雨に唄う帰り道



土砂降りの雨に、昇降口で途方に暮れていた。
ショートホームルーム中に、先生の話も聞かずに眺めた空は青かったじゃないか。
掃除にほんの少し手間取っただけで、こんなに急変するなんて・・・。
いつまでも鳴りやまないスタンディングオベーションのように、雨が地面を叩いている。
校庭にも玄関付近にも誰もいない。
五月蠅いような静寂の中に完全に取り残されていた。

「あれ、傘忘れたの?方向一緒だし、途中までで良かったら入っていく?」
どれ程の時間、雨音に寄り添っていたのか。
突然、雨音を掻き消して耳に響くのは、甘い少女の声だった。
振り返ると何となく見覚えのあるような顔。確か隣のクラスの・・・。名前はわからない。
真っ赤な傘をクルクルと回している。
「いや、悪いよ」
遠慮もあったし、恥ずかしさも強かった。
第一、方向が同じとか言ったけど、それが本当かもわからない。
ろくに知らない女子にそんなことさせられない。
「それじゃ、いつまでたっても帰れないよ」
「いいんだ」
何がいいんだかわからないが、とにかくいいのだった。
もう数時間も待てば、どうしようもなくなるのだ。
そうなれば諦めて、家路を命懸けで走るしかない。
それまでもう少し佇んでいるのも、格好いい様に思っていたのだ。

「私なら気にしないから。見捨てるみたいで、一人で帰る方が気にしちゃうよ」
そう言って彼女はわずかにスカートの裾を持ち上げて、大きく一歩前進してくる。
俺も後ずさるが、歩幅の差は大きく、すっぽりとスカートの中に収まってしまう。
後ろでバサッと幕が下り、俺の一人芝居はあっけなく終わりを迎えた。
雨で冷えた空気が遮られ、未知の匂い漂う生暖かい空気に包まれる。
俺らみたいな年代にとって、スカートの中というのは、想像を掻き立てられる場所だ。
目の前で大きな存在感を放っている健康的な太腿や、薄暗い中に輝く純白の下着。
想像の中でなら、興奮が爆発するような状況だ。
だが実際に夢の空間に入った俺の感想は、実に冷静なものだった。
狭い。そして空気が濃い。臭いというわけではない。
上手く言えないが、熱のようなものだ。空気自体の生暖かさとは異質の暑さを感じる。
自分自身の興奮も影響しているのか、汗が噴出し、呼吸も荒くなる。
俺は想像していたのとは別の意味でクラクラしていた。

「ねぇ、聞いてる?」
突然聞こえてくる彼女の声。
布で遮られて、少し曇った声はそれでも、透明感を失わずに俺の耳に届く。
「聞こえてたら、私の脚を2回叩いて」
俺は拳を振り上げたところで動きを止めた。
どのぐらいの強さで叩けばいいのか。
彼女に俺の返事が伝わらなければ意味がない。
となれば、それなりに力を込めて叩かなければいけない。
授業で習ったのは男が全力で殴ろうとも、女子の身体に傷一つ付けられない程の力の差だ。
でも親切で助けてくれる彼女を本気で叩くのも、失礼な気がした。
あまり待たせるのも悪いので、一瞬だけ考えて俺は、敏感と思われる彼女のスネを、少し強めに叩いた。
「やっぱり、全然聞いてなかったんだね」
なぜか彼女の声から不機嫌さが滲み出ている。
ちょっと強すぎたのだろうか。しかし声には痛がっているような様子は含まれていない。
女子と接する時一番困るのは、顔が見えない状況が多いことだ。
人間は相手の表情から多くの情報を得ているのだ。
「このまま歩いたら蹴飛ばしそうだから、後ろに回ってって言ってるのに」
あぁ、そういうことか。そりゃそうだ、俺が彼女に痛みを与えることなどできるはずもないのに。
確かにこのまま歩いたら、俺は最初の一歩で外に蹴り飛ばされて、びしょ濡れになってしまうだろう。

俺は彼女の脚の間を通って、後ろに回る。
匂いの質が少し変わった気がした。彼女が清潔さに欠けるということではないのだろう。
体格差を考えれば仕方ないことだった。
それでも不快感を感じる様な匂いは弱く、花の様な匂いが肺を満たす。
洗剤の匂いなのだろう。うちで使っているものとは違うようだ。
目の前には相変わらず、この場を支配するような存在感の太腿。
少し見上げれば純白の下着が、前側とは違って巨大な尻に押し広げられている。
もちろん後ろのほうが布の面積は多く作られているのだろうが、それでも今にもはち切れそうだ。
俺は何だか圧倒されながらも、今度は太腿の裏側を2回強めに叩いた。
「じゃあ、行くよ」
彼女が右足を一歩踏み出す。
それに合わせて、俺を包むテントが前進する。
歩く度に空気が移動し、ひらひらと揺らめくスカートから、洗剤の匂いが鼻をくすぐる。
俺は彼女の右足の踵に、少し間を空けて付いていく。
右足の動きに合わせて、踵と一定の距離を保つように早歩きする。
外の様子は見えないから、歩く方向を自分で決められないし、彼女に蹴られるのも防がなければならない。
俺の思いつく方法の中では、これが一番安全だった。

昇降口から校門までは一直線だが、舗装されていない。
彼女が足を地面から離すと、土にくっきり残る足跡に水が流れ込み、小さな水溜りになる。
彼女にとっては小さな水溜りで済むだろう。
俺にとってでさえ、靴の半分ぐらいの高さの水たまり。彼女は気にもしない。
しかしそれは俺の足を取り、ただでさえ踵に追いつこうと必死な俺を焦らせる。
校門を抜け、アスファルトの道路に辿りつく頃には、俺はもう肩で息をしていた。
やっと校門を抜けた。
しかし彼女は何の感慨もないのか、当たり前の様に歩き続けていく。
当たり前と言えば当たり前なのだ。
彼女の片足が前に出てから、逆の足が前に出るまでには少し間があった。
彼女は気を遣ってゆっくり歩いてくれているのだろう。
それが、俺にとっては少し速いペースだなんて、想像もできないだろう。
彼女が気を遣ってくれているのは伝わってくるし、感謝こそすれ、責めることなどできるはずもない。
俺がこのペースに合わせるしかない。

歩いている間、二人は無言だった。
こういう状況でコミュニケーションを取れないことは、お互いに理解していた。
彼女が話しかけたとする。
俺が大声で返事したとしても、スカートと雨に遮られて彼女には聞こえない。
だったらさっきみたいに彼女の脚を叩いて返事するか。
歩きながらでは無理だし、俺は彼女の踵に付いていくので精一杯だ。
昔の漫画なんかで見た『相合傘』は、恋愛が進展するシチュエーションだった。
けど現代では男の無力さを思い知らされるだけだ。
まぁ今の状況は『相合傘』と呼べるものではないのだが。


結構長い時間歩いた。
ペースにも慣れ、少し余裕が出てきた。
俺は通過した信号や横断歩道の数を数えていた。
今止まっている赤信号を渡れば、きっと大通りに出る。
歩いている時は気にもしていられないが、立ち止まるとやっぱり恥ずかしさが込み上げてくる。
このまま大通りに出るのは少し躊躇われた。
ここでいいよと外に出ようか。
大通りさえ無事に過ぎれば、後は距離も危険も大したことない。
意を決してスカートの幕を押し開こうと手を伸ばしたところで、何かに押さえつけられた。
何かって彼女の手以外、そんなことをするものはここにはない。
「危ないから、大通りを越えるまでは中にいて、ね」
偶然なのか何なのか。俺は考えを読まれているのだろうか。
彼女の許しがなければ、俺はこのスカートの中で一生を終えるのかもしれない。
嫌な想像をして脱力してしまった。
彼女にはそれができるというのが、また何とも言えなかった。
信号が青に変わったのだろう。彼女はそれまでと変わりなく歩き始めた。
俺はまた必死で踵を追いかけるしかない。

「お母さん、あれー」
「あらあら、指差したりしたら駄目よ。可哀想でしょ」

大通りと言うことで、人目に付かないようにというのは不可能だった。
俺の下半身が、彼女のスカートから生えている。
それは可哀想な状況らしい。
足取りはさらに重くなる。
しかし踵を追い越すような勢いで、多少無理に早歩きから小走りに変えていた。
今はまだ顔が隠れているから我慢できる。
しかし万が一彼女のペースから遅れて、こんな人目に付く場所でスカートの幕が開いたら・・・。
俺はきっと恥ずかしさで死ねる。
それだけは避けなければならない。

実際の距離以上に大通りを歩くのはきつかった。
普通サイズの彼女であっても、通行者や車を避けるのに、急な方向転換や急停止をすることが少なくなかった。
命懸けで走って帰れば何とかなるとか思っていた自分が、馬鹿だったと痛感する。
ほぼ間違いなく、誰かに蹴られたり踏まれたり、車に轢かれるなどして、死ぬか大怪我をしていただろう。
そう考えると、今更ながら彼女に感謝するのだった。

大通りを抜け、狭い小路をしばらく歩いたところで、彼女は立ち止まった。
「大通りを抜けたけど、どうする?」
俺はその言葉を予想もしていなかった。
彼女のスカートの中にいることに安心感を覚え始めていた。
ほんのわずかな間にその変わりようは何だと責められれば、返す言葉もない。
「このままもう少し行っても良ければ、脚を叩いて」
俺は考えるまでもなく彼女の脚を叩く。
俺の方からお願いしたいぐらいに思っていたのだから。
「そう、じゃ行くね」
心なしか、彼女の声が弾んで聞こえたのは気のせいだろうか。
しかし、それを確かめる手段も時間もなく、俺たちはまた歩き出した。

それからどのぐらい無言の時間が続いたか。
実際にはそれほど長くはなかったはずだ。
大通りを過ぎれば、俺の普段歩く速度でも10分ぐらいで家に着く。
今は少し早歩きになっているから、それよりも短い時間だっただろう。
「ここまでにしといた方がいいのかな」
ふと立ち止まった彼女が口にした。
俺は少し屈んでスカートをわずかにたくし上げて、顔だけ外に出した。
家の少し手前の交差点。見飽きた光景も久しぶりに見た外の景色と思うと、何だかとても新鮮だ。
彼女の言葉は、俺を気遣ってのものか。
家の前までは行かない方がいいのかという意味だろう。
今の俺は一向に構わなかったが、彼女の方でも思うところがあるのかもしれない。
『偽相合傘』はここまでにして、俺はゆっくり外に出た。
大粒の雨が一瞬で俺の顔をグショグショにする。
一気に気力を失う。
俺は一言礼を言うと、スカートの中の心地良さを振り切るように、家まで一直線に走る。
「あっ、あのっ」
あと一歩で家に飛び込めるというところで、彼女の声が俺の足を止める。
振り返って見た彼女からは、離れた場所にいることもあって先程までの存在感は感じられない。
「明日もそのっ、雨なんだって」
もじもじと、やっとのことで言葉を捻り出す彼女の姿に、同い年の少女であったことを思い出す。
それにしても一体何を言いたいのだろうか。
俺の方も濡れるのを嫌ってさっさと家に飛び込めばいいものを。
そうしないのはどこかしら期待があったからだろう。
「明日は、家まで迎えに行ってもいいかな」
それだけ言うと彼女は俯いてしまった。
この距離では見えないが、きっと彼女の顔は真っ赤になっているだろう。
俺はどうすれば返事が伝わるかを一瞬考えて、頭上に大きな丸を両手で作った。
「お願いします」

およそ告白らしくない告白と、告白に対する返事らしくない返事。
二人の初恋が始まった瞬間だった。