【鬼とワルツを】

あの日から数日が経つが俺、国白良明はまだ悩んでいた。
「一体どういう事なんだろう……」
頭をめぐるのは冷たい視線をこちらに向ける水藻。
何かを忘れている気がするのだがそれも思い出せず、悶々とする日々。
確かに、風香達との生活は楽しいことばかりで、不自由は何もない。
しかし、それでも俺の心にはぽっかりと、見逃す事ができない穴が空いていた。

家にチャイムの音が鳴り響いたのは、そんな時だった。
「誰だ?」
面倒に思いながらも壁に備え付けられたモニターを覗きにいった所、驚愕した。

そこに立っているのは紛れもなく鬼そのもの。
トラ柄のビキニ姿で肩より少し長いぐらいまで伸ばされたストレートの髪からにょきり、と二本の角が生えている女性がいたのだ。

「コスプレかな?」
近くでコスプレパーティが催されており、このお姉さんは間違えて家に来たのかもしれない。
そう思いながらモニター横の受話器を取ると、鬼の女性は焦った様子で口を開いた。
「国白君、木之下君を今すぐ出して!!」

「つまり、俺は記憶を封印されてる、てことっすか?」
「ていうか焼かれてるわねん。誰かの陰謀かしらん?」
コスプレではなく正真正銘な鬼の女性、眠鬼さんはソファに腰かけ、俺が出した紅茶を飲みながら言った。
どうやら俺は眠鬼さんとあった事があるらしいのだが、それさえもさっぱり思い出せない。
忘れている気がするっていうのはこのことなのかもしれない。
「どうすればなおせるんですか!?」
「世界全体にかけられた術はどうしようもないけれど、あなただけなら嬉鬼ちゃんの力を借りれば治せるわねん。でも……」
悲しそうな表情の眠鬼さん。
「どうかしたんすか?」
「国白君、木之下君は何処なのん!? もしくは羽月お姉様は!? 私だけじゃ、どうにもできないのよん……!!」
悲痛そうに叫ぶ眠鬼さん。
しかし、残念なことに俺は知らなかった。
「あの、木之下って誰っすか?」
木之下とは、誰なのか。
「き、君は木之下君の事さえも覚えて……?」
「はい、全く。羽月って人の事もわからないっす」
「そんな……」
俺の言葉を聞いた眠鬼さんは、ショックを隠せない様子だったが。
「そう、なら失礼するわねん。大丈夫。嬉鬼ちゃんが治ったらまた君の所に来て記憶なんとかしてあげるからん」
そう言って玄関へと歩いて行く。
もちろん、そんな寂しげな後ろ姿を呆然と見つめ続けることはできず。
「俺に何とかできないんすかね?」
そう、俺は眠鬼さんに声をかけていた。

「……で、胸元が暑いって言ってから高熱出して寝込んでるらしい。なんていうか、身体の一部に力を持ってかれてる感じで顔色も悪いって」
『キセイチュウだな』
「寄生虫?」
『一文字違う。寄る代わりに鬼と書いて、鬼生虫だ』
受話器越しに聞こえる声は落ち着いた様子。

残念ながら妖怪変化のスペシャリストではない俺は嬉鬼さんの病状を聞いても何が原因かはわからず、そこで悪友を頼る事にしたのだ。
ちなみに、眠鬼さんをリビングに残し、俺は別室で話をしている。
『やる事は寄生虫そのものだがな。物の怪に取り憑いて成長し、宿主が衰弱死すれば次の宿主を探し取り憑く物の怪。人間には取り憑かないから駆除剤代わりに使用してる拝み屋もいるんだぜ? 』
「で、退治の仕方は?」
『はぁ? お前まさか祓う気か?』
呆れたようなため息が聞こえた。
『お前にはムリだよ。相手にするには、面倒過ぎる』
「それでも何とかしなきゃいけないんだ」
『また人助けか?』
「ま、まぁそうなるかな。何でわかった?」
『わかるよ。たくっ、そういうとこは昔から変わらないのな、お前』
「いいから、早く教えろよ。あれか? 薬とかでなんとかできるんか?」
俺の催促にため息をこぼしつつも、相手は説明を始めた。
『虫下しは効かないんだそいつ。だから、直接叩くしかない。憑かれてるのはメスか?オスか?』
「まぁ、メスだな」
『巨乳?』
「うん、かなりでかい」
『グレープフルーツぐらい?』
「いや、小型のメロンぐらいはあるはずだな」
『な〜る、じゃあ敵は乳腺の中だな』
「乳腺? 胸の中ってこと?」
『ああ、そいつはオスなら精巣。メスなら子宮か胸に取り憑くんだが、そんなに胸がでかいっつうなら胸に取り憑いてるべな』
「決めつけかよ……適当すぎないか?」
『いや? 胸元暑いって言ったんだろ? 決まりじゃん』
「そ、そっか……」
『まぁ、良かったな。胸なら至極簡単だ。切り落とせば解決だよ』
「切り落とす!?」
『仕方ないじゃん。悪い所は切り落とす。昔から行われてる、普通の治療だろ? だいたい胸両方なくなるんじゃないんだし、死ぬのに比べれば楽勝だべ?』
「それは、なんていうか……」
『避けたい?』
「ああ」
『じゃあ、方法は一つだ』
見えるはずはないのだが、相手がニヤリと笑った気がした。

で。
場所は変わり、ここは懐かしき鬼っ娘達の住処である……あれ? 懐かしい……?
「良明く〜ん? 集中しなきゃダメだよ〜?」
隣からの俺を呼ぶ声で我に返る。
「あ、ごめん蓮さん」
「もう嬉鬼さんのおっぱいの上にまで来てるんだからそろそろ仕事モードに切り替えなきゃ! めっ!」
このほんわかお花畑オーラを醸し出しているのは神凪蓮さん。
風貌に似合わず凄まじい能力者であり、今回の作戦には彼女の力が必要だろうということで、悪友から派遣されて来た少女。仲間である。
彼女の言うとおり、俺達はいつものブレザー制服姿に着替え、眠鬼さんにつれられて寝室のベッドに横たわる嬉鬼さんの元へやって来て、休む間もなく蓮さんの力で縮小化し、嬉鬼さんの胸の上に上陸していた。
嬉鬼さんの胸の奥に巣食う鬼生虫を、直接叩くためである。
もともと大きい嬉鬼さんの胸だが、一センチに縮んだ俺たちにとっては山そのもの。肌は質量が小さくなった俺達と相対的に、硬くなるかとも思われたが、それでもぐにぐにとグミを踏みしめているかのように柔らかく、キメの細かい肌だからこそこのぐらいの時間でこれたが、もし肌荒れなどしていようものならば、中心部に到着するのに一昼夜はかかっただろう。(最初から眠鬼さんに頂点におろしてもらえば良かったのだが、それは悪友に止められた。)
そうこうしているうちに、地面が薄い桜色になり、悪路が俺たちを襲いはじめた。地面にぶつぶつとした盛り上がりに、足をとられる。
「あ、ラッキーだよ良明くん!!」
突然の声。
地面から前に視線をうつすと、これまた小さな山があり、その山の岩壁に手を当て蓮さんが嬉しそうにこちらに手を振っていた。

「どうしたの?」
疲れているが、目の前に自分よりも元気な女の子がいることに気恥ずかしさを感じた俺は無理に小走りしながら蓮さんに近づく。
「この人、乳管口が側面のいい位置にあいてるの!!」
見ると蓮さんの手のひらの横に小さな穴が。

「さっ! ここからは更に小さくなってこの穴から入って行くからね?」
「頑張ってねん?」
爆風を伴いながら眠鬼さんの声が響き渡る。
上に目を向ければ心配そうにこちらを見つめる巨大な瞳。
「はい! 頑張り、うぉあっ!?」
返事をする間も与えられないうちに俺は蓮さんの手に握られており、ゆっくりと穴の入り口にいれられた。
それから蓮さんはにこりと笑い一瞬で俺と同じ縮尺に縮み俺の横に降り立った。
「行こっか?」
「う、うん……」
縮小の術を無動作に無詠唱で、か。
蓮さんってすごい。俺は改めてそう思った。

急勾配の道を何処までも下り、途中崖を降りる場面もありながら肉の洞窟を進む。
ここまで小さくなれば、当然ながら嬉鬼さんの乳首は俺たちの体感的には岩肌のように硬く、本当に洞窟を歩いている気分になる。
蓮さんは、薬品を嗅ぐ時のように腕を回すだけで分かれ道を次から次へと選択していく。
光を灯す魔法すら使えない俺は蓮さんの後ろをついて行く事しかできず、不甲斐なさを感じざるを得ない状態。
「良明くんさぁ?」
蓮さんがいつもと変わらない口調で俺の名前を呼ぶ。
「うん? なに?」
「世界は五秒前から始まったんだ、って話を知ってる?」
「ああ。何か五秒前始まった事を否定することが出来ないってやつでしょ?」
嬉鬼さんの血流の流れや鼓動に包まれた世界で2人きり。
それは何だか今の状況で話すのにピッタリな話題のような気がした。
「それって怖いよね〜? つまり、私が悲しかったり嬉しかったりしたっていうこの記憶は誰かが作ったもので、本物じゃないってことでしょ?」
「仮初めの記憶、か」
「自分が信じて来た事はなかった事かもしれない。昔、この話を聞いてから眠れなくなったことがあるんだ、私。でも、ある日思ったの。昨日は作られたものだとしても、今は私が創るんだって。昨日の事も大切かもしれないけど、今だって同じくらい大切だって」

多分。
多分だけど、蓮さんは俺に気付いているんだろう。
はっきり言わないあたり確信はないのかもしれないけど、それでも激励しようとしてくれているのはわかったから。
「……ありがとう」
「え? 何の事?」
きょとん、とした顔で俺を見る蓮さん。
それは、本当に何の事かわかっていない顔であり。
これが演技だっていうなら。
俺はこの人との関係はずっと続けて行きたいと思った。

「っ!! 伏せて良明くん!!」
「わっ!」
蓮さんに押し倒され、尻もちをついた瞬間頭上を何かがかすめた。

「まだくる!」
「うおぅっ⁉」
蓮さんが俺に抱きついたまま一転、二転する度に、俺たちがいた位置に何かが突き刺さる。
白い……氷柱?

「れ、蓮さん防御壁!」
「ダメ! この氷柱にはマジックキャンセルがついてる!」
蓮さんに半ば引きずられる形で次々と降り注ぐ白い結晶から逃げるために来た道を引き返す。

と。
「あ、止まった……」
蓮さんの言うとおり攻撃が止んだ。

うーむ?

落ちていた白い石を奥に向かって投げてみる。
瞬間、飛来した氷柱により甲高い金属音と共に石は砕け散ってしまった。

なるほど。
「射程圏内に入ると……」
「撃ってくるみたいだね〜」
はぁ、疲れた〜と壁によしかかり腰掛ける蓮さん。

「これ以上進めないね〜」
「何とか出来ないの?」
「よし太くん、君はそうやっていつも私の秘密道具に頼るんだから〜」
「頼むよ、蓮えも〜ん!!」
「しょうがないな〜」
そう言ってスカートのポケットを探りだす蓮えもん。
そして、蓮えもんの両手が高らかに天に向かって伸ばされた!
「てってれー!! 敵がかなり遠距離から射撃してるみたいでムリ〜!!」
「何も握ってない手を挙げるもんだからウルトラ・スペシャルマイティ・ストロングスーパーよろいでも出してくれたのかと思ったよ」
「いや、お手上げってこと」
「なるほど、万策尽きたってわけか……」
「しょうがないからお茶にしよ〜?」
蓮えもん遊びはこれまで、といった具合に口調をもとに戻す蓮さん。
しかし、元々どこかおっとりとした話し方をするが故に字面的には全く違いが分からないのだが、そこはまぁ、目を瞑っていただきたい。
「お茶なんて持ってるの?」
「ミルクなら。白い石が落ちてるでし
ょ?」
これを空気中の水蒸気で、と蓮さんは呟きながら石を拾い、軽く撫でると一瞬で石は白い液体になった。
「もしかして、母乳?」
「嬉鬼さん、赤ちゃん産んだ事あるのかな?」
そんな事を言いながら自分で作った(正確には嬉鬼さんが作ったのだが)ミルクを飲みはじめる蓮さん。
「お〜いし〜っ!!」
「そりゃ良かった……」
蓮さんの隣に座る。
「良明君も飲む?」
「コップないからいいや」
「手移しでいこ〜!」
おっと、思わぬ方向に話が飛んだぞ?
「マジに?」
「飲みねぇ、兄ちゃん!」
謎のスイッチが入りノリノリな蓮さん。
何か本人に断りをせずに、母乳を勝手に飲むっていうのがアレだけど、確かに喉は乾いている。
「うん、じゃあいただくよ」
「はいっ」
両手を差し出してくる蓮さん。
俺も両手を器の形にし、蓮さんの手の下に差し出す。

「………………」
「………………えっと」

まさか。

「貴方の手から飲め、と?」
「私の手、汚い?」
「いや、そんなことないけど……」
気恥ずかしさを感じながらも蓮さんの女の子らしい小さな手に口をつけ、ミルクを含む。

衝撃が奔った。

電流が体内に駆け巡る感じ。

眠気が吹き飛ぶような、そんな覚醒感とでも言えばいいのか。

それは、その素晴らしい舌触りと濃厚な味わいによるものだけではない。

フラッシュバック。

走馬灯とはきっとこのことなのだろうと。

あらゆる場面が脳内を駆け巡り、忘れていた記憶が、明らかになっていく。

「おいしい?」
「美味しい……っていうか懐かしい味だよ」

懐かしいに決まってる。

だって。
「飲むどころか、溺れた事があるからな」

「あれ? 目障りなカップルだと思ったらあんただったんだ」
「っ!?」
少女が立っていた。

少女がすぐ隣で俺たちを覗きこんでいた。

声をかけられるまで、気配は微塵も感じなかった。
俺だけが感じなかったというのであればまだ納得できたのだが、蓮さんも目を大きく見開いて驚いており、それはつまり声の主であるこの少女が只者ではない事を表していた。

少女は縮小されている、というわけではなく、まして巨大なわけでもない。
背丈は俺より少し低いぐらい。

縮尺は同じ。
いつも通りの、縮尺だ。

好奇心旺盛そうな大きな瞳に、後ろで一本に束ねたしなやかな髪。手足は細く柔軟性に富んでいそうで、今日は上下黒を基調として蛍光緑のラインが入ったジャージ姿で。

水藻がそこにいた。