短小物語集
龍神雷神・2
笛地静恵
 どれくらいの時が、立ったのでしょうか。お峰は、ようやく目を覚ましました。そんな
に時間が立っているようには、見えなかったのです。傾いた桶のなかに、まだ半分しか水
が貯まっていない状態でしたから。龍神沼の緑臭い水に、満たされていました。身体が窮
屈でした。桶のなかに、全身が詰まっているような感じがしました。身動きが、取れない
のです。

                 *

 しかし、水に濡れたせいでしょうか、手の紐が力を入れると、ぶつんと音を立てて切れ
ていました。濡れた紙のようでした。水を含んだ白無垢の生地が肌に張りついて、皮膚を
締め付けるような感覚がしていました。胸を締め付けてくるようでした。息が苦しかった
のです。お峰には分からないように、水を吸って締まっていくような布が、白無垢には裏
打ちされていたのです。龍神様から泳いで逃げられないようにする、代々の秘密の工夫で
した。

                 *

 手が自由になったので、お峰は角隠しを脱いでいました。顔の手ぬぐいをはぎ取って、
不愉快な綿をぺっと水の中に、吐き出していました。唾液でべっとりと濡れていました。

                 *

 両肘で、桶の厚い蓋を押し上げるようにしました。バカン。大きな音を立てて、何本も
の五寸釘で密閉されていた、蓋が弾け飛んでいました。桶の板も、衝撃でばらばらになっ
ていました。

                 *

 お峰の身体は、龍神沼の水の中に、桶という仮りの船もなく、投げ出されていたのです。
彼女は、泳げないのです。足沼や鉄砲谷の谷川の水に、足の爪先さえ浸すのが怖い臆病者
でした。水が、大嫌いだったのです。その上に、水を含んだ白無垢は、まるで鋼鉄のよう
に、彼女の身体の動きを束縛していました。溺れると思いました。口の中に、青臭い水が
入ってきました。息が出来ませんでした。手足を、無茶苦茶に動かしていました。

                 *

 さしもの白無垢の抵抗も、彼女の力の前に、敗退していきました。縫い目の糸が、ぶち
ぶちと切れていくのが分かりました。布が身体から剥がれ落ちるようにして、流れいくの
が分かりました。なんとか水面に、出なければなりませんでした。自由になった全裸の身
体を、浮かそうとしていました。

                 *

 しかし、そうしている内に足の裏が、深くて柔らかい泥を踏んでいたのです。龍神沼は、
底無しだと聞いていました。こんなに浅かったのでしょうか。意外に、桶は沼の中心では
なくて、まだ岸辺に近い方だったのかも知れません。幸運でした。

                 *

 緑の水から、岸辺に這い上がっていました。森の梢の向こうで、星がまばゆい程に光っ
ていました。頭がふらふらとしました。身体が、すうっと引き伸ばされていました。吸い
込まれそうな気分でした。そのくせ軽くはなくて、手足は泥のように重かったのです。昨
夜から、一睡もしていなかったのです。岸辺の柔らかい砂に、地響きを立てて倒れこんで
いました。

                 *


 目が覚めると、お峰は緑の苔のような物の上に寝転んでいました。朝の光が明るく差し
ていました。助かったのです。どこも怪我をしていないか、確かめていました。

                 *

 股間に、痺れたような痛みがありました。白蛇が入り込んだところです。昨夜のことは
夢ではなかったのです。手を当てると、指先が、かすかに赤く染まりました。血でした。
でも、もう量はわずかでした。止まりかけていました。白無垢はどこにもなくて、お峰は
生まれたままの姿をしていました。

                 *

 風景が、変化していました。ここは、いったいどこなのでしょうか。あたりを見回して
も、山が見えませんでした。

                 *

 龍神村は盆地の村です。四方八方どちらを向いても、いつも山が目に入ってきました。
今は、なだらかな緑の丘のようなものだけなのです。どちらを向いても、煙ったような朝
の秋霞に、閉ざされてはいました。その向こうには明るい大地が、線のようになって水平
になった果てまで見えていました。

                 *
 
 なんという解放感なのでしょうか。これが、龍神様の世界なのでしょう。ついに来たの
です。感動のあまり、泣きだしていました。それから、全裸でも何を恥ずかしがることも
なく、四肢を延ばして、大きく背伸びをしていました。誠太郎以外には、男の手が触れた
ことのない、少女の清らかな乳房が、誇り高く空を向いてつきたっていました。

                 *

 水の宮ということで、沼の底の世界のはずなのです。まるで空気のなかと同じように呼
吸できました。まったくお峰の想像を越えた場所でした。

                 *

 龍神様のご神体は、本当は美しい都の若殿のような、高貴な姿をされているそうです。
その姿は、どこにも見えないようです。広大な世界でした。どこに、いらっしゃるのでし
ょうか。苦しい試練の時は、まだ終わった訳ではないようです。奇妙な世界でも勇気を出
して、探しに出掛けなければならないのでしょう。そうは簡単に合えないようです。勇気
も神の妻の資格なのでしょう。

                 *

 龍神様を待たせてはいけないのでしょう。立ち上がっていました。身体には力が溢れて
いました。歩きながら、角隠しの下で高く結い上げていた髪を、櫛を抜いて解いていまし
た。上半身を揺すって、毛髪を背後に投げるようにしていました。濡れてはいましたが、
お峰の豊かな緑の黒髪は、腰骨の辺りまで長く背中に垂れていました。後頭部で両の手で
扱いて、なんとかまとめるようにしていました。目尻にかかる、うるさい前髪は何回も指
先でかき揚げていました。

                 *

 誠太郎は、龍神沼のある森の奥の方で、巨大な生き物が立ち上がる気配に、息を飲んで
いました。全身は、殺した猿の帰り血を浴びて染まっていました。朝の陽光が、彼の姿を
さらに真っ赤に染めていました。木々が裂ける凄まじい音が轟き渡っていました。朝の光
を隠す、まがまがしく黒い影でした。頭上には黒雲が渦巻いていました。あれが、龍神様
の正体なのでしょうか?

                 *

 鳥が枝から飛び立っていました。全山が、恐慌を来しているのが分かりました。巨人で
した。伝説は真実だったのです。森のもっとも高い木の梢が、膨ら脛ぐらいまでしかあり
ませんでした。胸の巨大な双の乳房が、揺れていました。女だということが分かりました。
雷鳴のような声で咆哮していました。まさに怪物の降臨でした。

                 *

 しかし。
 ぐううっ。
 大きな音を立てて、お峰の腹がなりました。水の宮では、何でも食べ放題だという話で
した。昨日は朝に、山菜と白湯を飲んだだけなのです。お峰は、腹が減っていました。ご
馳走にありつけるのでしょうが、その前に、ちょっと腹拵えをするぐらいは、しても良い
でしょう。

                 *

 何か、食物はないでしょうか。とりあえず地面を探していました。お峰は、貧しい村の
子供ですから、小さな頃から、虫を探しては食べていました。貴重なタンパク源でした。
口の中に唾が溜まってきました。

                 *

 誠太郎は、龍神沼に登る山道を掛け下りてくる、二人の男に出会いました。死人のよう
に青白い顔でした。恐怖のために、人相さえ変わっていました。お峰の家に白羽の矢を射
て、龍神様を冒涜した男達でした。庄屋と世話役を帰った後でも、二人は森の中に残って
いたのです。沼の落された上玉の美少女を、龍神に食われる前に、自分たちで賞味しよう
と思っていたのでしょう。

                 *

 二人を追い掛けるように、森の上空から、恐るべき物が下降して来ました。
                 *

 子供の頃から、お峰は誠太郎に虫の取り方を教えてもらっていたのです。名人になって
いました。しゃがみこんでいました。地面に顔を、鼻の頭がこするほどに、近付けていま
した。お峰は、濡れたように輝く丸く大きな瞳の持ち主でしたが、目は悪かったのです。
本当は、度の強い近眼というところでした。
                 *

 いました、いました。足元の苔の間に、小さな虫がいました。二匹もいました。逃げな
いで、彼女を見上げているような気がします。鼻息で一匹が吹き飛ばされていました。間
抜けな虫達でした。

                 *

 さすが、龍神様の世界です。人間に会ったこともないのでしょう。恐れることも知らな
いのです。少し可哀相でした。が、背に腹は変えられません。一匹を指先に摘んでいまし
た。口の中に、ぽいっと落としていました。おそるおそる、ゆっくりと噛んでいました。
味わっていました。

                 *

 けっこう旨い虫でした。肉の味がします。ちゅっと体液を吸い込んでいきました。ほの
かな塩の味がしました。液が無くなった後は、ばりばりと奥歯で噛み砕いていきました。
蜂の針のように鋭いものは、ぺっと吐き出していました。それまで、彼女を見上げていた
虫も、一匹が食われたと分かると逃げ出していました。しかし、所詮は虫の足です。人間
の大きな歩幅から、逃げられるはずもありません。

                 *

 誠太郎は、男を貪り食う、巨人の正体が分かりました。お峰でした。その凄まじい様子
を、凝視していました。ぺっと、飴のように曲がった日本刀を、舌の先に乗せて吐き出し
ていました。いくら巨大になっていても、その顔を見間違えるはずはありません。稲妻に
打たれたような衝撃でした。彼女は股間から血を流していました。それは白い内腿の皮膚
に、赤い川となって流れ下っていました。溶岩のようでした。もう血糊となって、こびり
付いているのでしょう。龍神様との間で何があったのかを、明白に示していました。

                 *

 二匹目を無造作に指先に摘み上げると、お峰は青い苔を越えていきました。

                 *

 誠太郎は、お峰の巨大な脚が森と山々を跨いでいく、光景を見上げていることしかでき
ませんでした。明らかに彼の姿が、見えていないのです。猿の返り血のせいでしょうか。
好都合でした。お峰に追い付こうと、山道を駆け下っていました。しかし、あの歩幅では
たちまちに、村に到着してしまうことでしょう。長年の付き合いから、空腹の彼女が何を
するべきか分かっていました。なんとか止めなければなりません。

                 *
 
 しかし、大地は巨人の一歩ごとに、大地震のように鳴動していました。跳ねとばされて
いました。それに、お峰の身体は、一歩ごとに大きく大きくなっているのです。壮大な歩
幅で遠ざかっているはずなのに、その肩幅は、ほとんど変化しませんでした。肉体は、彼
の頭上に覆い被さるように、際限なく天に向かって膨張していくのでした。

                 *

 お峰は、たちまち平たい地面に、虫が何十匹と集まっているところを発見していました。
捕まえていました。虫の中には、地面に四角い巣のようなものを作って、利口に隠れてい
るものもいました。しかし、それも虫の浅知恵です。そんなもので、人間から逃げられる
と思っているのでしょうか。爪先で、軽く弾くだけで、どれも簡単に、ばらばらになって
壊れていきました。

                 *

 手に唾を付けて、地面に付けるだけでした。何十匹もの虫が貼りついてきました。蟻を
取るのと同じ要領でした。腹が金色に半透明の奴を、捕まえると甘いのです。ここには、
そのような蜜を持った、蟻はいませんでした。べろべとと舐めながら食べていきました。

                 *

 座るのに、ちょうどよい場所を見付けていました。そこに座って、ぼりぼりと食い初め
ていました。一度に、何匹も平らげていきました。身体に栄養がつくような気がしました。

                 *

 誠太郎は龍神の腰掛けに、お峰が座る光景を麓から目撃していました。岩石が砕ける悲
鳴のような耳障りの音が、轟いていました。山が巨女の体重に負けて、屈伏している断末
魔の声でした。小さいものですら家のような岩石が、次から次へと山の斜面を転げ落ちて
くるのでした。避けるので精一杯でした。

                 *

 地上の世界の虫のように、固くないのです。お峰の白い健康な歯が噛むと、体液がじゅ
わっと、口の中に広がりました。肉は柔らかいのです。中に骨があって、これが口の中で、
ぽりぽりと砕けてくれます。感触が、快いのです。さすがに、龍神様の世界の虫でした。
地上の虫よりも、よほど上等の味がしました。簡単に見つかるものは、あらかた食い終わ
っていました。一人食うたびに、消化と吸収していました。お峰の血と肉に変化していた
のでしょう。見ている間に、むくむくと大きくなっていきました。本人は、まったく意識
してもいませんでした。

                 *

 しかし、虫は、ちょっとだけ塩味がきつかったのです。水が欲しくなりました。足跡の
形をした、小さな水溜まりがありました。少し青臭かったのですが、それも全部、ずるず
ると音を立てて、飲み干していました。数口で飲み干してしまっていました。

                 *

 人間の顔なのですが、あまりにも大きすぎて全体を、一度に視野に収めるのは無理な話
でした。龍神村の盆地の空のほとんどを覆い隠していたのです。ここに、木のようなまつ
げを、何本も周囲に生やした黒い湖のような瞳が光っています。地面の森の風景を映して
いました。白い頬の肌には、産毛が金色の雑草のようにまばらに生えていました。白粉は
ほとんど流されていました。透き通るような皮膚の下で、血管が青と赤の川のように縦横
無尽に流れていました。少女のにきびの跡が、火山の火口のようでした、金色の半透明な
瑪瑙のような膿が、紅玉の結晶のような血の中から盛り上がっていました。そこに白粉の
粉が、無数の金剛石のようにまぶされていました。あちらには、山の尾根のような鼻梁が、
玉のような汗の粒を、長い斜面に滑らせています。一粒が、誠太郎の手では、ようやく持
てるかどうかという直径の玉でした。鼻息が囂囂と、風のようなうなりを上げていました。
穴が左右で二つあるので、風の音も高いのと低いのと、二種類ありました。片方の穴が、
詰まり気味なのかもしれません。誠太郎の方にも、突風となって吹き下ろしてきました。
その向うに赤い上唇の線・u桙ェ、ぼんやりと見え
ていました。足沼に口を付けていました。紅の脂が、まだぬめぬめと光っていました。岸
辺の葦の緑と鮮烈な対比をなしていました。少女の口の中の唾液の甘い匂いに、血臭が交
じっていました。

                 *

 足沼の水が、ごぶりごぶりと数口で飲み干されていました。泥の底が見えていました。
お峰は、もう龍神村の周囲の山々さえも、足元に見下ろすような大巨人になっていました。
さすがの誠太郎も、自分のいいなづけが、もう龍神の世界という遠い場所に去って行って
しまったことを、認めなければなりませんでした。彼は龍神沼の麓の村境から、さらなる
地獄図を目撃する運命だったのです。

                 *


 しかし、沼の水が、お峰の身体に合わなかったようです。お腹が、ごろごろと雷のよう
に鳴っていました。お峰は、その場所に、しゃがみこみました。村の子供は、野ぐそぐら
いは女の子でも平気でするのでした。

                 *

 びっくりするほどの、大きな、おならがでました。千の雷が、一度に爆発したようでし
た。轟音が、山々を振動させていました。雷神の降臨でした。鳥も猿も衝撃のために、失
神して木から落ちていました。あちこちで、雪崩が発生していました。山の襞に反射して、
鳴り響いていました。木霊となって、陰陰と轟いていきました。やがて高い秋空に、吸い
込まれるように消えていきました。

                 *

 それから、お峰の肛門を円の中心として、半径十里に、熱い突風が襲来していました。
家を吹き飛ばし、人間を窒息させ、森を枯らし、山々を一瞬にして黄葉させていました。
逃げ遅れた山の獣達も、倒れていきました。

                 *

 お峰は、一番大きな虫の巣を、ばらばらに吹き飛ばしていました。中には、まだ何匹か
の虫が、残っていたようです。しかし、逃げる間もなかったでしょう。庄屋屋敷が、爆風
でなくなった後には、摺り鉢型の、深い窪みが出来ていました。

                 *
 
 爽快な表情で小便をしていました。地面にへばりついただけの、虫の巣を押し流すのに
は 十分に過ぎるほどの鉄砲水が発生していました。柔らかい黄金の田を、深くほじくっ
ていました。

                 *

 お峰は龍神沼の水を昨夜、溺れたときに腹が膨らむほどに、飲んでしまっていたのです。
たまったものを、すべて排泄していました。びっくりするほどの大量な軟便を、びりびり
と垂れ流していました。沼に浸かって、お腹が冷えてしまってもいたからでしょう。黄金
の高い山が、盛り上がっていました。

                 *

 その辺りの苔を毟って、尻の穴をきれいに吹いていました。龍神様に失礼があっては、
申し訳ないと言われていたのを、思い出したのです。柔らかい苔に、尻を押しつけて丁寧
に拭いていました。出すものを出して、清清していました。

                 *

 それから、おもむろに立ち上がっていました。両手を空に上げて、のびをしていました。
太陽にも、のどちんこが覗けるような、大きくてのどかな、あくびをしていました。口腔
は千人の血で、真っ赤に染まっていました。秋の淡い陽射しのはずなのに、まったく寒く
なかったのです。肌に、ぽかぽかと暖かかったのです。風は穏やかでした。ほとんど無風
に近い状態でした。これも、風の強い盆地の村に育ったお峰には、嬉しかったのです。秋
なのに初夏の午後のように、白い肌が、かすかに汗ばんでいました。素晴らしい世界でし
た。お峰には、霞のように見えるものの正体は、本当は地面に低く棚引いている低層雲だ
ったのです。お峰の膝小増よりも遥か下の脛の辺りに、雲がまとわり付いていました。高
層雲でさえも、乳房の高度の辺りで、ほのかに薄く流れていました。気圧と温度の異なる
三つの種類の、雲が発生しやすい空気の層よりも、遥かに高い位置にあって、黒髪の頭は
天にも届きそうでした。

                 *

 お峰は龍神様を、探しに行かなければなりません。地平線の方に、遥かに美しい白い山
の輝きが見えました。あれが水の宮なのかもしれません。

                 *

 いまごろ、誠太郎と父と母は、どうしているだろうかと、ちらりと思いました。

                 *

 しかし、足元に自分が無残に破壊した、龍神の村の廃墟があることには、まったく気が
付いていませんでした。

                 *

 千人の村人のほとんどは、彼女の健康で壮大な少女の食欲によって、胃の腑の中に食い
尽くされていました。足沼は、干されてなくなっていました。その代わりに大雨が降れば、
新しい足沼になりそうな深い凹地の跡が、いくつも残っていました。村の庄屋様の屋敷と
黄金田は、大便の山の真下になっていました。新しい鉄砲谷も生まれて、小便の湯気を濛々
と上げていました。龍神沼のあった山の形も変化していました。ずいぶん低くなっていま
した。

                 *

 龍神村の生き残りは、お峰には苔にしか見えなかった、深い森林の奥に逃げ込んでいた、
ごく僅かな者だけでした。誠太郎に、家の残骸の下から助けだされた、お峰の母などの他
には、山の狩猟で出ていた者など、数えるほどしかいませんでした。直撃を受けて踏み潰
されたり、大小便の下になったりしただけではありませんでした。お峰の巨大な身体は、
ただ移動するだけで、周囲に大惨事を齎らしていたのです。大地はひび割れたように、あ
ちらこちらで、ずたずたに裂けていました。山は雪崩を打って、形を変えていました。

                 *

 お峰の頭の中にあるのは、美しい龍神様との、新たな出会いのことだけでした。大股に、
龍神村の周辺の山々を跨いでいました。盆地の外に出ていました。雪を頂いた山脈の方向
へと、無造作に山野も村落も踏み潰しながら、歩きだしていました。お峰には霞と思える
雲の下になって、足元もよく見えなかったのです。雲海の上を跨いで歩いていました。足
元では、白い雲が煙のように渦を巻いていました。

                 *

 山の鍾乳洞の外では、大暴風が吹き荒れていました。お峰の膨大な肉体から熱気が放散
されていました。そこにいるだけで、空気が乱れているのです。村は、お峰の身体の作る、
広大な影の下になっていました。時ならぬ夜の帳が暗く下りていました。移動するとなる
と、大暴風雨の通過のようでした。木々は枯草のように、岩は砂粒のように、高く飛んで
いきました。原初の暴力的な臭気が、空気を黄金色に染めていました。誠太郎は、深い洞
窟の中にいました。代々の災害を潜り抜けて崩れなかった、堅固な岩の穴の奥でした。誠
太郎は自分達が、龍神様の真の力を後世に語り伝えるために、生き残ったのだということ
が分かりました。彼も片目を失っていました。

                 *

 お峰は白い雪を頂いた、この国で最大の山脈を、きらめく水の宮だと考えていました。
裸の美しい上半身を出した若者が、その向うから自分を手招きしていることに気が付いて
いました。驚きに深呼吸をしていました。少女の乳房を、大きく揺らしていました。胸と
陰部を、手で隠すようにしていました。恥じらいの笑みを、口元に浮かべて、おずおずと
近寄っていきました。

                 *

 誠太郎は動物的と言っても良い、種族保存の本能に突き動かされていました。お峰の母
親の着物を脱がせていました。豊かな白い腹の上に、乗っていました。娘に劣らない美人
であったことに、ようやくに気が付いてもいたのです。父の方は瓦礫の下で、すでに息絶
えていました。悲鳴を上げている、お峰に良く似た女の、黒く密生した毛に囲まれた穴を、
猿の血塗れの身体で深く貫いていました。子孫を作らなければなりません。誠太郎の全身
に、獣のような剛毛が生え初めていました。

龍神雷神・2 了

【作者後記】山よりも大きなGTSを、いわゆる『創作民話』風に登場させられないかと
思って作ったものです。「ダイダラボッチ伝説」の、女性版というところでしょうか。スカ
トロジー系の第四弾です。『龍神沼』の名前は、子供の頃に読んだ石ノ森章太郎先生の、美
しい幻想的な短篇が記憶にあったので、それを借用しました。メガGTS物は、普通サイ
ズの人間との意志の疎通が困難なため、物語を作るのがたいへん難かしいです。悲しい結
末になってしまいました。最初は、誠太郎の視点で書きました。途中で、全面的にお峰の
方向から書きなおしてあります。お楽しみ頂ければうれしいです。(笛地静恵)