エンパイア・シリーズ
セカンド・オーナー


21・
 ダレン=グラムは、両脚を大きく開いて、司令本部の床の上に仁王立ちになっていまし
た。この危機的状況から逃亡しようとする「烏合の衆」となった群衆と、セキュリティ・
ガードとしての残された責任の間で、板挟みになっていたのです。額に汗が、玉になって
流れ落ちていました。鬼のダレンが、敗北を認めざるをえなかったのです。いったい、こ
のような途方も無い攻撃に対抗するような、如何なるすべがあるというのでしょうか?


 大多数の群衆が、すでに拉致されてしまったことは事実でした。ここで再び、残った人
間達に組織だった行動をさせようと試みるのは、沈没しようとする「タイタニック号」に
警官隊が乗り込んで、治安を回復しようとするのと同じような無益な行為でした。

 彼は、ただ最新の報告が入ってくるまで、辛抱強く待機していただけのことでした。

「ポジション1、配置についた」

 男は、肺の中の空気のすべてを使って、精一杯の大きな声を上げて、叫んでいるようで
した。しかし、外部の破壊と強風が、交信をほとんど不可能な状況にしていました。ハリ
ケーンの渦中で報告をしているような、ビュウビュウと吹き荒ぶ風音がしていました。空
気はひどく蒸し熱く、生臭くなっていました。人間の口の中の匂いがしていました。机の
上の書類まで、唾の臭いのする湿気に、びっしょりと濡れていました。

「状況を報告せよ!」

 ダレン=グラムの逞しい指は、送信機を指が白くなるまで、固く握り締めていました。
最悪の場合を恐れていたのです。数瞬後。報告の声が、明白に入ってきました。

「こちらポジション1。『スレット1』の姿が、確認できません」

 男は押し黙っていました。ダレンは、未知の殺人者が、どこかから接近してくるような
戦慄を覚えていました。ここには、いかなる生存の可能性も、残されていないような気が
しました。彼の声は、恐怖のためにかすれていました。
「撤退せよ!そこから逃げるんだ!」

 ダレンは、通信機の能力の限界を試そうとするように、声を張り上げていました。彼は
周囲の人々の悲鳴を耳にしていました。

「みんな、鍵のかかる部屋に、逃げ込むんだ。自分の命は、自分で守れ!生き残るんだ!」

 自分の言葉に、嘔吐感を覚えていました。危機的状況の真相を、いながらにして、見抜
いていたのです。いつでも読みは確実な方でした。彼自身が過去に一対一の戦いに負けた
ことは、一度もありませんでした。

「待て!!ポジション1!動くな!!『スレット1』は、俺達の動きを、どこかから監視
しているぞ!!!!」

22・
 チャックとエイプリルは、壁の手摺りを伝って駐車場のビルの階下に降り立っていまし
た。いきなり下の階が、足の下に感じられていました。しかし、床全体が前方に傾斜して
いきました。そのせいで、前のめりの態勢になっていました。重力の方向が、変化してい
ました。彼らも、周囲の人々も、全員がさらに下の階に向かって、コンクリートの斜面を
滑り落ちて行きました。

 チャックは、まだブロンドの小柄な美少女の手を掴んでいました。彼女は、膝頭で床を
滑っていました。摩擦熱で、肌が焼ける痛みに、泣き叫んでいました。彼は、何とかもう
一本の手で、手摺りを捕まえようとして、苦闘していました。

 地上には、絶対にありえないような光景でした。何トンもの何トンもの、コンクリート
を鉄筋で繋ぎ止めた、堅牢な駐車場の建物が、巨人女のよだれの垂れる口元から、垂れ下
っていたのです。左右の眼球の視線は、妙に食い違っていました。正気を保っていないの
は明らかでした。


 チャックは、絶叫していました。巨人族の女の唇が、まるで遊園地のジェット・コース
ターに、よくあるような巨大な怪物の口のように、彼らを待ち構えていたからです。

 ずるずる。

 スパゲッティを食べるように、飲み込まれていきました。

 しかし、この唇は真紅に塗られていましたし、美しいと言ってもよいぐらいでした。(た
だし、人間の身体から流れる血で、巨大な唇の皺の谷間が、赤く溜まっていることをのぞ
いては。)

 暗黒が、全世界に襲来していました。彼女の上下の唇が、彼らの背後で轟音を発しなが
ら閉じていきました。口腔に、吸い込まれていったのです。その間も、エイプリルの啜り
泣きの声が、近くで聞こえていました。彼には、もう彼女を励ますための言葉さえ、あり
ませんでした。

 いきなり震える人間の手が、ジャックの肩に乗せられていました。口の内部のすべての
壁面が、粘着質の液体で覆われていました。無数の人間の身体がありました。生きている
と死んでいるとに関わらず、さまざまな状態と形がありました。

 一人の若者が、いきなり一本の歯と、チャックとエイプリルの脇にあった、金属の階段
との間に、挟まれてしまっていました。彼らのすぐ脇で、彼が悲鳴を上げるのに合わせる
ように、二人も絶叫していました。駐車場の構造材の一部である金属と、二階建の高さの
ある歯の間で、彼の身体がばらばらに破裂していったのです。

 突然、コンクリートの床の固まりが頭上から落下して来ました。その上には、唾液の中
に包まれて藻掻き苦しむ、一団の群衆がいました。

 厚いコンクリートの床自体が、ひび割れていました。大きな裂目が入っていきました。
その間から、唾液が流砂のように、ねっとりと侵入してきたのです。唾液に含まれる、強
力な消化酵素によって溶解していきました。さらに、何個もの残骸に、砕け散っていきま
した。

 全口腔の洞穴が、彼らの周囲から迫ってきました。容積を小さくしていったのです。そ
の間にも、なんとかここから脱出しようとして、群衆達の阿鼻叫喚の悪戦苦闘が、継続さ
れていました。

 いきなり、強力に空気が圧縮されていました。鼓膜は、頭蓋骨の内部の方向に破裂して
いきました。彼らの左右の胸の肺泡も、空気の圧力に耐え切れずに、破裂していきました。
内臓が、口や肛門という全身の穴から噴出していました。他のまだ生きている犠牲者の身
体と同様に、ただ無力に蠢いていました。

 すべての物と人間が、混ぜ合わさっていました。


 ジャニエルの喉という大暗黒の内部に、滝のように落下していきました。

23・
 ジャニエルは、駐車場のビルという口の中でとろける、ウエハースのような物体を、ご
くりと飲み込んでいました。

 その間にも指先は、敏感なクリトリスを、激しく玩んでいました。もう一回。新しいオ
ーガズムがありました。全裸の皮膚の汗腺から、さらにまた、大量の汗が吹き出していま
した。汗のしずくが、『ピース』の内部のスタジアムの中にも、ぼたぼたと滴っていました。
大地を濡らしていました。巨大なクレーターを穿っていました。彼女は、その光景を眺め
ていました。ちょとの間、休憩しようと思いました。

 彼女は以前から、時には一人遊びで、至福の時を過ごしたいという願望を、抱いていま
した。しかしマスターベションのために、一人だけの時間を確保することは、仕事と一人
娘のある家庭の主婦には、とても困難なことなのでした。しかし、今日は、疲れるほどに
十分な時間を、持つことができていました。それに、彼女の生涯でも最高の「大人のオモ
チャ」が手元にあるのです。


 このわずか三十センチメートル四方の正方形の小さな箱の内部を、熱っぽい瞳で見下ろ
していました。もちろん彼女は敵国など、その土地の一センチメートル四方であろうと、
憎みぬいていました。友人も知人も、今回の戦争で、多数が戦死していました。しかし、
今では、彼女の持ち物となった、この場所を使ってオーガズムを得るという遊びに、夢中
になっていました。


 同時に彼女は、彼らを生かしておきたいとも、夢想していました。二つ目の『ピース』
を入手することは、希望者も多く、不可能という決まりでした。それならば、生き残って
いる彼らに、この小さな世界を、再建してもらうのです。そうして生かしておけば、彼女
は、いつでも好きなときに、彼らを食べることさえもできるでしょう。

 彼女は、兄が持っていた『アント・ファーム(蟻農場)』という名前の、子供用の飼育セ
ットのことを、思い出していました。透明なプラスティックの檻の内部で、蟻達に巣を作
らせるのです。たしか彼女が、かなり大人になるまでは、生き残っていました。彼らを、
あの『アント・ファーム』同様にして、飼育し繁殖させることは、できない相談なのでし
ょうか?もし彼らに、きれいな水と十分な餌を与えて、それから、太陽の光も切らさない
ようにしてやれば……。

 スタジアムの全景を見下ろしていました。まだ、コロシアムの本体はきれいに残ってい
ます。その中には、十分な数の男と女がいるはずでした。子供を作ることが可能でしょう。
緑の公園の一角の中央に、三個の黒い点のようなものがありました。それが、ゴミなのか
人間なのかを判別するのは、ほとんど不可能でした。

 しかし、それは動いていましたし、明らかに意志を持って彼女に接近しようとしていま
した。彼女は三つの動いている点を、もっと良く観察しようとして、もう少し顔を近付け
ていきました。注意しなければいけません。鼻の穴からの呼吸の風邪だけでも、吹き飛ば
してしまうでしょう。


 そうです。間違いありません。彼らは、自分たちのサイズとしては、充分に大きな三本
の白旗を振っていました。彼女は彼らのことを、ちょっとびっくりした顔で見下ろしてい
ました。降伏ですって?なんて、意味のないことをしているのでしょうか?まあ、いいで
しょう。彼女は、彼らをすでに支配しているのです。これは、彼らもそれを認めたという、
意思表示に過ぎません。

 でも、どうやって、彼女の方の意志を、彼らに伝えれば良いのでしょうか?ええ、そう
ですとも!あのヒザーのポータサイザーが、やっぱり必要なのです。そうすれば、彼女は
一人を選んで巨大化して、メッセンジャーにすることができるでしょう。

 その可能性について、以前から考えていなかったという訳ではないのです。しかし、彼
女は時間的にも、とても切羽詰まっていた状況なのです。まず、自分の欲望を充足するこ
とから実行したのです。

 そして、今。最初の一歩がなされました。次の段階の計画を実行するべき時でした。彼
女にも、彼らが決して失望させないだろうという見当がついていました。

 ええ、そうですとも……。少なくとも、あのカウチ・ポテト族のつまらない夫よりは、
よほど彼女の生活を豊かにして、楽しませてくれるでしょう。夫は不健康な生活のために、
早漏になっていました。あいつは、彼女を満足させるだけの時間、勃起を継続することす
ら、まれにしかできなかったのですから。

24・
 マーリンは、ヒザーの手首を掴んで、助手席から引き摺り出していました。

「お願い、こんなことしないで。彼女に言うなんて、できない……」

 ヒザーは、泣いて懇願していました。

「君がやったことなんだ!責任を取るのも君だ!」

 マーリンは心底、失望していました。彼も、彼女にポータサイザーを買い与えてしまっ
たことに対して、自責の念にかられていました。それは、便利であると同時に、あまりに
も破壊的な効果をもたらす道具でした。

 マーリンは、鍵のかかっていないドアを開きました。テレサから彼女のママがいると聞
かされていた地下室に、まっすぐに下りていきました。彼の望みは、手遅れになっていな
いようにということだけでした。

 たぶんジャニエルとジャンは、ヒザーの行為を、笑って許してくれることでしょう。す
べては、以前のノーマルな関係に戻ってくれるでしょう?

「ジャニエル。下にいるのかい?」 

 マーリンは、地下室に下りていく階段の途中の踊り場から、あえて大きな声を掛けてい
ました。目の前に閉じられているドアの向こうには、洗濯や裁縫に使用する部屋があるは
ずでした。彼はそれを開こうとして、何度も強くノックしていました。ジャニエルが、ド
アの外に出てきました。顔も服も、ひどく乱れた格好をしていました。

「マーリンじゃない!ヒザーもいるのね?そんなに慌てて、どうしたっていうの?」

「君の口から、彼女に言うんだ!」

 マーリンは小柄な囚人を、ジャニエルの前に突き出すようにしていました。

 ヒザーの両眼は、恐怖のあまり大きく見開かれていました。 

「あ、あのね。……あたしは、ジャンをね。あの、そのう……。その世界に入れたのよ。
ジャニエル、あたし縮小しちゃったの、ジャンをよ」

 彼女は言葉を吐き出すように、早口にそう言いました。ジャニエルは、ぽかんと口を開
いて、しばらくの間、そのままの姿勢で立ち尽くしていました。

 マーリンにも、今言われたことが彼女にとって、どんなに凄まじいショックであるのか
ということが理解できました。

「もし、敵の『ピース』が、まだ残っているのならば、彼を急いで探しださなければなら
ない!」

 言外に、彼はもう生きてはいないかもしれないけれども、それは、君の罪ではないとい
うことを、匂わせていました。

 ジャニエルは、なおしばらくの間は、その場所に凍り付いたようになって、佇んでいま
した。ヒザーは、その様子に心を痛めていました。

「ごめんなさい。本当に本当に、ごめんなさい!」

 彼女の声はしわがれて、老婆のように老けて聞こえました。いつもの、あの派手で権高
な様子のすべてが、吹き飛んでいました。ジャニエルを見つめる目には、涙が溢れていま
した。今の彼女は、本当に一刻も早く、ジャンを取り戻させて、ジャニエルを今までの生
活に戻したいと願っていたのです。自分自身の身体を縮小しても、あの世界にジャンを探
しにいくつもりでした。

 マーリンは、ポータサイザーをズボンのベルトから引き抜いていました。ジャニエルに
差出しました。

「ヒザーは、今回しでかしたことで、厳正な法の裁きを、受けなければならないだろう。
だから、これからは、この機械を君に保管しておいてもらいたい。これがあると、ヒザー
は、また誰かを傷つけかねない。封印のパス=コードは、「188738−8378」だ」

 彼は装置を、ジャニエルに手渡していました。ジャニエルの震える手が、それを取って
いました。

 彼女はコードを打ち込んでいました。しかし、震える指が打ち込んでいるのは、別のコ
ードでした。「2222222−2222」。実行でした。その間も、マーリンはヒザーを
頭ごなしに、どなりつけていました。

「ジャニエルが君を、三十センチメートルの赤ちゃんに縮小して、お尻を折檻しても仕方
がないことをしたんだぞ。そうされないことに、感謝するんだな!」

 どなりつけていました。ジャニエルは、上下の唇を舌で舐めていました。まだ口の唾の
中に、乗用車やトラックの粒が、何台も浸かっているのを感じていました。

「あのね、マーリン?」

 ジャニエルは追われる獣のように、あたりを不安そうな目で見回していました。

「なんだい、ジャニエル?」

 彼は、今回の事件の可哀相な犠牲者であるジャニエルに、できるかぎりの優しい声を掛
けていました。

「ヒザーを、そんな風に叱らないでちょうだい!」

 ジャニエルの指に力がこもっていました。引き金にかかっていました。ヒザーの両足の
靴の爪先の間で、彼が五センチメートルぐらいの虫ぐらいの身体になるまで指先を離しま
せんでした。

 ヒザーの両眼が驚愕のあまり、大きく見開かれていました。

「お願い、殺さないで。お願い!」

「私は、別にあなたを。殺そうなんて。思っちゃいないわ。ただマーリンがあなたを頭ご
なしに叱るのを見ていて、カチンときただけ……」

 彼女は、ヒザーのアーモンドの実のように丸い目を見つめながら、恥じらうような不思
議な笑みを、口元に浮かべていました。

 「ママ?」

 テレサは、地下室での何人もの声を耳にしていたのです。庭にヒザーの車が止まってい
るのも見付けました。地下室への階段を下りてきたのです。ママの姿を見る前に、ヒザー
がダーツの的の赤と黒の丸い板と、子供の頃に遊んでいたオモチャを詰めた箱の脇に、立
っているのを見たのです。
  
 「あら、テレサ!」
 ジャニエルは、地獄の業火に焼かれるような思いで、娘を見ていました。

 「こんにちは、テレサ!」
 ヒザーは、地獄の業火に焼かれるような思いで、姪を見ていました。

 「ヒザー伯母さん。戻ってきてくれたのね!ちょうど良かったわ。私、あの学校の発表
会で使う『ピース』の一片を、うまく持ち運べなかったみたいなの。塵でできているみた
いに、ばらばらになっちゃったわ。今度は、私にもあつかえるぐらいに、もう少し大きく
て、強いものにしてもらえないかしら?」

「ああ……」

 ヒザーはジャニエルの表情を、肩をすくめて伺うようにしていました。

「そうなの?いいわよ。結局、わたしたちみんな、ポータサイザーがないと、いろいろと
うまくいかないのよね!」

 ジャニエルは、娘の顔を見下ろして微笑していました。彼女の表情は、かつてなかった
ほどに明るく、生気に満ちたものになっていました。ジャニエルは、機械一式を少女に手
渡していました。テレサはラウンドリー・ルームに走りこんでいきました。

 まだ畳まれてもいない靴下の間の床の上に、あの『ピース』が置き去りになっている場
所でした。
エンパイア・シリーズ
セカンド・オーナー
21〜24