この話は拙作「夜明け前のオフィスにて」「夢うつつ」の後日談にあたります。
なお、この話はフィクションです。実在する人物・団体・出来事とは一切関係ありません。



 小さな冒険

            作 モア

 「ことのはじまり」                1999/09/10 Ver2.2

 それは、ある週末のことだった…
 秋とは名ばかりの、暑さが残る日暮れの町中を、俺は大汗かきながら路地裏の道を歩いていた。
 俺は、人ごみが嫌いなので通勤路の一部に路地裏やら暗渠道などを利用するのだが、今時分に、こんな道を縫うようにして歩いていると、裏塀の影が長く伸びた薄暗い空間が見え隠れして、夕方と言うより薄暮に近い雰囲気をかもし出していた。
…こういう情景を「逢魔が時」っていうのかな。
 普段、何気なく歩いている路地裏をそう意識して眺めてみると、何やら不気味な気配が襲ってくる。慌てていやな気持ちを振り払い、帰宅後の段取りを考えようとした。共働きである我が家は、連れ合いの美紀子と輪番で家事をやっていて、今日は俺が当番なのだった。夕食は何にしようかと考えながら歩いていた、そんな時…
 
 どしん!

 突然路地から出てきた老婆と出会い頭に衝突してしまったのだ。小脇に抱えていた荷物を振りまいて前のめりになる老婆。しかし、俺は夢中でバランスをとって彼女を抱き、かろうじて転倒を避けることができた。
「す!すいません! だいじょうぶですか」
「…」 
 老婆は、事態の急変に対応できないらしく、びっくりした表情でこちらを見ている。おかげで、彼女の顔をとっくりと眺めることになってしまった。深いしわが刻まれているが、目はつぶらで顔は丸く快活な笑顔が似合いそうである。こうしてしばらくみつめ合っていたが、何だか気まずい気持ちがわき起こる。
 そこで、わざとらしく声を上げた。
「あっ!お荷物を振りまいてしまったようですね。今すぐまとめますから、ちょっとその隅で休んでください。」
 そして老婆を傍らに腰掛けさせると、路地に散らばった荷物を集めはじめた。彼女の持ち物とは本で、それも恐ろしく古い時代の洋書らしい。
…まるで「魔道書」みたいだな。
 突然、先ほど心に浮かんだ「逢魔が時」を思い出す。ようやく本を集めて束ねると、老婆にそれを差し出した。
「はい、お婆さん。どうもすみませんでした」
「いや…。こっちこそお手を煩わせた。なにせ、若い男の胸元に飛び込むなど絶えてない事だから…」
 老婆は表情どおりと言うか、歳に似合わぬ若い声でそう言ったあと、俺の顔を見てにっこりと微笑む。
 何だか、不思議な気分になる笑顔である。その時、襟の第一ボタンに小さな金色のスプーンが留められているのが目にとまって、思わず子どもの頃に読んだお話の主人公を思い出してしまった。
「それでは失礼します」
「ちょっと待ちなさい。あんたには大変世話になったからちょっとお礼がしたい」
「そんな、私が悪いのに…それに用事がありますので」
「いや、手間はとらせない。すぐそこが私の家だから」
 結局、俺は老婆の懇願に負けて寄り道をする事になった。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 これでも、頻繁に路地裏を探検したことがあるので大抵の場所は知っているはずだが、そこは初めて訪れる街区だった。そこに建つ老婆の家・兼仕事場は古い洋書を持つ人物にふさわしい古びた造りにみえた。
「私は占いを家業にしているンじゃよ」
 老婆は、年代物の茶器で紅茶を供すると、静かに腰掛けてとても朗らかにしゃべる。なんか占い師らしくないが、よほど人と話すのが好きなのだろうか。
「なるほど、どうりで魔術師の館みたいな雰囲気の部屋なんですね」
 何とか話題を作ろうとして思いつきにそういうと、老婆はちらりと俺の顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「そっちは本業じゃよ」
「え?…」
「占いと魔術とは紙一重さ。どちらも中にはインチキもいるが、本物だってちゃんといる。お前さんは信じるかい?」
といいながら、にこやかな顔で覗き込む。何とも魔術師らしくない明るい表情である。
「え、ええ」
 返答に窮して、思わずあいまいな笑いでごまかしてしまった。
「顔に出ているぞ。まぁよいわ」
 そういって笑ったあと、老婆は目の前に椅子を置き、ゆっくりと座って居ずまいを正した。俺もつられて姿勢を正す。
「いや、さっきは何十年ぶりに若いころを思い出してな、年甲斐も無く心ときめいたわい。しかも、いまどき珍しく親切な若者じゃし、ちょっとお礼の魔法でも授けてやろうと思ったのじゃ」
「は、はぁ」
「何とも気の抜けた返事じゃのう。まあよい、人生相談と思ってこの婆に話してみなさい。お前が思っている願望を、まとめて1つにしてかなえてやろう」
…願望を語る、か。それならできるな。
 そう決心すると、日ごろの悩み相談のつもりでぽつりぽつりと話し始めた。今思えば、もっと雄大な願望を話すべきだったが、その時口に出したのは、実にしみったれた願いだった。

…金がかからなくて、大冒険ができて、それでいて日常からさほど遠くなく、でも普段とは違う体験がしたい。でも、ものぐさだから準備が必要なことはいやだし…そう、突然巻き込まれるような出来事がいい。そしていつでも現実にもどれる…うん、遊園地みたいなものかな・・…。

「何とも欲張りじゃなぁ。「大冒険」と「日常」そして「突然」という矛盾する願望を一つにするとは…まあよいわ」
 老婆は笑ってそう言うと、両手の指先を軽く合わせ目をつぶった。
「魔法をお前の身近なものに封じこめねばならぬ。何か出しなさい」
 何があるだろう、と俺は慌てて探し始めたが適当なものが見当たらない。老婆は、やや苛立って指示をする。
「その指輪がよい。さあ、手を出しなさい」
 結局、言われるままに結婚指輪をはめた手を差し出しだすと、彼女は両手を指輪の上に掲げ、難しい顔をしてぶつぶつ呟きはじめた。すると、指輪が熱を帯びたのか徐々に熱くなってくる。それは、ほんの十数秒だったかもしれないし、もっと経過したのかもしれない。しばらくして、老婆は呪文を止めて手を下ろし、再び微笑んだ。
「これでよし。お前の願いはかなえられるぞ」
「…あ、ありがとうございます」
 雰囲気に圧倒されて、思わずぺこりと頭を下げた。老婆は満足そうに会釈をする。
「お前の願いに「突然」があったから、突然に新たな体験ができるぞ。また、もし体験を充分堪能したら婆のところに来なさい。魔法を解いてあげよう」
「で、では、私急ぎますので、これで失礼します」
「せいぜい楽しむのじゃぞ」
 そのあと、朦朧としたまま老婆の家を辞して、ふらふらと歩いたらしい。気が付くと、いつのまにか最初に出会った路地に立っていた。ずいぶん時間が経ったように感じたが、空はまだ茜色を残しており、ヒグラシの鳴き声が悲しそうに響いていたのだった。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 俺は、鈎を開けて部屋の中に慌てて入ると、急いですべての窓を開けて熱気を追い出し、クーラーのスイッチを入れた。
 そのあとスーツを脱ぎ、Tシャツと短パンに着替えながら窓を1つづつ閉め、その足で浴室に行って風呂の着火ボタンを押したあと、窓を少し開けて部屋を出た。
 居間に戻ると、ようやく冷気が溜まり始めたのか、ひんやりとした空気が漂っている。そして、最後にスーツから携帯電話を取り出すと尻ポケットにぐいと突っ込んだ。
 あんまり好きじゃない携帯だが、手近にあるほうが何かと便利である。
 こうして、帰宅の儀式が終わると、早速夕食の準備にとりかかった。美紀子は、別用で帰りが遅くなると言っていたから、ゆとりを持って調理ができるというわけだ。
 俺は、エプロンを椅子へかけると、彼女が作ってくれたレシピを片手に持って冷蔵庫を開けた。
  そのとたん、低温の心地よい空気がまるで固形物のように顔へぶつかる。
…うーん、良い気持ちだ
 あまりの心地よさに、しばらく冷蔵庫を開けた姿勢でささやかな快感に浸っていたのだが…。
 その時である。
 突然結婚指輪が熱を帯びてきた。あまりの熱さに、俺はびっくりして指輪に手を触れる。しかし、その直後に衝撃が全身を襲い、まるで奈落のそこに落ちて行くような気分を覚えたあと、ぷっつり意識を失ったようだった。
 

 それから、どの程度時間が経過したのかわからない。ただ、あまりの寒さに目を覚ましたらしく、体が小刻みに震え手足に鳥肌が立っている。少し意識がハッキリすると、広大な平原に倒れていることに気がついた。
…?たしか自宅のキッチンにいたはずだが。
 そう考えながら起き上がり、慌しく周囲を見渡して状況を確認するが、頭がボケているのかさっぱりわからない。近くに大きな柱が並んでいるが見覚えは無いし…。その間も、高原の朝を思わせる冷気は、薄着を通して俺の肌を刺激している。
…何でこんなに寒いんだ。残暑厳しい季節なのに。
 次々と沸き起こる疑問に悩みつつ、とりあえず冷気の源に向かって歩くことにした。地面は、土でもコンクリートでもない光沢のある材質で、所々引っ掻き傷のような線が彫刻されている。やがて、行き止まりになったので歩みを止めたが、どうも目の前にある白く大きな壁から冷気が発生しているようだった。
 それは、光沢の有る摩天楼のような建造物である。その高さは想像もつかないくらいで、首が痛くなるほど見上げても頂上を確認する事ができなかった。しかし、何か見覚えがあるのだが…思い出せない。
 俺は、しばらくその建物を見上げながら考え込んでいたが、ふと開口部に並ぶ装着物を見たとたんに、あるものを連想する。
「ま・まさか…」
 思わず声をあげて注目したそれは、毎晩お世話になる缶ビールの形状と瓜二つだったのだ。ただ、その途方もない大きさを除けば…。さらにそこへ印刷された銘柄…想像上の動物を図案化したもの…を確認するに及んで疑念は確信へと変わる。
 これで、ようやく状況を把握する事ができた。目の前の大きな白い建物は俺の家の冷蔵庫であり、背後にある大きな柱はテーブル、もしくは椅子の脚なのだろう。
 
 俺は、どうも信じられないくらい小さな体になってしまったようだった。

 その時、ふと老婆の家で告白した願望を思い出す。…安価で身近で普段とは違う大冒険がしたい…
 これが、老婆のかけた魔法だったのか? そう考えると上半身から血が引いていくのを感じ、ふらふらと地面に座り込んでしまった。頭の中は嵐の海のように揺れている。
…夢?
 そう、夢だ。今までだって、職場の床で寝入って変な体験をしたり、風邪薬の副作用で小さくなる夢を見たりした…今回も、しばらくすれば目がさめてもとの体に戻っているさ…
 そう思って、俺はいきなり床に突っ伏してしばらく目をつぶっていたが、心臓の鼓動が気になって落ち着かない。仕方なく再び起き上がって天を見上げた。
 そこには、依然として巨大な冷蔵庫がそびえている。
 しばらくの間、それをぼんやりと見つめていたが、次第に心が静まると、ありのままの姿を受け入れざるを得ない気持ちになってきた。そうだ、悲観しても仕方がない。
 とりあえず何をするべきか・…。まず、小さくなったことを美紀子に知らせなければならない。でも、どうやって連絡しよう…思案しながら天を見上げると、冷蔵庫のドアに張られた「伝言板」に目が入る。
 そうだ!文字で伝えよう。それには資材がほしい。
 そこで、まず材料を求めて部屋の探検を行うことにした。小さくなった俺にとって、ささやかな我が家でも「探検」にふさわしい広さであったが、入念に掃除がなされており、うっすらと埃が堆積する以外何も見つけることができない。それでも、テーブルの脚下や敷居の隙間など、掃除の際に死角となる部分を中心に捜索した結果、マッチ棒2本、爪楊枝5本、そしてヘアピンを2本を発見して集めることができたのだった。ヘアピンはとても重く運搬には難儀したが、それに絡まっていた長いロープ(おそらく美紀子の頭髪だろう)のおかげで、苦労しながらも運ぶことができた。
 さて、これからどうするかだ。
 限られた資材で文字を表現するために、文字は単純な「SOS」に決めた。いずれも1文字3本の資材を用いて、冷蔵庫の下に文字を組んでいく。ここならば、ドアを閉める際に気が付くだろう。
 こうして、必死の努力で文字が完成したその時である。

 ピンポーン
しまった、誰かやってきた。
 ピンポーン ピンポーン
 がちゃり
「あれー?、鈎が開いている」
 遠くから、雷鳴のような美紀子の声が聞こえてくる。彼女がとうとう帰ってきたのだ。
「圭一のヤツ、どこか出かけたのかな」
 そういいながら靴を脱いだのだろう、岩場が崩れるような音が響いたあと、規則正しい振動がじょじょに迫ってきた。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

「圭ちゃーん?」
 どうも、彼女は他の部屋をまわりながら俺を探しているらしく、地響きが遠くなったり近くなったりしている。その後に、ようやくキッチンにやってくるのか、こちらに向かって足音が近づいてきたようだった。徐々に大きくなる振動を体感するようになると、俺は慌ててテーブルの脚に隠れ、美紀子が現れるのを待った。
 やがて、半分開いたドアから途方もない大きさのスリッパを履いた巨人の足が出現したかと思うと、ドアが完全に開いて彼女の全容が出現した。それを見た瞬間、思わず息を呑む。

 そこには、30階建てのビルほどもある巨大な美紀子の姿があったのだ。

 俺は、目の前に現れた巨人に驚愕して恐る恐る彼女を見上げた。夢で見た時のイメージと違い、彼女の巨体からは圧倒的な重量感が発散していた。そう、巨大な構築物を前にしたときに感じるあの迫力である。
 それを直接感じた途端、たちまち恐怖感が心を襲い、慌ててテーブルの脚にぴったりとくっついて息を殺してしまう。無論、美紀子は俺のことなど気づくはずもなく、その視線はドアが開いたままの冷蔵庫に注がれていたようである。
「あーっ、冷蔵庫が開いたまま! 一体、圭ちゃんは何しているのよ」
 そういいながら、地響き上げて冷蔵庫へ歩みよってきた。俺は、怖さと期待が入り混じった気持ちで、柱越しにその動きを目で追いかける。
…どうか…どうか下の文字に気が付いてくれ!
 ところが、苦労して作り上げた「救難信号」の上に大きなスリッパがのしかかったかと思うと、いとも簡単に蹴散らしてしまったのだ。たちまち目の前にマッチ棒の「角材」が飛んできたので、びっくりして思わず頭を引いてしまった。彼女は、俺の隠れているテーブル脚のすぐそばに足を着地させると、くるりと背を向け、冷蔵庫のドアを簡単に閉めてしまった。あまりにも期待はずれの出来事に、思わず痛恨の声を上げる俺。
 すると、上空から大きな声が響き渡った。
「え、なに?」
…しまった!見つかったか!
 柱越しにこわごわ眺めていると、何かに気づいた彼女はその場へしゃがみこむらしい。光沢を放つストッキングの網目が急に伸縮をはじめ、次第に足の甲の部分に幾重もの皺が生まれはじめる。
 やがて、まるでパンタグラフが折りたたまれるように長大な脚がZ字に折れ曲がりはじめた。それと同時に、スカートが地面に降りてきて光を遮ったため、急に周囲が薄暗くなってくる。
 彼女は、床に散らかった爪楊枝やマッチ棒・ヘアピンの存在に気が付いたらしく、上空から大きな手が下りてきて「救難信号」の残骸をひょいと摘み上げはじめた。そして、少しの間それを眺め回したかと思うと、無造作に、ぽいとごみ箱に捨ててしまったのだ。
 これで、俺の努力は全く無駄に終わってしまったのである。
「ねずみがいるのかな」
 そう言いながら、椅子を動かして再度足下を見まわしたあと、彼女は再び立ちあがり腰に手を当ててつぶやく。
「それにしても圭一のヤツ、部屋を放ってどこに行ったのよ」
…どこにも出てない!ここにいるのに…
「夕ご飯も作っていないから、ペナルティとして来週いっぱいあいつが当番ね」
…だから、不可効力の出来事だって…
「帰ってきたら、そう言って店屋物おごらせてやるんだから」
……。
そう言いながら、彼女はずんずんと足音を残して居間へ立ち去って行った。おそらく着替えをするのだろう。

 さて、これからどうしよう。

 第一の作戦が失敗した以上、次の策を考えなければならない。このまま居間に行く方法もあるが、あっちは座布団などの障害物が多すぎて、下手をすると障害物ごと圧死…ということになりかねない。どちらにせよ、彼女の視線に近い位置までこっちがたどり着かねばならないようだ。
 そのとき、何気なく椅子を見上げてふと気が付いた。そう、そこにはエプロンがかかっているのだ。幸いなことに、美紀子が椅子を動かしてくれたおかげで、エプロンが床までずり落ちている。これを伝って椅子に登り、そこからテーブルに登る方法があるぞ!
 そう決心すると、エプロンに歩みより登攀を開始した。まるで緞帳をよじ登るようで掴み所がなく苦労したが、U字谷のような皺を伝いながら徐々に上へ登っていく。
もう少しで登頂だ…、そう思ったときである。突然ぐらりとエプロンが動くと、俺の体は少し落下したように感じた。…エプロンがずり落ち始めたんだ。一瞬背筋に冷や汗がふきだす。
 危機的な状況を悟ると、俺は無我夢中で登り始めた。しかし、エプロンの下降は徐々に激しくなってきて、このままでは一緒に落下してしまうと焦ったとき、手に硬い感触が伝わった。何とか登りきったのだ。俺は夢中になって地面に駆けあがると、同時にエプロンが視界から消滅してしまった。やがて腰架けの端に歩みより、肩で大きく息をついて眼下の光景を眺めた。床まで高さは20mほどあるだろうか。そこには、まるで大きなテントが倒壊したような姿でエプロンが落ちている。もし一緒に落下していたら…と思うと胆がちぢむ。
…いかん、いかん。まだ、道のりは半ばじゃないか。
 そう思いなおして気合を入れると、空を仰いでテーブルを見つめ登攀方法を考え始めた。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 そのときである。美紀子が着替えを終えて戻ってきたらしく、再び規則正しい足音が近づいてくる。
 今度は隠れる場所が無いので、急いで腰掛けの端へ逃げ出し、腹ばいになって様子を見守ることにした。美紀子は、Tシャツにジーンズのショートパンツという軽装で、片手に新聞紙を持ってやってきた。
 まず、落ちたエプロンに気づいて別の椅子にかけなおしたあと、冷蔵庫から麦茶を出してテーブルに置いたようである。ところがそのあと、俺が隠れている椅子に手をかけたかと思うと、こともあろうかそこに腰をかけ始めたのだった。
 頭上に、美紀子の巨大な太ももと臀部が迫ってくる。
 それを見て思わず逃げだしたくなったが、恐怖のあまり萎縮して体が言うことをきかない。結局、その場で目をつぶり、しっかりと「地面」にしがみ付くことしか俺にはできなかった。

 その直後、衝撃と突風が全身を襲い、椅子から吹き飛ばされそうになる。

しかし、俺は歯を食いしばってそれに耐えると、勢いが静まるのを見計らって恐る恐る顔を上げ周囲を見まわした。
 すると、俺の両側には10mほどの間隔をおいて彼女の太股が城壁のように横たわり、その正面にはジーンズの短パンが壁のごとくそびえていたのだった。
かつて、美紀子が家の中で気を許したのか、脚を広げて椅子に座る様をからかったことがあったが、皮肉なことにそのおかげで命拾いしたのである。そう思うと、突然涙が溢れてきて、不思議な気持ちがわき起こってきた。

…神様、ありがとうございます、2度とこのことで彼女をからかうことはいたしません…。

 無信心なはずの俺が神に感謝したあと、気づかれないようにそっと立ち上がると天を見上げた。
 俺の位置では、Tシャツから隆起する2つの巨大なふくらみを、かろうじて見ることができたにすぎない。しかし、その姿を見ていると、あらためて全身が痺れ足がふらつくのを覚える。
 何という迫力だろうか。俺は心底からわき起こる恐怖感から、声も出せず呆然とするばかり。
 やがて、その場から逃げ出したい気持ちから、ふらふらと歩きはじめたが、脚の付根まで来て逃げ道が無いことがわかると、そこへ尻餅をつくように座り込んでしまった。
 目の前の短パンは青いレリーフのようだった。幾重もの深い皺が刻まれた所もあれば、はちきれんばかりに布が張り詰めている場所、黄色の縫い目がリベットのように並んだ所もある。そして、中軸線上には、布に半ば隠れながらも渋い真鍮の光沢を放つジッパーが、レールのように上へ向かって走っていたのだった。
 その場所で所在無く座っていると、圧迫感とともに体から発散される湿った熱気、そして様々な臭気が襲いかかってくる。 最初は不快感で顔をしかめたのだが、その臭気は徐々に一種の鎮静剤の役割を果たしたようだった。俺のつれあいの香り…そう、目の前にあるものは決して怪物ではないのだ…という気持ちがゆっくりと湧き上がってきたのだった。
 こうして次第に気分が落ち着くと、不思議なもので、だんだん正面にあるのものが気になってきた。そこには、布2つ隔てた向こうに、ずいぶんご無沙汰のものがあるはずである。

…最近2人とも忙しいからなぁ…。それに、そろそろ国作りのことも考えたいけれど、あいつはまだ働きたいっていうからな…。

夫婦の話で恐縮だが、そのような思いが次々と浮んでくる。
 そのとき、縫い糸が切れたのか、糸が1mほどほころびている場所を発見して、ふと考えた。
…布越しならば、少しぐらい触ってもいいだろ。
 こうして俺は「壁」に歩み寄り、ほころびに手をかけてよじ登ったあと、ゆっくりと壁に体を預け目をつぶった。
 布越しに彼女の香りと体温がつたわってくる。
 その温もりに心地よくなって、俺はしばらくのあいだその姿勢でじっとしていた。
 もし、何事も無かったら現実を忘れていつまでもこうしていただろう。

 しかし、悪い(?)ことはできないものである。
 
 新聞を閉じたのか、突如として上空から雷鳴が聞こえたかと思うと、美紀子はいきなり椅子から立ちあがり始めたのである。
 俺は慌ててショートパンツから逃げ出そうとしたが、左手に握っていたほころびが引っかかって逃げ出す機会を逸してしまったのだ。咄嗟に、落ちないよう必死で青い布にしがみ付く。
 結局、美紀子のショートパンツに引っかかったまま上空へと運ばれてしまった。
 俺を宙ぶらりんにしたまま、彼女はキッチンから居間に向かって歩いているようだが、そのたびに、すぐそばで交互に動き出す脚が俺の体を揺さぶりつづけた。
 パンツの皺が、歩行と連動してまるで生き物のように生まれては消えていく。
 しがみ付いた場所は、ちょうどショートパンツの中軸線上にいるために難をまぬかれているが、あの皺のところにいればたちまち揉み潰されていただろう。
 俺はつかの間の安堵感を感じたが、すぐにそれは戦慄へ変じた。
 そう。もし、美紀子が座布団やソファに座り込んだ場合、この位置は彼女の体重を受けねばならぬ位置にいる。美紀子の知らぬ間に圧殺されてしまうのだ。
 何か助かる手は無いのか。彼女に救助を伝える手段は無いのか!

 …伝達…そう!伝達だ!

 そのとき、俺は尻ポケットに携帯電話を差し込んでいたことを思い出した。すぐさま、自由に使える右手で携帯を取り出して、通話ボタンを押す。

 ツー

 幸いにも、携帯は壊れていなかったようだ。
…でも、小さくなった電話は送受信できるのだろうか
と、思うと、言いようも知れない不安感が俺を襲う。しかし、もうこれしか伝達手段は無い。
 その時、美紀子の体位が変わったらしく、急にショートパンツの傾斜がきつくなってきた。ふと下を見ると眼下に黒い大きなものが急速にこちらへ迫っている。
 ソファーに腰掛ける気だ!
 躊躇している間はない。無我夢中で短縮ボタンを押したが、その間にソファーはぐんぐんと迫る。
 もうだめか…
 俺は、ついに観念して目をつぶってしまった。

 プルルル・……プルルル・…

 同時に、雷鳴のような電子音が部屋中に響き渡る。
「!」
 普段はいらだたしく感じる発信音がこれほど嬉しく感じたことはない。間一髪で電話が通じたのだった。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

「はあい」
 間延びした声が頭上から聞こえたかとおもうと、彼女のショートパンツは電話に向かって再び往復運動をはじめた。とにかく危機は遠ざかったようだ。俺は携帯の受信部に耳を押しつけて返事を待つ。
「もしもし、冨田ですけど」
 携帯から聞こえた声は、間違い無く美紀子の声である。
…電話が通じた!
 その声を聞くと、思わず涙ぐんでしまった。
「俺だ…、圭一だよ」
「圭ちゃん!? 部屋の中放ったままで、一体どこほっつき歩いているのよ!」
 声に併せて体をそり返させたのか、今までラフな形状だったショートパンツの皺が一瞬こわばったように引きつる。
「ちょ!ちょっと待った!もっとゆったりとした姿勢になってくれ」
「え?それどういうこと?それより一体どこにいるのよ!」
 まさか、いきなり君の体にくっついている、なんて言うわけにもいかない。下手にこの姿を見たら、美紀子のヤツ、虫だと思ってひねり潰してしまうだろう。
 そこで、俺はゆっくりと深呼吸したあと、つとめて落ち着いた声で話すことにした。
「美紀子。これから俺の言うことをよく聞いてくれ」
「な・何よ、急にあらたまって…」
「何も言わず、俺の指示に従ってくれるかい?」
「ど、どういうこと!?何言ってるのかわからないよ」
 美紀子は当惑しきっていたが、必死の懇願に、彼女もようやく何かに気づいたらしい。
「・…わかった。とにかく圭ちゃんの言うことを聞くわ」
「ありがとう」
さて、これからが勝負だ…
「まず、目をつぶってくれ」
「…ええ」
 よしよし…しかし、次の指示に美紀子がいうことを聞いてくれるどうか…。
「ありがとう。では右手の人差し指を、美紀の…その…、君のアソコへゆっくり持っていってくれ」
 そう言ったとたん、美紀子の体が激しく揺れ始め、俺の体はショートパンツと一緒に上下左右にもてあそばれた。その訳は、電話で聞かなくても直に彼女の罵声を聞き取る事ができる。
「こら!圭一!ふざけるのもいいかげんにしなさいよ!」
…こいつ、本気で怒っているぞ…
 冷静に考えれば当然だろう。しかし、どうしても指示に従わさせねばならない。俺は、半分鳴き声で電話に向かって叫び始めた。
「冗談じゃない!本当に死んでしまう!言うことを聞いてくれ!俺を助けてくれ!」
 再び、ただ事ならぬ気配を察したらしい美紀子は、しばらく沈黙したあと深いため息をついたようだった。
「わかった、指示どおりやるわ。そのかわり、帰ってきたら理由を聞くわよ。覚悟しなさい」
 そう言うと、彼女は再び先ほどの姿勢にもどった。
「ありがとう。…じゃ、指を持っていったあと、俺が指示するまでその姿勢を保つこと!わかったな?」
「…ええ」
「いいな、ゆっくり・ゆっくりだぞ!」
 何度も念を押すと、すぐに携帯電話を尻ポケットに入れて、シヨートパンツの糸に絡まった左腕をほどくべく作業を開始した。ようやく、糸を噛み切ることに成功して自由になると、再び右手でその糸を掴み、彼女の人差し指が到着するのを待った。
 やがて、お釈迦様の指のように人差し指が目の前に現れる。女性の指とは言え、とにかく大きく太さは一抱えほどもありそうだ。幸いなことに、彼女は指の先を少しだけパンツに接触させていたので、俺は、指先を足場にして飛び跳ねて、棒倒しの要領で人差し指へしっかとしがみ付いた。
 その時、指の神経が俺を確認したらしく一瞬ビクリと振動する。
…これで美紀子も気が付いたかな
 そう思いながら、再び携帯を取り上げて話しかけた。
「よし、指先を見てみろ!そこに俺がいる」
 そう言いながら天を仰ぐと、こちらを見下ろす美紀子の顔がかすかに見える。
 しかし、電話の声は当惑しているらしい。
「???ウソでしょ」 
「じゃ、指を顔近くまでゆっくり持ち上げてみるんだ」
 やがて、人差し指がゆっくりと動き出した。目の前の景色が股間、腹部、胸部の順で通過していくのを、指にしがみ付きながらじっと眺めてしまう。
 そして徐々に体が逆立ちの姿勢になったかとおもうと、俺の前に美紀子の途方も無く大きな顔が天地逆の姿で迫ったのだった。彼女は、少しの間指の先に引っ付いている小さなものを不思議そうに眺めていたが、間もなくその正体に気づいたらしい。
「や…やっぱり圭ちゃん!?」
「ただいま!」
 おれは、驚く顔に向かって精一杯の大声を張り上げ、「帰宅」を報告したのである。

ー・-・-・-・-・-・-・-・・-・-

 俺は、美紀子の手のひらから苦労して降りると、ちゃぶ台の上にあるTVコントローラに腰掛け、美紀子に一部始終を話しはじめた。時々声が聞き取りにくくなるらしく、彼女は耳に手を当てながら聞いている。
 こうしてすべてを話し終わると、美紀子はおもむろに姿勢を正し、じっと俺を見下してしばらくの間黙っていた。
 何だか気まずい雰囲気で居心地が悪い。
 やがて、美紀子はゆっくりと口を開いた。
「それで…どうなるの」
「…?、何が?」
 我慢も限界だったのだろう。彼女は、いきなりちゃぶ台に平手を叩きつけたのだった。
 たちまち卓上が凄まじい振動に襲われ、そのあおりを受けてコントローラからもんどりうって倒れてしまった。ようやく置きあがると、美紀子は俺のそばまで顔を寄せ、語気を強めて問いかけた。
「圭ちゃんの体は、いつ元に戻るの!」
「・…わかんない」
 俺だって聞きたいぐらいなのに…と言い返そうと思ったら、彼女の目から見る間に涙が溢れてきたので、思わず言葉を飲み込んでしまった。
…そこまで、俺のことを心配してくれたのか… 
 しかし、そのあと早口でまくし立てた彼女の言葉は、何とも現実的な内容だった。
「あなた!現状を理解しているの? 2人働いてやっと暮らしているのに、ローンはまだ残ってるし、お義父さまの緊急入院費も送らなくちゃいけないのよ!」
 そう叫んだあと、そこで一息ついた彼女は、顔を手で覆い、震える声で話しだしたのである。
「このまま…、一生…、あなたがその体ならば…、私達、一体どうやって暮らしていけばいいの…」
「…」
 ぼろぼろ涙をこぼしながら泣いている美紀子を見ていると、情けないやら恥ずかしいやら、俺の体がますます縮んだ気分になってしまった。
…とほほ、生活を考えずにお婆さんの魔法を無邪気に受け取った罰というわけか。
 そして、ちゃぶ台に「転がっている」半球状の涙を見つめていると、俺の心の中にも、決断を迫る気持が湧き起こってくる。 
…そうだ、彼女をここまで泣かせた以上、今の俺にできることといえば…
 ようやく彼女の嗚咽が小さくなると、ちゃぶ台の上で正座して頭を下げた
「美紀子、ごめんなさい。何なら俺を見世物にしてもいいから…もう泣くのは止めてくれ」
 すると、泣きはらした目でじっと見つめていた彼女は、いきなり俺を両手ですくいあげ、少し寂しい顔をしながらやさしく話しかけたのだった。
「私も、無茶なこと言ってごめんなさい。体のことは圭ちゃんにだってわかんないものね」
「…」
「でも、見世物にするくらいなら、すべてを売ってでもあなたと一緒に暮らしていきます」
「美紀…」
「…そうそう、小さくなったんだから、ちょうど一人分の費用が浮いていいかもね」
 そう言って無理に笑った彼女だが、目からこぼれる大粒の涙は止まらず、俺の体に降り注いでたちまちびしょ濡れになってしまった。でも、彼女の決心を聞いて俺の目からも同じものがじわりと溢れ出してくる。

…その時である。
 結婚指輪が再び熱を帯びてきたのだ。
 その熱い感触から、不意に小さくなった状況を思い出したので、俺は美紀子に向かって怒鳴った。
「早く・・早く降ろしてくれ!急いで!」
 しかし、いきなりの命令に彼女は面食らっているばかり。
 もう時間が無い、と思った俺は一六勝負で美紀子の手から飛び降りた。
「!!、圭ちゃん!」
 その直後に、俺は元の姿へ戻ったようだった。
 顎と腹をちゃぶ台の縁でしこたま打ちつけ部屋でのた打ち回る俺を、彼女は涙顔で呆然と見つめている。やがて痛みも引いて体が元に戻ったことがわかると、しばらく黙って美紀子を見つめ、あらためて膝をそろえ彼女にむかって一礼した。
「ただいま」
「…おかえりなさい」
 美紀子はそう答えると、たちまち俺の体へ飛び込んで抱きついたのだった。

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その翌朝…
 昨夜は、抱きついた後で我に帰った美紀子から散々説教をうけたあと、早起きして老婆のところへ行きましょうと強引に約束させられてしまった。
 休日まで早起きさせられた俺は、路地を歩きながら思わずあくびが出そうになったが、美紀子のキツイ視線を受けておもわずそれを呑みこむ。
 やがて、最初に老婆に会った十字路を折れて彼女の家を探したが、なぜか特徴のある古風な家は見つからず、徐々に照りつける朝日の下で俺は途方にくれはじめた。
「おかしいなぁ」
「まさか、ウソついてるんじゃないでしょうね」
美紀子が疑念のまなざしで見つめる。
「そんなことない…でもどこいったんだろう」
 そんな時である、再び結婚指輪が熱くなったかと思うと、突然衝撃が襲って周りの景色が覆い被さるように大きくなったのだ。どうもその場で魔法が発動したらしい。
 すぐそばで小さくなる瞬間をはじめて見た美紀子は、さぞかしびっくりしただろう。
「・…ごめん、美紀子」
 俺は、情けない声を出して彼女のサンダルに歩み寄って見上げると、上空にはあきれかえった美紀子の顔が見下ろしている。やがて、深い深いため息を出した彼女は、周囲を見まわし、靴をなおすふりをしてしゃがんだかと思うと、やさしく掴み上げてくれたのだった。
「まるで、昔見たアニメみたい。あの話ではおばさんだったけど…」
 手のひらの中にいる俺を見ながら、彼女はあきらめの笑みをたたえてポツリと言った。
「もう帰りましょ。どうも、圭ちゃんが満足するまでは魔法が解けないようね。それまで気長に小人さんとお付き合いしましょうか…」
「…ありがと」
 そして、美紀子はそっと胸ポケットに入れてくれると家路につきはじめたのだった。
 俺は、揺さぶられるポケットの中で考えた。老婆が言ったように、冒険を堪能したら魔法を解いてくれるという約束は本当だろうか。いずれにせよ、それまでは体の変化に怯えながら毎日を暮らさねばならないようである。
 日常の中の異世界冒険…そう、俺の小さな冒険はたったいま始まったばかりなのだった。

                      第1話 おしまい