この話はフィクションです。実在する人物・団体・出来事とは一切関係ありません。
小さな冒険 その10
作 モア
「秘 密」 2000/01/15 Ver1.0
風呂あがりのひとときである。
俺は、炬燵の脇に腰をおろし、冷蔵庫から取り出したばかりの缶ビールのプルタブをあけて、ぐいっとあおった。
「…!…!!…!!!」
ぐびり、ぐびりと飲むごとに、声にならぬ声を上げてしまう。
…いやー、この一瞬が一日最高の気分だな。
そう思っていい気分になると、そばにいる美紀子を何気なく見つめた。
すると、彼女はヘッドフォンをつけて、静かにレコードを聴いている。
昨今珍しい部類に入るステレオプレーヤー。しかも、それは我が家に不似合いなくらい立派なものであった。
…しまり屋の彼女にしてはいい趣味だな。
家の中は、大部分が俺の趣味で満たされていると言ってよい状況だが、これだけは、彼女が実家から持ってきた数少ない趣味の品なのだ。
…本当は大音量で聞きたいのだろうけど、このマンションじゃなァ…ごめんね美紀子。
ただ、不思議なことに、このプレイヤーとLPレコードだけは俺が触ることを許してくれないのだ。今までも何度か理由を尋ねてみたけれど、
「そんなこと、いいじゃない。人、好き好きよ」
と、曖昧な答えが返ってくるばかり。
俺も、私物を触られるのは好まないから別に構わないけれど、秘密というのが釈然としない。
…思いきってもう一度聞いてみようか
一通り曲が終わった後で聞いてみるが、やはり曖昧にかわされてしまった。そこでおどけて再度尋ねる。
「まさか、秘密がばれたら君の正体が明らかになるわけじゃあるまいに…」
すると彼女はにっこり笑い、俺の冗談に付き合ってくれる。
「そうね、もし、約束を破って正体を見たりしたら、圭ちゃんの傍から去ってしまうかもしれないわね」
そう言った後の微笑みは、なぜか含みを持ったような感じだったので、俺はちょっと不安になった。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
それから数日後…
「じゃ、自治会の会合に行ってくるわね」
美紀子はそう言って、筆記用具を脇に持ち家を出た。俺は、玄関に向かって簡単な返事をすると、再び炬燵で横になり本を読みつづけた。
ネコと汽車と借金が大好きな随想作家の本を読むときは、いつも奇妙な気分に引き込まれるが、今日は、レコードにまつわる話を読んでいるので、一層不思議な気分になっている。
「…」
こうして本を読みながら、美紀子のLPプレーヤーをちらりと見てしまっては、もういけない。徐々にその存在が気になってきたのである。
…気が散って、本が読めない。
何とか気を紛らわすために、ごろりと天井へ寝返りをうったその時…
「うわぁ」
いきなり魔法が発動したのである。
しかし、そんなことを考えている間は無い。頭上に迫る黒い影から逃れるために、必死でその場から駆け出した。
どさり
間髪入れず、文庫本が畳に激突し、その風圧で前のめりにあおられ、一回転してしまう。
しばらくして起き上がり、恐る恐る振り向けば、先ほどまで読んでいた本が、だらしない人の字に伏せたままそこにあった。
「はぁはぁ・・・危なかった…」
文庫本の脇で尻餅をつき、危機一髪をのがれた幸運にしばらく感謝していたが、やがて、心の余裕が戻ってくると、先ほどまで気にしていたレコードプレーヤーに目線が移ってしまった。
それは、古代の神殿のような雰囲気でそびえ建ち、まるで周囲を圧するような、それいて誘惑するような雰囲気を漂わせている。
…まるで、ローレライのようだな。
いつのまにか、プレイヤーの前まで歩み寄り、好奇心と美紀子の約束を天秤にかけながら悩んでいたが、ついに意を決してそれを見上げた。
…留守の間だけだ…のぞいてやれ。
ちょっとしたいたずらのつもりで、俺はプレイヤーをよじ登った。
すると、レコードを収める棚の部分が列柱廊のごとく眼前に迫っている。ここは、鈎のついたガラス戸になっていて、簡単には開けられないようになっていたのだ。
しかし、小人が入る余地は充分にある。
だから、隙間から容易に侵入して鈎をこじ開け、そっと観音扉を開けたのだった。
…どれどれ、何が秘密なのか確かめてやるか。
そして、一つ一つレコードジャケットを眺めはじめた。
「…」
棚にあるレコードは、シネマ・ミュージックが大部分を占めているが、とりたてて秘密にするようなものは見当たらない。
…なんだ、ごく普通のレコードじゃないか。美紀のやつ、何を秘密にしているのだろう。
そう思いながら眺めていると、ふとあることに気が付いた。
…?。同じレコードが2枚ある…
疑問を抱いた俺は、走り回ってもう一枚のレコード・ジャケットと丹念に比較する。よく見ると、片方は何やら黄ばんでいるらしい。
…ほほう、どういうことだ!?
ちょっと興味を覚えてきたので、棚から押出してみることにした。
レコードとはいえ、小人にとっては大変な重量物だが、取り出しやすいようにレールがきざまれているおかげで、比較的たやすく引き出すことができたのだった。
汗をかきかき作業が終わると、何気なくジャケットを仰ぎ見る。
「ほぉ…」
まるで巨大な広告看板みたいなそれは、映画「風と共に去りぬ」のワンシーンが印刷されていたのだ。その上には「スクリーン・ミュージック ベストセレクト」と記されている。
…スカーレット・オハラ、ね。
彼女の自由な性格と美紀子の心配性を比較して、思わずニヤリと笑ってしまう。
それはさておき、再度仔細に観察すると、ジャケットは日向に晒されていたのか変色しており、しかも、すこしばかり変形しているようだ。
…それで、もう一つを買ったのかな? でも、何でこんなもの、後生大事に持っているのだろ…
…と、そんな考えで頭がいっぱいになっていたそのとき…
何故かジャケットがぐらりと傾き、俺に向かって倒れてきたのだ。
「わっ!」
…しまった!引き出しすぎたか!
後悔したがもうおそい。巨大なジャケットは、何かの拍子で弾みがつき、こちらへゆっくり倒れかかってくる。
しかし俺は、なすすべもなくうずくまって目をつぶるばかり…
「!!!!…」
ところが、何故かジャケットは落ちてこなかった。
「?」
おそるおそる天を仰ぐと、たしかに頭上で止まっている。さらに視野を広げると、ジャケットの縁を摘む大きな手が目に入ったのだ…。
…手?
…手!?
…美紀の手!!
そう、そこには屈んでジャケットを押さえる美紀子の姿があったのだ。怒りを押し殺した表情で俺をじっと見つめながら…
・-・-・-・-・・-・-・・-・-・-・-・-・-・-・-
美紀子は、無言で速やかにレコード・ジャケットを片付けると、間髪入れずこちらへ手を伸ばしはじめた。
…やばい!
あわてて逃げようと背を向けたが、いきなり目の前に肌色の壁が立ちはだかり、激突してしまう。
…しまった!閉じ込められたか。
やがて、徐々に周囲が薄暗くなってくる。はっとして振り向くと、大きく指を広げた彼女の右手が、すぐ傍まで迫っているのだ。
彼女は、左手で逃げ道を封じると、右手の爪先で襟首を掴んで宙高く持ち上げ、再び持ち替えて体を親指の腹で圧迫するように握り締めたのだった。
ちょうど親指の先に俺の首がのるような姿勢になって、彼女と対峙する。
その顔は、沈痛な瞳と歯を食いしばったような表情である。
「…」
「…」
長い沈黙のあと、ようやく彼女の口がゆっくりと開いた。
「みたのね…」
何も答えられない俺。
「約束は、ずっと守ってほしかった」
腹部にじわりと親指の圧迫感が伝わってくる。
…まさか、握り潰すのじゃないだろうな
尋常ならざる彼女の表情を見て、たちまち恐怖感に襲われてしまう。
しかし、彼女の視線は、急に宙をさまよいはじめたのだ。
おそらく、俺への対応を決めかねているのだろう。
やがて、視点が定まって冷ややかな目つきに変わると、彼女の顔が視界から消えて、急にめまいを覚える。
完全に手の中に閉じ込められてしまったが、その気配から歩き始めたらしい。
彼女はわざと手を振りながら歩いているらしく、大時化の海みたいに振りまわされて気分が悪くなってきた。
がらがら
…ベランダの引き戸を開けたようだな。
そう思ったとき、いきなり狭い空間から開放されて、宙を舞うような感触に襲われる。咄嗟に受身の姿勢をとると、体がコンクリートに接地してそのまま転がった挙句、窪みにはまってようやく動きが止まった。
「いててて…」
どうやらベランダの排水溝に落ちたらしい。体中をさすりながらようやくたちあがると、目の前に屈みこんでじっと見つめる美紀子のシルエットが見える。
手の位置から考えて、俺を鉛筆でも転がすようにして放り投げたらしい。どんな顔をしているか確かめたかったが、室内の光が逆光となってよくわからなかった。
しばらくその姿勢で見つめていた彼女は、やがて立ち上がり、こちらを一瞥したあと荒荒しく引き戸を閉めてカーテンを下してしまった。
ばちん しゃっ!
その間、彼女は全くの無言だった。
「…」
…こんなところに放り出して、一体どうする気なのだろう
ただ一人ベランダに残された俺は、しばらくそこで考えこんでいたが、吹きすさぶ寒風に思わず身震いをして辺りを見まわす。
…このままでは凍えてしまう。何とか暖を取る方法を見つけなければ。
そう思いながら、排水溝を這い上がり窓際まで歩くと、意外な事に気づいた。
…引き戸が開いているじゃないか
勢いよく閉めた反動だろうか。ちょうど俺一人が入る程度の隙間があったのだ。これは好都合、とばかりに部屋へと忍びこみ、恐る恐る室内を見まわす。
すると、彼女はベランダに背を向けるようにして、炬燵でうつぶせている。耳を澄ますと、そこから押し殺したような小さな声が聞こえてきた。
…泣いているのかな
その姿が気になってしまったので、そっと炬燵に近づき、気付かれないように掛け布団をよじ登って卓上に踊り出ると、湯のみの背に隠れてじっと様子を伺う事にした。
よく見ると、彼女は卓上で腕を組み、その上に額を当ててうつむきながら、低い声をあげて泣いているのだ。
時々こぼれる言葉の断片から、何かを責めているらしい。
いつも派手な声を挙げて泣く美紀子とは違い、低く咽び泣く彼女の声は俺の心を強くゆすぶった。
「…」
誰かが俺の背を突き動かすような気持が、電流のごとく駆け巡る。
そして、無意識のうちにゆっくりと湯のみから離れると、美紀子に向かって歩み寄ってしまった。しばらくじっとその場で立って様子を伺うが、やがて嗚咽が止まり、目を充血させた彼女の顔が両腕の中からあらわれる。
「!」
美紀子は、俺に気づくと、たちまち眉がつりあがり、右手を伸ばして再び掴みかかろうとしたのだった。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
「美紀子、約束を破ったのは悪かった。しかし理由を教えてくれ。君一人、なぜそこまで悩んでいるんだ?」
眼前まで迫っていた五本の指が、ビクリと振動して止まる。
「…どうしても明かせない秘密なら仕方が無い。でも、一人で悩む君を見ていると…俺は…」
言葉につまり、沈黙した俺を、美紀子は泣きはらした目でじっと見ているらしい。
しかし、右手はすぐに動き出してたちまち迫りよってくる。
…掴まれる!
そう覚悟して目をつぶってしまった。
しかし、脇の下にそっと指が入ったかと思うと、優しく掴み上げ、左の手のひらにゆっくりとのせてくれたのである。
「…」
無言の美紀子は、寂しい表情ですこしの間見つめたあと、手のひらを窪めて立ちあがり、レコードプレーヤに歩み寄った。そして、その前で正座すると、黄ばんだジャケットを引き出して中身を見せる。
ジャケットの中には割れたLPレコードが二枚入っているだけだった。
「これだけ…?」
「…うん」
「何故?…」
この割れたレコードが、どうして美紀子をここまで苦しめるのかさっぱりわからない。
彼女も俺の疑問に気づいたのだろう、そっとひざの上にのせなおして、寂しそうに微笑む。
「私もいけなかったわ。このことは結婚前にハッキリと言うべきだったのよ」
そして彼女は、じっと見下ろしながら、ぽつり、ぽつりと昔話を語りはじめた。
学生時代、美紀子は一人の男と付き合っていた。
彼は映画ファンで、休日になると彼女を連れて名画座を周り、往年の映画を見ては楽しんでいた。あまり映画に関心のなかった彼女も徐々にひきこまれ、いつのまにか映画とスクリーンミュージックの虜になってしまった。
彼は、レコードも大好きで、ストックした針を惜しみつつ大切にLPをかけていたらしい。そんな彼に送ったプレゼントが、この「スクリーン・ミュージック ベストセレクト」だったのだ。
「それが、ここにあるということは、結局…別れたのかい?」
その質問に、彼女の顔は一瞬こわばったが、やがて無言でうなづく
「…1月17日に…ね」
そう言うと、うつむく彼女の目は再び涙でいっぱいになったのだ。
…!。そうだったのか…
それを聞いた瞬間、すぐさまあの日を思い出す。そしてジャケットが変色している理由も・…
「…」
…今更気づいてももう遅い。
やがて、涙に小さな嗚咽が加わって、頭上から塩水が大量に降りかかる。
しかし、俺もまた、雨の中で立ちすくむように、濡れるに任せるしかなかった。
「あなたと付き合うようになって、これを捨てるべきだと思ったけれど…どうしても…できなかった」
「…」
「でも、こんなこと…あなたになんか話せない。だから、気づかれないように黙っていたの…」
そして、うつむいたまま目を開いた彼女は、眼下にいる俺を見つめながら、振り絞るようにして声をだしたのだ。
「…ごめんなさい…」
あやまるのはこっちのほうだ。
…何故、早く話してくれなかったんだ。そうすれば気も楽になったろうに…
そんなことを秘密にする美紀子も美紀子だが、知らなかったとはいえ、無邪気に人の秘密を暴いてしまった「残酷さ」を考えると、とたんに胸が締め付けられてしまう。
それが思わず口に出た。
「…俺はホントにバカ野郎だ。好奇心だけで秘密を暴き、お前の心を踏みにじったのだから」
すると、彼女は急に俺を持ち上げて、胸元にそっと寄せ「抱きしめ」たのだった。
どくん どくん
…君の、美紀の鼓動が肌から直接伝わってくる。
しばらくの間黙っていた俺達だったが、やがて、美紀子がささやくように話しかけてきた。
「もういいの…こんな物を、未だに持っている私も悪いのだから。でも、わかって。今思っているのはあなただけよ…」
・………
こうして、しばらくの間静かに泣き続けた美紀子だったが、やがて気持も落ちついたのだろう。ゆっくりと胸元まで放し、小さな声で、嫌なことにつきあわせてごめんなさい、と言ったあと、畳の上へそっと下ろしてくれた。
「…」
そのあと俺は、膝をそろえて見下ろす彼女に向かって、ちょっとばかりおねだりをした。
「代りと言っては何だけど…おれも聴いてみたいな。美紀が聞いている曲を」
「…うん」
ちょっとの間考え込んでいた美紀子だが、そう言って、もう一組のLPを取り出し、丁寧に手入れを行って盤にかけ、棚からヘッドフォンを取り出そうとする。
「今日はいい」
「え…」
「一日くらいいいだろ。スピーカーで聞こう」
やがて、大きな指がしなやかに動いて盤上にあるレコードへ慎重に針を下すと、たちまち荘重で優雅な曲がスピーカから流れ出てきた。
…でも、何か聴いたことある曲だな。
「美紀…この曲は、なんというタイトルだい?」
「うん…」
彼女はそれに答えず、ジャケットをのぞきこんでから、俺の前にそれを示してくれた。
「たしか…これ…」
「ふうん…」
…『世界残酷物語-モア-』、か
曲のイメージとは正反対の名称に驚きを感じる。しかし、何と皮肉なタイトルだろうか。
「…」
少し敏感になっている俺の神経は、「残酷」の文字を見ると、自己嫌悪で思わず視線を反らせてしまった。
ふと、天を仰ぐと、彼女は目をつぶり口元は微笑みながら曲を聴いている。軽く首を振るたびに、涙の流れたあとが光っているのが印象的だった。
…まだ、彼への思いが残っているのかな。
その表情を見て、少し複雑な気持ちになってしまう。
でも…
そのメロディーに耳を傾けていると、わだかまった感情を洗い流すような気持が心に染みわたってくる。
…そうだ、過去の出来事とはいえ、「彼」は彼女の心の一部になったんだ。もういいじゃないか。俺は、素直に悩み・涙し・そして微笑む…そういう彼女が……美紀子が好きなんだ。
その表情を見上げながら、このことだけは、何も言わずそっと見守っていよう、と心に決めたのである。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
その年の1月17日。俺達は、レコードプレイヤーの上に小さな花束をそっと置いた。
そして、阪神淡路大震災で亡くなった6000余名の人々と、美紀子の彼だった人へのささやかな慰霊をこめて瞑目する…
やがて、ゆっくり瞼を開いて一礼し、花束を花瓶に生けると、静かに部屋を出て会社へと急いだのだった。
第10話 終