● 第3話:死のツイスターゲーム(後編)

「さて、じゃあバトルの始まりだね」
「えっ?」

 バトル? 急展開過ぎて俺は全くついていけなかった。

「同じマスにとまったらバトル。マ◯オパーティでは常識だよ?」
「待って。バトルって何をするの?」
「勿論、そこに止まってる私の左足と、小人さんの全身だよ。私は足だけなんだから、これはかなりのハンデだね」
「ハンデって……」
「このマスから私の足を全部出せたら勝ち、逆に小人さんが出ちゃったら負け。負けたら元のマスに戻らなきゃいけないよ」

 足どころか、足の指一本にすら勝てる気がしない。
 寝転がった自分をスッポリと覆ってしまえる程大きな小鳥さんの足。それを動かせというのか?

 目の前には、彼女の脚が城壁のようにそびえ立っている。
 足を動かすと言っても、それは彼女の全体重を支えているわけで、結局は10倍の身長、つまり1000倍の質量を持つ存在を動かせと言っているに等しい。

 仮に彼女の体重が45kgだとして、今の俺にとっては45t。
 身近な物に例えるとしたら、大型トラック2台分の質量。
 しかも車輪も紐もなく、むしろ素足でグリップが良い為、余計に動かしにくい。

「私言ったよ。勝つつもりでやらなきゃいけないって。そんな私の足に見とれてないで、押すなり引くなりしたらどう? あんまり反応が無いとつまらない」

 不満げな声。これ以上不愉快にさせたら、余計に酷いお仕置きを食らいそうだと判断したので、俺は無駄な抵抗をする事にした。

 今俺は、マスを左右に分断している彼女の左足の外側に居る。
 前門の足、後門の断崖絶壁という具合だ。しかも彼女の足がマスの殆どを占めているので、とても狭い。立っているのが精一杯だ。

 まず、彼女の足を抱きかかえるように両腕で囲む、と言っても手を回しきれかった。
 そしてそのまま自分の全体重をかけて、かかとの方へ向けて巴投げを図った。

 勿論、びくともしない。
 今度は腕に力を入れ、一旦体勢を戻し、勢いを付けてもう一度全体重を乗せる。

 一切動かない。
 逆に、変な力の入れ方をした事で自分の腕を痛めてしまった。

「あはははは! これは結構面白いね。惨め過ぎるよ、小人さん。そんな枝みたいな腕で、私の大きな足を動かせるわけないじゃん。まだくすぐった方が可能性あると思うよ。でもごめんね、私くすぐりには強いんだ」

 嘲笑とともに、また1つ可能性を消されてしまう。まだ満足していないのか、目の前で巨塔は自ら動く意思が無さそうだった。
 もう少し足掻け、もう少し惨めな姿を見せろ、という事だろう。

 ならば今度は指だ。指を変な方向に曲げて、つらせてしまうのはどうだろうか。まだ足全てを動かすよりは行けそうだ。そう思い、指の方へと近づく。
 よくよく見れば、小鳥さんの足は透き通るような薄いクリーム色の肌に覆われ、キズ・シミ1つ無く、まるで芸術品のようだった。

 爪も、その色合いに華を添えるかのごとく、桜貝を思わせる淡いピンク色をベースに、光沢を帯びた真珠のような装飾が控えめながらも施されていた。とても綺麗だ。
 それに、普通は足先など汚れが溜まりやすくて酸っぱい匂いになっているものだが、彼女の足はむしろフローラルの良い香りがした。よく手入れしているのだろう。

「あのさ……足とかネイルに見とれてるのは、まぁ、そんなに悪い気はしないけどね。今は勝負中なんだよ?」
「あ、ご、ごめん」
「勝負してる相手にごめんなんて変なの。ほら、早く。私の足指に何かするつもりなんでしょ? 小さい頭なりに考えた作戦を私に見せてみてよ」

 当然ながらバレている。なら早くやってしまおう。さっきと同じように、今度は小指に腕を回し、思い切り動かそうとする。

 だが動かない。
 よく見ると、指先の所でシートにシワが出来ていた。つまりシートごと握りしめるくらいに指先に力を入れているのだ。

 流石に無抵抗の小指は動かせるかと思ったが、こうされてしまっては俺にはもうお手上げだった。
 だが手を抜いて不興を買うのもよろしくないので、無駄とわかりつつも全力で小指に縋った。

 最終的には小指にまたがり、キャメルクラッチの要領で無理やり曲げようとしたが、それも徒労に終わった。
 その姿が余程滑稽だったのか、小鳥さんは今日イチの愉悦の声をあげて笑っていた。

「あー、おっかしい。今の何? プロレス技みたい。でもごめんね、流石にそれは痛いかもって思って。念には念を入れて少しだけ本気出しちゃったよ。大人気なかったかな? でもこれ真剣勝負だから。私も負けるわけにはいかないんだよね。さて、もう手は尽きたかな。今度はこっちの番だよ。覚悟してね」

 疲れ果てて小指の上で項垂れていた俺を、急な浮遊感が襲った。
 ふと周りを見てみると、地面に敷いてあったはずのシートが無い。

 いや違う。シートはあるが、それが眼下に見下ろせた。
 どうやら俺を乗せたまま、左足を持ち上げられたようだ。片足立ちの状態だが、小鳥さんの身体はまるで両足で立っているかのように安定していた。

「どう、空の旅は。と言っても、大体あなたの身長の倍くらいしか上げてないけどね。でもそのまま落ちたら痛いと思うよ。だから、しっかり掴まってた方がいいんじゃない?」

 その言葉で、次にされる事が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は踵を返して足首の方へ半ば直感的に動いていた。そしてなりふり構わず腕を足首に、脚は足の甲にガッシリと巻きつけた。

「へぇ、よく分かってるね。自分がどうすべきなのか分かってえらいえらい。写真撮って後で見せてあげるよ、今のあなたの姿。私の足がそんなに気に入ったんだね、そんなにへばりついちゃってさ。そこまでしっかり掴まれちゃったら、こうしても離れてくれないよね?」

 予想通り、俺の掴まっている左足をブンブンと左右に振り回し始めた。
 この勢いがついたまま振り落とされたらタダじゃ済まない。
 だが少し目が回る程度で、我慢出来る範疇だ。三半規管が人並み以上に強くて助かった。
 この調子なら掴まっていられる。いくらバランス感覚があったとしても、これ以上揺らしたら体勢を崩してしまうだろう。

「ほーらほーら。空中ブランコだよ。小人さんも童心に帰って楽しんでよ」

 童心に帰るどころじゃない。安全装置の無いアトラクションなんて、欠陥遊園地だ。
 そんな風に考えていると、次第に振り幅が狭まっていく。程なくして左足は再び地面を踏みしめていた。

「ふぅ、久しぶりに片足立ちしたから疲れちゃった。ちょっと休憩」

 どうやら先に小鳥さんの方が限界を迎えたらしい。この勝負、声には出せないが俺の勝ちだ。
 とは言え、俺も酔いこそないものの、半端ないGに耐える為に、全身の筋肉に力を入れて、彼女の足にしがみついていたので、かなり疲弊している。こちらも休憩をさせてもらおう。

 それにしても、落ち着いてみたらなんという座り心地だろう。人肌の暖かさが全身に伝わってくる。
 女の子特有の甘い香りに包まれながら、抱き枕のようにその足にしがみつくその行為は、さながら幼児退行のような背徳感を覚え、若干の性的興奮を禁じ得なかった。もう少しこうしていたいとすら思った。

 無意識の内に頬ずりすらしていた。もはや身も心も赤子同然だ。
 今は飼い主ではあるが、この子は俺の新しい母親になってくれる子なのかもしれない。
 そんな感情すら抱き始めた時、夢のような時間は儚くも終わりを告げた。

「今の動画撮っちゃったよ、小人さん。私の足に頬ずりなんて、いよいよ身も心も私の下僕だね。可愛い奴め、ふふっ」
「はっ! あいや、これは、その」
「いいよ。見てたらちょっとほっこりしちゃった。なんだろう、赤ちゃんを見ている感じ?」

 恥ずかしい。自分の半分しか生きていないこの子に対して、母性を求めてしまった。
 小鳥さんも小鳥さんで、それを否定したりもせず、むしろ受け入れるような事を言うからたちが悪い。
 もしこのままの関係が続いてしまったら、本当に幼児退行しかねない程の心地よさだったからだ。

「でも残念でした。私はあなたのお母さんじゃないし、今はバトルの最中だって事、忘れてない? ほら、降りた降りた」
「うわっ!」

 足を斜めにされて、元居た緑マスに落とされた。なんとか受け身は取れたが、それが無ければそのままマスの外まで転がり落ちる所だった。

「ほら、のこったのこった」

 5つ首の獣がこちらへにじり寄ってきた。
 急いで立ち上がり、大きな指を掴んで押し戻そうとしたが、小鳥さんが力を入れずとも、ただその圧倒的な重圧だけで俺の身体は押し出されていく。

「はい、私の勝ち。呆気なかったね」
「はぁ、はぁ、も、もういい……?」
「ダメだよ。これはただのゲームの中でのバトルだから、ゲームはまだ続くよ。ほら、さっき居たマスに戻って」

 どうやらまだご満足頂けていないらしい。トボトボと隣のマスに歩いていると、再び声をかけられた。

「そういえば酔ってない? 吐かれたら嫌だから言って」
「酔ってはいないよ。しがみつくのが疲れた……」
「へー、あなた三半規管強いんだ。昔なんかやってたの? フィギュアスケートとか?」
「そんなのをやっているように見えるかな?」
「全然見えない。生まれつきなの?」
「そうだな。乗り物酔いはしたこと無いし、回転椅子に座らされてかなり回されてもまっすぐ歩けるよ」
「すごいじゃん。ならもっとブンブンしてあげるんだったよ」

 それは勘弁して欲しい。腕がプルプルしているんだ。

「じゃあ次私の番ね。ベクター、寝てないで、ほら早く」
「んあ? あー、右足で緑」

 もはや適当だ。ルーレットを回していない疑惑すらある適当さ。

「……ふふっ」

 上は向けない。一応、スカートの中が見える距離だからだ。故に、何を考えてどう行動しようとしているのかがわからない。だがそれでもすぐわかるような変化が身の回りに起きた。

 俺の周りが影で覆われていた。その影は次第に面積を広めながら、その濃さも高めていく。
 ここまで来ればはっきりとわかる。頭上に何か大きな物が降ってきている。そしてそれは、俺の脳天に触れた所でピタリと止まった。

「特別ルールは覚えてるよね。誰かが手か足を置いてるマスに、特別に1回だけ動いてもいいって。あれは私でも使って良いに決まってるよね」

 小鳥さんは右脚を俺の頭上で浮かせたまま、顔を少しだけこちらに近づけてそう言い放った。元々彼女自身がルールのようなものだ。しかも今回は彼女の言い分にも一理あった。

「せっかくだからここにお邪魔するよ、小人さん。ちゃんと抵抗してよ」
「うっ!」

 頭部に触れていたそれは降下を始め、荷重を増してきた。
 またしても全力で無駄な抵抗をするようにとの命令だったので、両腕を天井に掲げ、大股を広げて地面を掴み、全身全霊の力を込めて押し上げようとした。
 肌を一枚隔ててすぐに骨や筋肉があった足の甲や側面と違い、今まさに手を触れている土踏まずは比較的女の子らしい弾力を持っていた。
 だがそれが徒労感を増しているのも事実だった。いくら押し上げても、その力は土踏まずの弾力に吸収され、凹ませるだけで全く上がる気配が無いからだ。

「お、おお、おおおお……」

 わずかだが、足が持ち上がる。小鳥さんの声も上ずっているように聞こえた。
 だがそれはあからさまな嘘だった。何故ならば、彼女の足はとっくに俺の手を離れ、上でブラブラとしていたからだ。

「っと、茶番はここまでね。はい、どーん」

 空に浮かぶ巨塔は、まっすぐに俺を捉えて再び降下し、器用に俺を仰向けに転ばせ、全身を踏み潰した。
 段々踏む力が強くなっている。俺の身体が小鳥さんの足に埋まっていく。少し動いたからか、足裏にはほんのり汗をかいていた。
 仰向けになっていた俺は、その酸味を強引に味わわされてしまう。結構なお味だった。

 しばらく彼女の汗に舌鼓をうち、もうそろそろと思いきや、その踏み潰しはしばらく続いた。
 これが続くと流石に危ない。バランスを崩して、一瞬踏みつけが弱まった時を見計らって地面を蹴り、指の方へ身体を滑らせた。
 するとギリギリ指の隙間から、遥か上空で睨みをきかせる彼女の顔と、純白の下着が見えた。その瞬間、彼女は頬を赤らませ、またしても興奮気味に罵倒を紡ぎ始めた。

「またそういう事してると、本当にやめてあげないよ。それとも踏んでもらいたいの? やっぱりドMなのかな小人さんは? それだと罰ゲームにならないのかな。まぁいいや。じゃあここから出る為の条件、私の足の指の間を舐めて綺麗にしてよ。そうしたら解放してあげる。終わるまで少しづつ体重かけていくから急いだほうが良いよ。本当にプチッて踏み潰しちゃうかも」

 足を舐めろという、王道のSMプレイシチュエーションの命令が下った。やっぱりこの子、本職だ。
 正直、足裏で味わった汗で既にお腹いっぱい気味なので、割ときついが仕方ない。上からは丸見えだし、しっかり舐めないと感触すら無いだろうから少し大袈裟なくらい頑張るしかない。

 だが、親指と人差し指の間を見てみると小人目線で見ても別段汚れてはいなかった。せいぜい靴下の細かい繊維があったり、少しだけ汗をかいている程度だった。
 まず小鳥さんの足の下敷きになっていた右手を引っこ抜いて繊維を取り除き、汗をかいている所に舌をつける。じわっと酸味が広がった。不味くはないが、やはり人間的にマズイ事をしているなとは思った。

「ふふっ、これはちょっとくすぐったいね」

 小鳥さんは、まるで犬にでもじゃれつかれているような声を出して、より一層のご機嫌ムードを漂わせた。
 これを好機と捉え、俺は人間としての尊厳を生贄に捧げ、さらなる上級モンスターを召喚した。単発的なものではなく、常に舌を上下させながら、モップをかけるように親指と人差し指の作るカーブを総舐めする技だ。

 これはオフレコだが、過去数回行ったSMクラブで披露し、役に入りきっていた嬢にすらドン引きされて、微妙な感じになった禁断の技だった。
 それをこんな美少女に、しかもその足の下敷きになりながらやる事になるとは。

「なにそれ。ウケるね」

 反応は中の下くらいだった。心なしか踏みつけが弱くなった気がする。ドン引きしてしまった?

「もういいよ。それじゃあ解放してあげる。それじゃバトル再開」

 もう終わりだという事だった。あの時の嬢よりもこの子の方が器の大きいご主人様だった。いや、体格差があるからこその余裕なのかもしれないけど。

「さぁここから出ていきなさい小人さん。ゴロゴロ~」

 転がしても大丈夫という情報を聞いたからか、今度は足の裏で乱暴に撫でられ転がされた。
 正確に言うと、思ったよりうまく転がらず、指の間から微かに見える小鳥さんの口元が尖り始め、少し大きな声で再び『ゴロゴロ~??』と言い始めたので、慌てて自ら転がっていた。

 そうすると小鳥さんは大層ご満悦という表情を浮かべていたので、ゴロゴロと転がされつつホッと胸を撫で下ろした。

「はい、マスから出た。小人さんの負け。じゃあそのままここからゴロゴロと立ち退いてもらおうかな」

 結局そのまま転がされて、俺は例の靴下で封鎖されたマスまで強制的に移動させられた。

「お、おめでとう小人さん。ご褒美の靴下マスに止まったよ。嬉しいね……ほら、もっと喜ぼうか」
「わ、わーい……」
「喜びが伝わってこない」

 俺は会社では、反応が薄いから話を聞いているのかよくわからないと、良く叱られていた。こんな所で自分よりずっと年下の子にまで説教されるなんて。世も末だ。本日二度目のヤケだ。

「やったああああ!!! いえーい!!! ひゅーひゅー!!!」

 気狂いにでもなったかのように飛び跳ね、大声を轟かせて全身で喜びを表現した。
 実は心の奥底で、脱ぎたて靴下というある意味蠱惑的なアイテムと相対した事で、本当に何らかの性的興奮を抱いてしまっているのではないかと錯覚する程度には凄まじい喜びぶりだった。

 そんな文字通りの狂喜乱舞を目の当たりにして、さしもの小鳥さんも『うわぁ』と若干ひいていた。

「それじゃ、入って」
「えっ」

 急場しのぎのハイテンションは一瞬にして鎮火した。

「えっ、じゃないよ。靴下マスにどうしても移動したかったら、そのマスに居る時はずっと入るってルールだったでしょ。小人さんは脳が小さいから記憶出来る情報量も少ないのかな?」

 てっきり、次の俺の番ですぐに別の場所に移るから、問題ないと思っていた。だが小鳥さんはそれを許さないという。今すぐに靴下にインしろと言っている。今度は一体どういう理屈だろうか。

「だって、靴下って食虫植物みたいでしょ。その中にあなたみたいな小さい存在が入って、すぐに出てこられるなんて、冷静に考えたらおかしいよ。一回休みであるべき」
「ふっ」

 言ったもの勝ちになってしまったTRPGのような超理論に、ベクターも流石に吹き出さざるを得なかったようだ。
 俺も勿論、おかしいとは思った。冷静に考えて出たのがそれか、と誰もが思うだろう。だが彼女がゲームマスターである以上、そこに疑問の余地は無い。黙って従っていればいい。

 さて、と覚悟を決め、前を向く。白く輝くレース付きの靴下。今どきのくるぶし丈よりも少しだけ長いもの。自分で言うのもなんだが、今の自分が寝袋にするには十分な大きさだった。
 それにしても、こんな至近距離で靴下をマジマジと観察したのは産まれて初めてだ。勿論、こんな巨大な靴下を見るのも初めてだし、それに入るとなったら、もはや世界初なのではないか。
 投げつけられて不貞腐れているように見えるその靴下は、実際に手で触れてみると中々の手触りだった。そういう経験が無いのでわからないが、いいとこのお店で売っているような物に思えた。きっとあの名高きスーピマ綿を使っているに違いない。

「何かするにつけていちいち間があるね。あなた」
「あ、その、ごめんなさい。入ります」
「また敬語になってるし。怒られると敬語になっちゃうの?」

 また気にしている所をズバリ突かれ、俺は無言になってしまった。小鳥さんも何か思う所でもあったのか、それを特に咎めもせず、自分の靴下に入ろうとしている俺の姿を黙って見ていた(実際に見ているかはわからないけど)

「殆ど履いてないから、洗剤とか柔軟剤の匂いしかしないだろうけどね。ちょっと物足りないかな?」

 裾を持ち上げ頭をくぐらせると、確かに靴下の中は柑橘系っぽい柔軟剤の香りがした。

「ほら、早く先の方まで入って。もたもたしてると踏み潰すよ」

 全て言い終える間もなく、俺は靴下の全身を滑り込ませた。中に入ると、より一層香りが増した。オレンジ畑にでも迷い込んだような気分だ。
 裾は閉じてしまったので、靴下の中は闇に包まれた。完全な遮光はしていないので、真っ暗闇という事はないものの、視野も狭く、動きづらさも相まって、中々スリリングな状況だ。

 やがて先を進む手が行き止まりに達した。指先に到達したらしい。ここに来て、柑橘系の中に彼女の肌から香っていたフローラルが微かに混じっている事に気がついた。だからなんだという話だが。

「暑い……」

 じわりという状態からダラダラという状態に変わりつつある。
 俺が靴下に閉じ込められてからどれくらい時間が経ったのだろう。体感20分は経っている気がするが、実際の所は10分にも満たないだろう。

 何せここには何も無い。あるのはただ静寂と暗闇と濃厚な香り、そして蒸し暑さだけだ。
 服を着たままサウナに入ったような心地、いよいよしんどくなってきた。出たらまた何をされるかわからないから迂闊に動けないし、かと言って風通しを良くする為に靴下に穴を空けるのは論外だ。
 このままここで蜂球に蒸し殺されるオオスズメバチのように、倒れてしまうのだろうか。

「ん?」

 光条。久しぶりとすら思えるそれの突然の降臨に、堪らず腕で目を隠した。
 だが目が慣れた頃にはそれは姿を消し、代わりに別の場所で変化が生じていた。地面が、いや靴下が動いていた。

 一方向に引っ張られている。
 そしてもう一つ、ゴソゴソと衣擦れの音がその大きさを増しながら不気味に近づいてきていた。

「あ、足か!」

 ほんの少しだけ取り入れられている光を頼りに、微かに見えた来訪者は小鳥さんの大きな足だった。俺が入っている事などお構いなしに進撃してくる。
 そして俺の身体に触れ存在を認識した途端、漫然と侵入してきたそれは動きの性質を変えた。
 足の指で器用に手前へと転がされ、土踏まずで思い切りプレスされる。先程と構図は同じでも、環境は大きく異なっていた。居心地の悪さが段違いだ。

「どう? 次また右足で緑だったから、履いちゃった。もうめちゃくちゃだね」

 至近距離からの声。おそらく顔を近づけているのだろう。出せる限りの元気を込め、嘆願の声を振り絞った。

「だ……出して……」
「お疲れ様。いいよ、もう出ても。だけど自力でね、何してもいいから」

 心にも無さそうな労いの言葉を最後に、小鳥さんの声はしなくなった。
 まずはこの土踏まずの牢獄から、自分で脱出しなければいけないという。
 だが押してもダメ、くすぐってもダメ。そんな俺に残された選択肢は服従し、媚びへつらい、許しを請う事だけだった。

「ん? あはは、そっか。そう来た? すっかり下僕根性が板についてきちゃったね」
「なに。どうしたの小鳥」
「この子、また舐めてるの、私の足を。命令されてないのに」
「懐かれちゃったんだよ、小鳥。あんまり躾しちゃうから」
「ちょっと戯れただけなんだけどな」
「キミなぁ……今の彼にとって、キミがどれだけ圧倒的な存在か、まだわかってないだろう。それにキミは自分が思ってる以上に、人を隷属させる事に長けてる。悪魔のボクが舌を巻くほどにね」
「へぇ、そうなんだぁ」
「な、何だよその反応。顔怖いぞ小鳥。ボクの事を下僕にしようなんて考えるなよ、人間風情が」
「あんまり強い言葉を使わない方が良いよ」
「ふぁー、生意気。ところで彼、早く出してあげた方がいいんじゃないの。そんなにいじらしい事をしてるんだから」
「そうだね。今回はもう許してあげよう。ねぇ小人さん、今から少しだけ足を浮かせるから、後は自由に動いて」

 何らかの会話が聞こえてきたと思ったら、急に身体を縛り付ける万力のような足が浮かんだ。動ける。息も楽になった。
 上半身を起こして、足の甲にもたれかかる。そのまま這い上がるように自分の足を引きずり出した。これだけでも息の上がる動きだ。

 後は立つだけ。
 グラリと揺れる身体にむち打ちながら、まずは片膝づつ足の甲という大地を踏みしめ、上へと伸びる足に寄りかかりながら今度は両膝を持ち上げ、さらに上へと手を伸ばす。
 ここからなら裾に届くはず、これで最後だと自分を奮起させ、腕がつってしまうのも恐れず思い切り手を放り投げた。

「こ、これだ!」

 手に残るレースの感触を頼りに掴んだそれを、思い切り手繰り寄せた。




「や、やった。出れた……」

 全てとはいかないものの、顔が出せるくらいには靴下を下ろすことが出来た。

 勢いよく息を吸えば新鮮な空気が一気に肺を満たし、熱気と湿気に包まれた身体が、穏やかな外気に触れて急速に癒やされていく。さながら砂漠の中にオアシスを見つけた時の解放感だ。

「ハァ、ハァ……し、死ぬかと思った……もう限界……」

 ようやく元の場所へ戻り、俺はギブアップ宣言した。

「お疲れ様。私の靴下の中はどうだった? 楽しかった?」
「最初は……ハァ、それなり……には……でももう無理……」
「そっか。まぁ私も気が済んだし。今日はここまでにしてあげるよ」

 今日は、というのが少し引っかかったがツッコミを返す気力もなかった。

「おっつー、災難だったね。あ、違うか、ご褒美だったね」

 相変わらず呑気そうなベクターの声を聞いて、俺はずっと抱えていた1つの疑念を思い出す。

「お前……ちょっとそのルーレットちょっと見せろ……」
「えっ!? え~~……へへへへ」

 チラッ、チラッとルーレットの面を見せて焦らすベクターからひったくり、疑惑の表面を白日の下に晒させた。

「な……な……あぁぁぁぁ!!??」

 予感的中。

「何だこのルーレット!?  足! 足! 足! 足!!! 4面全部足じゃねぇか!」

 苦しさから解放された達成感からか、俺はネジが一本抜けたように気が大きくなっていた。

「おかしいと思ったんだ。いくら何でも足が多すぎるってな」
「だって私がルールだもん」
「納得できない! 俺は手を加えた普通のルーレットでの再戦を要求する!」
「えっ」
「……あれ?」

 え、えらい事を口走ってしまったぞ。なぜこんなことを……?

「それって、足だけじゃ満足出来なくて、私の手でもいっぱいイジメて欲しいって事でいい?」
「あ、いや……それは……」
「そっかそっか。そんなに楽しかったんだ。私も喜んでもらえて嬉しい」
「ま、待って。そういう意味じゃなくて、というか今のは違くて」
「今日はもう疲れたでしょ。それはまたの機会って事で。楽しみだね、小人さん」

 こうしてまた罰ゲームが1つ増えたのであった。