【b-2】地獄のバイト

※この物語は「【B-1】配属初日」後半部分の男性視点になります。また、「【b-1】治験のバイト」の続きです。





人の身体には、三半規管と呼ばれる器官が備わっている。人はこの器官の働きによって、上下左右、回転や加速といった動きを知覚することが出来る。

治験のバイトに訪れた落葉タケシは酷く後悔していた。神嶺製薬に勤める新人の女の子、夜桜さんの靴の中に閉じ込められてしまったからだ。
世の中には本当に、理解できないような事が沢山ある。今日飲まされた薬もその一つだ。未だに信じられない事なのだが、新薬として飲まされたあの薬によって、身体が数センチの大きさまで縮んでしまったのだ。こんな事を言葉にすると、頭が可笑しいのではないかと思われてしまいそうだが、事実なのだからどうしようもない。その上、小さくなったこの身体を布でぐるぐる巻きにされてしまい、身動きが全く取れない。その状態のまま、女の子が履くパンプスの中に閉じ込められたのだ。
この巨大なパンプスの持ち主である夜桜さんは、とても優しい女の子のはずだった。しかし、先輩である黒川さんの命令により、彼女は躊躇しながらもタケシが中に入ったこのパンプスを履いた。当然、タケシには為す術がない。パンプスの中、ストッキングに包まれた足指の下敷きになってしまった。
夜桜さんのパンプスの中は、はっきり言って最悪だった。一筋の光も無く、狭くて蒸し暑い。後頭部に感じる中敷きの地面はボロボロだ。かなり履き込まれているらしく、汗と皮脂の汚れが相当染み込んでいる。きっとこの中敷きは、誰に知られることもなく、ひたすら夜桜さんの足指で踏まれ、体重の全てを受け止め続けたのだろう。
彼女が立っている時も、歩いている時も、走っている時も、電車に乗っている時も、仕事中も、買い物中も、遊んでいる時も、食事中も、トイレに入っている時も。
夜桜さんがこのパンプスを履き続けた日々、その全ての中で踏まれ続けてきたのだろう。

タケシは今、その中敷きと同じように足指の下に踏み敷かれていた。そして何より問題なのが、顔面を覆っているストッキングの存在だった。何時間穿き続けているのか知らないが、とにかく臭いが酷かった。
ナイロンの生地はジトリと湿り、筆舌し難い納豆臭を放っている。タケシはこの蒸れに蒸れたストッキングに顔面を包まれていた。身動き一つ取れずに、ただただこの臭いを吸い続けるしかない状態だった。
そして、靴の外から聞こえた黒川さんの言葉によって、さらなる絶望が始まった。

「では、次の仕事場に向かいますから、ついてきてください」

視界が完全に閉ざされた闇の中、横たわる自分の身体が浮き上がる感覚に襲われた。パンプスを履いた夜桜さんが移動を始めたのだ。
夜桜さんにとって何気ない歩行という行為は、パンプス内の小人にとっては天変地異だ。世界が斜めに傾くと同時に浮遊する感覚。そのまま前方へと移動していく。親指と人差し指、そして中指。この三本の足指に踏み敷かれている小さな身体。そこへ容赦の無い横Gが掛けられた。傾いた世界は角度を水平に戻しながら、そのまま反対側まで傾いていく。その直後、今度は落下する感覚。パンプスの靴底が着地し、ゴズン!!と耳をつんざく轟音を響かせた。

「…ふぐぅ!!」

時間にしたら一瞬の出来事。
巨大なヒールとソールが、一気に地面を踏みしめる。その際の衝撃で堪らず呻く。汚れたストッキングを纏う巨大な足指が、タケシの頭を中敷きの床に『潰さない程度に』押さえつけた。そしてまた、間髪入れずに世界は傾き、浮遊する。

「ひっ……ぐふっ!!」

地面を蹴り上げたパンプスは90度近くまで傾いていき、再び高速で前方へと移動。中に閉じ込められたタケシにまた強烈な横Gが掛かる。パンプスは角度を戻していきヒール、ソールの順に着地した。その衝撃でタケシの口からは再度くぐもった悲鳴が勝手に漏れる。肺の空気を完全に失った小さな身体は、次に世界が浮き上がった瞬間、反射的に息を吸い込んでしまった。すると足指とストッキングによって汚染された腐敗臭が鼻から肺へと雪崩れ込んだ。

「…うげぇぇ!!…ぇぐっ!!」

信じられない臭気が脳を蝕む。しかし、嗚咽する暇すらも与えられずに襲ってくる次なる着地の衝撃。パンプスの中では、知覚した臭いに絶望する余裕すら無かった。顔面を覆うストッキングは物言わず、ひたすらに悪臭の元となる足汗を塗りつけてくる。そしてまた世界は傾き、浮遊し、落下した。何度も何度も、強烈な横Gと上下動を繰り返す。

「や…やめ…へぎっ!!…やべで……ひぎぃ!!…ぎゃっ!!……いぎっ!!…よざっ……よざぐっ…ぐらさ……ぐぶっ……ぐさいぃ……いっ!!……ふぐっ!!…ふぐぅっっ!!……もうやめ……ふぐううぅぅっ!!!!」

もはや自分の意思では呼吸をすることも、助けを求めることも、満足に悲鳴を上げることすらも出来なかった。

それから世界が何度揺れただろうか。嫌というほど繰り返す揺れと横Gに辟易していると、今度は縦方向へと急上昇する感覚に襲われた。エレベーターが上昇するときに感じるような縦Gを何百倍も激しく、荒々しくしたような感覚だ。しかしその急激な上昇は直ぐに止まる。直後、ドズンッとソールが着地する衝撃。そしてまた世界が急上昇してから、轟音を立てて着地。その動きを幾度となく繰り返した。

「ふしゅぅ…ふしゅぅ…ふぐぅ…ふぐぅぅ…」

身体を上下にシェイクされる度に呼吸が荒れる。明らかに酸素が足りていない。しかし、どれほど肺を伸縮させても、タケシの身体に巡るのは汚染された空気のみ。酸っぱくて、塩辛くて、苦くて、生ぬるくて、多湿で濃厚な発酵臭。湿ったナイロン越しに嗅がされる無限の臭気…
漆黒の闇であるパンプス内部からでは、夜桜さんの足がどう動いているのかを正確には把握出来ない。しかしこの特徴的な動きから、夜桜さんは今、階段を上っているのでは、と考えた。
しかし、そんな予想は当たっていようがいまいが、タケシには何も関係無かった。タケシが何を考えようが、何を感じようが、このパンプスから出ることは出来ないのだから。決して和らぐことの無い悪臭と足汗にまみれたストッキング。この臭いを吸い続けることしか出来ないのだから。
激しく上昇する感覚と衝撃は十数回続き、その後は再び横方向への強烈な揺れへと戻った。夜桜さんが階段を上り終え、また歩き出したのだろうか。矮小なタケシの身体に再度強烈な横Gが掛かる。

「ひぃ……ひぎぃ……ひぎいぃ…」

彼女の右足が一歩を進むのに掛かる時間は約一秒。たったの一秒程度だ。その僅かな間隔の中で目まぐるしく世界が揺れた。そしてその一秒が、何度も何度も訪れる。休みなく、容赦なく、絶え間なく襲うアースクエイク。タケシはパンプスという奈落の底で、悪夢と悪臭に耐え続けるしかなかった。
そして、地獄の揺れは何十回と繰り返した後、ようやく止まった。夜桜さんが歩くのをやめてくれたようだ。

巨大な靴底が地面を踏みしめる轟音に幾度も晒されていたため、耳の奥がキンキンと鳴っていた。ようやくこの揺れが治まったというのに、頭がくらくらしていた。呼吸も苦しい。夜桜さんが歩くのをやめてくれたとはいえ、タケシの顔面には相変わらず湿ったストッキングの繊維がまとわりついている。何とか息を整えようと試みるが、悪臭が酷すぎて嗚咽が止まらなかった。夜桜さんの巨大な足は、親指と人差し指の間にうずまった小人の頭を包み込むように鎮座して動かない。

「もう嫌だ……だずげでくれ……だれか……」

涙と鼻水を垂らしながら懇願するが、小さな悲鳴は誰にも気付かれることはない。物言わぬ足指が、タケシを無慈悲に汚れた中敷きに押さえ付けた。悲鳴を遮られたタケシがもごもごと苦しんでいると、パンプスの外から黒川さんの声が聴こえてきた。

「夜桜さん、ちょっと力仕事になってしまうのですが、少しここを片付けるのを手伝って頂けますか?」
「はい、わかりました」

彼女たちは今、仕事中だ。当然、パンプス内の小人のことなど気にもしていない。彼女達はタケシの涙ながらの訴えなど知る由もなく、自分たちの作業に取り掛かろうとしていた。
止まっていたパンプスが再び動き出す。嫌というほど味わった浮遊感。地面の傾き。強烈な横G。そして着地の衝撃と轟音。暗闇の中、足汗で汚された顔面を、足汗で汚れたストッキングで拭われる。そしてまた、濃縮された悪臭をゼロ距離で嗅がされ続ける。

「うげぇ…ぐふっ!!…もぅやべで……出し…出しで……ふぐぅ!!」

治験のバイトに来ただけなのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか。タケシの心をどす黒い絶望が支配する。何とか助かる方法は無いのか。足指の間で嗚咽しながら必死に考えた。
自力では絶対にどうすることも出来ないこの状況で、唯一可能性が有るとするならば、夜桜さんの優しさに賭けることだった。
夜桜さんは歩いている間ずっと、足指を上げてくれていた。おかげで、タケシはパンプスの最奥分に幽閉されていても、一度も踏み潰されることが無かったのだ。

本来、人間が普通に歩いた場合、足が着地してから地面を蹴り上げるまでの間に、爪先に相応の体重が掛かる。それは時間にすれば一瞬だが、小人が下敷きになってしまえばひとたまりもない。それを何十回、何百回、何千回と繰り返すのだ。もし夜桜さんが、本当に何の遠慮もなく普通に歩いていたとしたら、地面を蹴り上げる爪先の下で、タケシは彼女の体重を幾度となく受け止める羽目になっていただろう。そうなれば、矮小な小人の身体など簡単に潰れていたはずだ。そしてそのまま無限に踏まれ、嫐られ、形無くなるまで躙られ、汁と成り果て、足汗と混じり合い、共にこのストッキングの染みになっていたことだろう。
つまりタケシの命は、しっかりと履かれたパンプスの中にあってもなお、生きることが許されていた。
この事実を『幸運』と捉えるか、それとも『最悪』と考えるか。

夜桜さんはきっととても優しい女の子だ。もしかしたら、小人になったタケシを気遣い、潰さないようにしてくれているのかもしれない。もし夜桜さんが自らの意思でタケシを潰さないように気を付けてくれているとしたら、それなら助かる見込みが有るのかもしれない。もう少ししたらパンプスを脱いでくれて、外に出してくれる可能性は十分有るだろう。
逆に、最悪のケースは、夜桜さんが黒川さんの言いつけを『ただ守っているだけ』だった場合だ。タケシは、先程黒川さんが言っていた言葉が気になっていた。彼女は「新薬の効果を調べるために小人を『消臭剤』として使う」と言ったのだ。また、加えてこうも言っていた。「初めのうちだけは、なるべく踏み潰さないように」と。もし夜桜さんがこの指示に従っているだけだとしたら…たまたま今は『壊れないように』生かされているだけだとしたら…
もしそうだった場合、夜桜さんがいずれこの足指を下ろし、普通に歩き始める時が来る。下にいる小人のことなどお構いなしに『普通に』爪先に体重を掛けるようになるだろう。
そうなればもう、タケシが助かる見込みは無い。頭の下にあるボロボロの中敷きと同じように、誰に知られることもなく、夜桜さんの全体重を受け続けるのだ。彼女が地面を踏みしめる度に、簀巻きにされたまま、この矮小な身体を踏み潰されるのだ。
小さな小さな命は今、夜桜さんの気まぐれまたは良心によって支えられている。いずれにしても、タケシは夜桜さんの優しさを信じるしか無かった。
断続的な激しい揺れと、時折聴こえる彼女たちの話し声。悪夢と悪臭に耐え続けながら、タケシはその声に聞き耳を立てていた。

「その箱はあちらにお願いします」
「はい!」

どうやら夜桜さんは何か沢山モノを運ぶ作業をしているらしい。横とか前とか後ろとか、とにかく複雑に足を動かされた。タケシはその複雑な足の動きの全てを、巨大なパンプス内で体感させられていた。
先程夜桜さんが直線的に歩いていた時とは明らかに異なる揺れ方、靴の傾き。小さな身体を縦横無尽に振り回された。当然タケシに為す術はなく、三半規管が発狂するほど揺さぶられ続けた。

一向に慣れることの出来ないこの拷問は、いったいいつまで続くのか。夜桜さんにとっては『ただ仕事をしているだけ』であっても、その巨大な右足に監禁されたタケシにとっては無限に続く地獄のアトラクションだ。上下左右と複雑に揺れ動く世界。僅かな光も入って来ない漆黒の闇。靴底が着地する度に起こる衝撃と轟音。足汗により蒸された空間は温度が高くなり、まるでサウナだ。汚染され尽くされた臭気も濃度を増していく。
目が回り、頭がくらくらして、吐き気も止まらない。もはやパンプスがどう動いているのか、時間がどれだけ経過したのか、自分が生きているのか死んでいるのかさえもわからなくなってきていた。

「その箱は、棚の一番上に置いてください」
「はい、わかりました」

そして、暗闇の外から彼女たちの話し声が聴こえた後、事態は急変した。ついにタケシが最も恐れていた事態が起きてしまったのだ。

「…むぎゅっっ!!」

いつも以上に急激な横Gが掛かり、今まで眼前に浮いていたはずの足指が、突然タケシの身体にのし掛かってきた。暗闇の中、何の前触れもなく突然踏み潰されたのだ。信じられないような重圧。巨大な足指はタケシの身体を簡単に潰し、そのまま夜桜さんの巨体を支えた。タケシは自分の身に起きた事を理解する前に、意識を失っていた。





光。
目を閉じていても感じることが出来る、眩い光。
久しぶりの感覚を思い出しながら、タケシはゆっくりと目を覚ました。
徐々に視覚が回復し、周囲を見渡す。

「こ、ここは……」

光があると言うことは、あの地獄のパンプスから出ることが出来たのか。先程味わった『身体を潰される感覚』は、夢だったのだろうか?
ふかふかと暖かい肌色の地面。辺りには優しいフルーツのような香りが漂う。
タケシは自分が生きていることと悪臭の無い世界に安堵した。しかしその安心は、真上から降り注いだ大音量の女性の声で、一瞬で打ち砕かれた。

「ふふっ、新薬の効果が出ているみたいですね。大丈夫です、少し疲れているようですけれど、ちゃんと生きていますよ。これならまだ十分使えます」
「ホントですか!?良かった~」

若くて美しくて、そして巨大な二人の女性が、自分を見下ろしながら楽しそうに会話をしていた。この暖かい地面は、夜桜さんの手の平だったのだ。身体は相変わらず簀巻きにされたままで、身動きは取れなかった。自分が置かれた状況は、何も変わってはいなかったのだ。
何とか逃げ出そうと暴れてみるが、辺りに聳える五つの肌色の柱がこちらに折れ曲がり、タケシの身体を包み込んできた。

「うわあぁぁっ!!…や、やめろっ!!」

言葉だけでもと抵抗を試みるが、その程度で巨人の指は止まらなかった。タケシの小さな身体は簡単に夜桜さんの掌に包まれてしまう。
これが、普通の女の子の手の中だなんて。改めて自分の小ささと無力さを実感させられた。

「それより、臭いの方はどうですか?まだ臭いですか?」

手の外では、小人を無視して二人の女性が会話を続けていた。

「え!?凄い、少しですけど、臭いが取れてます!まだ完全ではありませんけど、何も使ってない時よりは全然マシです!良いですね、コレ!」
「そうですか。やはりこれは、思った以上に使えますね」
「これがあれば、足の臭いを気にしなくて良くなるかもしれませんね!」

夜桜さんは小人のことなどお構い無しといった様子で楽しそうに話している。しかし、その可憐な声とは裏腹に、話している内容は『使う』だとか『臭いが取れる』とか、タケシにとっては絶望を上乗せするものだった。恐らく小人を…自分のことを『消臭剤』として使った感想を話している。
タケシは最後の希望を打ち砕かれ、これまで味わったことが無いほどに陰鬱な気分になっていた。
優しい女の子だと思っていた夜桜さんが、やはり自分の味方では無かった。その現実を受け入れられず、放心した。
目を覚ました時、夜桜さんが自分の事を気遣ってパンプスから出してくれたのだと思いたかった。優しい夜桜さんが、この暖かくて良い香りがする掌で、優しく包み込んでくれたのだと。
しかし、それは全くの検討違いだった。
悪夢の中、なるべく考えないようにしていたこと。間違いであって欲しいと願っていたこと。それこそが現実だった。夜桜さんは、自分をただの『消臭剤』としてしか見ていなかったのだ。
足指を下ろさずに踏まないようにしてくれていたのも、ただ単に『生かされていた』だけ。先輩社員に『言われたから』やっていただけのことだった。今、パンプスの外に出されているのも消臭効果を確かめただけで、タケシを気遣ったのではない。たまたま出されただけなのだ。
そして、絶望するタケシを他所に、小人が生きていることを確認した二人の巨人はさらに会話を続けた。

「ふふっ、そうですね。それでは、今度は左足に入れてみて下さい」
「はい、わかりました!」

タケシの砕けた心に更に追い討ちを掛ける言葉。もはや完全に生きた心地がしなかった。むしろ、生きていることが嫌になるほどの絶望だった。

「嫌だ……もうやめてくれ……もう十分だろう……」

しかし、小人の想いなど無関係に夜桜さんは動く。
地面が、手の平が急激に降下していく感覚。タケシを持った夜桜さんが屈んだ事による下降だ。
折れ曲がっていた肌色の五本の柱が開くと、この巨大な手の持ち主の顔が上空に見えた。リクルートスーツに白衣を着た可憐な夜桜さんが、こちらを見下ろしている。その巨体の向こう、遥か上空からは、蛍光灯の強い光が後光のように輝いていた。まだ明るさに目が慣れていなかったタケシは目を細める。その時、地面が急に傾いた。

「うわあぁぁ!!」

簀巻きにされた身体は踏ん張ることが出来ず、コロコロと転がる。先程まで地面だった手の平が壁のように垂直になったとき、タケシは真下に落下を始めていた。
すぐさま自分が落下する方向、真下に目をやると、そこには夜桜さんのパンプスが口を開けており、『消臭剤』の到着を待っていた。

「ひいぃぃ!!もう嫌だあぁぁ!!…ひぎぃっ!!」

タケシの小さな身体はトスン、と柔らかい地面に落ちて止まった。黒ずんでゴワつく地面にはうっすらと『22.5』の文字。そこは、夜桜さんが脱いだばかりの左足のパンプスの、踵が乗る部分だった。中敷きに染み込んだ汗と埃の臭いが鼻を刺す。堪らず何とか身体を上に向けると、にこやかな表情の夜桜さんがこちらを見下ろしていた。
あんなに可愛くて優しそうな女の子なのに、パンプスはこんなにも臭い…しかも、生きた人間をそのパンプスの中に平気で入れるなんて…タケシにはそれが未だに信じられなかった。

「お、おーい!!た、助けてくれ!!夜桜さん!!もうこんな…こんな治験なんかやめさせてくれ!!金なんかいらないから!!…と、とにかくここから出してくれぇ!!」

パンプスの奥からもわもわと立ち込めてくる悪臭に耐えながら、決死の想いで叫んだ。あの臭いの立ち込めてくる洞窟の奥、爪先の方には絶対に落とされたくない…それに、再び履かれてしまったら、もう二度と生きて出られないかもしれない。これが本当の最後のチャンス。喉が潰れても構わない。タケシはとにかく必死で声を出した。
しかし、この声が聴こえていないのか、夜桜さんは無言でこちらを見つめたままだった。
その直後、中敷きの地面がグラリと傾き始めた。夜桜さんが、パンプスを手で持ち上げたのだ。

「うわぁっ!!やめ…やめてくれえぇぇっ!!」

タケシの声などお構いなしに、パンプスはどんどん傾いていく。簀巻きにされた小人の身体はその傾きに耐えられる訳もなく、暗黒の爪先に向かってコロコロと転がり始めた。

「待って…やめて…夜桜さん!!うわああぁ!!…へぐぅっ!!」

高速で転げ落ちる身体は、パンプス最奥部に激突してすぐに止まった。顔面を強く打ち付けた痛みと同時に、嫌というほど嗅がされたあの悪臭が再びタケシを襲う。

「うげえぇぇっ!!臭いぃぃ!!ガハッ!!ゴホッ!!」

まるで毒ガスのような濃密な臭気に、喉が焼かれるようだった。まともな呼吸は困難となり、声を出すのも辛い状況。心なしか、最初に入れられた右足のパンプスよりも臭いが濃いような気がした。

「うぅ…酷いニオイ…」

外から夜桜さんの声が聴こえた。
自分で自分のパンプスを嗅いだのか。そして、臭いとわかっていながら、彼女はそこへ生きた人間を入れたのだ。明らかに自らの意思で。

「うふふ、夜桜さんって面白い娘ですね」
「わ、笑わないで下さいよぅ…私は真剣に悩んでるんですから…」
「ふふっ、でも今は優秀な消臭剤がありますから、悩みは解消したも同然ですね」
「はい」

仲良く会話する二人の巨人。その声を、タケシは涙を流しながら聴いていた。人間としてではなく、完全にモノとして扱われる恐怖。怒り。そして絶望。意思の疎通は一切出来ず、為す術なく、ただひたすらに足の臭いを嗅がされる。消臭剤として、女の子の足の臭いを吸い続けることだけが存在意義。どんなに拒もうとも、信じられなくても、それが事実で、現実。

夜桜さんは、きっととても優しい女の子だ。
細縁のメガネが似合う上品で美しい顔立ち。三つ編みの鮮やかな黒髪。スタイルも良く、リクルートスーツに清潔な白衣が似合っている。製薬会社としては最大手の神嶺製薬に新卒で入れるほど優秀な彼女は、きっとこれまで沢山の努力を積み重ねて来たのだろう。
明るく朗らかな雰囲気から、友人も多いはずだ。誰にでも優しく接する彼女の姿は、容易に想像が出来た。
しかし、その優しさは、あくまで『ヒト』や『動物』などの生き物に対してであり、『モノ』に対しては別なのである。それは残酷でも何でもなく、ごくごく普通のことだ。どんなに優しくても、靴の中で使う消臭剤の心配をする女の子など存在しないのだ。そんなことは人間なら誰でも同じ。普通で、当たり前のことなのだ。
タケシはその現実を思い知らされて、無意識に涙を流していた。自分が生きているから、人間だから、『モノ』として扱われるなど有り得ないと思っていたのだ。黒川さんが言っていた、『小人を消臭剤として使う』という言葉の意味が、今頃になって身に染みて解ってしまったのだ。
しかし、今更後悔しても遅かった。優しい夜桜さんの可憐な声が、タケシに更なる絶望を与える。

「パンプスの中の小人さん、今度は左足の消臭、頑張って下さいね。では、履きますね!」

パンプスの出口が、大いなる影で覆われた。
再び、汚れたストッキングに包まれた巨大な足指がこの空間に侵入してくる。タケシは涙を流しながら命がけで叫ぼうとするが、うまく声が出せない。嗚咽が止まらない。
そして世界は闇に包まれ、矮小な身体は為す術なく足指の下敷きになった。

「これで良しっと!じゃあ先輩、片付けの続き、やっちゃいましょう!」

パンプスをしっかり履いたことを確かめてから、夜桜さんが陽気に話す。それとは対照的に、地獄の底に押し込まれたタケシは涙と震えが止まらなかった。
夜桜さんは、タケシを踏み潰さないように足指を上げていた。その左足は、これまでの作業で余程汗をかいたのか、ストッキングがジュクジュクに湿っていた。明らかに、最初に閉じ込められた右足よりも環境は酷い。

「ふしゅう……ふしゅう……苦しい……苦じぃよぅ~……ぐざいよぅ~……助けて……誰か……助けてぇぇ……」

暗闇の中、タケシは最後の力を振り絞るようにして助けを求めた。しかし、小さな小さなその悲鳴は、誰の耳にも届くことはない。
その時、タケシの顔の上で夜桜さんの足指が僅かに動いた。きっと夜桜さんにとっては何気なく無意識に指を動かした程度だろう。しかし、そのちょっとした動作によって、タケシの顔面は濡れたナイロンで完全に覆われてしまった。

「…むぐぅぅ!!」

かろうじて、何とかギリギリ呼吸する。しかし、僅かに吸い込めた空気は、発酵した納豆臭に生乾きの雑巾臭を混ぜ、濃縮させたような悪臭。これがあの可愛らしい夜桜さんの足の臭いだということが信じられなかった。
これからこの地獄でどれ程の時間を耐えなければならないのか。生きなければならないのか。呼吸をしなければならないのか。これならいっそのこと、ひと思いに踏み潰して殺してくれた方が楽なのではとさえ感じた。
そこへ、黒川さんの悪魔の言葉が追い討ちとばかりに降り注いだ。

「…そういえば夜桜さん、先ほどはつま先に体重がかからないようにされていたみたいですけれど、今度は普通にしてみて下さい。これは治験ですから、何度も体重が掛かっても問題が無いか、その耐久性も確認したいので」
「…あ、はい、わかりました!」

パンプスの外から聴こえた二人の会話。黒川さんは、今度は『普通に』爪先に体重を掛けろと言っているのだ。そしてそれに快諾する夜桜さん。これから『普通に』踏み潰されることを宣告されたタケシは、人生の終わりを覚悟した。





光が一切入らない闇の中。
パンプスに再び閉じ込められた哀れな小人は、その小さな身体を布で簀巻きにされて身動きが出来ない。唯一露出している頭には、足汗により汚れて湿ったストッキングが覆い被さっている。そのストッキングが包んでいる巨大な足指は、小人の身体を潰さないように、中敷きに指が着かないようにしてくれていた。
しかし、その『配慮の時間』に終演が告げられると、足指は徐々に降ろされていく。親指と人差し指、中指の下辺りにいた小人の身体に、それら巨大な足指が容赦なくのし掛かっていく。

「…ふぐぅっ!?」

その足指は、まるで小人の踏み心地を確かめるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと降りてくる。タケシはそのたった2、3本の足指の動作にすら抗うことが出来ない。小さな身体はパンプス内で中敷きの地面に力強く押し付けられていく。

「むぐぐぐ……や…やめで……よ…よざくら…さん…」

やがてタケシの頭は重圧で上を向いていられなくなる。グリッと横向きにされた頭は、なおも強く踏みつけられていく。

「ぃ……ゃ……やめで…踏まないで……」

外から見れば、可愛い新入社員の女の子が履いている、何の変哲もない普通のプレーンパンプス。

「うぎぎぎ……どんどん……重く…な…る……」

白衣を着た二人の女性社員が、普通に立ち話しているだけの、日常の一場面。しかし、その『普通に』履かれたパンプス内部では、『普通に』履かれた事により、小さな命が、小さな悲鳴を上げていた。

「た…たじげで……潰れる……むぎゅうぅうっ!!」

しかし、パンプス内の小さな絶望など、二人の女性にとってはどうでもいいことだった。
そして、立ち話を終えた彼女たちは元の作業へと戻っていく。夜桜さんの身体を支えていたパンプスが、また動き出す。内部の小人に一瞬だけ浮遊感を与えると、直後に小さな身体を『普通に』踏み潰した。

「ぎゃっ!!」

今までは夜桜さんがタケシを潰さないようにしてくれていたが、今は容赦なく爪先へと体重が掛けられていた。足指の下敷きになっている小さな身体が、その圧倒的な質量に押し潰される。布で簀巻きにされたまま、全身を足指で踏み潰される。
同時に、湿ったストッキングに含まれていた汗が、踏み潰されたことにより搾られる。潰れるタケシの顔面に、ベトベトの足汗がドロリと滴る。苦くて塩辛くて、生暖かい足汗が、タケシの意思に反して口内に侵入してくる。振り払いたくても身体は全く動かせない。頭を中敷きに強く押し付けられ、口を閉じることさえ出来なかった。こじ開けられた口の中に、容赦なく足汗が流れてくる。新陳代謝が活発な、若くて可愛い女性の足汗を、強制的に飲まされる。
そして、一歩を踏み終えた左足は、すぐさま次の一歩に進む。爪先で小人を踏みながら、しっかりと地面を蹴り上げる。足はその勢いで浮き上がると、小人に急激な横Gを加えながら前方へと移動。ゴズンッ!!と轟音を立ててヒールとソールが着地する。その壮大な一歩を踏み終えたら、またすぐ次へ。夜桜さんの体重は踵から指の付け根、爪先へとスムーズに移っていく。その重みが爪先に到達したとき、指の下敷きになっているタケシの身体を無条件に踏み潰す。簀巻きにされて身動きが取れないタケシには為す術がない。肺の中の空気は全て押し出され、グエッと呻き声が漏れた。その小さな声が消えた頃にはもうパンプスは浮き上がっており、前方に移動して着地。そしてまた踵が上がり、爪先へと体重が移る。タケシは踏み潰される。
それを何度も繰り返していく。パンプスが地面を蹴り上げる度に、何度も何度も。夜桜さんにとってはただの歩行。その『普通で当たり前の動作』の度に、タケシは無慈悲に踏み潰される。

「…ふぐっ!!……ひいっ!!…はぎゃっ!!…ひぎっ!!…むぐぅっ!!」

彼女が普通に歩けば普通に踏み潰される。
彼女が棚の上の箱を取るためにつま先立ちをすれば、より強く踏み潰される。
彼女が重い荷物を持てば、その分も重くなる。
彼女が振り向けば、踏み潰されながら世界が回る。
彼女が荷物を運べば、その重みごと踏み潰される。

「ひぎゃっ!!…あぐっ!!…いぎっ!!…ひぎぃっ!!」

踏まれる度に漏れる悲鳴。ストッキングから染み出る汗。パンプスが浮き上がる毎に吸わされる悪臭。身体の痛みと濃密な臭い。容赦なく襲ってくる上下左右への急激な横G。
そして、耐えきれない程の激しい重圧が加わると、タケシの意識は再び闇へと溶けていった。





気を失っている間は、ストッキングの臭いや踏まれる痛みを知覚せずに済んだ。しかし、絶え間なく揺れるパンプスの動きと衝撃で、失った意識はすぐに現実に戻された。
タケシは自分が気絶していたことを認識して我に返るが、すぐにまた踏み潰された。悠長に状況を把握する余裕すらない。身に覚えのある浮遊感に悪臭。『普通に』働く夜桜さんのパンプスは、中にいる『消臭剤』を一切休ませてはくれなかった。再び激しい重圧と激痛に襲われると、タケシはまた意識を失い、そしてまた戻される。
ひたすらに、その繰り返しだった。
高温多湿の闇の中、視界はゼロ、三半規管も役に立たない。パンプスが着地することによる轟音と衝撃。無遠慮に踏み潰されて味わう重圧。混濁する意識。もはや何がどうなっているのか訳がわからない。確かなことは、ここが本当の地獄であるということだけだった。

何度も踏み潰されながら、タケシには一つ気掛かりなことがあった。それは、自分がまだ『生きている』ことだった。
これまで夜桜さんに幾度となく踏み潰されているというのに、なぜ自分はまだ生きているのか。この矮小な身体は巨大な夜桜さんの体重を受け続けて、なぜ生きていられるのか。それが不思議でならなかった。
本来であれば一度でぐしゃぐしゃに潰れてしまうような重圧を何度も受けているというのに。何度も意識を失っているとはいえ、それでも、この身体は骨も折れていなければ、怪我すらしていないのだ。そんなおかしな事があるのか。
初めのうちは、衝撃を吸収するために作られた、なまじ柔らかい中敷きと、身体に巻かれた布がクッションになって、奇跡的に助かっているのだと思っていた。しかし、それだけでは説明がつかないほどに、数えきれないほど何度も何度も踏み潰されているのだ。ただの奇跡がそんなに続くとは到底思えない。
実際、圧倒的重量で無遠慮に踏みつけられる瞬間は、尋常ではない痛みを感じるのだ。どう考えても耐えられない圧力で全身を潰され、体内のあらゆる血や内臓が、身体中の穴という穴から飛び出そうになる。頭蓋は軋み、骨という骨が砕けるような感覚。その衝撃を絶え間なく受け続けているというのに、死なないどころか、おそらく怪我すらしていない。
まさかこれが、治験の為に飲まされた薬の影響だというのか。これが、神嶺製薬の新薬の効果なのだろうか。だとしたら、それはタケシにとって本当に恐ろしい事である。なぜなら、これほどの地獄を味あわされても、逃げることはもちろん、死ぬことすら出来ないのだから。生きて、生き続けて、この地獄に耐え続けなければならないからだ。

「ひぃ……ひぃぃ……もうイヤだ……もうやめで……ひぎぃっ!!」

終わることの無い、自分ではどうすることも出来ない無限の地獄に、タケシの心はズタボロだった。
しかし、タケシが地獄と認識しているその場所は、実際には働く女性の『ただの靴』。普通に履かれた普通のパンプス。ただ単に、タケシが矮小なだけなのである。矮小ゆえに、そんな『普通では入れない場所』に入れられてしまうのだ。
パンプスの外からは、普通に会話する女性たちの声が聴こえてきた。

「…後は…………仕舞えば、終了……す」
「…はい………全部、ですね。…はぁ~、……に身体をたくさん動かし…………運動になりました」

何てことのない日常の会話風景。
パンプスの外では、タケシが感じている地獄とは一切縁の無い平和な景色が広がっているようだった。しかし、楽しそうに話す彼女たちの声は、途切れ途切れにしか聴こえない。なぜ声が途切れて聴こえるのか、その理由は一つ。定期的に巨大な足指で頭を踏まれて、その度に聴覚が効かなくなるからだ。
彼女たちが何気なく会話している間にも、パンプス内の『消臭剤』は休まず呼吸し、踏まれても文句すら言えず、その生を全うしているのだった。
彼女たちの可憐な声を聴かせてもらえるかどうかは全て、パンプスを履いている夜桜さんの足の動きと気まぐれで決まる。

「…それで…桜さん……この後の………が……今日の新人歓迎………ますか?」
「はい……行かせて………ます!」
「…でも……前に…」
「…何でしょ…か?」
「『それ』がどうなったか、見せていただけ………」

少し声が聴こえたと思ったら、また途切れる。湿ったナイロンに包まれた足指が、タケシの頭を踏みつけた。少しして足指が踏むのをやめてくれた時、続けて夜桜さんの声が響いてきた。

「あ、被験者の方ですね?…あはは、すっかり靴に入れたこと忘れてしまってました」
「まぁ、夜桜さん、先程はあんなに靴の中を気にされていたのに、もう慣れてしまったんですか?中々見所がありますね、うふふふふ」

久しぶりにしっかりと聴こえた彼女の声。しかしその内容はタケシにとってとても残酷で、無慈悲なものだった。しかし、自分を無遠慮に苦しめ続ける夜桜さんの楽しげな声に、もはや怒る気力すら無かった。
直後、パンプスがフワリと浮き上がる感覚がした。いつもの歩行によるものとは違い、高くまで浮いていくような感覚。同時に中敷きの地面が大きく傾く。ほぼ直角まで傾くと、重力は爪先方向へ。おそらく靴が縦になっている。夜桜さんが足を上げ膝を曲げているのか。直後、タケシを中敷きに押し付けていた足指の圧力が弱まった。すると、簀巻きにされた小さな身体は足指から解放され、パンプスの奥へと転がり落ちた。そして、長時間タケシを苦しめた巨大な足が、ズリズリと音を立てながら後退していく。ストッキングをまとう巨大な足は、そのままパンプスから出ていった。

「ぅ……ゃ…やっと………脱いでくれ…た…?」

悪魔の足が無くなった空間には、僅かな光が差し込んできた。その直後、パンプスがまた傾き始めた。今までは爪先が下だったのに、今度は逆。踵側が下になる。つまり、タケシの身体はパンプスの出口へ向かって落下を始めた。
状況をよく飲み込めないままタケシはパンプス外まで転がり落ちていく。しかし、パンプスの外まで転がり出た直後、その落下は柔らかい肌色の地面に着地して止まった。
ふかふかと暖かい肌色の地面。辺りには優しいフルーツのような香りが漂う。この感覚は、以前にも同じことがあった。確かこれは…前回パンプスから出してもらえた時と同じだ。あの時は、夜桜さんの手の平に乗せられていたのだ。
タケシが恐る恐る上を見上げてみると、巨大な夜桜さんが、興味深そうにこちらを見下ろしていた。

「あの…先輩、これ…」
「あらあら、あれだけ長時間使ったのに、しっかり生きていますね、上出来です」

今回も前回と同じく、タケシの身体は夜桜さんの手の平の上に乗せられていた。パンプス内で聴いていた時とは異なり、彼女たちの声が大音量で響く。今回もまた、夜桜さんと黒川さんがタケシの様子を確認しているようだ。夜桜さんは、タケシをあれだけ無遠慮に踏みつけていたくせに、少し心配そうに話している。

「私、その人を左足のパンプスに移してからは、ずっと普通に踏んでいました。本当に大丈夫なんでしょうか?」
「夜桜さん…貴方が『それ』を踏んだのは私の指示に従っただけです。何も気にすることはありませんよ?それに先程も言いましたが、これは新薬の治験なんです。この通り、被験者も無事みたいですし」

黒川さんの言葉から推測するに、自分が踏み潰されても死なないのはやはり薬の影響らしい。
タケシが生きていることを確認すると、夜桜さんは安心しているようだった。彼女はきっと心優しい女性だ。もしかしたら、今度こそ治験を終わらせてくれるかもしれないと、タケシの心に一縷の希望が湧いてくる。というよりも、自分が助かる見込みが有るとするならば、夜桜さんの助けは必須なのだ。

「そうですか…では、治験はこれで終了ですか?」

彼女の声で、ボロボロのタケシの心に期待が膨らむ。しかし、その僅かな希望は、黒川さんの言葉で一瞬で砕かれてしまった。

「…いいえ、薬の効果は数週間は持続しますから、まだまだこれからです。ですから夜桜さん、『それ』はもうしばらく『使って』あげてください」
「…は、はい!わかりました」

諦めかけていた心に差し込んだ僅かな光。その僅かな光でさえも、すぐにかき消されてしまう。優しいフルーツの香りが漂う夜桜さんの手の平の上、タケシはまた絶望に打ちひしがれた。

「…も…もうやめてくれ……もう限界なんだ……金なんて要らないから……助けてくれ……助けてくれぇ……」

恐怖に震える小さな身体。絞り出すように、必死に助けを乞う。しかし、やはりその小さな声は、彼女たちには届かなかった。彼女たちはまた、小人を無視して会話を続ける。

「…わぁ、凄いです!さっきはあんなに臭かったのに、臭いがかなり取れてます!」

嬉しそうに話す夜桜さん。どうやらタケシは、消臭剤としては優秀らしい。彼女は自分の足が臭いことを自覚していて、コンプレックスに感じているのか。それを解消するためなら、小人の命を使うことに抵抗は無くなるのか。あんなに可憐で、虫も殺さなそうな雰囲気なのに。

「俺だって……生きているのに……人間なのに……うぅ……」

簀巻きにされたまま、タケシは涙を流しながら訴える。しかし依然として、夜桜さんはタケシを人間として、生き物として扱う様子は無かった。

「あの…先輩、この被験者はこの後も『使って』良いんですよね?今度はまた右足に入れたいです」
「勿論、構いませんよ。右足はあれから臭いが溜まっているかもしれませんからね」
「あっ!酷いです先輩!いくらなんでも、そんなにすぐは臭くなりませんよぅ!」

冗談混じりで話す彼女たちをよそに、タケシは自分が生きていることを呪っていた。もはや生きていることが辛くて仕方がない。もう二度と、あんな地獄を味わいたくはない。あの地獄に戻されるくらいなら、いっそ殺して欲しかった。
涙ながらに訴えるように夜桜さんを見上げても、彼女はタケシを無視したまま、黒川さんと会話を続けた。命ながらに何度も叫ぶも、その小さな声が届いている様子は無かった。
そして、タケシの声が枯れた頃、彼女たちの会話は終わりを迎えていた。それはつまり、タケシにとっては地獄の再来だった。

「…さあ、この後は貴方の歓迎会です。準備をしてお店に向かいましょう」
「…は、はい!」

手の平の地面が傾くと、眼下に見えてくる地獄の入り口。今度は右足のパンプス。泣き叫ぶタケシの声が、淀んだ空気に飲み込まれていく。その小さな身体は為す術なく、暗がりの奥へと転がり落ちていった。その後を追うように、ナイロンに包まれた美しい足がパンプスへと入っていく。その足が踵まで収まりきると、小人の存在はもう誰からも見えなくなった。
パンプス内部では、汗濡れるストッキングの下敷きになったタケシが嗚咽する。無慈悲に踏みつけられ、搾られた汗を無理やり飲まさせれていた。
長時間忙しく動き回っていた彼女のパンプス。その右足のパンプス内は、始めに入れられたときよりも数段酷い臭いがした。より蒸し暑く、より過酷な環境になっていた。当然そこは、人間が生存できるような場所ではない。そんな場所へ、当たり前のように放り込まれる屈辱。可愛い女の子にモノとして扱われる悲劇。
やがてパンプスが動き出すと、本格的に地獄の拷問が始まった。





身体を縮められ、初めてパンプスに入れられた時、タケシはボロボロの中敷きを見て哀れだと感じた。人知れず夜桜さんに踏まれ続けて、足汗の臭いを染み込まされ、クタクタになっていた中敷き。どんなに若くて可憐で優しい女性であっても、その靴の中はこんなにも汚れて、悪臭を漂わせ、ボロボロだったのだ。そのギャップに衝撃を受けた。

ただ、それは『人としての視点』で見て感じたものだ。言うまでもなく自分は人間という生き物で、中敷きは所詮、人間に使われるモノでしかない。中敷きが靴の中で踏まれるなんて当たり前の事であり、長年使われれば、当然消耗する。
人間とモノ。これらは別物であり、その存在理由や価値などは、それぞれ比べるようなことではない。そんなことは、当たり前すぎる事実だ。
しかし、今はこの中敷きを見て、タケシは全く違う感覚を抱いている。黒ずんでボロボロのクタクタになっている中敷きを見て、タケシは心から恐怖していた。『次は自分がこうなる番だ』と感じているからだ。
抗うことも、逃げることも、死ぬことすらも出来ず、ひたすら踏まれ続ける経験をしてしまったからだ。女の子に人知れず踏み潰されることがどれほど過酷か、これまでに散々思い知らされたからだ。

夜桜さんたちの自分に対する扱い方。実際に今の自分が置かれている状況。パンプスの中、足指に踏み敷かれ、そのまま履かれている状況は、この中敷きと何ら変わらない。夜桜さんにとっては、中敷きも自分も同じ道具、ただの消耗品なのだ。タケシの存在は人間としてではなく、そもそも生き物として扱われていない。

パンプスの外からは、沢山の女性たちの話し声が聴こえていた。黒川さんが「歓迎会をする」と言っていたから、おそらく夜桜さん達は今、居酒屋にでも来ているのだろう。
彼女たちが楽しそうに談笑している中、タケシは独り、悪臭にもがき苦しんだ。
彼女たちが食事やお酒を飲んでいる時、タケシは湿ったストッキングから染み出る汗を吸わされた。
夜桜さんが椅子に座っている間は、タケシは「踏み潰されないだけマシ」だと思った。
夜桜さんが足をパタパタ動かすと、タケシの世界は激しく揺れた。
夜桜さんが席を立つと、タケシは足指で踏み潰された。
夜桜さんが歩けば、タケシはその都度踏み潰される。
気を失い、気付けばまた、踏まれている。ひたすらそれを繰り返した。

時折、パンプスから出されて生きているか確認されると、もう片方の靴へと移された。
右足の次は左足。左足の次は右足へ。数時間おきに入れ替えられた。
そうして、タケシはこれからもパンプス内の臭いを取るために、消臭剤として生きていかなければならない。夜桜さんのストッキングと足指の臭いを吸い続けることだけが存在意義。パンプスの中、たとえ何千回、何万回と踏み潰されても、それでも生きて、生き続けて、臭いを吸い続けなければならない。
誰に知られることもなく、ひたすら彼女の体重を受け止め続ける。
彼女が立っている時も、歩いている時も、走っている時も、電車に乗っている時も、仕事中も、買い物中も、遊んでいる時も、食事中も、トイレに入っている時も。
彼女がカラオケで歌っている時も、踊っている時も、仲間の歌をノリノリで聴いている時も、次に何を歌うか悩んでいる時も、笑っている時も、喋っている時も、飲み物を口にしている時も。
彼女がカラオケを終えて店を出る時も、朝を迎えた空を仲間と見上げている時も、仲間と別れて歩き始めた時も。
眠くなった彼女が漫画喫茶に入っていく時も、個室に入って一息ついた時も、お気に入りの少女漫画を手に取った時も、漫画を読んでいる時も、うとうとしている時も、眠りについた後も。
彼女が昼過ぎに目覚めた時も、暖かい飲み物を取りに行く時も、借りていた漫画を棚に戻している時も、会計中も、店から外へ出る時も、ふと空を見上げて陽の光を浴び、「今日も良い天気だな」なんて考えている時も。
ずっとずっと、ただひたすらに、ひたすらに。
夜桜さんがこのパンプスを履き続ける日々、その全ての中で踏まれながら、臭いを吸い続けていかなければならない。
いつ訪れるのかわからない、治験が終わるその日まで。
そしてまた、パンプスは動き出す。