短小物語集
天の蛙・・・夏目漱石『夢十夜』による長編のエスキース
笛地静恵
 るりだは、逞しい太ももの筋肉を屈伸させていた。ごへるの目の前で、今年、最も高く延びた黒節草を飛び越えた。白く大きな腹部を、喜びにさらに膨らませていた。頂点に太陽が光った。蛇女狩りをしても良いという認可を、ついに長老らんぐから得た。
 そして、長老らんぐを食べた。田子の一族は、その者を食べることで、その者の知恵と力を、我が物にできる。民草を苦しめる女怪カグヤを、これ以上、野放しにしてはおけない。長老らんぐは、その老いた身をるりだに捧げてくれた。彼女の心には、多くの子どもたちをカグヤに食われた悲しみの涙が凝固していた。るりだも、その苦さを感じた。絶対に退治してやる。心に誓った。二人の戦士の息が合わないと、蛇女カグヤを倒すことはできないのだ。
 相手が遠くにいても、互いに言葉を交わすことができる菅傘を被った。姿を消すことができる隠れ身をさらに強化する蓑もある。もう一族に二振りしか伝わっていない、黒い三つ又の鉾のひとつ、風神を手に持った。雷神は、ぱろるが所持する。田子の一族では、男よりも女の方が、体が大きくなる。戦うのは女の役割だった。
 るりだにしても、同じ春に生まれたごへるの一倍半ぐらいはあった。逞しい筋肉に包まれた太ももを、尻の上に乗せている。膝を折っている。水かきのある後ろ足の五本の指で泥を掴んでいた。前足の水かきのない四本の指は、狙いを定めるように動いていた。すぐに次の行動に移れるように、全身の筋肉の力をぬいて、ゆったりと構えている。
 崖の都を出た。るりだは、跳躍した。下まぶたが動いて、瞳に瞬膜という透明な膜を張ってくれる。砂粒などが、大きな眼球に入ることを防いでくれる。彼女は、自分の身体の十倍以上の距離を一瞬で飛んだ。長い折れ曲がった坂道を下りて行った。
 遠い昔に、海底が強い力で押し上げられて陸になった。その時に加えられた強い力で、地層と直角に割れが入った。これを節理という。節理の裂け目が、水の流れによって広がっていったのだった。田子の一族は、その穴に分かれて住んでいた。幾つも地層が重なる崖に、さらに多数の穴を掘っていた。固い泥の部分と、柔らかい砂の部分が、交互に層をなしていた。そのやわらかい方に住んでいた。もともと湧水が、穴をうがってくれていた。それを広げることで、住処にすることができた。谷底には土筆川があった。対岸にも、同じような崖がある。同じような平行な地層をなしていたが、こちらが、裸子や被子植物が茂って、じめじめとしているのに対して、あちらは、からりと渇いていた。田子の一族は、湿った場所を好んだ。あちらには誰も住んでいない。
 川縁の沼地に降りた。すぐに、蛇女のものだとわかる、鱗が泥の上を這った古い跡が見つかった。窪みの中にも、雨水がいっぱいに湛っている。
 叔母のぱろるは、一間ばかり前にいた。歴戦の勇者である。勇者るるるを食っている。隠れ蓑を着た肩の後から、三角に張った雷神鉾の先端が見えている。るりだの笠が少し振動した。ひどい路だと云っている。ひどい晩だと言っていた。最悪の夜だとも言っていた。ぱろるの口の悪さには、子供の頃から慣れている。最悪の場合を想定して、事に当たるのが、この叔母の生き方だった。だからこそ、今まで生きてこられたのだろう。蓑の影は強い雨足に吹かれて闇に紛れた。気配を消している。
 田子の一族の領土の中央。土筆川にかかる石橋の上に立っていた。下の流れを見た。黒い水が、黒節草の間から推されて来る。上を三寸とは超えることがない。その底に、長い黒髪藻が、うつうつと動いている。いつもは、奇麗な流れである。今夜は、底から濁っている。川底から、泥を吹き上げている。上からは、雨が叩く。その真中を、いくつもの渦が重なり合って、回転しながら通っていく。るりだは、しばらく渦を見守っていた。叔母は「来る」と云った。蛇女カグヤが来る。
 るりだたちは、古代の優れた技術で造られた玉石の橋を渡った。南への街道をすぐに左へ折れた。渦は、青い水の中をうねうねと延びて行く。流れは、どこまで押して行く。一町ほど走った。土筆川の中央の中州に渡った。
 るりだの視野には、雨の幕ばかりが見える。ぱろるは、笠のへりから空を仰いだ。空は黒い。雲の蓋によって暗く封じられている。雨は次々と落ちてくる。隙間がない。ざあっと云う音がする。身に着けた笠と蓑にあたる音である。四方の黒節草にあたる音である。上流の蟇王の森にあたる固い金属的な音も、遠くから響いて来る。蟇一族の支配する場所だ。田子一族の数倍の身体を持つ。
 森の上には、黒雲が黒金杉の梢に呼び寄せられたようにして、奥深く重なり合っている。自分の重みで、だらりと上空から下りて来ている。雲の足が、今、黒金杉の頭に絡みついた。放電する。雷が森の中へ落ちる。爆発音が轟いた。
 るりだは、五本指の足元を見る。渦は限りなく水上から流れて来る。蟇王の住まう流人の船のある湖水が、あの雲の雨に襲われたのだ。渦の形が、急に勢いづいたように、くっきりと見える。ぱろるは捲く渦を見守っていた。
「来る」るりだは、長老らんぐの声を聞いた。彼女の目は、今までは見えなかった前兆を読み取っていた。らんぐは、るりだの実の母だった。
 叔母は、隠れ蓑を作動させた。その姿が透明になっている。こんなに至近距離なのに、体の輪郭が、辛うじて分かるだけだ。その向こうに風景が透けている。るりだも、田子の一族の隠れ身の術を使っていた。ごへるほどには、上手にできない。蓑が補助してくれる。しかし、長くは持たない。
 若いころから、何度も長老らんぐに訓練されている。中洲の前後の持ち場についた。るりだが後衛である。同士討ちを防ぐために、三つ又鉾の雷電が、届かない間合いを守る必要があった。るりだも水の中に下りた。勢いの凄じい割には、さほど深くはない。彼女の太い腰回りまで浸るくらいである。
 ぱろるは、流れに大きな腰を据えている。もう全く見えなかった。蟇王の森を正面にして、川上に向って三つ又鉾を構えているだろう。
 るりだは、闇に大きな目玉をぎょろりと見開いていた。正面からまともに押して来る渦を眺めていた。蟇王の湖から流されて来た人魚が、渦の下を通る。蛇女カグヤも人魚を狩るために出て来る。田子一族を多数食らっている。蛇女も、鱗に隠れ身の術を習い覚えている。
 るりだは、一心に凄い水の色を見つめていた。もとより濁っている。茶色の上皮の動く具合だけでは、どんなものが、水の底を流れるのかは全く分からない。それでも、瞬きもせずに、浸っていた。前衛のぱろるの三つ又鉾雷神が、動く水音を待っていた。けれども、それがなかなかに聞こえてこない。
 雨脚は、しだいに黒くなる。土筆川の色は、だんだん重くなる。渦の紋は、劇しく形を変えながら次々に水上から巡って来る。この時どす黒い波が、鋭く眼の前を通り過ぎた。その中に、虹色の鱗が見えた。一瞬のことだ。瞬きもゆるされない。鈍い光を受けたカグヤの鱗が連続する。長さの感じがあった。この文様は魚ではない。蛇女カグヤだ。
 途端に、流れに逆らって、三つ又鉾雷神の柄を握っていたぱろるの右の手首が、蓑の下から肩の上まで、弾ね返るように動いた。続いて黒く長い風神の影が、るりだの手を離れた。
 暗い雨のふりしきる中、重たい縄のような曲線が影を描いた。巨大な物体が、向うの土手の上に落ちた。と思うと、蛇女が、黒節草の中から二つの鎌首を、むくりと一尺ばかり持上げた。その二つの首に、三つ又鉾雷神と風神が、突き刺さっている。四つの目が屹と、るりだたちを見た。そのまま爆発した。双頭の首が、胴体から消えた。
 ついに「万年祭」の日が来た。兄のごへるは、昔から怖がり屋だった。だからなのだろうと、妹のるりだは想像している。彼は隠れ身の術を、あれほど完全なまでに磨き上げることができたのだ。田子の一族の中でも、最高の名人だと言われていた。ごへるは、小さな体に比較して大きめの瞳を、瞬かせる。緑の全身を、ぶるんと震わせる。それだけで、どんなに複雑な背景の場所にでも、瞬時に溶け込んでしまう。どの田子一族にも、この力があるが、ごへるの速度と正確さは、子供の頃から群を抜いていた。どうすれば、そんな隠れ身ができるようになるのか?仲間から聞かれると、ごへるは、いつも物を良く見ることだと答えるのだった。まねるためには、見なければならない。すると、色素顆粒が、細胞内を移動してくれる。ごへるの血と肉も、次の世代に明け渡されることになっていた。
 ごへるは、また歌の名手でもあった。詩人かんとの血肉は彼に与えられた。彼らの鳴嚢(めいのう=鳴き袋)は、首の下にある。喉に空気を貯めて、腹を膨らませる。肺と鳴嚢間で、空気を移動させながら、喉頭の声帯を振動させる。鳴いている間は、口を開くことはしない。ごへるは「万年祭」で「さようなら万年」を歌った。絶品だった。かるろの作詞と作曲として伝わっている。ごへるは、かんとのたましいに助けられて、今、作られたばかりのように歌った。田子の一族で、もっとも人気のある歌だった。「りいりいりるる」と言う繰り返しを、音痴のるりださえも、鼻歌で歌うことがあった。母らんぐが子守唄を聞かせてくれたように。
 ごへるの歌に太陽が登った。田子の一族は男も女も、蛇女カグヤが倒されて、安全となった土筆川の透明で温かい水に降りて行った。ごへるは、勇者るりだの大きな腰に抱きついた。彼女は作法の通りに、小さな彼を振り落とそうとして暴れる。ごへるも振りとばされないように、必死で戦った。抱きついたら放さないのだ。るりだの広い背中に、おんぶする格好になっていた。るりだは、自分でかねて慎重に選んでおいた太い黒節草の根元に、ぐいぐいと泳いで行った。後ろ脚の自由は、ほとんど奪われている。強い前足の力だけで、水を左右に掻いていった。ごへるの体重を問題にしなかった。逞しい腰が、彼を弾き飛ばしそうにうねった。ごへるが落ちてしまうのであれば、それならば、それで良い。より強い男を、見つければ良いというだけのことだ。しかし、ごへるがついてきてくれていることが、うれしかった。
 るりだは、頭を水中に突っ込んでいった。潜水する時の格好だった。お尻の総排出口を水面に出した。灰褐色の卵を、ぼろぼろと産んでいった。ごへるも自分の精液をかけていった。
 蛇女カグヤが退治されても、死は金色の蛙の姿をして、世界をのそりのそりと巡回しているという。その黒い瞳はすべてを見る。しかし、死に負けずに、生は続いていく、田子の一族の命の強さを、合唱の響きは表していた。ごへるは、るりだはともかく、自分が今年の冬を越せないだろうことが分かっていた。それだけに、美しい声で「さようなら万年」を歌った。
 自分は、妹のるりだに食べてもらうつもりだった。冬眠する彼女の半透明な豊満な腹の中で、安らかに溶けていく自分の姿を夢想していた。その大きな瞳は、もう世の悲しみと苦しみを見ることはない。安らかに閉じていることだろう。完璧な隠れ身の術を備えた最強の戦士が、来年の春には、田子一族の命の歌を歌うのだ。