短小物語集
蛸の壺
笛地静恵
 いとこの中学二年生の多枝子(たえこ)ちゃんの大好物は、『富士屋』のイチゴのショート・ケーキだった。柔らかいケーキの生地の間に、赤いイチゴと、生クリームが、挟まっているやつだ。こんなに、おいしいものは、地上にはないと思うわ。そうまで、断言したことがある。
 あたし、イチゴのショートケーキを死ぬまでに一人で、お腹いっぱい食べるのが夢なんだ。
 多枝子ちゃんの多古家は、八街(やちまた)という漁港にある。地名の由来は、そこでは、海流が半島にぶつかり、四通八達しているからだという。東京からだと、電車を乗りついで半日以上かかる。長い旅だった。平野の果て。そのような場所だ。暴走岬という観光名所もある。残念なことに、この港町には『富士屋』のケーキ屋さんがないのだ。
 八街鉄道に揺られた。膝の上には、白い紙の『富士屋』のケーキの箱がある。大と小と二つある。ドライアイスは、店で大量に入れてもらったが、だいじょうぶかなと、心配になってきた。暑い日だった。窓から差し込む日光が強い。日陰の側に座って両手で、そっと持ち上げた。大事に扱わないと、柔らかいケーキの形が崩れてしまう。大きく開いた窓から吹きこむ風で、二つの箱を冷やした。貧乏学生の僕には、ケーキ十一個を買うのが限界だった。この夏の小旅行のために、アルバイトをしてお金も貯めた。
 窓の外には、平野の田んぼの緑一色の景色が、何も変わらずに単調に、どこまでも広がっている。何度来ても、地の果てに行くという感覚が消えない。人間と海の世界の境だという意識があるからかもしれない。多古の家系に蛸の血が入っているということもある。
 多枝子ちゃんの家は、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、それに子ども六名。合計十人の大家族だった。五代前のやざえもんの時代に、蛸との出会いがあった。
 風に潮の香があった。魚の腐ったような臭気もある。海に近くなったことがわかる。人魚が大漁であった時代には、ずいぶん、にぎわった場所のようだ。しかし、海流が変化したのか、餌場が変わったのか、人魚が寄り付かなくなってから久しい。収益の低い蛍蛸漁で、かつがつ生計を立てている。今では、ずいぶんとさびれた場所になってしまった。使われなくなった線路も、鉄塔も、起重機も、潮風に茶色に錆びついている。電車が、ようやく停車場についた。
 多枝子ちゃんが、大きく手を振っている。中学校の体操服に、紺色のブルマを履いている。長い素足が、むき出しだった。体操服の白い胸もとが、柔らかく膨らんでいる。もうすぐ十四歳になる。きれいになる年頃だった。僕が来るのを、朝から待っていたのだという。嬉しいことだ。本当のお目当ては、ケーキの方なのだろう。僕の手から、ひったくるようにして、ケーキの小さな方の箱を奪い取った。
「これは、あたしが、持っていてあげるからね。ねえ、お兄ちゃん、ほんとに、あたしだけで食べていいの?」
「いいよ。それは、多枝子ちゃんのための分だ。約束だからね。今年もよろしく。でも、他の子には、ないしょだよ」
 多枝子ちゃんには、弟妹が五人いる。争奪戦だった。一番、年上なので、お母さんたちが漁で忙しいときには、料理や、洗濯や、弟妹達の世話まで、陸の用事のすべてを任されている。けなげにこなしているが、いろいろと欲求不満が、溜まっているようだ。多枝子ちゃんは、ケーキの小箱を宝物のように両手で捧げ持っている。満面の笑みが浮かんでいる。ぺろりと舌を出した。
 彼女は秘密の洞窟で、ケーキを味わってくるという。使われなくなった蛸壺が積み上げられている。さびれた人魚市場の中で別れた。青い海に、白い波が立っている。雲の足が速い。風が強くなりそうだった。暴走岬の灯台が、白く光っている。
 僕は一人で、多枝子ちゃんの家に歩いていった。痩せた猫が、小さな蛍蛸を口に咥えて、目の前を横切っていった。手足が半分以上、食われていた。それでも、丸い眼球を剥き出しにして、バタバタと暴れていた。昼でも、ぺかぺかと虹色に光っている。
 多枝子ちゃんの多古家は、いつも僕を大歓迎してくれる。おじいちゃんは、蛸入道だった。毛のない頭を真っ赤にして、出迎えてくれる。ようきた。ようきた。口を尖らして、ぼそぼそとしゃべる。手が四本ある。器用に網の破れをつくろっていた。
 子どもたちは、冷蔵庫の中にケーキの白い箱を、まるで王様のように鎮座させた。夕飯が楽しみだった。みんなが、ケーキを心待ちにしていることがわかった。
 僕の部屋は、離れにあった。もともとは、多くの人魚漁師を雇って働かせた網元だった。広い敷地の中に長屋づくりの棟が、四方八方に立っている。今でも多古家は、海で生計を立てている。沿岸漁業の蛍蛸漁が専門だった。小さな蛸釣り船を持っている。電飾の光で、海底の蛍蛸を呼ぶ。最盛期には、海中が銀河を沈めたように光るという。庭には、蛍蛸漁の針を無数につけた網が、木を組んだ枠に、広げて干されている。乾燥させるためだ。無数の蛸壺が、黒い口を開けている。
 陽に焼けた畳に荷物を置いた。さすがに疲れた。ぐんにゃりと身を投げ出した。僕は、ここで、大学の最後の夏期休暇の時を過ごして、海洋生物学の論文をまとめるつもりだった。多枝子ちゃんという楽しみもある。
 夜は、おいしい蛍蛸の刺身と、あら汁が出た。旨かった。その後で、みんなの歓声に迎えられて、冷えたケーキの箱が登場した。叔母さんは、僕の母さよりも、十才年下の妹である。蛸の血は、もう薄まっている。ほとんどが人間だった。一番下の女の子だけが、八本の手足があった。多枝子ちゃんは、弟妹といっしょに、自分の分のケーキを、ゆっくりと食べている。
 次の日、僕は多枝子ちゃんから教えられた秘密の洞窟の内部にいた。奥の岩壁に八本足の蛸の姿が、浮き彫りになっていた。神殿という厳粛な雰囲気があった。昔は、そのような場所であったらしい。一族の祀る神様だった。
 多枝子ちゃんは、約束通りに正午に来た。今まで友達と、近くの海で遊んでいたという。中学校指定の紺色のスクール水着姿になってくれている。脇に白い線が二本、入っている。ケーキとの交換条件だった。
 多枝子ちゃんの長い長い足を舐めた。泳いできたばかりなので、塩の味がする。海の水を蹴って日夜、鍛えている。彼女の脚は、引き締まって筋肉質である。褐色に日焼けしている。桜色の足の指の爪までが、五枚の貝のように美しい。指の股の間は白い。
 そこまでを舐めた。指は、一本、一本、口に入れてしゃぶった。ちゅうちゅうと吸っていた。多枝子ちゃんは、じっと、くすぐったさに耐えている。でも、去年までとは、明らかに反応が違う。
 きゃははは。ただ笑い転げているだけではない。苦しそうに、顔を歪めている。足首から、ふくらはぎ、膝、内腿と舐めていく。くすぐったいので、閉じようとしても、僕の身体が邪魔して、閉じることはできない。
 耳に少女の膝の内側が、当たった。顔を挟まれた。そのうちに、はあはあと、息が荒くなっていく。特に膝の裏側の、肌が透けるように青白い、ひかがみの部分が壺のようだった。波音が、多枝子ちゃんの呼吸に、かぶさった。股関節も、柔らかかった。
 太ももの付け根を、水着の縁に沿って、下から上に何度も舐め上げていった。一線は超えない。水着の、やや盛り上がった少女の股間に触れないように、細心の注意をした。長い指先が、五本の小さな蛸の足のように、もぞもぞと、ばらばらに動いている。
 「お兄ちゃん、なんか、あたしへん」
 切なそうに、腰をくねらせた。水着に皺が寄った。そこだけが、透けないように二重になっている。内側に当て布がしてある。股間に、深く食い込んでいる。
 「おしっこ、したくなっちゃった。行ってきていい?」
 いいよ。多枝子ちゃんは、海に向かって逃げるように、駆け出して行った。そのまま、飛び込んでいた。まあ、いい。この夏一杯を使って、馴らしていけばいいのだ。初回としては、予想以上の大成功だった。
 可愛い少女を感じさせたことで、僕も満足していた。海水パンツの中に、射精した。自分も、ねっとりと温かいものを、海水で流そうと思った。おもむろに立ち上がった。
 僕は、濡れた服を乾かしながら、岩の上で多枝子ちゃんに、もっとケーキを食べさせたいと願っていた。そうすれば、もっと楽しめるだろう。八月のお盆の直前に、多枝子ちゃんの十四歳の誕生日が来る。
 金が欲しいなあ。思わず声に出して呟いた。それが、行けなかったのだろう。赤い背広を着た蛸に声をかけられた。赤い蝶ネクタイが、似合っている。
 「ちょっと頼みたい仕事が、あるんだけどね」
「はあ」
「なあに、簡単な仕事でね」
 八街駅に待っている男から荷物を受け取って、深夜に暴走岬の灯台の下で待っている男に手渡す。それだけの話だった。
「金ならば、あるんだよお〜」
 蛸は、触手に札束を、ひらひらとさせた。何となくだが、水死体から盗んだもののように思えた。まあ、それでも、金は金だ。請け負った。護身術も、伝授された。
 仕事は、簡単に済んだ。銃撃戦もなかったし、足をコンクリートで固められて、船から海に落とされるということもなかった。
 小金が、手に入った。八街から一番近い『富士屋』のある大きな都市に、出かけていった。ホールのイチゴのケーキを買ってきた。多枝子ちゃんの誕生日に、間に合わせることができた。秘密の洞窟で待っていた。
 小さくなって、ケーキの内部に潜り込んだ。ここから、飛び出して、驚かせてやろうと思ったのだ。身体を柔らかくする技も、蛸に教わった。やばくなったら、それで蛸壺の中にでも、身を隠せと言う話だった。素質があったのだろう。すぐに、身に着けた。その時は、使わないで済んだ。蛍蛸のように、体をぺかぺかと光らせることもできる。
 くにゃくにゃ。入り込んだまではよかった。しかし、軟体の小さな生物には、ケーキの重量とはいえ、なかなかのものだった。まさに甘く見たようだ。生クリームが、手足に粘着力のある糊のように、絡み付いてきた。自由に動けない。元に戻れない。かろうじて、イチゴの水分を、口を突き出して啜った。喉の渇きをいやした。
 多枝子ちゃんは、僕の登場を、ちょっとの間、待っていてくれた。が、もう我慢しきれないようだった。「いただきま〜す」巨大な声が、雷鳴のように轟いた。僕の悲鳴が、かき消された。持ち上げられていく。凡てを飲み込む口が、上空で待ち構えていた。