「なんですかー…?これ…」

新進気鋭のアイドル事務所、283プロダクションに所属しているアイドル、田中摩美々。

気だるそうに呟く彼女の目の前には手のひら程の大きさがある赤いボタンが置いてあった。

それにはでかでかと『1億倍』という文字が書かれていて、ボタンの側には『絶対に押さないでください』と書かれている張り紙がされてあった。

一体何のボタンなのか誰かに聞きたかったが、まだ事務所には摩美々以外誰も来ていないようで、そういう訳にもいかなかった。

こういう変な物を置く時は流石にチェインで知らせてくれるはずだが、このボタンに関する連絡は摩美々の記憶にはなかった。

「ほんとに何なのこれー…」

何の予告もなく置かれていた謎の物体に対する不安はじわりじわりと募っていく。

考えているうちにふと、プロデューサーが普段のイタズラの仕返しにと置いたのではないかと思い、ボタンの周りを調べ始める。

だが何処かにコードが繋がっているわけでもなく、側面からスピーカーの穴のようなものが空いているのが見えるくらいで、調べれば調べるほど何の変哲もないボタンということが証明されていく気がした。

次第に不安は薄れていき、結果、摩美々の中で(このボタンは押しても特に何も起きない)という考えに至った。


「ふふー、何も起きないなら別に押しても良いですよねー?」

押してはいけないと書かれた貼り紙を剥がし、摘んだ紙に話しかけるように呟くと、もう片方の手を赤いボタンに伸ばし始める。

「1億倍って意味が分かりませんよねー」

ニヤニヤしながらゆっくりと手の腹を押し付け、ボタンを押す。

「はぁい、1億ー」

押した瞬間、『ピチョンッ…』とスピーカーから音が流れ。



今まで見えていた事務所の室内はどこへいったのか、全く見知らぬ暗闇にいることを遅れて理解する。

「…えっ」

突然の出来事に思わず声を漏らす。
いくら周りを見渡しても暗闇が広がっている。
完全な真っ暗闇ではなく、実際は所々が瞬いていたのだが、困惑する摩美々にとってそれはどうでもいいことだった。

どこまでも広がる闇に言い表せないような不安が募り始めた摩美々は、ふと下を向くと小さな球体が浮かんでいるのに気づく。

顔を近づけ、青と緑で大部分が構成されたそれを観察しようとする。
ものの数秒でその正体に気づき、それを口に出した。

「これ、地球…?」


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忽然と現れた果てしない大きさの巨人に人類もまた困惑していた。

空想の世界の巨人達はせいぜい数十メートルの大きさで、それが常識となっていた。

しかし、目の前に出現した巨人はどの建物どの山脈と比べる事すら烏滸がましいほどの巨大さであり、速報で伝えられた巨人の推定身長はなんと16万キロメートル。

地球の十数倍ほどの大きさがあることが判明し、一瞬のうちに全人類が絶望に包まれた。


「…......ええっっ」

こちらを見てさえない、なんて事ない呟きでさえも絶対的な大きさの差では凶器となって降り注ぐ。

超巨人と人類とは感じる時間の流れに差があるようで、ほんの短い一言でさえも長い間人類に牙を剥くことが身に染みて分かった。

超巨人の口が開いてから地表に声が届くまでの長い間、人類はいつ襲ってくるかも分からない爆音に怯えながら耳を塞ぎ続けることとなった。


人類全てが超巨人からこの惑星が認識されないことを願うも、その思いは虚しく超巨人は徐に顔を近づけ始める。

空いっぱいの巨体から空いっぱいの顔へと景色が変わり、迫る風圧で脆いビルは崩れ、人々は地面に押さえつけられた。

近づくや否や、どの大陸よりも遥かに巨大そうな二つの瞳がギョロッ…ギョロッ…と地球を舐め回すように観察し始める。

それほど時間が経たないうちに口が開かれ、声に怯える微生物達は揃って必死に耳を塞ごうとする。

しかし、迫る音波は先程とは比較にならないもので。

「これ……ちきゅうう……?」

超高層ビル群がなす術なく粉々に破壊され、宙に巻き上げられる。

その一言はどう技術を駆使したとしても人類に耐えられるものではなく。
声が直撃した大陸の住民、漏れなく全てが死滅した。

大気圏にまで巻き上げられた建物の残骸は超巨人の呼吸に吸い込まれ、埃としても認識されず人類が作った建物全てよりも巨大そうな鼻毛の柱が聳える森に閉じ込められた。

当然、吸い込まれた時点で生存している人間は存在していなかったが、もし存在していたとしても呼吸に巻き込まれ、とても無事ではいられない。

たった一言、向かって発しただけで、超巨人は残った人類にその行く末を案じさせた。

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「ちっちゃ……」

小さすぎる地球に驚きながら、摩美々は指を地球に触れさせる。

小さな球を軽く掴むように広げた手の5本の指が地球に触れた瞬間、指先に細かな感触が伝わり、感触を楽しむように思わずそのまま指を滑らせる。

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地球の殆どを一瞬にして覆った超巨人の爪先が同時に降り立ち、その想像を絶するような衝撃波があまりに小さな文明を蹂躙する。

巨人から見て爪先でほんの少し触れただけであっても、小人から見ればそれはあまりに深く。

ほんの少し刺さった爪を無意識に持ち上げる、たったそれだけで多くの街や国までもが共に地盤ごと持ち上げられてしまう。

あまりの勢いに、爪先が止まった頃には街や国は壊滅し、広大な爪先に付着するただの土塊と化してしまっていた。

その後、巨人が微細な山脈や文明が織りなす細かな凹凸を感じるために軽く指を滑らせ、結果いくつもの国が消え去り、ただ深く落ち窪んだ茶色の地面を残すだけとなった。


「…というか、早く戻りたいんですケドー…」

目の前の小さな地球よりももっと気にしなければならないことを思い出し、ついさっきまで優しく触れていた小さな球をギュッと握り潰す。

46億年の歴史は、1億倍サイズの手のひらの中で呆気なく爆ぜ散った。

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地球が爆ぜた瞬間、彼女は元の場所に戻っていることを認識する。

ついさっき押したはずのボタンは目の前から消え失せ、跡形も無くなっていた。

「結局、何だったんだろ…」

何がなんだか分からずそう漏らした後、摩美々は手のひらの中に何か入っていることに気がつく。


ストラップのようなそれは、少しの土が付着している赤いボタンのようで。

中央には『1億倍』と書かれていた。