短小物語集
龍神雷神・1
笛地静恵
 お峰は、丑三つ時を過ぎた頃に、家の北向きの板壁に、何かがぶつかったようなバンと
いう大きな音がしたのを、聞いていました。薄い布団の下で、飛び上がっていました。雷
が落ちたような音でした。

                 *

 林のフクロウが、驚いたようにホウホウと鳴いていました。お峰は夕方から布団をかぶ
って寝たふりをしていました。一睡もできませんでした。身を固くしていました。龍神村
で、年ごろの生娘たちは、みな同じ気持ちだったことでしょう。

                 *

 七年に一度の龍神様への婚礼の相手を選ぶ、白羽の矢が飛ぶ夜でした。覚悟していまし
た。村一番の美人という評判のお峰は、自分の順番ではないかと思っていたのです。まも
なく十三歳になります。胸も腰も発達して、毛も生えていました。貞操も守ってきました。
神の嫁になる資格は、充分にありました。

                 *

 隣の誠太郎の顔が、まぶたに浮かんでいました。少しだけ涙で、布団を濡らしてしまい
ました。生きていれば、まもなく夫婦になる約束でした。

                 *
 
 誠太郎は、村で一番高い三本杉の上から、男二人の姿を眺めていました。神社から白羽
の矢が放たれるところを、ここから見守っていたのです。一度は、庄屋様の屋敷の屋根に、
それが夜目にも白く彗星のように立つのを見て、安心していました。お峰の家でなければ、
どこでも同じことでした。しかし、それが取り外されたことから、嫌な胸騒ぎがしていま
した。

                 *


 案の定でした。持ち出された白羽の矢は、別な射手の手によって、お胸の家に打たれた
のです。庄屋様は、目の中に入れても痛くないほどの可愛い一人娘が、龍神様の犠牲にな
ることを嫌って、卑怯な策略を練ろうとしているのでした。獲物は、村で一番の美人の娘
になるはずでした。お峰ならば、誰もが疑いを抱かないからです。お峰の家を見下ろす木
の上から、事態を目撃した誠太郎は、危うく声を上げそうになっていました。すぐにフク
ロウの泣き真似をして誤魔化しました。見つかれば命はないでしょう。

                 *

 囲炉裏ばたで、じっと寝ないで座っていたお峰の両親が、肩を震わせて泣いていました。
その声が、木の上の誠太郎の生れ付き鋭い耳にまで、はっきりと届いていました。どこも
貧乏人の子沢山の村なのに、彼らには、どういう訳か、お峰しか子供ができなかったので
す。お峰も起きているようです。北の板の壁から、鉄の矢の先端が威嚇するように、銀色
に突き出していることでしょう。

                 *

 誠太郎は、お峰の家の中から聞こえてくる親子の泣き声に、胸がつぶれるような思いで
した。お峰とは、幼なじみでした。龍神様の選択の日が、無事に過ぎたら、夫婦になる約
束を交わしていたのです。隙があれば、お峰の家の板壁から、白羽の矢を抜き取ってやろ
うと思っていました。しかし、抜き身の夜目にも青白い剣を手にした二人の男が、見張っ
ていました。迂闊に近付けませんでした。誠太郎がここで死んだら、卑劣な事件の真相を
知る生き証人が、一人もいなくなってしまうでしょう。

                 *

 朝になると、隣組の人たちが庄屋様に連れられて、お峰の家にわらわらとやってきまし
た。定められた儀式をするためです。

                 *

 お峰の家族は、全員が村の中央にある、豪華な庄屋様の屋敷に連れていかれてしまいし
た。誠太郎は、ようやく木の上から地面に下りていました。

                 *

 豪華な塀を巡らした庄屋様の屋敷の周囲には、金色の稲穂が重く実っていました。村で
は、この辺りにだけは不思議に、白い米が取れるのです。他の畑では粟とか稗しかとれま
せん。地下水と地味が、特に豊かなためだと言われていました。黄金田(こがねだ)と呼
ばれていました。龍神様の加護を受けていると崇められていました。誠太郎は壁の外から、
黙って見守ることしかできませんでした。

                 *

 お峰が、すでに本物の龍神様の妻であるかのように、女達が世話をしてくれました。温
いお湯を入れた盥で、全身を隅々まで洗ってくれました。生まれて初めてのことでした。
さすがに毛の生え始めた陰部は、手で隠そうとしました。が、そこらは特に念入りに洗わ
れていました。尻の穴まで、きれいにされていました。
 お峰ちゃんは、これから龍神様のお嫁さまになるのだから。失礼がないようにしなくち
ゃ。
 女たちは、口々にそんなことを言っていました。
 母は、娘が湯潅されるのを、手伝おうとはしませんでした。うなだれたまま黙って見て
いるだけでした。

                 *

 父は、食事を清めるための切り火を切っていました。お峰は、五穀を断った山菜を少し
だけ食べました。父に勧められて、少しだけ岩塩の粒を入れた、白湯を飲んでいました。
疲れが取れるというのです。何よりも、おいしい味でした。寝不足のぼんやりとした頭が、
すうっと霧が晴れたように冴えてきました。

                 *

 一生に一度の、白無垢を着せられていました。この日のために、村のみんなが、乏しい
米を出しあって、行商人から法外な値段で購入したものでした。きれいな化粧をされてい
ました。頬に白粉を打たれていました。左の頬のにきびの跡には、特に入念に塗られまし
た。唇に紅を刺されていました。角隠しの中の顔を、おとなしく俯かせていました。清純
な少女の晴れ姿でした。女も男もためいきを付いていました。輝くように美しかったので
す。長いまつげの黒い瞳は、色白の肌と対照的に丸く大きくて、濡れたような光を放って
いました。鼻筋は、高くすっきりと通っていました。少女らしい、ふくようかな頬をして
いました。赤い口元は、卵形の顔の中に、ちょうど良い大きさで納まっていました。俯い
た顎は小さめで、顔全体の印象を慎ましいものにしていました。これならば、龍神様の嫁
にふさわしい。誰もが納得していました。

                 *

 すぐに出立の時が来ました。お峰は、今まで自分を育ててくれた、父と母の前に三指を
ついて、静かに長いこと頭を下げていました。何かを言いたかったのです。が、龍神の花
嫁は、人間と言葉を交わすのは、禁じられていました。それに、何を言えば良いのかも分
かりませんでした。昨夜は、三人で抱き合って泣いたのです。もう涙さえ涸れていました。
お峰の少女の胸は、悲しみよりも期待で高鳴って、膨らんでいました。

                 *

 お峰は、自分の晴れ姿を、誠太郎にも見てもらいたかったのです。が、庄屋様の屋敷を
取り囲んでいる人垣の中のどこにも、彼の顔が見えませんでした。


                 *

 お峰が乗るのは、花嫁の篭ではありません。古来からの作法にしたがって、死人を入れ
る桶でした。酷いことでした。誠太郎は、群衆の中に隠れて息を飲んでいました。犠牲に
なる少女は、龍神村の民にとっては、すでに死んでいるのです。ただ底には、娘の足が痛
くないようにという、せめてもの配慮なのでしょうか。作法によって香を薫いた白い布が、
敷かれていました。

                 *

 お峰は素直に桶の中に入っていました。指示されたように、膝を抱いていました。年の
割りには育ちの良い体格の身体を、出来るかぎり小さくしていました。しゃがみこんでい
ました。手首が、白い紐で結ばれていました。口の中には、綿を詰められていました。唾
液を吸い込まれるので、喉が乾くのです。不愉快な感じでした。口の上から手ぬぐいの布
が、巻かれていました。桶の中で舌を咬まないようにするためだ。そう説明されていまし
た。世話役の庄屋様の話では、龍神様の前で、無学な村の娘が見苦しくないようにするた
めの、止むを得ない対策だというようなことでした。お峰は、確かに無文字なのです。龍
神様に会っても、何を話して良いかも分かりませんでした。ただ、されるように、龍神様
の意向に任せよ。そう庄屋様も諭してくれていました。

                 *


 蓋がされて、中が暗くなりました。桶に開いた小さな穴が、唯一の空気と光の入ってく
る場所でした。五寸釘が蓋の周りに、次々と石で打たれていきました。金槌も使わないの
です。
 がつん。
 がつん。
 すごい音が、桶のなかに反響していました。五寸釘の一本が狙いを外れて、お峰の顔の
すぐ脇に飛び出して来ました。恐怖に、叫びだしそうでした。ここから出してと、言いた
かったのです。しかし、口の中には、白い綿が詰められていました。声も出せませんでし
た。

                 *

 外に出ると婚礼の歌が、老人の枯れた渋い声で流れていました。大勢の人間が行列を見
送っているのが分かりました。龍神村の人口は、老人や赤子を入れても、千人に満たない
のです。お峰には、生まれてから二度目の大群衆でした。穴から覗いていました。本来は、
目出度い歌なのですが、今日の声調は、いつもと異なって、どういうわけか、少しだけ哀
しげなものでした。目出度い日であるはずなのに。

                 *

 誠太郎は、婚礼の歌に胸が塞がれるような、重い絶望感に浸されていました。
明日の今頃までには、お峰は龍神様によって食われていることでしょう。何度も、お峰に
説明したのです。危険だから、村の外に駈け落ちしようと。どう贔屓目に見ても、お峰が、
村で一番の美少女であることは確実でした。龍神様は、過去の例を調べるかぎりでは、す
けべな面食いの神でした。お峰は、素朴に昔話を信じていて、遠い目をするだけでした。
少女の瞳は、夢見がちにきらきらと輝いていました。

                 *


 婚礼の行列は、龍神沼のある村外れの鬼門の北西にある山の方角へと、しゅくしゅくと
進んでいきました。水の香がしました。足沼の脇を通りました。龍神様の本体は巨人なの
です。ここに右足を付いたということでした。岸辺に、葦の濃く茂る沼でした。朝靄に、
向こう岸が霞んで見えないような、広大な沼でした。深さは、浅いところでも大人の背丈
の五、六倍は優にありました。深いところは底無しでした。潜水の名人がいくら潜っても、
底にまでたどり着かないと言われていました。秋の渡り鳥が、何十羽も飛び交っていまし
た。魚を捕って、渡りのための栄養としていました。

                 *


 誠太郎は、行列の後に付いいました。桶を担ぐ人足は、昨夜の抜き身を光らした男達で
した。彼は鳥を石飛礫で落して、焼き鳥にして、お峰にご馳走してやったことがありまし
た。普段は、草叢の虫がご馳走の少女です。ほっぺたが落ちるぐらいに、旨かったと言っ
ていました。お礼にと言って、着物の内側に彼の武骨な右手を導いていました。柔らかく
て触れると蕩けそうな、左の乳房に触れることが出来ました。天にも登るような気持ちで
した。しかし、それ以上は、お峰は身持ちが固くて、絶対に許してくれなかったのです。
あの頃から、お峰は自分が龍神様の嫁になると、心の底では考えていたような気がしまし
た。足の内側の方の湾曲した線に沿って、街道が伸びていました。親指の跡である小沼と
いうのも、脇に添うように先端の部分についていました。そこで、街道は二股になります。
お峰の行列は、龍神沼の方に曲がって行きました。

                 *

 鉄砲谷の辺りに、差し掛りました。鉄砲水で大地が抉れてできた、深い谷間でした。ざ
わめきの声が上がりました。誠太郎の声でした。切れ切れで意味が分かりませんでした。
しかし、どうやら、鎮守の境内から放たれた白羽の矢が、本当は別の家に立てられたのに、
誰かがそれをはずして、動かしたと言っているようなのです。

                 *


 庄屋様の穏やかな声が、お峰の耳にも答えていました。彼が、行列の先頭に立っている
はずなのです。
「誠太郎、お前が、お峰を好いていたことは知っておるが、もう龍神様の選択は、なされ
たんじゃ。どうにもならん。諦めることだ」
「嘘だ。おれは見たんだ。神社から打たれた白羽の屋根が立ったのは、庄屋様の家だった。
だから、」

                 *

「もう。よさんか!」
 誠太郎の声は、不意に途切れていました。村人達に止められて、取り押さえられてしま
ったでしょう。

                 *

 たしかに庄屋様の家には、お峰と同じ年ごろの色白のきれいな一人娘がいました。白羽
の矢は、空から落ちてくるのですから、本当なら屋根に立つはずです。お峰の家には、北
の壁に立ちました。何かが、ちょっとだけおかしかったのです。しかし、もうどうにもな
りませんでした。でも、お峰は、嬉しかったのです。誠太郎が、自分を好いていてくれた
ことが、これで、はっきりと分かったからです。それだけで、満足でした。
「誠太郎、もういいのよ」
 心の中で、そう祈っていました。

                 *

 行列が動きだしていました。誠太郎が、大人たちに反抗して、半殺しの目にあっていな
いか、心配していました。村人には山男の猟師が多くて、気性が荒かったのです。桶が持
ち上げられていました。お峰も、また移動を開始していました。

                 *

 その通りでした。誠太郎だから助かったのです。彼は突き飛ばされて、足元が滑ったふ
りをして、自分から鉄砲谷の木々の上に、飛び降りていました。木々の枝の上では、彼は
猿と同じでした。皮膚を数ヶ所、引っ掻いただけで済んでいました。目が良くて、腕に力
がある少年でした。飛ぶ鳥を落とす石飛礫の名人でもありました。大人になったならば、
鉄砲の名手になるだろうと言われていました。今年の春からは背丈が伸びて、一つ年上の
お峰を追い越そうとしていました。少女の成長は背丈よりも、胸と腰を充実させる季節に
なっていました。まろやかで女らしい体型になっていました。誠太郎は枝から枝に、蔓に
捕まって飛び移りつつ、お峰を追い掛けていました。必ず助けるつもりでした。

                 *

 龍神様の怒りをかうと、村が洪水で滅んでしまうのです。だから、仕方がないのよ。お
峰は、そう何度も誠太郎に話していました。そういう話でした。昔には、もう何度も、滅
びかけたことがあるのです。しかし、誠太郎は信じていませんでした。彼の五感以上の第
六感は龍神沼の中に、何かの生き物の存在を感知していました。それが、何であるにせよ、
神ではありませんでした。それはお峰という、清純な少女を食おうとしているのです。神
とは反対の物でした。戦うつもりになっていました。

                 *


 百年前までは、龍神沼の鉄砲水が、たびたび村を襲いました。村人の大多数が、全員い
なくなるような大惨事でした。そのたびに、大被害がありました。しかし、悪いことばか
りではなかったのです。村は周囲を、高い山に囲まれた盆地でした。村の田畑が、日照時
間の不足のために寒いのに、粟や稗の収穫が多いのは、この時に流出した、龍神沼の肥沃
な土砂のおかげだと、言われていました。庄屋様の黄金田が、その証明なのです。誠太郎
は、龍神様とは、地下に貯まった水が、何十年かに一度、地盤の柔らかい所から吹き出す、
鉄砲水そのものだと思っていました。それと、龍神沼にいる人食いの生き物とは、無関係
だと思っていたのです。

                 *

 ある時、村に旅の偉い僧がやってきました。龍神沼の龍と直談判をしてくれました。話
を付けてくれたらしいのです。それは、七年に一度だけ、村で一番美しい娘を捧げれば、
以後、村を荒らすことは、絶対にしないという約束でした。それから、十四回に渡って、
村は約束を守ったのです。無事に、平和に栄えておりました。しかし、神が、このような
せこい約束を人間とするでしょうか。これは、単に餌を与えてくれと言っているだけです。

                 *

 そのために、命を捧げるということは、龍神村の娘たちが、子供の頃から、言い聞かさ
れていることでした。お峰が、七つの時のことでした。十四番目の龍神様のお嫁さんにな
るという、美しい人の姿を、彼女も誠太郎と同じように大人たちの人垣の彼方から、ずっ
と遠くに見ていました。よくお峰たちと遊んでくれました。声の美しい人でした。誠太郎
の年の離れた姉でした。彼は、二度も自分の愛する人を龍神様という化物に捕られること
に、我慢ができなかったのです。

                 *

 つまり、順番なのです。お峰が十五番目なのです。怖くは、ありませんでした。村で一
番美しい娘とし生まれてしまったお峰には、避けられない運命なのだと思えていました。
それに龍神沼の底にある水の宮で、きれいな着物を着て、おいしいものを食べ放題に頂き
ながら、永遠に若く美しいままで、生きられるのです。破れた着物を糸で繕うこともない
し、お腹を空かせることもないのです。醜いお婆さんになる心配もありませんでした。村
に伝わる幸福な昔話は、何度もお峰は寝物語に聞かされていました。母親にねだったので
す。

                 *

 そんなに良いところなのに、みんなが行かないのが、お峰には不思議に思えるぐらいで
した。あのお姉さんは、村で一番美しい娘しか行けないのよと、悲しい笑顔を見せていま
した。あの時には、すでに予感があって、覚悟を決めていたのかもしれないと、お峰は思
うのです。美しい人でしたから。誠太郎の眉目秀麗なところは、お姉さんに生き写しでし
た。

                 *

 白羽の矢が立つということは、今年は、お峰が村で一番美しいと、認められたことでも
あるからです。女としては、恐怖と裏腹に、明らかな喜びでもありました。お峰は気立て
の優しい、人を疑うことを知らない山の少女でした。時には、とろいという陰口を、叩く
ものさえいましたが気にもしませんでした。そのために、今日の良き日が来たのでしょう。


                 *

 桶が揺れていました。沼への上り坂の山道に入ったのです。村境を、越えるところなの
でしょう。ここからは、行列は世話役と、桶の担ぎ手二人と、しんがりを努める五人組の
長の四名だけになるはずでした。村人の行列は、ここまでなのです。

                 *

 男たちは、エイホ、エイホと山道を登る勢いを付けるために、声を掛けあっていました。
桶は、前後左右に大きく揺れていました。お峰は、穴に目を寄せてみました。前を行く人
の、紺絣の背中しか見えませんでした。

                 *

 桶が止まりました。龍神様の腰掛けという場所です。平らな岩場でした。龍神様が腰を
下ろしたために、その体重で山の骨が砕けて、平らになったという場所でした。事実、大
岩が砕けて細かくなっていました。凄い場所でした。桶を担いできた人足が休憩して、汗
を乾かしているのでしょう。龍神村が一望できるのですが、お峰には見ることができませ
んでした。最後に一目見たいと思いましたが、しゃべることもできませんした。煙草の香
がしました。庄屋様がふかしているのでしょう。世話役と何か話しているようでした。雲
行きが、おかしいというようなことでした。朝出掛けてきたのに、もう夕暮が近かったの
です。山の宵は平地よりも早く来るのでした。

                 *

 誠太郎は龍神様の腰掛けで、一行に追い付くつもりでした。遠くから石飛礫で一人ずつ
目を潰していく計画でした。しかし、鉄砲谷の密林を抜けるのに、予想以上に手間取って
いました。間に合いませんでした。彼が辿り着いたときには、鳥も住まない薄暗い岩場に、
凄惨な山風が、唸りながら吹き下ろしているだけでした。

                 *

 龍神沼のある森に、入っていくのが、お峰には空気の感じだけで分かりました。空気が
冷えていくのが分かります。親指を紐で巻かれた不自由な状態で、なんとか白無垢の前を
合わせていました。下には一枚の襦袢以外には、何も身につけていないのです。

                 *

 昼なお暗い森の底なのでした。村人の手が入っていない、原始のままの森でした。さす
がに、龍神の森にまで薪を拾いに来る、物好きな者がいるはずがありません。誠太郎は何
度も入り込んでいました。敵情視察のつもりでした。今日は、一つ目の猿が、彼の目の前
に、鋭い牙を向いて立ちはだかっていました。龍神様を守るための存在のようでした。今
までは、遠くから見守っているだけだったのです。猿はあとから、あとから、湧いて出て
くるように、溢れてきました。森の主人が、忌まわしい儀式を済ませるまで、彼の足を止
めるつもりなのは明らかでした。彼は背中に隠した短剣を引き抜いていました。逆手に握
り締めていました。戦うつもりでした。

                 *

 お峰は誠太郎に連れられて、肝試しに来たことがあります。あの時は、一つ目の猿に出
会ってしまい、怖くて泣きながら帰ってきました。遠くで猿の断末魔のような悲鳴が聞こ
えていました。これが、龍神山の妖気というものなのでしょうか。体毛が、すべて逆立っ
ていました。
 いきなり蓋の上で、びしゃびしゃという水の跳ねる音がしました。大粒の雨が降ってき
たのです。雷鳴も聞こえました。天候が変化しているのです。冷気は、このせいだったの
でしょう。
「こんなところに、長いは無用じゃ」
 庄屋様の声がしました。桶が下ろされました。それでは、ようやく外に出られるのです。
龍神沼に着いたのならば、出してくれるという約束でした。そこで、龍神様が、沼から上
がってくるのを、お峰は一人で静かに待つのだという話でした。

                 *

 グワッシャ〜ン。
 相当に近いところに、雷が落ちたようでした。岩が砕けるような轟音がしました。
「早くしなさい!。龍神様がお怒りじゃ」
「よいしょお!!」
 男たちの掛け声が、しました。

                 *

 次の瞬間、お峰を入れた桶が、横倒しになっていました。ぐるぐると回転を初めていま
した。角隠しの頭を厚い蓋に強くぶつけていました。目から火花が散っていました。龍神
沼の水面までは、かなり急な斜面の土手があるのです。そこを転がっているのでしょう。
身体を支えることも出来ずに、壁に身体をぶつけていました。いくら雷雨で焦っていたに
しても、龍神様の嫁に対して、何という失礼な扱いをするのでしょうか。さすがに、温厚
なお峰も腹を立てていました。龍神様に天罰を与えて下さいますようにと、思わず祈って
いました。

                 *

 ばっしゃん。
 お峰は、桶が水面に落ちたのが分かりました。そのまま、しばらくの間は、桶は中の空
気の浮力で、浮いたままでいました。小さな穴から、水がちょろちょろと入ってきました。
その内の一つだけは、お峰は、なんとか不自由な手の指を入れて、塞ぐことができました。
もう一つも片足の裏を当てました。しかし、板の穴は、ほかにも無数にあったのです。身
体で蓋をしました。しかし、とても塞ぎ切れませんでした。桶の中に水が貯まっていまし
た。溺れると思いました。息が苦しくなっていました。
「お助け下さい。龍神様。早くお迎えに、来てください」
 口の中の綿で声が出ないのです。お峰は必死になって、心で祈っていました。

                 *

 その時です。小さな穴から入ってくる水と一緒に、白く光る蛇が、音もなくしゅるんと
流れこんで来たのが、見て取れました。それは、なんと白無垢の裾から、身をくねらしな
がら、太ももの間に入り込んでしまったのです。噛まれると思いました。お峰は、両腿を
固く閉じていました。しかし、股間の割れ目の間に真下から、細い蛇の頭の部分が、ぐい
っと入り込んでくる感触がありました。たいへんです。白蛇が、少女の大事な部分に、潜
り込んでしまったのです。かすかな抵抗感がありました。それから。ずん。鈍い痛みが膣
に走りました。

                 *

 お峰は、痛みと恐怖のあまり、気を失っていましました。
短小物語集
龍神雷神・1 了