【b-1】治験のバイト


※この物語は「【B-1】配属初日」の男性視点になります。そのため、そちらを先に読んでおくとより楽しめると思います。







ーーー金が無い。
仕事を辞めてはや2年。引きこもり生活を続ける落葉
タケシは焦っていた。将来の為にとコツコツ貯めていた貯金も底をつき、今月の生活費も危うい状況だ。どうしてこんなことになってしまったのか…
不動産販売の営業として働き始めた頃、タケシはそれなりの成果を出し、会社にも貢献していた。「タケシならどんな家でも売れる」とまで言われるほど、周囲から認められる存在だった。しかし、そこで少し天狗になってしまったのかもしれない。ふと気が付けば、同期や後輩の方がタケシより先に昇進していた。タケシは慌てて挽回しようと躍起になったが、元気だけが空回りして販売成績は一向に振るわなかった。人生で初めて味わう挫折。心は折れ、何もかもが嫌になってしまったタケシは10年勤めた会社を辞めてしまった。
そこからの生活は酷いの一言だった。タケシはほとんど家から出ることもなく、ひたすら引きこもるようになってしまったのだ。
昔の自分が今の姿を見たらどう思うだろうか。働きもせず、人を避け、何の生産性も無く、誰を幸せにすることも無い。本当にただ生きているだけの生物だ。鏡に映った冴えない自分の顔が、心底情けなく見えた。
このままではいけない。もう一度やり直したい。また昔のように、人から尊敬されるような人間になりたい。金銭的にも、人間的にも、このまま自堕落な生活を続けるわけにはいかない。
タケシは両手で頬を叩くと、気合いを入れ、生活を改める決意をしたのだった。

本格的に生活を変えるために、まずは当面の生活費を稼ぐ必要があった。何なら日雇いのバイトだっていい。タケシはPCを立ち上げると、求人サイトを漁り始めた。しばらく探していると、とある会社の募集要項に目に留まった。
『短期高額報酬!「薬で世の中を豊かにする」で有名な神嶺製薬で、治験のお仕事をしてみませんか?』
治験とは、まだ販売されていない新薬を試飲して、その効果を確かめるための仕事だ。未知の副作用などのリスクがある反面、特定状況下で一定期間生活するだけで割高な報酬を貰えるバイトだ。
タケシはこれまで大きな病気を患った事もなく、健康には自信があった。次の仕事が決まるまでの、とりあえずの生活資金を手に入れるにはちょうど良いバイトかもしれない。
サイトに記載された番号に電話を掛けてみると、翌日すぐに面談が出来るという返答が来た。その気であれば、そのままバイトを始めることも可能らしい。タケシは受付の女性に面接の取り次ぎをしてもらうと、治験の軽い説明を受けた。
内容は、おおよそタケシが想像していた通りだった。新薬を服用してから数日から数週間生活することで、その効果を確認するのだそうだ。また、その間の衣食住の心配は不要のため、手ぶらでも問題無いとのことだった。
タケシは電話を切ると、翌日からのバイトに向けて早めに休むことにした。

翌日。良く晴れた金曜日の朝。伸び放題だった無精髭を剃り、何年も着ていなかったスーツに袖を通した。服装は自由らしいが、タケシはあえてスーツを選んだ。タケシにとって、スーツは気合いを入れるための戦闘服だった。たかがバイトのためとはいえ、これは社会復帰と自己実現に向けた決意表明だった。
ネクタイをしっかりと締めて革靴を履くと、颯爽と自宅を飛び出した。
外へ出たのはいったい何日ぶりだろうか。青く澄んだ空を見上げると、照りつける日差しがやけに眩しかった。電車を乗り継ぎ、久しぶりに都会の空気を味わう。無我夢中で働いていた頃を思い出しながら、指定されたオフィスへと向かった。
雑多な繁華街を抜けた先に、神嶺製薬の本社ビルはあった。数年前に完成したばかりの38階建て新築オフィスビル。辺り一帯の建物と比べると飛び抜けて高い。
朝の日差しをぎらりと反射させながら、眼下の街並みを睥睨していた。

「まったく、このご時世に…景気のいい会社だね」

意味の無い独り言を呟いてから、正面の入り口を通る。新しいビルだけあって、エントランスは壁も床もピカピカだった。次々と出社してくる神嶺製薬の社員に紛れて、タケシは受付へと向かう。バイトの面談で来たことを伝えると、地下の会議室へ向かうよう案内を受けた。





地下へと降りるにはエレベーターではなく、従業員用の階段を使うように指示された。言われた通り階段を降りて薄暗い廊下を歩くと、指定された会議室の前に到着した。廊下の雰囲気からして、どちらかというと会議室というより倉庫のような雰囲気だ。
軽くノックをしてみると、中から「どうぞ」と柔らかな女性の声がした。タケシは一度深呼吸をしてから元気よく「失礼します」と声を出し、中へと入っていった。

「こんにちは。今回、治験の担当をしている黒川と申します。宜しくお願い致します」
「…あ、よ、宜しくお願いします!」

部屋の中で待っていたのは、黒いスーツに白衣を着た若い女性だった。柔らかな物腰で落ち着いているが、年齢は20代中頃といったところか。自分より一回りくらいは若そうだ。そして何より、目が合った瞬間、思わず言葉に詰まってしまうほどの美人だった。にこやかに微笑む瞳とみずみずしい薄ピンクの唇、化粧は薄めで地肌に若さの魅力が滲み出ている。さらに、首の後ろで束ねられた黒髪には赤のリボンが付いており、そこにも女の子らしさを覗かせていた。また、さらりと着こなす白衣は真面目さを強調し、彼女の可愛らしさとのギャップを演出している。その下のタイトなスカートからは肌色のストッキングに包まれた細い脚がスラリと伸びていた。そしてその華奢な身体の全てを支えているのは黒い光沢を放つ清潔なハイヒール。カツンとヒールの音を響かせながらタケシの前に立つと、改めてにこりと微笑んだ。タケシがおどおどしていると、黒川さんは治験の案内が書かれた資料を手渡してくれた。

「こちらに今回の治験の詳細が書かれていますので、まずは目を通してみて下さい」

資料には、今回の治験で使用する薬の内容や日程などが記載されているようだった。しかし、タケシは細かい説明文には特に目もくれず、最も気になる報酬に関する記載箇所を探した。すると、資料の最後に書かれていた金額を見て、自分の目を疑った。

「一週間で30万、十日間なら50万!?こんなに…」
「当社では、治験は薬の効果を確かめる最も重要なフェーズだと考えていますから、被験者の方には相応の報酬を支払うのが妥当、ということです。参加していただく期間については治験が始まってから決めて頂いても結構ですよ」
「つまり、辞めたくなった時に辞められる、ということですか?」
「はい。途中で辞めたくなりましたら、担当の方にその意思をお伝え下さい。報酬は、その時点での日数と時間に応じてお支払い致します。他にご質問は有りませんか?」
「いえ、特には…」
「こちらの資料にも目を通して頂きましたね?…事前に伺っている情報でこちらの審査は完了しておりますから、落葉さんが治験の内容に承諾されて、このままご参加頂けるのでしたら、こちらの誓約書にサインをお願い致します」

タケシは報酬の説明を聴くと、すぐさま誓約書に名前を記入した。自分はもう一度人生をやり直したくて、その足掛かりとしてお金が必要だからここへ来たのだ。多少のリスクが有ることくらいは重々承知の上である。この期に及んで、迷いなど有るはずが無かった。
黒川さんは、誓約書にサインが正しく記入されていることを確認すると、軽い会釈をしてから部屋の奥へと入っていった。
数分後、彼女がにこやかな表情で戻って来た。

「それでは早速、治験を開始させていただきますね。場所を変えますので、こちらへ付いてきて下さい」

黒川さんに連れられて会議室を出ると、廊下を奥へと進んでいった。しばらく歩いた先に、業務用のエレベーターがあった。そのエレベーターに乗り込むと、黒川さんは地下15階のボタンを押した。すると、エレベーターはゴウン、と重く不気味な機械音を鳴らし、ゆっくりと動き始めた。

「ず、随分と地下に潜るんですね」

狭いエレベーター内。若い女性と二人きりという状況に少し気まずさを感じたため、軽く話し掛けてみた。黒川さんはドアに向かって立ったまま「ふふ、そうですね」とだけ答えた。タケシに背を向けているため表情は見えないが、おそらく優しい表情をしているのだろう。黒川さんの髪は艶やかで美しく、とても良い香りがした。淑やかで落ち着きのある、タケシの理想の女性だった。
ほどなくして、チン!という短いチャイムが鳴り、地下15階に到着した。エレベーターを降りると黒川さんに続くように廊下を歩く。廊下の両脇には、一定間隔でドアが立ち並んでいる。一体ここは何の施設なのか。物音ひとつ無い、静寂で薄暗い空間は、まるで刑務所のようだった。
しばらく歩くと通路の突き当たりにドアがあり、中へと通された。部屋の内部は四畳くらいの狭い空間だった。薄暗く、簡易的なベットとテーブルだけがある質素な部屋だ。テーブルの上には、小さな紙袋が一つとミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。黒川さんはテーブルの上の紙袋を開くと、中から複数の錠剤を取り出した。あれが新薬なのだろうか。

「まずはこちらの錠剤を全てお飲みください。飲んだらすぐに眠くなりますから、そちらのベッドで横になってください。目が覚めましたら改めて別の場所に移動致します」

出された錠剤は全部で10粒以上あった。随分多いとは思ったが、治験とはそういうものなのだろうと、特に気にせずそれらを全て飲み込んでいった。
全ての薬を飲み終わると、黒川さんに言われた通りすぐに強い睡魔に襲われた。タケシはベッドに仰向けになり、薄暗い天井を見上げる。ベッドの脇に立っている黒川さんは、ニコニコと優しい表情でタケシの様子を見ていた。こんな美人が恋人だったらどんなに人生が楽しいだろうか。そんなことを妄想している内に、タケシの意識は闇の中へと落ちていった。





どれくらい眠っていたのだろうか。
頭の奥までガンガンと響いてくる、女性の大きな声で目が覚めた。

「落葉さん、落葉タケシさん。起きてください、準備が整いました」

この声はどこから聴こえてくるのか。音が反響しており、声の発生源がどこなのかわからなかった。まるで複数のスピーカーから大音量で流しているような、辺りの空間全体が震えているような、そんな衝撃にも似た現象に感じた。
周囲を見渡してみると、眠る前とは明らかに違う場所にいることに気付いた。また、スーツを着ていたはずなのに、いつの間にか服が着替えさせられている。下着は無く、健康診断などで着る、簡易的なパジャマのような服だ。

「何で服が…それに、ここは…?」

説明では確かに『衣食住の心配は不要』と言われたが、これが治験を受ける際の服装なのだろうか。ひとまず身体に異常は無いようだが、何やら気味が悪かった。黒川さんは何処へ行ってしまったのか。それに、この謎の空間は一体何処なのか。何もない木造の部屋。広さは体感的に…30平米くらいはあるだろうか。不動産販売をしていたこともあり、何となく自分がいる空間の広さが把握出来た。しかし、長年多くの住宅建築に携わってきたタケシでも、こんな建造物は見たことが無かった。壁も床も同じような質素な素材。安っぽいベニヤのような板だけで出来た部屋。しかし、使われている木材はただのベニヤとは思えないほどの厚さと強度があるようだ。この木材は一体何なのか。さらに奇妙なのは、この部屋に天井が無いことだった。かといって空が見える訳でもない。天井の無いこの部屋自体が、別の建物の中にあるようだった。
四角く切り取られた天井の上にはさらに広い空間があり、遥か上空に別の天井がある。もはや遠すぎてあまり見えないが、その天井には薄暗い蛍光灯のようなものがあった。
しかし、その蛍光灯は、手前に現れた巨大な影によって突然見えなくなった。真上に現れた影の正体は、巨大な人間の顔だった。それに、その顔はタケシが知っている顔だ。

「え…!?く、黒川…さん…?」
「あらあら、ようやくお目覚めになりましたね」

空間そのものを震えさせる大音量の声の主は、巨大な黒川さんだった。

「う、うわああぁー!!」

タケシは状況が理解できずパニックになり、慌てて逃げようとした。この部屋の中に逃げ場があるようには見えないが、とにかく本能がこの場を離れようとした。
しかし、不思議なことに、どんなに手足を動かしても身体が前に進まなかった。それどころか、身体が宙へと浮いていく。

「え?え?なんだこれ!?」

ふと自分の身体を見ると、胴体が何かに『持たれている』ことに気付いた。それは肌色で、図太くて、暖かくて、甘い香りを漂わせた、二本の指だった。先程からこちらを見下ろしている黒川さんの指だ。柱のような二本の指はタケシを潰さないように、尚且つ絶対に逃がさないように、絶妙な力加減で胴体を挟み込んでいる。そしてそのまま上空へと持ち上げられると、タケシのすぐ前に美しい巨人の顔が現れた。その顔はにこやかに微笑み、大きな二つの瞳はタケシを優しく見つめている。タケシを簡単に飲み込んでしまえるほど巨大な唇は薄ピンクでみずみずしく、艶かしく開いた。

「うふふ、随分とお可愛い姿になられましたね。どうですか?小人になったご気分は?」

近距離から浴びせられる大音量の声に、鼓膜を破壊されそうになる。しかし、巨大な黒川さんが発した言葉の意味を反芻して、タケシはまたパニックになった。

「こ、小人になった?俺が?こんなことが現実に起こるはずが…何でこんな…クソっ!!」
「そんなに暴れないで下さい、落としてしまったら大変です。…とは言いましても、既に薬は効いていますから、この程度の高さから落ちた位では『壊れない』とは思いますが。…試してみますか?」

すると、胴体を挟んでいる指の力が弱くなり、徐々に離れていく。タケシは何とか太い指の片方にしがみついて落下を免れたが、思わず下を覗き見てしまった。

「うぅ、うわあぁー!!や、やめてくれぇー!!ゆ、指を…は、離さないでっ!!お、落ちる!!」

黒川さんの顔の高さは、タケシにとっては超高層ビルにも匹敵する高さだった。その高さにある指にしがみついて、何とか落下せずに済んでいる状態だ。心臓が一気に縮み上がり、全身から冷や汗がドッと吹き出す。
タケシはこの状況を『良くできた夢』だと思った。自分が小人になるなんて余りにもふざけている。有り得る訳がない。きっとこれは、新薬を飲んだことによる副作用で、幻覚でも見ているのだ。これは現実ではない。むしろ、夢であって欲しいと懇願する。
しかし、指に必死にしがみつく腕はだんだんと疲れてくる。徐々に息も荒れて、体力の限界が近付く。この余りにもリアルな感覚と恐怖が、現実であり、事実であることを実感させてくる。

「ふふっ、咄嗟に指にしがみつくなんて…元気な方ですね。折角小さくなったのですから…虫のように地面を這いつくばってみたら宜しいのに」
「た、助けて!黒川さん!!これが現実なら早く元に…元に戻してくれ!早く!!お、落ちる…!!」

清潔で美しく甘い香りがする黒川さんの指に必死にしがみつきながらタケシは叫んだ。本当にこれが現実だというのか。未だに信じられない。
まさか、治験がこんなに危険なものだとは聞いていなかった。薬を飲んで、何日か適当に過ごすだけで良いものだと思っていたのに。それに、黒川さんは口調は優しいが、発する言葉にはどこか狂気を感じる。想像を越えた状況の連続で、もはや頭の処理が追い付かなくなっていた。せめて…改めてこの治験の目的や詳細を聞かせて欲しかった。

「うふふふ。小さすぎて叫び声ですらほとんど聴こえませんが…貴方が心から慌てているという事は十分にわかりますよ。縮小薬をお飲みになった方は皆、初めはそのように驚かれるんです」
「しゅ、縮小…薬…!?そんなものが…!?そ、それより!黒川さん、話を!!俺の話を聴いてくれぇ!!」

タケシは自分が置かれている状況のまずさに、徐々に勘づき始めていた。こちらの声が黒川さんに一切届いていない。そうとなると、一体どうやって元に戻してもらえばいいのか。どうやってこちらの意思を伝えたらいいのか。タケシの不安は大きく膨れ上がっていく。さらに黒川さんは一方的に話を進める。

「先程の資料にも書かれていたと思いますが、今回確認したい新薬の効能は所謂ドーピング…身体機能を大幅に増強するものです。縮小薬は、その新薬の効果を観測しやすくする為の補助に過ぎません」
「し、資料…?」

タケシは金銭面ばかりに気を取られていて、渡された資料のほとんどを読んでいなかった。あれには一体どんなことが書かれていたのか。重要な内容を読み飛ばしたことを今になって後悔し始めていた。しかし、時は既に遅く、黒川さんは毅然として言葉を続けた。

「貴方は先程その内容に承諾され、誓約書にサイン致しました。ですから、現時点で即座に治験をキャンセルすることは出来ません。治験はいつでも辞められると伝えましたが、最低期限である24時間は参加して頂きますよ」
「そ、そんな…小人のまま…24時間も…」
「ですが、安心して下さい。被験者の方の身の安全は最優先致しますので。私たちは『モノ』を大切に扱いますからね。ふふっ」

タケシの目の前に聳える美人の顔が、にこりと微笑んだ。しかし、先程まであれほど美しいと思っていた顔が、今はとてつもなく恐ろしく感じる。

「それでは本格的に治験を始めましょうか。別室で貴方の担当になってくれる娘が待っています。貴方を『使う』のは私ではなく、可愛い新人の女の子ですよ。楽しみにしていて下さいね」

何やら意味深な言葉を聞かされた後、タケシは黒川さんに軽々と指から剥がされた。そしてそのまま木箱の中にポイっと落とされる。矮小な身体は緩やかな弧を描くとすぐさま木の床に勢いよく叩きつけられ、ぐえっ!と小さな呻き声を出した。突然の乱暴な扱いにもタケシは反論すら出来ない。何を言われたのか、何が起きているのか。未だに頭の理解が追い付かないからだ。そして小人にとって体感的に30平米ある部屋には、ベニヤの蓋が閉じられた。





木造の室内に暗闇が訪れた。先程はかなりの高さから落とされたが、多少の痛みがあっただけで不思議とケガは無かった。タケシが混乱と恐怖を感じていると、その部屋は突然ゴトっと浮き上がった。黒川さんが持ち上げたのだろうか。そして、何やら移動を始めたようだった。
コツ!コツ!と遠くから響く巨人の足音に合わせて、タケシがいる部屋全体が揺れる。その定期的な揺れがしばらく続いた後、少し激しくゴゴッ!という振動があり、部屋の動きは止まった。どこかに置かれたのだろうか?すると、部屋の外から女性の話し声が聴こえてきた。黒川さんの声と、その話し相手の女性が一人いるようだ。少女とまではいかないが、比較的若い女の子の声だ。
タケシは暗闇の中で二人の女巨人の声を聴いていた。同時に、先程の黒川さんの言葉が気になっていた。「貴方を『使う』のは新人の女の子」。この『使う』という言葉が、不安と恐怖を掻き立てた。いまだに信じたくないのだが、自分は小人になってしまったのだ。先程黒川さんに軽く指で摘まみ上げられたように、彼女にしてみれば、今の自分をどのように扱うことだって出来るのだ。そんな状況下において黒川さんは確かに『使う』と言ったのだ。これから自分が何をされるのかわからず、心臓がバクバクと悲鳴を上げていた。しかし、逃げ出したくても暗闇に包まれたこの部屋には何処にも逃げ場など存在しなかった。
タケシが不安に押し潰されそうになりながら何気なく上を見上げた時、天井の闇がゴゴゴゴ…と音を立てながら切り開かれた。四角く裂けた闇の向こうから眩い光が差し込んでくる。

「夜桜さん、見てください。貴方がこれから管理するモルモットは、これです」
「…え!?な、何ですかこれ!?」

取り除かれていく天井。そして、自分がもはや人間扱いすらされていないと感じられる不穏な言葉。上空に現れたのは、二人の女巨人だった。一人は黒川さん、もう一人は見知らぬ女の子だ。

「こ、これ、人形…ですか?まるで生きた小人…とてもリアルというか、本当に生きてるみたいです」
「ふふ、夜桜さん、この方は人形ではありませんよ。今回の新薬を試飲されている、治験の参加者です。身体が小さくなっているのは、私たちが開発した縮小薬の影響です」
「縮小薬!?そんなものがあるんですか!?ということは、この小人って、まさか普通の人間なんですか!?…し、信じられないです…」

おそらく彼女は、黒川さんが言っていた新人の娘だろう。夜桜さんというらしい。顔は影になって良く見えないが、真面目そうな雰囲気だ。彼女は小人の存在を初めて知ったのか、タケシを見てとても驚いている。救いの手を差し伸べてくれる様子は無く、まるで珍しいペットでも見るかのようだった。タケシは二人の巨人の迫力に圧倒されていると、黒川さんにまた指で摘み上げられた。再び上空まで連れ去られる恐怖。しかし、二人の巨人は、怯えるタケシの感情などお構いなしといった様子で会話を続けた。

「…でも、人を小さくして一体何をするんですか?」
「ふふっ、それはですね、夜桜さん。私たち自身が『色んなこと』に使うのが目的ですよ」
「…え?『色んなこと』?」

タケシは指で摘ままれたまま、夜桜さんの眼前に差し出された。しっかり持たれているため落ちる心配は無さそうだか、それでもこの高さは恐ろしかった。それに『色んな事に使う』とは何なのか。自分は無事に帰してもらえるのか。元の姿に戻ることが出来るのか。幾つもの憂慮が頭の中を駆け回っていた。

「これが…この会社で楽しく働ける理由の一つです。大きな声では言えませんけどね。うふふっ」

黒川さんの話を聴いて、夜桜さんも目を丸くしているようだった。この娘は新人ということもあり、まだ小人の扱いには馴れていないのだろう。だからといって、それでタケシの状況が好転することにはならない。これからきっと善からぬ事に『使われる』のだと思うと、タケシは陰鬱になっていく。
しかし、改めて見ると、この新人の夜桜さんはかなり上品で美しい顔立ちだった。鮮やかな黒髪は腰の辺りまで伸びているが、三つ編みでまとめられている。加えて細縁のメガネを掛けているため、これらが真面目な印象を与えているのだろう。そのメガネの奥では焦げ茶色の瞳がキラキラと輝き、今も小人のタケシを興味深そうに見つめている。視線を下へやると、大質量の胸部が衣服をこれでもかと押し出していた。就活中の学生が着るようなリクルートスーツだが、彼女の身体には少しサイズが合っていないのかもしれない。その上に羽織っている白衣は新品のように清潔だった。膝上までのタイトな黒スカートからは、ナチュラルストッキングを穿いた脚がスラリと地面に向かって伸びている。その下には、黒く艶のあるプレーンパンプスが履かれている。まさに、初々しい『理系の女子』である。指から落とされないように大人しくしているタケシを見ながら、夜桜さんはゆっくりと口を開いた。

「そ、それで…これから私は何をすればいいんですか?」
「ふふ、準備はすぐ出来ますから、あと少しだけ待って下さいね」

そう言うと黒川さんは、何やら白い布を取り出した。バスタオル数枚分はある大きさの、分厚い布だった。タケシから見たら毛布のように大きな布だが、黒川さんにとっては、まるで小さな布切れだ。その布を指先で器用に扱い、タケシの身体をグルグルと巻き始めた。

「な、何を!?黒川さん!!やめ…やめてくれぇ!!うわあああ!!」

叫び声を上げ、全力で暴れて抵抗しようとしたが、身体を掴んでいる数本の指には全く敵わなかった。黒川さんは、ニコニコしながらタケシを簀巻きにしていく。

「大丈夫ですよ、少し窮屈かと思いますが、我慢して下さい。すぐに慣れると思いますから。ふふっ」
「く、狂ってる…黒川さん!!あんた狂ってるよ!!いくら治験だからって、こんなのは人権の侵害だ!!これから俺に何を…ぐわぁ!!」

黙れと言わんばかりに指を顔に押し付けられ、言葉を遮られた。そしてさらに、強引に布を巻き付けられていく。頑丈な布でグルグル巻きにされた上、さらに太い紐でしっかりと結ばれると、タケシは一切の身動きが取れなくなった。唯一露出している頭部を二本の指先で力強く捕まれ、再び夜桜さんの眼前へと差し出された。

「治験の内容についてですが、貴方には、今からこれを『使って』新薬の効果を体験して欲しいんです」
「…え?『使う』って、その小人をどうするんですか?」

二人の女性が不穏な会話を進める中、タケシはグリグリと指で頭を挟まれていた。まるで巨大な万力で挟まれているような感覚。しかしこれは万力などではなく、ごく普通の女性の、華奢な指なのだ。たった二本の女性の指にすら一切歯が立たない屈辱。為す術がないタケシは、くぐもった呻き声をあげることしか出来なかった。

「夜桜さん、貴方は今日…午前中はほとんど休まず清掃作業で身体を動かし…その後も、午後は私と部署内をずっと歩き回っていましたよね」

黒川さんはタケシを持ったままの手を、地面の方へとグワンと向けた。黒川さんにとっては会話をしながらの何気ない動作なのかもしれないが、タケシにとっては、頭を捕まれたまま一瞬で数十メートルも高度を落とされたことになる。堪らずウゲェッ!!と悲鳴が洩れた。衝撃で首の骨が折れなかったのが不思議なくらいだった。美しく太く頑丈な指は、タケシの身体をしっかりと掴んだまま放してくれない。そして、下へと向けられた人差し指のその先には、夜桜さんが履いているプレーンパンプスが見えた。

「それでしたら…かなり蒸れているんじゃないですか?そこ…」

タケシを掴んだ指の高度がさらに下がっていく。どうやら黒川さんがしゃがみこんだようだ。遠くに見えていた夜桜さんのパンプスにグンと近付いていく。黒川さんは、タケシを掴んでいない左手を夜桜さんの足の方へと伸ばしていった。そしてそのまま、やや強引に夜桜さんが履いているパンプスを脱がしてしまった。

「な…何してるんですか先輩!」

突然靴を脱がされて驚く声が空間を震わせる。
パンプスの中からストッキングに包まれた彼女の足が出てくると、周囲の空気が一変した。『開けてはならない何か』を開けてしまったような、そんな不吉な空気が漂う。

「あらあら…これは予想以上に蒸れていますね。それもじっとりと…ストッキングがこんなに湿るほど…」
「み…見ないで下さいぃ…私…凄く汗をかきやすくて…足は特に…それに、臭いも凄いですから…」

黒川さんは、左手で夜桜さんの足先を撫でるようにして具合を確かめていた。巨大な彼女の指が、巨大な足指を艶かしく撫で回す様はどこかとても美しく、淫らな雰囲気だった。辺りには湿度の高い生暖かい空気がむわりと立ち込めている。夜桜さんが言うとおり、確かに彼女の足は、凄まじい臭気を放っているようだった。あんなに若くて、真面目そうで、そして可愛いのに、その足先はこんな臭いがするとは…タケシは不思議なギャップを全身で感じていた。
タケシのすぐ下には、たった今脱いだばかりの夜桜さんのパンプスが、熱気と臭気を放ちながら鎮座していた。それにしても、女の子の普通のパンプスがあんなに大きいなんて。タケシは自分がいかに小さな身体になってしまったのかを、改めて実感していた。小人が何十人でも入れそうな巨大なパンプスは恐らく相当に履き込まれいて、中敷きが黒ずんでいる。もしあんなところに入れられたらと思うと、恐ろしくて身体が震えてくる。特に今は、簀巻きにされていて身動きすら取れない状況だ。もしあそこに落とされでもしたら、自力で這い出ることは絶対不可能だろう。タケシはその『地獄の入り口』の真上で、そこへ落とされないように祈るしかなかった。そして同時に、立ち上ってくる臭気をなるべく吸い込まないように、静かに静かに呼吸をする。出来れば早く、このパンプスから離れたいと思っていた。

「それでしたら…なおさら丁度良いですね。では、これはここで『使う』ことにしましょう」

黒川さんが何やら恐ろしい事を口にした気がした。しかしその意味を考えるより先に、頭を掴まれている指を急に離され、タケシの身体はその場から自由落下を始めた。

「う…うわあああああっ!!」

一番恐れていたことがすぐさま現実になってしまった。真下にある、悪臭を放ち続ける夜桜さんのパンプス。その入り口が凄まじい勢いで迫ってくる。タケシは込み上げてくる恐怖から叫ぶことしか出来なかった。同時に、重力がとても残酷なものだと思った。自分がどれほど祈ろうが、叫ぼうが、嫌がった所で、容赦なく全ての物質を地面へと引き寄せるからだ。真下のパンプスに向かって落ちていく運命からは決して逃れることは出来ない。
タケシは顔面から黒ずんだ中敷きに激突した。激しい衝撃と痛みが走る。さらに落下の勢いは止まらず、簀巻きにされた身体はパンプス内の坂道を転げ落ちて行った。
パンプスのヒールは、夜桜さんにとっては大した高さではないだろう。しかしタケシにとっては自分の身長の数倍はある。その高さから一気に転げ落ちていく。やがてすぐに、その矮小な身体はパンプス洞窟の最奥部、爪先部分にぶつかって止まった。
パンプス内部は薄暗く、中敷きの急斜面を登った先に、僅かな光が差し込んでいるだけだった。そしてこの洞窟の内部を満たす空気は、先程夜桜さんの足先から放たれていたものと同様の悪臭で満ちていた。もわもわと湯気が立ち込めるような高温多湿な空間だった。タケシはその劣悪な空間に、分厚い布で簀巻きにされたまま横たわる。
また、タケシは落下する際、必死の思いで叫び声を上げていた。その上、パンプス内部で地面と壁に激しく激突したため、肺の空気が全て出てしまっている。つまりタケシの身体は今、大量の空気を渇望していた。生物として当然の反応。そのためタケシは、無意識にパンプス内の空気を勢い良く吸い込んでしまった。

「ぐえぇっ!!ゲホッ!!ゲホッ!!…く、臭いっ!!臭いぃぃ!!」

肺の中へとなだれ込んできたのは、腐敗した発酵臭だった。腐った納豆のような、汚れた雑巾の生乾き臭のような、あるいは汗の塩辛さや苦さを濃縮させたような…濃密で悪質なその臭気には、正しく形容する言葉が見つからなかった。生暖かく、じっとりと湿り、幾日にも渡って塗り重ねられた臭気。通気性は無く、籠り続けている臭気。若くて新陳代謝が盛んな女の子が発する足裏の汗を、ひたすら染み込ませ続けた臭気だった。

「た…助け…ゲホッ!!…よざ…よざぐら…さ……うぅ…おえぇぇ!!」

助けを求めて叫ぼうとするが、少し息を吸い込んだだけで猛烈に蒸せてしまう。空気が淀みすぎていて、ほとんど声が出せなかった。毒ガスのような臭気が目と喉に染みてキリキリと痛む。

「ひぃ…ひぃぃ……臭い…ぐざいぃ……」

ならばと自力での脱出を試みるが、身体を簀巻きにされていてほとんど動くことが出来なかった。せいぜい首と身体をもぞもぞ動かせる程度だ。この状態では、とてもじゃないがパンプスの出口まで辿り着くことは出来そうもなかった。

「な…何でこんな……事に……ひぃ…ひぃ…」

猛烈な悪臭の中、タケシは助けを呼ぶ事と自力での脱出が無理だと感じ、少しでも息をしないように努めることにした。出来る限りこの空間に立ち込める空気を吸わないように。ゆっくりとゆっくりと、なるべく時間を掛けて、鼻と喉をいたわるように。そうして耐えていれば、優しそうな夜桜さんがすぐに出してくれるはず。自分が助かる道はもう、それしか残っていなかった。彼女達にとって、神嶺製薬にとって自分は、大切な被験者のはずである。そもそも、罪の無い人間を小さくして靴の中に入れるなんて、普通に考えたら有り得ない事なのだ。黒川さんも、被験者の身の安全を最優先すると言っていた。もしかしたら…もしかしたらだが、パンプスの中に落とされたのだって、手を滑らせてしまっただけなのかもしれない。何せ自分の身体は、こんなにも小さいのだから。ここは下手に動かず、このまま助けを待つ方が懸命なのだ。もはやタケシに出来ることは、彼女達を信じることだけだった。
口を少しだけ開いて、そこから静かに息を吸う。しかし、それでもこの濃密な臭気により喉がひりつき、目からは涙が止まらなかった。早く…早く助けて…タケシは涙と鼻水と涎をダラダラと垂らしながら、救出の瞬間を待ちわびていた。
すると、パンプスの外から黒川さんの柔らかな話し声が聴こえてきた。

「さあ夜桜さん、履いてください」

タケシは、自分の耳を疑った。同時に、嫌な汗がどっと吹き出るのを感じた。





彼女が口にした言葉。
その意味を考えれば考えるほど、焦りが込み上げてくる。既に心臓が、悲鳴を上げるようにドクドクと唸っている。
黒川さんが言った『履く』とは、どう考えてもこのパンプスのことだろう。夜桜さんに対して、脱いだ靴を履くように促した言葉だ。自分が中に入っているこのパンプスを、夜桜さんに履かせようとしているのだ。
タケシはこれから起こる惨劇を想像して、頭の中が白くなっていく。

「あの…先輩、ホントに良いんですか?いくら何でも…人が入った靴を履くなんて…」

今度は夜桜さんの声だ。
このままでは本当に履かれてしまう。
しかしまだ彼女は躊躇っている。
今ならまだ、助けてもらえる可能性が有るはず。

「た…助けで……ここから…ウグ……出してくれぇ……ひぃ…ひぃ…」

早く…一刻も早く、助けて欲しいと伝えなければ。
しかし、何も出来ることが無い。声が出せない。届かない…
タケシが悪臭で悶えている間に、黒川さんはさらに言葉を乗せていく。

「夜桜さん、今回の治験はこういうものなんです。被験者も了承の上ですから、気にせず履いてください」

戸惑う夜桜さんに、さらに靴を履くように促していく悪魔のような言葉。もう駄目かもしれないと、心が崩れてしまいそうになる。しかし同時に、どうしようもない悲しみと怒りが込み上げてきた。
自分はこんなことに『了承』なんてしていない。
何も知らず、嵌められただけなのだ。
確かに渡された資料をあまり読まなかったのは悪いが、あれに何が書いてあったとしても、こんなことは…靴に人を閉じ込めて履くなんて…こんなことが許されて良いはずがない。

「ち…違うん…だ……俺は…ゲホッ…だまざれて……うぅ…」

どうにかして声を絞り出そうとするが、やはり大きな声は出せそうも無かった。早く助けを呼ばなければならないのに…このままでは、本当に履かれてしまう。

「貴方の仕事は、新薬の効果を調べるためにこの小人を『消臭剤』として使うことです。問題は有りませんから、安心して履いてください」

タケシが僅かに抱いていた希望の光が絶望に変わっていく。黒川さんの口から出た信じられないような言葉。自分はこの悪臭が立ち込めるパンプスの『消臭剤』にされるというのか。もはや生き物としてすら扱って貰えないのか。この臭いを、吸い続けろというのか…

「わ…わかりました…」

人道的だった夜桜さんが悪い方向に諭されていく。
あの黒川という女は悪魔だ。美人の皮を被った悪魔だ。新薬の治験のためとはいえ、一人の人間を小人にした上に女の子のパンプスの中に入れるなんて。人を消臭剤として使うなんて。
こんなことは有り得ない。有ってはいけないのだ。

「ま…待って…がはっ!!…助け…た…だずげで……よざ…よざぐら…さ……よざ……うえぇ!!」

悪臭の中、無我夢中で、決死の想いで叫ぶ。しかし思うように声は出ない。

「あ、あの…被験者の方…今から履きますけど…臭かったらごめんなさい…」

申し訳なさそうな夜桜さんの声。
心優しい彼女の配慮。
謝罪の言葉。
しかし、パンプスを履かれるという結果は変わらないのか。可憐な声で紡がれる優しい言葉は、タケシにとって絶望を上塗りする言葉になった。
状況は刻一刻と悪い方に進んでいく。

「やめで…履……履がない…で……ゲホッ……」

涙を流す小人の悲痛な声は、遥か上空にある夜桜さんの耳には届かなかった。パンプスの出口から差していた光が大きな影に覆われていく。巨大な彼女の足裏が、この空間唯一の出口を塞ごうとしている。逆光の中、ナイロンに包まれた大きな足指が5本、艶かしく蠢きながら少しずつ侵入してきた。

「あぁあぁっ……待って……待ってぇ…よざぐら…ざん……」

やがて光は全て奪われ、パンプス内が闇に染まる。もはや視覚は一切頼りにならない。
しかし、触覚と聴覚は、人工革とナイロンが擦れて起こる、空間の振動と地鳴りを。嗅覚と味覚は、上昇する湿度と臭気、空気の苦味と重みを。残る4つの感覚は、地獄の接近を嫌という程に知覚していた。生命の危機を悟った心臓がバクバクと叫びを上げている。ストッキングに包まれた巨大な足先は、少しずつ少しずつ…ずりずりと空間を圧するように、確実に、着実にこちらに向かってくる。

「いやだ…だずげで…誰か…」

夜桜さんにとっては、たった二十数センチのパンプスの中に足を入れるだけの動作なのかもしれない。しかし、内部で怯えるタケシにとっては、空間そのものが夜桜さんの足によって支配され、その足指と靴の最奥部との距離が縮まる毎に、命が縮まっていくのだ。
そして、ついにその時が訪れてしまった。

「ふぐぅッ!!」

生暖かく柔らかい、ごわごわしたナイロンの生地がタケシの顔に押し付けられた。そしてそのまま、パンプス最奥部に横たわるタケシの身体の上に、夜桜さんの足指が容赦なく乗り上げてくる。若い女の子の足の裏。おそらく親指と人差し指の間くらいか。タケシの顔があるのは、その真下。簀巻きにされた身体は中指の下敷きだ。足指を包むストッキングはじっとりと湿っており、タケシの顔をベシャリと濡らした。同時に、悪質な臭いもまとわりついてくる。タケシは反射的に、その足指から少しでも離れようと首を捻るが、大質量の足指とその臭いから逃れることは出来なかった。

「ひぎぃぃ!!臭い…ぐざいぃ~!!」

嫌というほど嗅がされたパンプス内の悪臭。その臭いの元凶である夜桜さんの足とストッキングは、さらに濃厚な悪臭を纏っていた。ただでさえ耐え難い臭い責め苦に遭わされた挙げ句、その何倍もの臭気を嗅がされたタケシは、既に限界を迎えていた。
夜桜さんにこの苦しさを伝えたくて、ここから出してもらいたくて、必死に頭を振ったり身体をもぞもぞと動かした。本当に、決死の覚悟でもがき、足掻いた。しかし、どんなにもがいても夜桜さんがパンプスを脱いでくれる様子は無かった。身体の上にのし掛かる巨大な足指は微動だにしない。

「ふぐぅーっ!!ふぐぅうぅっ!!ぐざいぃいぃ!!」

タケシは絶望的な異臭が立ち込める中、徐々に死を意識し始めていた。この後自分は、どんな地獄を味わい、どんな死に方をするのか。闇の中、パンプス内部で小さな悲鳴を上げながら、絶望に蝕まれながら、最悪の想像が次々と膨らんでくる。
パンプス内の空気が無くなって窒息死か。滴る足汗に溺れさせられて溺死するのか。悪臭を嗅がされ続けることによる中毒死も有り得る。それともやはり、巨大な夜桜さんに体重を掛けられて圧死か、轢死か。どれも大きな苦痛を伴う最悪なシナリオばかりだ。もはや早く殺されてしまった方がマシなのではないかとさえ思える。
しかし、パンプス内が最悪の環境なのは間違いないが、少なくともすぐに踏み潰されることはなかった。それどころか、顔の上にのし掛かっていた足指が、少し身体から離れたのだ。ただし、離れたといっても夜桜さんがパンプスを脱いでくれた訳ではない。夜桜さんが少しだけ指を上げたのだ。これは彼女の気まぐれか、それともまさか、こちらを気遣ってくれているのか。もしそうだとしたら、そもそもここから出してくれれば良いのに、とも思ったが。何にせよ、ひとまずタケシはまだ生きることを許されていた。
すると今度は、5本の指がグネグネと怪しく動き始めた。夜桜さんが足指を曲げたり伸ばしたりして動かしているのだ。

「ふぐっ…うっ…うげぇ…や…やめ…むぐぅ!!」

パンプス内のタケシは汚れたストッキング越しに足指を何度も押し付けられる。簀巻きにされた身体と、唯一露出している頭をまんべんなく撫で回されるように。何度も何度も。夜桜さんの足が収まったことで窮屈となったパンプス内。その中で汚れた空気を掻き回され、顔には足裏の汗をこれでもかと塗りつけられた。
やがて足指の動きは止まった。夜桜さんはタケシを潰さないように、また指を上げてくれているようだ。もし彼女が本気で体重を掛けてきたら、矮小なタケシの身体は一瞬で潰れて、パンプス内の汚れた染みになってしまうだろう。タケシは絶望の中、彼女が自分を潰さないように気遣ってくれていると確信した。
彼女の慈悲。夜桜さんは、きっととても優しい女の子だ。本来、自分のような中年独身男が出逢って触れ合えるような存在ではないだろう。美人で、真面目で、可愛らしい声。リクルートスーツに白衣も似合う、天使のような女の子だ。
しかし、彼女のその足は…一日中穿いているストッキングとパンプスは、絶望的な臭いがする。形容しがたい納豆臭。実は、角質の処理もあまりしていない、ガサツな女の子なのかもしれない。その女の子のプライベートな一面を、一日中溜め込んだ臭いを、自分は今、垣間見てしまっている。不本意ながら超至近距離で嗅がされ続けている。

「うぅ…ふぐぅ…うぐぅ…」

呼吸をする度に喉が痛い。涙が止まらない。
指を上げてくれるのは助かるのだが、じとりと湿ったストッキングが顔にまとわりついて離れない。大きく開いた口にもしっかりと塞ぐように張り付いてくる。呼吸が苦しい。ただでさえパンプス内は空気が淀んでいてまともな呼吸なんて出来なかったのに、その上さらに汚れて湿ったストッキングを顔に押し付けられる。女の子のストッキングで呼吸を制限される日が来るなんて、考えたことも無かった。何とか息を吸い込んでも、その空気は夜桜さんの足から分泌される汗や皮脂で汚染され尽くされている。
また、しばらく口を大きく開いていると、顔を覆うストッキングに舌が触れてしまった。ざらりとしたナイロンの舌触り、どろりと滴る足汗の感触。ピリリと痺れるような、これまで味わったことのない苦味と塩辛さで激しく蒸せてしまった。かといって口を閉じて鼻で呼吸をすると、強烈な臭気で脳が痺れた。
逃げ場も無い、身動きすら取れない、まともな呼吸も出来ない。もはや完全に生き地獄だった。
パンプスの外からは、夜桜さん達の話し声が微かに聴こえる。タケシは朦朧とする意識の中、その声に耳を傾けていた。

「靴の中が気になりますか?でも大丈夫ですよ、異物の感触なんて履いているうちにすぐ慣れますから。それより、その被験者が蒸れた足の臭いを全て吸い取ってくれると思えば、有り難いと思いませんか?」
「は…はい。もともと私、足の臭いが結構キツくて気にしていたので…」

もはや自分の事を人ではなく完全に『消臭剤』として扱う二人の会話。絶えず悪臭を吸わされて衰弱しているタケシには、もう怒る気力も無かった。もっとも、矮小なタケシが巨人の足の下で怒ったとしても、この状況を変えることは出来ないだろう。

「ふふっ、初めのうちだけは、なるべく踏み潰さないようにしてあげて下さいね。彼は一応、大切なモルモットですから。勿論、なるべく…で構いませんが」
「はい、わかりました…」

二人の会話がタケシを無限の絶望に突き落としていく。
バイトの為とはいえ、自分は何という恐ろしい場所に来てしまったのか。タケシは自分の愚かさと理不尽な現実に嫌気が差していた。しかし、今さら後悔したところで、もう元の生活には戻れないのかもしれない。自分は無事に生きて帰ることが出来るのか。彼女たちは、自分を殺さないでいてくれるのか。もはや治験の報酬のことなんてどうでも良かった。とにかく生きたい。せめて、新鮮な空気が吸いたい。
小人が抱くちっぽけな願いは、若くて可憐な女の子のパンプスの中で、汚れたストッキングに吸われて消えた。

「では、次の仕事場に向かいますから、ついてきてください」

黒川さんの声の後、タケシの絶望はさらに深いものとなる。
暗闇で何も見えないが、突然ぐわんと地面が傾き、浮き上がるような感覚がした。地面を踏みしめていた夜桜さんの足が、前へと踏み出されたのだ。タケシをパンプス内に閉じ込めたまま。彼女は本当に、このままタケシを消臭剤として使うつもりらしい。
夜桜さんが踏み出したその一歩は、タケシにとって本当の地獄の始まりとなった。