鏡よ鏡

笛地静恵

1 白い雪の姫

 雪は天の中心からわしの顔をめがけて、ある種の罰のようにあとからあとから降って来る。白い鳥のもがれた羽のようだ。美しい少女の面影を思い出す。肌は雪のように白く、唇は血のように紅く、髪は黒檀のように黒かった。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

 姫は、青々と晴れた雪の朝のように美しかった。彼女の黒檀のように黒い髪の一本は、水晶に封じて、今でも大切に保管してある。書斎に戻って椅子に深く腰を沈めていた。 採光を良くするために、天井までの高い窓がいくつも並んでいる部屋だった。



 その頃のわしは、森の中の番小屋に、七人の仲間とともに暮らしていた。番小屋と言っても、決まった森番がいるわけではない。昔は、それなりに殷賑を極めた鉱山があった。労働者たちの宿舎だった建物のひとつだ。ほとんどは壊されたが、かろうじて残ったものだ。太い樫の木の丸太を組んだ、がっしりとした造りだったという以外に、別の理由もあった。

 寒い冬を乗りきるために、煉瓦の煙突が屋根に四角く立っている。雪の重みに耐えるために黒光りする太い梁が、幾重にも交差した。逞しい胸椎と肋骨と胸骨を持った巨人の胸郭の内部に入っているようだった。中心にある熱い心臓部が、暖炉ということになるだろうか。天井は高かった。夏でも、頂には雪を乗せた山の中麓にあった。すぐ脇を水の透き通った谷川が流れ下っていた。

 ここは悪名高い黒森の際にある土地だ。前の戦争の爆心地の周辺に生じた森だった。地球の傷口を癒そうとする瘡蓋のような森だ。植物も動物も黒く汚れている。谷間の坑道のすぐ向うには、黒森が密生している。七つの山を越える面積を持った広大な森らしい。らしいというのは、わしらの国の人間の足が、これを越えたことは久しくないからだ。昔から、悪いジンの魔法がかかっているといわれた。

 麓の村の者も、ここまでは登ってこなかった。特に霧の夜には危険な場所だった。普通の倍以上はある巨大な獣が出現して、人間を襲う事があったからだ。ジン戦争の時代に生まれた生きものたちである。額に一本の角を生やした馬や、人語を解する熊が人間を襲った。

 黒森の彼方には、巨人の国があるという伝説があった。人間の姿と形も、戦争のために多種多様に変えられてしまった。ただ戦闘の能力を高めるためだけに、より大きくてより力強い人間が造られたという伝説もある。山脈は自然の要害となってくれたが、時に目に見えない通路が開いて、向こうの世界から巨大な人間がやってきてしまう。時間も空間も、あの激しい戦争で、ほころびができてしまった。

 最近も、手傷を負った四本の頭を持った黒い猪が暴走した。村人が何名も串刺しになった。わしらはてっきり成獣だと思ったが、毛並から、まだほんの子供だったことが後に判明した。わしも羽を広げると、人間ほども大きな烏を目撃したことがある。奴は黒い嘴を血に染めて、岩場で黒山羊のはらわたをがつがつと貪っていた。
 
 この土地が、人間が住むことができる世界の果てであるような気が、わしにはした。ここまで流れて来る者には、それなりの理由があった。おそらく人を殺している者さえもまじっていただろう。坑道の作業には、落盤や事故という死の危険がつねにつきまとった。余程の理由がなければ続けられない仕事だ。金を儲けたいという欲望が必須な条件だ。

 貴重な金や銀などの鉱物資源を産出する鉱山だった。坑道の入口は、山の中腹にあった。わしは若かったし、体力には自信があった。ほとんどが屈強で筋肉質の男たちばかりだった。そうでない弱い男は、早々に立ち去るか、亡くなった。毎日、暗い坑道に入って、鉱石を掘り出す。金や銀の入った石を探して選り分ける。ぎりぎりのところで仕事をしたのだった。



 季節は長い冬が終って、ようやくに春に入ろうとしたところだった。軒の氷柱がしずくとなって溶けた。

 わしらは、番小屋の中に人の気配を感じた。それも、甘い汗の匂いから女であると、すぐに分かった。
 
 「女臭い!」
 
 大きな鉤型の鼻をした薬草師が叫んでいた。
 
 男だけの禁欲生活が続いている。欲望が溜まっている。その匂いだけで、わしも器官を痛いほどに変化させた。
 
 犯してやろうと思った。
 
 それぞれの坑道用の照明灯に火をつけた。七つの灯がともった。家の中が瞬時に、ぱっと明るくなった。
 
 わしは、その時の仲間たちの慌てぶりを、いまでも覚えている。女が家の中にいる。しかも、その体臭の甘い濃密さからも一人ではないと思えた。

 室内は整理整頓が行き届いている。何かがちょっと動いただけでも、そうと分かる状態になっているのだ。家を出かけたときのようには、色々の物が元あったところに、ちゃんと置かれていなかった。
 
 親方が、まず口を開いた。今にして思えば、彼もまだ随分と若かったのだ。が、勇気と決断力のある傑物だった。Uの字型の坑道が、浸水で没したことがある。彼は、わしに灯を持たせて、単身、水に飛びこんでいった。水の向こうから薬草師を救出してきた。閉鎖された坑道の悪い空気のために男は気を失っていた。普通ならば、見殺しにされても仕方がない状況だった。あのときに、わしはこの親方ならばついていけると確信したのだ。

 わしらは原則として、鉱山に来る前の娑婆の職業名で、互いを呼び合った。何が、特技であるかがわかっていれば、いろいろと便利だったからだ。本名などは邪魔者だった。互いの過去などは、互いに知りたくもなかった。

 親方は長身で黒く太い一文字だった。涼しく光る大きな黒い瞳をした。顎鬚の濃い美丈夫でもあった。噂では、有名な硝子職人であったらしい。戦争で破壊された大聖堂の着色硝子絵の、再生のための鋳造を手がけた事もあるそうだ。大きな組合の親方だったのだろう。今は、親方とだけ呼ばれた。
 
「誰かが、わしの椅子に腰をおろしたぞ」

 みな大騒ぎとなった。

「だれかが、わしの釣った川鱒を食べたぞ」

「だれか、わしの麺麭をちぎったぞ」

 四人目の薬草師がいった。彼は医師の役目もこなしてくれている。黒森の変異した植物相を研究している学者でもあった。わしと話があった。彼は植物学の、わしは治金学の、大戦後の世界に生き残った乏しい知識を交換しあった。肉体派の多い仲間の中では。貴重な頭脳派だった。が、如何せん鉱夫としては身体が弱かった。色白で、なよやかと形容したいぐらいの肩幅の細い体格だった。炭鉱の仕事で疲れて、居眠りしている時がよくあった。親方の手厚い支援がなければ生きていけなかっただろう。

「だれかが、わしの野菜を食べたぞ」

 五人目の金銀細工師がいった。かく言う、わしのことである。生来の恥しがり屋である。

「だれかが、わしの肉叉を使ったぞ」

 六人目の料理人がいった。料理の腕は優秀だが、使う香辛料の種類によっては、くしゃみが止らなくなることがあった。

「だれかが、わしの小刀でものを切ったぞ」

 七人目がいった。

「だれかが、わしの杯で飲んだぞ」

 それから、親方が家の中を探るようにと命令を下した。剣の名手は、自分の寝床が、くぼんでいるのを見つけた。声をたてて怒った。

「だれかが、わしの寝床に入りこんだぞ」

 他の者達も全員が、自分の寝床に駆けつけて騒ぎ出した。

「わしの寝床にも、だれかが寝たぞ」

 親方は、自分の寝床へ行ってみた。毛布をはいでいた。

 彼が、眠っている巨人の美少女を最初に見つけたのだった。
 
 みんなを呼びよせた。
 
 静かにというように、口元に人差指を立てている。髭面に父親のような温かい微笑が浮んでいた。
 
 何が起ったのか?
 
 わしも駆け寄った。びっくりした。
 
 黒森の近くでは、火を吐く狼や、人間ともつかない異様な姿の巨大な熊などは見かけることがざらにあった。しかし、巨人の、しかも美しい少女というのは、初めての経験だった。

 森で巨人と遭遇する機会が仮にあったとしても、黒森で道に迷ったらしい気の毒な兵士や旅人であることがほとんどだった。 互いに目をそらして通り過ぎた。むこうもこちらを、森で悪さをする妖精か何かのように感じて、避けているようだった。
 
 みんな口々に驚きの声をあげながら、自分の七つの照明灯を手に掲げた。少女の寝顔を明るく照らし出した。空気には、良い匂いがした。

「おや」
「おや」
「おや」
「おや」
「おや」
「おや」
「おや」
「みてごらん」
「なんて、この子は、きれいなんだろう」

 わしらは、口々に叫んでいた。

 全員で襲ってしまおうというような不埒な提案は、誰からもなされなかった。少女が、あまりにも幼かったからだ。そして、清らかに美しかったからだ。

 実際に、わしらのところに来たときの彼女は、七歳の幼女に過ぎなかったのだ。
 
 みんなは、ある種の興奮状態だった。美少女を起さないことにした。寝床の中に、そのままそっと寝かせておく事にした。自分の寝床を占領された親方は、一時間ずつ他の者の寝床を順番に回って寝ることにした。みんなが、眠れずに一夜をあかしたのだった。

 朝になった。美少女は目をさました。わしたち、七人を見て驚いていた。けれども、自分が大変に親切にしてもらった事は、即座にわかったようである。頭の良い子だった。

 寝台から上半身を起した彼女の目線は、床に二本足で直立しているわしらのそれよりも、さらに上にあった。
 
「おまえさんの名前は、なんというのかね?」

 親方が、穏やかに尋ねた。

「わたしの名まえは、白雪姫といいます」

 はっきりとした答え方だった。

「お前は、お姫さまなのかね?」

 これには、さすがの親方も、びっくりしたようだった。 たしかに衣服も装身具も高価なものであることは、明白だった。

「どうして、わしたちの小屋に、はいってきたのかね?」

 わしらが、白雪姫の訥訥と語る話をつなぎ合せると、以下のようになる。
 
 *
 
  美しい娘は、母親の王妃に小さなころから、いじめられたようである。美しさを妬まれたのだ。それに、彼女の話から想像すると、夫婦の関係も上手くいっていなかったらしい。王様は、何人もの宮廷の女性達と浮気をしたのだ。妬みと傲慢が、草原の野火のように宮中に広がっていた。

 白雪姫の話によれば、王妃が大きな姿見の鏡を東方からの旅の商人から手に入れたことが、すべての始まりだった。寝室の壁に置かれた。それが、いけなかったのだ。

 ジン戦争の時代から伝えられた古い道具には、悪い魔法がかけられていることが良くあるのだ。職人ならば、皆が知っていることだった。それを手に入れた直後から、白雪姫の母親は、呪文のような文句を呟くようになった。
 
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人は、だあれ?」

 悪い魔法だ。ジン戦争の前から、人間のすべての知識をおさめた図書館の本を読むことができる鏡は存在した。自分の持ち主を、顔や指紋や声で覚えた。その人のみに答えた。地球上のすべての人間の顔を識別することもできた。鏡は、王妃の声を覚えていたのだろう。「鏡よ、鏡よ、鏡さん」と三度、呼び掛けることが、鏡を眠りから覚ます呪文であったのかもしれない。鏡の中には母親ではない、明らかに死人とわかる青白い女性が、映ったこともあるという。邪悪な意志を持った悪い霊が、入り込んでいたのだ。

「この世で、一番、美しい人は、だあれ?」

 だいたい、この質問がいけない。万人に共通する美人の基準など存在するはずもない。鏡が、言葉巧みに王妃を騙したのだ。女性が心に秘めた、美への欲望の火をかきたてたのだろう。王妃は、邪悪なジンの魔法の虜になった。白雪姫は、本当に恐ろしそうに身を震わせた。王宮の美しい女官たちが、何名も原因不明の悲惨な最期を遂げたようだ。衆目の前で、自分の首をいやいや短剣で切断した者もいた。身体がドロドロに溶けた者もいた。鏡が、ジン戦争の時代の暗殺の道具の作り方や、毒薬の製法を教えたのかもしれない。
 
 ある日、娘の白雪姫も鏡の仕掛けた魔法の餌食となった。狩人に黒森の奥に連れて行かれた。王妃の命を受けた彼に、山刀を小さな胸元につきたてられた。お姫様は、必死に命乞いをした。いつかは自分にも、この日が来ると思い覚悟を決めていたのだ。

「ああ、狩人さん。お願いです。わたしのいのちを助けてください。その代り、もう二度と、お城には帰らないようにしますから」

 狩人も、幼い白雪姫が可哀想になったのだろう。 美しい母は、嫉妬と猜疑心の塊だった。もう、あそこには戻れない。

「じゃあ、はやくお逃げなさい。ほんとうに。かわいそうなお子だ」

 ちょうどそのとき、双頭の猪の子どもが、森の中から飛び出して来た。狩人は、それを殺して肝臓を切り取った。王妃に、姫を殺した証拠とするつもりだった。狩人は、白雪姫が、どうせ黒森の異形の獣に殺されて食われてしまう運命だろうと、判断したのだろう。



 さて、それから、かわいそうな白雪姫は、大きな黒森の中で、ひとりぼっちになってしまったのだ。怖くたまらなかった。いろいろな色と形の虹のような森の木々に囲まれた。黒森の木は言葉を持っている。人間に迷いの呪文を囁くといわれた。どちらに行って良いかさえ分からなかった

 白雪姫は、とにかく駆け出した。尖った石の上を飛び越えた。長衣の裾が切れた。茨の茂みも、掻き分けた。白い手には、無数の赤い引っかき傷があったのは、そのせいなのだろう。とにかく、森の奥へ奥へと進んでいった。

 不思議なことがあった。黒森の無数の異形のけだものたちの気配が、彼女の傍を通った。しかし、白雪姫を傷つけようとするような動物は、一匹もいなかったことだ。
 
 足の力の続く限り駆けたらしい。七つの山を幼女の身で越えたのだ。その足には、ジンの魔法の力がかかっていたのかもしれない。
 
 夕方になった。森の木々の高さが、徐々に低くなっていった。足元を照らす夕焼けの光も、やや明るくなった。しかし、踏み分け道は細くなり、今までは頭上にあったはずの枝が、顔の高さにまで降りてきた。たびたび彼女の進路を塞ぐようになってしまった。それを、掻き分けて行かなければならなかった。細い枝はもろくも折れた。梟が鳴いた。その後を付いて行った。

 暗くなって空に星がまたたく刻限になってから、不意に森が終った。一軒の小さい小屋を見つけた。わしたちの山小屋だった。

 彼女は、ジンの戦争の後で、乏しくなった世界の食料と資源を適切に活用するために、自分達の身体を小さくした人間の国があるという話を、ある隊商から聴いたことがあったそうだ。
 
 疲れを休めようと思った。だが、さすがにびっくりした。小屋の高さが、あまりにも低く見えたからだ。小さな窓から中を覗いた。
 
 家の中にあったものは、彼女の目には、みんなとても小さく見えた。しかし、食卓の上の小さな銀の食器が、
 
 「なんとも、いいようがないくらい、りっぱで、きよらかなもの」
 
 に見えたと言う。お腹が空いていたからだろうか。
 
 *

 あえて白雪姫の感想の言葉を、こうして詳しく書きとめておきたくなるのは、それらの銀鍍金の食器が、わしの手によって作られた物であったからだ。

 銀の混じった鉛鉱石を炉皿に入れる。鞴によって風を送り、加熱していく。溶解した銅と、酸化した銀が分離する。銀は鉛よりも重いからだ。上層の鉛分を流す。残った銀を材木とともに焼く。夾雑物を焼却する。純銀が得られる。最後に残った灰を吹き払うので、「吹分法」と呼ばれている。戦争前の世界から伝わった知識だ。ジンの悪い魔法はくっついていない。

 かつてのわしの職業は、金銀細工師であった。

 自らの手の技の卓越に奢った。金属と硝子の坩堝で、生命を産み出そうとした。ジン戦争の禁断の魔法の知恵に挑もうとしてしまった。実験の方法そのものは、間違っていなかったと今でも思う。

 やればできることなのに、手を出さずに我慢しているという態度に欺瞞を感じた。ジン戦争以来、人間は新しい知識や技術の研究や開発に、いたずらに臆病になってしまっている。この風潮は間違っている。人間は、好奇心を持つ生き物である。未知に挑戦するという本性と異なる行為をしている。今でも、この点だけは確信している。歴史の振り子の揺り戻しの日は、必ず来るだろう。

 だが、それによって金銀細工師の組合の掟を破ったのは事実だった。怒りをかった。組合から追放された。
 
 話を戻そう。

2 森の番小屋

 今でも思い出す。

 あの番小屋の、入ってすぐには小部屋があった。ここで、鉱山の粉塵や雪を落すのである。三方に扉がついている。正面の扉を開いた先の部屋の中央には、白い布をかけた食卓があった。食堂である。その上には、七つの小さな皿が乗った。一つ一つには、匙と、小刀と肉叉がついている。酸っぱくてきつい葡萄酒は、何よりも仕事の疲れを癒してくれる妙薬だった。
 
 小部屋の左側の扉を開いた部屋の壁ぎわには、七つの小さな寝台が並んでいた。それぞれの間には、少しだけだが隙間が開いた。それぞれの身長に合わせて作られた寝台である。大から小という順番に並んでいる。雪のように白い麻の敷布がしいてある。小部屋の右側の扉を開くと、食料の貯蔵庫になった。

 男所帯ではあったが、わしたちは清潔好きだった。親方の厳しい指示があったからだ。 集団生活で怖いのは、流行病だった。

 鉱山の仕事は、「採掘」と【整理】という二面から成立っている。「採掘」がなければ儲けがなく、【整理】がなければ命がない。浸水による落盤で命を落す。

 それに親方は、不潔は病気の温床だと言う。ジン戦争によって、地下水まで汚染されているからだ。煮沸して消毒してから飲料用とした。森には薪は十分にあった。当時としては、進歩的な考え方を、持っている人だった。鉱山から出てきた後は、必ず清らかな谷川で水浴びをして、石や泥や埃を洗い流し、嗽をしてから、小屋に戻る習慣だった。小部屋は、最後の点検の場所だった。



 あの最初の夜の白雪姫は、たいへんお腹が空いていた。おまけに、咽喉も乾いていた。ここで、彼女の育ちの良さが出たことが、わしたちが好感を持った理由だった。

 一つ一つの皿から、すこしずつ川鱒と野菜のスープと、麺麭を食べたのだ。一つ一つの杯から、一滴ずつ葡萄酒を飲んだ。一つところから、みんな食べてしまうのは悪いことだ。彼女は、そう思ったという。壁の干し林檎も、慎ましく一個だけを食べた。
 
 食事が済むと自分が、たいへん疲れていることがわかった。寝ようと思った。一つの寝台に入ってみた。けれども、どれもこれもうまく体に合わない。短すぎた。いちばんおしまいの七番目の寝台が、ようやく身体にあった。わしたちの中でも、一番、体の大きなお頭の寝台だったからだ。それでも、赤ちゃんのように、丸くなって眠らなければならなかった。寝床に入ると、そのままグッスリと眠ってしまった。無理もない。白雪姫がわしたちのところに来た時には、まだわずか七歳の幼女だったのである。

*

 話を終えた彼女は、寝台から降りた。自分の二本の足でまっすぐに立ち上がった。彼女の身体はわしたちの目には、大きく、大きく、どんどん大きくなっていった。小屋の屋根を支える木の梁に、黒檀のような黒髪が、こすれそうになった。

 臆病な靴屋が、甲高い悲鳴を上げた。彼女の背丈は、わしらの中でも最も長身の親方の優に二倍はあった。まさに巨人だった。戦士として造られた巨人族の娘だった。

 そのため、最初は、わしらのことを「小人さん」と呼ぼうとした。彼女は、確かに大きかった。わしは、彼女のふくらみかけた胸を包んだ、黒い天鵞絨に金色の糸で刺繍をした長衣の下側を、見上げた。全員を見下ろしていた。しかし、この別称は、親方が許さなかった。

「わしらが、小さいんじゃない。あんたが、大きいんだ」

 白雪姫は、不服そうだった。

「あたしは、巨人じゃありません」

 血のように紅い唇を不満そうに、ぷくんと突き出した両のこぶしをくびれた腰にあてがった。わしらを睥睨した。正面から率直に抗議した。 あの親方に、自我の強さで負けてはいない。小娘の抗議に、わしらは興味津々だった。

「そうだろうとも。巨人しかいない国では、誰も互いを巨人だと思わない。小人しかいない国では、誰も自分を小さいと思わない。ジン戦争は、人間の姿を様々に変えた」

 親方は、寛大で頭が良かった。

「あんたは、巨人と呼ばれたくない。わしらも、小人と呼ばれたくない。これで、あいこだ。だから、名前で呼び合おうじゃないか。あんたの名前は、何というのかね」

 それで、彼女は白雪姫と名乗った。みんな、納得した。雪のように白い肌をしていたからだ。

 親方は、また次のように言って聞かせた。

「もしも、おまえが、わしたちの家の中の仕事を、ちゃんと引きうけてくれれば、ここにおいてやってもいいんだがね。食事の煮焚きもすれば、寝台ものべる。洗濯も、縫物も、編物も、きちんと、きれいにする。もしも、その気があれば、わしたちは、おまえさんを小屋においてあげてもいい。不足がないようにしてあげよう。しかし、そのためには、みんなと同じように働いてもらわねばならない。それでも、いいかね?」

 少女の胸元に光る高価な宝石の首飾りにも目をやった。大粒の宝石が連なってきらきらときらめいていた。彼は、そういうところは、実に抜け目がなかった。

「どうか、よろしくおねがいします」

 白雪姫は、黒檀のように黒い髪の頭を下げた。

 そして巨人の少女は、わしらの小屋に、いっしょに住むことになったのだった。



 お姫様の胸元にかかった二つの首飾りは、親方が森の番小屋の「宿泊代」として徴収することになった。

 彼女の許可を得て、わしが糸を切ってばらした。
 
 もともとは、誕生日の贈物だったらしい。少しも惜しいと思っていないようだった。一粒だけでも、かなりの重さと大きさのある上等な宝石だった。輝きも明るく澄んでいた。ジンの魔法のかかった人工のものではない。貴重な天然のものだった。
 
 金銀細工師であるわしが、一粒ずつ麓の村の市場に売りに行った。そのたびに、昔の金銀細工師の組合仲間の業者に、適正な値段で売買できた。わしにも、それなりの知識があったから、安値で買いたたくことは奴らにもできなかった。


 少女の生活に必要な品物を、機動馬車の荷台いっぱいに、持ち替えることができた。巨人には、とくに食料が必要だったのだ。彼女は、一人でわしらの十人分の量を平らげたからだ。好物の甘い干し林檎は、樽で買い込んできた。

 機動馬車は、黒い息の煙をぽっぽっと吐き出しながら坂道を登っていった。大量の品物は、地下の食糧貯蔵庫に入れた。搬入には、小半時かかった。彼女の手を借りなければ、もっとかかっただろう。
 
 お姫様は、麺麭にも乳酪をたっぷりと塗りたがった。しかし、それだけの働きもした。
 
 白雪姫は、親方の厳しい命令を守った。小屋の外に出る時には、赤い頭巾をかぶっていなければならない。素顔をさらしてはならない。鏡の悪い魔法の目は、天から地上の美しい女を探し回っているだろう。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人は、だあれ?」

 彼女がいるおかげで、小屋の中は、今まで以上に整理整頓が、隅々まで行き届いた。澄んだ流れで、男七人の汚れ物の洗濯もした。わしらは、鉱山での仕事に集中できた。
 
 白雪姫は、親方から厳しい躾を受けた。お姫様として育てられたので、普通の女ならばできることを何も知らなかった。だが、炊事、掃除、洗濯の方法のすべてを、乾いた砂が水を吸いこむように自分のものにしていった。小屋の用事のすべてを、きちんとやってのけた。

 毎朝、わしらは鉱山にはいりこむ。金や銀のはいった石を探す。夜遅くなって帰ってくる。彼女は、そのときまでに、掃除と、洗濯と、ご飯の支度をしておかねばならない。昼間は、たった一人で、留守番をしなければならない。
 
 七歳で、これだけの重労働をこなせる少女は、庶民の娘でも少ないだろう。
 
 仕事を終えて汗だくになった彼女は、家の中で周囲の男たちの視線を何も気にすることなく、上半身を裸になった。絞ったタオルで、脇の下や胸もとの汗を拭いた。薄闇の中で、雪のように白い肌が、光を放った。幼い乳房が揺れた。
 
 白雪姫と言う大きな少女がいるだけで、番小屋での単調な生活は大きく変化した。

 先ず空気が違う。男達の饐えたような汗のかわりに、少女の甘い香が漂った。
 
 排水と岩石との戦いに疲れて帰って来る。みんな、むっつりと黙り込んでしまう。特に、思ったとおりの採掘の成果が得られなかった夜には、親方でさえ気持ちが沈みこんでしまうのだった。そういう晩に少女の明るい笑みが、どんなに救いになったか計り知れない。
 
 わしらの親方の、黒い一文字眉毛の下の黒い瞳には、特殊な力があった。

 金銀の鉱脈が、地下に見えるのだった。手に持った二本の長い金属の棒の反応で、彼は鉱脈の方向と深さをも。正確に読みとった。

 ジン戦争の後では、邪悪な魔法とまではいかずとも、不思議な力を持った人間が生まれた。彼も、その一人だった。しかし、見えるということと、そこまで辿り着いて掘り出すというのは、別のことだった。
 
 なかなか、そこまでに辿り着けないのだ。
 
 ジン戦争前の無計画な乱開発で、黒森の鉱山の岩盤は、脆くザクザクになってしまっている。親方でも予測不可能な落盤の危機が何度もあった。絶望する日々もあった。だが、そこに白雪姫がいるだけで、笑いが起った。
 
 彼女は鳥の友だった。梟や烏や鳩が、家の前庭に巻かれた餌に集ってきた。彼らの鳴き声や、動作を、器用に真似をした。親方も、この特技には爆笑した。 髭面を破願させた。

 白雪姫は、まだほんとうに幼い子どもだった。

 彼女は夏の間は、炭鉱から上がってきたわしらが、泉で汗と汚れを流している時に、その脇でいっしょになって平気で水浴をした。長衣のすべてを脱いでいた。顔には赤い布を巻いていたが、その他は、生まれたままの開放的な姿になった。
 
 わしらには、潜水が可能な深いよどみでも、彼女には半身も浸らないぐらいでしかなかった。胸は、わずかにふくらんでいた。が、その下の丸いお腹のふくらみが、彼女の幼さを強調した。そして、股間には発毛がなく、まだ開ききれない花がただ蕾として、割れ目の中に隠れているだけだった。少女の肌が、清らかな水を跳ね返した。
 
 草の上に白い裸体が寝転んでいた。日光浴をした。大きく開いた股の間に、可憐な花が咲いた。

 緑の水芹が、浅い岸辺に生える季節には、彼女はそれを口に入れて好んで食べた。薬草師から、どれが食用に適するかを学んでいた。一を聞いて十を知る最高の生徒だった。苦味のある爽やかさが好きだったらしい。いつも腹を空かせていたせいもあるだろう。
 
 水に濡れた少女の、黒檀のように黒い髪と雪のように白い肌の匂いは芳しかった。坑道の淀んだ死の空気と比較すれば、生命そのものの香だった。
 
 わしたちは、穢れを知らない巨大な少女の白い姿に、暗い坑道の恐怖と疲れをつかのまでも忘れられた。
 
 夏の太陽の光も、少女の雪白の肌を染める事は、ついにできなかった。
 
 小屋の中では、彼女はいつも軽装だった。白い肌をほとんど露出した。市場で買ってきた布で、自分で裁縫をした。わしたちの激しい労働で破ける服も、すぐに穴を繕ってくれた。女性としての見出しなみは保った。しかし、動きによっては、胸や太腿がはだけることがあった。若い男達の剛い胸毛が、密生した胸を騒がせるのだった。

 当時の回想記を自分で読み返してみても、七人の仲間たちの強い個性が、区別して描写されていない。何か記憶のすべてが、渾然一体とした幼児期の中のような状態にある。兄弟がいたとしても、幼い頃の彼らとの記憶を、持っていない人は多いことだろう。とうに成人したわしが、あそこでは、それと同じような幼児期の状態に、戻って居たのかもしれない。
 
 それというのも、白雪姫が、わしらにとっては、ちょうと母親のような意味を担っていたのではないかと思うからだ。

 母と子のような体格の差があった。もっとも小柄なものは、白雪姫のあの白い木の幹のような太ももの中間までしか、頭の天辺が届かなかった。
 
 わしでも、長衣の腰回りのくびれと同じ高さだった。両脇の下に手を入れられる。体重がないものかのように、ひょういと空中に抱き上げられた。巨人戦士の末裔の力を感じた。
 
 この国の標準からすれば、怪力の大男のはずのわしらが、抵抗できなかった。足が宙を蹴った。顔の高さに持ち上げられる。血のように紅い唇で頬にキスをされる。唇のこともあった。黒檀のように黒い髪が、わしらの頬をくすぐった。顎鬚の生えた喉を、白い指先でくすぐられた。彼女の腕に尻を乗せて、柔らかい胸元に抱かれた。
 
 彼女は、全員を平等に扱った。一種の儀式のようだった。幼児に戻ったようなやすらぎがあった。
 
 地下の坑道から、わしらが無事に帰って来るのを白雪姫が本当に心配して待っていてくれていたことが、肌のぬくもりから伝わってきた。

 親方すらも、彼女の暖かい愛情の感じられる抱擁を拒まなかった。
 
 唯一の例外は薬草師だった。彼だけは、白雪姫の抱擁を拒否した。遠慮すると固辞した。
 
 黒森の鉱山は、安全な露出鉱脈は、もう取り終った状態だった。親方の特殊な視力があったとしても、竪坑採掘をするしかなかった。資金があれば、山の中腹に横穴を開けて排水することができる。しかし、その資金がなかった。

 排水は、手作業によって行わなければならない。浸水が早ければ間に合わない。落盤の危険もあった。つねに死と隣り合せだったのである。母親にいじめられて育った白雪姫は、わしらの日々の不安を共有してくれたのだ。
 
 夏が終り、短い秋が来た。冬が来る前に、わしは麓の村に何度も足を運んだ。干魚や干し肉という貯蔵できる食料を、できるかぎり買い込んできた。

 白雪姫の宝石が、威力を発揮した。彼女には、ひもじい思いをさせたくなかった。
 
 親方は、宝石は白雪姫のものだからと、彼女に必要な物にだけ宝石の代金を使った。公明正大な態度だった。

3 三つの事件

 寒い冬の夜がきた。七つの寝台をくっつけて隙間を埋めた。白雪姫の回りに集合した。身体を内側から温めるために、みんなで強い葡萄酒を飲んだ。少女も例外ではなかった。酔いに、血のように紅い唇をますます濃く染めた。陽気になった。

 お姫様は、七人の弟が一度にできたので、すっかりご満悦だった。くすぐりっこをして無心に遊んだ。巨大な肉体に成長しようとする少女の、健康で新陳代謝の活発な体の周りに集まった。明らかに体温が高かった。猫や犬の子のように丸くなった。身体を寄せ合って雑魚寝した。
 
 大きな姉に戯れる、六人の小さな弟たちのようだった。だんだん定位置ができた。わしは右の脇の下だった。
 
 例外は、ここでも薬草師だった。彼は、親方の剛毛の生えた逞しい胸に、凭れることを好む男だったのだ。
 
 親方も、わしらと白雪姫の馬鹿騒ぎを禁じなかった。笑いながら眺めた。

 彼は薬草師にまといつかれながら、竪琴をつまびいた。甘く美しい響きのある低温で、長い物語を歌ってくれた。ジン戦争は、二つの王家のどちらの青い薔薇が美しいかと言う諍いから始ったものだという伝説があった。歴史家には『青薔薇戦争』と呼ばれている。その時代の王女と人馬騎士の物語だった。放浪の吟遊詩人に習ったものだそうだ。
 
 悲恋の物語には、少女の瞳が濡れて輝いた。彼女の祖先でもある一族の歌物語は、静かに続いた。わしらは、美少女の体温のぬくもりと、匂いに包まれて眠りについた。
 
 年齢が離れているとはいえ、男女が同じ屋根の下に同居生活をしている。特に雪の降り積った戸外に出られない冬のさかりには、小屋の中に閉じ込められた生活だった。互いにすべてを見せ合った。

 長身の彼女が、掬鍬(すくいぐわ)を持って屋根の雪下しをした。怪力だった。ここでも紅い頭巾をかぶったままで、自分の仕事をきちんと果した。ずしん、ずしんと足音が床板を振動させた。窓から白雪姫の巨大な笑顔が覗いた。
 
 雪のように白い体の上に登っても、わしらの重さをまるで感じていないようだった。

 力仕事に幼女のぷくんと丸かった腹筋が割れ始めた。山小屋の暮しに、筋肉がついてきているのだ。
 
 ふとした瞬間に見せる流し目には、不思議な色気が漂った。瞳が妖しく濡れた。
 
 室内の白雪姫は、着の身着のままだった豪奢な長衣の、生地を断ち切って裁縫しなおした小さな下着で、かろうじて胸と腰の部分だけを覆い隠していた。最小限の紅い布が、乙女の秘密の部分を守った。無言だが彼女に、すべてを許されていると言う気が、確かにわしらはしていた。
 
 男女の同棲生活としては、奇妙な時間が流れた。永久に不可侵の存在だった。美少女は、永遠に処女のままだった。
 
 次の年の春が来る頃には、みんなが彼女に夢中だった。

 一冬を過ぎた少女は、黒檀のような黒髪も、背丈もともに伸びた。さらに美しく成長した。ふくよかな胸は高さを増した。さらに下から見上げるようになった。腰がくびれて、尻が幅も厚みも増した。
 
 くびれた腰まであった筈のわしの頭が、股間に届いていなかった。乳房の谷間から彼女の小さな顔が、わしらを笑顔で見下ろした。自分が、大きくなっていることがわかっているのだろう。
 
 わしらは、お姫様が、蜂蜜を麺麭につけて食べるのが好物だと分かっていたから、蜂の巣を手や顔を刺されても先を争って、森から見つけてきた。薬草師が、誰よりも手柄を上げた。彼女が、焼き立ての麺麭に、甘い蜂蜜をたっぷりとかけて、美味しそうに頬張るのを、みんなで嬉しそうに眺めるのだった。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

 *

 楽しい事ばかりがあったわけではなかった。彼女がいた三年の間に、わしが印象に残っている辛い事件は、三回あった。

 一度目は、二年目の春が訪れたばかりのことだった。

 彼女が小屋の梁から、絹糸で編んだ紅い紐をかけて、首を吊ろうとしたのだ。布を縛ったところが、少女の体重でほどけた。白雪姫は、床に落下した襲撃で気絶した。しかし、梁にかかったままの赤い絹紐が、何が起ったのかを明瞭に告げた。
 
 手当をした薬草師は、白雪姫の心の臓や肝の臓が、信じられないほどに強靭であることを確認した。なんと心の臓がいったん停止してしまったとしても、再起動するまで、血液を体内に送り続ける安全装置のような能力が、肝の臓と腎の臓に備わっているということだった。
 
 不死身の巨人戦士が、ジン戦争の時代に誕生させられたという噂は、真実であったのかもしれない。彼は首を振った。
 
 紅い絹紐を、彼女がどこで手に入れたのかは、分からなかった。

 小間物屋の正直そうなおばあさんが、麓の村から売りに来たと言った。が、そのような老女の姿を見かけたことはなかった。わしらは、警戒を強めた。王妃の手の者ではないかと疑ったのである。
 
 親方は、親身になって真剣な忠告をした。

「おまえさんは、母親には用心しなければならない。悪いジンの魔法を使うようだ。どうやら、ジン戦争の時代の魔法の鏡で、おまえさんが、ここに生きていることを、知ったにちがいない。だから、だれも、この小屋の中にいれてはいけない。黒森からやってくる悪いものの監視のために建てられたこの番小屋には、ジンの魔法に汚染された悪しき者を、よせつけない力がある。魔法の鏡の力も、この家の屋根の下を見通すことはできないのだ。お前が、小屋の鍵を開けなければ、魔女も中には入ってこられないのだ」

 番小屋の力は、わしも初めて知った。だが、巨人の国との魔法の通路を、自由に開くことができる魔女の悪いジンの魔法の力は、さらに強いかもしれない。

 白雪姫といっしょにいる時に、異様な視線を虚空から感じることがわしもあった。魔法の鏡が探しているのだろう。みんなが不安に思った。
 
 白雪姫は、手鏡を見つめて、独り言を呟いている時があった。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人は、だあれ?」

 大粒の涙が、林檎のように赤いふくよかな少女の頬を、ぽろぽろと流れ下った。そういうときは、みんながそっとしておいた。わしたちには、彼女が肉体だけではなくて、心もかなり深いところで、傷ついているらしいということが分かっていたからだ。

 実の母に憎まれて、捨てられたのだが、今だに、母親を慕っていたのだろう。お母様という寝言を皆が一度は聞いている。無理もない。まだ本当に幼い子供でしかないのだ。枕を涙で濡らす夜もあった。一人でいる時に、虚空の一点を凝視している光景を、何人もが見ている。そこに、かかっていない鏡を見つめているようだった。悪い鏡の魔法の力が、徐々に彼女にも迫っているのではないか。不安に思えた。
 
 薬剤師は親方に頼まれて、気持ちを落ち着かせるお茶を、山の薬草から煎じて飲ませていた。しかし、それも気休めだった。根本的な事態の解決には至らなかった。巨人の国に帰りたいのに、帰ることができないのだ。わしにも、自分が属していた世界を奪われた孤独は、良くわかっていた。
 
 小屋の仲間たちも、疑似家族ではあっただろうが、彼女が求めている本物の家族ではなかった。霧の日に、黒森の奥に入って行っても、向うの世界に待っているのは、母による死の手だけだった。故郷を失っている根なし草のわしらと同じ境遇だった。
 
 親方は、白雪姫を鉱山に連れて行くことにした。気分転換になると思ったし、目を離したくなかったからだ。

 坑道の排水を汲んだ真鍮の桶を、竪抗から滑車と綱で引き上げるのに、彼女の力は助けになった。労働をしていると、つまらないことをくよくよと考えることもなくなるものだ。紅い頭巾の中で顔は、雪のように白かったが、彼女のむき出しの白い腕には、鋼鉄のような上腕二頭筋の力瘤が、盛り上ってくるのが分かった。 鍛えれば鍛えるほど、筋肉がつく。戦士の体質なのだった。
 
 大の男が三人がかりで、しかも梃子の原理の助けをかりて、ようやくに動かす事のできる大きさの岩を、彼女は白い両手で畑の南瓜のように無造作に持ち上げた。邪魔にならない場所に移動した。

 巨大処女戦士としての片鱗を覗かせていた。わしは、成人に達した彼女が、どんなに強大な戦士になるのだろうかと妄想を逞しくした。この国の兵士百人を向こうに回しても、蹴散らしてしまえるのではないだろうか?
 
 今でさえ、もし、坑道に入ることができれば、さぞかし頼りがいのある労働力になってくれたことだろう。しかし、狭い坑道には、彼女の巨体を受けいれて、自由に活動させてくれるだけの空間がなかった。落盤の危険性がつねにあった。惜しいことだが無理は無理だった。
 
 ともかく、力仕事が、白雪姫の健康の回復に有効であるらしい事は、速やかに証明された。彼女の貢献で、鉱山から小屋までの道の障害物だった落石のたぐいは、すべてが取り除かれた。黒い煙を吐いて走る機動馬車の通行が楽になった。

 わしは、少女を山の頂に誘った。黒森の続く山並みを、遠く遥かに見はるかすことができた。紫色の靄がたなびく日だった。少女は、山脈の彼方に瞳を遊ばせていた。彼女の故郷の巨人の国が、その彼方にあるはずだった。最初は、悲しそうな眼をしていたが、幸い高山に住む鳥と黒山羊どもが、彼女の良き友となって励ましてくれた。

 鳥使いの資質のある彼女は、鳥の言葉をすぐに覚えた。大きな木のように両手を開いて立った。全身に花が咲いたようにとまらせた。
 
 黒山羊は成獣に達していても、彼女には、小山羊ほどにしか感じられないのだろう。けれども、気の荒い連中をあまりにも構いすぎた。雪のように白いが、厚い皮膚の手を噛まれたり、鋭い角でつつかれたりした。火を吐かれた。もちろん、やけどはしない。産毛さえも、焦すことはできなかった。皮膚も強靭なのだ。それでも、痛い痛い、熱い熱いと大げさに騒いでいた。こういうときには、本当に幼い少女に戻っていた。 徐々に心身の平衡を取り戻していったようだった。

 二度目は、二年目の秋のことである。この方が、一回目よりも謎めいた事件だった。今度は、毒の付いている櫛だった。小屋の掃除と洗濯のために、彼女だけが留守番をしているところを狙われた。

 わしの銀器が、それに触れると黒く濁った。黒檀のような黒い髪にからめて、彼女は床に倒れていた。死んだように青い顔をしていた。心の臓が鼓動を停止していた。薬草師が、秘蔵の特効薬の解毒剤を飲ませた。辛くも間に合った。白雪姫は息を吹き返した。
 
 絹紐とは、また別の老婆から購入したということだった。魔女は、姿を変えて、わしらの国に潜入できるのだろう。警戒を強めた。
 
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

 二度目の冬が来た。

 彼女の顔は、まだあどけなさをたたえた小さな少女のままだったが、首から下の発育が顕著だった。
 
 男性の肉体に興味を抱くようになった。自分にはない男性特有の器官の存在に、特にご執心だった。小さいところから、むくむくと大きくなっていく光景を見ることを好んだ。爆笑した。みんな、彼女が笑顔になってくれるのであれば、何でもしたのだ。
 
 「あたしのきのこさん」と呼んでいた。
 
 全員が求められた。少女自身の手の中で大きく育って行った。
 
 薬草師だけは例によって、「お見せするほどのものではないから」と辞退した。
 
 誰が一番、大きくなるかと、比べられたことがある。他のたいていのことと同じように、親方が一番だった。わしは二番目だった。
 
 白雪姫の繊細な手が勝利者を祝福した。
 
 白雪姫には生まれ付き、男のどうしようもない生理の機能の意味を、もともと体得しているところがあったのではないだろうか。

 もしかすると、巨人族には戦闘で失われる欠員を補うために、わしらよりも旺盛な生殖力が与えられているのかもしれない。
 
 十歳にもならないのに、その乳房は、いかにも大量の乳を生産しそうだった。そのくびれた腰と大きな尻は、逞しい子宮の発達を感じさせた。多情多淫。欲望の血が、大量の血の内部を流れているのかもしれない。彼女の若い体臭は、ますます濃厚になっていった。男の欲望の炎を掻き立てていた。
 
 その発露を、手や胸や尻で、優しく自然に受け入れてくれた。
 
 特に充分な量感のある乳房の隆起は、わしらの性器を挿入しても、先端部も出ることはなかった。腰を押しつけて動かしていても、全く気にしなかった。いつでも拒まなかった。肘を巨大な乳房の外側からあてがった。緩急をつけた動作で刺激してくれた。わしらが腰を動かすと、くすぐったがって笑った。

「お母様も、こうして男の人たちを楽しませていたことがあるのよ」

 嬉しそうに話した。母親が快活だった夜の数少ない貴重な思い出なのだろう。
 
 薬草師以外の全員が、この遊びを彼女とともに実行した。
 
 
 白雪姫が気分の良い夜には、微笑しながら、数本の「きのこさん」を白い手の指で、同時に慰めてくれたことすらある。ただし、男の汁で処女の肌を汚した時には、責任者が自分自身の舌と口で処理するという、暗黙の厳粛な取り決めがあった。

 乳首の先端に、わしの白濁液がついてしまったときには、姫が自分で乳房を無造作に持ち上げて、ぺろりと舐めた。そのような行為を、いかなる女人にもしてもらったことはなかった。わしは、身体が震えるほどに感動した。けれども、これも母親の褥を盗み見た時の行為の記憶ではないだろうか。
 
 彼女の黒檀のような黒い抜け毛を、寝台の下や部屋の隅に求めて大切に収集することにしたのは、このころからである。
 
 わしは、彼女との別れの日が迫っていることを、うすうす感じとっていたのかもしれない。
 
 三度目は、三年目の秋のことだった。

 とうとう恐れたことが起ってしまった。
 
 白雪姫は、小屋の前の小石が取り除かれて、掃除が行き届いた道の脇の地べたに転がって倒れていた。紅い頭巾が脇に落ちていた。鉱山から戻ってきたわしらは、びっくりして駆寄ってみた。

 しかし、姫の血のように紅い唇は、すでに紫色に変色していた。口からは、息一つすらしていなかった。雪のように白い肌は、青く透き通るほどだった。かわいそうに、死んで、冷え切ってしまっていた。
 
 白雪姫の足元に、かじりかけの林檎が一つ転がっていた。

 薬草師によれば、それは恐ろしく手の混んだ仕掛けのしてある代物だった。見かけは、いかにも美しかった。白いところにまで、赤みをもっている。一目見ると、誰でも齧りつきたくなるだろう。けれども、巨女戦士の肉体であっても、一きれでもたべようものなら、たちどころに死んでしまうほどのおそろしい猛毒が、仕込まれていたのだった。白雪姫が、一口だけ齧った歯形が残っていた。

 林檎はわしらが見ている内に、周囲の植物を黒く変色させた。ジン戦争の時代から伝わった毒物だった。自分から溶けて崩れて大地を汚染していった。呪われた土地に植物が生えることは二度となかった。 薬草師は、強力な毒にも効く薬草はないかと、家の棚を探し回った。しかし、そんなものは、ありはしなかった。半狂乱になった。彼もまた、彼なりの方法で白雪姫を愛していた事がわかった。姉の妹に対する愛情だろうか。

  
 親方は、せめて黒檀のように黒い髪を止めた細紐を解いてやった。豊に長い黒檀のような黒髪を櫛で梳いた。泉から汲んできたばかりの水や、お酒で、全身の皮膚を隈なく洗ってやった。
 
 なんの役にも立たなかった。みんなで可愛がった美しい少女は、今度こそ本当に死んでしまった。何をしても、再び、生き返ることはなかった。
 
 わしらは、白雪姫の体を棺の上に乗せた。七人がかりの大仕事だった。木の足場を組んで持ち上げなければならなかった。

 機動馬車で、大切に山の上まで移動した。
 
 そして全員が、残らず棺の周りに座った。三日三晩、泣きくらした。わしらは、聡明な白雪姫が、三度も騙されたとは信じていなかった。何もかも分かっていて、母親の手から毒林檎を受け取ったのではあるまいか。二人の孤独な骨肉の戦いを永遠に終わらせるためにそうしたのだ。覚悟の自殺ではないかというのが、みなの一致した意見だった。
 
 ようやく、姫の肉体を解体して、この地方の風習である鳥葬にふそうとした。鳥の友であった彼女の魂を、鳥とともに天に届けようと思った。
 
 だが、なにしろ、姫はまだ生きたとき、そのままの美しい姿だった。あの若い命そのものというような唇の血のような紅さも、そのままだった。雪のように白い顔を、黒檀のような黒髪が縁取った。あまりにも、可愛らしく綺麗だった。
 
 
 親方は、

「まあ見ろよ。この美しい顔を。あの鳥どもの嘴に、引き裂かせることなんかできるものか」

 と、怒ったように断言した。
 
 みんなも同感だった。

 親方は、その手に備わった、すべての技を注ぎ込んで、外から中が見える透明な硝子の棺をつくった。もはや魔法の鏡の視線を恐れる必要もない。紅い頭巾も取った。誰にも遠慮することなく、陽光の祝福を顔一杯に浴びさせたのだ。

 内部は、零度以下の一定の温度と湿度に保たれていた。七人、全員が協力した。あれ以上の物は、ジン戦争の前の時代だったとしても、作れはしないだろう。
 
 姫の身体を寝かせた。

 金文字で「白雪姫」という名を金銀細工師のわしが書いた。世が世であれば、巨人の国の王家のお姫様であるという来歴も、書きそえておいた。

 これで、もしわしらのすべてが坑道から地上に戻れない日が来ても、彼女の思い出は、人々の記憶に永遠に残るだろう。
 
 それから、みんなで、棺を高い山の上に再び運び上げた。白雪姫が、鳥や黒山羊と遊んだ思い出の場所だった。

 七人のうちのひとりが、いつでも、そのそばにいて番をすることになった。
 
 すると、鳥や、黒山羊などのけだものまでが、そこにやってきた。白雪姫のことを、泣き悲しむのだった。いちばんはじめにきたのは、茶色の梟だった。そのつぎが、黒い烏だった。いちばんおしまいに、白い鳩がきた。思えば、人間は彼女に辛く当ったが、森の獣たちは、最初から白雪姫を愛した。狩人に殺された猪でさえ、彼女のために、命を落したのかもしれなかった。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

4 王子と林檎

 さて、そういうわけで白雪姫の遺体は、長い長い間、冷たい棺の中に横たわることになった。

 その体の美は、生前と少しも変らなかった。眠っているようにしか見えなかった。その肌は、雪のように白かった。唇は血のように紅かった。黒い髪は、黒檀のように艶やかだった。わしには、少しずつだが、延びているのではないかとさえ思えてならなかった。
 
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

 ある霧の深い夜のことだった。

 ひとりの巨人族の王子が、二人の家来を連れて、黒森の中から、さ迷い出てきた。七つの山を越えた、彼方の巨人の国との通路が開いたのだ。
 
 わしらの家に来て、一夜の宿を求めた。礼儀正しい態度だった。旅の目的については、秘密の要件であるという以外の説明はなかった。だが、十分な謝礼を申し出てきた。親方は了承した。
 
 鉱山の経営は、白雪姫の死を境に、不運が続いていた。いよいよ逼迫していた。あらゆる幸運が、わしらから去って行ったように思えた。

 彼の登場で、白雪姫が、まだほんの幼い少女に過ぎなかったのだということを、わしたちは本当に思い知らされた。大きくなった少女の、さらに二倍ぐらいの体格に感じられた。直立した彼の膝の骨は、わしの顔と同じ位置にあった。脹脛の平目筋だけで、わしら一人分の重量があったことだろう。
 
 薄く伸縮性のある股引に包まれた男性性器の隆起を、薬草師がうっとりとした表情で見上げていた。真下から見上げていると、嫌でもそこに視線が向かってしまうのだ。男根は通常の状態でも、わしらの世界の、今ではほとんど姿を見ることもなくなってしまった本物の馬なみだった。二つの睾丸の球体も、林檎のように固く熟している。大量の精液を貯蔵しているわよね。男性の肉体美を愛することでは人後に落ちない、審美眼の高い薬剤師がため息をついた。

 少年の筋肉質の長い両脚の間を、わしらはそれほど腰を屈めることなく通れたことだろう。薬剤師が、床の塵を拾うふりをして試した。少年をびっくりさせた。彼こそが、本当の巨人戦士の男性だった。
 
  王子は、翌朝、旅立つ前に、いかなる気まぐれからか、高い山の上に登ろうと思い立った。鉱山の入口では、排水をする横穴がないのでは、困るだろうと適切な意見を述べた。観察力が鋭かった。
 
 硝子の棺に目をとめてしまった。内側に霜をちりばめたお棺は、早朝の陽光を地上に下りた星のように、まばゆく跳ね返していたからだ。

 館の中を覗きこんでいた。わしが当番の日だった。美しい少女の亡骸が入っっている。

 彼は、しばらく、我を忘れて見惚れていた。わしが棺の上に金文字で書いた言葉を何度も読んでいた。
 
 不安になるような長い間があった。ついにこう宣言した。
 
「この棺とともに姫を、わたしにゆずってはいただけませんか。そのかわり。わたしは、なんでも、あなたたちに、欲しいものを与えることを約束します」

けれども、親方は、その申し出を拒んだ。

「たとえ、世界中のお金を、すべて目の前に積み上げていただけたとしても、こればかりは、さしあげることなどできないものです」

 丁重に断った。

 それに対する王子の答えは、以下のようなものだった。

「そうだ、これにかわる、宝なぞ、この世に存在するはずがない。だが、わたしは、白雪姫の美しい姿を見ないでは、もう生きてはいけない。お礼なぞ、できるはずもない。わたしは、彼女と結婚するつもりだ。ただ、くださいとお願いする。わたしの生きているあいだは、白雪姫をうやまい、きっと粗末にあつかったりはしない!」

 頭を下げて、お頼みになったのだった。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」

 王子が、こんなにまでおっしゃる。親方も、気持ちを動かされた。全員で長いこと話しあった。行く末の不安な貧しい鉱山労働者の手元に置くよりも、白雪姫は、遥かに素晴らしい環境に住むことができるだろう。何よりも、あれほど帰りたかった巨人の国に、堂々と帰還することができるのだ。王子の力ならば、悪い魔女にも負けないだろう。短い不幸な生涯を送った少女にとって、最後の花道ではあるまいか。わしらは、とうとう全員一致で、記念の棺とともに、姫の亡骸をさしあげることを決断した。

 王子は、家来たちに命じて、肩にかついで運ばせることにした。

 霧の深い日だった。わしらも、行けるところまでお見送りすることにした。まもなく、家来のひとりが、黒森の一本の木の切り株につまずいたのだ。奴等はひねこびた根を動かして、いたずらすることがあるのだった。
 
 棺がゆれた拍子に、白雪姫が噛み切った毒林檎の一きれが、咽喉から飛び出したのだった。
 
 すると、何と言うことか、まもなく目をパッチリと見開いたのである。
 
 自分の雪のような白い手で、棺の硝子の蓋を内側から持ち上げた。起きあがった。そして、長いお昼寝から覚めたばかりのような元気な声を出した。
 
「あら、まあ、わたし、いったい、どこに、いるの?」

 それを聞いたときの、王子とわしらの喜びは、たとえようもなかった。

「わたしのそばにいるんですよ」

 王子は、わしらから聞いたことまでを含めて、いままであったことのすべてを話した。

「わたしは、あなたを世界中の誰よりも、可愛いと思っているのです。さあ、わたしの父の城へ来て下さい。わたしのお嫁さんになってください」

 王子は、わし達には七人がかりでも、いささか抱き重りのしすぎる白雪姫の身体を軽々と、何の重さもないもののように、硝子の棺から抱き上げた。

 七歳の時に、わしらのところに来てから五年間が経過していた。美しい乙女に開花の時が訪れたのだ。 彼女が、ついにふさわしい男性に巡り合ったことを、認めないわけにはいかなかった。
 
 白雪姫も、結婚の申し出を承諾した。

「小人たち!今まで、姫の面倒を見てくれた。感謝するぞ!」

 王子は、わし達を見下ろした。この巨人に小人と呼ばれることには、さすがの誇り高い親方も、全く異存がないようだった。

「これを受け取ってくれ!」

 彼は、右手の中指から、大きな金の指輪を抜き取った。親方の逞しい掌に置いた。わしには腕輪のように見えた。純粋な金と銀の合金だった。誇り高い親方も、深々と頭を下げた。

 だが、かすかな暗い不安が、わしの心には蟠った。

 王子は善良そうだったが、その行動には、やや不可解な点があった。
 
 あの山頂で、わしの許可を得てだが、硝子越しに白雪姫の血のように紅い唇に接吻している時間が、少し長すぎるような気がした。内側の霜が溶けるぐらいだった。
 
 そしてあの股間は、明らかに極度の興奮状態を示して勃起していた。わしの太ももぐらいに太い肉の器官が膨脹して反りかえった。
 
 王宮のような上流階級に生きる人士は、通常の恋愛の遊戯には飽きてしまっている。異常な男女の関係を求めるようになる。そこまで頽廃している事実や噂を、金銀細工師として社交界に出入りしていた時代に見聞した。

 ジン戦争の時代からの悪い魔法のいくらかが、あそこにだけは、なお残存しているのだ。わしが知識を得たのも、王宮の図書館の古い一冊の書物の中からだった。
 
 王子は、白雪姫と言う十歳に満たない少女の死体に欲情した。仮死状態への美少女への接吻は、単なる愛惜のためだったのだろうか。 王子は、わしらと同じように正真正銘の死体だと思っていたはずだ。
 
 ジン戦争の時代の魔法の力は、生きていない肉体を人形のように、自分の好きなように、動かすことができる技がある。しかし、それを言うことは、わしの過去を聡明な親方に漏らすことになる。

 白雪姫の秘蔵の収集品も、取り上げられるかもしれない。そんな、危険は犯せなかった。沈黙しているしかなかった。事態は、もうわし一人の気がかりなどでは、どうにもできないところにまで進行していた。
 
 なによりも白雪姫自身が、王子の胸でうっとりしてしまっている。馬上で抱かれたままだった。三年間をともにした、わしらの方を振り返りもしなかった。手も振ってくれなかった。 何を思い惑うことがあろう。すべては終わったのだ。

「長い夢でも見ていたよう」

 そんな少女の艶やかな声だけが、霧の向うからかすかに聞えた。

 巨人族の少年と少女の二人は、こうして霧の黒森に消えていった。

 王子は、わしたちの一番の宝物を奪って行った。が、それ相応の代価を残していってくれた。
 
 指輪は、金銀細工師のわしが正確に七等分した。
 
 親方たちは、その資金を元手に、排水用の横穴を作ることになった。さらに、鉱山を広げようという計画だった。
 
 だが、わしだけは、持ち分を受け取って故郷に帰った。二度と、あの黒森の番小屋には、戻らなかった。白雪姫の思い出の残る土地で生きることは耐えられなかったのだ。

 *
 
 親方と薬草師は今でも、多忙な仕事の合間をみつけては、長い旅をして、寓居を訪ねてくれることがある。生涯、独身で孤独なわしを、心配してくれているのだろう。生来、人嫌いのわしに、話ができる友人がいるというのは、それだけでも嬉しいものである。

 鉱山で新たに良質な鉱脈が発見されたという話も聞いた。ジン戦争後のわが国で、もっとも大きな鉱山のひとつにまで発展していくことだろう。

 巨人の国の技術と、労働力の協力も得ているという。時代は進歩したのだ。黒森を通って、巨人の国にいく通路も、安定するように整備された。頻繁に人や物資が往来している。

 巨大な少女の笑顔が、換気の為に開いた窓から、思いに沈むわしの書斎を覗いた。白い雪のように冷たく美しい肌をしている。

「誰と話していたの?」

「ああ、なんでもないさ」

 わしは、彼女の耳にも聞こえるように大きな声で叫んだ。彼女は十六歳である。わしの三倍の背丈にまで大きくなった。義理の娘は、白雪王妃の子守りとして、昨年から王宮にお仕えしている。今は、休暇をもらい帰宅しているところだ。


 娘の熱い吐息に、書斎のすべての窓が白く曇った。

 また雪が降って来た。屋根に厚く積もった雪下しを済ませたところだった。三階の屋根に手が届くのだから簡単なことだ。
 
 四つん這いになって部屋に入って来た。両肘と両膝の音が、ずしんずしんと響いた。床が振動した。天井の照明が揺れて埃が降ってきた。机の上の硝子の実験器具が、ちりちりと鳴った。
 
 黒檀のような髪に雪の華が、無数の水晶のように煌いた。壁の大鏡に、親子の大小の姿が映った。直立するわしの姿が、娘の大きな笑顔の脇に小さく並んでいる。義理の娘は、雪のように肌が白く、血のように紅く美しい唇を持ち、黒檀のように黒い髪をした美少女だった。義父として誇らしく思っている。

 今度、お妃様は、七人目の男子を出産なさるそうだ。わしは、依頼を受けて生まれてくる王子のために、金の装身具を鋳造しているところだ。お二人は、幸福な結婚生活をおくられているようである。

 白雪姫を亡き者にせんとした前の王妃は、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされたそうである。

 わしが気がかりなのは、魔法の鏡の行方が、誰に聞いても杳として知れないことだ。
 
 今でもどこかで、女性の永遠の美への欲望をかきたてているのではあるまいか?
 
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で、一番、美しい人はだあれ?」
 
 了