この話はフィクションです。実在する人物・団体・出来事とは一切関係ありません。


 小さな冒険  その11

            作 モア


        「雪」           2000/02/15 Ver1.2


 がらがら

 肌を刺す冷気にかまうことなく、ベランダの戸を開けて外へ出てみると、眼下には昨日とは全く違った風景が広がっていた。
「おっ、つもってる、積もってる!」
 それを見たとたん、湧きあがる喜びを押さえられずに、表情がほころんでしまう。
 いつもならば、そこから眺める景色は単調な田園風景なのだが、今日は一面の銀世界と化していたからだ。

 俺達の住む町は、冬に1~2回積雪する日がある。今年は「暖冬」と言われながらも、大寒波の影響で昨夜から深々と降っていた雪は、町全体を白色に塗り替えたのだった。
 
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 あまり、雪というものを見る機会が無いからだろうか。
 豪雪地域に住んでいる人には申し訳ないけど、俺は雪が大好きである。特に、新雪の上を「ぎゅっぎゅっ」と音を鳴らして踏み歩くのがたまらない。
 とはいえ、さすがに平日の降雪は通勤の邪魔になって仕方が無いが、今日は休日なので、そんなことなど気にせずに雪を楽しめるのだ。
「♪~」
 だから、今朝は嬉しさ一杯になってしまって、思わず手すりに積もった雪を手ですくい、ぎゅっと握ってしまう。
 それは、新雪特有のやわらかい感触だった。
…ふふふ、この感じ。ずっと待っていたからな。これなら踏み甲斐があるぞ…
 こうして、手すりの雪を払ってベランダに寄りかかり、上機嫌で外の景色を眺めたのである。
 ところが、そのとき…。

「圭ちゃん、寒いわよ。空気の入れ替えも済んだのなら、はやく閉めて!」

「?」
 気ぜわしい声に気付いて振り向けば、そこには、綿入り半纏を着込んで背を丸めた美紀子が、むくれた顔をして突っ立っている。
 よく見たら、何枚も重ね着した「耐寒装備」と言ってもよい姿である。
…そのくせ、スカートを履いているんだから、何考えてんだろ?
 とはいえ、いつもの快活な美紀子らしくない姿に呆れてしまう。
「…美紀ぃ。何だ、その年寄りみたいなナリは」
「だって寒いんだもの…さぁ、早く引戸を閉めてよ!」
 南国生まれの彼女にとって雪は苦手の部類に入るのか、この季節になると、美紀子は別人のようにナマケモノと化してしまうのだ。
「せっかく綺麗な雪景色なのに…」
「ならば、そのまま外にいたら? そうだ、このまま鈎をかけちゃお…」
 見る間に意地悪く微笑んだ美紀子は、戸を閉めるふりをする。
「わぁ~!待て待て」
 俺もおどけてそう答え、慌てて室内に飛び込んだ。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

「ごちそうさま」
 朝食も済んでお腹が満ちたので、何やらやんわりした気分に包まれてしまう。すると、ベランダで眺めていた景色が脳裏にありありとよみがえってくる。

…新雪に一番乗りしたい!

 と思い始めれば、もうじっとしていられない。外出したくて気持がそわそわしてきたのだ。
 ふと、テーブルの向かいを見てみたら、熱いブラックコーヒーを楽しそうに飲む美紀子がいる。
「…」
 そう言えば彼女、この数日間は通勤以外一歩も外へ出ようとしないのが気にかかる。
…休みは終日「コタツムリ」だし、たまには、外に出さなきゃいけないな。
 そこで、思い切って誘いかけてみた。 
「ねぇ、美紀」
「なに?」
「ちょっと、雪を見に出ようよ」
 みるまに、眉をひそめる美紀子。
「えー!?寒いわよ。圭ちゃんだけ勝手に行ったら…」
 と、そっけない答えが返るばかり。
「…どうしても?」
「どーしても!」

 どうやら、梃子でも動かないようである。

…しかたないな。ならば奥の手だ。
 決心した俺は、ゆっくりと立ち上がり、背もたれに掛けていた白色のジャンパーを羽織った。
「わかった、ちょっと行ってくる」
 そして、そろりとした足取りで彼女の前を横切り、ドアのノブに手をかけて立ち止まると、さりげなく呟く。
「でも…」
「?」
「もし、雪の中でいきなり小さくなったら、どうしよう?」
 そう言って、美紀子の顔をちらりとみつめたのである。
「…」
 彼女は、しばらくの間難しい顔をして俺を睨みつけていたが、やがて盛大に溜息をつき、困ったような笑顔を見せて椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってて、準備するから」
 そう言って、居間に引っ込んだのだった。
…へへ、これが美紀を引きずり出す一番の手段さ。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 こうして美紀子を連れ出すことに成功した俺は、連れ立っていつもの公園へやってきた。
「…おぉ!」
 まだ朝も早いので、人っ子一人いない広場は、無垢な新雪で一面に覆われている。
 それを見ていると、もはや我慢などできない。一目散に広場へ歩みより、わっと第1歩を踏みしめた。
 
  ぐぐっ

 すると、靴はくぐもった音をたてて雪の中に吸い込まれていく。
…そうそう、これ、これ! この音が聞きたくて、いの一番にここへ来たんだよ。
 年甲斐も無く、子供っぽい悦楽にひたってしまう。
 そしてしばらくの間は、ただ黙々と「雪原」を歩き回ってその感触を楽しんだ。
 やがて、それにも飽きてきたので、雪玉を転がして雪だるまを作り始める。

「ほんとに、子供みたいにはしゃぐんだから」

「!?」
 その声に気付いて、はっと降り返れば、声の主である美紀子は、コートにミディアムロングブーツの完全装備のまま、ベンチの脇でじっと見つめているばかり。
 前かがみになって寒さにじっと耐えているのか、女性にしては比較的背が高いはずなのに、なにやら一回り小さくなったようにも見える。
…そんな所でじっとしていたら、寒いのも当たり前じゃないか
 なにやら、いじけたような姿にいらだってしまった俺は、美紀子に向かって大声で叫ぶ。 
「美紀ぃ!、この町で雪とは珍しいじゃないか。ねぇ、こっちへおいでよ、いっしょに雪だるま作ろ」
 と誘うのだが…
「いいわ、遠慮しとく」
 と言って、コートの襟を立ててポケットに手を突っ込み、うつむいてしまう。
「…」
…なんか、美紀子らしくないな。
 そんな彼女の「面倒そうな」態度を見ていたら、少しばかり悪戯心が湧いてくる。
 俺は、気付かれないようにそっと屈み、雪を掴んで玉を作った。
 そして…
「じっとしていたら、余計に寒くなるぞ!」
 と叫び、手にした雪玉を投げつけたのである。

  ぱしっ

「きゃっ!」
 それは、狙った場所から大分離れ、彼女のコートに命中した。
 すると…
「…やったわね!」
 人一倍負けん気な美紀子は、そう叫ぶと、たちまち屈みこんで雪をすくい、やや崩れたフォームで雪玉を投げつけたのだった。

  びしっ

「わっ」
 それは、見事に俺の額へ命中した。ちなみに、彼女は高校時代、ソフトボール部のレギュラー選手だったらしい。
…おぉ、痛い。
 あまりの傷みに額をさすりつつ、つい大声をあげてしまう。
「が、顔面狙いとは卑怯ナリ!」
「うふふ、いきなり投げつけて何言うのよっ!」 
 ふたたび、正確に狙った雪球が襲ってくる。俺は左右に逃げ回りながら雪を投げつけるし、彼女は、すかさず応酬するものだから、さながら雪合戦のようになってきた。
 逃げ回りながら彼女の姿をうかがうと、リンゴのように赤い頬をした美紀子が、白い息を吐きながら笑顔を浮かべて盛んに雪球を投げつけている。
…そうそう、これが美紀子なのさ。ぼんやりしている姿は様にならないよっ!
 
 思い通りの状況になって、すっかり気分が晴れてきたので、続けて雪玉を投げようと構えたとき…
 突如、指輪が発熱して魔法が発動したのである。
「ああっ」
「!圭ちゃん」
 遠くから美紀子の叫び声が聞こえたが、たちまち視界が真っ白になってしまった。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 気が付くと、俺は柔らかな雪の中にうずもれているようだった。
「よっこら…!」
 ゆっくりと体を起こすが、たちまち下半身が雪の中へ埋もれてしまう。
…しまったなぁ。新雪だから、体がめりこんで身動きが取れない。
 早くここから脱出しようと、もがきながら這い上がるが、動けば動くほどやわらかい雪に埋もれていく。やがて汗が冷えて体温を奪うのか、徐々に凍えてきたのだった。よく考えたら、周囲はすべて雪ばかり。冷蔵庫に放り込まれたのと同じ状況なのだ。
…しまった、まずいことになってきた。
 しかも、こういう時に限って携帯電話を持っていないとは。思わず身の不運を嘆いてしまったが、いまさら愚痴を言っても仕方が無い。 
 何とかして、早く美紀子が助けに来ないものかと、天を仰いで様子をうかがう。
 しかし…
「圭ちゃーん!圭一!」
 美紀子も小さくなった俺を探しあぐねているのだろう。彼女の声が近くなったり遠くなったりしている。
「おおい! ここだ!」
 たまりかねて大声で叫ぶのだが、軟らかい雪が声を吸い取るのか、彼女には聞こえないようである。
「ねぇ、どこにいるの! 手を振ってちょうだい。白くてわからないのよ」

…白の恐怖…

 ふと、そんな言葉を思い出してしまう。 
 雪はとても綺麗だが、それゆえに全てのものを覆い隠してしまう。きっと俺も、その白色に惑わされて見つからないに違いない。

…まさか、凍死?

 無意識のうちに、首筋がぶるりと震えてしまう。
…マンション下の公園で遭難死、なんて冗談にもならないぞ
 そう心で毒づくが、なにやらそんな気配になってきた。すると、何故か不思議なもので、どんどん悪いほうへ気分が移って心細くなってくる。
「美紀子ォ…早く見つけてくれよ…」
 すると・…

 ぐぐぐっ・…ぐぐぐっっっ・…

 耳を澄ますと、規則正しく雪を踏みしめる音が、こちらに向かって響いてくる。
…ほっ、こっちにやってくる。やっと見つけてくれたんだ。
 こうして安堵感に包まれたのだが、いつまでたっても「歩み」が止まらないことに不安を覚えてきた。
…もしかして。
 妙な胸騒ぎを覚えた俺は、今度は慎重に体を起こし、崩れそうな雪面を這い上がってようやく「地上」に顔を出す。
「ふう…」
 そして、美紀子の姿を探すべく、天を仰いだのだが…

 どさり!

 突如襲う地響きに、危うくバランスを崩してしまう。
「わっ!」
 驚いたのも束の間、なんと眼前には彼女の巨大なブーツが聳え立ち、雪を踏みしめつつこちらに歩み寄ってくるのだった。
 やはり、足元に俺がいることなど気付いていないらしい。
「…!…!」
 対象が間近に有るのと張り裂けんばかり恐怖で、目の焦点は一向に定まらない。しかし、黒い厚手のストッキングを履いているためか、ブーツと脚が一体に見えて、まるでそれは鈍い光沢を放つ塔のように見える。
 しかもそれは、交互に動く踝あたりの皮革が皺打つたびに、靴先が粉雪を跳ね上げながら現れては、再び雪の中へと沈んでいくのだった。
 …このままでは踏み潰される!
 刻一刻と迫ってくる漆黒の塔を見上げて、たちまち全身に鳥肌が駆け巡った俺は、所在を知らせるために大声をあげようとした。
 しかし…
「あっ!」
 突如、足場が壊れてバランスを崩し、たちまち雪の穴へひっくり返ってしまったのである。
「しまった!」
 はやく「地上」に登ろうと体を動かそうとするが、肝心な時に体が強ばって言うことをきかない。

 どさり・…どさっ!・…ずしっ!

 その間も、雪を踏みしめる音は徐々に大きくなっていく。
…はやく、早くここから脱出しなければ!
 ふいに、頭上が薄暗くなる。
「!」
 はっとして天を仰ぐと、大きな靴底が俺めがけてぐんぐん迫ってくるのだ。
…ま・間に合わない!
 逃げ出そうにも、体は地面に縫い付けられたように重く、しかも、五感がすべて痺れてしまったのか、白茶けた「映像」と強い耳鳴りばかりが、かろうじて判るに過ぎなかった…。

 ずずん!

「ぐっ!」
 体のすぐ傍を黒いものが突き抜けたか、と思った瞬間、竜巻のような風圧が襲い、濡れ雑巾で叩きつけられるような感触が顔を直撃する。
「…」
 しばらくの間、魂が飛び出したような感覚で尻餅をついていたような気がする。しかし、ようやく我に返れば、目の前に大きな黒い「塊」が鎮座していることに気づいたのだった。
…ブーツのつま先だ…
 俺は、しばらくの間ぼんやりとそれを見つめていたらしい。
  やがて徐々に感覚が戻ってきたのか、おこりに罹ったように体が震え、頬に刺すような痛みを感じる。そっと頬に手を当てれば手のひらが濡れていて、ようやく、とめどもなく涙が流れていることを知ったのだった。

 そう、俺は、間一髪の差で踏み潰されることをまぬかれたのである。

「た、助かった…」
 しかし、そんな感慨に浸っている間は無い。
「変ね、雪玉がここに落ちているから、この辺りにいると思うけれど…」
 上空から響く美紀子の声から判断すると、未だ俺を探しあぐねているらしい。
…これはいけない。こっちから呼びかけなくては気付いてくれないぞ…
 鈍った頭を振り払った俺は、未だ痺れる体に鞭打って、めり込む雪を掻き分けつつ、必死の思いでつま先の皮革にしがみつき、よじ登った。
 しかし、雪が解けて水滴が付着しているブーツは、皮革が濡れて滑りやすく、なかなか動くことができない。それでも少しづつ前進して、ようやく足の甲までたどり着いたのだった。
「はぁ…はぁ…」
 美紀子のスケールならば、たった15cmほどの距離を進んだだけなのに、疲労のあまり喉はひりつき体はガタガタである。だが、歯を食いしばって中腰になると、天に向かって出せる限りの叫び声を上げる。
「美紀子!ここだ、ここにいるぞ!」
 しかし、『灯台下暗し』とは、こういうことを言うのだろうか。
 彼女は、うつむいて必死に探しているが、コートが邪魔になり、かえって足元が見えないのか、足元の俺など一向に気付かないのだ。

「どこにいったのかしら…」

…だから、ここにいるぞ!

「圭ちゃーん」

 寒くて体を左右に動かすのか、靴が小刻みに揺れて振り落とされそうになる。
…たのむから歩き出さないでくれよ。放り出されるからな。
 すると、つま先を置いたまま踵を持ち上げたのだろうか、いきなり皮革が波打ちはじめて、たちまち「黒い地面」が隆起をはじめたのである。
「わわっ」
 足元が不安定になったので、滑らないよう四つ這いになってしまった。どうやら彼女は、足の血行をほぐそうとして足の指を動かしているようだった。
 とはいえ、俺にとっては大地が揺れるような揺れが続いて困惑してしまう。
…ふ、船酔いしそうだ!
 ようやくのことで揺れが止まった。
「うーん。雪の中にいるから爪先が痺れてきたわ」
 おそらく屈みこんだのだろう。頭上にそびえる長大な脚がくの字に折れて、2つの膝小僧が地面に「降りて」くる。やがて、その脇から一抱えもある人差し指があらわれると、ブーツの上から足先を指圧し始めたのである。
 
…今だ!
 チャンスとばかりに駆け出してジャンプすると、彼女の指先にしがみついたのだった。
 すると、指がびくりと振動して動きが止まる。
「…?」
「み・美紀・…」
 肩で息して見上げれば、きょとんとした美紀子の顔が見下ろしていた。
「け、圭ちゃん?…いつからそこにいたの!」
「と・とにかく、持ち上げてくれ」
「ええ…」
 たちまち片方の手が下りてきて、ブーツのすぐ傍に着地する。
 俺は、寒さで強ばる体を動かしつつ小指に手をかけて、転がるように乗り込んだのだった。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

「大丈夫?…」
 見れば、そこには頬の赤い美紀子の顔が「覗き込んで」いる。
…た、助かった
 その笑顔を見て、俺はようやく生気を取り戻したのだった。
「あぁ、このとおり元気だよ」 
 本当は、気持が緩んで腰砕け寸前なのだが、妙に詮索を受けて、危うく踏み潰されかけた事など話したら、気も狂わんばかりに自分を責めるだろうから、ここは余裕ある声をだして安心させることにする。
「ふう、やっと見つけてくれたね」
 しかし、体は正直なのか、恐怖と寒さで震えが止まらないのだ。そんな俺を、彼女はじっと見つめているようである。
「…」
「どうしたんだい」
「まさか…」
 たちまち彼女の表情が曇り始める。
…!気づいたかな。
「ゆ、雪の中にいたもんだから…ほ、ほら、もう寒くてたまらないよ!」
 そして、かろうじて笑い顔に見える表情で彼女の瞳を「覗き込んだ」のだった。
「…うん」
 それに答える、彼女の困ったような微笑が目に染みる。
 そんな彼女の顔を見ていたら、ふと、外出のときに見せた表情を思い出してしまった。
…もし、外出のときにあのまま彼女を誘わず、一人でここにいたら…
 確実に凍死していただろう。

 ぶるる…

 そう、俺の気まぐれが、結局生死の分岐点になったことに気づいて、あらためて背筋が寒くなってきたのだ。
 それが、彼女の肌に伝わったらしい。再び表情を曇らせた美紀子は、そっと俺に問いかけた。
「圭ちゃん、寒い?」
「ん、少しね」
 しばらく、何かを考えていたのだろう。ぼんやりと見つめていたようだが、やがて何か思いついたのか、目がいたずらっぽく微笑みはじめる。
「じゃ、こうしてあげる」
 美紀子は、俺を手のひらに乗せたまま両手をぴったりと合わせた。
…?何するんだろ
「ちょっと手を動かすから、しっかりつかまっていてね」
 彼女はそう言うと、左手を立てて指を曲げ、まるで水をすくうような「筒」を作ったのである。
 突如できあがった筒底から「口縁」を仰げば、美紀子の顔がこちらへどんどん迫ってくる。やがて、「筒口」に唇が触れてわずかに開き、そこから暖かい息が吹き出てきたのだ。

 はぁーっ

 かすかなコーヒーの香りが漂ったかと思うと、徐々に周囲の気温が上がっていった。

…暖かいや

「どう?温まった」
「ああ、ありがと」

 しばらくは息を吹きかけて暖めてくれた美紀子だったが、やがて何か考え込んだらしく沈黙してしまう。

「ねぇ、圭ちゃん」
「ん?」
「さっきは…危ない目にあわせてごめんね」
「?」
「足元のこと…」
「!…気づいていたのか!?」
 相手は無言でこっくりとうなづく。
「…大丈夫だよ」
「…」
「…ほら、こうして無事なんだからいいじゃないか。俺も不注意だったし…おあいこだよ」
「うん」
 すると、再び笑顔へと変わっていく。
…何も言わなきゃばれないのに、やっぱりそこが美紀だな…
 妙に律儀な彼女の仕草に、可笑し味を感じてしまう。

「わあぃ!」

「?」
 気がつけば、周りがにぎやかになってきた。
 声のありかを探って振り向くと、マンションの入り口から歓声を上げた小学生が現れて広場を駆け回り始めたのだった。すると、たちまち公園がにぎやかになってくる。
 いつもは家に閉じこもっている子供達も、さすがに今日は外のほうが良いみたいだ。
「…」
 ちょっと間、公園ではしゃぎまわる子供達を眺めていた俺達だったが、やがて頭上から呼び声が聞こえてくる。

「さて、もう頃合ね」
「そうだな、かえろうか」
「そして、コーヒーでも飲みましょ」
「俺は、ぬるいめに、な」
 それには答えず、にっこりと笑う美紀子。
 
 やがて、彼女は俺を掌中に抱えたままゆっくりと立ち上がり、壊れ物を運ぶような所作で家にへと歩み始めたのである。

                    第11話 おしまい








-おまけ-

この話はフィクションです。実在する人物・団体・出来事とは一切関係ありません。



 小さな冒険 

            作 モア

     「美紀子の憂鬱:留守番編」 2000/01/15 Ver1.0


…予定時間を、とっくに過ぎているというのに…
 美紀子は、姿勢を正して炬燵に座り。壁にかけられた時計を穴があくほど見つめていた。やがて、両手で無造作に髪の毛をかきむしり始める。

…約束どおり定時連絡をしてよ!

 ついに我慢できなくなったのか、いきなり立ち上がると、居間の中をぐるぐる歩き始めたのだった。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 昨秋の小異動で内勤になった圭一にとって、急に命ぜられた出張は意外な出来事であった。
…ふーん。年度末だからかな? もう外に出ることなど無いと思っていたのに…
とは言え、彼にとって満更嫌なことではない。
 むしろ、出張の話を聞いた美紀子の狼狽ぶりに驚いてしまったのだ。
「ど…どうしたんだ!? 美紀…」
 今にも泣き出しそうな美紀子の顔を、覗き込んでしまう圭一。
「圭ちゃん。この出張、他の人に代わってもらえないの?」
「ん?…うん」
「どうしても!?」
「…仕事だからね」
 といって、微笑むばかり。
 しかし美紀子は、彼の表情を見て耐えられなくなったのか、どん、と机上に平手を打ちつけた。

「あなた!現状を理解しているの!」

 意外な彼女の怒鳴り声に、圭一、きょとんとしてしまう。
「…出張だろ?」
 すると美紀子は、圭一の鼻先に「ぐいっ」と顔を寄せて睨みつける。
「圭ちゃんの体は、いつ魔法が発動するか、わ・か・ら・な・い・のよ」
「…」
「もしも、出張の最中にそんなことがおきたら…どうするの!?」
 心配のあまり感極まってしまったのか、最後は涙声になってしまう。
 しかし、そんな姿を見ていた圭一は、染るような笑顔を見せると、彼女の頬にそっと手を当て、親指でこぼれる涙を拭ったのである。
「大丈夫」
「…?」
「魔法は発動しないよ」
「何故…わかるの?」
 あまりにもはっきりと言いきる彼に、とまどってしまう。
「そう…気分かな。なぜか、小さくならないように思うんだ」
 
「それは、圭ちゃんの勝手な推測じゃないの」
 すると珍しいことに、圭一は真面目な表情になって美紀子をみつめた。
「…僕の言葉が信じられないのかい?」
「…」
 そこまで言われては、彼女も返す言葉が無い。しばらく彼の顔をにらみつけたが、やがて小さく溜息をつくと、寂しそうに微笑んだ。
「わかったわ。圭ちゃんの言葉を信じる」
「ありがと」
「そのかわり…」
 目をつぶり、彼の胸元に体を預ける美紀子。
「定時連絡と、万が一の緊急連絡は必ずしてね」
「約束する」
 彼女の肩にそっと手を乗せた圭一は、そう言って大きくうなずいた。

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 ところが、最終日になってその定時連絡が入らないのである。予定時刻が過ぎて、さらに2時間・4時間と経過するごとに、美紀子は落ち着きを無くしていった。
 もはや、帰宅しても家事など手につかない彼女は、居間で座ったり立ったり、まるで檻の動物のように部屋中うろついている。最後の手段として携帯電話をかけたのだが、留守録を指定する無機質な声が聞こえるばかり。
 …なんで、通信を切っているのよ!
 そのとき、いやな予感が頭をよぎる。
 …もしかしたら、駅や電車の中で小さくなったのかしら。それとも、昨晩のホテルで小さくなったまま連絡できないのかしら。ひょっとして!小さくなったとき、誰かに見つかって囚われているかもしれない。
 こうして、不安はどんどん増していく。

「圭一のバカ野郎!」

 ついに耐えられなくなったのか、天井に向かって怒鳴り声をあげてしまった。

 ぴんぽーん

「!」

…もしかして!
 チャイムの音で反射的に立ち上がった彼女は、スリッパも履かずに玄関へ駆け込み、チェーンロックを外してノブをひねった。

 がちゃり

「ただいま」
 するとそこには、両手に荷物を抱えたコート姿の圭一が立っていたのだ。
「!…」
 美紀子の胸中に、暖かい液体が注ぎ込まれたような感触が満たされていく。しかし、彼女の表情は、心とは反対に、たちまち怒り顔へと変わっていった。
「こらぁ…圭一!今日の定時連絡はどうしたの!?」
「あ…ごめん」
「…『ごめん』って…」
「お土産を買っていたら、つい忘れてしまった」
 けろりとして答える圭一を見ていると、ますます怒りがつのってくる。
「馬鹿!」
「え」
「あんたにとっては何でもないことだけど…」
「!?…」
「どれだけ心配したか…わかる!」
「ごめん、ごめん。でも、こうして無事に帰ってきただろ?」
「…」
「さ、これは家のお土産。お茶でも入れて一緒に食べよ」
「そ・そんなことで、誤魔化されないんだから!」
「さ・さぁ、さぁ。電車に揺られて疲れているんだ。とにかく上がってから話を聞こう」
「…」
 そういわれては、美紀子も引き下がらざるを得ない。こうして圭一は、靴を脱ぎ一度荷物を床に下ろして屈もうとした。

 すると、そのとき…
「!」
 圭一の、声にならぬ声があがる。

 どすん

 そして、圭一が抱えていたみやげ物を入れた袋が床に落ち、中身が廊下に散らばってしまう。
「あ!」
 突如として彼の姿が消えた事を知った美紀子は、はっとして立ち止まり、慎重に足元を見つめる。しばらくすると、鞄の影から小人がもぞもぞと現れたのだった。
「おーい、美紀子。ほっとした拍子に魔法が発動しちゃったよ」
「…」
 暫しの間、足元の小人をきょとんと見つめていた美紀子だが、やがてみるみる苦笑の表情に変わっていく。
…本当に…圭ちゃん、たら…
 そして、ゆっくり屈みこんで右手を下ろし、彼に乗るよう促した。
「ほら、やっぱり魔法が発動したじゃない」
「へへへ…美紀子さんの言うとおりでした」
 照れくさいのか、圭一は床の上で尻餅をつき頭を掻いている。
「そのせいで、お土産が散らばってしまった。すまないけど、美紀が運んでくれ」
「ええ」
「お土産が壊れたかもしれないな、そのときはごめんナ」
「いいわよ」
…私にとって一番のお土産は、あなたが無事に帰ってきたことよ。
 しかし、さすがにそんなこと恥ずかしくていえなかったので、そろりと立ち上がり、掌中の圭一へにっこりと微笑む。そして、彼を胸ポケットに入れ、中の小人を圧迫しないように上から手をそっと当てたのである。
…おかえりなさい、圭ちゃん。
 こうして美紀子は、床に散らばる荷物を手提げ袋に詰めなおしたあと、ゆっくり抱えて居間へと歩み去ったのだった。

                     おしまい