それから、一晩が明け、二晩が明け、三日が経った。
今、町には誰もいない。
皆町から避難――いや、町を放棄したのだ。

そもそもこの町を含む周辺の町は割と最近になって作られたもので、100年前には存在しなかった。
巨人の歩行が起こす地震の規模について正しい知識が伝えられず、海峡のすぐ近くに町を作ってしまったのが今回の被害の原因であるというのが政府の見解だ。
そのため、補助金も出すので、今後は住民は海峡から離れた町に住むべし、という通達が出された。
巨人に損害賠償請求でもするのかと思えば随分弱気な発言だが、まああれを見た後では可能な限り巨人とは関わり合いになりたくないと思うのも自然なことである。
この辺りには小さい町しか無かったせいか、幸いにも死者、重傷者は出なかったということ、巨人の女の子は別に海峡を越えてはいないということもそういった判断に傾いた大きな理由だ。

それからこの町は大騒ぎだった。
巨人は3日後に同じ被害を出すと実質予告しているわけで、それまでに住民は町を離れる必要があったからだ。
当然僕も、何もしなければ、両親に連れられて遥か遠くの都会へと引っ越すということになる。
ただ、当然僕としてはそんなことはしたくなかった。
僕は彼女に再び会って、この感情が何なのか知りたかった。

そこで、最初の晩に、避難所の一角で両親に直談判した。
話したのは、町に残って巨人の女の子とコンタクトをとりたいという旨だ。
自分としては殴られる覚悟だったのだが……両親は異文化交流とか巨人との架け橋とかなんとか言い出し感動の涙を流していた。
そんな大それたことは全く意識していなかったのだが……。
結局、両親に何ヶ月分かの保存食を用意してもらい、何かあったときは携帯で連絡するということで僕は町に残ることになった。
両親は仕事の都合上どうやっても町には残れなかったので、今町に残っているのは僕一人というわけである。

今の状況を整理すれば多少は冷静になれるかと思ったが、やはりまだ冷静になりきれていない部分がある。
というのは、彼女が3日前に海峡までやってきた時刻がもうすぐだからである。
下校途中にここへ寄っているのだとしたら、今日も多分ほぼ同じ時刻にやってくるだろう。

今、僕は赤いTシャツを着て、この小さな町でも最も大きな7階建てマンションの屋上にいる。
マンションの大きさはこの小さな町には不釣り合いなくらいだ。
それくらい目立つ建物の屋上に、僕は目立つシャツでいる。
彼女が双眼鏡を持って町を観察する以上、彼女は僕を確実に見つけてくれるだろう。
彼女に僕の存在さえ気付いてもらえれば、そのまま彼女の近くまで歩いていくことで彼女と会話することもできるはずだ。
完璧な作戦だ。

カタ、カタ、カタ

地面が揺れ出した。
特徴的な、約0.6秒周期の突き上げるような縦揺れである。
体勢を低くし、海峡の方向を睨む。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ

地鳴りの音がして、揺れが強くなる。

ズン!ズン!ズン!

激しい揺れだ。
建物は耐震構造のはずなのだが、不安にはなる。

地平線から黒い塊が顔を出しているのが見えた。
上下左右に揺れ、地平線からにょきにょきと顔を出していく。
その物体は次第に、女子中学生とはっきり分かる姿をとり始める。
より姿が鮮明になったとき、そこに現れたのは3日前と変わらぬ姿の巨人だった。

ますます激しくなる揺れと地鳴りは全てこの女の子が発生原因なのだと思うと、心の変な部分が刺激された。
この子と話してみたい。
この子に触れてみたい。
そのためには、まず彼女に発見してもらわなくては。

彼女は立ち止まると双眼鏡を鞄から取り出し使い始めた。
彼女が双眼鏡を町に向けた瞬間、髪を上下に揺らしてテンションを上げながら何事かを喋り始めるのが見えた。
その姿はどこか小動物的だ。
僕は彼女に気付いてもらうためにジャンプしてアピールする。
おっと、そろそろあれが来る。

ズズーン!

1.5秒間隔で音が減衰していく。
最初の音だけ驚かないようにしておけば、そう大したことはない。

彼女の方を見てみると、こちらを見て興奮しながら何かを喋っている。
これは作戦成功だろうか?

『おー、双眼鏡すごい!
 細かい部分までちゃんと見える!』

彼女は首を傾げ、不思議そうな顔で何かを喋っている。

『あのすごい小さな箱がこびとさんの家かな!?
 よくわかんないけどほんとにちっちゃいんだね……!』

小さな箱とは何だろうか。
もしかして、この7階建てマンションのことなのだろうか。
そして、僕には気付いていないのだろうか。
彼女は双眼鏡を左右に微妙に振りながら何かを喋っている。

『箱の周りの地面がなんかぶつぶつしてる気がする……。
 何だろこれ?』

ところで、マンションの横には一軒家の集まる住宅地がある。
箱がマンションのことを表しているのだとすれば地面のぶつぶつとはつまり。
彼女は、相変わらず双眼鏡を左右に振り続けていた。
特に何かは喋っておらず、変化といえば表情が若干しかめっ面になっているくらいである。

『こびとさんの町ならこびとさんが住んでるはずなんだけど……。
 一人もいないや。
 実はこれ、町じゃないとか?』

確かに人間は僕を除いて一人もいないが、でも僕だけは唯一ここにいるのだ。
気付いてもらえるようジャンプして必死にアピールする。

彼女は双眼鏡をしまって、何かを思案顔で呟く。
彼女の声は聞こえてこない。

彼女は右手の人差し指をこちらへ突き出し、何かを宣言した後、振り向いて帰ってしまった。
数秒後、激しい地震が町を襲う。

『うーん、これが町かどうかがよく分からない以上、本当ならもっと高倍率の双眼鏡が必要なんだけど高いし……』

作戦は大失敗である。
このサイズ差、この距離だと双眼鏡ですら家が地面のぶつぶつにしか見えないのか。
1.5mちょっとの人間が目立つTシャツを着たところで分かるはずがない。

『よーし、明日は飲み物持参で君のこと観察し尽くしてあげるから覚悟しといてねー!』

だが希望は明日につながったようだ。
どうやら何時間か居座るつもりらしい。
その間に彼女に気付いてもらえさえすればいい。
とはいえ、双眼鏡の倍率は大して上がらなさそうだ。
彼女がいくら注意深く、根気強くなったとしてもあの距離から僕を発見するのは不可能というものだろう。
ならばどうすればいいだろうか。
作戦を練り直す。

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それから、一晩が明けた。
昨夜はマンションの電源や施錠などの具合を確認していたため、寝不足だ。
幸運にも非常用電源は生きていたし無施錠の部屋も多かったので、彼女へのメッセージを用意することができた。
だが、これで終わりではない。
結局僕がここにいる限り、彼女にどんなメッセージを用意しようが、彼女に発見してもらうことはできないのだ。
それならば、彼女の側に僕が近付くしかない。
僕は前方に広がる草原を前に覚悟を決めていた。

3時間は歩いた。
そのうち、目的地、海峡が見えてきた。
ここまで近付けば彼女に見つけてもらうこともできるだろう。
万全を期すため、周辺の草を可能な限り広く抜いておく。
こうすればより目立つはずだ。
赤いTシャツも着用済みである。

草を抜いているうちに、彼女の歩行による地震が感じられるようになった。

ズン!ズン!ズン!

彼女の姿が見えてくる。

……そういえば、10km離れていてもあの揺れだったわけだ。
で、彼女は海峡ぎりぎりに立つわけで、海峡の幅は500mで、僕も海峡の対岸に立っているわけだ。
あれ、これ僕は生きて帰れるのだろうか?

激しい揺れがするが、彼女は立ち止まらず、さらにこちらに歩を進めてくる。
すさまじいスピードで彼女の姿が大きくなっていき、揺れで吹っ飛ばされる。
もう体の一部しか視界に入らない。
ローファーがずんずん拡大していく。
もはや、黒光りする巨大なオブジェと、そこから天に向かって伸びるさらに巨大な紺の柱が、こちらに向かって超高速で突っ込んでくるようにしか見えない。
女神の槌が大地を穿つ。
衝撃波と爆音で僕は意識を失った。

……意識を取り戻したころには日が暮れ始めていた。
目の前を見ると、黒く、大きな物体が海峡の向こうに二つ鎮座している光景が見えた。
まだ距離があるにもかかわらず異様な存在感だ。

大地にめり込んでいる靴底部分から上を見ると、黒くつやつやした質感の外壁がある。
僕が彼女の足で蹴飛ばされたとしたら、この壁の輝きを少しでも曇らせることができるだろうか。
ここにきて、巨人とのサイズ差が想像以上に、絶望的な差であることを思い知る。

さらに上に目をやると、太い紺の柱が見える。
柱には狭い間隔で縦に線が走っており、さらに、横方向に盛り上がりが走っているところがある。
前者は靴下の模様、後者は靴下のしわだろうか?
白い線や点が所々にあるのも目立った。
これは多分靴下についた糸くずだ。

もっと上には素肌が見える。
綺麗な肌だ。
無意識のうちに手を伸ばしていたが、手は空を切る。
手を伸ばせば触れられる距離に見えるのに、彼女との間に広がる距離はあまりに遠い。

……ここから上を見るのはためらわれる。
この上には下着があるはずで、いくら巨人とはいえ、一人の女の子の下着を下から覗くなんてやっていいことなのだろうか。
逡巡しても仕方がない。
一思いに首を振り上げると、そこには……星空、いや星柄のパンツが広がっていた。
薄い水色の地に青色と緑色の小さな星が散りばめられている。
女の子はこういうパンツを履いているものなのだろうか?
同年代の異性の下着など見たことが無いので何と言えばいいかわからない。
これ以上見るのは彼女に悪いし、自分の心臓にも悪い。
耐えかねて首をさらに上へ上げる。

スカートを越えると、一気に上半身と顔が見えてきた。
彼女は双眼鏡を使って、町を隅々までずっと観察しているようだった。
この角度からだと鼻の穴がくっきりと見える。
普段見慣れない光景に背徳感を覚えた。
女の子をこんな角度で見上げたことなんて初めてだった。
こうして見てみると、巨大感はそこまで感じず、まるで普通の女の子を見上げているかのようだった。

しかし、それは彼女の顔を見上げたときの話で、目線を再び地上近くに下ろせばその感覚は幻想だと分かる。
そう、「靴を見上げる」なんて、普通のローアングルでは無理なのだ。
この視点を得るには地上1.5mmに極小のカメラを置かなければならない。

こんな巨大な子に自分のことを気付いてもらうなんてできるんだろうか?
不安感が募るが、彼女の根気と視力に期待するしかない。
ちょうど、彼女へのメッセージも見えてくるようになる時間帯だろう。

『うーん、こんなに探してるのに全然こびとさんが見つからないなんて。
 私はただこびとさんとお話したいだけなのになあ』

轟音。
爆発的な音が辺り一帯に轟く。
一瞬何が起きたか分からなかったが、脳内で今の音を反芻しながら徐々に音量を下げていくことで、それがただの声であることが分かった。
そして、彼女の声の内容もなんとか分かった。

「僕はここにいるよー!
 僕も君と話がしたいんだー!」

思わず彼女に向かって叫ぶが、しかし、彼女は無反応だった。
お互いに会話をしたがっている男女がすぐ近くにいるのに、サイズ差のせいで彼女はそれに気付くことができない。
彼女との間に広がるサイズ差という壁はあまりに巨大だ。

『……なんだろあれ?
 さっきまではわかんなかったけど、あそこだけなんか光ってる』

しかし僕はその壁を超えるために来た。
そのために、マンションの各部屋の明かりを利用して、壁面に彼女へのメッセージを書いておいたのだ。

『ひょっとして、これはこびとさんからの何かの合図かも?
 っていうことは、やっぱりこびとさんはいたんだ!
 こんな時間まで粘っててよかったぁ。
 もっとよく見てみよう!』

『んー……?
 周りにこびとさんはいないみたいだけど、あの光の形がちょっと変な気がする』

『小さな光が横に3つ並んで大きな光に見えてたのかな……?
 もっと……よく見ないと……』

彼女が前のめりになる。
彼女の巨体が倒れてくる錯覚を覚え、大変な不安に駆られる。

『光は縦に細長いみたい……。
 んー……?
 「川」に見えないこともないかな……?』

彼女が双眼鏡を外し、視線を海峡に移す。

『まあこれも大きな川みたいなものだけど……どういう意味かなあ。
 ……とりあえず海峡の上や岸を探してみよう!
 何も見つからなかったらまた考えればいいや』

彼女が膝をついて、顔を海峡に近付ける。
激震が襲い、轟音が響く。
天にも届く塔が崩れ月が落ちてきたような感覚だ。

月――いや顔は途中で停止し、あちこちに目線を這わせている。
ここまで近付くと、顔の表面に凸凹があることが見える。
辺りには、周期的に強まる風の音が響く。
これが彼女の呼吸の音だということは少し考えないと分からなかった。

『向こう岸は……どうだろう……』

彼女が海峡に手を突っこんで体重を安定させる。
彼女の頭が僕の上空へ移動し、巨大な目線がこの周辺を射抜く。
間近で見る彼女の顔は、可愛らしく、そして巨大だった。
僕は腰を抜かして彼女の顔をただただ見上げていた。

『んー……?』

目線がはっきりと僕の方を捉える。
僕は蛇に睨まれた蛙という具合で動けない。
いや、このサイズ差では僕など蛙未満の微生物だろう。

顔が、近付いてくる。
気圧が上がっていく。
気温が彼女の体温に近付いていく。
周囲の空気が、彼女の香りに包まれていく。
唇が見えなくなり、左目が見えなくなり、鼻が見えなくなっていく。
右目が、無限に拡大されていく。
まつ毛の一本一本がはっきりと区別でき、その太さが視認できるようになった頃、目の拡大は停止した。
まつ毛が上下に超高速で2回移動した後、彼女の目が見開かれ、瞳孔が大きくなる。

『もしかして……こびとさん?』

思わず耳を塞ぐ。
爆音に鼓膜が破れそうだ。

『もしこびとさんならその辺りを動き回ってくれませんか?
 私の目からだとゴミか何かのように見えて、いまいち自信が持てなくて……』

脳内で声を反芻させ、彼女が言っていることを理解する。
ここまで来たのだ。
乗りかかった舟、死んだふりをする理由など無い。
僕は残った体力を振り絞り、全力で周辺を8の字走行した。

『わあ、本当にこびとさんに会えるなんて嬉しい!
 ねえ、自己紹介しませんか?』

音の爆弾である。
過去の自分に耳栓を持ってこないと大変なことになると言ってやりたい。

『私、大倉千佳って言います。
 12歳で、4月から中学生になりました。
 身長は1518m、体重はひみつ!
 こびとさんさえ良ければ、これからこびとさんといっぱい仲良くなりたいです!』

彼女は笑っているのだろうか?
ここから見えるのは、白目に走る血管と、象の肌のような皮膚くらいで、彼女がどんな表情をしているのか推し量ることはできない。

『こびとさんのことも、教えてください。
 年上ですか? 年下ですか? 男性? それとも女性?』

ともかくようやく彼女と話せるときが来たというわけである。
上空の彼女に向かって声を張り上げる。

「僕はー! 佐藤一ー!
 君と同い年の男ー!
 僕も君と仲良くしていきたいー!
 あと声を小さくしてくれると嬉しいなー!」

……彼女は何も反応してくれない。
まあ、予想できていたことではあった。

『何も聞こえない……。
 こびとさん、もう少し大声でお願いできますか?』

と言うと同時に、上空の風景が目まぐるしく変わる。
吹き飛ばされそうなほどの風が吹く。
黒い柱が何百本も上空を飛び去る。
次の瞬間に上空に現れていたのはあの巨大な目ではなく、肌色の、深い洞窟への入り口だった。

洞窟の壁面には白い毛が無数に生えており、その表面は所々ぶつぶつしている。
洞窟の周囲には独特の複雑な形状をした、巨大なアーチ群が見えた。
あまりの大きさの違いにそうと見えなかったが、これは耳のようだ。
あらん限りの声を振り絞って、僕は洞窟に向かって叫ぶ。

「僕はー! 佐藤一ー!
 君と同い年の男ー!
 僕も君と仲良くしていきたいですー!」

洞窟が音を吸い込んでいく。
……が、それだけだった。
上空の風景には何も変化が無い。
僕の小さな声では、彼女の鼓膜を震わせることすらできなかったのだ。

『うーん全然聞こえない……。
 こびとさん、本当に大声で話してますか?
 悪いんですけど、できる限りの大声で叫んでもらえないでしょうか?』

僕は今、できる限りの大声で叫んだというのに、彼女はそれを認識することすらできていない。
何ということだろうか。

『……こびとさんの声、私には聞こえないみたいです。
 とりあえず声以外の方法でお話しましょう』

上空の風景が再び目まぐるしく変わる。
黒い柱が何百本も上空を飛び去る。
次の瞬間にはまた、あの巨大な目が上空に現れていた。

『私より年上なら私から見て左に、私より年下なら私から見て右に動いてくれませんか?』

なるほど、視覚ならなんとか僕を認識できるから、それを使って僕について知ろうというわけだ。
とはいえ、彼女とは同い年なので、どちらに行くこともできない。
僕はその場で動かずに彼女を見上げる。

『あれ、動いてくれない……。
 あ、もしかして同い年ってことかな。
 なら、敬語で話すのも変だよね。
 これからはタメ口で話すね』

何だか彼女と親しくなれた気がする。
といっても、今、目の前にいるのは無表情な巨大な目のお化けなので変な感覚があるが、これも彼女の体の一部なのだと自分を納得させる。

『男の子なら私から見て左に、女の子なら私から見て右に動いてね』

あの子から見て左ってどっちだ?
一瞬迷うが、あれが右目だったことを思い出し、巨大な鼻の方に向かって歩いていく。

『わあ、男の子なんだ。
 仲良くしようね』

仲良く……現実問題、こんな子と友達として、あるいはもっと進んで恋人として過ごすことができるようになるんだろうか?
埋めようのないサイズ差は、きっと何をするにしても障害になるだろう。

『あ、一番大事な質問を忘れてた。
 押し付けになっちゃダメだもんね。
 これから、私と仲良くしてくれますか?』

だが、僕の意思はもう固まっている。
こんな心優しい子と仲良くできないなんてことがあっていいわけがない。
サイズ差なんて無関係だ。

『イエスなら私から見て左に、ノーなら私から見て右に動いてね』

僕は巨大な鼻に向かってダッシュする。

『……ありがとう!
 これからよろしくね、こびとさん!』