ㅤ気がつくと外に出ていた。空間が歪んで場面が切り替わったかのようだ。意識を失うようなことはなかったはず。黒天使が追っ手の気配を感じたのか、パン屋から逃げる素振りをしていたような気がした。
ㅤ自分は黒天使に捕まっただけ……捕まっただと人聞きが悪いか、助けてもらっただ。盗賊団に所属しているであろう黒天使に誘拐された形にもなっている。夜の闇に紛れて安全であろう郊外まで飛んでいくようだ。黒天使にスティックパンと一緒に抱えられている自分だが、思いのほか揺れとかはない。気配を殺しながらの高速移動、自分より5倍相当は大きいはずなのに割と丁重な扱いを受けている。もし少女が自分を抱えて全力で走ろうものなら……想像するだけで身震いする。巨体による振動を余すことなくご主人様に叩き込んでくれることだろう。
ㅤどれだけの距離を移動したか。小人の尺度は当てにならないので街の中心からどこまで行ったか想像がつかない。少女とケンカするような形になったもののキライなわけではない。信頼関係そのものはお互いにまだあったはずだ。糸の探知範囲外に万が一出てしまったら……取り返しのつかないことになる。
ㅤ遠くで何か騒ぎになっているようだ。人の足音が何重にもしていただろうか。それと同時にこちらに急接近してくる羽音が隠すつもりもなく追っ手であると告げている。少女だ、きっと少女なのだと思い込むしかできなかった。無意識に自分は少女の名を呟いていた。

「ペットのくせに生意気だから捨てられたんでしょ」

ㅤ息も切らさず飛び続けている黒天使は自分を罵倒する。捨てられた……嘘だ。そんなはずはない。自分は主人だ、少女と約束だってしたはずだ。ただケンカしただけで自分が近付くなと命令しただけだ。思い込んでいるだけの欺瞞の信頼関係ではないのだ。自分が黒天使に生殺与奪を握られていることすら忘れて憤怒した。

「この街にあんた達がやってきてからずっと様子を見てたの。よそ者なのとあたしと同じなのかなって」

ㅤ黒天使と同じという意味まではわからないものの、万が一という最悪の予想は当たっていたようだ。相手の隠密に気付く余地すらなく警戒を怠っていた。もし心当たりがあるなら少女と自分がまだお互いにレベル1だった頃、街に到着したばかりに感じた茂みへの気配ぐらいか。

「だいたい信頼関係って言うならご主人様をペット扱いしないわよね。それこそ自分の名誉にかけても護るでしょうに。普段の扱いだって小人が繊細だってわかりもしないで配慮が足りないわけだし……いい加減現実を認めたら?」

ㅤ否定できない言葉で黒天使が追い打ちをかける。もし本当に信頼関係を結べていたら。自分が助けてと心から叫んでいた場面に少女は気付いてくれただろうか。少なくともスティックパンに串刺しにされている時、助けてもくれなかった。お互いに意地になっていただろう……でもそれとなく助けてほしかったという期待もあった。不信感は確実に芽生えつつあるのだと理解してしまった。

「ねぇ知ってる?ㅤ奴隷ってご主人様に逆らえない呪いがかかっている場合があるの。商用で売られた高価な奴隷であるほど命令の呪いは強いのよ」

ㅤ少女が命令を聞くのは奴隷だから、従順な主従関係なのは呪いに抗えないから。受け入れたくない事実だ、そんなはずはない。確か転生前に所属のイェルス兵……一般人や大抵の人間の言うことを聞くように仕込まれた商品だと売り手から聞かされてはいたのだが。呪いの拘束力に優先順位があったにせよ、他の人の前で少女が自分をペット扱いしたということの意味だ。人間扱いされない場では制約を受けないという最悪の可能性があった。

「こちら側に来なさい。あたしなら小人の現実を知った上で味方してあげるから……少なくとも命令による束縛よりかは信頼による自由のほうが好みかしら」

ㅤ少女は自分が命令したからそうした、ご主人様という縛りでだ。少女は限定的な自由の場においてはご主人様をペットにした。解放された本来の少女自身ならば何を選ぶのだろう。信頼だと優しさだと愛情だと思い込もうとしていたものが、すべて暴力で得たもので同時に失うものなのだ。自分の心が壊れる……何も信じられない。

「ほら、女の子の胸の中で泣くんじゃないわよ。情けないわね、奴隷の呪いへの証拠があるのかとか逆らうぐらいの気概がないと生きてけないわよ」

ㅤまた自分は泣いていたらしい、惨めに情けなく。黒天使はスティックパンから自分を引き剥がしてくれていたようだ。同時に細身の体が柔らかく抱き寄せてくる。黒天使に包み込まれてわかったが、彼女は小柄な女の子かもしれない。スレンダーな体型にしては5倍差を身近に感じて気づかないわけでもなかった。少女と比較するから小柄に思えたのだろうか。むしろ少女が女の子にしては長身だったのだろう。
ㅤ黒天使からするとひじから手までの長さしかない自分。赤ん坊になってあやされているかのようだった。厳しくて辛いことばかり言うが根っこではどこか温かみもあったと思える。黒天使は自分を懐柔しようとしているのだろうか。先程の言葉……同じだから、同じって何なのか聞いてみる。

「捨てられた者、裏切られた者、行き場をなくした者。わかりやすくいうとこの世界に必要ない弱者かしら」

ㅤ自虐気味に黒天使は吐き捨てた。心なしか自分を抱く腕が震えている。同じように怖い目にあってきたという無意識の仕草だった。隠し事はしないつもりらしく信じてもらうために包み隠さず詳細を話してくれる。
ㅤこことは違う遠いけど近い浮遊大陸、神々の世界にてとある主神に仕える下僕だった黒天使。ほんの些細なことで主の機嫌を損ね何度も殺され地上に落とされた旨。落ちた先はノースティリスだったようだ。そこから這い上がりダルフィにて盗賊ギルドの一派閥を務めるまでになったらしい。しかし別の派閥との内部抗争、裏切りによる拷問と決死の逃亡をした旨。ヴェルニースの街に落ち延びる。乞食を引き入れつつ訓練し盗賊団として活動するまでになった現在。誰からも拾われなかった弱者に手を差し伸べるダークサイドの天使になった旨。

「決して諦めるんじゃないわよ。あの主神に復讐するまでは死んでも死にきれないんだから!ㅤこのぐらいの根性がないとやってられない経歴かしらね。ま、ひとつ良い事があったとしたら不屈の魂として舞い戻り転生者として認められたことぐらいよ」

ㅤ黒天使はこの世界を自分よりも知り尽くしている様子だ。転生者としての先輩なのだろう。固有スキルが特別強力なフィートとして与えられる訳、それも語ってくれる。転生者は確かガイド妖精のノルンは世界への役割としての因子だと説明していたはずだ。

「元いた大陸では未知の驚異に神々が備えていたの。認知することすら叶わない忘却と命名していたわね。とにかくなりふり構わずどんな困難でも諦めない手駒、決戦のための切り札を欲していた様子だけはわかっているわ」

ㅤそれこそにわかに信じ難い話だ。内容が飛躍しすぎていて受け入れられない。世界がどうとかよりも目先の生活すら怪しい小人に話して何の意味がある。黒天使は転生者を探して集めてでもいたのか。だから初対面の自分に親身に接してくれたと。

「あたしのものになれとは言わないし、あたしも誰かのものになるつもりはない。ただ神々への反逆、復讐のための仲間になりなさいと親切に教えてあげているだけよ」

ㅤもし黒天使の話が本当で転生者が決戦兵器だというならば……何故そもそも偉大なはずの神々が主神達が戦わないという矛盾が起こるのだ。まさか神々ですら敵わないような相手と戦わせる気か。それこそ大概にしろと後始末を人間にさせるなともっともな怒りも込み上げるだろうが。途方もない話だ。せいぜい頭の片隅に入れておくぐらいでいい。いずれ機会が来たら嫌でも思い出すだろうさ。

「なかなか追っ手がしつこいわね。せめてあんただけでも拠点で隠れてなさい。あたしの正体がバレてないなら適当に誤魔化しておくから」

ㅤ喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなかった。すでに自分の心は壊れていて、正常な感情を表しようがないのだから。少女が必死に追跡してきてくれているのならば、その健気さが救いとなるはずだ。だが黒天使の巧みな会話術に心を揺さぶられた今だとどうだろう。たぶん自分にとって本当に必要な理解者は誰かということだ。しょせん少女は奴隷であって長くから命を共にした仲間でもない。本当の仲間と呼べる間柄ではないのは確かだった。
ㅤ結局、自分は黒天使の誘いを断れなかった。力なき者を誰が信じるというのか。弱者は同じ弱者しか信じられないのだ。そこを少女はわかっていなかった。

ㅤ墓下の小さな穴ぐら、隠れ家になりそうな洞窟。

ㅤこの街は、ヴェルニースは炭鉱の街だ。同じような説明を前にしたかもしれないが大事なことだった。そこかしこに採掘をしたであろう穴が空いている。採掘スキルを鍛え上げたい冒険者が無造作に便乗して掘った穴もある。地形の再生成とやらは地上のみが有効範囲のようで、地下は一種のダンジョンになるのは必然だった。アリの巣状に張り巡らされた穴で落盤しないのは不思議だが……街そのものが再生成するぐらいなのだ、何らかの力が働いていてもおかしくあるまい。
ㅤ共同墓地付近まで来ていたようで、とある墓下の穴に自分は投げ込まれた。生き埋めになったら文字通り墓が落ちてきて強制的に埋まる。墓はとても重く這い上がろうとする者を容赦なく潰す封印だ。死んでも死なない相手への対処としてこのうえないだろう。ふとしたことから自分は確かに死なないが無敵でもないのだと気づく。不死身な相手への意図的な対処を今後されたらどうなるか……まあそれはそのときに考えるべきか。

「すみません、この辺にこんなぐらいのお人形さんが落ちていませんでしたか?」

ㅤ洞窟越しに少女の声がした。必死さと涙を堪えたような雰囲気から自分まで身を切られる想いだ。それでも今となってはなかなか自分から顔を出せそうもない。今度は黒天使を裏切ってしまうのだから、どっちつかずなのだ。

「それってご主人様って呼んでたお人形さんかしら。この街であんた達は結構目立っていたわね。大事なモノをなくしちゃったら辛いし、あたしも一緒に探してあげる」

ㅤ黒天使は自然と親しく少女に語りかける。気が動転しているであろう少女には冷静に疑うだけの余地はなかったはずだ。ご主人様が見つかるならと藁にもすがる思いだったかもしれない。

「ありがとうございます。でも、ほんとにこの辺のはずなんです。わざわざ手伝ってもらわなくても……」

ㅤほとんど自分の所在がバレていてゾッとする。魔法の扱いは専門外だったはずだが。それとも直感と僅かに残った魔力だけでここまで辿ったのか。声だけでなく態度からも真剣さは伝わる。だが、自分は少女を見捨てた。少女もおそらく少しばかりは自分を見捨てたのだろう。そうに違いない、そうじゃないとおかしい。そうなんだ、それだから自分は何も悪くない。超えそうだった一線を超えた瞬間だった。今後少女の純粋さによって罰せられたとしても仕方のない過ちなのは言うまでもない。

「このあたりの土地勘とかも必要でしょうし。何より意外とヴェルニースは地下深くで入り組んでいたりもするわ」

ㅤ黒天使は少女と同行する流れのようだ。この場所から引き離すのに手段を選べなかったのだろう。二人の気配が羽音と共に遠のいていく、間一髪だったらしい。誤算といえば誤算なのだが、黒天使に糸による探知のことを教えただろうか。どこからか見ていたにせよ、こちらでもわからない仕様は何かの手違いを生まなければいいのだが。距離や精度なり能力の全貌はちゃんと把握しているわけではないという落とし穴だった。
ㅤもっとも……考えごとをして止まっている場合でもなかったか。洞窟の入口、せいぜいレベル1の小人がぎりぎり通り抜けれる10cm前後しかなかった。まあそんな場所で伏せたままでいたら目立つのだろう。住人に内部へ引き込まれる。

「ふっ……新入りか。運命はどこまでも死にゆく者を引き止めるらしい」

ㅤ話しかけてきたのはボロボロのフードで顔を隠した男だったようだ。腰には禍々しい長剣が収められている。異様な気配も同時にする。歩くだけの重心移動で武人として訓練を積んできたか判別もできるのだが……身のこなしや隙のなさが乞食のものとは思えなかったのだ。高名な武人とお見受けすると頭を下げ礼儀正しく挨拶する。

「私は下落し這いずる者だ。そう呼んでくれればいい」

ㅤ下落と名乗る者はこちらに応じて顔を隠しているフードを取り払った。顕になった面を自分は知っていた。それも隣国まで名を轟かせかねない有名人だったはず。ザナンの白き鷹と呼ばれる強さをどこまでも追い求める修羅だったはずだが……何故こんな場所にいる。本命で呼ぶことはどこか躊躇われた。きっと立場も名前も捨てたから乞食同然となり地べたを這いずっているのだ。

「なに、私も下落した転生者のようなものだ。そう身構えないでくれ。神々に死を願った代償に常に下落する呪いを賜ったのだ……愚か者にはふさわしいさ」

ㅤ下落とはポーションにも似たような効果がある。レベルをひとつ下げるという壮絶な効果だ。それが常に発生してしまえばあらゆる常識が崩壊する。レベルアップの恩恵でボーナスを貰いながら、レベルダウンで次への敷居を下げる。低レベル帯で行えば無尽蔵のレベルアップでボーナスの割り振りからスキルを無限に上がれるチートだった。強さをどこまでも追い求めた者への皮肉。死にたくても死ねない強さすら得てしまったのだろうか。
ㅤおそらくこの下落者も信仰の固有スキルを所持しているはず。レベル1への固定というデメリットは見方を変えればメリットとなるか……世界の仕組みへの穴さえつけば無双でもできるのだろうか。小さいのに強いだなんてと少しばかり羨ましく感じる。

「転生者への羨む視線はもう慣れたさ。だが君も気配から察するに可能性を秘めているようだが?」

ㅤ転生者同士は惹かれ合う。黒天使は弱者を拾い上げると言っていたが建前も含んでいたかもしれない。ダークサイドの天使とは矛盾する響きでますます興味がそそる。しょせん弱者は弱者、言説を曲げずにどこまでいられるのだろう。いちおうこの洞窟には盗賊らしい構成員が蟻のように何十匹かいた。まあ存在を認知するには至らず、下落者ぐらいだけ特別に説明だけしておけばいいだろう。
ㅤ転生者という特別な響きに自分は酔ってもいた。それ以外に取り柄がないくせに、名前すら認知する気にならない盗賊達より偉いつもりでいたのだ。どうせすぐ彼らは死ぬんだろうと、無惨に巨人達の玩具にでもされてミンチになるのだろうと意識すらしないようにしていたかもしれない。どこか安心した。ああ、自分よりも弱い存在がいてくれたんだと。少しだけ心穏やかに正気になれた。
ㅤダークサイドの天使が矛盾だというならば、自分自身も弱者なら信じられるという傲慢な見下しが矛盾していただろうに……同じということは似ている。黒天使とは何故か心の底で気が合うように思えた。純粋さよりも少しばかりのクズさのほうが心地よいだろう。だれしも真っ白にはなれないからこその黒なのだから。闇の中を生きるという考えに染まりつつあるならそれもいいかもしれない。
ㅤ盗賊達の誰か、裏路地育ちで悪意には敏感そうな奴。自分の目が軽蔑に染まっているのはすぐに察知されたのだろう。新入りが生意気なんだよと取り囲まれるのにさほど時間はかからなかったようだ。ゴミ同士がこれから降りかかる危険に気づけず、争うことがどれほど愚かか思い知ることになる。

「黒羽が気に入ったから連れてきたのだろう。下手に傷をつけるのは彼女の機嫌を損なうと思うのだが……」

ㅤ下落者が内輪揉めを起こそうとする盗賊達に警告するが遅かった。下落者も目の敵にされていたのだ。持つ者と持たざる者、それはどんな場所であっても争いの火種となる。結局奪うぐらいしか能がない盗賊の生き様でもあり、元が盗賊ギルド所属だったというのなら負け犬になるのも当然か。勝てない勝負に手を出す奴が悪いのだから……低俗で頭が悪くてすぐに手が出るゴミ屑が。せっかくの心の安寧を邪魔された気がしてギルドそのものを貶める発言をしてしまう。火に油を注いだようだ。小人用の武器としては粗末なものだが、カッターの折れた刃や裁縫用の針を持ち出して物騒な台詞をもらった。てめぇぶっ殺してやる。

「あまり私に剣を抜かせないでもらいたいな……この街が終わってしまうぞ」

ㅤ下落者が言い終える前に自分は盗賊達の誰かに串刺しにされていた。即落ちミンチだった。壁にまち針で止められたような形になる。続けて下落者に襲いかかる盗賊達、無法者の集団が数の暴力で蹂躙するかのように思えた。カッターの刃ごときと下落者は身動ぎすらしない。そもそもどこを切ろうとしても刺さらないのだ。裁縫用の針に至っては折れ曲がってしまう。化け物か……もしくはこれも転生者の信仰の力か。オパートス信仰の権能を思い出す、物理攻撃は無効だったなと。
ㅤ盗賊達は新入りにすら面子を潰されて収集がつきそうになかった。元々下落者と良い関係ではなかったにしても、本気で始末する気で次々と襲いかかる。新たな兵器を盗賊達は持ち出したようだった。電動ドリルだ……機械というかそんなものどこから流れてきたんだというツッコミすら生まれる滑稽さだった。数人がかりで攻城兵器のように引きずって押してきたのだから。せめて台車とかローラーぐらいつければいいのに、そんな余裕すらなかったのだろう。わりとイルヴァの世界では機械に染まった文化、言い換えるとエイステールの現代風と呼んでいる文化がないわけでもない。盗品かあるいは機械発明のコネがあるか……盗賊達にはもったいない代物だ。

「あまり物音を立てるな!ㅤ来る、誰かが来るぞ」

ㅤ下落者が叫ぶも遅かった。羽音が洞窟に近づいてくる。盗賊達は黒天使だと思っていたようで、この騒ぎの言い訳を考えているようだった。お前のせいだと責任の擦り付け合いすら始まっている。

ㅤ下落者が自分の側で守るように身構える……天井が割れた。

「みーつけたっ!ㅤもうご主人様ったら、大人気ないよ」

ㅤご主人様は少女から逃げられない。まち針で壁に串刺しにされたご主人とそれを守るように構えている下落者。少女が誰をなぶり殺すかは明白だった。金髪のロングヘアーが光の奔流となって盗賊達を捕えていく。髪の毛がどこまでも伸びて増えていくのは妖怪に違いない。少女の血走った目が赤く光り獲物に巻きついていく。アリの巣の……拠点の奥に逃げ込んでも手遅れだった。触手のようにうねる髪の毛に誰も抗えないのだ。いや……一人だけ対処できる存在がいないわけでもない。

「ふっ……借りは借りだからな。悪いが少しだけ手荒な真似をするぞ」

ㅤ下落者は殺されるような目に遭っても、一応は盗賊達を助けるようだった。放っておけばいいのに、無謀なことなどしなければいいのに、誰もがそう思うことだったろう。だが、剣を抜いて跳躍する下落者は少女の髪の毛を容易く切り裂いていく。
ㅤ少女と下落者、二人が本気で殺りあった場合どちらが勝つだろう。見せかけのレベル1である下落者、強さ相当でのレベルは計り知れない。戦い慣れているであろう下落者は少女を翻弄していた。本体への攻撃はしないつもりのようでさほど殺意はなさそうだ。対して少女は我を失い怒り狂っている。足下に大地震を引き起こしていてもお構い無しだ。殺される、逃げないと巻き込まれて生き埋めにされる。手加減をできなくなった少女は髪の毛に巻きついていた盗賊達をうっかり切断し始める。スパッと上半身と下半身がお別れになっただけなら可愛い方だ。全身に髪の毛が巻きついていた盗賊はひき肉よりひどい有様だ。みじん切りにされ原型を失うほどに切断されたミンチの出来上がりだった。
ㅤ吐き気がした。仮にも同じ大きさだった盗賊が、ここまで無惨な姿にされるのだ。本気の殺意をヒシヒシと感じて胸の奥からゲロゲロが止まらない。誰か体に刺さっている針を抜いてくれ、逃げたい。少女が怖い。助けてくれと懇願しても今の少女には届かない。

「貸しひとつだからね、覚えときなさいよ!」

ㅤ黒天使もこの場にいたようだ。止まっている時の流れを泳ぐように彼女だけが動いているようだった。転生者……ルルウィの権能か。時間が止まっている割に自分にだけ声が聞こえたような気がした。あるいは少女に話しただけだろうか。
ㅤ黒天使の真意は汲み取れない。しかし、ひとつ言えることはある。彼女の生活を行き場を奪ってしまったであろうことだ。盗賊達が生意気だから悪かったと弁明するならば、巨人達が小人がペットなのに生意気だから悪いという暴論を認めるにも近しい。自分のどっちつかずの中途半端さは逃げ場を塞いでしまったようだ。被害者である言い訳も許されず、加害者になれるだけの傲慢さすら許されない。何にもなれない無力さは変わらなかったようだ。

「はい、落し物。あんまり暴れてると壊しちゃうわよ?」

ㅤ黒天使は時間を止めている間、自分を針から引き抜いてくれた。続く早業で少女の手を取りご主人様を引き渡したらしい。ついでに少女のほっぺたを突っついて注意を逸らしたようだ。

「あ……うっかりやっちゃった。ご主人様、大丈夫?」

ㅤ少女が正気に戻った。優しそうな微笑みで自分を見つめてくる。まるで別人かのようで困惑する。いや別人ではなく本人、自分だけがご主人様でありながら変わってしまったのだ。無邪気な純粋さに釣り合えないゴミ虫でごめんなと心の中で詫びる。優しくうっかり無自覚に殺され続けることを断罪として望んだ。だが殺されることに慣れて当然と思っては償いにならない……少女を畏怖し続けて恐れ続けよう。少女の願いとは裏腹に自分はこの子に破壊される甘美さを求めているようだ。そう自身を騙さなければこの可愛らしい無邪気な子を直視できなかった。

「あー、うん。あいつもうっかり終末ちゃったみたいね」

ㅤ黒天使の意味深な呟き。地面から火柱が吹き上がる。誰かが終末だと叫んだ。エーテルの風が吹き始め、凶悪な魔物が降り注ぐのだ。酒場にいた赤髪の巨人、彼の仕事が無駄に増えたのは言うまでもない。

「終末ってなにそれ、呪われてるよ絶対!」

ㅤ少女は黒天使と一緒にその場の勢いで宿屋のシェルターまで駆け込んでいた。凶悪な魔物に捕まらずここまでこれたのも奇跡に等しいのだが、黒天使が時を止めたのだろう。これで貸しふたつねと視線が語っている。

「ええ、おかげさまであたし達は呪われて黒く染まってしまったの。だから貸しみっつで同行させてもらうわよ」

ㅤ黒天使の最後の要求は貸しなのか怪しい。転生者との接触を望んでいたのなら彼女にも好機なはずだからだ。いずれにせよ少女は同行者が増えることに反対しないだろうか。せっかくの二人旅を邪魔されて嫌がらないだろうか。

「ご主人様を大事にするという条件さえ呑んでくれるならいいかな。絶対に見捨てないこと、絶対に貶めないこと。わかったなら指切りだよー」

ㅤ少女の約束はご主人様を無自覚に責めているが、本人はやはりわからないか。黒天使だけが意味を理解したのか苦笑いしながら見下ろしてくる。

「そうね、じゃこれからあんたが我が主ってことでよろしく」

ㅤ指切りは少女にされるわけでなく、不意に自分に向けられた。黒天使の小指が柔らかく迫ってくる。小柄な女の子の手で身長相応に小さいものだとは思うのだが……それでも体格差で5倍はあるとちょっとした丸太のようだ。かよわい女性の手に丸太は失礼だったか、ぎりぎり掴める程度なので大きな綿あめぐらいだと濁すことにする。
ㅤ黒天使の小指を自分は抱え込んで抱きしめる。指切りはできそうにないので代わりに誓いのキスをした。まあ所詮は小人の一挙一動など気づくまいとたかをくくる。案の定少女は無反応だったが、黒天使の方はというと……少し顔を赤らめていたかもしれない。

「ふふん、これで猫天使とは対等な関係ね。もし主を奪っちゃっても恨まないでちょうだいね」

ㅤ冗談めかして黒天使は少女を挑発する。少女は無頓着で鈍感なのか余裕そうだ。

「うん、わたしにもしものことがあったらよろしくね」

ㅤ少女も冗談で返したのだろう。何だかんだで黒天使と少女は仲良く談笑している。ちょっとの間で人と仲良くできる魔性の魅力なのかもしれない。
ㅤひと段落ついてめでたしといきたいところだが、何か忘れているような……酒場のシーナからの依頼、盗賊団がどうのこうのだったはず。小人の生け捕りはもはやできそうにない。少女が思い出したかのように依頼を口に出す。それに黒天使は、みんな死んだんじゃないのと軽い調子で答えていた。その心中は自分にはわかりそうもなかった。