五月の暖かな日差しが照らす中、そよ風が頬を撫でる。
土手の下を流れる川をなんとなく見ながら学校からの帰り道を歩いていると、そろそろこの景色にも慣れてきたかなと思う。
この一ヶ月、初めての中学生活で戸惑うこともあったけれども、今となっては学校も僕の中で日常の一つの風景として溶け込んでいる感じだ。

まあ、とは言っても、一般に、何かに慣れるということには一長一短があるものだ。
そう思いながら、僕は鞄からおもむろに一つの紙を取り出す。
上部に書かれた「佐藤一」の文字のすぐ横には、赤く大きな字で40という数字。

(最近になって急に気が抜けちゃったな……。
 新生活に慣れたってことなんだろうけれど、緊張感が欠けるのも考え物だなあ)

そう頭の中で呟きつつ、ため息を吐く。
他の教科ならともかく、歴史というものには元々あまり興味が持てないのだ。
気が抜ければテストの点数がこうなるのも仕方ないかもしれない。

他にすることも無いので、歴史の小テストの模範解答をさっと見直してみる。
なんでも、僕たち人類は昔ここではない別の惑星で生まれ、宇宙船で宇宙に進出していったのだという。
しかし、宇宙船の中で何世代も世代交代が起こるうちに文明が後退したらしく、今ではその頃の記録はほとんど残っていないそうだ。
僕たちはそのとき宇宙船に乗っていた人たちの子孫ということであり、今では昔のことなど忘れこの惑星の開拓に精を出しているわけである。
人類が生まれたオリジナルの惑星がどんな惑星だったかはやはりあまりよく分かっていないそうだが、最近の研究によれば、その惑星はこの惑星と極めて近い環境を持っていたであろうことが予想できるらしい。
体内時計のリズムなどを調べることでそのことが分かったそうだ。
――まだ自分の興味を惹く部分だけ抜き出してみたが、それでも若干目が滑る感じがする。

そもそも歴史というのは人間がどう考えどう行動していったかという物語だ。
僕はそういう、人間がすることにはあまり興味が無い。
それよりも自然が持つ、人間など意にも介さない無慈悲さと壮大さに憧れるのだ。
だから、僕は自然について学べる理科が一番好きだ。

そういえば、歴史の話の中でも唯一、多少は面白いと思った話があったなあということを思い出す。
あれを習ったのはまだ小学校低学年のときだっただろうか?

(どういう話だったっけ?
 もう少しで思い出せそうなんだけど……)

そこでなんとなく視線を川の方へ戻してみると、違和感に気付いた。
何故か水面が不自然に波打っているのである。
それも普通の波ではない。
一定の時間間隔で、水面全体に跳ねるように波が起きるのだ。
その間隔は……だいたい0.6秒ごとくらいだろうか?

怪訝に思いながら1分ほど水面をじっと観察していると、次第に地面の揺れも感じるようになった。
不思議なことは、その地震は普通の地震とは揺れ方が違っていたことだ。
普通の地震はカタカタカタカタという感じに地面が絶え間なく揺れるにもかかわらず、こちらの地震はカタ、カタ、カタと地面が一定間隔で突き上げるように揺れるのだ。
その間隔はやはり0.6秒ごとくらいであった。

地面の揺れに意識を集中していると、地震が収まる気配は無く、地面の突き上げるような揺れはいよいよ強くなっていくばかりに思えた。
地鳴りは常に鳴り響くようになっていて、その音は本能的な不安感を煽るBGMとして十分に機能している。
視線を町の方へやると、電線が大きく揺れており、あまりに長い地震に不思議に思った人々が家から出てきて話し合っているのが見えた。

(この揺れの長さは何だろう?
 そして、この揺れはいったいどこまで強くなるんだろうか?)

長さにしても揺れ方にしても全てが異常だった。
ともかく、今は身の安全を図る必要がある。
僕は、うずくまって揺れに耐えることにした。

それから何分経ったか、そのうち、揺れのせいで動こうと思っても動けなくなっていた。
最初にうずくまっていたのは自分の身を守るために自分の意思で行っていた行動だったが、今となってはもはやうずくまる以外の選択肢は無くなっていた。
揺れと地鳴りの音はますます強くなっていき、町の方からは何かが割れるような音、何かが崩れるような音がひっきりなしに聞こえてくる。
ここに至り僕の恐怖は最高潮に達した――
が、ある瞬間を境に、世界が現実感を失い、思考に冷静さが取り戻された。

(……脳がストレス源をシャットアウトしたんだろうか?
 とにかくこれは生き延びるためのチャンスかもしれない。
 周囲の状況を確認して情報収集しよう)

うずくまる体勢から視線を上げ、町の方を確認する。
古い空き家などは倒壊しているものもあるようだが、遠目に見る分にはそこまで深刻な被害は無さそうだ。

そのとき。
ふと、視界にわずかな違和感を覚えた。
違和感がするのは上の方からだ。
目線を町から上に上げると、町の向こうに広がる未開拓の草原が目に入り、さらに見上げれば地面と空との境界線がある。
その境界部分を見てみると……そこから、細長く丸っこい、小さな黒い塊が顔を出していた。

頭の中が疑問符に包まれる。
地平線から顔を出す黒い塊?

その物体をよく見てみると、別に全てが黒一色というわけではない。
上の方にはクリーム色の部分があり、そこには何らかの模様が描かれているようにも見える。
観察を続けていると、その物体は上下左右にわずかに揺れていて、しかもどんどん大きくなっているようであることが分かった。
さらに、その形状も時間の経過にしたがって変化しているようだ。
地平線の下からにょきにょきと隠れていた部分が出てきているようで、次第に細長さが増していっている。
そのまま黒い部分がにょきにょきと出続けるかと思えば、途中で、黒い部分はすっぱりと出てこなくなり、代わりに出てくるのは、より細いクリーム色の柱になっていた。
かと思えば、その細いクリーム色の部分もすぐに黒色に変化する。
目を凝らせば、一番下の細い部分は、二本の異なる、より細い棒から成り立っていて、それぞれが細かく揺れ動いているらしいことが分かった。

その謎の物体の全体像を改めて見直してみると、何か見覚えのあるもののように見えてきた。
毎日登下校中に見ているような――
あるいは廊下を歩いているときに見かけたような――

観察しているうちにもその物体は揺れ動きながらどんどん大きくなっていき、一番上にあるクリーム色の部分に浮かび上がっていた模様がはっきりと見えてきた。
そして、その模様がはっきりしてくるにつれ、ある確信が心に芽生えてきた。
そう、この物体は……。

(女の子……?)

こちらに向かって歩いてくる中学生の女の子の姿に見えた。
あの黒い塊のように見えていた部分は、よく見てみれば、黒色の髪と、上下共に紺の制服と、紺のソックスと、黒のローファーのように見えた。
そして、クリーム色のように見えていた部分は、顔と、脚の素肌の部分のように見えた。

(蜃気楼か何かかな……?
 地震の影響で大気が特殊な状態になって、ここから遥か遠くにいる一人の女の子の像を拡大して映している……そう有り得ない話でもないかも)

この揺れの中でも思考は冷静に一つの可能性を突き止める。
世の中には僕の知らない不思議な自然現象もあるものだ。

女の子の制服や髪型などを観察してみる。
制服には襟と袖の所に白いラインがあしらってあり、胸の所に青いリボンが付いている。
僕の知らない中学の制服だから、彼女はそれくらい遠くの中学に通っている子なのだろう。
鞄を左肩に提げているのを見ると、僕と同じく下校途中というところだろうか?
髪型は、耳のすぐ上でまとめた髪を肩につくかつかないかくらいの長さで下ろしているようだ。
こういう髪型はピッグテールと呼ぶと聞いたことがある。
全体的な頭身や雰囲気を見るに、僕と同じく中学に入ったばかりの年頃のように見える。

顔は……まだ遠くてそこまではっきりしていなかったが、それもそのうち、細部が見えるくらいはっきりと見えるようになってきた。
……結構可愛い。
ぱっちりとした大きな目に整った鼻筋。
その顔立ちはまだ幼さを大いに残しつつも、女性としての芽吹きも同時に感じさせるものだった。
僕の学校の女子にもここまでの子はなかなかいない。
案外どこかの子役モデルだったりするのかもしれない。

不思議に思えたのは、彼女の表情だった。
何かに興奮してキラキラと目を輝かせている。
下校中だとしたら、普通そんな表情になるだろうか。

疑問に思いながらも彼女の顔に数瞬見惚れていると、顔に白いもやがかかった。
直後、彼女は慣れた調子で顔の前で右手を振る。
すると、もやがかき消され、再び顔がはっきり見えるようになった。

(…………?)

今の仕草はまるで、空に浮かぶあれを振り払ったみたいではないか?
そうだ、思い出した。
小学校のときに習った歴史の話とは何だったか。
蜃気楼では説明できないことも、これなら自然に説明できる。
徐々に強くなる地震も。
地平線から現れ、こちらに向かって歩いてくる女の子の姿も。
顔にかかり、振り払うことのできる白いもやも。
つまり、彼女は蜃気楼などではなく。

「……巨人だ!」

今の今まで忘れていた。
そういう種族が存在すると聞いたことはあったが、言われれば教科書の一節にそんなのがいたなあという感覚で、実物を見たのは初めてだった。
いや、僕だけではない。
他の人も皆同じ感覚だろうし、皆実物を見たのは初めてだろう。

巨人とは何だったか。
小学校の授業で聞いた巨人の話を、なんとかして思い出す。
確か……巨人とは、100年ほど前にこの惑星に宇宙船ごと着陸してきた種族のことだ。
宇宙船が着陸したのはまだ未開拓の大陸だったので人間に死者は出なかったらしいが、それでも着陸したときの揺れは凄まじいものだったそうだ。
巨人の身長は、細かくはよく覚えていないが、成人男性が平均で1700mくらい、成人女性が平均で1600mくらいだったと思う。
この通り、とてつもない大きさの差が僕たちとの顕著な違いだが、それ以外は僕たちと異なる所はほとんど無いらしい。
ほとんど無い……そう、使う言語に至っても同じだったそうだ。
ただ、細かな語彙の違いはあったようなので、迷惑をかけたお詫びの意味も込めて、巨人側が僕たち人間側の言葉に合わせて、言葉を統一したという。
それから、巨人は宇宙船が着陸した大陸、つまり向こうの大陸で町を作って生活するようになったそうだ。
また、このとき、大陸間に流れる海峡を巨人は勝手に越えてはいけないという決まりも設けられたという。
というのも、僕たちが開拓を続けているこの大陸に巨人が勝手に入ってくると危な過ぎるからだ。

しかし、二種族の交流はここで終わった。
お互いの大きさが違いすぎるせいでお互いに興味を持てなかったらしく、この100年間巨人との間には何の交流も無いのだ。
僕も数ある歴史の物語の一つとしてそういう話を学んだだけで、巨人の存在については何も実感を持っていなかった。

ここまで思い返したところで、そういえばこの町が巨人の大陸に最も近い町だったことを思い出す。
海峡までの距離は9.5kmで、その海峡自体もかなり狭くなっている部分なので幅500mほどだ。
つまり、この町から向こうの大陸までは10kmほどということになる。

気付くと揺れが無くなっていた。
町の向こうを見れば、巨人の女の子が足を止めてこちらをキラキラした目で見つめている様子が見えた。
一瞬、彼女に憧れの目で見られているような気がしてどきっとしてしまう。
いや、しかしそんなはずはない。
彼女が見ているのは僕ではなくこの町全体のはずだ。
つまり、彼女はきっと、僕たちの町を見るのが楽しみで目を輝かせていたのだ。

彼女は今どこに立っているのだろう?
昔の決まり通り海峡で足を止めたのだとしたら、彼女は10km先にいることになる。
実際、彼女はまるで、10m先にいる普通の女の子のように見えた。
違うのは、彼女が地平線の上に立っていることと、その体がやや青みががっていることくらいだろうか。

彼女の方を見ていると、彼女が膝を手で押さえ前のめりになりながら何かを喋っている様子が見えた。
しかし、音声データが壊れた映像のごとく、声は全く聞こえてこない。
直後に彼女が再び口を開いても同じことだった。
何やら彼女は目を凝らしてしかめっ面をしているが、声が聞こえてこないのでその真意は分からない。
10kmも離れていると声は聞こえないのだろうか。

揺れも収まったし、彼女も立ち止まってこれ以上進んでくる気配は無い。
一度落ち着いていろいろ考えておこう、と思った矢先、

ズズーン!

爆発のような音が聞こえた。
といっても彼女には動きは無く、また地面も揺れておらず、正体不明の音だけがしたという状況だ。
その後もズズーンという音が1.5秒くらいの間隔を空けながら連続して響いていく。
音は毎回小さくなっていくようだった。
その音が小さくなりきらないうちにさらに、

『すごいすごーい!
 あの変な色の地面がこびとさんの町なのかな?』

テンション高めの女の子の声をマイクで拡大したような音が響く。
マイクと違うのは、ノイズが入らずに声だけがクリアに大音量で聞こえる点だ。
奇妙な感覚がする。

『うーん、ここからじゃ小さすぎて何も見えないや……。
 今度は双眼鏡持ってこないとなあ……』

立て続けに大きな声が聞こえる。
彼女の口を見るが、彼女が言葉を発した様子は無い。
一度に不思議な現象がいくつも起こり混乱する。

そういえば、音が空気中を進む速さはそこまで大したことがないという話を思い出した。
例えば雷の音が遅れて聞こえるのもそれが原因だ。
音の速度は確か、秒速約340m。
10km進むのには約30秒かかる。
閃く。

(ズズーンという音が最初に聞こえたのは多分彼女が立ち止まってから30秒くらい経った後で、女の子の声が聞こえたのも彼女が口を開いてから30秒くらい経ってからだったと思う。
 つまり、最初の爆発音は彼女が立ち止まったときの足音が遅れて届いたもので、女の子の声は彼女の声が遅れて届いたものではないだろうか?)

ということは、彼女は音がそれほど遅く聞こえるくらい遠くにいて、しかもそんな遠くからあれだけの音量に聞こえる音を出すことができるということだった。

では、2回目以降、徐々に小さくなっていく爆発音は何だったのだろう?
ここで、巨人の身長を思い出す。

(巨人はだいたい人間の1000倍の身長を持っているから、あの子の身長は多分1500mくらいだと思う。
 そんな子が歩いたら、音よりも速く歩くことになるのでは?)

つまり、2回目以降の爆発音は彼女が歩いている最中の足音が逆順になって聞こえてきたものだったのである。
彼女は音よりも速く歩くことで、前の足音を追い越していたのだ。
とんでもないことだった。

歩行で地震を起こし、雲の高さを歩き、音より速く歩く。
まだあんなに遠くにいるというのに十分すぎるほど実感できるそのでたらめな巨大さには驚くほかなかった。
しかしながら、彼女が表す感情はまるで普通の女の子のもののようで。
あんなに巨大ではあっても怪獣や化け物ではなく、一人の血の通った女の子なのだということが否応なしにも分かってしまう。
僕は、彼女にどういう感情を抱けばいいのか混乱していた。

感情に整理をつけられずにいると、しばらくして彼女が思案顔で何かを呟くのが見えた。
その後、彼女は笑顔で何かを喋り、後ろを振り向いて帰っていってしまった。
彼女が後ろを振り向いてからすぐに激しい地鳴りがして、再び激震が町を襲う。

『あすあさってはちょっと無理だなあ……。
 しあさってにまた来よっ!』

彼女の声が遅れて響き、続いて、

ズズーン!

という音が今度は2.5秒くらいの間隔で響く。

僕はというと、自分でもいったい何なのか説明のできない感情に包まれていた。
この揺れとこの足音。
これらから彼女の莫大な質量を感じることができる。
遠ざかっていく彼女の背中。
あの背中を見れば去り際の彼女の笑顔を思い出すことができる。
子供心に抱いていた自然への憧憬と、思春期になって芽生え始めた異性への憧れがないまぜになった感じがする。
これは……一目惚れなのだろうか?
それとも、何か別のものなのだろうか?