短小物語集
狐の舌
笛地静恵
 安部道治(あべどうじ)は、山道に人気のないのを確認してから、すぐ脇の獣の踏み分け道に飛び込んでいました。篠谷(しのだに)に降りていく道でした。半ズボンから延びた足を、笹に引っかかれても気にしませんでした。間もなく、葛葉(くずは)が射殺されてしまうのです。

 狐を打つのと、人間の女を打つのとは、明らかに意味が違います。芦屋道満(どうまん)は軍服のカーキ色のズボンの中で、股間を限界まで勃起させていました。窓の外には炎天を告げる真夏の積乱雲が、孕み女の腹のように盛り上がっていました。
 和泉村小学校の芦屋道満校長は、日露戦争の勇者として、村人の尊敬を集めていました。
彼自身は、狐つきなど信じてはいませんでした。まったくの迷信だと思っていました。旧弊で閉鎖的な村でした。その環境の中で虐げられた女たちが、精神に異常をきたすのだろうと考えていました。それを、狐のせいだと思うのであれば、それは村人の勝手です。狩りの獲物として、処理するだけのことでした。
 芦屋は、戦争で人間を打つことの快感を味わってしまった男でした。本土に帰還してからも、人間を打ちたいという秘めた欲望を持っていました。それを解放する絶好の機会でした。
 玄関に、村の世話役の声がしていました。山狩りが始まります。愛用の有坂銃を肩に担いで、おもむろに立ち上がっていました。壁の柱時計の針が、正午をさそうとしていました。十数人の男たちが、三角の山容を持つ御城山(ごじょうさん)への道を登っていきました。暑い日になりそうでした。雲の腹が女陰のような淫らな形に裂けていました。

 小学六年生の阿倍樟葉(あべくずは)は、村でも評判の美少女でした。彼女が、急に学校を休みだしてから、もう三か月以上がすぎていました。
 樟葉の祖父で、和泉村の庄屋職を務める阿部保名(あべやすな)老は、わざわざ東京から偉い陰陽師を呼び寄せたそうです。そんな噂は、同級生の安部道治(あべどうじ)の耳にも入っていました。
 小さな村です。秘密にできることは少なかったのです。みんなが、互いの家の夫婦げんかの始末や、食事の内容まで知っているような場所でした。
 樟葉は、豪勢な護摩を焚いてもらったそうです。残念なことに落とせなかったようです。地下牢に閉じ込められていたのが、今朝になって、逃げ出したそうです。
 今日の午後には、大人たちが総出で山狩りをします。そうなったら、樟葉は殺されてしまうでしょう。猟銃で撃ち殺されてしまうことでしょう。
 芦屋校長は、日露戦争に従軍して勲章をもらってきた勇者でした。鉄砲の名人でもありました。
 毎年、この和泉村では、狐つきになる人が何名か出るのです。ほとんどが、大人の女性でした。子どもは珍しかったのです。樟葉がつかれてしまったのは、大人のような立派な体つきをしていたからなのでしょうか。
 安部道治は、もう一度だけでも、樟葉と顔を合わせて話をしてみたかったのです。篠谷への道を駆け降りていました。木々の梢の向こうにある青い空を見上げていました。白く盛り上がった積乱雲に、樟葉の丸い胸もとを思いだしていました。まだ皮を被っている幼い器官が、半ズボンの中で、むくりと頭をもたげていました。今日は、父も帝都の大学に行っていて不在でした。好都合でした。
 初対面の日の阿倍樟葉は、目つきがちょっとだけ吊り上って怖そうな感じでした。でも、話してみると、明るい性格でした。切れ長の瞳は、利口そうな黒い光を湛えていました。都会からの転校生の道治も、仲間外れにせずに、優しく迎え入れてくれたのでした。
 彼は、鉱物学者の父親とともに、一年前から村に移り住んでいました。軍事機密なのですが、新型爆弾の開発に必要なある鉱石が、帝国ではこの村にだけ出土するということでした。父は、それが充分な質と量あるのかどうかというような調査に入っているのです。長男である道治にだけ話してくれたことでした。校長先生すら知らないことでした。
 樟葉は、村の庄屋様の阿倍家の娘です。一番きれいな都会風の着物を身に着けていました。白いブラウスから、白い下着が透けていました。ブラジャーをつけている女子生徒は、村で彼女だけでした。誰よりも高く、誇らしそうに肌色の蜜柑ぐらいに盛り上がっていました。黒い髪を腰まで長く延ばしていました。近寄ると甘い匂いがしました。
 けれども、樟葉は、他の女の子の誰とも、仲間にならなかったのです。いつもひとりでいました。そのために、女の子たちから妬まれていました。女の子のだれかが、コックリさんのような悪い遊びで、狐を呼び出して、樟葉につけたのではないでしょうか?
 道治は、科学者の父には、それこそが非科学的な迷信だろうと笑われそうですが、本気で疑っていました。和泉村は、狐火が飛ぶなど、都会の常識ではありえない、おかしなことが起きる場所でした。
 樟葉がいそうな村はずれの篠谷(りゅうこだに)に降りて行きました。その突き当りに大きな洞窟があるのです。村の人たちは、雨の夜には青い狐火が飛ぶとして、忌み嫌っていました。決して近寄らない場所でした。
 以前に、父親と玄翁で割った石を標本として集めていました。偶然に発見したのです。鍾乳洞のように乳白色の襞襞のある岩が堆積していました。樟葉と二人だけで、ここに入ったことがあります。隠れるならば、山奥ではなくてあそこだと道治は確信していました。
 阿倍樟葉は、そこにいました。奥の暗闇に座っていました。蝋燭などがなくても、はっきりと姿が見えていました。肌が白く光っているのです。雨雲の中で、月のまわりに暈があるように、ぼんやりと明るい状態でした。その瞳も、二つの青い星のように、闇の中で光を発していました。
 赤い上等な絹の着物の前が、淫らに、はだけていました。おそらく地下牢に閉じ込められていたという時のままの服装なのでしょう。紺色の帯も緩んでいます。
 狐がついているからでしょうか?樟葉は、さらに一回り大きくなったように見えました。全身に、まろやかな肉が付いたような気がします。少女は、大人の女の人のような体に変身していました。あの胸の二つの肉のふくらみも夏蜜柑ぐらいにまで、柔らかくふくらんでいました。
 頭髪も、わずか半月の間に、黒く長く延びていました。腰までであったのが、赤い着物の裾から出た青白い足首にまでも、髪の房が絡み付いています。もしかすると背丈よりも長くなっているのかもしれません。
 樟葉は、最初は警戒している様子でした。黒い毛髪を、指先で何度も梳いていました。何か不安があるときの樟葉の癖でした。しかし、道治であることがわかると、ようやく心を許したようでした。
 「こっちへいらっしゃい。道治ちゃんならば、かまわないから」
 手の指を開かないで、手の甲を、こくり動かしていました。狐の前足の動きと、そっくりでした。道治の背筋に、ぞくりと悪寒が走りました。行ってはいけない。そう思いました。科学者の父親は、狐つきなどありえない、ヒステリーか精神の異常だといいます。しかし、和泉村では、本当にあるのです。
 現に、彼の運動靴の両足は、意志に反して、樟葉のいる方に、右、左、右、左と動いているではありませんか。
 洞窟の空気には、動物の塒のような生臭い匂いが重くこもっていました。その原因は、樟葉だったのです。脇の下から、つんとするような汗の匂いが漂っていました。洞窟の空気を濃密に染めていました。しばらくの間は、樟葉の脇の石の上に、並んで座っていました。
 美しい赤い着物の前が、はだけていました。西瓜ぐらいに膨らんだ胸もとが、覗いていました。さっきちらりと覗いた時よりも、大きくなっているような気がします。呼吸のたびに、ゆったりと起伏していました。柔らかな谷間ができています。
 真珠のような汗の滴の玉が、さらに腹の深い方へ、ゆっくりと長い時間をかけて流れ落ちていきました。その奥に黒い茂みがちらりと見えました。道治は、そこから目を逸らすことができなくなっていました。母親以外のそれを見たことがなかったのです。
 「道治君は、さっきから、何を見ているの?」「え、なにも!」顔を上げると、樟葉の大きな笑顔がありました。口が耳元まで大きく裂けています。
 「ウソ。あたしの、おっぱいを見ていたんでしょ?」樟葉は、くすくすと笑っていました。目が糸のように細くなっています。乳房がたぷたぷと揺れていました。「ずるいわ、あたし、ばっかり。あなたのも、見せて」樟葉の白い手が、道治の股間に、すうっと延びてきました。
 半ズボンのバンドが外れて、チャックを下ろされていました。白い木綿のパンツの前に、長い指を入れられていました。摘まんで取り出されていました。彼のそれも、大人のように大きかったのです。皮もむけています。ピンク色のキノコのように、闇に輝いていました。「おいしそう」樟葉が、ずるりと唾を飲み込んだ音がしました。そのまま、大きな口に根元まで、とぷりと銜え込まれていました。逃げ出そうと思いましたが、手足が痺れて声が出ません。道治の腹の上で、汗の香のする黒髪の頭部が、激しく上下していました。
 *
 芦屋道満たち、山狩りの一行は、不思議な森に迷い込んでいました。桃色の靄が、辺りに立ち込めています。黒い木々の幹が、大きく曲がっています。迷宮のような場所でした。いくら歩いても、抜け出ることができなかったのです。霧が晴れていきました。
 上空には、逆三角形の黒い影がありました。御城山ぐらいの大きさがありました。その上には、積乱雲よりも高く全裸の女体が聳えていました。頭上には、黒髪が黒雲のように渦巻いていました。視界のすべてが、白い女体に占領されていました。
 狐にたぶらかされているのでしょう。空中に向けて無意味に発砲するものもいました。
 道は深い谷間に入り込んでいました。軍靴の足元が、温かい湯に濡れています。天空から桃色の胴体の竜のような物体が飛来していました。谷間にずぶりと深く突き刺さったのです。塔のような直径がありました。大地が衝撃で鳴動していました。黒い森が震えていました。雪崩が起こったようです。沼のような水音が溢れて激しく轟いていました。
 一斉に発砲していました。しかし、銃弾のすべてが、跳ね返されていました。洞窟の奥に逃げ込んでいました。龍は、前後に動き続けています。白濁した鉄砲水が押し寄せてきました。熱くねっとりしています。芦屋も村の男たちと一緒に、それにまかれていました。
 *
 道治は、生まれて初めての射精を経験していました。濡れた肉棒を割れ目から抜き出していました。赤い血に染まっていました。先端部から白い精液が、なおもぼとぼとと滲んで垂れていました。樟葉の薄い舌が、すべてをうまそうに舐めとっていました。
 
 【作者ノート】もう一つ。ワークショップでの産物。12枚。お題は「きつね」。ちなみに「竹の家」の方は、「千年」。字数制限があることで生じる、飛躍と省略。クロッキーの快感に近いのかな。癖になります。笛地静恵