カワカミプリンセスとの大切な三年間を終えて、それからも“王子様”ことトレーナーとプリンセスの関係性に変化はない。表向きは、

「……プリンセス、近くないか?」

 今はトレーニングを終えてのミーティング中、以前までは向かい合う形で席についていた両者なのだが、ここ数日は違った。
 ある時は“下手な座椅子よりも大きな”太ももの上に座らされたり、隣に座った彼女が“成人男性の全身を押し潰せそうな上背”で、寄り添うというよりは半ばのしかかってきたりするのだ。

 明らかに、距離が近い。過剰なスキンシップが横行しているのだが、当の本人はきょとんとして、可愛らしく首を傾げるのみ。

「? そんなことありませんわよ」

 いや、明らかに近いよ。反論しようとしたトレーナーの身体が浮遊感に包まれた。代わりに感じるのは、胴体へ回された細くもたくましい腕の感触。
 人間のそれより二倍以上の長さと太さがあり、その上で2tトラックも軽々と持ち上げられる腕力に捕まってしまえば、せいぜい体重60kg前後しかない成人男性は為す術もなく攫われてしまう。

 ウマ娘特有の高い体温が背中から感じられ、さらに後頭部から側頭部にかけてを年齢の割に豊かで大きな、柔らかくも張り出した胸でジャージ越しに包んでくる。
 その上方から、自分の“王子様”をぬいぐるみのように抱っこしてご満悦な姫の、満足げな「むふーっ」という鼻息が聞こえる。
 優しく、しかし絶対に離さないという意思を感じる抱擁に対して、トレーナーは早々に物理的な抵抗を諦めていた。

「プリンセス、前から言ってるけど、これは姫としていけないんじゃなかと思うよ」

「えっ、どうしてですの?」

「異性に対して気軽過ぎると言うか、距離感が近すぎると思う」

 デビューから三年経ったとは言え、彼女はまだ成人どころか学園を卒業してすらいない。いくらトレーナーと担当ウマ娘という身近な立場同士と言えど、成人男性と女子の組み合わせは世間一般的によろしくない。

 ただ、一般的な女性や女子が危険に晒されるというパターンとこれは明確に違う部分がある。ウマ娘に危険が及ぶという意味ではない点だ。
 人間と比べ二倍以上の巨躯と、圧倒的膂力を持つ彼女たちウマ娘を力尽くでどうこうできる男性などまず存在しない。どちらかと言えば、危険なのは主にトレーナー側の社会的な立場であり、ついでに万が一“掛かった”彼女たちウマ娘に貧弱な人間であるトレーナーが蹂躙される危険性も否めない。

 年単位で密接に、マンツーマンでトレーニングからプライベートまで面倒を見続け、それで結果を出せば嫌でも好感度は上がるというものなのだが、その結果がこれではトレーナーの人生は最初から詰み在りきなのではないだろうか、トレーナーはそう自問して悲しくなってしまう。

「心配いりませんわ! これも全てトレーナーさんを守るためですもの、誰も咎めることなんてできません!」

 そんな彼の悲愴などつゆ知らず、彼女はるんるんと鼻歌を歌いながら左右に揺れている。守るって誰から、そう聞こうとしたトレーナーの口から、言葉の代わりのため息が出た。
 最近になってカワカミプリンセスからのスキンシップが激くなった理由には、心当たりしかないのだ。

(聞かれたよな、チーム設立のこと)

 ウマ娘は独占欲が強い。これはトレーナー間での常識だ。それでも、トレセン学園の運営都合で一人のトレーナーが複数のウマ娘を管理するチーム制を取り入れなければならない実情がある。
 身の丈3mを超える相手、しかも情緒不安定な思春期の彼女たちを指導しようなんていう人間は少ないのだ。生徒に対してトレーナーの絶対数が不足しているのはそれが主な原因だ。

 そんな事情があってさえ、複数人の面倒を親身になって見ろと言われれば拒否する者が多い。誰だって、独占力を発揮したチームメンバーたちに所有権を競う引っ張り合いで八つ裂きにされたくはない。
 しかも複数人のアスリートを成功に導くだけの技量と実績も求められるから、そもそもチームトレーナーになれる者も少ない。

 とかく、そういった事情がためにカワカミプリンセスと言う『猛ウマ娘』との三年間を無事乗り切り、同時に輝かしい実績を残した彼には、半強制的なチーム結成の要請を出されていた。
 先日、その話を事務員としていたときだろう。彼女は盗み聞きしていたのだ。ウマ娘の聴力ならば容易いことをよく知っているトレーナーは、それがここ最近の彼女がする奇行の原因だと確信していた。

 要するに、彼女から見た泥棒猫(他のウマ娘)から、トレーナーを守ると言っているのである。

(ここで変に暴走しない辺りは、本当に良い子なんだがなぁ……)

 ついには人間の頭を楽々と掴みあげられるサイズの手で、抱きかかえている愛しい人の頭をわしゃわしゃ撫で始め「わたくしだけの王子様~♪」と上機嫌になっている姫君に、セットした髪をぐしゃぐしゃにされた王子様はまた溜め息を吐いたのだった。

 しかし、三年間で彼女と様々な苦楽を共にしたトレーナーでもまだ、カワカミプリンセスの全てを知っているわけではない。天真爛漫でまだ情緒の幼さが残る彼女でも、ウマ娘の本能とも呼べる独占力はしっかり備えているのだと、このときはまだ気付いていなかった。

 ***

 事は突然に、グラウンドで起きた。

「プ、プリンセスなにをっ──」

「…………」

 たまたま偶然、知り合いのトレーナーが担当についているウマ娘とトレーニングについて話をしていたとき、最終直線を差し切るかのような脚で駆けてきたカワカミプリンセスがその勢いのまま無言でトレーナーを抱え上げ、グラウンドを突っ切り校舎内を駆け抜け、ロッカールームへと文字通りトレーナーを持ち込んでしまったのだ。

「流石にまずいよプリンセス、男の俺がこんなところに入ったって知られたら……!」

 行為の意味もわからず、抱えられたままろくに抵抗もできず男子禁制の更衣室へ運び込まれてしまい、彼は大いに焦った。このままでは性犯罪者扱い間違いなしである。
 その様子をただ見つめる姫君は、自身の抱きかかえられている王子様へ向けて口を開く。

「ど」

「ど?」

「どどどどどうしましょう!? やっちまいましたわ!?」

「ええ……」

 つい勢いで泥棒猫と仲良くしている(ように、カワカミプリンセスからは見えた)トレーナーを拉致してしまったが、その後のことは何も考えていなかったと、顔面蒼白でいつもの台詞をほざいた。
 あわわと慌てて「どうしましょうトレーナーさん!?」と喚く彼女へ、それはこっちの台詞だと言い返そうとした矢先、ロッカールームの出入り口がガチャリと開いて、がやがやとトレーニング終わりのウマ娘たちが入ってきてしまった。

 やばい、とトレーナーの顔も青くなる。男性トレーナーがウマ娘用の更衣室に入ったなどと周囲に知られれば、良くて懲戒免職、最悪は即逮捕である。しかも彼女たちウマ娘は鼻も耳も良く効く。普段はしない成人男性の体臭や身じろぎの音にも耳敏く気付いてしまうかもしれないのだ。

「と、トレーナーさん隠れてくださいませ!」

「ならまず降ろしてくれっ、いやそもそもどこに隠れれば……」

「ろ、ロッカーの中に」

「臭いでばれるだろうっ」

 カワカミプリンセスの足下でトレーナーがあたふたしている間に、入ってきた一団が近づいてきている。このままではまずい。かいた冷や汗の臭いで見つかりでもしないかと余計に焦り始めたところで、姫の表情がハッと閃きを得たことを露わにした。

「そ、そうですわッ、これでトレーナーさんを……!」

 途端、彼女の動きは早かった。ジャージの上着を急いで脱ぎ、それを広げて、むわっとした汗の臭いに一瞬戸惑い、意を決した表情でかがみ込んでトレーナーを捕らえる。

「なにをっ──」

「少しの辛抱ですから! 我慢してくださいまし!」

 思わず暴れるトレーナーを膂力と体格差で押さえつけ、ジャージで動けないように全身をぐるぐる巻きにして、顔まで汗まみれの布で覆い尽くす。そうして赤いジャージの団子を形成すると、ロッカーの中に安置した。

「む、むぐぐ……」

「ひとまず、これで臭いは大丈夫なはず……しばらくそこでお待ちくださいませ」

 身動きを取れなくされて、少女の汗が染みつく布に絡みつかれたトレーナーの前で、抗議の間もなくロッカーの扉がバンッと勢いよく閉じる。暗闇と担当の体臭に包まれたその直後、カワカミプリンセスとやってきたウマ娘が挨拶と軽い談笑を始めたのが聞こえだした。

(あ、危なかった……)

 微かに聞こえる会話からして、自分の存在に気付かれた様子はない。ほっと安堵の息を吐いて、吸った空気の甘塩っぱさに思わずうっと呻く。
 先ほどまで、この全身を包む巨大なジャージを着て自分の担当ウマ娘が全力疾走していたのだ。汗臭いのは当然ではある。しかし、不思議と不快感は薄かった。むしろどこか惹き付けられるような気分になってきて、思わず顔を左右に振る。変な性癖に目覚めそうで、別の意味で焦る。

 そうしている間に、外から衣擦れの音が聞こえてくる。プリンセスが着替えを始めて衣服を脱いでいるのだ。鉄扉一枚向こうで、年端もいかない少女が、その年齢に相応しくない豊満な身体を晒している。
 むちりとした太い腿を通ってブルマが脱がれ、豊満なボディを覆っていた薄い体操服が捲りあげられる。そんな様相が頭に浮かび、トレーナーは必死にそれを頭から霧散させる。

 更衣室のロッカーに閉じ込められ、少女の体臭に塗れた布で拘束されているその異常な状況が、トレーナーを危ない気分にさせてしまう。最後の一線を超えそうになるのを、鉄壁の理性で辛うじて堪える。

(落ち着け、心頭滅却、唯我独尊……あの子にそんな邪な想いを抱いてはッ)

 もう般若心経すら頭の中で唱え始めたときだった。扉の向こうで少女の「あっ」という、不覚を取ったような声が漏れて、少し間を置いてから、ぎぃっと眼前の鉄扉が開いて光が差し込んだ。

「えっ」

 思わず見上げた先は、ローアングルの絶景パノラマであった。
 ピンクのレース下着を上下につけ、必要な部分は豊満ながらもしっかりと均等の取れた正しく幼くも美しい”姫”の肉体をさらけ出した彼女が、羞恥心に顔を赤く染めて、三メートル以上の高さからこちらを見下ろしているのだ。
 その口元はどんと張り出したピンクのブラで遮られて見えないが、小さな声で「し、失礼します」と呟いたのが聞こえた。

(えっ、えっ、えっ?)

 突然担当の下着姿を見せつけられ、困惑で頭がいっぱいになるトレーナーの目の前で、姫はその巨体を屈ませる。それで迫ってきた二つの巨大なでっぱりが「うおっ」思わず慄いたトレーナーの頭上で一瞬静止して、見上げた顔の僅か10㎝先でぶるんと揺れる。

 トレーナーとジャージで作った団子の後ろにはスポーツバッグがあった。中には汗を拭くためのタオルと制服が入っている。そして周囲には他のウマ娘が着替えをしている。つまり、こうして周囲からロッカーの中を隠すようにして荷物を取らなければ、たちまちトレーナーの存在がバレてしまう。

 それでも彼女とて華の乙女、愛しの王子様に下着姿を見せるのは恥ずかしい。強い羞恥は冷静さを奪い、中々バッグの中から目当ての布を取り出せない。焦って動く度にトレーナーの頭3つ分近くはある膨らみが二つ、ゆらゆらと揺れる。

「あ、あらっ、どこに……」

「でっ……」

 頭上を跨いでいる巨体と巨大な二峰が揺れ続け、いけないことだとわかっていても視線を奪われ続けてしまう。ピンクの下着で隠されていないキメ細かい肌と健康的な肌色が、柔らかく動く身体の美しさを際立たせる。
 さらに肩から垂れてくる彼女の長い栗毛が、目の前の山が谷間で生成する強い体臭が、トレーナーへさらに強く姫の臭いを吸い込ませ、彼の理性をゴリゴリと激しく削る。

 それはもはや甘美な拷問であった。健全な成人男性の理性を試す、少女の無意識な地獄責め。

(は、早く閉めてくれ……!)

「あっ、ありましたわ!」

 懇願が届いたのか、カワカミプリンセスはようやく目当てのタオルと制服を発見し、スポーツバッグから引っ張り出した。そのまま上体が起こされて、理性を破壊し尽くそうとした魅惑のボディが離れていく。
 はぁっと大きく息を吐いて見上げた先で、プリンセスの恥ずかしがっているような、同時になぜか少し嬉しそうな表情が、閉じる鉄扉に遮られて見えなくなって、また大きく息を吐いた。

(あ、危なかった……色々な意味で)

 あのまま続けられていたら、身動きが取れない状態で男の尊厳が破壊されてしまうところであった。しかし、全身は未だに汗染みジャージで巻かれたままであり、その臭いはまだ鼻腔の奥を責め立てる。

「早く、出してくれないかな……」

 そのトレーナーの懇願も空しく、彼が開放されたのは周囲のウマ娘たちが捌けた三十分後のことだった。

 ***

 それから、さらにジャージごとウマ娘用のスポーツバッグに押し込められ、密閉された空間で散々姫の香りに浸されたトレーナーが解放されたのは、ウマ娘寮の一室。つまりはカワカミプリンセスの自室であった。
 ベッドの上に立つことでようやく視線の高さが近づいたトレーナーは、こほんと咳ばらいをした。

「……プリンセス、ウマ娘寮はトレーナー立ち入り厳禁なはずだけど、同室のシーキングザパールに怒られるよ?」

 全身からむわっとカワカミプリンセスの体臭がする錯覚を感じながらも、トレーナーは咎める視線を自身の担当へ向ける。しかし、彼女は逆にどやっと巨躯の大きな胸元を張ってみせた。

「パールさんは担当トレーナーさんと一緒に新婚旅行へ行ってますから、この部屋は先月からずっとわたくしの一人部屋ですの、だから誰にもバレませんわ!」

「しん、こん……?」

 おかしい。確かシーキングザパールのトレーナーは担当と共に再びの海外遠征への下見に行っているはずだが……以前先輩トレーナーである彼とメールでやり取りした内容と、担当の話が食い違っている。
 彼は少し考え込んだが、やがてそれについて思考するのをやめた。せめて、尊敬する先輩であるパール担当のトレーナーが無事に学園へ帰ってくることを祈る。

「この前も言ったけど、こういうのは一流の姫がするようなことじゃないよ」

「……もう、トレーナーさんは変なところで意地固ですわね」

「これは大人の男性として当然の──」

 こと、そう言い切ろうとしたトレーナーの口がプリンセスの長い人差し指で塞がれた。むぐっと呻く彼を、その指でさらに押して、ついにはベッドに尻餅をつかせてしまう。

 そこへぎしりと音を立てて、ベッドに両手をついた姫が迫る。その半分しか背丈のない小さな王子様は鬼気迫るものを感じてじりじりと後ずさるも、その真横にずんっと大きな手のひらが着地した衝撃でぽんと跳ねてしまって動きが止まり、ついには真上から宝石のような空色の瞳に見つめられて動けなくなってしまう。
 蛇に睨まれた蛙。ウマ娘に睨まれたトレーナーだ。しかも、その綺麗な瞳がうるんでいれば、もう逃げられない。

「わたくしはこんなにも、貴方様が愛おしいのに……どうしてわかってくださらないのですか?」

「それは、トレーナーとして……」

「プリファイでは、トレーナーとウマ娘は一心同体のパートナーでしてよ? それなのに、わたくしのたった一人の王子様なのに、わたくし以外を見てしまうなんて、どうしてそんな罪深いことをするんですの? トレーナーさんが望めば、わたくしは、その、なんだって……」

 何を想像したのか、急に頬を真っ赤にしてもじもじとし始めたプリンセスを見上げて、ようやく彼はこれまでの諸々についての答えを得た。
 ふぅと目を伏せたトレーナーは横にある大きな手のひらに、自身の手を重ね、あやすように撫でる。

「プリンセス、とりあえず電話だけさせてくれないかな、ちゃんと連絡はしないと」

「誰にするんですの? ……ま、まさかたづなさんにっ!?」

 チクるんですの!? ポケットに手を入れたトレーナーの胴体を思わず両手で鷲掴みにして制止するプリンセスに「ち、違う違う……」と猛烈な締め付けで呼吸困難になりながらも否定する。

「午後に打ち合わせが入ってたんだけど、キャンセルを入れるんだ……」

「え、それって……」

 はっとしたカワカミプリンセスの手が離れ、小さく咳き込んだトレーナーがその理由を簡潔に説明する。王子様の言葉を受けて、大きくも幼い姫はぽろりと涙を一つ落とした。

 ***

 関係各所に急用で向かえなくなったと連絡を入れ、謝罪と共に通話を切るを繰り返すこと数度。「これで最後」と携帯をしまったところで背後から伸びてきた腕に捕まり、本日何度目かの浮遊感に襲われた。

「こらっ、いきなりは驚くよプリンセス」

「だってだって、トレーナーさんが今晩一緒にいてくださるなんて、わたくしとっても嬉しいんですのよ!」

「消灯前までだけどね」

 少し目元を赤くした彼女はもう上機嫌も上機嫌で、レースで勝ったときと同じくらいの浮かれ具合で胸元に抱き寄せたトレーナーごと部屋の中心でぐるんぐるん回る。目を回しながらも、トレーナーは先ほど彼女にした話が的を得ていたのだと確信した。

(要するに、寂しかったんだな)

 カワカミプリンセスの同室であるシーキングザパールは彼女の良き理解者であり、何度もメンタル面で支えになってくれた先輩である。それがもう一ヶ月以上不在で、そんな中でトレーナーが他のウマ娘に取られるかもしれないとなれば、

(多感な思春期乙女は、暴走するわけだ……)

 であれば、その寂しさを解消してあげれば自然と落ち着きを取り戻すはず。そう考えたトレーナーは提案したのだ。

「それじゃあ久しぶりにプリファイ鑑賞会をしようか、プリンセス?」

「ええ! 一話から一気見でしてよ~!」

 るんるんと再生機器を用意し始めた彼女の笑顔を見て、トレーナーは安心の笑みを浮かべた。そこには独占欲とは無縁の、以前と同じプリファイを愛するカワカミプリンセスの面影があったからだ。

 ***

「さて、そろそろ帰ろうかな……プリンセス?」

 約束の夜8時、プリファイを見終えて消灯も近くなったのでこっそりトレーナー寮へ帰ろうとしたのだが、その付き添いをするはずのカワカミプリンセスから返事がない。
 彼女は立ち上がった彼を見つめて、にこにこと笑みを浮かべるだけだ。その顔は少し朱色を帯びていて、それはトレーナーもレースで時折見た覚えがある。ウマ娘の特徴的な反応だ。

(……まさか)

 ちらりと、再度出口の方を見る。そこにある扉はウマ娘規格で作られたものであり、人間用の扉やノブはついていない。
 トレセン所属のウマ娘が暮らしている寮はトレーナー立ち入り厳禁、つまり人間が立ち入ることなど想定も考慮もされていないから当然であろう。そして扉を開けるためのドアノブは遙か上にあり、つま先立ちになっても跳ねても掴んで回すことなど叶いそうにない。

 そも、どうにかしてノブに手が届いても人間の腕力ではびくともしないのだ。ウマ娘が扱う前提の調整がされているのだからそれは当然なことで、人間に動かせる代物ではなかった。

(これは、プリンセスが満足するまで帰れないな)

 はぁとため息をつき、もう少し姫のわがままに付き合おうかと振り向いた途端、柔らかく暖かい感触に全身が包まれる。抱きしめられたのだとトレーナーが理解し、小さな耳に姫君が囁いた。

「今夜は帰しませんわよ? わたくしだけの小さく可愛い王子様♡」

 それでようやく思い出す。あの表情は興奮と緊張による“掛かり”が起きている症状だと、脳裏に『!掛かり』の表示が出たがもう遅い。
 二倍体格差の独占力増し増しウマ娘に捕まったトレーナーの末路は大抵同じである。一方的に愛されて、潰されて、その矮小な身体に刻まれるのだ。

 “人間がウマ娘に勝てるわけがない”と──

 この後、結局自室へと帰してもらえず抱き枕にされたトレーナーが、自分よりも長く重たい足に巻き付かれて悶絶したり、深い谷間に顔を押し込まれて窒息しかけたり、寝ぼけた姫の全力ハグで締め上げられたりしたのだが、それはまた別の話。

 窓から入る月明かりだけが照らす部屋で、気絶するように眠った王子様に姫は呟く。

「これからもずーっと一緒ですわよ、わたくしのトレーナーさん♪」