短小物語集
娘の乳
笛地静恵
 今でも、たまに白昼夢を見ることがある。彼女は、グリルドリグになっている。
 大きな白い肉の山に乗せられている。左胸の上である。
 巨大な心臓が、足元で規則正しく拍動している。柔らかい。呼吸のたびに上下に波打っている。立っているのも、容易ではない。心臓の振動を、直接に肌に感じている。
 乳首だけで、葡萄の粒ぐらいの大きさがある。それを口にいれてしゃぶる。固い皮に歯を立てる。時には全体重を乗せて、それを柔らかい乳房の内部に、押し込むようにする。彼女は、身を震わせて喜んでいる。呼吸が荒い。
 足の方向には、幼女らしい球形の白い腹部がある。あの上に乗せられて、飛び跳ねることもある。
 彼の体重ぐらいは、強靭に跳ね返した。臍の穴に足の爪先が入って、挫きそうになったことがある。あの時は、笑いが止まらなくなったものだ。
 その向こうには、洗濯を重ねて、吐きつぶした木綿のような生地の、臍まで隠れるぐらいの大きく手深い下着を履いた。
 父がいつ帰って来るかもしれないという緊迫感も、少女の性感を高める香辛料となっている。
 彼女は、月のものも始まっていなかった。青く未熟な固い果実に過ぎなかった。それでも、女の肉体が味わうことになる、恍惚の予兆ぐらいは覚えていた。
 九歳のころから、おませなところがあった。宮廷の女官たちとの付き合いで、さらに耳学問を深めていった。
 あのころは、まだ純真だった。
 初潮を見たのは、家庭教師に犯罪者の公開処刑を見せに連れ出された、直後のことだった。血液が、首の断面から噴水のように吹き出した。刺激が、強すぎたのかもしれない。高熱を出して寝込むのと同時に、腹痛があって、あれが来た。
 グラムダルクリッチは、白日の下で我に帰った。自分の手で大きく膨らんだ乳房を、揉み解している。口で荒い息をしていた。
 海の透明な波が、足の桜色の指の爪先の股に戯れている。遠浅の入江だ。まもなく十九歳になる。彼に会ったのは、十年も前のことになる。 
 端正な顔だちの美少女は、遠くの水平線にまなざしを向けた。ようやく瞳の焦点が定まってきた。昨夜は海が荒れた。流木などが、海岸に流れ着いている。また、来てしまった。嵐の翌日は、いつもそうする習慣だった。
 内陸の山並みの彼方に、雨風をもたらした黒雲の影が見える。背後の麦畑の表面を海からの風が渡って、順々に穂を揺らしていく。
 農場主だった父が、麦畑で彼を発見したのだ。彼を女王様に売って大金を得たが、自分は『緑鷲座』で酒を飲み過ぎて亡くなった。自業自得だと思う。悲しくもなかった。今では、一つ年上で、いたずら小僧であった兄も、農場で働いている。
 膝の上の小さな木の箱を見下ろした。
 手先の器用な母と彼のために、二人で造ったものだ。手に入る限りで、一番柔らかい布を、内側に張りつめた。底には、綿入れの刺し子を敷いた。寝台は、彼女の人形遊びの道具をそのまま使った。これに彼を入れて、王都までの巡業の旅をしたのだった。
 酒を入れた指ぬき。槍の代わりにした、麦わらが一本、干からびている。彼のために造ったシャツと肌着も、ボロボロになってはいるが、かろうじて数枚が、形を保っている。言葉を教えた、子供用の小さな絵本も入ったままだ。
 スプラックナックほどの大きさしかなかった。
 少女は片手を持ち上げてみた。お椀型にしてみた。この手のひらに乗るぐらいだったのだ。それから、ふくよかな胸もとを抑えた。彼は《小さな乳母さん》と呼んでくれた。敏感な器官が、彼の存在を覚えている。ため息をついた。
 彼は船が難破して、このブロブディングナグ国に漂着したのだ。麦畑に迷い込んだところを父に見つかった。友人の助言もあって、見世物にして、金を儲けることを思いついた。世話係として、彼女も旅の同行を許された。
 グリルドリグという名前を付けた。チビと言う意味である。
 旅から旅の興業。首都ローブラルグラッドを目指した。
 演目の次第はこうだ。この国の言葉で、彼女が教えた通りの口上を述べる。短剣と、彼女が渡した麦わらで槍の演武をした。一番後ろの者にも見えるように、動作を大きくしなければならない。父にそう命令されている。道化師のような派手な衣装は、目立つ色にしろと言う父の注文だった。最後に、彼女の裁縫用の指ぬきに入れた酒で、観客の健康と長寿を祈って乾杯する。それを一日に、十二回もやらされた。小さな彼にとっては、過酷な労働だった。
 口から口へと噂が伝わる。人気が出てくるにつれて、客の数も徐々に増えていった。会場は、老若男女の巨人たちでいっぱいになった。自尊心が高く聡明な彼には、小人として見世物にされるということだけでも、屈辱的な日々だったことだろう。
 しかし、彼女には、夢のように楽しい日々でもあった。
 父親は、その日の公演を終わると、宿にしている場所から、一番近い酒場に出かけて行き、深酒をする習慣だった。
 だから、宿の部屋に帰ってくれば、グリルドリグと二人だけの時間を、しばらくは過ごせることになる。
 汗だくの彼の身体から、自分で縫った衣服をすべて脱がせる。脱衣を一度見ただけで、すぐにできるようになった。彼女に全裸を見られることにも慣れたようだ。なついてくれている。嬉しかった。
 沸かした湯を、真鍮の洗面器のなかに入れる。指で温度を確かめる。透明な湯をためる。彼には、沼ぐらいの広さがあることだろう。
 その中に入れる。彼の口から、笛のような高い声が漏れる。気持ちが良いのだろう。
 指先で、すみずみまで洗ってやった。傷んだ筋肉を揉み解してやった。
 両足の間にも、指が入った。彼が力いっぱい閉じていても、彼女の指の力で簡単に開けることができる。抵抗を問題にしなかった。ついには素直に従った。無理をすると、筋や腱を痛めるだけなのがわかったようだ。
 その日の汚れや、煙草の煙の臭いを、きれいに洗い落とした。髪を洗う時には、優しく声もかけた。彼の肌は、三歳の幼児よりも肌理が細かかった。触っていても、すべすべして気持ちが良かった。
 彼女にとって、二人きりになれる貴重な時間だった。身を委ねてくれている。
 彼女の指は、微妙に動いた。最初は、それが、どういう意味を持つのか、全く分からなかった。指先の指紋で、男性の器官を摩擦する。それで、あそこが立ち上がってくる。それが、可愛らしくて、おかしくて、何度も同じようなことを試した。まだ、女の徴も訪れていないころだ。あの行為の意味がわかる今になって、顔が赤くなるのを覚える。
 彼女には、もうひとつの悪癖があった。当時は、一歳になったばかりの弟がいた。母や乳母が、弟におっぱいを飲ませるのを見た。自分もやってみたくて仕方がなかった。その願望を彼で実現したのだった。
 自分も上半身の衣服を脱いで裸になる。母や乳母がしていたのと、見よう見まねで同じようにする。子どもながらに、それなりに膨らんだ充実した右の乳房を、右手に持った。彼を左手に乗せた。
 九歳の当時は太っていた。どこもかしこも、皮膚がはち切れんばかりだった。固太りだった。子どもでも、グイルドリグには、さぞかし巨大な肉体をした女に見えていたことだろう。乳房も、小山のように発達して見えたことだろう。
 乳房を持って、乳首を彼の口元に持っていった。吸わせようと思った。彼は拒まなかった。吸い付いてきた。彼女の意図を読み取り、従順に従っている。あの滑らかな肌で、乳房に抱きついてくる。両手で肉球を抱え込むようにしている。強く抱きついてくる。
 くすぐったかったが、我慢した。そのうちに、体の芯に今までに味わったことのないような感覚があった。ぞくぞくした。気持ちが良かった。これが、母や乳母が好む理由なのだと思った。
 彼にとっても、気持ちが良かったようだ。それ以来、互いに全裸でそうするのを好んだ。
 彼女をグラムダルクリッチ、《小さな乳母さん》と、はっきりと呼ぶようになったのも、このころからである。それなりの揶揄の意味をこめていたのだろう。
 客観的に評価しても、《小さな乳母さん》は、当時の彼の命の恩人だった。
 巨人の国に漂着してから、宮廷に入り王妃様の手厚い庇護を受けるまでの長い困難な期間。それを、なんとか生き延びることができたのは、彼女がいたからだ。
 しかし、グリルドリグは、食欲がなくなっていった。疲労と苛立ちで、痩せ細っていった。日々にやつれていく。彼が心配で泣いた。
 大切にされているのは分かるとしても、所詮は親子に飼われている、奇妙な動物の境遇だった。人間の世界が、恋しくてならなかったのだろう。望郷の念が強かった。
 眠れない日々が続いた。甲高い悲鳴に眠りを妨げられた晩が、何度もあった。小さな乳母が胸に抱いてあげると、わずかでも気持ちが休まるようだった。
 高熱を出して寝込んだ時には、三日三晩、ほとんど寝ないで看病した。
 父は、彼がもう長くはもたないと判断したのだろう。王都につくと、すぐに王妃様に売り渡した。
 グリルドリグが、グラムダルクリッチを、引き続き自分の「世話係兼教育係」としてくれるようにと、王妃様に熱心に推薦してくれたのだった。父親は、娘が宮廷につかえるという名誉を得た幸運に大喜びしていた。一も二もなく賛成した。
 グリルドリグは、彼女が十一歳の時にフランフラスニックの近くの海岸で、行方不明になる。
 あの時は、生理が重かった。まだ始まったばかりで不安定だった。普段は、宮廷から出て外の空気を吸うと、気分が晴れる。しかし、あの日だけは、床から起きられないような状態だった。悔やんでも悔やみきれない。
 世話をしていた小姓は、監督不行き届きの罪で打ち首の刑となった。
 けれども、王妃様は彼女を怒ることをしなかった。それどころか、ともに悲しんでくれた。
 グリルドリグの思い出を共に語れるグラムダルクリッチを慰留した。しかし、彼女自身、彼の思い出が、多く残る宮廷にいることが耐えられなかった。
 十二歳の時に宮廷を辞して、故郷に戻ってきた。
 それから、約七年間が経過した。
 今でも、嵐の後に渚に来るのは、水平線に小さな船の影が、見えないかと思うからである。母親たち家族に、痛ましいという目で見られていても、気にしない。
 ふと小さな影が動いた。砂丘の影である。麦畑の下に入っていったような気がする。スプラックナックかもしれない。しかし、彼女は、おもむろに立ち上がっていた。
 彼の名前を呼んだ。