● 第6話: お手伝いさんの危険な秘密 (前編)
「暇だ」
やることが全く無い。この箱の中は極上の環境ではあるが、娯楽が無い。人間は刺激がないと廃人になるというが、もしこの状況がずっと続くならばさもありなんという感じだった。
せめて、絵でも描きたい。今度小鳥さんに描くものと紙の切れ端でも渡してもらおうか。
「はぁ、何か面白い事でも起こればいいのに」
こういう時、漫画とかだと何かが起こるものだ。あぁ、なんて都合の良い世界。
でもここは現実。そう何かが起こるわけでもない。というかむしろ今の状況を鑑みると、良からぬことになりかねない。今のは冗談です、神様仏様小鳥様。平穏無事が第一です。
ガチャ……
「は?」
扉の開く音。小鳥さん、忘れ物でもしたのかな? と恐る恐る、箱の隙間から扉の方を垣間見てみると、扉の向こうから現れたのは見知らぬ人物だった。
でかい。
白磁のように輝く脚を上に辿ると、シックなデザインの花柄ワンピースに隠されていた。
でかい。
腰に届きそうなほどの長い銀髪、外国人か、それとも染めているのか。
でかい。
ウェーブのかかった髪が、少しアダルティな雰囲気を醸し出していた。
でかい。
というか……
(でけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!)
つい大声でウィスパーせざるを得なかった。
勿論、自分よりも10倍の大きさなのだから、大きく見えるのは当然の事として、でかい。主に胸部のアレ、端的に言えばおっぱい。自分が今まで見てきた女性の中で最も大きい。
実際のサイズはわからないが、受けた衝撃度から換算すればIカップくらいあってもおかしくない。そのくらいの大きさだった。流石は異国の民。やっぱり米食ってるようなのはダメだな。
もし今の自分がアレに挟まれでもしたらと想像しただけで、かなりグッと来てしまった。
惜しむらくはその想像力の貧困さである。数少ない女性経験(プロ含む)ゆえに、アレの至高さを完全に再現する事が出来ない。
どうしても、高反発枕に挟まれる程度の妄想にとどまってしまう。いや何心配するな。もうすぐ彼女が俺を見つけて……そう思い、蓋に手をかけようとした瞬間だった。
「ふぅ……」
しばしの錯乱を経て、漸く熱情から覚めた。冷静さを欠いていた。自ら見つかりに行くなんて自殺行為だ。
多分彼女が小鳥さんの言っていたお手伝いさんだろう。妙齢の方を想像していたのでとても面食らってしまった。
それにしてもあまり無断で部屋に入らないようにって事なのに、随分とすんなり入ってきたな。
それこそ、小鳥さんが出ていったのを見計らって、いやそもそも、小鳥さんが外出する事になったのも元々お手伝いさんから連絡があったから……。
外を覗くと、お手伝いさんは部屋の中をゆっくりと舐るように物色しているようだった。
クローゼットの中、タンスの一つ一つから服や小物を取り出して、丹念に、つぶさに検めている。
そしてバレないように出したものをそのままの形で戻す周到さ。これはもう確信犯だ。一体何を探しているのだろうか。
ズシン……ズシン……
「!」
近くに来た。どうやら上の段から探しているようだ。
箱の隙間からは、ワンピースの中がギリギリ見えるかどうかという状態になっており、目の毒だったが目を離せなかった。
二段目、三段目、そして一番下の段、俺の入っている箱の場所に辿り着いた。もし開けられた時の事を考えて、目を閉じていよう。少しでも動いたら怪しまれる。
「……」
ガサガサと箱と蓋が擦れる音がしている。蓋が持ち上げられたようだ。
視線を感じる気がする。今間違いなく見られている。吐息のような声が漏れたのが聞こえた。
だから動けない。微動だにしない。全身から力を抜いて仰向けに寝転がる。
息もなるべくしない。する時は鼻から、肺を大きく膨らませないよう、最小限に留める。油断もしない。蓋が再び閉じられても、ドアが閉じる音が聞こえてから、足音が聞こえなくなるまでじっと堪える。
「……ふぅぅぅぅ」
「!?」
生暖かい!? いけない、動いてしまっただろうか。落ち着け。目は開けていない。身体も動かしていない。まだバレていない。
かと言って、今の状態は何だ。急に身体が暖かくなって、なんだか少し湿っぽい……これは、もしや息? お手伝いさんが息を吹きかけている? なぜ?
「うーん。なんかあると思ってたんですけど」
声だ。透き通るようなお手伝いさんの声を聞いて、少し身体が反応したように感じてしまう。
なんかあると思っていたという事は、やはり俺の事が疑われているという事か。
一体どのようにして、まさか俺がまだ意識を取り戻す前には既に観察されていた? あの時はそれこそ本当の人形のような物だから誤魔化せたが……。
「どう見ても人間ですよね。あなた」
「……」
ついに会話を持ちかけられてしまった。勿論無視だ。
「聞こえてるんですよね? 乱暴はしないですから」
「……」
「ふぅ、じゃあいいです。私はこれから人形に喋りかける変人を演じます。その前提で聞いてくださいね」
「……」
「私はお嬢様の安全と健康を守る必要がありますので、なるべく不安要素を無くしたいんです。一週間前、いつもより少しだけ挙動不審なお嬢様を案じ、部屋を調べたら箱の中に見知らぬ存在が入ってました。あなたです。驚きました。例え人形でもリアル過ぎる、そもそもお嬢様がなぜ男の大人の人形を? となりますし、どういう原理かはわかりませんが、小さな人間だとしたらなおさらです」
うぅ、ダメだ。この人はほぼ真実に近づいている。
不安要素、たしかにそうだ。大事なお嬢様が変な遊びに興じているのだとしたら、見過ごす訳にはいかない。
「これはお嬢様の仕業ですか? それともあなたのイタズラですか? ことと次第によっては見過ごせませんが、あなたの口から言葉が聞ければその対処もある程度の手心が加えられると思いますよ」
これは……もう言ったほうがいいのか……? 観念して口を開きかけたその時だった。
「しょうがないですね。それでは何度目かの実力行使ですよ」
実力行使という不穏な言葉の通り、俺の身体は手でしっかりと握られ、持ち上げられてしまったようだ。
「では失礼して……レロォ……」
「!?」
ザラリ、ヌメリ、顔面にそんな感触がほとばしる。
凄まじい不快感に全身が総毛立った。この感触、まさか『テイスティング』されているのでは?
左へ右へ、何度も舌が行ったり来たりして、執拗に舐め回される。異世界転生でよくありがちな、大きなモンスターに食われる寸前ってこんな感じなのだろうな、とよくわからない思考が頭を埋め尽くした。
鼻をつんと突く酸っぱさ、人の口の中の匂いは、思考を混乱させるには十分なほど強烈なものだった。どんな美しい女性であっても、口内の隅々に至るまで綺麗なんてことは幻想だったんだ。
「おや? 目、開きました?」
や、やばい、気付かれた!? もうダメだ。これ以上我慢出来る気がしない。今すぐ止めてもらおう!
「……!」
「……最近の人形は瞬きするんですね。リアル志向なんでしょうかね」
「……! ……! ……!」
唾液が顔面に張っていて声が出せない……いやもっというと、息ができない。
「気の所為ですよね。はぁ、お人形と話をするなんて、私もヤキが回ってしまいましたね……」
「んー! んー!」
なりふり構わず喉を指差しながら、必死で緊急事態である事を訴える。
「あぁぁ、動いた。本当に動いてしまいました……え、なんですか。喉? あ、息!? 私の唾液のせいですね。今吸い取ります」
ズブチュ……チュ……パッ。
「ちょっと洗いましょうか。汚いですよね」
「はぁ……はぁ……」
し、死ぬかと思った。唾液って想像以上に粘り気が強いんだな。
小鳥さんの下の汁とどっこいどっこいだった。そういえばあの時も死にかけた。
小さいという事は常に死と隣り合わせだということを強く肝に銘じた。それと、この行為は全身を愛撫されているようで、非常に下半身に宜しくない事を覚えておくことにした。
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「目を閉じてくださいね。あと、息が苦しくなったりしたら手を叩いて下さい」
二度目の洗面台。この生活の中であと何回ここでお世話になるのかと思うと、先が思いやられた。
お手伝いさんは甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。流石本職だけあって、ホスピタリティに溢れていた。
配慮が見える水勢で、俺の顔に付いた唾液を洗い流してくれた。
マッチポンプではあるのだが、慈愛に満ちたその表情を見せられて、それを糾弾する気も消え失せてしまった。
隠れている時は顔も良く見えなかったが、こうして近くで見てみるとかなりの美人さんだった。
銀髪碧眼となると北欧か、少なくとも日本人とは考えづらい。人の良さそうな垂れ目は、ご主人様の少しくたびれたような鋭い眼光とは対照的だ。
こんな優しそうな人に先程まで詰問されていたのかと思うと、少しグッと来てしまった。やはり俺は根っからのドMなのかもしれない。
「これで良しっと。すみませんね、結局乱暴してしまって」
「あ、いいんです……僕も早めに声を出すべきでした」
「と言っても怖いでしょう? 自分よりもこんなに大きい人間が脅迫まがいの事言っているのですから。その気になればなんだって出来てしまいますし」
「あ、あはは……そうですね」
「お嬢様にも色々されたのでしょう?」
「それは……言えませんが……」
「大体想像は出来ていますよ。あ、そういえばまだ自己紹介してませんでしたね。私は烏丸湊、この鈴河家で使用人として働いております」
「あれ、日本人の方なんですか?」
「これは通称名ですね。本名はマリーナ・カラスと言います。ギリシャ生まれアメリカ育ちですよ」
「日本語お上手ですね」
「それはどうも。頑張って勉強しましたので、嬉しいです」
あぁ、なんか幸せだ。久しぶりに女性と普通の平和な会話をした気がする。
「あなたはその、人間……で良いのですよね」
「はい、元人間。現在は小人です」
「それは一体どういう経緯で?」
「僕もよくわかりませんが、不思議な魔法みたいな物で小さくなったようです」
「不思議な魔法!」
魔法という言葉を聞いて、急に烏丸さんの顔がパァッと輝いた。
「一寸法師や不思議の国のアリスのようなお伽噺みたいですね。素敵です! うわぁ、本当にあるんですね……そういうの」
「は、はぁ……」
「私、実は小さなお人形で遊ぶのが好きなんです。ファンタジーな世界観に入り込んで役を演じるんですよ!」
頬に右手を添え、くねくねと動きながら良き思い出を語る的な雰囲気を醸し出しているが、若干の闇を感じた。
「すみません忘れて下さい今のは。あまりの感動につい私の秘密を打ち明けてしまいました」
「もしかして僕にそれを?」
「しませんしません!」
と言いつつ、キラキラした目線は俺を捉え続けていた。
「でも正直な所は……?」
「………………ほんのちょっとだけ」
烏丸さんは赤面した顔を手で伏せながら、もう片方の手の人差し指と親指で自身の要求度合いを示してきた。
まぁ少しくらいなら、と思ったのだ。この人はちょっとだけ特殊なフェチがあるだけで、基本は超がつくほどの善人っぽいし、そもそもあの小鳥さんのお手伝いさんを任される程の人なのだから、そこからも相当の人格者である事は伺える。
「くしゅんっ」
「大丈夫、小鳥ちゃん? 冷房きいてるのかな、ここ」
「んーん、大丈夫。噂されてるのかも」
なんだか、俺の心の声が聞かれているような悪寒がしたが、気のせいだと思うことにした。
「わかりましたちょっとくらいなら……」
「本当ですか!?」
ピョンピョンと小ジャンプしながら、俺を握る手はより一層その強さを増した。
「あぁぁぁぁぁ握らないでくだざい死んじゃいます中身出ちゃいますからあぁぁぁぁあ!!!」
「わーごめんなさい! つい興奮してしまって……えへへぇ、うふふ。そう、あの頃は、この世の物が全て小さくなって、私の所有物にして世界中でお人形遊びをするという妄想をしていたものです。その中では私は神様だったんですよ。悪い王様を小突いて懲らしめたり、戦争で荒廃してしまった国を慰める為に、国土全部を抱きしめてあげたり、あとそうですね、水着を着て太平洋に横になって、その上で無人島ごっこもさせたりしましたねぇ。少しバイオレンスなのだと、私に攻撃を仕掛けてきた国に散々警告をしたのに全く手を止める気がないので、そこだけもっと縮めてしまって、息で吹き飛ばしたりしましたね。あぁ、懐かしいです。そういう時代が私にもありました……」
「あっ、はい」
もしかして俺は、とんでもない思い違いをしてしまったのだろうか。
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一通り洗浄を終えて、俺は烏丸さんと共に小鳥さんの部屋とは別の場所に連れてこられた。巨大な邪神の妄想を聞いてしまったので、目の前でそびえ立つ善人そうな彼女の後ろに、禍々しいオーラが揺らめいているように感じられる。
「では始めましょう! ところでまだお名前を伺っておりませんでしたね」
「あ、その名前なんですが、それも魔法の絡みで奪われてしまったようで」
「なるほど。そっち系ですか……」
どっち系だよ。
「お嬢様はあなたの事はなんと?」
「小人さんです」
「そうですか。では私は……おチビさんとお呼びしましょう。どうでしょうか、おチビさん?」
「烏丸さんがそれでよければ僕は特に……」
「それではおチビさん。お嬢様はしばらく帰ってきません。今家には私とおチビさんの二人だけです。それがどういう事だかわかりますね?」
大魔王からは逃げられない……! とは言えないですよね。
「大人しく指示に従います」
「そ、そんなかしこまらなくてもいいですよ……ちょっと興ざめしちゃうじゃないですか。乱暴はしませんから、安心して下さい。もうちょっとノリというかですね……こう、あるじゃないですか。役に入って下さい」
「役って、どういう役をすれば良いんですか?」
「そうですねぇ。やっぱりここは王道の、お姫様に忠実な家来でしょうか。平民出にも関わらず、最も戦果を上げた優秀な騎士だったのですが、悪い魔女に小さくされてしまい、敵国の姫に捕虜として囚われてしまいます。初めは王に報告をしようとしていた姫ですが、騎士の人柄に惚れ込んでしまい、自分の家来となる代わりに皆に内緒で保護をすると申し出ます。騎士もまた、良心の呵責に苛まれる姫の姿を見て心を動かし、やがて二人は……」
多分10分は語り続けていた。ようは、敵国の姫と恋に落ちた小人の騎士役を演じろとの事だった。このバックボーンが必要かどうかはさておき、この人は本当にこういう事が好きなのだなと思った。
「今度は家から服をとってきますね。お人形用のですけど、ちょうど良いサイズだと思うんです」
「あぁ、今この服しかありませんからね。雰囲気出ないですよね」
「えぇ、そうですね。ですので、ここはいっそ服が要らないシーンにしてしまいましょう」
「え!?」
「私、これでも裸体には自信あるんですよ。一時期はヌードモデルをしていたこともあります」
そういう事か。ヌードモデルをしていたなら、裸を見せることに抵抗が無いのも頷け……ないわ!
そんな脳内ノリツッコミをしている最中にも、烏丸さんは背中にあるらしいワンピースのファスナーに手をかけようとしていた。止めねば。紳士たる騎士として!
「だ、だからと言って異性の前で服を脱ぐなどと……そのようなご無体はいけません、姫」
すると烏丸さんは、口をすぼめて小さな驚きを表現してくれた。
「でもおチビさん? 据え膳食わぬは男の恥とも言います。夜伽して差し上げようというのに、あんまりですわ」
ちょっと演技調にしてみたが、気に入ってもらえたらしい。途中から烏丸さんもすっかりお姫様だ。ほんの少し閉じられた目は妖艶な雰囲気を感じさせ、先程までの朗らかな表情とは一線を画すアダルティさを醸し出していた。身体を横たえて、涅槃像の如く俺の目の前で君臨している巨大な姫を仰ぎ見ていると、自然と畏敬の念を抱かせられる。そして何より、暴力的なまでに凄まじい質量で鎮座している乳房が、俺の目を惹きつけて離さない。
「見過ぎですよおチビさん」
「す、すみません……」
「そんなに好きですか」
「……だ、男子たるもの、姫に魅力を感じない者がおりましょうか」
耳が、外してしまいたくなるほど熱を発している。これが羞恥心によるものか、性的興奮によるものか、それともそのどちらもか。いずれにせよ、自分がかつてないほど錯乱している事に違いない。
「そんな持ち上げても何も無いですよ。さぁ、それでは服を脱がせて下さい」
「は?」
「二度言わすものではありませんよ、おチビさん。私の服を脱がせるのです」
この豊かさの擬人化みたいな人の服を脱がせというのか。そんな事をしたら、俺のおニンニンが破裂してしまう。なんて事を要求してくるんだ。
小鳥さんのような直接的な乱暴とは違う、動と静で言えば『静』。この人も心の奥底ではドSである事は、邪神化趣味の時点でわかってはいたが、結構なお手前で……。
というか、ワンピースってどうやって脱がせば良いのだろうか。
シャツみたいにバンザイして脱ぐのだとすれば、こんな寝そべっている巨人から服を奪い取るのは不可能だ。
流石にそんな理不尽をいきなり要求するとは思いたくない。だとすれば、どこかにファスナーがある筈だ。
絵を描く時の資料として、服飾の勉強を少しかじっていて良かった。尚、実際に触れたことはない模様。
見た限り、前には無いようだった。
少しだけ落胆した表情をしたのに気付いたのか、指で小突かれ冷やかされた。
であればと、背中側に回ってみるとお目当ての物はあったものの、それはすぐさま視界の外へと移された。
長い銀髪に隠されたうなじが扇情的だ。思わず手を伸ばして触れたくなるような引力がある。
免罪符としてのお辞儀をしてから、髪を数本手にとってみる。絹のような触り心地に、頬擦りをしてしまった。
うなじから漂う大人の色香を目の前で堪能しながら、次第に髪の毛の森へと足を踏み入れ、身体に髪の毛を巻きつけていく。
繭に包まれた虫にでもなったような気分だ。
「今度は私の髪ですか。節操ないですよ」
「申し訳ございません、姫。では失礼いたします」
もうちょっと包まれていたかったのだが、仕方ない。だがここで一つ問題が発生する。
ファスナーは手を伸ばしてギリギリ届く高さにある。
つま先立ちになって銀のファスナーをかろうじて掴んだものの、生地を噛んでしまっているのか容易には動かない。
普通の大きさであれば、噛んだ生地を外す事など造作も無かろうが、今は勝手が違う。今の姿勢のままで行うのは困難だ。
だが手元で行うにしても、その為にはこの反り立つ壁に張り付かなければ無理だ。
ボルダリングとは違ってなんの取っ掛かりも無いこの背中に張り付く術は無い。どうしたものか。
「姫、問題がございます」
「申してみて」
「はっ。今しがた、服を脱がそうと尽力しておりますが、生地が噛んでいる故、迂闊に引けない状態です」
「手元で丁寧にしたいと、そう仰っしゃりたいのですね」
「左様にございます」
「では、私に寝転がれと言う事ですね。では……」
クスリと笑いながら烏丸さんは背中をこちらへゴロンと転がしてきた。
大きな壁が倒れ込んでくるその迫力に尻もちを付いていた俺は、咄嗟に両腕を顔の前に重ねて防御姿勢をとった。
もうその背中が元の位置に戻り、見返り美人よろしく、肩の向こうから覗く烏丸さんの大きな顔が、その哀れさが愛おしいとばかりに微笑を浮かべるまで、俺はその姿勢を取り続けてしまった。
「冗談ですよ。潰れてしまいますもの」
「……お戯れが過ぎます。姫」
「戯れこそが姫の仕事です」
言い得て妙だ。何だか烏丸さんとして、小鳥さんの事を言っているような気がしてくる。
「さぁ、では本番ですよ。おチビさん」
「お任せ下さい、っておわぁ!?」
突然全身を握られてしまったので、思わず演技がトンでしまった。
「背中まで運んで差し上げます。見えづらいですから、降ろして良ければ声をかけて下さい」
「あ、ありがたき幸せ」
背中は首元が空いているデザインで、烏丸さんの白く輝く肌と、ダークカラーを基調としたワンピースとのコントラストが非常に綺麗だった。
髪の毛は邪魔になると思ったのか、うなじに両手を入れて左右へ分けてくれた。モーセの奇跡を見ているようだった。
近くでよく見ると、やはり生地が噛んでいた。傷つけないようにそっと生地を引っ張り、足でファスナーを押しながら少しづつ直していく。
小人の靴職人という逸話は有名だが、小さいからこそのきめ細かな作業というのは本当にあるのだと感じた。見事、一片のほつれも生じさせずにファスナーを解放する事が出来た。ここまで来たらあとは簡単だと思っていた。
「何だかこれではつまらないですね」
「と言いますと?」
「もう少し悪戦苦闘しても良いかと思ったのですが、思いの外順調に行ってしまいました」
「またお戯れを?」
「あら、何も言っていないのに、おチビさんは私と戯れたいのでしょうか。仕方ありませんね」
「いや、今のは言葉のあやで……むふぁ!」
頭上から何かが覆いかぶさってきた。その正体はシルクの如き烏丸さんの銀髪。左右に分かれたそれを束ねて、垂れ流しにしたらしい。
驚きの声で開いてしまった口に思い切り髪の毛が入ってきてしまったので、慌てて口から出して唾液を拭き取る。さすがに髪の毛自体に味はしなかった。
「包んであげますよ。先程口惜しそうにしておられましたので、私が奉仕しましょう。えいっ」
右から左から銀髪の滝に挟まれて、もはや身動きは取れない状況。
そのまま首元まで引っ張られ、うなじにキスをしているような状態で首に巻きつけられてしまう。
服と髪の毛がザラザラと擦れる音と共に、全身が磨かれていく。
身体に直接触れている首の温度、銀髪の肌触り、髪を隔てて覆いかぶさる手の温度、それらはまるで高級羽毛布団で寝転がっているような圧倒的心地よさを創り出していた。
「んっ……ふぁ……」
烏丸さんは静かな熱を帯びた声を漏らしながら、首の揉み方をさらに激しくした。
美しい女性に全身を包まれながら身体中を擦られている内に、俺も息が次第に荒くなっていく。
その興奮が有頂天に達した所で、俺はその場で射精してしまった。高貴な存在たる姫の首元で射精など、時代が時代なら打首ものだ。
なんとか隠せればと思ったが、手を止めて『目的も果たせたようですし、これくらいにしておきましょうか』と言う烏丸さんの声が聞こえたので、猛省しながらファスナーを引っ張る作業に移った。