた湿り気のある温かい床の上で這いつくばっていると、


「中村さん、そこどこだか分かる~?」


声が上から降ってくる事で上を見そうになったが踏み留まる。
上を向いてその存在を確かめたら、さらに恐ろしい事が起き、もう二度とあの日常に戻れなくなる…そんな気がした。

「もう。恥ずかしがり屋さんなんだからぁ~。
 じゃあわたしが教えてあ・げ・る♪」

Gが掛かり俺の乗っている地面は、エレベーターとなって昇っていく。
上昇が止まり、地面が水平に移動して、景色が変わり、それの前で動きが止まった。

それは――。そいつは――。

「中村さん、昨日振りだね!元気してた?」

ニタニタとほくそ笑んでいる巨大な怪物が聳えていた。
昨日と同じだろう人を小馬鹿にするような生意気な態度で。昨日とは全く違う存在感で。

「わたしの手のひらの居心地はどう?」

「――――――――――――――」

「ふふっ…ふふふふ♪ あはははははは―――」

俺の絶叫を麗華の巨大な含み笑いが掻き消していく。
もしこの場に、他にも人がいたとしたら、その人に俺の叫びは届くのだろうか。


俺は昨日の夜、連絡用スクリーンを通して会話した、年下の生意気なお嬢様に命を、存在を握られていると理解した。






◆2日目 命名

「――あー楽しい♪ 今まで我慢してきたかいがあったわ。あの薬には感謝しないとね」

手のひらから広大な机の上に降ろされる。
無理矢理にでも神経を落ち着かせ、状況を少しでも掴むためにあたりを見回した。
この空間、周りの景色はどれもこれも人工物ではあるはずなのに、計り知れないスケールだった。

今までの奇妙な状況。そして、大巨人。
自分が虫のように小さくなっているのだと予想するのは簡単だった。
何しろ巨大なベッド、タンス、本棚、化粧机、クローゼットといった家具が麗華と同じ存在感なのだ。
遥か遠くに閉じられたドアが見える。おそらく、どこかにある麗華の私室なんだろう。
質は良さそうだが豪奢とまではいかない家具群、今の麗華と照らしあわせた部屋の広さを鑑みると――麗華の仮宿か。

「それにしてもちっちゃくて可愛いね~」

ズン!

目の前に一抱えもできないほどの太さの塔が建った。

「小さくしすぎちゃったかなぁ。指だけで潰せちゃいそう」

塔――麗華の指の迫力と、恐ろしい発言に腰が抜けた。
座ったまま少しでも離れようと後退りするが手足が震え上手く動けない。
尻もちと僅かな後退りで少しは距離がとれたはずなのに、遠近感が狂ったように全く離れた気がしなかった。

俺の様子を見て、麗華はニヤつきながら口を開いた。

「せっかく手に入ったペットなんだから、殺したりしないよ?
 わたしの言う事聞いてれば、可愛がってあげるから。安心してね」

そんな言葉で何を安心すればいいんだ。

「そーだ!せっかくのペットなんだから新しく名前つけないとね。
 中山良介だったから……う~ん、安易だけどりょーちゃんが一番かな。
 よろしくね!りょーちゃん!」

麗華は笑っているが強い視線で俺を釘付けにした。
どうやら返事を強いられているようだ。

「――よろしくお願いします。麗華さん……」

今は下手に出るしかないと判断し、無難な返答をした。

「ん?姿勢と言葉遣いがなってないんじゃない?」

それまでとは違う声音と表情だった。

「わたし、ペットは欲しいけど、りょーちゃんがどうしても欲しい訳じゃないから。
 外でその辺の草むらとかに放り出したり、ティッシュで包んでゴミ箱に捨てたり、
 トイレに流したりしてあげてもいいんだけどな~?」

残酷な笑みを見せ、殺さないという言を簡単に翻し、
俺の処刑方法を並べ立てる麗華に背筋が凍った。
居住まいを正し、上に向かって声を張り上げる。

「麗華様に拾って頂き幸せです!どうか可愛がってください!!」

言い終えると土下座した。

「うんうん、わたしもりょーちゃんがそう言ってくれると嬉しいよ。沢山可愛がってあげるね♪」
 ……さ、今日は疲れたでしょ?りょーちゃんと違ってわたしは忙しいし、
 最初から今日は顔見せだけのつもりだったから、もうお部屋にお戻り」

一転して喜色満面になった麗華にこの場はお開きだと宣言された。

治験を行っていた部屋を収めた俺にとっての建物は、
麗華にとって、普通の人間にとってはティッシュ箱の長辺を切って半分にしたものより、
一回りも二回りも小さいものだったと部屋への道すがら、机の上に置いてあったティッシュ箱を見て分かったのだった。
部屋の中央辺りまでたどり着くと部屋全体が揺れ動く。
やがて、入り口を塞ぐように麗華の部屋の壁に押しつけられて声が聞こえた。

「りょーちゃんおやすみ~。明日は朝から楽しみにしててね♪」






◆2日目 発覚

急な呼び出しで本社に赴き、会議や書類の作成と提出など仕事を片付けていったが、
今日までに完了させる必要がある急ぎの用件は特になかった事に胸騒ぎを覚えた。
逸る気持ちを抑えられず、本社から一直線に病院に戻ると時刻は23時を回っていた。
白衣に着替える時間も惜しいと治験が行われている一室に向かう。

部屋に入ると、良介の担当をお願いした医師がいるのを確認でき、ほっとした。
その医師は良介のいる部屋をモニターするディスプレイのある机に上半身を突っ伏していた。
自分でディスプレイを見ると、良介は既に眠っているようだった。治験部屋の布団が膨らんでいる。

仕事熱心が売りで信頼の置ける医師なので、急遽担当を変わってもらうようお願いしたが、
流石に日勤の後の時間外労働で疲れて眠ってしまったのだろう。
揺すって起こそうと医師に近づくと、床に転がっていた紙コップを蹴飛ばした。
コーヒーの香を放つ使用済みでやや変形した紙コップをゴミ箱に捨て、医師を揺すりながら声を掛ける。

「先生……先生!起きてください!戻りましたよ!」

何度か呼びかけてみたが、医師は目を覚まさなかった。
思わず呼吸や脈を確認する――呼吸も脈も異常はなかった。
しかし、これほど深い眠りは普通だとは思えない……。
先程捨てた使用済みの紙コップが脳裏によぎった。
良介との連絡用スクリーンの前に飛び付くように移動して回線を立ち上げる。

「良介さん!お休みのところごめんなさい!すみませんが起きてくれませんか!?」

スクリーン越しにしても大きい声で呼びかけるが、布団の膨らみは動かない。
すぐに部屋の奥に向かい、良介の入っている縮小薬の治験用に作られたコンテナを
昨夜麗華が悪ふざけしたように揺さぶった。地震で中にいる良介が目覚めるのを願うように。
コンテナを手に持って、コンテナ内の様子が映っているディスプレイの前へ急ぐ。

ディスプレイに映る室内。
良介の寝ている布団は揺れのせいか部屋の中央からやや壁際まで移動していたが、布団の膨らみはそのままだった。
コンテナの扉を指で強引で引き開けて、中を覗き込む。室内に指を入れて布切れを慎重に剥ぎとった。
布団の中にいたのは――いや、あったのは、良介と同じぐらいのサイズの子供でも見向きしないようなチープな人形だった。

「良介さん!!」

悲鳴が部屋に響き渡った。






◆3日目 願い

巨人が床にいる俺を離れた場所から見下ろしている。誰だろう。
何故かぼやけて顔が判別できない。その誰かは床にいる俺に向けて足を踏み出し、
俺にとっては建物スケールのパンプスが、地響きを立てながらぐんぐん近づいてきて――

飛び起きる。ベトつく汗を体中にかき、額から流れた汗が入り染みた目を擦った。
擦った目を開けると出入り口から覗いている巨大な麗華の目と視線が合った。
夢を見たのは覚えていたが、麗華という目の前の悪夢と比べたら些事だと否応なく脳が主張する。
夢の内容は記憶の彼方に埋もれていった。


「りょーちゃんおはよー!魘されてるみたいだったけど大丈夫?
 もう怖くないでちゅよ~~♪おーよしよし♪」

ただ俺を嘲るだけの赤ちゃん言葉を掛けられ、指で机に押し付けられた。
撫でてるつもりなのか知らないが、息が出来ないぐらいの重量が全身を圧迫している。

「――――!」

「あ、ごめん。りょーちゃんには強すぎちゃったね。危ない危ない」

麗華はそう言って俺を指から開放した。
『危ない』という言葉だけが真に迫っていた。
その力加減自体は麗華も誤算だったらしい。

「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」

土下座ではないが、指から開放されたままの跪いた姿勢で朝の挨拶をした。
これには麗華も感心したらしく目を丸くしている。

「りょーちゃん随分素直になったね~。偉い偉い!
 朝ごはんで躾けてあげようと思ってたけど、いい子にはご褒美に食べさせてあげよっかな」


昨日の昼、まだ自分が安穏と取った食事を最後に何も口にしていない。
今までは余りの状況の変化に空腹を感じる余裕もなかったが、ここにきて体は正直に空腹を訴えている。

躾だろうが、ご褒美だろうが、この女が考える事で俺にメリットがあるなんてまず考えられなかった。
だが、今麗華に逆らうよりは、従順なフリをして生き延びる方が賢明だ。
元々の治験の期間が2泊3日だったから、今日を凌げば明日には元の大きさに戻れるかもしれない。
由美さんも俺が攫われた事態に気づいてるはずだから、きっと助けに来てくれるはずだ。

最後に見た由美さんの心配そうな顔が目に浮かぶ。
薬で自分が小さくなっている状況に由美さんが関与しているのは疑いの余地がないが、
あの人が麗華とグルだったり、自分を見捨たりするなんて考えられない。

今の自分に希望を捨てられる勇気はなかった。






◆3日目 食事

大人しく麗華のご褒美とやらの様子を伺っていると、
麗華はドアの向こうからトレーを両手に持ってきて、俺のいる机の上に置いた。
茶碗、瓶入りの苺ジャム、コップに入ったヨーグルト、スプーンが載っていた。

「いい子のりょーちゃんのためにママご飯作るから、ちょっとだけ待っててね~」

そう言うが早いか、麗華は指をこちらに近づけてきた。
慎重な動作で攫われ、すり鉢状の空間に放り出された。
多分、茶碗の中だ。周囲は陶器らしい光沢のある壁に囲まれている。
やがて、トレーを机からどこかに移動させるらしきグラグラという揺れ。

衣擦れの音がして、茶碗の上に光を僅かに通す程度の覆いが掛けられた。
明かりが遮られて薄暗くなった茶碗の中に、香水、汗のような体臭が充満してくる。多分、麗華が来ていた服か何かだろう。
外からカチャカチャとコップをスプーンでかき混ぜるような音が続き、やがて止んだ。
茶碗毎持ち上げられたようなお馴染みとなった感覚の後、天幕が突風を起こしながらバッと取り払われる。
見上げるとそこには、裸で満面の笑みの麗華の顔がこちらを高みから見下ろしていた。

麗華は円筒形の構造物、苺ジャムヨーグルトが入ったコップを手にして、こちらに軽く振り自身の薄紅色の乳首に薄く塗っていく――。

「おまたせ、おっぱいの時間でちゅよ~♪ はーいチュパチュパしてね~。ああペロペロか」

麗華の上半身に俯瞰されているような余りの光景にフリーズしていると、
茶碗が急な動きで揺れ動き、傾いて外に放り出された。

目の前にあるのは、所々マーブル状でピンクが目出つぼこぼこした楕円球の大岩。
甘酸っぱい臭いが強く香ってきた。薄紅色の地面は暖かく脈打っている。
ベッドに仰向けになった麗華の左乳房の上に乗せられたのだ。

地面が震える。麗華はどこからか取り出したハンドミラーを、上空で角度を調整するように動かしていた。
天に浮かぶ曇りのない鏡面に麗華の巨大な顔が映っている。怪物の頭が増えた気がして恐怖も倍増した。

「ほーら!早く食べてっ」

麗華が俺を急かした。この女が手間を掛けた食事を拒否したら、機嫌を損ねるのは明らかだ。
仕方なく目の前の大岩を覆っている苺ジャムヨーグルトを手で口に運ぶ。
ヨーグルトの酸味と苺ジャムの甘みの混じった平凡な味が口の中に広がった。

今まで女性と付き合った事はあったが、いざという時に奥手な性格から肉体関係を持った事はなかった。
初めて直に触れる年頃の女性の乳首と、この自分より体積の大きな大岩を結び付けるのは難しかった。


そして、その食べ方はお気に召されなかった。

「折角ママがおっぱい上げてるんだから、しっかり食べなさいよ!」

空間全体から体の芯に響く声。震えながら、恐る恐る麗華の顔の方向に振り返る。
おわん状の丘陵の頂上からは、麗華の顎と鼻の穴はよく見えるが顔の全体像、特に表情はまるで分からない。
それが不安を際限なく煽る。麗華の一挙手一投足とまでは言わなくとも、その意図ぐらいは知りたかった。
そこで麗華が鏡を使って自分を見ていたのを思い出す。

――上空にはこちらを睨んでいる双眸が浮かんでいた。
この距離でも、自分より大きい事が分かる瞳に吸い込まれそうだ。
自分に何が求められているのか、言葉にされずとも分かった。
慌てて大岩に抱きつき、ヨーグルトが付くのも気にせず必死に顔も埋めて口で舐めとっていく。

「んっ…ちょっとムズムズして擽ったい…」

麗華が深く呼吸しているのが、地面が上下にゆっくり動いているのと、生温かい風が時々背中を撫でる事で分かる。

「横からじゃなくて上から食べて欲しいな。その方が自然でしょ?」

頼みの体の命令をされ、ヨーグルトに手足を取られながらも、でこぼこした乳首に手足をしっかり掛けよじ登る。

「あっ…さっきよりいいかも」

登り切るだけで息が切れていた。
自分に鞭打ち、うつ伏せになって"食事"を再開する。


「ねぇ、舐めるだけじゃなくてもっと刺激してほしいな~
 ほら、おっぱいの出も良くなるっていうじゃない?」


十分なヨーグルトで腹が満ちた頃。
乳が出もしないのに、飽くまでも授乳という体裁を保ったままの新たな命令が下った。
プレッシャーを感じながら、乳首を舐め、拳を叩きつけ、蹴り、歯や爪を立てる。車のタイヤのような感触だ。
その都度地面が大きく揺れたり、「んぅ」「あっ」といった喘ぎ声と呼吸音のどちらともつかない音が聞こえる。

さっきより大きく固くなった乳首相手に格闘していると、
時折クスクスという含み笑いと「あははっ♪」という嘲笑が。
圧力の伴った視線も背中に感じても、それらを無理矢理意識から追い出すしかない。ひたすら作業に没頭するだけだ。

やがて麗華は鏡を放り出し、左手を右乳首、右手を陰部にやり自らを慰め始めた。

さっきまでとは比べ物にならない麗華の呼吸の乱れ脈拍の高まりを感じながら、俺はただ乳首に刺激を与え続けていく。
クチュクチュと猥雑な音が響き、雌の臭いがここにも漂ってきた。
顔を横に向けると、谷の向こうの山の頂上を3匹の巨大蛇が貪っている。
麗華の左手の親指、人差し指、中指が右の乳首をこねくり回しているのだ。
自分が相手にしているものと同じ筈なのに、常に形を指によって変えられている。

麗華は既に俺を気にも留めずに、オナニーに集中していた。
無性に怒り、悲しみ、悔しさ、惨めさが混じり合ったドロドロとした感情が溢れて、涙が次から次へと流れ落ちる。
泣きながら乳首に刺激をこれでもかと与え続けるが、麗華が自慰を始めるまでにあったような反応は返らない。
麗華のペースで胸が上下したり、小刻みに揺れるのみ。

求められた奉仕を止めて脱力した。
ずっと動き続けてひどく疲れていたし、自分の行為に意味があるとも思わなかった。
それを証明するように何も沙汰は無い。麗華の意識に俺の存在があるのかどうか、今は考えても虚しい。

静かに泣きながら休んでいると、奉仕していた時より聴覚や嗅覚が機能し始めた。
周囲には甘酸っぱい臭い以外の、雌の臭いが強く漂っていた。
麗華の呼吸音と陰部をかき回す音に、時折艶のある喘ぎ声が交じり合っていた。

ふとした違和感があった。体を捻り自分の股間を見る――目を疑った……。
自分の気持ちに関係なく働く雄の本能。自分で自分を裏切ったショックを受けて、逆に涙が収まっていく。
随分フラットな感情になっていく気がした。
麗華の快楽の波は段々と高まっているようで、今までより揺れが大きくなってきている。
乳首の上から振り落とされないよう、うつ伏せでしっかりと乳首にしがみつきながら、腰を上下に動かし自身を麗華の乳首に擦り付ける。


(もうだめかもしれない…)


俺が擦り付けるのと同調して揺れる地面。ヨーグルトが潤滑剤となりオーガズムが高まっていく。
俺も麗華も終わりは近い。

麗華の体が震えながら硬直し大きく何度か跳ね、深く息を吐きながら脱力していく。
なんとか乳首にしがみついていられた俺は、最後に数往復擦り付け絶頂に達した。
ビュルルッビュルルルルルッ…と勢い良く放出しながらも、ドクドクと後から後から湧いてくる大量の精液。
今までのオナニーは何だったのかと思う程の精液を絞り出し、疲労と快感で精根が尽きた。

薄れゆく意識で麗華を見やると、麗華も天井に顔を向けたままだった。
おそらく目を閉じて、絶頂の余韻に浸っているのだろう。
俺が放出した精液はヨーグルトと交じり合って、麗華は勿論、俺にも分からないぐらいにその痕跡が消えていく。
目を閉じ、乳首に身を任せ、麗華の体温と脈拍、深く安らかな呼吸を感じながら、俺は意識を手放した。



◆3日目 入浴

どれだけ眠っていただろう。
まだ全身に疲労の名残が残っている。
横になったまま身じろぎすると節々が痛かった。
感覚がはっきりしてくると、全身にベタベタした何かが纏わりついているのが分かった。

(そうか…俺は…)

麗華のオナニーのための小道具にされ、果てたのを思い出す。
自分の世界観が変わった感じだ。だが、それがどういうものなのかは、はっきりしなかった。
上半身を起こし自分の体を見ると、ヨーグルトかと思っていた感触はそうではなかった。
半透明の粘り気のある液体。嗅いだ事のある臭気を発していた。

(寝ている間に愛液に塗れるなんてな…)

辺りを見回すとベッドの隣にあるサイドテーブルの上だった。麗華は部屋にいない。
開いているドアの奥から微かに水音が聞こえる。

(シャワーか…)

ドアの奥から物音が立て続けに起こり、やがて裸の麗華がタオルで髪を拭きながら現れた。

「あ、起きたんだ。りょーちゃんもお風呂入ろっか?全身べとべとじゃん」

俺を玩具にしたのがそんなに楽しいのか、上機嫌に笑っていた。
その麗華にそっと摘み上げられて、手のひらに乗せられる。
ずんずんという麗華の歩みで次々に景色が流れていき、部屋の外に連れて行かれた。

「ちょっとそこで待っててね~」

麗華は、辺り一面が白い何十mもある高い壁に囲まれた空間に俺を置き去りにして、浴室から出て行った。
たかが洗面器でも、自分の大きさなら草野球やサッカーができるぐらいだ。
遥か高い浴室の天井にある電灯に照らされながら、麗華を待つしかなかった。



時計もなく体感時間も当てにはならないが、しばらく経って足音が近づいてきた。

「あー飲んだ飲んだ。りょーちゃんお待たせ~
 りょーちゃんのためのお風呂の準備ができたよ♪」

麗華はそう言うと洗面器を跨ぎ、こちらに向かって腰を下ろしてくる。
どんどん近づいてくる巨大な女性器。これから何をされるのか分かっても、何も出来ない。
やがて頭上いっぱいに広がる女性器の中心付近がヒクヒク動いたと思ったら、ダムの放水が始まった。

俺は黄金の津波に流された。
もがきながら水面に顔を出そうとするが、
次から次へ起こる波に翻弄され、水中で踊り狂う。
何度か顔と手が水面から出たのが分かったが、
すぐに本流が直撃して凄まじい勢いで水中に引き戻された。
肺に残っていた空気も吐き出してしまい、口内に水が入り込んでくる。
俺は余力を振り絞り、生に執着した。

放水が止まり、凪いだ黄金の海の中でぷかぷか浮かんで咳き込み、ゼーゼーと呼吸を繰り返す。
口の中がしょっぱく、口呼吸でも分かるレベルの水面から立ち上る臭気。
命の危機が過ぎ、今になって自分が浮かんでいる液体の温かさが実感できる。その温かさが今はありがたかった。


「特製のシャワーはどうだった?久しぶりのお風呂で極楽でしょ~♪」

麗華が笑ってこちらを覗き込み聞いてくる。
まだ息が切れていたが、もうしゃべれるぐらいには回復した。

しかし――この怪物に、何かを言う気力は失くなっていた。

「あーあ、壊れちゃったかな」

麗華は残念な声。

(壊れてる?……俺が?)

ひょっとしたら俺の手足がどこかもげているのか、と一瞬思い浮かんだが、
両手両足の感覚はしっかりあるし、俺は五体満足だ。

「プライドのある元人間を虐めるのが最高に楽しいのに、
 これじゃあもう、本当にただの虫相手にしてるみたい」

(そういうことか…)

俺ももう自分が人間とは思えなかった。
麗華が人間なら俺は虫だ。本能のまま、生にしがみついているだけだ。
何もかもがどうでもよかった。



◆3日目 終了

洗面器の中で呆然としている良介を、普通のシャワーで軽く洗い終わり、部屋に戻って床に下ろした。

「りょーちゃん、今日で治験終わるんだったよね?ご苦労様。
 頑張ったからボーナス付けておくね♪」

そう言って1万円の札束を手に取り、札束の表を良介によく見せてから目の前に置く。
その勢いで良介が少しばかり転がっていった。
気力がなくなったのか、床に伏したまま動かないそれを一瞥する。
虫にお似合いの姿だが、虫が反応を返さないように、わたしもこの虫に対する興味をなくしていた。

「手間が掛かった割りには短い間だったけど、まぁまぁ楽しめたな。
 もう少し大きいサイズならもっと色々遊べそう」

鼻歌を歌いながら今までの事を思い返していると
この部屋の備え付けの固定電話が着信を告げた。
この部屋に掛けてくる相手は限られる。
受話器を外して耳に当てると、間髪入れずに知った声が飛び込んできた。

『――麗華さん?麗華さんなの!?良介さんをどうしたんですか!?』

と由美が自分を問い詰め始めたのだ。

「へぇ~さすが由美さんですね。ここの番号が分かったなんて」

素直な賞賛を送るがそれも途中で遮られた。
由美は大分焦っているようだ。これはこれで面白い。

『そんな事どうでもいい!良介さんは無事なの?あなた自分が何をしてるか分かってるの!?』

この番号の調べはついても、まだ正解にまで至っていない由美に頬が緩む。

「分かってますよ?わたしなりの治験をしてみただけです。
 元々、今回の治験はわたしが計画したものですし、
 りょーちゃんも無事なので安心してください」

『…なん……そんな……それにりょーちゃんって……』

由美は唖然として呂律が回っていない由美に提案する。

「返しに行くのも面倒なんで、由美さんが取りに来てもらえますか?場所は――」

実はここは治験が行われた病院の一画にある、
一部の関係者しか知らないプライベートルームだった。

「そうそう、りょーちゃんを引き取るなら、これからもちゃんと面倒みてあげてくださいね」

『え?』

「二重盲検法《ダブルブラインド》ってご存知ですよね?」

ヒントに留める。
遊び終わり、済んだ事にこれ以上時間を取られるのも馬鹿馬鹿しい。

「それじゃ」

由美の返事も聞かずに電話を切り、最低限の私物をまとめ、プライベートルームを後にした。

(今日はどこのお店にしようかな♪)


昼食を考える麗華の顔は晴れやかだった。






◆救出

人間のシャワーと麗華の手で、洗濯機の中の洗濯物のようにかき回され、
浴室から持ち運ばれ、元の部屋の床に降ろされた。
麗華が何か喋っているようだが、まるで頭に入ってこない。
すると目の前に、自分より大きいが、人間よりは遥かに小さい奇妙な質感の和服の男が現れた。
どこかで見たような気がする男だ。
そして、その男が胸元までしかない体でこちらに向かって覆いかぶさってきた。
ドン!という音と共に起きた強風で吹き飛ばされ、激しく転がって、やっと止まった。
体が怠い。このまま横になって眠りたかった。

(どうせなら潰してくれても良かったのに)

あの中途半端な男に弱い怒りを感じる。
目を閉じていると、けたたましいサイレンが鳴り響いて、すぐ止まった。
麗華がまた何か話しているようだが、虫が人間の話なんて知る必要もない。
やがて部屋のあちこちで物音を立ててから、麗華はどこかへ立ち去った。

部屋の中は静まり返って、時間の流れがよく分からない。
麗華が戻ってくる気配もなかった。

(麗華も俺を終わらせてくれないのか…)

昨日、麗華の指に潰されると怯えていたのが妙に懐かしい…

自分の存在が薄れていく静寂の中。
部屋の外から音が聞こえ、段々その音が近づいてくる。
ガチャッと部屋のドアが空き、ズンズンと足音を鳴らして誰かが部屋の中に入ってきたようだ。
その人物は部屋に入って少しして、何かに感情を動かされたのか声を立てながら息を呑んだ。

(麗華じゃないのか…)

そして、床にいる俺に向けて一歩ずつゆっくりと歩いてきた。振動が体に響く。

(誰でもいいから、踏み潰して終わりにしてくれ…)



「――良介さん…ごめんなさい……本当にごめんなさい……」



掠れて震えたその人物の謝罪の声に、麗華に連れ去られてから今までで初めて、心から安らいだ。
視界を大きく陣取るパンプスから、視線を上げると肌色の、天を衝く2本の巨塔。
そのさらに上に真っ白な巨大なカーテンが漂っている。
塔が折りたたまれ、カーテンが降りてくると、その人物の巨大な顔がこちらに迫ってきた。
何故かぼやけて顔が判別できない。目を擦っても擦っても枯れない涙で視界は滲じみっぱなしだ。


俺は由美さんに保護された。






◆由美.

病院のプライベートルームで由美さんに保護された俺は、
麗華に連れ去られるまでにいた病院の一室で新たに用意されたコンテナの中にいた。
連絡用スクリーンに由美さんが映っている。

「良介さん、今はゆっくり休んでください。
 起きたら元の大きさに戻れますから…」

彼女は優しい声色で眠るように促してきた。
元に戻る薬はガスで部屋に送りこまれ、自然に呼吸や皮膚から吸収されるらしい。
布団に向かい、もう一度スクリーンを見る。
もう言葉はなくても、俺を心から労る慈母の表情の由美さんを見ると、
今まで自覚がなかった緊張の糸が切れて、布団に倒れこんだ。



~~~



深い眠りから覚め、辺りを見回すと見覚えのある真っ白な部屋にいた。
元のサイズに戻っていないことはすぐに分かったが、自分でも驚くほど落ち着いている。
布団から起き上がって水桶で水を飲み、顔を洗うとスクリーンが点灯した。

「良介さん…おはようございます…よくお休みでしたね…」

窶れた顔の由美さんは、沈痛な面持ちで挨拶してきた。

「おはようございます、由美さん」

朗らかに挨拶を返すと、彼女は叱られた子供のように身を竦めたが、
目を閉じ深呼吸をし、姿勢を正して真剣な表情を作ってから、やや遅れて口を開く。

「良介さん…お伝えしなければならない事があります」

様々な話を聞かされた。

俺が丸1日寝ていた事。

今回の治験が麗華の意向で実施され、由美さんはそれを知らなかった事。

製薬会社でも極一部しか知らない縮小薬の存在を、由美さんは若手の有望な幹部候補として教えられ、
縮小薬の治験を今まで担当してきた事。

本来の治験は、被験者に自分自身が縮小しているのを気づかせないように極短時間で終わるものだという事。

今回の麗華の行いは許されないものだが、製薬会社側の圧力で各所に根回しが行われ、
薬の機密性もあって、とてもじゃないが事件として立件できる状況ではない事。

そして最後に、今回使われた縮小薬は麗華によって特殊な物にすり替えられたため、
俺が元の大きさに戻るのは不可能だという事。

懺悔するように話を続けていた彼女だったが、話し終わると泣き崩れた。

「本当にごめんなさい!良介さん!ごめんなさい!!」

悲鳴のような謝罪をされた。優しく声を掛けようと思ったが、

「私がもっと気をつけていれば――」「これからできる限りの協力をさせて欲しい。何でも言ってほしい」
「麗華をこのままにしておけない」「私が良介さんの代わりに罰を与えます」
 
などと早口でまくし立てる彼女を見て

「由美さん!!!」

と一喝する。

由美さんは嗚咽を漏らしながら、怯え縮こまりこちらを窺っている。
俺は俺の言いたい事を言ってやる。

「悪いのは麗華であって、由美さんが悪いんじゃないって俺は分かってます。
 寧ろ由美さんは命の恩人です。もし由美さんが助けに来てくれなければ、
 俺はあのまま、あそこで野垂れ死んでたでしょう。
 それに、由美さんが来てくれて、本当に嬉しかったです」

ゆっくりと言い聞かせる俺の言葉に、彼女は目を丸くしている。

「それにもう、元の体にあまり未練はないんです。
 両親はいるけど、もう独立してるようなもんだし、俺、兄弟もいないし、
 親友とか彼女とか、深く付き合ってる人もいないから……。
 だから、麗華に復讐なんて絶対やめてくださいね?
 俺は麗華みたいな輩が野放しになってるのより、
 由美さんが危ない目に合う方が、ずっと嫌です!」

由美さんは唖然としながら、パチパチと瞬きをしている。
ずっと俺のペースだ。でも、それでいい。
これから伝える事を考えたら、俺がしっかりとするべきだ。



「俺に何でも言ってほしいって事でしたよね?」

「え、ええ…」

彼女はやっと言葉を発する。もう涙は止まっていた。

「前にこうしてスクリーン越しに話しましたよね。
 治験が終わってから、改めて交際を申し込んでくださいって…」

彼女は頷き、そのまま聞いている。

「でも、こんなちっぽけな小人じゃ、由美さんの彼氏になんて相応しくありません」

左右の手のひらを天井に向け肩を竦めて見せる。

「そんなこと……」

戯けて自嘲した俺に彼女は口を挟んだが、俺はさらに被せる。

「俺は、由美さんに、幸せになって欲しいんです。
 美人で、頭も良くて、優しい由美さんなら、きっと素敵なパートナーが見つかるはずだ。
 こんな小人に煩わされて、労力や時間を掛けて、人生のチャンスを不意にして欲しくない」

由美さんは首を振って俺の発言を否定している。やはり彼女は、とても、優しい……。

「だからこれは、せめてものお願い――いや、俺の我儘なんだけど…」

気合を入れて、後に言いたい言葉に魂を込める。



「由美さん…俺をペットとして飼ってください!」







どれだけ見つめ合っていたことか…


「良介さん……」


ああ、やっぱりだ。



「――――――――――――――」


返事をした彼女の声は、柔らかい安心する優しい声だった。




               ~完~