小さな情事(3)
ポイゾン・ペン 作
笛地静恵 訳
 木曜日

 私の日記さんへ。
 今日はあやうくダディーを、私の部屋から脱走させてしまうところでした。
今夜、宝石箱を開いた時です。部屋を出た後で、どこにいくつもりだったのか見当も付き
ません。

 それでも、すべてを計画し準備していたに違いありません。たぶん、一日中、あの小さ
な脳髄を振り絞っていたのでしょう。いきなり箱から、飛び出したのです。びっくり箱を
開いたようでした。


 私の手が、身体を捕まえるよりも早く、彼は化粧台の上を走り抜けていました。化粧品
の迷路を、器用に擦り抜けていきました。それから、端から空中に跳躍したのです。ベッ
ドの上に飛び移りました。ハリウッド映画の、スタントマンのような美技を、見せてくれ
ました。


 今、計算してみましたが、彼にとっっては、優に二十七メートルのビルの屋上から、九
メートル真下のベッドの上に、着地するようなものなのです。しかも、白いシーツの上で
受け身を取って、くるりと回転さえしたのです。(ダディーは、柔道の心得があることを、
いつも自慢していました。それが嘘ではなかったことを証明したのです)

 シーツとカバーの間に、潜り込んでいきました。私はベッド・カバーを全部、取り外さ
なければなりませんでした。しかし、その間にも、ベッドの木の足を伝わって、床に下り
ていこうとしていたのです。私はそのことに、全く気が付きませんでした。私の部屋には、
厚いピンクのカーペットが敷いてありますから、足首を痛める事もなかったでしょう。ベ
ッドの猫の足の形に膨らんだ部分から、床に飛び降りるのは、3メートルぐらいに高さで
す。簡単なことです。後は、ドアの方に向かって、カーペットの荒野を走れば良いのです。
ほとんど、『大脱走』に成功するところでした。


 私がスニーカーの靴を脱いで、ドアの前に並べて置いておいたのは、偶然にすぎません。
これらは、実に厄介な障害物であったのでしょう。二つの長方形の建物のようなものだっ
たのでしょうか。計算すると一つで、7メートル80センチの長さがあります。それに、
一ヵ月履き込んだスニーカーは、私にとってさえ、ひどい臭気をさせていました。とうと
う我慢できずに、洗濯しようと思って出しておいたのです。床上6センチの、彼の繊細な
鼻孔には、きっと猛烈な悪臭の巣窟だったのでしょう。


 それを、大きく迂回しようとして、不運にも時間を浪費してしまったのです。ダディー
の身体のサイズなら、斜めになれば二足のスニーカーの間を、楽に通過できたはずなので
すから。

 私がベッドの捜索を終了して、ドアの方に目を向けるのに、十分な時間を与えてしまっ
たのです。大股のたった三歩で、現場に到着しました。彼の立つ直前の床に、狙いを付け
ていました。ズシンと体重を掛けて、素足を踏み下ろしました。しかし、よほど強い決意
を固めていたようです。私の足の甲の上を、ちょこちょこと走って、横断さえしたのです。
彼は足が速い方だったのですが、私の歩幅を越えて、もうどこにも行けるはずはなかった
のです。


 私は、彼を右足の親指と人差し指の間に挟むと、左手の平に掬い上げました。
そして、軽く握り締めてやりました。指で作った檻の中で、わざと好きなだけ、暴れさせ
ておきました。自分の無力さを、思い知るまでです。

 これは、私の今までの献身的な世話を無に帰する、明確な裏切り行為でした。ここ何日
間か、ダディーとの距離が、今までになく近くなった気がして、とても嬉しい気分だった
のですが。忘れられぬような体罰を、与えてやらなければなりませんでした。

 彼を片手に入れたままで、キッチンに行きました。右手でオーヴンに火を点けました。
騒がしい音をたてながら、マムの鍋のコレクションの中から、最大の中華鍋を、なんとか
自由になる方の手で、他の鍋の下から滑らせて取り出しました。

 焜炉に乗せて、十分に熱くなるまで熱したのです。

 ダディーが逃げ出さないように、白いブラウスとブラジャーの間に入れていました。彼
は、フロント・ホックのブラの金具の上に、足を乗せていました。ブラウスの生地に両手
を掛けて、私の手元を見下ろしていました。学校から帰宅したばかりで、着替えもしてい
ません。ダディーには、汗臭かったかも知れません。蒸し暑い日でしたから。しかし、私
はそんなことも気にしていられないぐらい、頭にきていたのです。

 バターを取り出して、3センチ角の厚さ1センチになるぐらいに切りました。一かけら
を、中華鍋の中に落としました。鍋を傾けて、中央に来るように動かしました。ダディー
を胸元から取り出して、その上に乗せました。近くで鑑賞できるように、白いブラウスの
胸が、鍋の上に覆いかぶさるようになるまで、上半身を傾けていきました。


 ダディーは座り込んで、辺りを見回していました。それから、私の方を見上げました。
 わざと白い歯を見せるようにして、にやりと笑いかけてやりました。「さよなら」という
ように手を振りました。「どこに逃げてもいいわよ」とも言いました。彼の両眼に、恐怖の
色が現われていました。

 小さなバターの島が、足元で溶け始めていたのです。立ち上がると、何度も何度も落ち
着かない視線で、きょろきょろと頭を動かしていました。安全な場所を探していたのでし
ょう。バターは、つるつると滑りました。あやうく、その上から落ちてしまうところでし
た。片足を、鉄板の上に付けてしまうところでした。

 私ですら、顔に、中華鍋の熱気を、感じることが出来ました。彼にとっての鍋の底の世
界は、地獄のような熱さだったことでしょう。彼の島の領土は、今では両足を付けて、か
ろうじて立っていられるだけの、面積になっていました。
不意に泣きだしたのです。その格好は、とてもおかしなものになっていました。片足の案
山子のように立って、なんとかバランスを取ろうとしていたのです。
まるで赤ちゃんのように、わんわん泣きながら、助けてくれと命乞いをしていたのです。

 私は、また白い歯を見せて微笑み掛けました。ダディーを夕食にして、ボーイフレンド
を招待するつもりなのといいました。彼は私の言葉が、全く気に入らないというような、
不愉快な表情をしていました。

 バターの最後の部分が、溶けかけていました。熱いバターの上に、尚も爪先立ちになっ
て、必死に耐えていました。それが(あるいは彼が)、じゅうじゅうと焼ける前に、私は自
分の右手の人差し指を一本、さっと突き出していました。彼には、丸太のように見えるだ
ろう指に(直径30センチになるのです)、醜い無毛のピンクのポケット・モンキーのよう
に、両手両足でしがみ付いていました。私は、くすくすと笑っていました。

 もうすこしだけ、じゅうじゅうと音を立てて、焦げ始めているバターの上に、彼の身体
を下げていきました。絶叫していました。さらにさらに私の指に、強く抱き付いてきまし
た。その時、私は、マムがドアに鍵を差し込む音を耳にしました。オーヴンの火を消しま
した。中華鍋をシンクに移しました。右手をスカートのポケットに入れたまま、部屋に戻
りました。

 私はダディーを、自分の指から、強い力で引き剥がさなければなりませんでした。宝石
箱の中に入れたのです。小さな足は、真っ赤になっていました。今日は、氷もあげません
でした。妥当な刑罰でしょう。これでしばらくの間は、どこにも走って逃げられそうにあ
りませんから。

 ダンスは明日です。!!!

 イエイッ。!!!!!

 今夜はとても興奮しています。眠れそうにありません。

 アンドリューは、全世界でも、一番に、最高で、すてきな、すばらしい男性なのです。
もし、彼が求めるならば、キスまでは、許してあげるつもりでいます。
 
 土曜日

 私の日記さんへ。

 一日分、飛ばしてしまいました。その気にさえなれなかったのです。でも、昨日は本当
にいろいろなことが、ありました。それについて考える時間が必要だったのです。

 昨夜はダンスがありました。アンドリューは、とてもすてきでした。水色の麻のシャツ。
ストレッチ・デニム。引き締まった脚の筋肉にぴったりと合ったジーンズ。あんなに格好
のいいヒップの持ち主だとは、知りませんでした。私は、大好きな緑のドレスに身を包ん
でいました。

 アンドリューは、私のことを、目が回るぐらいに素敵だと、誉めてくれたのです。すべ
てが、あまりにも完璧でした。プレゼントとして、一本の薔薇の花を、用意してくれてい
たのです。

 だれもが、私達の方を見ていました。

 彼は、すべてのダンスを付き合ってくれました。ということは、私達が、正式なカップ
ルになったということを意味します。

 その夜の終わりには、レッド・ツェッペリンの『ステアウェイ・トゥ・ヘヴン(天国へ
の階段)』が、流れていました。私達はお互いに、固く身を寄せ合っていました。彼のアフ
ター・シェーブローションの匂いさえ、嗅ぐことさえ出来ました。足を二度踏まれたこと
も、全く気になりませんでした。なぜなら私達は、あまりにも深く愛し合っていたからで
す。


 私は、彼と結婚するつもりにまでなっていました。二人は、まるで、ロミオとジュリエ
ットのようでした。ただ毒を飲んでいない、というところだけが違うのです。


 ダンスの後で、車で自宅まで送り届けてくれました。彼には自分専用の車があったので
す。部品の一部まで自分で作って、修理したといっていました。将来は自動車の修理工に
なるつもりだと言いました。

 私達が家に着いたとき、彼は「さあ、付いたぜ」と言いました。私も「そうね、ついた
わ」と答えました。

 そして、彼は私に、キスしてくれたのです。!!!!!

 おお、それはとても素晴らしい体験でした。まるで、甘いチョコレートのような味がし
ました。彼の唇は、とても柔らかかったのです。私は、この時間が永久に続いてほしいと
願っていました。

 そして。それから。どうなったのかですって。あなたには、分かってるでしょ。彼は、
片手を私の緑のドレスの胸元に、滑らせてきたのです……。私の方から、導いてあげたの
ですもの。

 私は自分の身体が、車内でばらばらに爆発するんじゃないかと思いました。彼の大きく
て強い指が、私の乳首に触れたのです。ともかく、私は彼に「第二基地」への侵入までは、
許してあげませんでした。自分が、その手の女の子ではないということを、彼に分かって
もらう必要があったからです。

 私達は、もう一度、熱いキスを交わしました。そして、私は「おやすみなさい」と言い
ました。彼は、次のデートの日時まで、私に約束させました。後で電話をするからと言い
残して、車が夜の道を走り去っていきました。

 私は、家のなかに入りました。マムは、もうベッドに付いています。出来るだけ音をた
てないようにして、バスルームを使いました。それから、ベッドに潜り込みました。長い
間、暗闇を見つめながら、横になっていました。

 考えられたのは、彼の手がどのようにして、私の乳房に触れたのかということだけでし
た。私の手が、自然に全身を愛撫していました。そして、その手が、アンドリューのもの
だと想像しようとしていました。でも、駄目でした。それは、決して同じものではないの
です。自分のものでは、駄目なのでした。電話は、掛かってきませんでした。

 そして、その夜、私は「いけない女」になったのです。

 ベッドから起き上がると、暗闇の中で宝石箱の鍵を開けました。もし、彼の顔が見えた
としたら、あんなことができたかどうか分かりません。私は、ダディーを外に取り出しま
した。そして、ベッドに運んだのです。そして。それから……。私は彼を使って、「いけな
いこと」をしたのです。

 なぜなら、彼は柔らかく、ちっぽけで、そして、あたたかかったからです。彼が動くた
びに、アンドリューの指が、そこにいるように感じていました。私は、爆発してしまいま
した。癖になりそうです。

 一度は、ダディーを中から取り出せなくなったぐらいです。分かるでしょ。あそこの中
からなのよ。なんとか、指で彼を釣り上げた時には、ほとんど溺死させるところでした。

 そして、ダディーは、絶叫し。絶叫し。絶叫し……。
 
 今朝、目を覚ましたとき、ダディーの様子を真っ先にチェックしました。宝石箱の中で、
膝を抱えて、胎児のように丸くなっていました。何も言わず、動こうともしませんでした。
身体をつついても、持ち上げても同じでした。されるがままの格好で、横たわっているだ
けでした。両眼は、開ききりになっていました。手足を力ずくで開いても、すぐにまた同
じ格好になってしまうのでした。すべてが、されるがままでした。

 私は、彼の身体をトイレで洗ってやりました。ひどい臭いをさせていたのです。私のあ
そこの臭いでした。その時、一度だけ、私の方を、横目でちらりと見たような気がしまし
た。それでも、彼は何も言いませんでした。

 私は、今夜もアンドリューからの電話を待っています。
 
 水曜日

 こんなに長い間、日記の間を開けることになるとは、思ってもいなかった。
 
 それは私の生活が、素晴らしく充実して、エキサイティングなものに変化したことを意
味している。そのことについて、ここに書くことすら、待ちきれないぐらいだ。

 アンドリューと私は、スタディーな関係になった。

 学校のみんなが、それを知っている。女の子たちみんなが、やきもちを焼いてくれてい
る。

 私達は、おしゃべりをし、キスをし、歩き、キスをし、両手を握り合い、キスをする。

 彼は、とてもすばらしいキスの名人なのだ。フレンチ・スタイルのキスさえ、一度だけ
だが体験している。しかし、まだそこまでだ。

 周囲に誰もいないときには、胸にタッチさせている。彼は、私に愛しているといつもさ
さやいている。私を学校で一番、きれいで可愛い女の子だと、言ってくれる。
 
 ダディーの方は、まだ動こうともしない。しかし、毎晩、悲鳴だけは、あげ続けている。
私が、暗闇の中で、宝石箱に接近していく時は、いつもだ。

 私が彼を使って、「こと」を済ませるまで、その悲鳴が止む事はない。その声が、私を逆
に興奮させてしまうのに。時々、私は夢中になってしまい、何時間も止めることが出来な
くなる。

 今では、私は、彼が何を食べて生きているのか、分からない。彼はこの所、なんていう
か……、やつれてきているような気がする。

 私が、彼をおもちゃにして、舌先で股間をなぶるようにしてやると、いつも泣くのだ。

 木曜日

 私の日記さんへ。

 もう終わりです。二度と書くことはないでしょう。マムが、この日記を読んだのです。

 今日、家に帰ってくると、マムがもう帰宅していました。仕事をめずらしく早退したの
です。

 私の日記が、キッチン・テーブルの上に、開いたままで置かれていました。そして、宝
石箱がありました。鍵は壊されていました。ダディーが、身体を丸くして、中に横たわっ
ていました。

 マムはテーブルに座ったままでした。私が帰るのを、ひたすら待っていたのでしょう。
本当に静かで、穏やかな表情をしていました。キッチンのドアのところに立ちながら、心
臓が飛び出しそうでした。マムは、ようやく口を開きました。「話があるの」それだけでし
た。

 向かい合わせに、いつものテーブルの席に座りました。そして、長いこと長いこと長い
こと話し続けました。

 ダディーも、その話の一部始終を耳にしていたと思います。一度だけ、少しの間ですが
泣いていました。

 私達は、晩餐にマムの手料理で、温かいスープを啜りました。

 それは、私の今までの生涯でも、最高の味がするスープでした。

   *****

 彼女は、ゆっくりと日記を閉じていました。


 しばらくの間、そのままの姿勢で、じっと座り込んでいました。

 窓の外では、夕焼けの光さえ薄れようとしていました。部屋の中には、すでに夜の闇が
忍び寄っていたのです。

 彼女の瞳は、強く光る結晶の小瓶に向けられていました。それ自身の内部からの光でし
た。瞳を射るようにして、まぶしく光っているのでした。

 そうね。

 自問自答していました。
 
 彼にも、まず一杯のミルクを出してあげましょう。それで、乾杯するの。新しい人生の
門出ですもの。そうしましょうよ。

 ほほ笑みが、ゆっくりと疲れた顔に広がっていきました。ここ数日間で、初めてのこと
でした。白い歯が、口元から零れていました。

 キッチンに立っていきました。

 手には例の小瓶と、母親の形見である、料理のレシピを書いたカードを、一枚だけ握っ
ていました。

 「あたたかいスープの作り方」でした。

小さな情事(3) 了
全編終わり 
【訳者後記】
 『小さな情事』は、ポイズン・ペン氏の名作です。

 ペンネームの通り毒のある作風です。単にフェティシズムの異常さというのではありま
せん。ある思想的な意図に基づいた、世界への悪意の表明です。重厚長大です。ポピュラ
リティのある軽薄短小な作家ではないでしょう。

 嫌いな方は、嫌いなままだと思います。しかし、一度、好きになると中毒にかかったよ
うに、その作品の魅惑から逃れられません。笛地も彼の作り出した濃密な想像の世界で、
いつまでも遊んでいる一人です。

 作品数の少ないのが残念です。多ければ、スコット・グリルドリグを越える存在でしょ
う。

 『小さな情事』は日記体の作品です。作者としては狂気を抑制した可愛い作品のように
読めます。

 少女の一人称の中に、この世代特有の、大人を見下すような残酷さを感じることができ
るでしょう。

 しかし、それだけでもありません。この事件全体を、父親の視点から読み直すときに、
なんという禁忌と恐怖の充満した、狂気の物語が展開されていることでしょうか。

 日本語の見下す(みくだす)は、見下す(みおろす)という意味でもあります。一度、
それに気が付いてしまったあなたは、もうポイズン・ペン氏の毒の虜になっていることで
しょう。

 劇薬の服用になります。体調と心理状態に、くれぐれもご注意ください。

 なお西洋では『ブラック・ゴート(黒山羊)』は、悪魔の呼び名でもあります。シェーク
スピアの台詞に「復讐のスープは、熱い内に限る」という名文句があることも、付け加え
ておきます。
(笛地静恵)