第3章 二年間(二)

中学生活の出だしは田村真由美に目を付けられてしまったことで早くもつまずくことになってしまったが、ほどなくしてゴールデンウィークに入り、ホッとできる時間ができた。この期間になんとかして僕は心身の態勢を立て直そうと考えた。田村のことがなかったとしても、僕は元来怠け者で、いろいろと自分に言い訳をしてなかなか行動に踏み出せない。何とかこれまでやってこられたのも、亜里沙が厳しく僕を躾けてくれたからなのかもしれない。でも、これからは自分の意志で行動できるようにしよう。大人への一歩、小学校の卒業式でも、中学の入学式でも校長先生が向上心という言葉を使っていたが、僕も向上心を持ち始めたのだと思った。

そして、まだこの頃は、僕のような者でも中学生になれたんだという高揚感のようなものがあった。中学近くの書店では、店員のお兄さんにハタキを掛けられるようにして立ち読みを咎められたけれど、会計で忙しい時にこっそりと、『劣等感で伸びる』とか『背を伸ばすための7つの定石』なんて本の目次だけでも頭に入れるようにしたり、ゴールデンウィーク明けから本格的に入部手続きが行われるクラブ活動にも興味を持ったりもしたのだ。運動部は無理でも文化部ならば何か自分の才能を伸ばせるようなものがあるんじゃないかと考えたのだ。

だが、養父である「おじさん」は、家の留守の時間が長くなることや、僕の学費・給食費も馬鹿にならず、ささやかとは言っても道具を揃えるための費用や部費が必要になることなどを挙げて、もし頑張って僕が高校に進学したいのであればそのための積み立てもしなければいけないからと、僕の向上心に燃える申し出にはあまり良い顔はしなかった。亜里沙の塾の費用や外食費、衣類なんかには相当お金を使っているだろうにとは思って、もう一押ししようかとも思ったけど、それを言うのはどこか筋違いであるというような気もして、大人しく頷いて養父の意思に従った。その代わりというわけでもないのだろうけど、中学に入ってから僕のお小遣いを月に300円から1000円にアップすることを約束してくれた。遅ればせながらということで、500円の図書券を5枚くれた。

ゴールデンウィークに取り組むべき課題として、「新学年プリント」というのが英語と数学で出された。中間テストで出る問題の半分くらいがそのプリントから出されるらいい。担任でもある数学の長谷川先生はそうでもないが、英語の牧村先生は、課題を忘れるとねちっこく生徒をいびるので気をつけた方が良いという噂だ。なので、僕は休みに入ってすぐに取り組む予定でいたのだけど、お客さんが来るからと「おじさん」に言いつけられ、トイレと風呂の掃除をしている時に、僕の部屋に入ってきた亜里沙が僕のズック鞄から中身をぶちまけたのだろう。部屋に戻ると、中身が部屋の四方に散乱していて肝心の課題プリントが見つからなかった。

僕が中学に入ってからはこういったことが度々あって、その都度鉛筆がへし折られていたり、教科書の間にガムの噛みカスがへばり付いているようなことがあった。昔ガチャで取った「怪獣紳士」シリーズの消しゴムも首や手足を捥がれて哀れな状態になっていた。僕が中学でいったいどんなことをやっているのか興味があったのだろうか。あるいはもっと単純に僕が紺色の制服に身を包んで中学に通うことをねたましく感じていたための子どもっぽい嫌がらせだったのかもしれない。

いつもなら丹念に周囲を見渡すか玄関や庭まで探せば原型は留めないまでも、見失った物は一応回収できたのに、この日はそうはいかなかった。どうでもよい連絡プリントや表紙を破り取られた教科書などはすぐに見つかったが課題プリントは見つからなかった。亜里沙に対して課題プリントの所在など聞くわけにもいかず、ゴールデンウィークに入ったばかりだというのに、課題を失くしてしまった言い訳を考えなければならず憂鬱になった。

ゴールデンウィークの間は、家に養父もいてくれたので(とはいっても寝転がってテレビを観ているだけだったが)、表立っては亜里沙に暴力を振るわれることはなかったし、亜里沙も塾でできた友人たちと遊ぶためにちょくちょく町に出かけて行ったので、僕は自分の3畳間で息を潜めていさえすれば良く、課題プリントの心配を除けば比較的平穏に過ごすことができた。

ただ、亜里沙が町に出かける日は朝早いバスで町に出て行くことが多いので(そうしないと昼近くまでバスが来ない)、僕も早起きして彼女のために朝食の支度をしなければならなかった。それだけでなく、彼女が食事を取ってケータイをチェックしている間に、「これ着てくから」と指示された服に埃ひとつないようにブラシをかけ、場合によってはスチームをかけておかなくてはならない。そして彼女の着替えている間に玄関に急ぎ、その日の服に合いそうな履物を整えて控えている。バスに間に合うまでとはわかっていてもその時間は緊張で胸がドキドキした。というのも、前に、意に沿わない靴を揃えてしまい顔が膨れ上がるくらいその靴で激しく殴打されたことがあったからだ。だけど、何も言わずに僕の揃えた靴に足を入れて貰えると僕は亜里沙の後姿を拝みたくさえなった。それは緊張が氷解する至福の瞬間だった。

そんななんだかんだで、ゴールデンウィークとはいっても生活のリズムはいつもとはそんなに変わらなかった。


彼女の外出した後に訪れる静寂。実に不思議なことなのだが、僕に肉体的精神的な苦痛を与える亜里沙がいない時間は、僕にとって穏やかで心地良いはずなのに、なぜか寂しくてたまらなかった。ゴールデンウィークの間はそれを自分でも不思議に思う程度だったのが、梅雨が明けて夏休みが近付いてくる頃になると、彼女が塾から帰る時間も遅くなり、悶々とすることが多くなってきた。ガラガラと引き戸の開く音が聞こえると、子犬のように足元にじゃれ付いて帰りを喜びたい程だった。それだけに、亜里沙の気配の感じられない家は、平穏を感じるどころか、魂の抜け殻のような息苦しいほどに寂莫とした場所のように思われた。

僕が中学で受ける様々なストレスは、亜里沙が間断なく与えてくれる緊張感によって中和され、とりあえず目の前のことだけを凌ぐ(亜里沙の命令を成し遂げる)という形で僕の中でバランスを保つことができたのに、何の制約もない時間と空間は、僕の中に将来の不安と真っ向から向き合わなければならない苦痛をもたらした。自分のことを何一つ決めることのなかった僕にとって、「自由」などというものは自分の無力さと小ささを再確認させるだけの過分な負担に過ぎない。僕が決めるべきこと全てを決定し、僕のなすべき行動を全て支配してくれる亜里沙がどれだけ大きな、なくてはならない存在であるのかを否応なく思い知らされた。

彼女が外出している間は、陽射しの絶たれた下草のように、僕の中のエネルギーも朽ちていってしまうような不安感にしばしば駆られるようになった。それが病的なほど強い渇望の感情に転化したのが、このゴールデンウィークの少し後、僕の太ももが彼女のパンプスのピンヒールで串刺しにされた「事件」だった。

1ヶ月近く青黒く変色したままのピンヒールに抉られた深手が癒えてくるに従って、あの時に感じた凄まじいまでの疼痛が薄らいでいくことが残念でならなくなってきた。傷も痛みも消えてしまった時、亜里沙と僕の繋がりも消えてしまうように思えてならなかった。

あれは亜里沙が町に遊びに行った梅雨の最中の日曜日だったと思う。養父が鼾を立てて寝ているのを確認すると、僕は半ば夢心地で、パンツ一丁、裸足のままひんやりと湿った玄関のたたきに下りて正座して下駄箱の引き戸を開ける。ヒールに串刺しにされた醜く生々しい傷跡が僕の視界の片隅に入る。僕の小さな心臓が、全力で血液を体中に送っているのがわかる。

きっとこういうのを「衝動」と呼ぶのだろう。亜里沙が僕の腿を串刺しにしたパンプスの収められている白いボール紙の箱を取り出して僕の小さな膝の上に乗せる。ずっしりと重い。蓋を開けて赤と紫の2枚のパラフィン紙を左右に捲ると、僕の視野だけでなく心までもが、あの艶かしくも禍々しい漆黒のエナメルヒールに奪われる。ふわっと革の濃厚な匂いが僕の鼻を擽った。僕の顔をすっぽりと覆った25.0cmサイズのパンプス。僕の支配者の肉体を支える靴。その圧倒的な存在感に陶然とする。

その直後、互い違いに横たえられたヒールの箱を開いてしまったことに、崇高な美女の深い眠りを妨げてしまったような強烈な背徳感が襲ってきた。それでも、この罪のためならば亜里沙に殺されても構わないとも思えた。僕は彼女のこの靴のためになら殉じても構わないと。

だけど、情けないことに生まれつきの小心のためか、亜里沙の足を飾るパンプスであることの恐れ多さもあってか、急に歯の根が震え出したのを合図に箱を支える手までが震えてしまい、ヒールに直接触れることさえできなかった。もう一度ヒールの切っ先を傷口に突き刺してみたいという計画はそこで頓挫してしまった。

玄関のたたきからの冷気が正座した僕の足へと滲みこんでくる。膝の上に感じる重さの大半は、鋭いヒールの材質であるステンレスかなにかの重さなのだろう。僕の眼球を直撃した時の衝撃、そして僕の腿をあっさりと突き抉ったのもこのヒールだったことを思い出した。僕はもう一度廊下の奥まできょろきょろと見渡してから箱を抱えたまま、尖ったヒールの底のゴムの部分に舌を這わせた。ただそれだけしかできなかったが、亜里沙に無理やりヒールを口の中に突っ込まれた時以上に、興奮していることは僕の「分身」が証明していた。それにしても下手をすれば踏み千切られていたか串刺しにされていたかもしれないというのに僕の分身はなんてイヤらしいのだろう。

元通りに白い箱を下駄箱の上の段に戻し、引き戸を閉めると僕は脛の砂粒を払うこともせずに痺れた足のままで部屋に戻った。そして僕は亜里沙に支配され、彼女の役に立ってこそこの小さな体が生かされている意味が与えられるのだということを確認しながら、布団の中で果てた。