第3章 二年間(一)

亜里沙が僕に対して厳しく接してくれたことで、中学校に入ってからのイジメや嫌がらせにも耐えることができたのだと思う。中3になるまでの僕の2年間の中学生活をざっと紹介してみたい。

たしかに、中学に入ってからの僕はイジメの対象になってはしまったけれど、ニュースで話題になるような、死を選ぶしかないというような過酷なイジメには至らなかった。たくさんの人数のいる中学やクラスには僕以上にイジメられやすいタイプの人間がいるもので、体格や能力が劣ることよりも性格の悪さというか、空気の読めない自己中心的なヤツが嫌われた。それで男子のイジメっ子グループのメインターゲットにはならないで済んだのだと思う。また、本当の不良、「ワル」と言われるような連中は、温厚な先生の授業の間は寝ているか、そうでない場合にはフケてしまっているかで、同級生としての接触はほとんどなかったこともあり、不良にカツアゲされるというようなこともなかった。

そしてまた亜里沙がそうだったように、下手に僕に暴力を振るえば「死」に至ってしまうかもしれないから、そんなリスクを冒してまで僕をイジメる実益もなかったのだと思う。パシリにしても、あまりに小さくて、近くにあるコンビニまでの往復に時間がかかるし、世間慣れしていなかった僕は正直、彼らの好みのお菓子やアイスのような商品名も良くわからなかった。幸か不幸か、「使えねぇヤツ」という烙印は男子たちからのイジメの免罪符になったわけだ。

男子にイジメられなかったからといって、僕の2年間の中学生活が平穏だったわけではない。中学に入ってすぐに行われた身体測定ではクラスで一番背の低い女子でも143cmあった。一番高い子は亜里沙よりももっと上背があったような記憶がある。そんな女子たちが手頃なオモチャやペットとして僕の小ささに目を向けないはずはない。男子たちに足を引っ掛けられたり給食に唾を吐かれたりすることはあっても、それはイジメというより、挨拶程度のからかいだったといえよう。そのため、僕の身柄をどのように取り扱うかの処分権はクラスの女子たちの総意に委ねられる形となった。

スクールカーストというのだろうか、クラスの中でもカワイくて男子たちにも人気のあるようなクラスの序列が上位の女の子たちは、男子同様に僕のことなど全く眼中になかった。日直などの連絡で、何か話す必要がある時には、「コオロギ、これお願いね。」(僕の苗字が「溝呂木(みぞろぎ)」なので、「コオロギ」というのが僕に付けられたニックネームだった)などと、むしろ普通のクラスメートに対するのと変わらない扱いをしてくれた。そして、そんなにカワイくはないが、成績の良い子たちも、県内の偏差値の高い公立高校や亜里沙の通っている私立の高等部に進むために、僕なんかに構わないで自分の時間を大切にしていた。部活で活躍している女の子も、そんな感じだったかな。

厄介なのが、カワイくもないし、イジメられたこともあって性格もねじけている、特に目的もなく日々を過ごしているような、どちらかというとクラスカーストが真ん中くらいから下の女の子たちだった。

そういった女子たちの振る舞いの中には、クラスカーストの上の方の女子に対しては、「マジ、だよね~」なんて、あからさまに同意のポーズを取ることで、女子たちの陰湿なイジメのターゲットにならないようにしながら、しかも、そうした影響力のある女の子たちと繋がっていることをアピールするような狡猾さがある。あからさまな、言葉の端々に媚を売るような感じが僕にさえわかってしまい耳障りだった。そんな女子の代表格が田村真由美だった。

彼女の小狡さは女子たちにも見透かされていて、イジメられはしないもののいずれかのグループの仲間の輪に誘ってもらえるようなこともなく、自分の居場所を見つけられずにクラスの中で漂っているような存在だった。授業中に先生の冗談にオーバーに反応するかと思えば、休み時間中一人でぶつぶつ呟いているような、あれは何と言えばよいのだろうか、ちょっと躁うつ病のような気があったように思う。

授業の間はいつも筆記用具を弄っているか絵を描いているかで、しょっちゅう先生の注意を受けていた。なので、テストの点数もほとんど取れていなかったようだ。詳しくは知らないが、家庭の状況もあまり良くない感じらしかった。小太りでいかにも厚かましそうな顔つきをしていて、同じ女の子といっても、亜里沙とはタイプが全然違っていた。僕から見ればどの女の子だって大きいんだけど、田村は横幅もあったので、155cmくらいの背丈でも僕には凄い威圧感があった。女の子たちの意地の悪い噂によればクラスで1番体重があって、65kgくらいあるとのことだった。それが本当なら当時の僕の体重の4倍近くあったことになる。

彼女の制服ブレザーの着こなしはとてもだらしなくて、女の子らしい洒落っ気はもとより清潔感もなかった。たまたま登校する道すがら見てしまったのだけれど、彼女が植え込みに痰を吐くのには幻滅を覚えた。僕だけしか見なかったのかもしれないが洟をハンカチでかむのも気持ち悪かった。そういうこともあって、黒や青のサインペンで毒々しくデザインされた英字や文様が書き込まれた彼女の上履きが僕の視界に入ってくるだけで不快感が込み上げてきた。

65kgの体重でぺしゃんこに踵の部分が踏み潰された上履きをスリッパのように引き摺って歩いたり、体育の後などはソックスを履かないで素足のまま履いたりするのも野卑な感じがしたし、授業中には、蒸れた足で上履きを踏みつけていた。僕は他の生徒より鼻の位置が地面意近いこともあって、それを見ているだけで嫌な臭いがするような気がしてならなかった。

校庭に出るときも物臭な彼女は外履きに履き替えないのでよく先生たちに注意されていた。なので、あっという間に彼女の上履きの布地は土色に薄汚れていった。歩く度にパタンパタンとゴムが床を叩く音が騒々しいのも僕の生理的な感覚を逆撫でした。彼女の履いているソックスにしてもまた、洗濯し立てのものを履いているといった清潔感はなかった。

中1のクラスで、ほとんどのクラスメートの名前と顔が一致するようになっても、僕は相変わらずただそこに登録されているだけの存在感のなさだったけれど、変に悪目立ちするよりは良いかなと思ってもいた。そんな僕に事務的な話以外で初めて話しかけてくれたのは、先生を除けば彼女だったような気もする。

その時は、がさつそうだけど生きるのが下手なだけの結構親切な女の子なのかもしれないと思った。僕が大の苦手とする数学(僕は中1になっても分数の割り算がまだできなかった)の割り当て課題のプリントを解くのに苦しんでいると、「コオロギクン、これはこうやって解くんだよぉ。」と、まるでお姉さんが年の離れた小さな弟に教えるように、僕の肩から小さな胴体までニシキヘビのような太い腕を馴れ馴れしく絡みつけ、僕の鉛筆を握った右手を彼女の大きな肉厚の手で、すっぽりと包み込むようにしてくれた。ただ、亜里沙のような芳しい香りではなくて、汗と泥の混じったような体臭には辟易した。

僕は、亜里沙以外の女の子とこんな感じで密着するのは初めてなので、話しかけてもらったすぐ後には凄く緊張し出した。周囲のクラスメートが僕たちのことを見ていたので顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった。でも、親切に勉強を教えてくれる優しい女の子だと思って、彼女の好意を無にしては悪いかなと思って黙っていた。

ところが、暫くすると、鉛筆を握る右手に予期しない力を感じた。田村真由美が、大きな肉厚の手で包んだ僕の右手のコントロールを奪う。異状を察知した僕は咄嗟に抵抗を試みるが、上半身は彼女の腕と脇の筋肉にがっちりと締め付けられて動かすことができず、僕の右腕を意のままに操ろうとする亜里沙以上の怪力に、鉛筆を握ったまま僕の手は、書きたくもない文字や数字を書かされた。

解答欄の数値を書く欄には、見るだけでそれとわかるようなデタラメな数字や記号が、図形やグラフを書く欄には、卑猥なマークや「へのへのもへじ」などの悪戯書きが見る見るうちにに満たされていく。課題の余白の部分には、中1クラスの担任でもあり、数学の担当教師であった、長谷川先生への悪口や恨み言まで彼女に勝手に作文されてしまった。氏名欄には「コオロギ」と殴り書きされたような文字が躍る。

田村真由美としては、僕を慰み者にすることで、周囲のクラスメートからのウケや声援が狙えると踏んだのだろうが、彼女の意に反して誰も可笑しがるような者はおらず、白けた空気が漂っていた。田村は何人かの男子に「おまえさぁ、そういうの良くないよ。ヤメとけよ。」とやんわり注意され、多くの女子たちも遠巻きにして冷ややかな目で見ていた。

僕もその空気に押されて、「迷惑だから・・・やめてよぉ。」と精一杯の勇気を振り絞ってつぶやくように苦情を言ってみたのだが・・・。

その途端、僕の右手に凄まじい力が掛かってきた。目論見が外れて恥を掻かされた格好の彼女が僕の右手を握り潰そうとするくらいの力をかけてくる。握力計のハンドルを一番握りやすく調整して貰っても8.5kgが最高記録だった僕の右手など、田村真由美からすればまさに赤子の手を握り潰すようなものだろう。強い痛みとともに「あぁっ」と僕の声が漏れるのと同時に、耳からは「てめぇ、これ消したらどうなるかわかってるだろうな。」という僕にしか聞き取れない彼女の恫喝が耳元で囁かれた。亜里沙に比べれば全然迫力はなかったけど、一連の流れの中で生じた驚きと痛みによる動揺で反抗するチャンスを封じられてしまった。

彼女は僕からプリントを奪うと地面に落とし、わざとあの汚い上履きで踏み躙って靴底のギザギザな痕を付けてから、「提出しておいてやるから心配すんな。」と僕に吐き捨てるように言うと、僕のプリントを乱暴に折り畳んで課題提出箱に入れてしまった。僕にもう少し勇気があれば、皆の前で課題プリントを奪えたのかもしれないが、右手が開けないほど痛くて泣きそうになっていた僕はそれどころではなかった。本当に骨が砕かれてしまったのではないかと思うくらい痛みが残り、暫くは鉛筆を握ることはおろか、ドアのノブを回すことさえできなかった。

田村真由美の数少ない友人の一人が、猿島(さじま)くるみという子で、僕はこの子にも様々酷い目に遭わされた。田村と猿島は友人といったほどの関係ではなかったが、音楽室や家庭科室などへの教室移動の時や給食の出ない日のランチタイムの時には一緒に行動していたように思う。小学校は違っていたが同じ補習塾で知り合ったらしかった。

田村の方が強くて逞しそうに見えるのだが、実際には猿島の方が力関係では田村よりも上だったようで、意見が割れたような場合は、だいたい猿島が田村にまくしたてるようにすると、田村は気圧されるように猿島の意向に従うのを僕は何度も見ている。頭の回転も猿島の方がずっと速いようで、そんな時は田村がサーカスのクマや愚鈍な恐竜のように見えた。田村と猿島がぶつかった時はいつも僕は心の中で猿島を応援した。

猿島もまた、小学校高学年の時に、仲の良かった友人たちのグループから爪弾きにされてしまうようなできごとがあったらしく、中学に進んでからも和解することができないまま、どことなく日陰者扱いされていた。本来積極的な気性を持つ二人が、中学ではクラスの中で思うようなポジションが得られないという似たような境遇の下、完全な孤独を回避し、自分たちの居場所を作ろうとしてなんとなく繋がるようになっていったのだろう。

猿島という子は、田村と違って、どちらかというとカワイい感じの子だった。たとえて言うなら、小動物系のカワイさである。ただ、リスというよりはちょっと凶暴なイタチやオコジョといった感じだろうか。怖い目つきではないんだけど亜里沙同様、目に強い光を感じる。当然僕に比べればずっと大きいんだけど、女子の中では背の順は前から5番目くらいで小柄な方だ。前の小学校での曰く付きでなければ男子にももっと人気が出るだろうに、田村なんかとつるんでいるのは僕から見てももったいない感じがした。

服装も女の子らしくきちんとしていて、田村のように不潔な感じはない。また、騒がしい田村の悪ふざけは多くの女子の顰蹙を買ったが、猿島はそれなりに女子たちの守るべきコードを心得ていて、クラスの中で発言権のある女の子や男子とも普通に話をすることができた。