かわいそうな僕 青苺 aoichigo

第1章 僕の住む町

正面生徒昇降口で、美術部の部員たちが脚立を2台出して紅白の紙花と音符模様のテープで縁取られた「祝 久流和中学校 新入学」の大きなボードを掲示していた。そうか、明日は入学式か。

昇降口のガラス扉だけでは足りず、その間に張り出す柱部分の壁面も使って今年度の新入生氏名一覧表が整然と張り出されていた。新入生が集合クラスを間違えないように、9つあるクラスごとに男女別に並べられている。

1クラス大体45人か。今年も見上げるような新入生たちが僕のことを好奇と憐れみの目で見て、「うわっ、小さっ!」とか言って笑われるんだろうな。

晴れない気分で夥しい氏名の羅列を眺めていた僕の目は3クラスの「中御堂」というちょっと珍しい苗字の上でつっと止まった。三字の苗字はそれだけでも良く目立つけど、理由はそれだけでない。中御堂といえば、僕が小学生の時に2学年下にいた女子生徒の苗字がそうだったことを思い出したからだ。僕がこの4月から中3になったわけだし、年齢的にもピッタリだ。

もしそうだとすれば、僕が6年生の1年間、掃除の班が一緒だった、あの背のすごく高い女の子だった中御堂サンかもしれない。

覚えているのは苗字だけで名前までは思い出せないけど、それがこの名簿の「中御堂 彩」という子なのかな。思えばあの頃は中身堂サンにはずいぶん酷いことをしてしまった。僕はあの当時もいろいろとストレスを抱えていたけど、そんなのは言い訳にもならないだろう。今考えると自分のとった行動があまりにも幼いものであり、彼女がそれを今も覚えているとすれば恥ずかしくて赤面しそうだ。

小学生の当時は知る由もなかったが、中御堂という苗字は、僕たちが今住んでいる地区の名家で、江戸時代まではこの一帯を支配する代官だか郡代だかの家柄だったらしい。

この町で僕の父親代わりをしてくれている「おじさん」は、その中御堂家の一族だか親戚だかが経営する製材会社で、職人さんの使う工具を調達したり整備したりする仕事をしている。人手が少ないので慣れない力仕事や経理などの事務仕事もやらなければならないらしく、月曜日から土曜日まで朝早く自転車で家を出て、帰りは決まって夜になる。疲れが残るのか休みの日は朝から晩までだるそうに横になってテレビを見ていた。

今でも、地区の古い人間は中御堂の家の人たちに会うと、たとえ相手が若年であっても姻戚であっても、腰を折って「へぇ」と言ってお辞儀をするのだ、といったことを「おじさん」から聞いたことがある。

もしかしたら中御堂サンもその一族なんだろうか。

僕が小学生の時に彼女に対してしたことなんかを考えたら、江戸時代だったら打ち首モノだったと思うと背筋がぞくっとなった。まあ、今となっては向こうだってそんなこと忘れているに違いない。それにそもそも人違いかもしれないし。

僕が住み、そして僕が通う中学のある久流和町は、S県内で3番目に人口の多い「町」だ。すでに市になるだけの人口はあるらしい。ちょっと読みにくいけど、くるわ町と読む。

久流和中は町に一つしかない公立中学校ということで、学区も広い。あまり威張れたことでもないけどよく新聞の地方版やタウン誌でも「マンモス校」ということで紹介されている。一時は全校生徒数が1500人を超えたこともあるらしい。以前、新しい町立中学校の建設をという声もあったみたいだが、近隣市町との暫定学区協定というのが結ばれたので、その話も立ち消えになってしまった。とはいっても、僕の住んでいる地区からは久流和中より近い近隣の公立中学はないのであまり関係ないけど。

僕が暮らしている、古い歴史を持つ赤根地区はずっと前は独立した村だったらしい。かつては村の中学校(分校だったかもしれない)もあったらしいけど、地区の子どもの数が減ってずっと昔に閉鎖されてしまった。現在もこの地区では高齢化が進んで子どもは少ない。

なので、一緒に中学に上がって同じクラスになる同級生はあまりいない。久流和中に通う生徒のほとんどが私鉄が延伸してから開発された新興地区の出身だ。僕が今お世話になっている家の亜里沙のように、将来有名大学を目指せそうな成績の子のほとんどは、県下2番目の大都市であるT市にある全寮制の私立中学に行ってしまう。

中学では出身地区の人数の多さがクラスの発言力にも影響する。また、地区の勢いというか経済力みたいなものも、そういったものと関係しているようだ。

新興地区から通う生徒たちはどこか垢抜けていて、いわゆるホワイトカラーと呼ばれるような経済的に豊かな家の子が多いように思える。友人関係でも地区ごとにグループができていて、僕たちみたいな江戸時代から農村だったような古い地区出身の生徒の多くは外部の人間と付き合うのが下手で、とくに僕のような帰宅部だとクラスにはなかなか溶け込めなかった。

僻目なのかもしれないが、先生たちも心のどこかで、新興地区の生徒に比べて僕たちみたいな古い地区の生徒や父兄のことを一段レベルが低いように見ているような気もする。そんなこともあって正直、2年間の中学生活を楽しいと思ったことはなかった。というよりも苦痛に感じる日々がほとんどだったかもしれない。

僕は3歳の時に原因不明の高熱で1週間くらい意識がないまま寝込んだことがあって、それから体の発育に遅れが出てくるようになってしまった。今ではほとんど成長が止まってしまったように思う。中3になった今も身長が1メートル18cmと極端に背が低く、体重も20kgに全然満たない。何か一つでも才能があれば良いのだけど、勉強もスポーツもサッパリで、同じ小学校からの知り合いも少ない僕は何かにつけてよくハブられたりイジメられたりした。

それでも地元の小学校に通っていた時は1クラス20人くらい、各学年に1つか2つくらいのクラスしかなくてアットホームな雰囲気だったから、こんな僕でもクラスの皆を笑わせたり、女の子たちにちょっとした悪戯を仕掛けたりすることでクラスに受け入れられていた。味噌っかすのような扱いではあったかもしれないが、なんとはなしの心の通い合う温かさのようなものがあった。

僕は名前を溝呂木守(みぞろぎまもる)と言うんだけど、皆に親しみを込めて「コオロギ」と呼ばれていた。それが今ではすっかり見下すような意味しか持たなくなってしまった。「コオロギ」と呼ばれればまだマシで、「虫」とか「ケラ」なんて呼ばれることの方が多いかもしれない。

僕の両親は、僕が小学校に上がる少し前に離婚してしまった。以前は、ここよりずっと開けたC県の内陸にあるHニュータウンの団地に住んでいたのだけど、母が父との不和で家を出て行ってから間もなく、失職中で病気がちだった父は亡くなり、引き取り手のなかった僕は施設に入れられるところを、父親の縁者だったというS県の「おじさん」のところにもらわれてお世話になっている。

初対面の「おじさん」は銀縁のメガネをかけた白髪交じりの40歳くらいの学者みたいに品の良い真面目そうな人だった。 身長は170cmくらいはありそうだけど、実際はそんなにはなく、痩せているので背が高く見えるのかもしれない。

温厚そうな見かけとは裏腹にちょっと神経質で、普段は疲れたような面白くなさそうな顔をしていてあまり喋らない。僕が話しかけても「うん」とか「そう」としか応じてくれないけれど、ちょっとお酒が入ると「守、お前はチビすけだけど、負けないで頑張れ。」とか「ご飯、炊くの上手くなったな。いつもありがとな。」などと少しだけ上機嫌になって話しかけてくれたりもする。「おじさん」もまた、僕がこの家に世話になる前に何か複雑な事情で綺麗だった奥さんと別れてしまったらしい。

僕は一応法律の上では「養子」ということらしいが、養父である「おじさん」は僕のことを養子としては認めたくないらしくて、自分のことを「おじさん」と呼ぶようにと言う。強制されたわけではないけど、「お父さん」と呼んでもらいたくないような気配を僕なりに悟った。僕も最初から今まで「お父さん」と呼んだことはないし、そう呼ぶのも恥ずかしかったので、もしかしたら養父もそんなことまで考えてくれていたのかもしれないと思ったこともある。

ただ、普段の生活の取り決めについてはかなり変わったところがあって、家族を迎えるというような感じではなかった。僕がこの家に引き取られる時にも、小学校に入学する前の幼い僕を目の前に正座させて、この家で守らなければならないことを「おじさん」に続いて復唱させられた。まだ僕は経験したことはないが、漫画なんかによく載っているアルバイトの採用面接みたいな感じだろうか。

その中には、僕が家の手伝いを怠けたり、「おじさん」に逆らったり、娘さんの亜里沙と喧嘩したりしたら、施設に入れられる、という約束事もあった。一つ屋根の下に大切な娘と一緒に住ませるわけだから、「おじさん」の気持ちを考えて、喧嘩「したり」の中身については僕なりに考えなければならなかった。そんな複雑ないろいろな事情があって、僕の姓も、戸籍上はどうなっているのかわからないけれど、この家の姓である「磯田」ではなく、学校では旧姓の「溝呂木」を使うこといなった。結局、僕の立場は居候と使用人のちょうど真ん中くらいに当たるんだろうなということでバランスを取ってやっていこうと思った。

僕が住んでいるというか厄介にやっている磯田の家の建物は、質素な造りではあるけれども、僕たち3人が暮らすには十分な広さのある木造の平屋で、かつては営林署に勤める人たちの官舎だった建物に手を入れたらしい。持ち主は養父の勤める会社の所有で、借家なのだけれど家賃を払っているような感じはなかった。

家の中には6畳の居間と、それと同じくらいの広さの台所の他に、床の間のある6畳と続き間になっている6畳の和室、それとは別に一番日当たりの良い6畳の洋室が1部屋、4畳半の和室が1部屋、3畳の納戸が1部屋ある。トイレは男子用のトイレと和式のトイレに分かれていて、お風呂はちょっと古いけれど岩風呂みたいな凝った造りだった。

床の間のある6畳の続き間が「おじさん」の部屋で、ごく稀に隣の部屋には会社の人が泊まることがあった。6畳の洋室は娘の亜里沙が使っている。4畳半の和室には以前の居住者が置きっ放しにした大工道具のような物が転がっていて半分納戸みたいになっているため今は使われていない。

そして僕は居間や食堂から離れた玄関脇にある、戸締りと来客や届け物の応答、家の番も兼ねる3畳くらい広さの納戸を居室として与えられた。元は泊まりの仕事の人たちの旅の荷物や仕事道具を置く部屋だったようで、庭に面した高いところに明かり取りの窓があるだけの寒々しい板の間だ。それでも電灯は点いたし、小児用のせんべい布団を敷いても小さな洋服タンスくらいは置くことができた。そんな3畳間でも体の小さな僕には世界で一番落ち着くことができる十分な広さの城だった。

こんな感じで、家族というよりは使用人みたいな扱いで、朝と晩の食事の支度や土曜日の買い物、家と庭の掃除は僕の仕事になっていた。食事の支度といってもご飯を炊いて食器を出して冷蔵庫にある惣菜を温めたり取り分けたりするだけだが(たまには卵焼きや味噌汁も作った)、それでも朝早く起きるのは大変だった。

どうしても無理な場合には冷凍食品で我慢して貰ったけれど、「おじさん」から預けられる月5,000円の食費と冷凍庫の限られたスペースのことも考えて買い物をしないとならないから結構頭を使った。風呂も最後だったので、使い終わった後は掃除もしなければならずしょっちゅう湯冷めをして風邪を引きかけた。だからといって別に虐待されているわけではなく、不自由なく食べさせてもらっているのだからそれくらいはするのが当然なのだろうと思って不平を口にすることだけは避けた。