玄関のドアを開けると細く、短い廊下があった。
右手にはキッチン、左手にはトイレと風呂があるであろう、ドアが二つ。
よくある一人暮らし用の部屋だ。
廊下の突き当りには引き戸がある。
その先に六畳という、彼女にとっての安住の地が広がっているはずだった。
勢いで実家を飛び出してきたようなものだったので、色々と揃えなければならない。
すぐに必要なものを頭に思い浮かべながら、勢いよく引き戸をスライドさせる。
そこで彼女はしばし固まった。

数秒か数分かわからないが、結構な時間が経った頃、ようやく動く様になった右手を鞄に伸ばした。
携帯電話を取り出し、発信履歴から電話をかける。
数十分前に、もうこの人と話すことはないかもなと思った男の声が聞こえた。
「あ、あの、石峰です。さっき、あの、部屋の・・・」
何を言うのか整理できていないと、人間こんなもんであろう。上手く話せない。
「あー、先程の。無事に着きましたか。少々わかりづらい場所というのも、家賃が安い理由の一つでして」
そんなことはどうでもいいのだ。確かに路地を一本を間違えて、5分ほどロスしたが、大したことではない。
彼女は、そんなことよりも目の前の光景をどう説明すべきか、全くわからずにいた。
「あ、あの、その、小人がですね・・・」
彼女のその言葉に一瞬の沈黙が広がる。
電話での沈黙というのは、なかなかに怖いものだ。彼女はただ相手の言葉を待つしか出来なかった。
「もしかして巣を作ってましたか。年に一回は業者に掃除とか殺虫とかお願いしてるんですけどね。
 人が住んでいないとなると、勝手に入り込んで、迷惑ですよね。内見の時にその辺も確認しようと
 思ったんですけどね。お客さんが内見は必要ないっておっしゃったんですし。その部屋に人が住んで
 るとなれば、近寄ってこなくなりますし、今ある巣を駆除してもらえれば大丈夫ですよ。業者にお願い
 してもいいんですけど、今日お願いして、今日やってもらうというのは、なかなか難しいでしょうし、
 誰でも簡単に駆除できるんで、自分でやったほうが早いと思いますよ。ゴミは燃えるゴミで大丈夫ですし」
彼女が待っていた何倍もの言葉が返ってきて、もともと混乱気味だった彼女の頭はパンクしてしまった。
最初の一言で止まっていれば、彼女は言いたいことを言えたはずだった。
巣なんてものじゃないです。これはもう町ですと。しかし、
「あ、そうなんですね。ちょっとやってみます」
口から出た言葉はそれだけだった。


「また何かありましたら、お気軽にお申し付けください」
誠実そうな声で、嫌な感じを受けたというわけでもなかったが、出来ればもう二度と世話にはなるまいと
彼女は思った。
部屋の中に入って、町の方を見てみる。六畳間の三分の一ほどを占める町。
まだ少し距離をとって、目を細めて観察する。
百近い建物がありそうだ。ちゃんと比べてみないとわからないが、高い建物でも彼女の踝にも届かないだろう。
駆除と言ったってどうすればいいのか。何か道具が必要なのだろうか。
もう少し近くで見てみよう。ゆっくり近づいていく。
近づいてみてわかったのは、建物が思ったより頑丈ではなさそうだということだった。
木クズや葉っぱなどで作ってあるのだろう。石やコンクリートみたいな硬さはなさそうだ。
これなら特別な道具は必要ないかもしれない。
今日は一日でやらなければならないことがたくさんある。
一つのことにあまり時間を取られるわけにはいかなかった。
そういうことが無意識に身体を動かしたのかもしれない。
足が町に影を作っていた。そして音も立てずに地面に着地した。
靴下越しにスナック菓子を踏んだ時のような感触がする。痛くない。むしろ少し気持ちいい。
足は自然と二歩目を踏み出そうと、高く上がった。今度はゆっくり下りていく。
着地しようかという寸前で、足はピタリと止まった。
微かな悲鳴が聞こえたからだ。おそらく一人、二人の声では彼女の耳には届かない。
足を下ろす、たったこれだけの行為に、それだけの人数が恐怖している。
それは、とてもいい。
その感情にピッタリの名前を思いつかないが、顔がこれ以上ないぐらいニヤついている。
二歩目を町から離れたところに下ろし、彼女は部屋を見渡した。
残りの四畳ほどのスペースで生活する自分を想像する。
収納もあるし、悪くない。
ベッドとテーブルを置いたら、少し窮屈になるかもしれないが、我慢する価値はある。
彼女はすぐに必要なものリストに、町と自分の生活スペースを隔てる板のようなものを追加した。
分けられたスペースの中でなら、生活することも増えることも許してあげよう。
だけど、自分が疲れたり、ストレスが溜まったりした時には・・・。
彼女は笑い声が漏れるのを堪えられないほどの笑顔で、買い物に向かった。