北郎少年の冒険(サブタイトル:妙な数日間)・その4

by JUNKMAN


僕は小泉杏奈のパンティーの中で、まんじりともできない一夜を送っていた。
あれはただの脅しなんかじゃない。
逃げているところを見つかったら、本当に殺されちゃうと思う。
じゃ、ずっとこのままでいるか?
いや、それでも逃げるぞ!
このままここにいたって、散々なぶりものにされたうえに、結局いつかは殺
されてしまうに決まっている。どうせ殺されるんだったら、さっさとやられてしまう方がまだましさ。
明け方が近づいた頃、僕は意を決して杏奈のパンティーから這い出した。
抜き足、差し足・・・気づかれなかったかな?
幸い杏奈は大股広げたまま眠っている。
なんだ、寝ぼすけだなあ。
これなら楽勝だ。
僕は布団を伝ってベッドから床に降り、ドアの隙間をくぐって廊下に出た。
ふう、とりあえず部屋からは脱出したぞ。さあて、これからどうしようか?僕は廊下の真ん中で考え込んだ。
その時、杏奈の部屋のドアがばたんと開いた。

「先輩・・・逃げましたね。そこにいるのはわかってますよ。」

頭の中が瞬時に真っ白になった。
まずい。ばれちゃった。
やっぱり踏み潰されるのかなあ?
ずうううん。ずううううん。ずうううううん
地響きを伴った足音が迫ってくる。
だめだ。
僕は杏奈に背を向けたまま観念してその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。
ずううううううん。
・・・
大音響を発して、巨大な素足が僕の目の前に着地した。
僕は指の隙間からこわごわとその目の前の巨大な踵を見る。
目の前の・・え?目の前?・・じゃ、僕を跨いで行っちゃったの?
そう、杏奈は通り過ぎて行ってしまったのだ。

「先輩、早く出てきて下さい。隠れていると、後でいいことがないと思いますよ。」

そうか、まだ薄暗がりだから、杏奈は僕が見つけられなかったんだ。
チャンス!
僕は急いで、でも足音を立てないように注意しながら、廊下の隅に避難した。

「先輩、ここにいらっしゃるんでしょ?そんなに遠くへは逃げられないはずだ
わ。出てこないんですか?じゃ、ゆっくりと探しますよ。見つかったらどうなるか、知らないですよ。」

そんなこといって、僕が自発的に出ていっても、どうせひどくいじめるんじゃないか。僕は廊下の壁を背にして凍り付いていた。

「くくく、どうせ壁際に貼り付いているに決まっているわね。」

杏奈はしゃがみ込んで、廊下の壁づたいに僕を捜し始めた。
まずい!
これではいずれここにいることもばれちゃう。
でも、もう移動できない。
今、動いたら、やっぱり場所を教えることになっちゃうからな。

「せんぱあい、どこにいらっしゃるんですかあ?くくくくく」

杏奈の巨大な姿がすぐそこまで迫ってきた。
もう見つかるのも時間の問題だ。
絶対絶命!
そのとき、僕が背にしていた壁が大きく内側に開いた。

「杏奈、こんな時間に何やってるの?」

聖奈さんだ。
優奈ちゃんと杏奈のお姉さんだ。
よし!
僕は開いた扉の隙間から聖奈さんの部屋に逃げ込んだ。

「え、な、なんでもないわ。その、そう、廊下にヘアピンを落としちゃったんで探してたの。」
「ヘアピン?」

廊下の外では杏奈と聖奈さんがまだ話し続けている。

「そんなの夜が明けてからゆっくり探せばいいでしょ。」
「う、だ、だけど、き、気になって、眠れないのよ。」
「私はあなたの声がうるさくて眠れないわ。明日から日勤深夜なんで、今晩眠れないと大変なのよ。だからあなたももう寝なさい。」
「でも」
「寝なさい!」

聖奈さんは声を荒げた。さすがに今度は杏奈も逆らうことはできないようだった。

「そうそう杏奈」

ふいに聖奈さんは声のトーンを落とした。

「ひとり遊びもいいけど、もうちょっと声を小さくしなさい。よく聞こえたわ
よ。はしたない。」 

*****

聖奈さんの部屋に入ってから考えた。
これからどうしよう?
聖奈さんに助けてくれってお願いしてみようかな?
・・・だめだ。止めた方がいい。
だってあの2人のお姉さんだぞ。これまた僕に凄い意地悪をするかもしれないじゃないか。
こんな家、できるだけ早く脱出しよう。
そのためには・・やっぱり聖奈さんにくっついて一緒に出勤するのがいちばんだな。
薄暗い中で辺りを見回す。
ベッドの傍らにハンドバッグらしいものがあった。
出勤のときにはこれを持っていくに違いない。
よし。じゃ、先回りしてこの中に隠れていよう。
そうすれば今朝みたいに寝過ごしちゃっても確実にこの家から脱出できるぞ。
僕は半開きになっていたそのハンドバックの中に潜り込んだ。
ハンドバッグの中には細々としたものが沢山つまっていた。
さて、一寝入りしたいけど、ベッドの替わりになるようなものはないかな?
お、これなんかふかふかしていいな。なんだろ?
・・・せ、生理用品だ。
危ない危ない。こんな中に埋まって寝ていて目を醒ましたら使用中だった、なんてことになったら大変だもんな。読者は喜ぶかもしれないけれど。
で、これは何だろう?
ポケットティッシュだ。こっちの方が安全だな。
僕はポケットティッシュのパックの中に潜り込んで、ようやく安心して眠ることができた。
こびとにされてから2晩め。今日は波瀾万丈の一日だったなあ。

*****

ぐらりという大きな振動で目が醒めた。

「行って来まあす。」

聖奈さんの声だ。
今、出勤するんだな。まだ朝早いのに。やっぱり僕は寝過ごしちゃったよ。あらかじめハンドバックの中に隠れていて正解だったなあ。
電車やバスを乗り継いで、聖奈さんは受毛大学の附属病院にやってきた。
そうか、聖奈さんは看護婦さんだったのか。
でも受毛大学附属病院ってのはラッキーだぞ。
だって僕の家のすぐそばだもんね。
ここからなら隙を見計らって逃げ出せば、きっと自力で家にたどりつけるよ。
ロッカールームに入ると、聖奈さんはハンドバックをロッカーの棚に置いた。
そして私服から白衣に着替え終わると、ばたんとロッカーの扉を締めて行ってしまった。
よおし、チャンス到来。じゃ、とりあえずここから抜け出そうかな。
そう思ってポケットティッシュから身を乗り出そうとすると、再びロッカーの扉が開いた。

「そうそう、ティッシュは白衣のポケットに入れておかなくちゃ。」

聖奈さんはハンドバックに片手を突っ込んで、僕の隠れているポケットティッ
シュを鷲掴みにすると、無造作に白衣のポケットにねじ込んだ。

「聖奈さあん、朝食の配膳手伝ってえ。」
「はあい」

聖奈さんがどたどたと歩き出す。僕はその白衣のポケットの中に閉じこめられてしまった。
あーあ、これじゃ家に帰る計画は、またしばらくお預けだあ。

*****

聖奈さんは、トレイに載った患者さんの朝食を電子レンジに入れてチンして
る。
ぷうんと美味しそうな匂いが漂ってきた。
ええと、これはクリームシチューの匂いだな。む、この香ばしい感じは揚げ物も一品ついているに違いない。
ぐるるるる
お腹が空いたなあ。
そういえば、一昨日の晩から何にも食べてないんだ。
ああ、食べたいなあ。
家に帰るのはひとまずおいといて、何とかしてあのごはんを食べる方法はないかなあ・・・って、無理か。
聖奈さんに見つからずに白衣から出てあのトレイに行くことなんてできっこないよね、奇跡でも起こらない限り。
・・・ところが、奇跡って、意外と起こるものだった。
聖奈さんは自動ドアで遮られた狭い部屋に入ると、棚の上に朝食のトレイを置き、そして何を思ったのか白衣を脱ぐと手ぶらでカーテンで遮られた更衣スペースに行ってしまった。
やったあ!千載一遇。
ごはんは患者さんの部屋に直接持って行くんじゃなくて、この棚の上に置いておくんだね。しかもご丁寧に僕をそのすぐ隣に置いてくれるなんて、ついてる
なあ。
僕はポケットからトレイの上に這い出した。
うわあ、凄い!美味しそうなごちそうの山だ。
やっぱりクリームシチューだったよ。揚げ物はコロッケかな?温野菜もついてるね。それにレーズン入りのロールパンとパックの牛乳だ。朝ごはんの割にカロリー高いね。しかもこんなに沢山あるんだ。全部食べると太っちゃうよ。だから、僕がちょっとだけ食べてもいいよね。へへへ。いただきまあす!とりあえず、まずはこのロールパンから・・
そのとき、大きなマスクをかけた聖奈さんがガウンを羽織って更衣スペースか
ら戻ってきた。
ひゃあ!もう帰って来ちゃったの?
まずいなあ。
僕は慌ててロールパンの陰に隠れた。
でもここじゃ見つかりそうだぞ。
そうだ!
僕はロールパンの皮に両手で大きな裂け目を作り、そこからふかふかな内部に潜り込んだ。
これなら見つからないだろう。それにまわり中が美味しいパンだから、僕も隠れながら朝ごはんの続きができるよ。へへ、いいアイディアだろ?
もしそのまま聖奈さんが行き過ぎてしまっていれば、それは確かに良いアイ
ディアだったのだと思う。
だけど聖奈さんは、僕の隠れている朝食のトレイをむんずと持ち上げてしまったのだ。

*****

「おはよう、早川さん。
「おはようございます。」
「もう、顔は洗った?」
「うふふ、やだなあ、もうとっくに洗いましたよ。」
「あらごめんなさい。じゃ、はい、朝ごはんよ。」
「はあい。」

僕は朝ごはんのトレイごと、更に奧の病室に運ばれていた。
声を聞く限り、患者さんは女の子みたいだな。
そうか、やっぱり食事は直接病室に運ばれるんだね。
そう考えたところで、背筋が冷たくなった。
と、いうことは、僕は今まさにこれから朝ごはんを食べようとする患者さんの前に置かれたロールパンの中にいるんだ。
ど、どうしよう?
このまま隠れてたら食べられちゃうぞ。だけど、この状況で逃げ出すことは不可能だ。だって目の前にその患者さんがいるんだもの。
困ったぞ。八方塞がりだ。
思い悩む僕を後目に、「早川さん」と呼ばれた患者さんは食事を摂りはじめた。
かちゃり。
ぺちゃぺちゃ、もむ。
これはシチューだな。
かりかり、もむもむ、ごくん。
あ、今度は揚げ物を食べたね。いいなあ。
「早川さん」はごはんを食べ続ける。
・・・だけど、いつまでたっても僕の隠れているロールパンは持ち上げられない。どうしてかなあ?

「・・・あーあ、ダメだわ。どうもレーズンって好きになれないのよね。残し
ちゃおうかな?」
そうか、レーズンが嫌いだったんだ。
やったあ!!
残していいよ。いいともさ!
そしたら僕は残ったパンと一緒にこの部屋から下膳してもらって、その後は
なんとか家にたどり着く算段を考えるぞ。
僕は躍り上がって「早川さん」がナースコール越しに聖奈さんと話す声を聞いた。

「ぷち。はあい」
「あ、食事、終わりましたあ」
「ちゃんと全部食べた?」
「え?あ、あのう、パンを残しちゃいました・・」
「あら、どうして?」
「・・・レーズンが苦手なんです。」
「だめよ好き嫌いしてちゃ。何でも食べないと体力がつかないわよ。ちゃんと残さずに食べて!」
「・・・はあい」
「じゃ、パンを食べ終わったころにしにいきますからね。ぷち」

せ、聖奈さん、余計なことはいわないでよ!ほんとうにこの姉妹は揃いも揃って意地悪なんだからあ・・・
僕は頭を抱え込んだ。
そのとき・・・ああ、ロールパンが、僕の隠れているロールパンが空中高くに持ち上げられていった。

「しょうがないわ。確かに好き嫌いは良くないわね。我慢しなくちゃ。」

我慢なんかしなくていいよ!
僕はパンの皮の裂け目からこわごわ外の様子を窺った。

「あーん」

僕の目の前に、ぱっくりと大きな口が広がっていた。
ぐんぐん近づいてくる。
ダメだ。
食べられちゃう!
僕は思わず大きな声を出した。

「やめて!食べないで!お願いだ!食べないでよお!!」

声を出したとき、僕の身体はもう真っ暗な口の中に入っていた。
一抱えもありそうな大きな歯が降りてきて、僕の身体をぐしゃぐしゃに押しつぶしてしまう、と思った。
でも、幸いなことに口は閉じられず、僕は再びロールパンごと口の外に出してもらった。
良かった、気づいてもらえたらしい。

「だあれ?誰かいるの?」

そのかわり、「早川さん」という名の女の子はパンの中を注意深く覗き込んできた。
もう、隠れているわけにはいかないだろう。
僕はパンの皮の裂け目から頭を
出した。

「・・・僕だよ。」
「あ!・・・こ、こびと・・」

ネグリジェを着た女の子が、僕を見つけてびっくりしていた。
僕と同い年くらいかな。髪の毛は肩くらいまで。痩せ気味で透き通るほどに色白だ。もちろんすごく大きい。でも・・でも、可愛いなあ。こんな可愛い子は見たことないぞ。
小泉杏奈なんて問題にもならないよ。
・・・そんな可愛い子が、また小泉杏奈みたいに僕をいじめるんだな。
僕は杏奈の部屋で過ごした地獄のような一夜を思い出して、背筋が冷たくなった。

「え、ええと、ここに降りられるかしら?」

女の子は僕の前に手のひらを差し出した。
僕は恐る恐るロールパンから這い出して女の子の手のひらの上に降り立った。
女の子はそのまま僕をもっと顔に近づけた。

「まあ、なんて小さいのかしら。うふふ」

女の子は指先で僕を突っつきながら、じろじろと僕の身体を観察し始めた。
僕は裸で恥ずかしかったので、両手でこっそりとおちんちんを隠した。

「可愛いわ、うふふ。こびとさん、お名前は?」
「ぼ、僕は東九条北郎。」
「あら、ちゃんとお返事できるのね。立派だわ。うふふ。それで、いくつなの?」
「15歳。中学校3年生だよ。」
「15歳?あら、同い年ね。ごめんなさい。わたし、北郎君にまるで子供みたいな話し方をしてしまったわ。」

女の子は急に口調を改めた。

「わたしは早川寛子です。はじめまして。わたしも15歳よ。」

女の子は手のひらの上の僕に向かって軽く小首を曲げて挨拶した。
笑うと目がなくなってしまう。
可愛いなあ。
まるで悪いことなんかしそうにないぞ。
いやいや、小泉杏奈も優奈ちゃんも、見た目だけなら随分可愛いじゃないか。それでいて悪魔のように残酷なんだよ。
僕は手のひらの上で後ずさりしながら尋ねた。

「ぼ、僕を玩具にして、あ、遊ぶんだな?」
「玩具?」

女の子は怪訝な表情をした。

「い、いろんなひどい悪戯をしようと思ってるんだろ?」
「まさか!」

女の子は軽くかぶりを振った。

「確かに北郎君はとっても小っちゃいけど、でも、わたしと同い年の男の子よ。
玩具になんかできないわ。」

嘘をついているような感じではない。

「そうそう、わたし、勝手に北郎君なんて呼んじゃったけど、それで良かったかしら?」
「う、うん」

僕はだんだん安心してきた。この子はどうやら心の優しい子らしい。

「じゃ、ぼ、僕は、君のことを、ひ、寛子ちゃん・・って、呼んでもいいかな?」
「勿論よ、北郎君。」

寛子ちゃんはにっこりと微笑むと、僕をテーブルの上に降ろしてくれた。これは食事のときなんかに使うオーバーベッドテーブルで、この上からなら僕と寛子ちゃんは顔をつきあわせてお話しを続けることができたんだ。

「15歳ってことは、君も中学校3年生なんだね?」
「ほんとはね」

寛子ちゃんは悲しそうに笑った。

「でも、もう半年も学校には行ってないのよ。こんな病気になっちゃったか
ら・・・」
「どんな病気なの?」
「・・・再生不良性貧血っていうの。」

寛子ちゃんは自分の病気につて僕に話してくれた。
再生不良性貧血になると骨髄で赤血球が作れなくなるので、とってもひどい貧血になって、身体に力がェ入らなくなってしまうんだって。

「立ち上がることもできなかったの。」
「ふうん」

薬はあまりよく効かないから、貧血に対しては輸血をするしかないんだけど、あんまり頻回に輸血をするとそれはそれで具合が悪くなってしまうし、なかなか厄介なんだってさ。それで寛子ちゃんは、思い切って骨髄移植を受けてみることにしたんだって。

「骨髄移植?」
「そう。元気な人の骨髄液をもらってきて、わたしの骨髄の中に入れたの。これがうまく根付いてくれれば、わたしの貧血も良くなるはずなのよ。」
「そうかあ、そりゃ良かったじゃないか寛子ちゃん。」
「うん。だけどね、」

移植された骨髄細胞が増えてくるまでの間、寛子ちゃんの抵抗力はひどく弱っているので、とっても病気にかかりやすいんだそうだ。

「だから、ずっとこの無菌病室に入院したまま、お見舞いもなしに一人きりなの。」

寛子ちゃんは床頭台の引き出しから携帯電話を取りだした。

「前はときどきこれでお友達ともお話ししてたのよ。だけど・・・」
「だけど?」
「だけど、最近は嫌になっちゃった。」

寛子ちゃんは携帯電話を元の引き出しに戻してしまった。

「どうして嫌になっちゃったの?」
「だって・・・みんな楽しそうなんだもん。勉強のことや、クラブ活動のこと
や、学校行事のことなんかでとっても忙しそう。わたしは全然参加できないって思ったら、悲しくなっちゃって・・・」
「だめだよ、そんなことでくじけてちゃ。病気がなおれば、また寛子ちゃんもみんなと一緒に勉強したり遊んだりできるんだから。」
「・・・」
「病気に負けちゃいけないよ。ここは頑張って、早く良くなって退院するのさ。」
「・・・う、うん。そうね。ありがとう。そんなこといって慰めてくれるのは北郎君だけだわ。・・・ねえ、北郎君、お友達になってくれない?」
「え?」
「しばらくここにいて、わたしとお話ししていて欲しいの。お願い!」

寛子ちゃんは僕に向かって両手を合わせた。

「・・・いいよ。じゃ、僕をしばらくこの部屋に居候させて。」
「わあい!」

寛子ちゃんは思いきり万歳した。
そのとき、トレイを下げに聖奈さんが入ってきた。

「は、早川さん、どうしたの?」
「あ、なんでもありません。」

寛子ちゃんは急いで手の中に隠した僕に向かって、ぺろりと舌を出した。


*****

聖奈さんがナースルームに戻ったあと、寛子ちゃんはまた僕をテーブルの上に載せてくれた。

「病室では、日頃どんなことをしてるの?」
「もおお、退屈なだけ。」

寛子ちゃんはお手上げのポーズをした。

「勉強でもしてればいいのかもしれないけど、そればっかりじゃつまらない
し・・・ここに持ち込んだ漫画も、もう読み飽きてしまったわ。」

寛子ちゃんはベッドサイドに積まれている漫画の単行本の山から一冊を取りだした。

「これは庄司陽子先生のガイアの娘。わたしのいちばんのお気に入りなの。さすがにこれも飽きちゃったけどね・・・北郎君は読んだことある?」
「ないなあ。」
「あらそう、残念ね。第3巻には主人公たちがGTSになるエピソードもあるの
よ。宝の地図にも出ているわ。」
「あ、それってもしかしたら#191のこと?」
「そうそう、そうよ。北郎君、凄いわねえ。」
「いや、もうあのサイトも閉鎖しちゃったけどね、はははははは」
「うふふふふふふ」

寛子ちゃんは笑うとまた目がなくなってしまった。
可愛いなあ。
僕はこびとにされてから初めての心のやすらぎを覚えていた。

「ねえ、次は北郎君のことを教えてよ。北郎君、趣味とか関心を持ってることってあるの?」
「関心を持ってること?関心を持ってることっていえば・・・実は世界征服なんだ。」
「え?世界征服?それ、どうやってするの?」
「ふぁっふぁっふぁ、寛子ちゃん。それじゃ、君だけに僕の秘密の世界征服計画を教えて上げよう。」
「わあい、わくわく」

*****

僕たちは時間のたつのも忘れて話し続けた。
ほんとうに話は尽きなかった。
このままずっと2人っきりでいられればいいと思った。
夜中の1時を過ぎた頃、見回りの看護婦さんがやってきた。
なんと、またしても聖奈さんだった。
そうか、そういえば日勤深夜だっていってたもんな。日本の看護婦さんたちは労働条件が悪いんだなあ。
寛子ちゃんは、またこっそりと僕を手の中に隠した。

「早川さん、もうこんなに遅い時間よ。」

聖奈さんは床頭台の上の時計を指さした。

「消灯時間から4時間オーバー。これは新記録ね。ふふ。だけどさすがにもう寝る時間だわ。」
「はあい」
「電灯を消すわよ。おやすみなさい。」
「はい。おやすみなさあい。」

聖奈さんは明かりを消していってしまった。
寛子ちゃんは手の中の僕にひそひそ声で話しかけてきた。

「もう寝た方がよさそうね。」
「そうだね。お話しの続きは、また明日の朝にでもゆっくりできるさ。」
「うふふ」

寛子ちゃんはハンカチを折りたたんで床頭台の上においてくれた。
僕のための布団だ。
薄手のハンカチだけど、病室の温度は調整されているので全然寒くない。
こんな小さな気配りにも、僕の胸はじんと熱くなった。

「どうかしら?こんなお布団でも寝られそう?」
「十分だよ。とっても快適さ!」
「良かった。じゃ、おやすみなさい。」
「うん。じゃ、また明日ね。」

僕はハンカチの布団を被って横になった。
でも、気持ちが高ぶってなかなか眠くなれなかった。
どのくらいたってからだろうか、寛子ちゃんが声を掛けてきた。

「・・・北郎君?」
「ん?な、なんだい?寛子ちゃん」
「眠ってた?」
「ん、いや、まだ起きてたよ。」
「寒くない?」
「え?」

全然寒くはないけどなあ・・・

「・・・よかったら、こっちへ来ない?」
「え?」
「今日は涼しいから、ハンカチ一枚じゃ寒いと思うわ。」

寛子ちゃんは少し恥ずかしそうにネグリジェの前ボタンを外した。

「・・わたし、寝相はいいのよ。」

僕は狼狽してしまった。

「い、いいの?」
「もし、北郎君が良ければね。」

僕は床頭台の上のハンカチから抜け出して、寛子ちゃんの胸元に滑り込んだ。
ぽかぽかでふかふかな寛子ちゃんの胸の谷間で、僕は夢見心地になっていた。
昨晩、小泉杏奈が仕掛けてきた様々なエッチな悪戯でも、こんなにどきどきすることはなかった。

*****

あたりがぼんやりと薄明るくなったころ、僕は寝苦しくて目が覚めた。
暑い。
とても寝ていられない。
どうしてこんなに暑いんだろう?

「!」

そうだ。僕は寛子ちゃんの胸元で寝ていたんだ。
僕が暑いのは、寛子ちゃんが熱いからだ。
じっとりと汗ばんでいる。
尋常ではない熱さだ。
僕は慌てて胸元から飛び出し、寛子ちゃんの右の耳元に駆け寄った。

「寛子ちゃん!大丈夫?」

寛子ちゃんは答えない。
意識がないんだろうか?
荒い息をつくばかりだ。
昨日、透き通るように白かった顔が、薄明かりの中でもはっきりとわかるほど紅潮している。
凄い高熱が出ているのだ。
そうか、それでこんな暖かい部屋なのに「涼しい」っていってたのか。
気づかなかったなあ。ともかくこれは大変だ。
そのとき、廊下に人の気配がした。
聖奈さんが懐中電灯を持って巡回に来ていたのだ。
よし。なんとか知らせなきゃ。
僕は再び床頭台に移動した。
ええと、何か手頃な物はないかな?
見渡してみるけど、みんな大きすぎて僕の手には負えそうにないや。
ええい、じゃ、これだ。
僕はブルドーザーくらいの大きさの吸い飲みを全力で押した。
えい、えい。ふう、重いな。
でも、頑張らなくちゃ。
えい、えい。
おっ、少し動いたかな。
よし、もうちょっとだ。えい、えい、えい、えい!
がちゃあああん
吸い飲みが床に落ちて割れる大きな音がした。

「どうしたの?早川さん。」

物音を聞きつけて、廊下から聖奈さんが病室に入ってきた。
やった!作戦成功。
僕は急いで物陰に隠れた。

「早川さん・・・あれ?早川さん、早川さん!まあ!これはたいへんだわ!」

寛子ちゃんの様子をみて聖奈さんの顔色が変わった。慌ててナースルームにコールする。

「ぷち。どうなさいました?」
「た、たいへんです!707号室の早川寛子さんが急変!すぐに当直の岩崎先生を
お呼びして!」

ばたばたと看護婦さんたちが慌ただしく動きまわる中、ほどなく当直医の先生がやってきた。

「どうしたの?」
「急変です!」
「バイタルは?」
「体温は39.4度、意識は3の1、で」
「レートは?」
「それが、ドゥルックが触れないんです・・・」

当直医の先生は手早く寛子ちゃんを診察し始めた。

「敗血症性ショックだな。ちっくしょう!なんとかしのいできたのに、こんなところで感染かぶっちまうなんて。誰が菌を持ち込んだんだ?」

え?
感染症?
誰が菌を持ち込んだって?

「ともかく、すぐにモニターつけて」
「はい」
「逆ファウラー」
「はい」
「酸素はベンチで全開」
「はい」

「CVもとるよ。」
「は、え?・・で、でも、プレートが・・・」
「ショックなんだ。末梢じゃ管理できないよ。一か八かやるしかないさ。ジャグラーで行く。出血したらご免なさいだ。ダブルルーメン18Gを持ってきて!」
「はい!」

看護婦さんたちは一斉に備品を取りに出ていった。

「・・・そうだ、念のため血液浄化療法部にも一声掛けとこう。エンドトキシン吸着が必要かもしれないからな・・・」

当直医の先生も慌てて飛び出していった。
急変した患者を病室に一人だけ残してはいけない、ってのは診療上の鉄則なんだけど、深夜や明け方にばたばたしてるときは往々にしてあるんだよね、これが。
でもそんな初歩的なミスを犯してくれたおかげで、僕はまた寛子ちゃんの枕元に行くことができた。
誰が菌を持ち込んだのかって?
僕かな?
僕のせいなんだろうかな?
僕が消毒も受けないでこの無菌室に潜り込んできたりしたから、抵抗力の弱っている寛子ちゃんに外界のバイ菌がうつってしまったのだろうかな?
もしそうなら、僕が寛子ちゃんを殺そうとしているようなものだ・・・
ごめん。ごめんよ。許してくれよ。
だから死なないで。
お願いだよ、寛子ちゃん。
これから危険な治療が始まるらしいけど、頑張って、乗り越えてくれよ・・・
僕にできることは祈ることしかないんだ。
・・・
・・・いや、あるぞ。
僕にできることは、まだ、他にもある。

「寛子ちゃん、必ず、必ず、僕が君を助けてみせるからね。」

朦朧とした状態の寛子ちゃんの前で約束すると、僕は意を決して再び床頭台に移動した。


北郎少年の冒険・続く