ㅤ港町ポートカプール、諸外国より船が行き来する海の入口。交易や流通、商人達の台所にも等しく独自の発展を遂げた街ともいえる。優れた装備や冒険に必要なアイテムが売買されるのであれば戦士達が集まるのも道理だろう。ノースティリスのみを駆け巡るのであれば、いささか立地が悪いかもしれない。隅っこの僻地で狭く感じよう。しかしイルヴァの世界を駆け巡るのであれば、海路を押さえるのは重要事項だ。世界は広い、外から得る情報ですら商売人には資産となるのだから。
ㅤ商人でなくとも冒険者にとって情報は命を左右する。誰しも勝てない相手や無謀なダンジョンに挑みたくはないだろう。臆病で慎重だからこそ過酷な世界で生き延びることができる処世術だ。誰しも無双できるような力があるわけでもないのだから。
ㅤまあ、観光がてら猫天使歌姫こと少女とぶらぶらしていた。美しさと魅力からとても目立っている。変わったペットがアクセサリー代わりに頭の上に浮いている。本当はご主人様なのだが、一般人の目はそんなものだ。少女の頭の上からの視野は意外と良好だ。エウダーナとおぼしき魔女っ子がそこかしこに屯っているのも見え見えなのだ。
ㅤそういえばエウダーナは才能主義の国で女尊男卑でもあったか。肉体面では男性が有利であっても魔法面では女性が有利な傾向がある。魔法能力のみが重視される社会においてどうなるかは言わずもがな。さらに近年で最強の魔法使いであるライゼルだったか……名前は忘れたが男性の魔法使いが惚けて失脚した。それに拍車をかけて魔女の台頭、男性を縮小させる政策を進め我が物顔でいる。魔力を吸収するための使い魔としての扱い、才能で劣る故に踏み台にされるだけの男性達。産まれた赤子に魔力診断を行い、不合格だった場合は奴隷送りにするぐらいだともいう。行き過ぎた魔法信仰からイェルスがエウダーナを目の敵にしている理由だ。魔法を極めるためならどんな犠牲も厭わない……そんな狂気の集団にしか自分は見えなかった。
ㅤ敵国の住人である都合、やたらと解説が入って話が脱線してしまった。とにかく小さな男性がエウダーナの魔女っ子に捕まるとひどい目にあうのは確定だ。それとなく遠ざかるように少女の耳元で呟く。頭の上で耳が近いおかげで内緒話もしやすい。
ㅤまあ少女が目立っているということは、すでに自分も見つかっていたようだ。魔女っ子達が少女に詰め寄ってくる。この使い魔可愛いとか。珍しいペットでいいなとか。見して貸して触らしての勢い……断れそうになさそうだ。ならばと少女にヒソヒソ話でこう伝える。触らせる代わりにできる限りの情報を引き出してくれと。

「わたしの大事なご主人様だからあげないよ。でもお触りぐらいならどうしよっかなー」

ㅤ女の子達の雑談が始まった。自分は少女の頭の上から降ろされ手の中に戻る。魔女っ子の指先で弄ばれながら会話は続く。ご主人様とか生意気だとグリグリされる。ペットの名前がご主人様なのだと慌てて少女が助け舟を出す。複雑な気分だが何故だかくすぐったい。女の子の指先で翻弄されてるくせにご主人様だ。それでも少女が自分を大切にしてくれているんだ思うと愛おしいものだろう。
ㅤなんだかんだで政治のことは話題になりやすい。別の国々の住人同士なら盛り上がる。最強の魔法使いで生きた伝説であるライゼルという老人の話になる。忘却という敵を倒して従えたらしく、さらなる力を得たものの代償も凄まじかった……惚けた背景へのあらぬ噂だ。名誉職という名の捨て駒、ほとんど僻地への追放をされる。男でも魔法使いとして強くなれるという象徴を消し去りたかったのだろう。それからは魔女の天下という流れか。ただ力を求めた者の末路としては笑えない。完全にライゼルを消滅させなかったのだけは気がかりだが、惚けてもまだ脅威だったのか……あるいは伝説と呼ばれるだけの知識を損なうことを恐れたのか。魔力を帯びた禁呪の道具、伝説の知識、陰謀の気配がするものだ。こういうミステリーやオカルトの話ほどエウダーナの魔女っ子は好きらしかった。
ㅤ女の子達は話すだけ話して飽きたのか適当にお別れする。自分も少女もさほど暇人ではないのだ。同じくエウダーナ兵である魔女っ子もそうだろう。お互いにやるべきことをやらなければならなかった。
ㅤやるべきことで思い出す。商人ギルドへ顔出しする用事だ。特に先方との取引の約束があるわけではないが、運命に導かれている気がした。これでも富のヤカテクトの転生者なのだ。きっと何かしらの助力を得られるだろう。少女に商人ギルドの場所を道行く人に尋ねるよう命じる。
ㅤガチョウが門番をやってる建物だよと皆が口を揃える。そうかガチョウか……はっはっは、なんでやねん。ぐわっぐわっしか鳴けないのに何故門番にした。街の南西、商店通りの明らかに目立つ建物を発見するも近寄りがたい。一応近くに他の人間もいるようだ。声をかけてみることにする。

「イーヒッヒッヒ、コレハ良サソウナ実験体ダ。お嬢サン、肉体改造スル?ㅤダイジョーブ、タブン成功スルヨ」

ㅤマッドサイエンティストだ、逃げろ。命じるよりも早く少女の右ストレートが狂科学者に命中する。殺さない程度に沈黙させた。少女よ、暴動沙汰は街中でやってはいけない。犯罪者になってしまうからやめなさい。

「なんや騒がしいな。って、あーいつぞやの!?」

ㅤ白金を漂わせる羽の生えた意地悪そうな幼女が建物から出てくる。プラチナのようなドリルヘアー、悪徳令嬢のような迫力すらある。さらに僅かに成長した背丈とそれに似つかない巨乳、ロリ巨乳の成金天使だ。自分とは初対面のはずだが向こうは知っている様子。この口調に聞き覚えがあるようなないような。
ㅤ立ち話もなんだからと建物へと通される。商館のような内装、商品棚に立派そうな家具や証明。レジには店番としてガチョウが雇われていた。細かいことは突っ込まないぞと鋼の意思で無視する。応接間も奥にはあるらしくそこでつもる話をする。

「金天使のヤカということでよろしくな。こっちでの分身みたいなもので、本体で接触するわけにはいかんくてな」

ㅤヤカテクト改め金天使ヤカ。本体は想像するまでもなく巨人だ。下界に降りれば簡単に街など踏み潰してしまう。神々が干渉できない理由のひとつとしても、わざわざ分身まで生み出して接触してきているようだ。神々が地上への不干渉を決めたという既存の歴史と違うのだがどういうことだ。どうしても問いたださずにはいられなかった。

「負の神々の侵食……邪神侵攻による被害への対処のためとだけ。今はそれぐらいしか伝えられんな」

ㅤ金天使ヤカは苦々しく答える。脅威の名は混沌、忘却、呪縛、狂気。永遠の盟約により天上だけでなく地上をも守護するという約束らしい。自分からしたらヤカテクト本人が邪神にしか思えないのだが……心を読まれたのか察したように受け答えされる。

「代わりに特別な恩恵を与えてやっとるやろ。信仰を神力として引き出す方法にも慣れてきとるようやしな。裏の権能……本当の力の片鱗ってやつさかい」

ㅤ信仰、神力、裏の権能……聞きなれない単語がさらに増えていく。正直、神々がどうだこうだとか脅威だの信仰がだのついていけない。少女も自分と同じようだった。難しい話ばかりで一方的に話されて面白くないようだ。

「わっかんないー。そんなことよりご主人様、何か用事あったんでしょ!」

ㅤ少女から用事を聞かれても困る。黒天使の提案から何となく商人ギルドに立ち寄ってみただけだ。ここはギルドへの加入を申請してみるべきなのか。おもむろに金天使ヤカへ頼んでみた。

「んー、個人的には承諾してやりたいんやけどな。一応ウチのマスターとしての立場からちゃんと審査をせなあかんのよ」

ㅤ金天使ヤカの言い分はもっともだろう。曲がりなりにもギルドを運用していくならば、ふさわしくない者を安易に所属させられない。商人ギルドの審査内容はコネと店の所持とお金、どれも自分達には不足している。さらに詳しく内容を聞いてみた。
ㅤコネの部分は対応する神々への信仰で免除されるようだ。店の所持は権利書を買うか物件を貸してもらうかだ。お金については入会金で100万ゴールドらしかった。なんてことだ詰んでいる……店のツテもなければそんな大金もあるわけなかろう。

「あぁ、いい顔してくれてたまらんわ。その絶望と恐怖の感情でご飯が進むもんや。けど敬虔な信徒の頼みとあらば骨でも何でも折ってみせたる」

ㅤ金天使ヤカよ、自分は捧げ物もしていないし祈ったこともない。敬虔な信徒とは程遠いのだが、感情を食い物にしているかのような発言。人間とはまるで違っていて腹立たしい。まさか……いやそのまさかだが、特定の強い感情を信仰として食らっているとでもいうのか。
ㅤ知識として知っている程度、遠い昔の歴史。人々は神々を畏怖し恐れ崇めていた。その強い感情が神々への認知となり、信仰という力をもって顕在化した。感情が何らかの作用で変換された奇跡ともいえよう。神業であるからこその神力と呼べるのだろうか。
ㅤ恐怖や絶望には十分すぎるほど心当たりがある。常に隣り合わせで矮小な身に詰まっている。この美味しい想いを贄として糧として死んだ際に捧げられていたら……ヤカテクトにとっては信者からの贈り物となるか。なかなか死なせてくれない消滅させてくれないわけだ。魂が壊れるまでしゃぶり尽くすという悪魔の契約。身の毛もよだつ真実でさらなる恐怖が襲いかかる。それすらも美味しいご馳走でしかないのだろうが。
ㅤ飴と鞭、権能による餌と恐怖による信仰。運命を絡めとられ巨大な女神の口の中で咀嚼されている。舌で抑えつければいい声で鳴くことだろう。歯で噛み砕けば叫び声が血肉となってくれる。飲み込んで消化してしまうには惜しい人材が自分。これが神と人の格の差なのか。悔しい……まだ勝てるような想像ができない。泣かされるだけ、蹂躙されるだけ、狂って嬉しいつもりになるだけ。
ㅤ過ぎたる恐怖が自分の力となる。肉体が平面化して再構成されたことへの説明にもなろう。感情が信仰になり、信仰が神力になり、不思議が起こるのが裏の権能か。笑えてくる。全部踊らされていたことだ。恐怖させてくれる相手を愛おしいと思ったのも、きっと恩恵を与えてくれるからだ。自暴自棄になりかけるも、黒天使との復讐心がかろうじて引き留める。こんな神々なんていつか倒してやる。ますます決意は深まるのだった。

「ご主人様、どうしたの……なんだか怖いよ?」

ㅤ少女が自分を恐れることなどなかろう。少女はご主人様を粉砕し恐怖させなければならない。意図的では慣れてしまうから物足りない。あらゆる一挙一動で恐れさせてくれ。優しく可愛らしい少女への畏怖が自分の力の源なのだ。きっとそうに違いない、狂った頭での考えだろうがどうでもよかった。誰でもいいから自分を優しく蹂躙してくれ、甘く包み込んで破壊してくれ、殺してくれ死なせてくれ……力が欲しかった、神さえも殺せる力が。

「そう、なら丁度いい話があるんよ。実験体として身を差し出す代わりにお金とお店の提供しないこともないで」

ㅤ金天使ヤカは人間風情が生意気なと嘲笑うように提案してきた。実験体ということは肉体改造か。イェルスとしての挑戦的な精神、神さえも殺せるならば上等だ。もはやどうにでもなれだった。
ㅤまあ自分は少女のご主人でもある。可愛らしい子を路頭に迷わせるわけにもいくまい。自分が犠牲になれば全部上手くいく、どうせ軽い命で大切でもないんだ。こんな虫けらのようなゴミ屑のような存在が、少女のような可愛らしくて純粋であらゆる美徳を備えうる相手に貢献できるのだ。小さすぎて何も感じさせてあげられないのなら、せめてこれぐらいはしないと釣り合わない。

「ご主人様、わたしが行くから無理しなくても……」

ㅤ少女に引き止めるなと命じた。従者としての献身を無視した。自分のためだ、全部自分のためなのだ。

「それじゃ、ご主人様とやらが改造手術を受けている間に少女ちゃんが代筆して手続きしな」

ㅤ金天使ヤカは狂科学者を呼び出す。表で出会った相手だ。自分は狂科学者に地下へと連行されるようだ。遠のく少女の姿と金天使のやり取り、文字が読めない相手に最悪の振る舞いだろう。どんな不利な契約をされるのか想像すらしたくなかった。
ㅤ地下は様々なバブルが収容されていた気がする。通りすがりでチラッと見えた程度でハッキリしないのだが、虫かご程度のケースの中にラベルが貼られた多種多様のバブルが培養されていたのだ。ある特殊な性質を遺伝子改良で持たせ分裂させ増やすのだろう。生化学においてバブルは基本中の基本だ。肉体改造とは切っても切り離せない縁だった。
ㅤ狂科学者の他にも誰かがいたようだ。助手だろうか。薄暗い部屋に明かりがつく。こんな場所には似つかない姿の者がいた。それは修道女のようなシスター服を着た金髪の女性のようだ。長身でスタイルがいいのか胸や腰のラインがゆったりとしたローブから主張している。縮尺の基準となるものがないのでレベルはわからない。いや、狂科学者より2倍ちょっとはあるので20レベル前後か。

「神の慈悲があらんことを……」

ㅤこの女性の名前は知らないが信心深き者なのだろう。狂科学者は黄金騎士と読んでいた。黄金の輝きすら失われた闇に従事しているのは皮肉だろう。騎士らしい行いですらない、弱者の尊厳を遺伝子単位で踏みにじる暴挙に神の慈悲などあってたまるものか。

「イヒヒ、イツモノヨウニオ願イネ」

ㅤ狂科学者の片言がなおさら恐怖を誘う。部屋の設備にドリルやら診療台やら、血の跡がついている。ナイフにメスに聖水から杖まで、似つかわしくないものも混ざっているが……雑多に何でも体に組み込むつもりなのか。まあひときわ存在感を醸し出していたのは大きなケースが連結した装置だ。遺伝子複合機、イェルスでもなかなか貴重な代物で、下手な科学者では目にかかることすらない。かなりの腕前を持ったトップクラスの人材でようやく設備として扱わせてもらえるものだ。狂科学者の人格はともかくとして実力だけは商人ギルドに買われたのだろう。

「哀れな贄よ、己を糧としどのような力を望みますか」

ㅤ黄金騎士の問いかけ、修道女のような彼女の手に乗せられる。薬指ぐらいしかない自分は不敵に答える。神をも殺せる力を望むと。

「ある人は言いました。信仰のない神は紙よりも脆いと。エイスの無神論者に伝わる童話、チェーンソウでカミをバラバラにするお話です。全てを超越した科学なら可能かもしれませんね」

ㅤ信心深き者であろう黄金騎士、相反する科学に傾倒しているのが闇を深めている。伏し目がちに自分を見下ろしてくる。口元は微笑み、何かを期待しているかのように思えた。この子は黒天使と同じ気配がする。逆らえない何かに囚われているが、同時に心では抗っているのだ。転生者は惹かれ合う……同志であると一瞬で勘づいた。

「ソレジャ、全部オトクニ改造シヨウ。ダイジョーブ、天才ダカラ。マニノ加護ツイテル」

ㅤ狂科学者の提示したメニューはこんなものだった。一体化と分体化、一般的なバブルを遺伝子合成し得る能力だ。肉体改造の基礎となるベースらしく、分裂能力などはさらにその先にあるらしい。失敗すれば魂ごと消滅するリスクもあるようだが、魂にすら保険をかけている自分は無敵の人だ。もう何も怖くない、この時ばかりはマニの名前を唱えよう。マニは素晴らしい神様マニ、みんな信仰するマニ。

「貴方は選ばれた人でしょうか。もし選ばれた勇者ならば正しさとは何か問いましょう」

ㅤ黄金騎士は品定めするような顔で自分に尋ねる。実験の準備は進みつつあるようで深く考えている時間はなさそうだ。正しさとは本人の中にある信念だと答える。少なくとも信仰という外部の神様に求めるものではないと。
ㅤ受け答えに納得してくれたかはわからない。きっと信心深いからこそ、矛盾に苦しみ見せかけの正しさを信じられないのだ。自分が金天使ヤカから突きつけられた真実と同様の悩みにも思われた。信者の感情を贄とし糧とする関係は健全か。敬虔なはずの修道女である黄金騎士が科学の闇に落ちているではないか。ああ、わかりきった答えだ。黄金騎士は自分を救ってくれる勇者を求めている。

「もし実験が成功したならば、その信念を見せてもらえませんか?」

ㅤ黄金騎士の手に遺伝子複合機の前まで運ばれる。神々に抗うための科学の力、ひとつの岐路に立たされている。不死身の拠り所は信仰の力としながら、科学をもって神を越えようと目論む矛盾だ。なによりここに導いたのはヤカテクト自身なのが気に食わない。それでも利用できるものは利用するのがイェルスの精神だ。
ㅤ遺伝子複合機が起動する。禍々しい光が呪いとなり、神聖なる光が祝いとなり、交互に繰り返す眩さが感覚を奪う。視界がなくなり聴覚もなくなり触覚すら失う。何かが体に流れ込んできていることしかわからない。ここにいる自分と遠くにいる自分がわかった。
ㅤ一体化と分体化の処置を施しているのだろう。意識が重複するかのように脳内で攪拌する。装置の中にいる様子と服の中……少女の胸ポケットにいる様子だ。人間の頭では増殖した感覚から得る情報を同時に判別できるだろうか。だんだんと人間から遠ざかっているようだ。出来るはずがないことができてしまっている……神の視点だ。

ㅤ少女と金天使ヤカのやり取り。

ㅤどちらが自分の本体かすらわからないが、少女の胸の中で蘇生したようだ。向こうでは改造手術中で取り立てて意識するだけの変化もないだろう。チャンネルを切り替えるかのよう何かをスイッチした。
ㅤ平面化は治らないものの手足はちゃんと繋がっている。体に欠損なしこっそり驚かせるように顔を出してみた。ああ、少女は金天使ヤカの書類にサインを終えた後みたいだ。内容はなになに……大事なことなので以下にまとめる。

ㅤ実験体は少女の所有する物体として扱われる旨。
ㅤ対象がレベル0になることへの同意。
ㅤ人間としての権利放棄への合意。
ㅤ違反した場合、契約者の身柄拘束。神の国への強制連行。

ㅤあまりに恐ろしい内容で身がすくんで頭をすぐに引っ込めてしまった。レベル0って何だ、ついに概念すら捏造してしまったのか。アイテムとして判定されるからレベルは見せかけになるよということか。そうでなければ存在している自分は何なのだ。弱っちい小虫が世界のバグとなった瞬間だったかもしれない。不具合である都合、まるで何が起こるか想像すらできなかった。未知の恐怖だ……到達してはいけない領域に触れてしまった。人体実験による神々への冒涜、呪縛と祝福。新たな門出としてはあまりにも翻弄されてばかりだ。
ㅤ人間としての権利放棄は実験絡みなのだろうが、今となってはそんなもの大したことではない。契約者である少女が違反した場合のペナルティがおかしい。どうして神の国へ連行されなければならない。察するまでもなく浮遊大陸なのだろう……まるで少女を神格化するかのよう。黒幕は誰だ。運命の悪戯にしては出来すぎた筋書きだ。
ㅤ神々の中に明確な敵がいる。世界にとって敵ではないのだろうが、自分にとっては許されざる仇だ。転生から肉体改造まで仕組んだヤカテクトが黒幕だと判断するのは早計か。黒幕ならわざわざ手の内を晒すまい、あえて隙を作ってこちらにヒントすら与えてくれているように思えた。自分の恐怖や動揺はたぶん筒抜けなのだろう。それでも気にせず無視しているようだ。少女だけが陰謀に気付かずにいたのかもしれない。

ㅤ実験終了につき意識のチャンネル切り替え。

ㅤ少女と金天使ヤカのやり取りからフェードアウトする。遺伝子複合機から取り出されて机の上にいるようだった。狂科学者は記録をノートにとるので忙しいらしく、黄金騎士が自分の相手をしてくれる。実験が成功したのなら信念を見せてくれだったか。複数意識の切り替えやもう一方での蘇生が起こったことから結果は良好なのだろう。分体化の能力制御はだいたい把握したわけだ。

「さて覚悟はできましたね」

ㅤ黄金騎士は指程度の小人でしかない自分の上方に手をかざす。信念を見せる覚悟とやらにしては違和感しかない。信念……信仰に基づくものか否か。正しさは自分の中にあるとしてそれを曲げない覚悟だろうか。意図はわからないが暴力で簡単に屈するようなものではないと解釈されたらしい。信念と聞いて暴力に結びつける発想から黄金騎士の頭の中が気になるものだ。あるいは彼女自身、力の正しい振るい方に悩んでいると受け取るべきか。
ㅤ考えている時間が与えられるわけもなく、一方的に黄金騎士の巨大な手が振り下ろされた。手加減なしで本気のようだ。風圧で吹き飛ぶことすら許されない気がした。何故かはわからないが、彼女のことを受け止めてあげる必要性を感じる。

ㅤ怯まず恐れず勇気をもって目を逸らさない。溢れる恐怖すら自らの支配下においた。

ㅤ薬指だ。自分の体に触れて叩き潰す寸前で止まる。黄金騎士が言葉を発する前に自分は反撃した。小人でも手の届く範囲に浮かんでいる指先、僅かに震えているのがわかった。薄っぺらい体で巻き付くようによじ登る。全身で抱擁し丸く輪になり彼女の一部となるよう絡みつく。指輪のような形状になった自分、これが誠心誠意だった。

「怖くなかったのですか……理不尽な暴力が。逃げもせずどうして貴方は私に触れれるのですか?」

ㅤ黄金騎士の問いかけはもっともだろう。迷える修道女の姿を見て救ってあげなくてはと使命にかられたと伝える。その力の振るう先が間違っているというのであれば、ただ受け止めてあげたかったと告白する。
ㅤしばしの沈黙、指輪となったまま浮かび上がる自分の体。
ㅤ黄金騎士の慈悲深そうな表情が見えた。顔の前まで手を動かしたのだろう。小人が指輪となった薬指に潤んだ彼女の唇が近づいてくる。食べられるという恐怖ではなく、よくわからない感情だったかもしれない。弱き者の精一杯の抱擁へのお返しに、巨大な存在が熱く接吻をしてくれた。

「ん……貴方は私の勇者様になってくれますか?ㅤもし間違った力を振るおうとするならば命を賭けて止めてくれますか?」

ㅤ黄金騎士とは初対面のはずだ。それでも転生者として悩む者の存在を通して近しい間柄に思えていた。少女とも黒天使とも違った魅力……お淑やかで慎ましくありながら力の振る舞いに悩むシスター、自分は哀れな子羊に変えられてしまったのかもしれない。誓約の指輪として黄金騎士の勇者になると答える。

「では、一体化の儀を能力として受け入れてくれますね」

ㅤ黄金騎士からすると実験はまだ続いていたのだろうか。それを含んだ上での演技だったのだろうか。どちらであっても約束は約束だろう。精神的な支えとして勇者様を望まれたのなら断れまい。離れ離れになりたくないからこそ一部にしたかったのかもしれない。
ㅤ最終段階として一体化の能力説明とテストに入る。合意した相手の体の一部と同化する装備になるようだ。今回のケースだと指輪になる。憑依するような乗り移るような形態にも近く、ほとんど人生を共にする結婚にも似ていることだろう。個体間で意識すら共有しかねない深い繋がりでもあり、体すら限定的に操りかねない強力さだ。自分の場合、分かれて増えた体の復活先にもなることだろう。
ㅤ色々と複雑そうだが手っ取り早くいうと、自分は黄金騎士の指になった。そこからさらに分身も湧いてくることだろう。本格的に人間を辞め始めた。

「まるで結婚指輪みたいで大好きです勇者様。末永く黄金騎士のことを可愛がってくださいね」

ㅤ黄金騎士と実質的に結婚のような繋がりをしてしまった。少女が知ったら嫉妬すること間違いなしだ。このことは仮とはいえ婚約者同士の秘密にすることにした。
ㅤ命がいくつあっても足りないとはいうが……ついに死にすぎて死んだ切れ端からでも自己再生するようだ。不死身すら通り越して、小さいが故の細菌にも似てきたかもしれない。小さいから弱いも極めればウィルスという不可視かつ凶悪な災厄になることだろう。
ㅤ自分ができることは誰かしらの相手もできる。そんなことすら忘れてさらなる力を得て浮かれていたのかもしれない。本当の驚異に気付く日は遠い。