第3章 二年間(三)

ゴールデンウィークの最終日になって、プリントを紛失してしまったことの憂鬱さが再び頭をもたげてきた。喉元過ぎればなんとやらな僕は、飛び石の休みの間の登校日には何の根拠もなく、「何とかなるさ」と思っていたのに、結局なんともなりそうもなくなっていた。

なので、ゴールデンウィーク明けの朝なんかは胸のあたりがもぞもぞと不安と不快が入り混じったような感じで、浅くしか眠れず、夜が明けかかってから何度も変な夢を見た。全部をハッキリとは覚えていないが、猿島くるみに頭からボリボリと齧られる夢だけは覚えている。僕はなぜか白いカーディガンを羽織った猿島の手にすっぽりと握られていた。それほど強い力はかけられていないのだけど、体を捩ってもそこから抜け出ることはできなかった。僕の目の前に彼女の白い歯が迫る。ちょっと八重歯だがとても綺麗な歯並びだ。すでに僕の頭半分は噛み砕かれて脳みそが露出していた。

不思議な夢に興奮してボーっとしているところにジリリリリリと、不快感を決定付けるような目覚ましのベル。すぐに止めないと亜里沙や養父に迷惑がかかってしまうということが真っ先に頭に浮かんだ。なんでこんなに朝早く仕掛けたんだっけ・・・そうだ、今日は、朝礼の後で委員決めやクラブ登録のホームルームがあるため、普段よりも早く学校に行かなければならないんだった。プリントを紛失しただけでなく、遅刻までしてはまずいだろうと、かなり余裕を持って家を出ることにしたのだ。

普通の家にしては広い玄関のたたきに養父のくたびれた革靴と、それよりやや小さな亜里沙の普段履きローファーが並ぶ。上質そうな革で作られた亜里沙のローファーは昨晩の間に、彼女の靴のために用意してあるハンカチで指紋一つないほどに息をかけてピカピカに磨き上げてある。

僕の靴は出しっ放しにしないで欲しいと養父から言われているので、靴下のままたたきに下りて、下駄箱の下のスペースにあるプラスチックのバットから僕の外履きを取り出して並べる。小3の頃から足の大きさがほとんど変わらないのでもう3年間くらい同じズック靴で持たせている。雨の日には水も漏るので水溜りなどは避けているけれど、それでも足は濡れてしまう。そろそろ新しい靴が欲しいが、貯めてあるお小遣いが大きく目減りしてしまうのでなかなか決心がつかない。僕の靴を艶々と黒光りする亜里沙のローファーの隣にそっと並べてみた。悲しくなるほど小さかった。

引き戸を音を立てないように開けて、きっちりと閉めたのを確認して施錠する。プリントのことで胸の辺りがじんじんするので、中学校までの道の途中で、僕の好きなヒーローもの「怪獣紳士」のことや、大好物のバームクーヘンのことなど、あれこれ心躍るようなことを考えてみたが、すぐに憂鬱の霧で頭の中は一杯になってしまった。僕の住む赤根地区の境となる小川を渡る石橋の上で、あっ、名案、誰かにプリントをコピーして貰えば良かったと気づいた。けど、もう遅かったし、同じクラスにそういったことで声をかけられるような友人もいない。道はいつの間にか県道となり、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思案しているうちに、僕の体はまだ人気のない昇降口に吸い込まれていった。

僕よりも早く来ている生徒も何人かいたようだったが、昇降口はがらんとして静かだった。小学校と違って、スチール製の下駄箱がいくつもいくつも壁のように立ち並んでいる様はひどく殺風景だった。下駄箱の一番上の段は118cmの僕の背丈だと届かない(中学に入って行った身体測定では115cmと記入されていたが、本当は118cmあるはずだ)。二段目だと扉を開けることができても中に入っている靴が見えないだろう。出席番号順なので、幸い僕の下駄箱は男子の下の方だった。背の低い女子でも一番上の段から靴を出し入れできるんだなと思うとなんだか変な気分だった。

1年生はA組からJ組までの10クラスあって、どのクラスも45人くらいの定員だったと思う。僕はC組だった。教室に誰か来ているとイヤだなと思ってC組の扉をそっと開けたら、女子生徒が一人だけいて窓から外を見ていた。窓からの陽を浴びた柔らかなシルエットが神々しい。吉田さん、いや、吉野さんだったかな。ゴールデンウィークに入る前に覚えたはずなのに。

名前を忘れてしまい、挨拶をしようかどうか迷っていると、僕が入ってきたことに気づいたその子から「あ、おはよう!」と挨拶をしてくれた。ある程度離れていると僕も背の違いを意識しないで済むのがありがたいけど、160cm近く背のありそうな長身の子だった。快活そうなかわいい子だったので、僕はちょっとどぎまぎしてしまい、「ど、どうも」と返すのが精一杯だった。順光なので顔が火照っているのがわかってしまうのではないかと心配になる。考えてみれば、名前を知らなくても挨拶を返すことはできた。もう一度ちゃんと返事をし直そうかなと悩んでいると、「ねぇ、宿題のプリントやって来た?」と聞いてきたので僕は一番心配していたことを言い当てられたようで混乱してしまった。「ウン」と小さく返事をしてから僕の席に座ると、照れくささを机に突っ伏して「眠い」と言って寝たフリをしてごまかした。僕の体には大きすぎる椅子と机なので、ちょっと力を抜くと机からずり落ちるようになってしまうのが辛かった。

最初は寝たフリをするつもりだったのに、周囲の生徒たちの話し声がぽつぽつと賑やかになってきたかなと気づくまで、本当にウトウトしてしまったようだった。10人くらいの生徒がいるような気配を感じ。僕も誰か気の合いそうな男子と話してみようかなと、そろそろ背中を伸ばそうと思っていたその時、僕の両耳に生温くがさついたような指の感触があった。その直後、ゴキッ、という頭の奥の方の骨が砕けるような音と共に、根元引きちぎられるような強い痛み。僕の両耳が思い切り引っ張られたのだ。

「くかかっ」田村真由美の下品な笑いと唾の飛沫が僕の頭上から降り注いできた。当然のように弱者を見下ろすような意地の悪い表情に僕は射竦められてしまう。「コオロギ、仲良くしような!」の声に、僕は弱々しく「ウン」と返事してからまた机に突っ伏した。どうしてよいかわからず、心臓がバクバクする。

「かはっ、コオロギぃ、耳と首、真っ赤!」どうやら、僕のタヌキ寝入りは彼女に見抜かれてしまっているようだった。もう一度、耳を掴まれて(今度は右耳だけだったが)、「ほら、ちゃんと挨拶しような。」と無理やり、田村の顔の方に首を捻じ曲げられる。彼女の汗の染み付いたようなブレザーの体臭に包まれる。「お、おはよう。」声を出した瞬間。「おはよう・・・ございます、だろ!」大きく厚い手のひらで僕の両方の頬、というよりも頭全体がバチンと挟まれた。あまりの痛さに涙が出てしまったので、精一杯の抗議の意味を込めて田村の方を睨んだつもりだが、彼女は一言も詫びることなく、僕の髪の毛を大きな手のひらでぐしゃぐしゃにして「かははっ」と笑って席に戻ってしまった。

田村真由美が戻ってきてまた痛い思いをさせられるのではないかとビクビクしながら机に突っ伏せてじっとしていた。カタツムリやヤドカリのような殻が僕も欲しいくらいだ。長い時間に感じられたが、やっと周囲の話し声が治まって朝のホームルームの時間に入ろうとしたのがわかって僕はゆっくりと頭を上げた。最初に、担任の長谷川先生が、中学生になって初めてのゴールデンウィークをどのように過ごしたのかをクラスの何人かに聞いた。長谷川先生も、ゴールデンウィーク中の自分の失敗談をクラスの皆に面白おかしく話してくれたが、僕にはそれを聞いて笑うだけの余裕がなかった。その後、心配していた数学と英語のゴールデンウィークの課題を提出する段となったが、僕以外にも何人か忘れた者があったようでちょっと安心した。

その時、僕も忘れた者として手を挙げておけばよかったのに、課題を回収される時に、僕は小ざかしくも自分のズック鞄を何度も開け閉めして、「おかしいなぁ」などとつぶやいて、家ではちゃんとやったんだけど、持ってくるのを忘れた者であるかようなフリをした。体格のことやら成績のことやら、ただでさえ周囲の生徒たちに多い目を感じていた僕としては、皆の冷笑の的となるようなタネを一つでも減らしておきたかったのだけど、今から思えば当座凌ぎの浅知恵に過ぎなかった。

結局、数日後の英語の授業で、課題未提出の理由を牧村先生に厳しく問われ、養父に事の次第が伝えられてしまうことになる。僕は、プリントを紛失してしまったこと、先生方に嘘をついてしまったことの2つのことで、原稿用紙10枚分の反省文を書かされることになる。普段、滅多なことで僕のことを叱らない養父も、「みっともない真似だけはしてくれるな。不愉快だ!」と声を荒げて厳しい一言を僕にぶつけてきた。

ゴールデンウィーク明けの初日の1時間目も、朝のホームルームの続きのような感じで、クラブの第一希望、第二希望の志望票を書いたり(クラブに入らない者も理由を書かされた)、クラス委員や係を決めたりするのに時間を使った。クラス委員には、真鍋という快活でリーダーシップのある男子と、凛とした感じの夏島という女子がなった。2人とも、入学してからこれまで仮のクラス委員をしていたが、そのまま承認されたといった格好だ。いかにも美男美女という感じだったが、真鍋は男子としてはそれほど背が高くなく、155cmくらいだったろうか。夏島の方が10cm近く上背があった。

クラス委員に選ばれなかった者は、なんらかの係に篩い分けられることになっていて、僕は不人気な美化係というのになった。掃除の時間以外にも、教室にごみが落ちていないようにしたり、机や椅子の位置を正しく保つ係で、ポスターなどの掲示物にも気を配らなければならないような結構面倒くさい仕事だったが、男子3人、女子4人いるので皆で手分けすればなんとかなるだろうと思った。女子の中には、猿島くるみも含まれているのがちょっと嬉しかった。

クラスの係を決めたので、もうそろそろ終わりかなと思っていたら、あと全校委員というのを決めなければならないらしい。風紀委員、教科委員、放送委員、広報委員、地域委員・・・それぞれの活動内容を簡単に紹介したプリントを読んだ。聞こえは良いが、結局は学校全体の雑用をする委員ということだ。クラス委員は、生徒会のクラス代表を兼ねているので免除となるが、それ以外の生徒から男女1人ずつ選ばなければならない。クラスの中の3分の1くらいに当たる可能性があるが、運動部に所属する予定の生徒は、早くも「俺パス!」などと声高に宣言している。

僕も、他の生徒と同じく、せっかくの中学生活であれこれ面倒なことをしたくなかったので、自分の気配を殺すようにじっとしていた。さっき田村に引っ張られた右の耳がまだジンジンしている。

「誰もやってくれないのかなぁ。」長谷川先生がちょっと残念そうに言う。そのうちに、放送委員や、教科委員など、比較的楽そうな(放送室は冷房があるからとか)委員からポツポツと決まっていった。

「××、お前にぴったりだと思うけどな。」「△△、外の空気が思い切り吸えるぞ。」などと、頷いてくれそうな面子を当たっている。長谷川先生の視線には弱い。仕方なく、「わかりました。」と生徒が答える度に、変な歓声と拍手。あれって自分が委員をやらなくて済んだという喜びのリアクションなんだろうな。

ああ、もう少しで終わるところに、手にしたクラブ志望調査票を見て、「溝呂木はクラブに入らないんだったな。だったら体育委員なんてどうだ?」と長谷川先生からお鉢が回ってきた。それがよりによって、もうすぐ体育祭だということで、一番面倒くさそうな体育委員だ。体育祭の準備をするだけでなく、健康診断の補助をしたり、体育準備室の整理といった雑用をしたりと結構追い使われる仕事らしい。

体が小さく、人一倍体力もないような僕が体育委員なんて悪い冗談だと思いながら、「僕は、家が遠くって、家族の食事の・・・」と、委員を引き受けないで済みそうな理由をもごもご言っていると、なんと田村真由美が、「私と溝呂木君で体育委員やります!」と高らかに宣言した。「えっ、ちょっ・・・」僕が、戸惑っていると、「さっき、一緒に全校委員やろうっていったよね。」などと、勝手に話を作っている。「やるよね。」と田村が僕の方を見て念を押したのと、長谷川先生が「そうか、溝呂木、やってくれるのか!」と言ったのは同時だった。

イヤですというタイミングを失った僕は、体育委員を引き受けることになってしまったのだった。