ウマ娘のレースにおいて度々使用される『バ身』という単位がある。これはウマ娘とウマ娘の間にどれだけの距離があるかを表すのに用いる単位であり、これをメートルに直すと約2.5メートルとなる。

 この単位が何を基準に生まれたのかと問われれば、ウマ娘に深く携わり、彼女たちと常日頃から密接に関わり過ごしているトレーナーならば誰でも知っていて答えられるし、何なら実感もしている。

「カフェ……そろそろ離してくれても」

「ダメです……」

 担当である少女の膝に乗せられたトレーナーが懇願と共に身動ぎするが、それを止めるように優しく、しかしとてもヒトでは抗えない膂力でしっかり抱きかかえる漆黒のウマ娘、マンハッタンカフェ。
 彼女からすれば並んでも自身の胸元にも届かない、身長170センチしかない小さな彼を抑えておくことなど容易なことで、細身ながらも座高130センチ以上の身体でぎゅうと抱きしめてしまう。

 彼女、マンハッタンカフェの身長は約250センチあり、つまり2.5メートルである。これが1バ身という単位の基準、ウマ娘の平均身長なのだ。平均身長170センチ前後の男性など簡単に捕まえられるし、軽トラック程度なら一人で持ち上げてしまう彼女らからすれば、膝に乗ったトレーナーなどまな板の上の鯛に等しい。

 本来、マンハッタンカフェはトレーナーに対して力尽くの実力行使を行うような気性のウマ娘ではない。掛かってしまったウマ娘が己の担当トレーナーに対し、過剰なボディタッチなどのスキンシップをしてしまうケースもあるにはある。だがカフェはそういったことをする類いとは正反対に位置する、おとなしい娘である。

 ではどうして、二人きりのトレーナー室でソファに腰掛け密着し、無駄とわかりつつも逃れようとする彼を抱きしめて膝の上に留め、自身の制服に押しつけるようにしているのか。その原因は彼と彼女の体質にあった。

「もう変な音も揺れもないし、よくないものは立ち去ったんじゃないか? だから離して……」

「だめです……彼女らの執念深さを、甘く見ては、いけません……」

 事の発端はいつもの霊障騒ぎだった。どうにも『よくないもの』を引き寄せやすい体質のトレーナーが、彼には見えないがウマ娘の霊らしきものにまとわりつかれていたらしい。

 そう語ったカフェの行動は素早かった。「なんだいつものか」と暢気にしていた彼を素早く抱え上げ、戸惑うまま運ばれる彼ごとソファへ腰掛けた。そして大きな身体で包み込むように、外界から遮断するように両腕を細い胴体に巻き付けてしまった。
 その上から彼の頭頂部を覗き込むようにすれば、長い長い黒髪がベールのようにトレーナーの視界も覆い尽くしたのだ。

 そうした途端、それまで何もなかったトレーナー室の扉から窓から動かせる物体がカタカタと音を立てて揺れ始めた。
 まるで見えない何かが怒っているかのように、嫉妬しているかのように、『私にも寄越せ』と主張しているかのように、霊障による主張が一時間ほど続いて、ようやく怪奇現象が収まったのだ。

 だというのに、未だにカフェはトレーナーを身動きを封じて離そうとしない。霊を見ることができない彼は、見えない範囲にまだ霊がいるのかと思い彼女に尋ねても、返答に要領を得ない。推測するに霊そのものは近くにいないようだが、カフェは過剰なほどに警戒してしまっているようだとトレーナーは感じた。

(別段、困ることもないけれど……いや、年頃の娘とべったりくっつくのはまずいかな……?)

 指導者としてはどうかという考えもあったが、それでも彼女であれば良いかと、トレーナーは許容した。
 今は柔らかい女子特有の香りと微かに感じるコーヒーの残香に包まれながら、三年間連れ添った担当ウマ娘が満足するまで抱擁されるのも悪くない。トレーナーは抵抗をやめて彼女の細い身体に身を預ける。

「やっと、納得してくれましたね」

「たまにはこうやって休むのも悪くないかもと思ったから」

「そうですね、トレーナーさんはいつも精一杯頑張って、私を支えてくれていますから……その小さい身体で、いつもいつも……だから、ああいったものが寄ってきてしまう」

「その子たちも、担当がほしかったのかな」

 そうかもしれません。答えたカフェはトレーナーの身体にまわしていた腕の拘束を緩め、彼女たちからすれば小さく、貧弱で矮小な、愛しい身体をゆっくりと撫でる。「くすぐったいよ」細やかな抗議も受け流して、ただ無言で彼の胸元から腹部まで、それはまるでマーキングのようで、服か身体に染みついたコーヒーの香りを移そうとしているようだった。

「重くないかい?」

「トレーナーさんくらいの重さなら、普段使っているダンベルより、軽いので……」

「愚問だったね」

「……しかし、身体への負荷という意味なら、かかっています」

「え?」

 どういうことかと聞き返そうとしたトレーナーの視点が横にまわった。それがカフェの腕力によるものだと理解したときには、彼女の上で横を向かされていた。側頭部、ヒトの耳がある部分にそっとカフェの細く長い指先が触れて、ゆっくりと優しく、けれど決して勝てない力で彼女の薄い胸元へ頭を押し当てられる。

 薄くてもしっかり存在する二つの膨らみにどきりとし、少し遅れて聴覚に大きな鼓動が聞こえてくる。ヒトよりも倍近く大きく強靱なウマ娘の心臓、最長3000メートル以上を時速60キロで疾走することを可能にするその臓器が、まるでレース直後かのように力強く脈打っていた。

「……私、少し興奮しているんです。アナタとこんな風に触れ合っていると、レースが始まる直前の緊張感と、レースが終わった直後の興奮が同時に、私を支配して、少しおかしくなりそうになります……だけど、嫌な感覚では、ありません」

「カフェ……?」

 彼女にしては珍しく饒舌な喋り、その語気が段々と強く、早くなっている。そう認識するのと同時に、トレーナーの頭を撫でていた彼女の手指にぎり、と力が入った。カフェの胸により強く圧迫され、どぎまぎよりも痛みが勝って呻く。

「ど、どうしたの、ちょっと苦しい……」

 流石にこれはと、抗議の意でもぞもぞとトレーナーが身を捩る。その度にカフェの口から小さく喘ぎが漏れて、カフェの鼓動が早まる。興奮が強まっている。掛かってしまっている。

 これはまずいとヒトが気付いたときにはもう手遅れだった。無駄な抵抗を続けるトレーナーを抱き潰してしまおうとしているのではないかと言うほど、彼女の両腕が小さい身体を締め上げて、少しでも密着し合おうと努力し始める。

 掛かったにしても明らかに様子がおかしい。霊障に当てられて不調を起こしたことはこれまでもあったが、その類いか、「カフェ?」訪ねようと名前を口にしたトレーナーの声は、ぐぇっという悲鳴に取って代わった。

「この三年間、アナタは私に多くのものをくれました……私はもう、アナタがいないこの先なんて想像もできない……それだけ、私はアナタに執着してしまいました」

 だから、あんな邪な存在が近づいてくるようになった。カフェの白い面に複雑な表情が乗る。自嘲しながら強い憤りを感じている。そんな歪んだ笑みのまま「痛い、痛い」と悲鳴をあげる彼の頭に頬を寄せて、男性らしい黒髪の臭いに頬を染める。

「ですから、こうしてより強固に、守らないといけなくなりました」

 霊は生者の執着するものに執着する。ただでさえ彼ら彼女らに好かれやすいトレーナーがしつこい悪霊に付け狙われるようになった原因は、カフェ自身がよく理解していた。
 守るべきものに執着すればするほど、付け狙われやすくなってしまうジレンマ。しかし、だからと彼を手放すという選択肢を選ぶことはあり得ない。

「……ッ、カ、フェ……!」

 手放さないならば逆のことをすれば良いのだ。彼が誰のモノか、やつらに見せつけてやれば良いのだ。容易く剥がれないほどに体臭を擦り付けて、犬猫がするように所有権を主張し、警告してやる。そのつもりでカフェは抱擁への腕力をさらに加えた。

「これは、アナタのために、必要なことですから……」

 彼から漂う臭いを求めてすぅと大きく吸い、恍惚とする。守るために必要な行為というのは事実だが、乙女心を満たすための建前でもあった。彼の短い黒髪に頬をすりすりと当てて、彼の毛並みを楽しむ。

 そんな些細な動きすら、小さなヒトを圧縮するには十分な手伝いになっていた。より嗅覚を刺激する彼女の体臭と柔らかい少女の感触、それによって圧縮される痛みに蹂躙されて、トレーナーの情緒はぐちゃぐちゃになりそうだった。

 もう声を出すことすらできない。頭蓋骨が横向きに潰されてしまいそうで、上半身は胴体と腕に挟まれて身動きもとれない。唯一足だけがバタバタと抵抗の意思を表しているが、1.5倍の体格差を持ち鍛え上げられたマンハッタンカフェというアスリートの体幹を前にしては、上体を揺らすことも叶わない。

 酸欠の魚のようにぱくぱくと口を動かす彼の仕草に、黒いウマ娘はくすくすと嗤った。
 自分を導き、トレーナーとウマ娘という関係以上に、これまでの三年間でカフェは彼という存在に救われてきた。そうして心を軽くしてくれた頼れる恩師であっても、勝てないのだ。十歳は年下のウマ娘に、成人男性であっても、人間がウマ娘に勝てるはずがない。

 こうして抱けばはっきりわかってしまう。あんなに頼りになる彼も、実際はこんなに小さくか弱い存在なのだと、たかが十代の少女に抱きしめられてささやかな膨らみに顔を埋めただけで、呼吸を阻害され逃げることもできなくなる。
 成人した大の大人でもこうなってしまうのならば、より強い存在であるウマ娘が守らなければならない。そう改めて認識させられたとばかりに笑う。

「……苦しいですか? 痛いですか? でも、こうしてアナタに私の存在を擦り付けてないと、彼女たちが私と誤認するくらい匂いと体温を移さないと、次は守れないかもしれませんから……だから」

 我慢してくださいね。ウマ娘として細い彼女よりも細く脆い胴体がさらに腕ごときつく締められる。右腕が嫌な音を立て、圧迫された肺から空気が抜けて、細い喉からかひゅっと息が漏れた。その喉が再び空気を吸うことは許されず、彼女の腹部と己に挟まれ続けた左腕はすでに痺れて感覚がない。

 すでに酸素と体力が尽きて暴れなくなった足はびくびくと痙攣するだけで、やっとおとなしくなってくれたとカフェは笑みを強める。それでも力は緩めず、締め上げながら腕を揺らして彼の顔を胸に擦りつけて、敏感な部分へ下着越しに当たった微かな刺激に「んっ……」と声を漏らす。白い頬が赤くなり、性的興奮が理性を崩そうと責め立ててくる。

「……時間があれば、ジャージか体操服に着替えてからにすればよかった、ですね」

 厚手の制服が煩わしくてしかたがない。
 触れ合う肌面積が足りないことがもどかしい。
 もっと互いの体温を近づけて混ざり合いたい。

 彼女の本能がもう少しでも理性を上回っていたら、今頃は制服を脱ぎ捨てた半裸でこうしていただろう。けれど、それはまだ恥ずかしいし、何よりそうしてしまったら“マーキング程度では止められない”。

 彼女が嫌悪する悪霊のように、彼の全てを味わい、食らいつくし、満たされ混ざり合うまで止まれなくなってしまう。最後の理性がそれだけはいけないとカフェを留め、代わりに、

「これは、悪い娘を近づけないようにするための、処置ですから……」

 すでに意識朦朧なトレーナーに対してか、あるいは自己保身のためか、そんな言い訳を口にしながら、カフェは腕の中の小さく愛しいヒトを抱きしめ続ける。せめてこのくらいは許されたいと言うように、いやこれが理性を崩壊させないために必要なことなのだと主張する。

「気を失ってしまったら、すぐ起こしてあげます。私を知覚できるようになったら、また、こうやって私の臭いと体温を、アナタに移して、感じさせて、彼女たちは寄りつかなくなるまで、全てを私の黒で混ぜて、アナタの全てを呑み込み、受け入れて、ずっとずっと一緒になれるように……」

 でなければきっと、アナタはすぐに憑り殺されてしまうから。
 それは二人の共通認識であるから、ウマ娘の巨体で苦しめられても、歪んだ愛に潰されても、トレーナーは彼女から離れることはできない。それは当然、マンハッタンカフェも理解している。

 だから、どれだけ強く強く愛して壊れかけても、このヒトは私から逃げることはできない。そう理解した上で、愛しい彼の身体を軋ませていく。

(嗚呼……悪い幽霊は……)

 私自身かもしれませんね。また自嘲するように頬尻を歪ませた漆黒のウマ娘は、気絶した愛する人の寝顔に接吻をした。所有物に対する目印をつけるように、赤い印を頬へ残したのだった。