整備された山道を歩きながら、私は一人呆けていた。
月の高さから見て既に門限は過ぎている。
一度も破ったことのない決まりを破った私は、
一度も出歩いた事のない夜の世界をうろついていた。

 母は今、私を心配していることだろう。
もしかしたら、警察に知らせているかもしれない。
頭の中は母のことでいっぱいになった。
「もう顔を合わせられない」
全ての考えは、そこに行きつくほかなく、どんな問いにも私の望む回答は出なかった。
行き詰まりを感じた脳みそは、次第に、母との思い出を遡って行った。

 長い長い思い出の中を落下していると、突然何かに引っ掛かって止まった。
幼いころ、母が私に聞かせてくれた御伽噺。
既存の物語に飽きた私の我儘を聞いてくれた母は、
それ以来オリジナルの物語を語ってくれたのだ。
物語の帰結は全てハッピーエンドで、理想的な物だった。
 

 とある2つの種族が抗争していて、
両種族の王子様と王女様が恋に落ちて互いの仲を取り持つお話。

 どこかの国の道化師が、争いをしている国々に笑いをもたらし、
戦いを終わりへと導くお話。

 悪い山賊に捕まった王子様が一緒につかまった子供達を導いて山賊をやっつけ、
指導者として正しく成長するお話。


 まだまだいっぱい、たくさんのお話をしてくれた。
それぞれに個性があって、どれも私が納得のいく終わり方をしていた。
でも、何度も何度も繰り返す内に、1つ奇妙な共通点に気がついた。


 王子様と王女様は愛の契に聖なる泉の水を注いだ杯を呷った。

 道化師は、紛争地へ赴く前の げんかつぎ として、町一番清潔な井戸水を飲んだ。

 囚われの王子様は作戦決行の直前、お守りに授かった小瓶に入った聖水を、子供たちと分けて飲み合った。 


 母は言っていた。
「清らかな水は、物事を正しい方向に導くの。
だから物語に出てくる人たちはみんな、大事な時に綺麗な水を飲むのよ」
幼いころの私は、その言葉に感動して、彼らに習って大事の前には清潔な水を飲んだ。
初めて歯医者に行く前、幼稚園の入園式の前、お遊戯会の前。
その慣習は今にも続いていたし、これからも多分続けることだろう。
もう何年も前から、綺麗な水を飲む意味なんて忘れていたけれど、
思いだした今は、心が少し暖かくなった。

「そういえば、この近くに湖があったような」

 隣町だけあってこのあたりの地理には疎いのだが、
少し前に透明度の高い湖としてテレビで紹介されていた記憶がある。
これからどうすればいいかさっぱり分からないけれど、
何をするにしても今後に大きくかかわることに変わりはない。
大事をする前には、綺麗な水を飲む。これからも、この先もずっと続ける事だ。

 湖の方向を見渡すと、道がぐるっと遠回りして敷いてある。
この大きさで道なき道を直進したら……。
きっと大事になりそう。
足も引っかかれて怪我するかもしれないし。
普通サイズだったら無視して直進出来るのにな。


 ヴヴヴヴヴヴ……。
突然、スカートの中が震えだした。
そういえば、携帯電話を持っているのを忘れていた。
取り出してみると、手の中にちゃんと収まるサイズだった。
まさか、携帯まで一緒に大きくなるとは。
着信しているのを見る限り、大きくなっていても機能している事にも驚きだ。
着信は母からだった。
今すぐにも出たいけれど、出るわけにはいかない。
今の状況を、正しく説明する勇気も、信じてもらえる自信もなかったから。
それに、まだ水を飲んで落ち着いてないから。
携帯の電源を落として、湖へと向かった。