● 第14話:小人の絵描き

 カラスの鳴き声が寂しく木霊している。あっという間に七海さんとのお別れの時間がやってきた。
 七海さんは黒塗りの高級車の中に乗り込むと、窓から顔を出して姿が見えなくなるまで手を振って帰路についた。

「何ニヤニヤしてるの」
「そんな事無いぞ」
「気持ち悪い。次そういう反応したら踏み潰すから。で、なんでニヤニヤしてるの?」
「いやだからそんなニヤニヤしてな……あぁぁぁぁいやぁっ!?」

 すぐ真横に小鳥さんの巨大な脚が踏み降ろされた。
 無理もない。七海さんとあんな事やこんな事をしてしまったのだ。
 その後、何やら不穏な雰囲気が漂ったものの、エロい事はしつこく脳裏に残っていた。

「まぁいいや。どうせ七海に籠絡されたんでしょ。あの子は男子キラーだからね。男のツボがわかってる感じする」
「あ……そうね……」

 鋭すぎ以下略。

「ところであの子、私の事なにか言ってた?」
「天才だって言ってたよ」
「なにの天才だって?」
「それは俺からはとてもじゃないけど言えないです」
「ふーん……」

 お見通しという感じの顔で仁王立ちする小鳥さんは、この世のどんな存在より恐怖の大王に相応しい。まさに天性のドSだ。

「まぁいいや。今日はありがとう。私のワガママに付き合ってくれて」
「むしろこちらこそありがとう。楽しかったよ」
「はいはい。帰る間際もずーーーーーーっと名残惜しそうにしてたもんね。楽しかったんだね。あの子と居る方が」
「んむぐぐぐ……」

 もうなんかナチュラルに踏みつけてきた。
 それが当然のじゃれつき方とばかりに、俺は七海さんの素足の下敷きになった。
 即座に仰向けになって、変なふうに身体が折れ曲がらないように寝転ぶ俺も、絶妙な痛みを感じさせる体重のかけ方をする小鳥さんも、お互い慣れたものだ。
 あぁ、これだ。この感覚だ、と脳が非日常から日常への回帰を認識し始める。
 まだ入浴していないからか、ほんのり酸っぱい香りと汗の塩っぱさが俺の脳を痺れさせた。

「誰がご主人様かって、思い出させてあげないとね。小人さん」
「僕のご主人様は小鳥さんだけです」

 散々踏みつけられた後、親指と人差指だけで顔の前まで持ち上げられると、大層ご機嫌な顔が目の前にあった。
 でも待てよ。これってもしかして……。

「小鳥さん……もしかして俺が七海さんと仲良くしてたの嫌だった?」
「は? 違うし。何言ってるの、小人さん」
「そっか。それならいいんだ」
「余裕見せつけてくれちゃって。小人さんのくせに生意気だよ。お仕置きをお望みかな?」
「はは、そうだな。今日は少し趣向を凝らしたものにしてみよう」
「注文までつけるなんて随分攻めてくるじゃん」
「いやごめん。ちょっと調子に乗りすぎた」
「いいよ。今日は小人さんのワガママに付き合ってあげる。ちょっと待ってて、準備してくる」

 今日の小鳥さんは特別ご機嫌に見えた。七海さんと秘密を共有出来たのがよっぽど嬉しかったのだろうか。
 俺を巡って七海さんに嫉妬してるとか、流石に思い上がりも甚だしいな。
 オタクはちょっと優しくされると、すぐに好意を持たれてると勘違いしちゃうからな。
 そうやって自省していると、コンコンという音が聞こえてきた。いきなり開いたドアにぶつからないようにという小鳥さんの配慮だ。

「はい、お待たせ。これが何かわかる?」

 ドサッと床に置かれた物体は、もううんざりするほど見慣れたものだった。

「板タブだ! 小鳥さんも絵を描くんだ?」
「そんな大したものじゃないよ。やってみようかなって買ってみたけど、私の性に合わなかったみたい」

 小鳥さんは失敗失敗というような苦笑いを浮かべながら、嘆息した。
 そんな軽い調子で買える代物じゃないとお小言を言いたいぐらいだが、そこはもう生きている世界が違うという事で飲み込むことにした。

「今日はこれで私の事を描いてもらおうかと思って、ちょっとおしゃれしてきたよ」

 白いワンピースに、紺色のベレー帽。足元はボーダー柄のアンクルソックスに包まれている。マリンルックで仕上げたシンプルに可愛らしい服装だ。
 くるりと回転し、ワンピースの裾は天に漂うオーロラのようにフワリと浮かび上がった。

「ほら、おいで。小人さん」
「え、いいの?」
「いいから早く」

 クイクイと足の指先で招かれるまま、俺は足元の方へと近づいていく。
 すると当然、小鳥さんの身体はみるみる大きくなり、ワンピースによってギリギリ隠されていた部分が顕になっていく。
 『パンツ見たでしょ』から始まる、挨拶代わりのおしおきタイムかと思い、逆に期待感を募らせた。

 そして遂に『きょうのぱんつ』が明らかに……。

「はい、残念でした~。中にショートパンツを履いていました~」
「なっ……!」
「私からわざわざ見せてあげるわけないでしょ。変態小人さん? 罰として、たっぷり私の身体を味わうといいよ」

 小鳥さんがズシン、ズシンと後ろに下がる。
 もはや隠すどころか、自らの手で裾を捲くり上げ、「これが見たかったんでしょ」とばかりに白いショートパンツを見せつけてきた。
 膝を折り曲げて、俺の目の前にペタンと座り込む。
 太ももが左右で睨みをきかせ、上空では後ろ髪すら前に垂れるほど俺を見下ろしている小鳥さんの双眸が、鋭い眼光を放っていた。

「…………」
「…………」

 巨城のようにそびえる小鳥さんの身体がズイッと動く。
 ギィギィと床が若干軋む音と共に、小鳥さんの股間は真っ直ぐに俺を捉えながら接近してきた。

「…………」
「…………」

 俺も一歩下がる。だがすぐに小鳥さんの股間に追いつかれる。
 一歩、もう一歩。一進一退の鬼ごっこ。

「……ふふっ」

 背中に固いものが当たる。もう後ろへは下がれない。
 前方は小鳥さんの脚に完全に包囲された。勝ち誇ったような声から、小鳥さんのご機嫌ぶりが伺えた。

「そこから1分以内に出られたら小人さんの勝ち、出られなかったら負けだよ。ハンデとして、私は手は使わないよ」
「俺が勝ったら?」
「勝たせてあげないからその質問に答える必要はないね。はい、どうぞご自由に逃げてくださいな」

 突然始まった脱出ゲーム。
 小鳥さんは早速『いーち、にーい』と数え始めたので、俺も即座にいくつか脱出経路の目星をつけた。
 まずは膝と床の隙間からだ!

「駄目だね。不合格」

 膝のカーブした部分が作り出していた僅かな空間に身体を滑り込ませたが、それは小鳥さんの罠だったようだ。
 小鳥さんは腰をもぞもぞと動かしたかと思うと、そのまま横滑りしているようだ。
 気付けば、俺は再び太ももと壁のデルタ地帯のど真ん中に立たされていた。

「18、19……」

 下が駄目なら、今度は上から。
 思い切り跳躍し、小鳥さんの太ももの崖に手をかけた。

「うぅ、くすぐったいなぁ」
「お、ちょっとまっ……」

 身震いする小鳥さん。
 かろうじて掴んでいた俺の手を振りほどくように、太ももがプルプルと躍動する。
 俺の手がその柔らかさに沈み込んだかと思ったら、その反動で振り落とされてしまった。

「あははっ、JCの太ももに弾き飛ばされてる。大の大人が恥ずかしいねぇ。ほらほら、どうしたの。もう30秒経ってるよ? 下も駄目、上も駄目。それじゃあどうしたらいいのかな? こんな事、小学生でもわかるよ。小人さんもそのちっちゃい脳をフル回転させて考えてみてよ。えーっと、30、31……」

 とても楽しそうだ。どうやら小鳥さんが呪文を唱えている間は、時が止まるらしい。
 本当ならもう今のセリフを言っている間にタイムオーバーだ。
 小鳥さんは時を刻みながら、ここ入ってもいいよと言わんばかりに腰を持ち上げ、膝で折り曲がった部分に隙間を作ってくれた。
 もうなんとなく結末は見えたが、行くしかない。

「うおぉぉっぶぇぇぇ!」

 腕を前に出し、グッと地面を蹴り、火の輪をくぐり抜けるかのように自らを射出させた。
 しかしその勢いは凄まじい重圧によって寸断される。
 頭だけはなんとか脱出出来たが、腹部は完全に太ももに挟み込まれ、全く身動きが取れなくなっていた。

「55、56……」

 ペチペチと太ももを手で叩いてなんとか脱出を試みるが、巨大な小鳥さんにとってはくすぐったくも無いようだ。
 その抵抗すらさせないとばかりに、小鳥さんは脚に力を込め、締付けがさらに強まった。

「抵抗してくれないとつまらないなぁ。ねぇ聞いてる? 抵抗しなよ。ほら」
「うっ!」

 顎を指でグイと持ち上げられる。気道が締まって息がしにくい。
 息苦しさから自ずと身体が動く。だがその藻掻きは全て、小鳥さんの脚の弾力の中に溶けて消えていく。
 そんな、俺が暴れても微動だにしなかった肉の断頭台が、何の前触れもなく動き出す。

「ご~~~~~~~~~~~~~~~~~じゅ~~~~~~~~~~~~~~~~~な~~~~~~~~~~~~~~~~~な」

 カウントがとてつもなく遅い。
 アニメかなにかで巨大化したキャラクターは声が野太くなって、尋常じゃなく間延びした感じになっていたが、今の小鳥さんはまさにそれだった。
 なんだか、ただでさえ小さい自分が、もっと小さくなっていくような錯覚に襲われた。
 ギリギリ頭部だけが出ていた俺の身体は、小鳥さんの身体に吸い込まれるように縮み、やがて全身が太ももに包まれる。
 まるで両腕で抱きしめられているかのような感覚。このまま身も心も委ねてしまいたい……そう思わせるほど、そこは居心地が良かった。

「ご~~~~~~~~~~~~~~~~~じゅ~~~~~~~~~~~~~~~~~は~~~~~~~~~~~~~~~~~ち」

 100分の1。約2cmの自分。もう小鳥さんにとっては、どの指よりも小さい存在。
 逆に俺にとっては、あのゴジラなんかよりも大きい超巨大生物。ビルで言うと40階くらい。
 10分の1の時ですら全く敵わなかったが、質量100万倍と化した小鳥さんは触れただけで俺の身体など消し飛ぶ。
 

 
「ご~~~~~~~~~~~~~~~~~じゅ~~~~~~~~~~~~~~~~~きゅ~~~~~~~~~~~~~~~~~う」

 さらに縮んで1000分の1。約0.2cm。
 ミジンコとほぼどっこいどっこいか、むしろあっちの方がでかい。
 小鳥さんの視力が低ければ、もう視界にすら入らない。小さすぎて踏み潰されないかもしれない。
 質量10億倍……日本人全員を合わせても到底届かない極大質量。それが1000倍の小鳥さんだ。
 身長は富士山の半分。2,30分も歩けば北海道から九州までを縦断出来る。
 一歩踏み出せば、町の1区画はあっという間に消滅するだろう。まさに災害クラス。
 人類は、その頭脳によって数々の発明をしてきたが、台風や地震……そんな自然の巻き起こす災厄から逃げる事は出来なかった。人は……無力だ。

「はい60。さてさて、小人さんは抜け出せたのかな?」
「………………」
「のびちゃってるじゃん。おーい、起きてってば。そんなに体重かけてなかったのに、失礼だよ小人さん」
「………………」
「………………(体重をかける)」
「ああああああ!!!!!!」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 危なかった。顕微鏡ですら見えないレベルにまで脳内縮小していた。
 俺は両脚でピンと張った広大なハンモック(ワンピースの裾)に寝転ばされていた。
 こんな布切れすらたわませる事も出来ない、軽い男。それが今の俺だ。
 落ちてしまわないようにゴロンと内側に転がり、小鳥さんの腹部にタッチすると、『んっ』という歳に似合わぬ艶めかしい声が頭上から聞こえた。

「なにしてんの。エッチ」
「落ちたら危ないなと思って……」
「そんなにお腹が触りたいなら思う存分どうぞ。エロ小人さん」
「うぶぶっ!」

 小鳥さんのお腹が覆いかぶさってきて、太ももとお腹にサンドされてしまった。
 今日は挟まれてばかりだ。なんて日だ!(嬉しい悲鳴)
 今小鳥さんが着ている服は薄い生地なので、小鳥さんの体温が直接伝わってくる。

「ちょ、暴れないでよ。くすぐったい」

 なんだか、小鳥さんに温めてもらっている卵にでもなった気分だ。小鳥さんだけに。
 それにしても小さくなってからというものの、小鳥さんに母性を感じてしまう場面が多々ある。
 身体の大きさが与える影響はとても大きいのだろう。

「じゃあ戯れはここまでにしよっか。ほら、降りた降りた、しっしっ」
「痛い痛い痛い!」

 ゴミを払うかのように指先で弾かれ小鳥ハンモックからの立ち退きを余儀なくされてしまった。

「はい、これがペン。せっかく小人さんの為におしゃれしたんだから、可愛く描いてよね」
「よーっし!!! 頑張るぞー!!!」

 グイッと差し出されたペンは、全長15cm、俺にとって150cmとほぼ人間一人の身長はある大業物だ。
 当然自在に操れるわけも無く、両腕で抱きかかえてバランスを取るのが精一杯だった。

「あのー」
「ん?」
「これはちょっと……」
「取り敢えず描いてみよう?」
「え~……」
「書道のパフォーマンスで、大きい筆を使って立派な文字を書けてるじゃん。やれるよ」

 ……確かに言われてみればそうかも。

「んんんんんん!!!」
「おー、頑張るね。じゃあ私もポージングしようかな」

 半ば引きずるようにペンを板タブまで持ってくると、渾身の力を込めて線を引いた。
 小鳥さんの前に、線の一つも引けなければ話にならない。

「私の事見ないで何描いてるの。こっちこっち」
「あぁぁぁぁぁ、首がもげる!」
「だめー、私の事を見るのー」

 小鳥さんはなんだか甘ったるい声を出しながら、レゴの人形で遊ぶかのように俺の首をねじ回してきた。
 これはご機嫌といえばご機嫌なんだろうけど、いつもと違う雰囲気の小鳥さんに若干の戸惑いと共に、素直に嬉しい気持ちになった。

「なんとか線は引ける……から……今度こそ……小鳥さんを描くよ」
「早く、早く」

 モニターに映る線は、お世辞にもキレイな直線や曲線では無かったが、仕方ない。
 急かすご主人様の要望に応えて、サクッとラフ画で終わらせよう。

「………………」

 30分が経過した。
 何が描けたかというと、何も描けていない。
 正確には、納得の行く絵が全く描けない。

「あれ? これは何?」
「こ……これは……」
「人?」
「……そのつもりだったんだけど」
「なんか子供番組で紹介されてる絵みたいだね。グルグル~ってやつ」
「…………」

 子供達の絵をバカにするつもりはないが、大の大人が大見得切って描けると言って出した絵がこれじゃ、そりゃ落胆もするだろう。
 小ささは言い訳には出来ない。やれている人は居るんだ。
 つまりこれは、俺が絵から逃げてきたという動かぬ証拠なんだ。

「ねぇ、もうちょっと頑張ってみようよ。私も手伝うからさ」
「あ、あぁ……そうね。もうちょっとだけやってみようかな」

 小鳥さんがペンを支えてくれたが、肝心の絵はダメダメだった。
 ダメだ。描けない。全然描けない。恥ずかしい。顔が熱い。耳も熱い。

「あ、このペン先だけで描いてみたら? やっぱり私が支えてたらかえって描きにくいみたいだったから」
「……はい」
「…………あれ、抜けない。ていうか掴めないよ」
「爪切りとかでそっとやれば取れるから」
「そ、そっか。わかったよ…………よし、取れた。やっぱ詳しいね。はい、じゃあこれ」
「…………」

 筆圧が足りない。ペンの重さが乗っていたからかろうじて描けていたのが、もはやモニターには何も表示されない。
 たまに点が打たれるのみ。それも俺が全体重をかけた瞬間だけだ。
 あぁ情けない。本当に情けない。

『何これ?』
『いやあの……今朝リテイク入ったスチルですけど』
『いやそんなん見たらわかるよ……はぁ、XXXくんさぁ、これでいいと思って出してる?』
『…………』
『黙ってたらわかんないんだよ。あのさぁ、お前の絵には魂入ってないの。やり直し』

 お前は何をやってもダメダメだと上司に言われ続けて数年。
 耐えきれずに逃げ出して個人活動を始めても1年もせずに挫折。
 啖呵を切って実家を飛び出して、心配を沢山かけてまで夢を追いかけたはずなのに、このざまだ。
 このモニターに映る小さい点が俺だ。
 今や身体まで小さくなって、本当の意味でちっぽけな存在になってしまった。

「…………くっ」

 もう、なんだか泣けてきた。
 枯れたと思ってた悔し涙がまだ残ってたみたいだ。
 JCの目の前で泣くアラサー男とか、この世で最もみっともない光景だぞ。
 そう考えると余計に泣けてきた。

「あ、あれ……小人さん……?」
「…………うぅ……お、おれ……」
「小人さん!」
「!?」

 何かが飛び込んできたと思ったら、身体の自由が完全に奪われていた。

「ごめん……ごめんね。辛い事させてごめんね……」
「こ、小鳥さん……?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。夢や幻の類いかと思った。
 だって、あの小鳥さんが、泣きながら謝っているから。
 仰向けに寝転がりながら、俺を抱きかかえている。なぜ?

「出来るかなって、小人さん結構タフだし……このくらいなら出来るかなって思って……」
「いや……出来るよ。こんなに小さくたって描けるやつは描ける。俺は描けないんだ……描けなくなってたんだよ、もう」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「小鳥さんは何も悪くないから。サボってた俺が悪いんだよ……嘘ついてごめん」
「……んーん、ごめんなさい。私も嘘ついてた……こんな大きなペン使えるわけないって……グスッ……ちょっとイジメてやろうって……でも人の好きな事をバカにするような……一番最悪な事……しちゃったぁ……あぁぁぁぁ」

 大泣きだ。俺の涙はいつの間にか引っ込んでいた。

『なして……なしてお母さんおらんとぉぉ……うぇえええぇぇん……』

 まだ幼い頃の心の事を思い出した。母親が死んでいたと知らされた時だ。
 俺は心を抱きしめて、でも何も言えなくて、ずっと抱きしめていたらいつの間にか泣き止んでて。
 いつの間にか俺の方が泣いてて、心が俺の事を抱きしめてくれていたんだ。
 女に泣きつくなんて情けない。俺は本当に情けない男だ。

「うぁぁぁぁぁぁん……うっ、ひぐっ……」
「小鳥さん」
「…………ぐすっ、な、なぁに……?」
「ありがとう」
「……私、ひどい事したのに?」
「俺に絵を描かせてくれようとしたんでしょ? 俺が小さくて何も出来ないから、得意な事させてあげようとしてくれたんだよな?」
「……」
「そういう事にしておこ」
「…………」
「素直じゃないなぁ、小鳥さんは」
「……スン、違うし。私は性格が悪いから、小人さんの事をバカにしたんだもん」
「あーじゃあもうそれでもいいから。それじゃ俺からも一言」

 すぅ、と息を吸って。天井に向かって一気に吐き出す!

「こんなんで描けるかーい! あほんだらぁ! はい、この話は終わり」

 俺は手に巨大なペンの幻影を持ち、それを上空へ投げ飛ばした。

「……」
「小鳥さん。俺、もう一度絵を描いてみるよ。だから俺のワガママを一つだけ聞いて欲しい」
「…………うん」
「小人用のペンを作ってくれないかな。筆圧は、設定を変えればなんとかなると思う。それデフォルトのままでしょ?」
「……わかった。作るよ。小人さんが納得できるような絵がいくらでも描けちゃうような、最高のペンを作る」
「ありがとう」
「んーん、これは私の罪滅ぼしだから……」
「はいはい、それでいいよ」
「…………『はい』は一回でいいんだよ」
「はーーーーーーーーい!」
「もうっ……長いよ、ばーーーーーーーーか!」

 俺を握る力がギュッと強くなる。
 でもそれは苦しいんじゃなくて、暖かく包まれるような心地よさだった。
 あまりの気持ちよさに、つい指に吸い付いてしまった。
 そうか……これが……バブみ……。

「バブってるんじゃないよ……ばーーーーーーーーーーか」
「…………もうちょっとだけここに居ていいかな」

 俺がそう言うと、小鳥さんはしばらく目を泳がせてから静かに口を開いた。

「……………………いいよ」

 こうして俺達は、しばらくの間抱き合ったまま床で寝転がっていた。
 正確には小鳥さんのお腹でうつ伏せになって、両手で包まれているだけだが、それはもう実質抱き合っているのと同じだ。
 プニッとした手のひらとお腹、お腹に耳を当てると微かに聞こえる心音、ぬるま湯のように温かい肌、自分の全身を包み込めてしまう程の大きな身体。
 それらはまさに母性と呼んで差し支えない代物だった。
 時折ポンポンと背中を軽く叩く仕草も、紛うことなき『子供をあやす』為のものだ。
 意識してか無意識か、いずれにせよこの上なく心地よい物だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今考えたら地獄みたいな俺のバブみ事件から数日。
 小鳥さんが夜なべして作ってくれた『アレ』がついに完成をしたという事で、小鳥さんの部屋の真ん中には授与式会場(板タブと横断幕)がセッティングされていた。
 板タブの上に立たされると、小鳥さんは真ん前に正座をし、神妙な面持ちで俺のことを見下ろしてきた。

「お待たせ、小人さん。はい、これ。ちゃーんちゃーん、ちゃちゃーんちゃーん、ちゃちゃちゃちゃちゃんちゃんちゃーん♪」

 それっぽい曲を口ずさみながら、小鳥さんは俺に例のアレを差し出してくる。

「おぉこれはなんて素晴らしいペン……ってこれ今日のパンの切れ端やないかーい!」
「ふふっ、冗談だよ。本当はこれ。試作品第一号……その、早速使ってみて欲しいんだけど、いい?」
「ありがとう! お、これペン先はあんまり削ってないんだ」
「あんまり細くすると折れちゃったから。小人さんが使えばそうならないかもしれないけど、取り敢えずほぼそのままだよ。全体の重さ考えて、少しだけ削った。あ、先の方は普通よりも尖らせたんだ」

 色々考えてくれたらしい。
 使い勝手のところで懸念していた箇所は、全部対応してくれたようだ。
 重さ、大きさはもちろん、持ち手の微妙な太さとか。
 undo(取り消し)とかよく使うショートカットキーは、作業中に手元で押せるようにテコの原理を使った仕掛けを作ってくれていた。

「至れり尽くせりだね、すごいよ。小鳥さんはエンジニアの才能があるかもしれない」
「小人さん。違うでしょ。私はね、何でも出来るんだよ」
「はい、おっしゃるとおりです」
「よろしい」

 よろしいと言われながらも、俺の棒読みがお気に召されたのか腹部を小突かれた。
 小鳥さんもすっかり元の調子を取り戻してくれたようだ。

「よーし! それじゃ早速作業に取り掛かります!!!!!」
「鼻息荒すぎ。静かに出来ないの?」
「………………」
「いや、いきなり静かになりすぎ……あっ」

 描くぞ、描くぞ、描くぞ。
 まずは感覚を思い出さないといけない。
 ラフは勢い。頭に浮かんだ構図が乾かぬ内に最速で再現する。

「………………」

 前に置かれたモニターに表示されている俺のラフと小鳥さんのポージング画像。
 拡大と縮小を繰り返しながら、細部に至るまで仕上げをしていく。取り敢えず今回は線画まで。
 最高の線が出るまで、引いては消し、引いては消し、試行錯誤の繰り返し。
 これぞ現代文明の利器だ。undoがとてもやりやすい。これ重要。
 なんだこれ、小さい方がよりきめ細かく描ける気すらする。
 描ける、描ける、描ける。
 気の持ちようで絵が描けるようになるとは思わない。そんなんだったら、誰だってピカソになれる。
 でも今回だけは、その戯言を信じてみてもいい。
 俺は絵を描いて良いんだ。俺の絵を待ってくれている人が居るんだ。それだけで、筆が乗るってもんだ!

「ふぅ…………」
「…………すご」

 二人して、声が漏れた。
 ゾーンに入っていた俺は、小鳥さんの声でハッと正気に戻り、目の前に出来上がった絵をようやく客観視出来るようになった。
 何時間経ったかもわからない。何度やり直しをしたかもわからない。とにかく夢中で描き続けた。
 これが何万RTもされるような良いものかと言われたら、そうではないかもしれない。
 それでも、言葉に出来ない達成感がとめどなく溢れてきた。

「すごく可愛いじゃん」
「そうだね。小鳥さんはすごく可愛い」
「いやそうじゃなくて、可愛く描けてるよ。もしかして練習した? それともやっぱり前のは描きにくかった?」
「練習はしてないよ。このペンがすごく使いやすい。でもそれだけじゃない。小鳥さんが、俺の為にペンを作ってくれてまで、絵を待っててくれたのが……嬉しかったんだ」
「…………そっか」
「俺の絵を……見たいと言ってくれる人が居たんだ…………くっ……」
「え、なんで、な、泣いちゃ……え、私何も……」
「バカヤロー……これは嬉し涙だっ……スランプ乗り越えた男の……嬉し涙だ! うぉぉぉぉぉあああぁぁぁぁ!!!」

 俺はまた泣いた。小鳥さんも泣いた。意外と涙もろいのかもしれない。
 ひとしきり二人で泣き叫んだ後、改めて俺の描いたマリンルックの小鳥さんを眺める。

「やっぱり可愛いなぁ、小鳥さんは」
「でしょ~? やっぱり描く対象が可愛いと、絵師さんもやる気出ちゃうよね~。凄い気合入ってるもん」
「へへっ、それはどうも」
「それはそれとして、ずーっと気になってたんだけど」
「うん」
「なんで私、ビルより大きいの」

 どうやら無意識に、俺は小鳥さんを巨大娘にしていたらしい。
 ビルが立ち並ぶコンクリートジャングルに大迫力でそびえ立つ小鳥さん。
 推定身長150m。

「俺から見た小鳥さんってこのくらいの圧があるって事で……」
「ふ~ん、そうなんだ。そんなに怖い?」
「……今は結構優しいけどね」
「私がこんなに大きくなったら、小人さんなんて見えなくなっちゃうよ。お世話出来なくなっちゃう」
「いやいや、それどころじゃないよ。自衛隊来るから」
「自衛隊なんかが私に勝てるわけないじゃん。返り討ちだよ」

 そんな巨大娘トークに花を咲かせながら、俺達は出来上がった絵を飾ろうと印刷してみた。

「……」
「……」

 A4用紙のど真ん中に控えめに描かれた怪獣小鳥さん。
 拡大して印刷したら、案の定のピンぼけ小鳥さん。
 解像度は今後の課題だ。

「ねぇ小人さん……目をつぶって」
「……こ、こうか?」
「うん……んっ」
「!?」

 じわりと湿気をまとった柔らかい何かが全身に押し付けられた。
 俺は直感でこれが何かはわかっていたが、その状況を飲み込むことは出来なかった。

「ご主人様のキスだよ。ありがたく思いなさい」
「は、はぇあ……キス……あのスズキ目のキスね……」
「もう一生しないから」
「わーわーわーわー違う違う、嬉しい嬉しい、ありがとう、でもなんでそんな……」
「そ、そんなの………………あ、ありがとうとごめんなさいのキスに決まってるでしょ……アメリカじゃ常識だよ」
「お、おおお俺の方こそ……俺の為にこんな環境を整えてくれて、ありがとう。おかげでまた絵が描けるよ」
「わた、私はご主人様なんだから、ペットの面倒を見るのは当然でしょっ」

 いやいや小鳥さん。これは面倒を見る、の領域を超えてるって。
 本当にありがとう。感謝をしてもしきれないよ。

「いつでも好きな時に使っていいからね」
「ありがとう」
「さっきからありがとうばっかり。ありがとうbotじゃん」
「そ、そうね……あ、そうだ! 俺ばっかり沢山貰っちゃってるから、俺も何か小鳥さんの為にしてあげたいな」
「んー、そうだなぁ……あ、じゃあアレお願いしちゃおうかな……」
「アレって?」
「ひーみつ」
「教えてくれよー」

 イチャイチャ。イチャイチャ。
 イチャイチャ。イチャイチャ。
 イチャイチャ。イチャイチャ。
 イチャイチャ。イチャイチャ。

「ねーーーーーーキミたちイチャイチャしすぎーーーーーーポイント貯める気あるのかい!?」
「え!? はーー!? ち、違うし、イチャイチャじゃないし、ほら見て、こんなに険悪。こんなにイジメてる。えい、えい」
「痛い痛い痛い!」

 突然やってきた使い魔のベクターにお小言を言われてしまったので、束の間のイチャイチャタイムは中止させられてしまった。