短小物語集
星の秋(前編)
笛地静恵

1・

目黒駅から、徒歩で五分しかからないラブホテル街は、以前は金曜日の夜ともなると、
ほとんど満室状態だった。部屋を探すことに苦労したものだ。しかし、最近は、どこもか
しこも、がらがらだった。街路樹の銀杏の枯葉が、くるくると風に舞っていた。男たちは
「眠れる美女」を怖がっているのだ。そのために、立つものも立たない。

恋人の本杉眞綾(もとすぎまあや)と約束していたホテル・目黒・エンプレスに入った。
ラスベガスのカジノのような、安っぽい外見である。つい先日、二人組の外国人の強盗が
入ったそうだ。大金庫ごと盗まれていた。治安が悪化しているのだ。

彼女は、すでに部屋で、カマンベール・チーズなどの盛り合わせの皿を肴にして、ドン・
ぺリニヨンを飲んでいた。

「男って、デリケートな生物よね。強いのか弱いのか分からないわ」

 本杉眞綾は、そう言って笑っていた。俺の作業ズボンの前を下していた。ボクサータイ
プのローライズのきついパンツから、指先で器用に器官を取りだしていた。すでに、ぎん
ぎんと上を向いている先端部分に、キスをしてくれた。酒が染みた唇で、俺の先走り液を
啜っていた。ペニスをかすかに黄金色を帯びた、透明な発泡酒を満たしたグラスに浸して
いた。俺の味がして、シャンペンがおいしくなるのだという。

「あなたは、いつも元気だから嬉しいわ。怖くないの?もし、あたしが、ここで「眠れる
美女」になってしまったら、どうするつもり?」

「その時は、その時さ」

 俺は、ベッドのふかふかの枕の上で、腕を組んでいた。細身のシャンペン・グラスを唇
に傾けながら、自分の股間に動く黒い頭部を眺めていた。内腿に黒髪が触れている。頭の
移動につれて、敏感な皮膚を、科身の髪の先端でくすぐられていた。

「洞窟探検でも、楽しむさ」

「うぷぷ。いやな人ねえ〜」

一物を咥えながら笑っていた。

「あたしが、姥桜だから、安心しているんでしょ?」

彼女は、いつも年齢を気にしている。俺よりも、四つ上の36歳だった。無意識に彼女
の白い歯が立っていた。さも旨そうに、ぐちゅぐちゅという音を立てていた。俺のものを、
長時間、熱烈に、しゃぶってくれていた。豚のように鼻筋の通った高い鼻が鳴った。



今夜のベッドの眞綾は、少し老けて見える。年齢が首筋の深い皺に出ていた。ナイトラ
イトが、深い影を落している。眉間には、皺がよっている。勃起した俺の男根は、彼女の
大きな口をもってしても、限界を超えていた。ディープスロートが上手な女だった。それ
でも、全体の3分の2までぐらいしか、飲み込めなかった。今年の夏の新作の商品の売上
げは、非常時としては、好調の部類だったという。仕事上の心配による肌の窶れではない
ようだった。

本杉眞綾は、俺の男性自身を強く吸っていた。頬をすぼめている。吸引力を強めるため
だ。口腔の内部を、膣の形と相似になるように狭めさせている。ヴァキューム・フェラと
いう奴だった。

頬骨が高い。36歳と言う年齢が、化粧を落した目尻の皺に伺えた。普段は高慢な美女
である。ただ、それも三回のプチ整形によって、ようやく手に入れたのだと言うのが、彼
女自身の告白だった。元カレの趣味に合わせて整えすぎために、個性がなくなったという
のが、本人の感想だった。だからなのか。会っている時には美しいと思えても、別れてか
ら思い出そうとしても、彼女の表情の細部までは、想起できにくいのだった。

本杉眞綾は、グラビア・アイドルとしては高齢である星野亜紀を、30歳台女性の星だ
と賞賛していたのを聞いたことがある。「肌を露出して、つねに人に見せていることが、若
さの秘訣ではないかしら?」羨ましそうに漏らしていたことがある。ベッドの足もとの壁
には、大きな姿見の鏡がかかっている。そこには、彼女のでかい尻が、紫色の肛門の穴ま
でくっきりと映っていた。

高卒の俺が、大卒の良い女に恋人にしている。本杉眞綾は、帰国子女である。海外での
生活が長い。4ヶ国語に堪能である。29歳で引退するまで、自分でもファッション・モ
デルをしていた。ミス日本として、アメリカの美人コンテストに出場した履歴の持主だっ
た。今は、あるアパレル・メーカーでデザイナーをしている。部下三十名を顎で使う、係
長にまで昇進していた。パリコレにも参加していた。切れ者と言う噂があった。

高価な黒いミッソーニのスーツの肩で、風を切って歩いている。スタイルは良いが、こ
れも本人の弁では週に三回のトレーニング・ジム通いと、ダイエットで何とか維持してい
るということだった。30歳になると、同じ身体の状態を維持するためにも、20歳の頃
の十倍の努力を必要とする。だから、星野亜紀ちゃんは偉い!そういう結論だった。

本杉眞綾は、ベッドの上では、何でも俺の言うことを聴く。どんなことでもした。要求
を拒んだことはない。高価な外国製のシルクの下着を、引き千切るようにして犯していっ
た。彼女の好きなプレイだった。

いつか、あまりにも煽情的なミニスカートを履いてきた。他の男にきれいな脚を見せび
らかせている態度が、許せなかった。新宿駅のトイレでパンティを脱がせた。南口の『ワ
シントン・ホテル』まで、ノーパンで歩かせた。風の強い日だった。そしらぬ顔をしてい
た。ホテルの部屋についた途端に、俺の胸に倒れこんできた。

「……もう、だめ……」

全身が熱かった。息も荒かった。あそこは、ぐちょぐちょに濡れていた。Mの気がある
のかもしれない。

俺の陰毛に、本杉眞綾のツんとした高慢な鼻柱が埋っている。落差が、たまらなかった。

デザイナーと言う、一見、華麗な職業である。「眠れる美女」が、存在する時代でも、
それなりの売上げを確保していた。不思議なことだ。

「女はね、明日をも、知れない今日でも、美しくありたい生き物なのよ。その欲望には、
限界はないわ」

そういうものかもしれないと思う。男の俺には、女の気持は分からない。デザイナーは、
外見的には華麗な職業に見えたとしても、現場は想像以上に厳しいものがある。仮縫いの
時などに、針を指に刺してしまうことも、間々あるようだ。指先は、ぼろぼろである。バ
ンドエイドを付けていた。眞綾の長い指が、ペニスを握るときには、硬いざらざらとした
異物感が、指紋も消えかけた指先にあった。



彼女との出会いは、全くの偶然だった。去年の十二月も中旬を過ぎていた。待ちは、ク
リスマス気分に沸き立っていた。俺は新宿の黄金街の通りの隅で、電柱の影に蹲っている
彼女を、発見していた。お店を広げていた。嘔吐していた。へべれけに酔っていた。スタ
イルの良い長身の身体を支えて、立たせてやった。抱き重りのする充実した肉体だった。
俺の耳に、「ねえ、飲ませてくれない?」と誘ってきた。耳の穴に、吐息を吹きこもうとす
るような、熱い声だった。行きつけの焼き鳥屋に連れて行った。その夜からベッドを伴に
した。それが、付き合いのきっかけだった。



本杉眞綾は、ゆっくりと、ゆっくりと、厚い肉感的な唇を俺のシャフトから後退させて
いった。俺のピンク色の肉棒の幹が、太く太く現れていた。女の唾液に濡れて、湯気が立
つようだった。じゅぼ。淫らな音を立てて亀頭が出ていた。先端にキスをしていた。自分
の流した唾液を啜っていた。さも、いとおしくてならないという表情をしていた。演技の
旨い女だった。

もういいでしょ。

大きな黒目勝ちの瞳が訴えていた。濡れて光っている。

欲しいの。

そう哀願していた。しかし、欲望を言葉にするまでは、許してやらない。

「あたしのオ○ンコに、入れてちょうだい」

でかい尻を、こちらに向けていた。両手の五本の指を、はちきれそうな臀部の肉に立て
ている。裂け目を左右に広げるようにしていた。青い肛門が見えた。

「愛や優しさなんていう、ふにゃふにゃしたものは、いらない!固くて、太いのが、欲
しいだけよ!」

そう、宣言されていた。



 テレビの男性アナウンサーが、今日の「眠れる美女」速報を流していた。井藤美咲も、
星野亜紀達も眠り続けている。嵐の前の静けさのようである。いつ、目が覚めるかと考え
ると不安になる。いつも突然にやってくる。時も、所も選ばない。台風よりも地震に似て
いる。局地的な大地震だ。前兆はほとんど無い。激烈な本震が来た。被害は甚大だった。

 *

 日本で最初に狙われた場所が、新宿だった。その前の週の木曜日に、アダムスキー型の
黄金に輝く円盤が目撃されている。3月14日のホワイトデーである。新宿には、恋人達
が集合しようとしていた。桜も、もうじき咲こうとしている。春の木の芽時の空気は、人
の心をも、うきうきとさせるのだった。退社時間とも重なっていた。多くの目撃者がいた。
テレビのワイドショーなどでも、話題になった。が、他の大きなニュースに、もう人々の
口に上ることも少なくなっていた。

金曜日の夕方、午後六時を少し回ったところだった。東口の黄金(ゴールデン)街の入
口近くにある貸しビルは、一階から五階まで、すべての階を、大手の芸能プロダクション
が占有していた。夢を売る商売らしいレインボーカラーのカラフルな壁面をしていた。2
4歳になる人気モデルの井藤美咲は、そこで「眠れる美女」に変身したのだった。

最近は、携帯電話にデジタルのビデオカメラの機能が付いているものが多い。国民総カ
メラマン時代だった。今回の事件も、現場にいた複数の記録を編集することで、その経過
の一部始終を再体験することができた。以下のレポートは、その画面を見ながら、当時の
関係者の証言を交えながら再現したものである。個人で、この大事件の全容を目撃しえた
者は、一人もいなかった。

 爆発音が轟いた。それに驚いた通行人のサラリーマンは、五階建てのビルの屋上から、
上半身を突き出している巨大な女を目撃した。緑色に塗られた給水塔が、地面に落ちてい
た。道路に水が溢れていた。

カメラを向けたのだった。彼女は、高額のギャラを稼いでいる。水色の高価なデザイナ
ーズブランドのカラーのジャケットを着ていた。固い襟が、シャープな印象を醸し出すデ
ザインである。派手な顔立ちの美人だった。腰に巻いているサッシュのベルトが、ジャケ
ットの胸の高さを強調していた。

全体のスタイルが良いので目立たないが、そこだけを観察すれば、井藤美咲は、かなり
の巨乳に入る部類の女性だった。黒髪を、肩甲骨の下辺りにまで伸ばしている。

彼女は女子社員用のトイレで、ホワイトデーのアフター5のデートのために、化粧を直
したばかりだった。その日は、オリモノの多い日だった。トイレで、パンティの中に指を
入れると、今夜にベッドで起きることを予想して、割れ目もしっとりと濡れていた。バレ
ンタインデーのお返しは、プレゼントだけはないだろう。あそこと、手首に、ごく微量の
香水をつける習慣があった。以後、新宿駅前の空気は、濃厚なラベンダーの香水に、紫色
に染まるようになっていく。

井藤美咲は、両眼を閉じている。半覚半睡という状況だった。睫毛が長かった。以後、
目を開いている画像は、ひとつもない。「眠れる美女」たちは、いつもそうだった。ビルと
の比較で、身長は17メートルぐらいだと分かる。

 しかし、そのプロポーションから、ビルの内部で立ち上がっているのではないだろう。
両膝をついて、座り込んでいるような姿勢を取っているようだった。体重で地下室までぶ
ち抜いているのだろう。

 破裂するような、女の乳肉の圧迫に耐え切れなくなったビルの壁面が、内部から卵の殻
のように裂けて砕けていった。破壊されたビルの瓦礫が、砲弾のように路上に飛んできた。
ビルの内部にいた人間も、ディスクも、椅子も、ロッカーも、パソコンも、観葉植物の鉢
も、何もかもが雨あられと飛んできた。撮影者の近くの道路にも落下していた。「やばい!」
という声がしている。

ジャケットの胸元に、背広の男が張りついている。人形のようにしか見えない。三階で
お笑いタレントと打合せをしていたマネージャーは、床をつき破ってきた、井藤美咲の黒
髪の頭部を見ている。そのまま、ぐんぐんと水色のジャケットの胸が膨張していった。彼
女の顔は、三階の天井をつき破って、四階に出ようとしていた。椅子に座った彼を、パソ
コンを乗せた机と一緒に、窓際まで運んでいった。肉の大津波に飲みこまれたようなもの
だった。抵抗は不可能だった。

気がついた時には、割れたビルの壁面の外にいた。胸元には、バロックの淡水パールの
ネックレスがあった。彼は、その命綱となるはずだった金色のチェーンに手を伸ばしてい
た。しかし、胸が揺れた。弾き飛ばされていた。力尽きていた。ジャケットの水色の斜面
を滑って、道路に転落していった。

次の画面は、イタリア製の『ピエール・モントゥー』のゴールドのパンティストッキン
グの長い長い脚に、黒革のハイヒールを履いた足が、路上に無断駐車している黒い外車の
ベンツを、踏み潰しているところだった。ヒールも、イタリアのディオン社の製品だった。
ヒールが、車の屋根に突き刺さっている。踵に、ディオンのエンブレム・バーが刻印され
ている。このヒールが、本杉眞綾を振ったデザイナーの男を、脳天から串刺しにして、さ
らに彼女の靴の巨大な重量によって車体をプレス機にかけることで、鉄製の棺までを即製
で作成していたことが分かるは、だいぶ後になってからのことである。歩道で、黒い背広
に白い手袋の男が、両腕を怒ったように振り上げている。車の運転手である。

 ここで黒いヒールは、そのまま道路までも、ぶちぬいている。地下道を踏み潰していた。
彼女が、眠りながら立ち上がろうとしている。そのせいで、足を取られている。ヒールが
脱げたのだ。そのままの形で、残されていた。通常、「眠れる美女」たちは、服や靴と一緒
に、同じ比率で巨大化する。しかし、それは、肌に密着している場合と言うことに限るよ
うだ。

この黒いヒールは、現場に残されていた。全長は5メートル以上に達していた。総重量
は5トンである。内部は、まばゆいような金色だった。35と2分の1という数字が読め
る。巨大化の過程を、分析するための第1級の資料として、自衛隊によって押収されてい
る。現在は、根利馬の第一師団司令部第一普通科連隊の敷地に保管されている。

このときの井藤美咲は、まだ二十倍ぐらいに過ぎない。身長は、35メートルぐらいだ
ろうか?巨大化は、それで止らなかった。そのまま、よろよろと安国通りを横断している。
頭痛がしているのだろうか?頭部を両手で挟んでいる。こめかみを押えている。美しい顔
が苦痛に歪んでいた。

無意識に足元のビルを、足で磨り潰していった。ずしーん。ずしーん。一歩ごとに、直
下型の大地震のような、激越な振動が発生していた。通行人が、足元を救われていた。立
って居られなかった。コンクリートの道に転倒していた。周辺のビルの内部も、大被害に
あっている。井藤美咲の巨大化は、進行していた。この時に、東京上空には、低気圧があ
って夜更けからは雨と言う天気予報がなされていた。それが消滅している。「眠れる美女」
が、その巨大化に必要とされるエネルギーを、地球自体の気象から得ているらしいことは、
まだ、この時点では、誰にもわかっていなかった。

自動車は、我先に異様な女巨人から逃げようとしている。振動で、タイヤを取られてい
る。運転不能に陥っているようだ。互いに衝突もしている。クラクションと怒声が、混じ
って聞えている。ラベンダーの香水に染められた空気に、ガソリンの異臭が混じった。

2・

井藤美咲という巨大怪獣の襲撃に、ホワイトデーのために、新宿に集ってきた若い男女
の大群衆は、パニック状態に陥っていた。電車で、恐怖の現場から逃げることを考えた群
集は、新宿駅に殺到していた。自動車が舗道から道路に溢れた通行人を、跳ね飛ばしてい
た。倒れていた。その頭上に、井藤美咲のゴールドのストッキングに包まれた、25メー
トルの足の裏があった。すでに無数の人間の血に、赤く染まっている。ずずーん。踏み潰
していった。待ち合わせ場所として有名なスタジオ・アッタをも磨り潰していく。

足は周囲に、30メートルを越える孔を道路に穿っていた。身長は100メートルを越
えようとしていた。都会のコンクリートの覆われた地面は、市民には堅固が永久不変の存
在のように思える。しかし、それは人間が大地に施した薄化粧に過ぎない。直径50メー
トルに渡って、無数の罅割れが発生していた。通行人を飲みこんでいった。


彼女の一歩ごとに、地面の割れ目は形を変えていく。人間たちを飲みこんでいった。同
時に地下街も破壊されていた。火事が発生しているらしかった。排気口から煙が立ち昇っ
ていた。悪夢から覚めようとして歩み続ける彼女には、薄氷(うすらい)をはった、沼の
ように感じられているかもしれない。氷は彼女の足の下で、はりはりと割れていった。中
には、泥のように柔らかい土があった。無数の虫のようなものを踏み潰していた。

井藤美咲は、ホワイトデーのためのカラフルなイルミネーションで装飾された東口の
『My Depart』を特撮の模型のように簡単に崩していた。JRの新宿駅に侵入していく。
身体のバランスが、取れなくなっているようだ。ずず〜ん。ずず〜ん。地響きが起ってい
る。一歩の衝撃ごとに、人々は足を掬われていた。道路に倒れ込んでいた。ビルの壁面の
ガラスに罅が入る。割れて落下していく。人間が切断されていく。血まみれになっていく。

彼女の足が、鉄道の架線を切断していく。高圧電流が流れている。電線に、青い火花が
散っている。ホームに停車中の車輌に、ストッキングに包まれた爪先が、触れていた。ち
ょうど午後六時を回ったばかりで、帰宅時間にも当っていた。

ホワイトデーを迎えて、幸福でもあり不幸でもある乗客で満杯の、緑の帯の車輌が、蹴
飛ばされていた。山手線だろう。ストッキングの爪先の縫目に、車体の一部が、ひっかか
っていた。持ち上げられたのである。宙で回転していた。軽量ステンレス製の車輌である。
デジタルATC対応のE231系の500番台だった。6扉車2両を組みこんだ、6MS
Tの11輌である。それが、宙を飛んでいた。

扉が開いた。乗客が雨あられと、地上に転落しているのが見える。ホームでは、大群集
がパニックを起している。そのまま西口の小田八デパートのビルの向こうに、電車が墜落
している。爆発音が発生していた。

 彼女の方は、新宿駅をまたぎ越えていた。数歩で横断していた。上空には、アコーデ
ィオンのプリーツ・スカートが、翻っていく。柔らかいシフォン素材である。裾に向かっ
て自然に広がる素材が、内部に大量の空気を貯蔵していた。水色の雲のようだ。彼女のス
カートの天蓋が地上に投げかけている影で、つかのまの恐怖の夜が訪れていた。

数人の幸運な者のみが、二本の肌色の巨鯨のような太腿の合体した部分に、水色のシル
クの下着が、輝く光景を目撃していた。股間に直径一メートル大の青い染みができていた。
しかし、プリーツ・スカートのシフォン生地の内部に巻きこまれて、二本の巨大な足に掻
き乱された空気に、局地的な竜巻が発生していた。人間が、強風に飛ばされていた。

ごおおおお〜ん。

ジェット旅客機が、上空を通過しているような轟音がしている。地上にいた人間は、両
手を耳にあてていた。生存者の話では、しばらくの間は鼓膜がしびれて、何も聞えない状
態になっていたという。実際は、彼女の口元から零れた、「ああん」というような呟やき声
に過ぎなかったらしい。巨大化した声帯が、重低音を含む振動波を発生させていた。

西口の小田八デパートとOK百貨店の二つの建物をウエハスでできている物体であるか
のように、イタリア製の『ピエール・モントゥー』のゴールドのストッキングに包まれた
両足で粉々にしていた。

数歩で西口の高層ビル街に侵入していた。彼女の身長は、それとの比較によって、もう
170メートルの最大値に達していることがわかる。ビルの向こうに巨体の一部が見えて
いる写真が撮影されている。

東京都庁である第一本庁舎に、倒れ掛っていた。ホワイトデーの恋人にするような熱烈
な抱擁だった。しかし、薄いビルの骨格では、井藤美咲の数十万トンという膨大な愛情と
体重を、支えきれない。世界は、井藤美咲にとって単に小さくなっただけではなかった。
脆くもなっていた。無理も無い。10センチメートル厚のコンクリートの壁でも、百倍の
サイズになった彼女にとっては、百分の一の薄さに過ぎなくなっている。僅か1ミリメー
トルの卵の殻のように脆い材料でしかなかった。

水色のジャケットの巨乳の胸が、ビルをつき破っていた。二つに折れていた。彼女は、
都庁舎のビルと一緒に轟音を立てて倒れ込んでいた。この転倒のときのショックで、他の
すべての高層ビルのガラスにも壁面にも、罅が入っている。倒壊寸前の状態になっていた。
人間が使用するには、危険すぎた。大火災が発生していた。新宿とは山手線で反対の秋葉
原にいた俺も、この時のパニックに巻きこまれた。腹宿にいた恋人の本杉眞綾とは、その
晩は会うこともできなかった。携帯電話も完全に不通だった。

 「眠れる美女」の存在の足元で、人間の街はあまりにも無力だった。その日には、新宿
区だけで3万人以上の同胞が死傷している。今でも、六千名以上が、行方不明になってい
る。瓦礫か井藤美咲の巨体の下敷になっている。新宿駅周辺は、火災で黒焦げになってい
る。荒廃したままである。死臭の漂う街になっている。自衛隊の災害救助活動も、限界に
達している。



災害の発生から三日後の3月17日になって、ようやく光州街道方面から、西口の現場
に接近できる道路が開通した。自衛隊のトラッククレーンとともに、災害救助活動に参加
した。どこから手をつければよいのか?それすらも、分からない状況だった。身にしみて
分かっている。まさに大怪獣ゴジラが、暴れた後だった。新宿の街と市民は、大怪獣の暴
虐に蹂躙されたのである。財産と生命を、奪われていた。

ただ「眠れる美女」のみは、すべての小人の人間どもの騒ぎをよそに、安らかな眠りに
ついている。赤い口紅を塗った唇を薄く開いている。何度目かの寝返りで、新宿中央公園
に安住の地を見いだしていた。公園と高層ビル街の間は、90メートルの巨大なヒップの
圧力で、きれいな平らな土地に整地されていた。都市の再開発のためには、好適の状態に
なっている。東京という都市への、彼女なりのホワイトデーのビッグなプレゼントだった
かもしれない。

片方の足には、ディオンの黒いヒールを、以前として履いたままだ。井藤美咲の重低音
のいびきは、10キロ四方に轟いている。都民の安眠を奪っていた。ヘリコプターで上空
から見下ろしていると、井藤美咲の輝くような美貌に、全く変化はなかった。戸外で、風
雨をまともに受けている。それなのに、相対的には薄いはずの顔のメイクさえも落ちてい
ない。学者によっては、皮膚の上に不可知のエネルギーのフィールドのようなものがあっ
て、彼女を無傷に保守しているのではないかと考える者もいた。人間の観測機では、探知
できなかったけれども。

3・

以上が「眠れる美女」の惹き起したホワイトデーの大災害の、ほんの1名のみの断片的
な報告である。彼女たちは、都心だけで、あと4匹、いや4名も出現したのだった。首都
としての機能は、破壊されていた。政治と経済活動の中枢は、比較的に被害が軽微な茨城
県の筑波研究学園都市に移転していた。

全国には、映画の撮影中に巨大化した14歳のブルマの女子中学生の新人俳優から、2
6歳の大卒の女性アナウンサーまで、五十名以上の「眠れる美女」が出現していた。物資
の流通も滞っていた。鉄道と道路が、各地で寸断されていた。情報も、電話線の切断によ
って停滞していた。ちょうど、五十箇所以上で大地震が発生したようなものだった。

生活は、混乱の極みにあった。各地で、生活に採点限度に必要な物資の不足のために、
高齢者や子供を中心として、多数の死者が発生していた。日本政府の災害対応能力を超え
ようとしていた。自衛隊としても同様な状況だった。

一つだけ、分かったことがある。巨大化した女性たちは、人気モデル、グラビア・アイ
ドル、女優、女性アナウンサーのように、いずれもテレビに出演していた。全員が、メデ
ィアに露出されていた。男性は、一人もいない。あの黄金の円盤に乗っているものが、今
回の事件の真犯人だとして、彼らは、「眠れる美女」に変身させる女性を、たとえばテレビ
電波を傍受することで選択のための情報源としているのだ。これは、日本ばかりではなく
て、全世界に共通していた。

女性のテレビ出演が、国会決議で制限された。男女平等や、雇用の機会均等の権利への
侵害であるという意見も、女性議員の一部にあった。が、国家的な危機への対処という一
時的な緊急避難的な措置であるということで、可決していた。
 


 俺は、馬鹿(ましか)建設の下請の会社で、トラッククレーンの捜査員をしている。も
ともとクレーンは、陸上自衛隊の装備の中にある。施設科に配備されているものだ。しか
し、足らないのだ。民間企業の協力が、必要だった。

今回の俺は、地元の馬鹿建設から、機械の『ゴールデン・アーム』ともども、出向とい
うような扱いになっていた。民間人である。自衛隊も、今回の事件で人材も機材も不足し
ているのだ。なにせ東京都だけでも、新宿を始めとして、渋谷、六本木、汐留、国立と五
人の「眠れる美女」たちがいる。東部方面隊も手一杯なのだろう。

 日本で60人目と言う、記念すべき「眠れる美女」になった星野亜紀嬢の世話は、俺達
に任されていた。光栄である。努力するつもりだった。実は、昔から彼女の隠れファンな
のである。宇宙人の審美眼に共感していた。

トラッククレーンは、運転席と操作室が同じである。作業時に乗り換える必要がない。
主に災害派遣にも活躍するが、築城作業にも使用される。橋や道路の建設。渡河作戦。も
ちろん一般的な道路、橋、ダムなどのインフラの建設・維持と用途は広い。自衛隊も創設
の初期には、「土木工事等々の受託」という形で、民間企業との頻繁な協力活動がなされて
いたようである。

俺が運転しているのは、加藤重機の最新鋭機の『ゴールデン・アーム』だった。クレー
ンの最大釣り上げ能力は20tである。ブームは四段式の最大の長さで30メートルにな
る。


民間では、ラフテレーン・クレーンとも呼ばれる。建築業界でトラッククレーンと呼ぶ
場合には、運転席と操作室が別のものになっている。自衛隊とは、そこが違う点だ。トラ
ックのフレームの上に、操作室を含むクレーンの機構を架設したものと考えてもらえばよ
い。代表的なメーカー名から、ユニークと呼ばれることも多い。

 *

 茨城県の東岸にある、馬鹿臨海工業地帯に入った。片側4車線の道路は、厚いコンクリ
ートである。彼女から、これだけの距離を置いて眺めると砂浜に横たわって、日光浴を楽
しみながらまどろんでいる、黒いビキニの美女としか見えない。


しかし、その印象は、彼女の手前にある小さな影が、馬鹿(ましか)臨海工業地帯の工
場群であると言うことが分かってくると、大きく変化せざるをえない。たとえば、そのバ
ストは、すぐ前の5メートルの球形のガソリンタンクと、ほぼ同じ直径があった。怪獣の
ような大きさが、分かってくる。彼女の身長は、170メートル近くにまで達している。
正しくは167メートルだったと思う。

ビキニは、ブラジル製だった。さすがにビキニ大国である。特にヒップの部分が、セク
シーなまでに布の面積が小さめだった。星野亜紀の88メートルのキュートなヒップを顕
わにしていた。

彼女。本名は、星野亜紀という。有名なグラビア・アイドルだった。三十歳まで現役と
言うのは珍しい。その童顔と巨乳のためである。最近は、さすがに肉が落ちた。薄い胸元
に骨が浮いて見えるのが、痛々しい時がある。

しかし、25歳の俺には、今でも永遠のアイドルだった。若い頃から、何度もお世話に
なった。俺を男にしてくれたのは、彼女だと思っている。

忘れもしない。中学一年生の十三歳の夏。最初に意識的なオナニーをした。オカズにし
たのは、芳紀18歳、乙女盛りの星野亜紀の写真集だった。長いこと、俺のベッドの下や
机の底の宝物だった。高校、大学と、それなりに恋愛もしてきた。本当の女の味も知った。
だからといって、俺自身の初めての女だという栄誉は、彼女のものだ。恩義を忘れたこと
はない。だから、今、宇宙人のいたずらで、窮地に陥っている彼女を助ける白馬の王子様
の役割は、俺にしか勤められないものだ。

俺は、愛機の『ゴールデン・アーム』号で工業地帯の無人の道路を疾駆していた。四方
は、大きなガラス窓である。前方の直接視界が、すこぶるいい。ドライバーシートは、1
6段階のリクライニングになっている。シートも8段階にスライドする。運転手の好みの
ドライヴィング・ポジションに、フル・アジャストしてくれる。サスペンションは衝撃を
完璧に吸収してくれていた。

バリケードがあった。鉄の刺を、茨のように無数に鉄の蔓から生やしていた。工場の敷
地に駐車させていた。この工場の下請の孫受けが、現在の本当の勤務場所だった。自衛隊
の監視がついていた。民間人は「眠れる美女」から半径5キロメートル以内は、原則とし
て立入り禁止となる。

国道のコンビニで買ってきたおにぎりと、烏龍茶で腹ごしらえをした。コンビニだけは、
企業努力で各地に物資を運搬していた。日本人の活力の源泉だった。上の日本政府は頼り
なくても、草の根の一般大衆の苦闘が、この国を支えている。今までもそうだったし、こ
れからもそうなのだろう。駐屯地のPXで缶メシ(缶詰の食事)や温食(暖かい食事)の
配給もあったが、同じ味に飽きが来ていた。親方日の丸になると工夫をしなくなるのだ。

夢を見た。「眠れる美女」は、世界的に多発している現象である。十代の後半から、二
十代後半の女性。しかも、極めつけの美女にだけ発生する。身体が巨大化するのだ。瞬時
に百倍に達する。爆発的な成長だった。

直前に、必ず黄金の空飛ぶ円盤が目撃される。恥かしいほどに、忠実なアダムスキー型
だった。そのために、どうやら好色な宇宙人の「いたずら」らしいというのが、人類の統
一見解だった。確かに周辺には、大惨事を巻き起こす。時と所を選ばない。飛行機や船舶
の中で、女性客が巨人になる。爆発炎上。沈没して行方不明。事故が後を立たない。

イギリスのあるスタジアムでは、フィギュア・スケートの世界大会があった。巨大化す
る女性スケーターの90メートルの筋肉質のヒップの真下になっていた。数万人の観客が、
一度に命を落した。4回転ジャンプに失敗した状態で、失神した。そのまま、観客席に倒
れ込んでいったのだった。

対処法がなかった。現在では、文明国のほとんどでテレビに出演したことがある15歳
以上、25歳以下の女性は、外出禁止令が出ている。美人だけで良いと言う意見はあった
が、その線引きをどこでするかが極めて難しい問題だった。現在では、一応、対象の年齢
にある者の全員である。違反するものは射殺される。

なぜ、どのように巨大化させるのかも、本当の所は分かっていない。台風などの気象エ
ネルギーを、使用しているのではないかとは、想像されていた。未確認情報だが、巨大ハ
リケーンの力を吸収した、身長1000メートルの黒人の「眠れる美女」が、キューバに
はいるという話だった。

短小物語集
星の秋(前編) 了